Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第二十七話 十人目

# 第二十七話 十人目

 

 長椅子の下で、何かが擦れた。セイバーが剣を振る。風が床を走り、椅子の脚を掠めた。黒いものが裂け、その向こうで臓硯の裾が揺れる。老人はこちらへ背を向けず、椅子と椅子の間を下がっていく。その足もとから離れた蟲だけが、逆に近づいてきた。

 

「右を」

「分かってる」

 

 イリヤの声に答え、剣を下ろした。床すれすれを走る群れへ、切っ先を当てる。先頭が白くなったところで、横へ払った。凍った欠片が、椅子の脚に当たって砕ける。

 

 左からも音がした。イリヤの線が、長椅子の下から出てきた蟲を弾いていた。彼女は弾いた蟲を跨ぎ、俺の横へ戻った。

 

「そこは越えて来ないで。わたしが通すから」

「ああ」

 

 足を置けるところを確かめる。前庭より狭い。背後には割れた椅子があり、横へ逃げようとすれば、今度は別の列へ入ってしまう。

 

 セイバーの背中が遠ざかった。一歩。もう一歩。剣を振るたびに、臓硯の前へ盛り上がった群れが崩れる。彼女なら、届く。そう思った瞬間、イリヤが顔を上げた。

 

「シロウ、上!」

 

 長椅子の背に、黒いものがいた。床を這う群ればかり見ていた。背もたれを乗り越えた塊が、俺の肩へ落ちてくる。

 

 剣を上げた。間に合わない。

 

 青いものが、視界を横切った。塊が空中で裂ける。セイバーが俺たちの前へ戻り、返した剣で残りを床へ叩き落とした。

 

「頭を下げてください」

 

 言われるまま身を屈める。背後の椅子が鳴った。振り返った時には、木の背板に残った黒いものが、床へ落ちていた。

 

 セイバーが前を向く。臓硯は、また離れていた。俺は奥歯を噛んだ。俺の剣が遅れたから、セイバーは戻ってこなければならなかった。

 

「シロウ」

 

 セイバーは、こちらを見なかった。

 

「床だけではありません。椅子の上も見て。私から離れないように」

「……分かった」

 

 柄を握り直す。指に力を入れすぎていた。少し緩めるだけでも、腕の奥が痛んだ。

 

     *

 

「その剣を得ても、手は増えぬか」

 

 臓硯の声がした。老人は、長椅子の列が途切れたところに立っていた。片手が、椅子の端に触れている。

 

「目の前のものを斬る間に、別のものが届く。守ろうとすれば、追えぬ」

 

 セイバーが踏み込むと、臓硯の袖が膨らんだ。腕が伸びたのかと思った。違った。袖の先から崩れた黒い塊が、剣へ巻きつこうとしていた。セイバーは剣を引かず、そのまま斬り抜いた。袖の半分が飛び、老人の肩口が崩れる。身体が横へ傾くより先に、足もとから蟲が噴き出した。

 

 俺はイリヤの横へ出た。来る。さっきと同じように、セイバーの脇を抜けて。

 

 剣を合わせる。白い塊が出来る。押さえ込まず、斜めに引いた。砕けたところへ、イリヤの線が通る。逃れた数匹を椅子の下へ追い返し、椅子の脚を回って輪が閉じた。

 

 セイバーは戻らず、臓硯が退く先へさらに一歩踏み込んでいた。

 

「桜を、帰してくれ」

 

 俺は言った。息が切れた。吸い直して、老人を見る。

 

「もうやめろ。あいつを連れ回して、何をさせるつもりだ」

 

 臓硯の欠けた肩へ、足もとの黒いものが上がっていた。失われた袖は戻らない。その内側で、細い腕の形だけが出来ていく。

 

「話したはずじゃ。聖杯を働かせるために要る」

「そのためなら、桜がどうなってもいいのか」

「どうでもよいとは言うておらぬ」

 

 俺は顔を上げた。

 

「必要なのじゃ。あの娘をここで返せば、それで済むというものではない」

「サクラは、戻ったらいけないのかって訊いたわ」

 

 イリヤは線を張ったまま、臓硯へ声を向けていた。

 

「あなたは、聞いていたでしょう」

 

 臓硯の目が、彼女へ向く。だが、その間にも蟲は動いていた。椅子の脚から離れ、俺の右へ回ろうとする。俺は剣先をそちらへ向けた。

 

「聞いておったとも」

 

 老人は答えた。

 

「一人の願いを叶えるため、そこで道を絶つわけにはいかぬ」

 

     *

 

