Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
臓硯は、すぐには答えなかった。イリヤへ向けた顔から、笑いが消えていた。怒ったのかと思った。あの老人はさっきから、自分に都合の悪いことを訊かれると、こちらを見下すような言葉で返していた。今度もそうするのだろうと、俺は身構えていた。けれど、薄く開いた口は動かなかった。
風に押された枯葉が、石畳を擦る。
「……願い、か」
ようやく聞こえた声は、小さかった。イリヤは頷いた。
「そうよ。聖杯を手に入れて、あなたはどうしたいの?」
俺たちの間を行き来していた臓硯の目が、イリヤのところで止まっている。
「おぬしは……桜を楽にしてやりたいと、言うたな」
「言ったわ」
「そうするのが、おぬしの望みか」
イリヤは少しだけ眉を寄せた。
「サクラが苦しんでいるのを見て、わたしがそうしたいと思ったの。それでは足りない?」
問い返されて、臓硯は黙った。桜はライダーに身体を支えられたまま、こちらを見ている。遠坂も、次の言葉を待っていた。桜の返事を横から奪っていた時には、あれほど言葉が出ていたのに。
老人の指が一度だけ動き、何かを掴もうとして途中でやめたように見えた。
「……ユスティーツァ」
知らない名前だった。臓硯は、イリヤを見ていた。イリヤの赤い目が、僅かに細くなる。
「わたしは、イリヤスフィールよ」
「……分かっておる」
答えるまでに、少し間があった。臓硯は目を伏せた。その足もとに落ちた葉が、靴の先に引っかかっていた。
「分かっておるとも。あの女は、とうにおらぬ」
俺はイリヤを見た。彼女は問いを重ねなかった。老人の顔を見たまま、待っている。その横顔も、いつもより硬かった。
*
「聖杯に、何を願うか」
臓硯が呟いた。同じ言葉を口にして、そこでまた止まった。俺は桜へ目を向けた。掛け物の端を握る手は、まだ緩んでいない。ライダーの顔は教会へ向いていた。話が止まっても、誰も動けなかった。
「死ぬわけには、いかなんだ」
老人の声がした。
「どうしてもな。儂が死ねば、そこで絶えてしまう。まだ、願いには届いておらぬ。そう思うておった」
臓硯は、皺の寄った細い指を見た。ついさっき、蟲が集まって出来たものだ。そのことを思い出すと、背中が冷えた。
「出来ぬままに、一つ歳を取る。また一つ。身体は衰え、共に歩いた者はおらなくなる。それでも、儂だけは残らねばならぬと」
声は途切れなかったが、俺たちへ言い聞かせているようには聞こえなかった。
「……何のために残るのか。それさえ、確かめぬようになっておったか」
臓硯の口もとが歪んだが、それを笑みと呼んでいいのかは分からなかった。
「五百年じゃ」
遠坂の指が、コートの脇で止まった。五百年。その年月を、頭の中で数え直すことさえ出来なかった。俺が生まれるより前、という程度の話ではない。
「長く生きたつもりでおった。これだけの時を費やしたのじゃ、報われて当然と、そう思うようになった」
老人は、息を吐くように言った。
「だが、初めから約束されてなどおらなんだな。儂がその日を見ることも、儂に何かが返ることも」
イリヤは黙っていた。
「それでも、やるつもりじゃった」
その言葉だけが、はっきりと聞こえた。臓硯が顔を上げる。曲がった背も、落ち窪んだ目も、何ひとつ変わっていない。けれど俺は、思わず息を止めた。話しかければ何でも嘲りに変えてしまいそうだった老人が、こちらの返事を待たずに、遠いところを見ていた。
「生まれた場所が違うだけで、苦しむ者がおる。何も奪っておらぬのに奪われ、何も望まぬうちから死んでいく者がおる」
声は低いままだった。
「人は、そういうものだと教えられた。仕方のないことだと。救えぬものは救えぬ。それが人の身の限りだと、何度もな」
俺は、口を開きかけた。言葉は出なかった。
「その限りを、変えようと思うた」
臓硯は続けた。
「人が人であるために苦しむのなら、人の在り方を変える。肉体に縛られたままでは至れぬのなら、その先へ行く。儂らが、まだ知らぬ生き方へとな」
今朝の話が、頭をよぎった。魂を、身体に支えられなければ生きられないもののままにしておかない。イリヤが教えてくれた、第三魔法。臓硯の目が、もう一度イリヤへ向いた。
「そのために、あの女と聖杯を作った」
遠坂が、僅かに顎を引いた。誰も口を挟まなかった。
「ただ長く生きるだけなら、儂はとうに果たしておるわ」
臓硯は自分の手を下ろした。
「それで満ち足りたか。これが、儂の求めたものだったか」
臓硯は自分の問いには答えず、顔を歪めたまま、しばらく黙っていた。俺は初めて、この老人が自分を笑っているのかもしれないと思った。
「……取り違えたものじゃ」
風が、イリヤの髪を揺らした。彼女は帽子の端を押さえ、臓硯を見ていた。
「願いを叶えるまで生きる。そのはずが、生きるために聖杯を欲しがる。いつの間にやら、そちらだけになっておった」
言い終えて、臓硯は口を閉じた。老人自身が、今、そう気づいたように聞こえた。
*
「この世全ての悪の根絶」
臓硯が言った。大きな声ではなかった。それでも、前庭のどこにいても聞き逃さなかっただろう。
「儂が聖杯に望んだのは、それじゃ」
俺は、目の前の老人を見ていた。桜へ蟲を入れた魔術師。身体を診せてもらうことさえ邪魔して、桜に帰れないと言わせた相手。そいつが今、何と言った。
「……それが、あなたの願い?」
遠坂が訊いた。声には疑いがあった。臓硯は彼女を見た。
「そうじゃ」
「昔、そう思っていたという話なの?」
老人は、今度はすぐに答えた。
「今もじゃ」
遠坂は黙った。俺は桜を見た。桜も、臓硯の顔を見ていた。何か言おうとしているようだったが、声にはならなかった。
悪をなくす。誰も苦しまなくて済むようにする。そんなことを、あの口から聞くとは思わなかった。嘘だと決めつけられればよかった。俺たちを黙らせるために、今、思いついたことだと。けれど、さっき言葉に詰まった顔が、頭から離れなかった。
イリヤを見ながら、ここにいない誰かの名前を呼んだ声。報われなくても、やるつもりだったと。それは、分かってしまう。
何かをしてもらいたくて、助けるわけではない。誰かが苦しんでいるなら、その苦しみがなくなればいいと思う。何もかもを失うようなことが、もう起きなければいいと思う。俺だって、そう思ってきた。
視界の隅で、セイバーの肩が動いた。彼女は俺たちの前に立ったまま、臓硯を見ていた。剣を構えているわけではない。それでも、こちらと老人との間から退くことはしなかった。
握った手を見ると、爪が掌へ食い込んでいた。願いが分かったからといって、ここへ来た理由まで変わったわけではない。桜は、まだ帰れていない。
*
「マキリ」
イリヤが呼ぶと、臓硯が目を向けた。
「今の聖杯が、どうなっているかは知っているのでしょう」
その言葉で、俺も思い出した。この世全ての悪。今朝、聞いたばかりの言葉が、別の意味を伴って戻ってくる。
「あの中にあるものを、そのまま望みのために使えると思っているの?」
桜が、彼女へ顔を向けた。臓硯は目を逸らさなかった。
「穢れておることは、知っておる」
静かな返事だった。
「知っていて、まだ求めるのね」
「あれに何が入り込もうと、聖杯を働かせる道まで失われたわけではない。扱い方はある」
「あなたには、それが出来ると?」
遠坂が言った。臓硯の目が動く。
「そのために、用意をしてきた」
視線の先に、桜がいた。それ以上の説明はなかった。遠坂の顔が強張った。
「それで桜が、どうなるかも含めて?」
「儂が何も知らず、何も考えずにこの娘を用意したとでも思うかね」
桜の肩が動いた。小さな動きだったが、ライダーがすぐに手を添え直した。
臓硯は、二人を見ていた。さっきの薄笑いは戻っていない。戻っていないまま、桜を、用意したと言った。
「……あんたの言ってることは、分からない」