 セイバーの剣が、床近くを払った。蟲が散る。臓硯は、その後ろへ退いた。

 

「小僧。十人おるとしよう」

 

 俺に向けた声だった。

 

「九人を救うには、一人を見捨てねばならぬ。その一人へ手を伸ばせば、九人には間に合わぬ。おぬしなら、どうする」

 

 剣の先から、冷たいものが流れた。俺は答えかけた。けれど、言葉より先に、目の前の床を見た。右から来る群れと、椅子の下へ潜る群れ。俺一人では、両方を止められない。そんなことは、今さら言われなくても分かっている。

 

「どちらも助ける、などと言う前に考えよ。届かぬからこそ、問うておる」

 

 黒いものが、イリヤの輪を越えた。俺は前へ出て、剣を振った。凍った塊が割れる。反動で肘が伸び、肩が引かれた。

 

 戻す。剣を、二人の前へ戻す。

 

 セイバーの切っ先が、臓硯の胸を掠めた。老人の身体が崩れ、椅子の向こうへ低く沈む。セイバーが追おうとしたところへ、床を這う群れが回り込んだ。彼女はそれを斬り、俺たちが進める場所を空けた。

 

「……九人を、助ける」

 

 言うと、胸の中が嫌なふうに縮んだ。その言葉だけを口にすると、残った一人の顔を見ないで済むような気がした。

 

「じゃろうな」

 

 椅子の向こうで、臓硯の頭が上がった。

 

「それが、人の身に出来ることじゃ」

「それで、終わりにはしない」

 

 俺は言った。老人の顔が、こちらを向く。

 

「助けられる九人を放っておくつもりはない。でも、その一人を助けなくていいことには、ならないだろ」

「どう救う」

 

 訊かれて、すぐには返せなかった。右手が震えていた。ついさっき、この手が遅れたせいで、セイバーを引き返させた。

 

 出来もしないことを言っている。そう返されても、今の俺には、やってみせるだけの力がない。それでも、その一人を九人の後ろへ隠してしまっていいわけがなかった。

 

「方法を、探す」

 

 剣を持ち上げた。

 

「今の俺に出来ないからって、助けなくていいとは思えない。どうすれば、その一人にも間に合うのか、考えるのをやめられない」

 

 臓硯は、笑わなかった。その顔を見て、俺は声を強くした。

 

「それでも、その一人も救う。俺は、そうしたい」

 

 イリヤの線が、俺の剣の下を抜けた。後ろへ潜ろうとした蟲が弾かれる。彼女の肩が、すぐそばにあった。

 

「――だからこそ、聖杯を求めるのじゃ」

 

 臓硯が言った。

 

     *

 

 俺は、老人を見た。セイバーが椅子の端を回る。臓硯はその剣から離れ、礼拝堂の奥へ下がった。

 

「出来ぬままでは、次も一人が死ぬ。その次もじゃ。いつまで手を伸ばすだけで済ませる」

 

 声が、薄暗い堂内を通った。

 

「人の手に余るというなら、余らぬものを得る。おぬしの言う、その一人まで届くためにな」

 

 俺は息を吸った。返す言葉が、出てこない。誰かを助けられる力がほしい。それなら、俺だって欲しかった。今朝、イリヤの話を聞いた時も。昨夜、息をするのも苦しそうなセイバーを見ていた時も。助ける方法があるなら、それを知りたかった。

 

「そこへ至るまで、儂は途絶えるわけにいかなんだ。身体が尽きるというだけで、諦めるわけにはな」

 

 臓硯が形を戻した手を下ろすと、その指の先から、また数匹が離れた。

 

「あんたは、そのために」

 

 言いかけて、剣を引く。床の継ぎ目から出た蟲が、刃の腹へ乗りかけていた。手首を返して振り落とす。

 

「そのために、桜を使うのか」

「そうじゃ」

 

 俺は歯を食いしばった。あいつの言う一人は、いま外にいる。立っているのもつらくて、ライダーの腕に掴まっていた。戻ってはいけないのかと訊くまで、何度も言葉を呑み込んでいた。

 

「あんたが助けたい人間の中に、桜はいないのか」

 

 臓硯の足が、止まった。セイバーが間合いを詰める。老人の前で蟲が持ち上がった。剣がそこへ入り、黒い塊を割る。その後ろへ臓硯が身を引いた。

 

「今ここで一人のために捨てれば、何も変わらぬままじゃ」

 

 片側を失った口が、言った。

 

「次に苦しむ者も、その次も残る。それを変えるために、儂はここまで来た」

 