声が出た。臓硯がこちらを向く。
「苦しむ人間をなくしたいんだろ。だったら、どうして桜をこんな目に遭わせるんだ」
言いながら、腹の底が熱くなった。
「今だって、立ってるのもつらそうじゃないか。うちへ帰って休むのも、身体を診てもらうのも、あんたが止めてる」
臓硯は俺を見た。小僧、と笑われると思った。だが、老人はしばらく黙っていた。
「桜は、まだ渡せぬ」
それだけを言った。俺は息を詰めた。答えを避けているようにも、これが答えだと言っているようにも聞こえた。
「渡すとか、渡さないとか。桜は、あんたの物じゃないだろ」
「この娘には、役目がある」
「その役目のために、ずっと苦しませていいっていうのか」
臓硯の目が、僅かに細くなった。桜の声が、その間へ入った。
「先輩」
俺は彼女を見た。桜は、掛け物の端から手を離していた。何かを言おうとするたびに、唇が閉じる。もう一度開いて、小さく息を吸った。
「……お爺さま」
臓硯へ顔を向ける。
「わたしは、まだ……戻ったら、いけないんですか」
ライダーの手が止まった。俺も、ほかの誰も口を挟まなかった。さっきは帰れないとしか言わなかった桜が、自分から訊いている。臓硯はその顔を見た。
「まだ終わってはおらぬ」
穏やかなほどの声だった。
「おまえには、してもらわねばならぬことがある」
桜の唇が閉じた。俺は、何かが音を立てて閉まったような気がした。桜は、まだここから動けない。あれほどのことを話しても、桜へ返す言葉は、そうなのか。
*
「サクラ」
ライダーが声をかけた。桜の膝が、僅かに折れていた。ライダーは桜が倒れる前に腰を支え、自分の方へ寄せる。右手の杭は下げたままだった。
「無理をして、立っていなくても構いません」
「……大丈夫。少し、力が抜けただけだから」
桜は答えて、ライダーの腕を掴み直した。その様子を、臓硯は黙って見ていた。
「見えてるんだろ」
俺は言った。声を抑えるつもりだったが、うまくいかなかった。
「桜が、どうなってるか。あんたの前にいるんだ」
老人が俺を見る。
「見えておる」
俺は一瞬、言葉を失った。桜の足から力が抜けるところを見て、それでもまだ、やらせると言う。臓硯の顔に、迷いは見えなかった。
あの願いが本心なら、桜を苦しめるのはやめるはずだ。俺は、どこかでそう思いかけていた。この老人も桜を見てくれるのなら、話が出来るかもしれない。少なくとも、休ませることくらいは。臓硯は、苦しんでいる桜を見たうえで、続けると言っている。
「……わたしは、サクラを診たいわ」
イリヤが言った。老人へ向けた声だった。
「あなたの願いは聞いた。でも、それでサクラの具合がよくなるわけではないでしょう」
「アインツベルンの娘」
「今、つらいところを調べたいの。出来ることがあるなら、してあげたい。さっき言った通りよ」
イリヤが桜を見ると、その視線に気づいた桜も顔を上げた。
「サクラ。返事をするのが難しいのは、分かったわ。だから、痛いのを我慢することまで、一緒にしないで」
桜の目が揺れた。まだ、こちらから触れられる距離ではない。ライダーは二人のやり取りを聞いていた。桜が顔を上げやすいよう、支える腕を少し動かしている。
臓硯の目が、そこへ向いた。それから、イリヤへ戻った。
「……そうか」
老人は言った。何について答えたのか、俺には分からなかった。ただ、その声には、さっきイリヤを見て知らない名前を呼んだ時の響きが少し残っていた。
「おぬしは、そうするのじゃな」
「ええ」
イリヤは答えた。臓硯は、一度、目を閉じた。開いた時には、もう桜を見ていた。
「儂も、まだ終えられぬ」
俺は、身構えた。何かを取り戻したのだとしたら、その老人が今、桜を手放さないと言っている。俺には、それが余計に分からなかった。
*
遠坂が、静かに息を吐いた。
「わたしたちが帰れば、それで済むと思わないで」
臓硯が顔を向けた。
「他所の家のことだと言われても、桜の身体を見たのよ。あなたが止めるから、その先を調べられない。ここで、はいそうですかとは言えないわ」
遠坂の手は、コートの脇にあった。指の間に、小さな光が見えた。
アーチャーは、彼女のすぐ斜め後ろにいる。俺たちが話している間も、彼の目は教会の方へ向いていた。正面の扉から、建物の角へ。そこから一度、ライダーへ戻る。
「……手を引く気はない、か」
臓硯が言った。
「桜を置いて帰る気はない」
俺が答えると、桜がこちらを見た。その顔を見て、言い足した。
「無理に引っ張っていくつもりじゃない。けど、このままでいいと思って帰ることも出来ない」
桜は何も言わなかった。ライダーの腕を掴む手に、また力がこもった。
臓硯は、俺から目を移した。セイバーのところで、一度止まる。彼女は動かなかった。次に老人が見たのは、遠坂だった。その視線が、彼女の肩越しにアーチャーへ動く。
俺は、足を動かしかけて止めた。距離を詰めて桜を連れてくることは出来ない。そんな動きをすれば、ライダーが止める。さっき、桜自身が戦わないでくれと言った。同じ前庭で、声なら届く。だが、桜がよろけても、俺の手は届かなかった。
「シロウ」
セイバーが言った。俺の方を見てはいなかった。
「私の後ろに」
低い声だった。俺はイリヤを見た。彼女はもう、セイバーの背後へ寄っていた。俺も半歩だけ下がる。
教会の扉が、風に軋んだ。その音の向こうに、何かがあるような気がした。だが、見えない。臓硯は入口の脇に立っている。その奥の礼拝堂にも、壁の向こうにも、俺の位置からは目が届かなかった。
アーチャーの顔が、建物の角へ向いた。遠坂が、肩を僅かに引く。ライダーの杭が、ゆっくりと持ち上がった。誰も、桜へは近づかなかった。
「聖杯へ至る道は、まだある」
臓硯が言った。俺たちの方を見ていた。
「儂は、それを捨てぬ」
イリヤは黙っていた。俺も、返事が出来なかった。老人の顔に、笑いはなかった。
「アサシン」
名を呼んだ。その瞬間、アーチャーが動いた。
*
光が走った。教会の正面ではなく、遠坂に近い側の建物の角。そこから飛び出した細いものが、真っ直ぐ彼女へ向かっていた。
「遠坂――!」
俺の声より、金属の音の方が早かった。遠坂の前へ出ていたアーチャーの手には、短い剣があった。白い刃が跳ね上がり、飛んできたものを弾いた。軌道を変えた刃物が、石畳へ突き立つ。
遠坂は、もう横へ退いていた。アーチャーの身体を盾にする位置へ移り、握った宝石を胸の前へ上げる。
「凛、下がれ」
「分かってる!」
返事と一緒に、遠坂の足がもう一歩動いた。石畳に刺さった小さな短剣は、まだ柄が震えていた。アーチャーがいなければ、遠坂の身体に刺さっていた。
臓硯が話しかけていた相手は、イリヤだった。俺も言い返した。それでも、狙われたのは遠坂だ。
「動かないでください、シロウ」
セイバーの声がした。腕が、俺の前へ出ていた。俺は足を止めた。駆け出したところで、次の刃がどこから来るかも分からない。
桜の声が聞こえた。
「ライダー……!」
そちらを見ると、ライダーは桜を抱き寄せ、自分の身体を教会側へ向けていた。鎖が石畳から浮き、張り詰める。彼女の背後には、芝地がある。桜の足は、まだそこへ動いていなかった。
建物の角で黒いものが揺れ、壁の陰から人影が出てきた。黒い衣の中に、白い面があった。
見覚えがあった。昨夜、うちの庭でセイバーを襲った男だ。髑髏の形をした仮面。その下から伸びた腕と、セイバーの鎧を伝った血が、頭をよぎる。俺は喉を鳴らした。あいつが、ここにもいた。
そいつは俺たちを見渡しはしなかった。アーチャーの向こうにいる遠坂へ、白い仮面が向いていた。
また、細い刃が光る。アーチャーのもう片方の手に、黒い剣が現れた。彼が足を踏み替え、遠坂へ通じる道を塞ぐ。
俺は、臓硯を見た。老人は、同じ場所に立っていた。さっき口にした願いを、取り消しはしなかった。桜が戦わないでくれと言った、この場所で。
二本目の刃が、放たれた。