 俺は一歩、前へ出た。

 

「桜は、そのために生きてるんじゃない」

 

 今度は、すぐに言えた。

 

「桜が帰ってもいいか訊いたのを、聞いたんだろ。なのに、どうしてあんたが、まだ駄目だって決めるんだ」

 

 臓硯は俺を見た。

 

「決めねば、進まぬ」

 

 声は低かった。

 

「誰も引き受けぬままでは、何も」

「サクラに、引き受けさせているのよ」

 

 イリヤはそう言い、俺の横から一歩前へ出た。線を引く手は、止まっていなかった。

 

「あなたは続けたい。それは、聞いたわ。でも、痛いのも、帰れないのも、サクラでしょう」

 

 臓硯の顔が、彼女へ向いた。

 

「わたしは、あの子を診る。そのために、ここまで来たの」

「その後はどうする。聖杯へ至る道を閉ざして」

「その後のために、今、何もしないでいろとは言わないで」

 

 イリヤの指が、強く曲がった。足もとへ迫っていた群れが、横へ引かれる。

 

「シロウ、そこ!」

 

 俺は剣を振った。

 

     *

 

 手応えが、腕へ食い込んだ。凍ったものを斬る。その向こうへ刃を抜き、すぐに戻す。小さな欠片が頬へ当たった。冷たかった。

 

 セイバーの足が、空いた場所へ入る。長椅子の端が、軋んだ。セイバーが斬り払った群れが、椅子へ叩きつけられていた。その衝撃で木が折れ、背もたれが通路へ倒れ込む。

 

「下がって!」

 

 イリヤが言った。俺は片足を引いた。倒れてきた背もたれが、靴のすぐ前へ落ちる。

 

 木の板の裏側に、黒いものがいた。上へ出てくる。俺は剣を当てた。板の縁を越えた群れが固まる。後ろの蟲に押された塊が、刃へ重くのしかかった。

 

 抜け。分かっていた。けれど、腕がすぐには動かなかった。肩から指先までが一本の棒になったようで、肘を引くにも力が要る。

 

 剣の横を、黒い線が通ろうとする。イリヤが手を返すと、銀の線が輪になって塊の脇を締めた。

 

「押さえないで、抜いて!」

 

 俺が身体ごと半歩退くと、刃が抜けた。そのまま斜めに払う。白くなったところが崩れ、輪の向こうへ落ちた。

 

 息が漏れた。イリヤが、俺の右手を見た。

 

「腕、上がる?」

「……上がる」

 

 言って、剣を持ち直す。持てるが、さっきと同じことを何度も出来るわけじゃない。

 

「高いところは、わたしが見る。シロウは、下だけ」

「分かった。無理だったら、言う」

 

 イリヤは俺を見て、それから前を向いた。

 

 セイバーは、倒れた椅子の向こうにいた。彼女の剣が、横へ走る。臓硯の胸元が裂けた。老人の顔が傾く。人の形が崩れかけたところへ、床の黒いものが集まっていく。

 

 セイバーが二撃目を放った。臓硯は、身を沈めた。肩から上が低くなる。その後ろに、奥へ続く通路が見えた。

 

 そちらへ逃げる。俺にも分かった。けれど、その道へ駆け出せば、イリヤとの間が空く。俺は声を上げた。

 

「奥へ行くぞ!」

「見えています」

 

 セイバーは答えると剣を戻し、斜めに踏み込んで臓硯と通路の間へ身体を入れた。老人が、こちらへ向き直る。その足もとで、蟲が左右へ割れた。

 

     *

 

「左を止めるわ」

 

 イリヤが言った。線が伸び、倒れた椅子の脚を回る。彼女はそこを支えにして、床近くへ線を張った。回り込もうとした群れが触れ、弾かれる。蟲は、別の隙間を探して広がった。

 

 イリヤが線を引く。椅子の背板に沿って、輪が狭まった。黒いものが削られ、残りが板の端へ重なる。逃げる先は、俺の前だった。

 

「ここでいいな」

「ええ。そこだけ、お願い」

 

 俺は足を開いた。もう大きく振らない。刃を、群れの来るところへ置く。

 

 臓硯の目がこちらへ向いた。重なった蟲が、急に盛り上がる。剣を越えるつもりだった。

 

 イリヤの指が動いた。張られた線が、跳ねる。上がりかけた群れが横へ崩れ、俺の切っ先へ落ちてきた。銀の線が寄せたところへ、鉄の刃を通す。白いものが、黒い塊を覆った。

 

 俺は剣を引いた。肩が痛んだ。だが、今度は引けた。凍った塊を割り、床へ落とす。

 

 その向こうで、臓硯の片足が崩れた。身体を下へ逃がそうとしていた。セイバーが、もう踏み込んでいた。

 

 剣が光ったように見えた。風だった。老人の腰の高さを横切ったものが、そのまま向こうの床へ抜ける。黒い身体が、上下にずれた。

 

 音がした。乾いた音とも、濡れた音ともつかなかった。人の形をしていたものが、ほどける。セイバーは止まらなかった。崩れた足もとへ剣を返し、通路へ流れようとした塊を断った。

 

 イリヤの線が、床を払う。俺も剣先を下げた。こちらへ来た群れの端が白く固まり、続いていた黒い筋が切れた。

 

 老人の上半身が、残っていた椅子の脚へぶつかった。肩が落ちる。それでも、顔だけが、こちらへ向いた。

 

     *

 

「……その一人も、か」

 

 声がした。俺は剣を上げかけた。臓硯の口が動いていた。さっきまでの身体は、もうない。床へ広がった黒いものの上に、頭と肩の形だけが残っている。

 

 セイバーが、剣を構え直した。

 

「ならば、見ておけ」

 

 臓硯は俺を見ていた。

 

「この教会の、地下を」

 

 俺は息を止めた。

 

「……地下?」

「奥の廊下じゃ。部屋を二つ過ぎた先の扉。階段を下り、聖堂の、その先におる」

 

 老人の頬が崩れた。床に落ちたものが、わずかに動く。

 

「まだ、生きておる」

 

 その言葉に、足が止まった。

 

「誰が」

 

 問い返した。臓硯の目は、こちらを向いたままだった。

 

「見れば分かる。おぬしの手が、何を救えるか」

 

 セイバーの剣が、足もとを走った。横へ伸びかけていた黒いものが、途切れる。臓硯は、笑わなかった。残った片側の口から、低い声が漏れた。

 

「見た後でも、奇跡を求めずに、おれるか――」

 

 最後は、息のような音だった。顔が崩れる。額も、目も、曲がった鼻も、ばらばらの黒いものへ戻っていった。セイバーが剣を下ろす。床の上で、動きが止まった。

 

 俺は、老人のいた場所を見ていた。まだ、生きている。あの声が止まっても、その言葉だけが耳に残っていた。

 

「シロウ」

 

 イリヤの声で、顔を上げる。彼女も、礼拝堂の奥を見ていた。

 

「確かめましょう」

 

     *

 

 セイバーが先に進み、床の黒いものを避けて奥の通路へ入った。角の向こうを確かめてから、俺たちを呼んだ。

 

「こちらです」

 

 礼拝堂を出ると、外の剣戟が遠くなった。まだ、戦っている。遠坂は桜のそばにいた。アーチャーもライダーを引き受けていた。さっき見た二人を思い返して、奥へ向かった。

 

 破られた出入口から、細い光が入っていた。その反対側へ曲がる。部屋を一つ過ぎる。次の扉も、閉じていた。

 

 俺は歩きながら、右手を見た。指が、剣の柄を握り込んでいる。緩めようとしても、すぐには開かなかった。

 

「手、貸して」

 

 イリヤが言った。剣を持った右手ではない。彼女の指が、俺の左手へ触れた。小さな手だった。さっきまで蟲を止めていた指が、今は俺の掌を確かめるように握っている。

 

「足は、ちゃんと動く?」

「ああ。腕が、少し」

「少しだけ?」

 

 俺は彼女を見た。見返されて、息を吐いた。

 

「……かなり重い」

「それなら、そう言って」

 

 イリヤは前を向いた。

 

「次に来たら、先に知らせて。無理に剣を上げなくていいわ」

 

 頷く。彼女の手を、一度握り返した。

 

 セイバーが、廊下の先にある閉じた扉の前で止まった。彼女は横へ立ち、少しずつ開けた。暗い隙間へ風が入る。その先は、下り階段になっていた。

 

     *

 

 石の壁が、曲がっていた。階段はその壁に沿い、地下へ下りていく。一段ずつ足を置いた。暗がりから、何かが上がってくるような気がした。セイバーが立ち止まるたび、俺も剣を持ち直した。だが、出てくるものはなかった。

 

 冷えた空気が、顔へ触れる。地上の物音が遠のき、代わりに、自分たちの靴の音が響いた。

 

 階段が終わる。そこにも、聖堂があった。上よりも静かで、使われている気配が薄かった。俺は正面を見てから、その左右へ目を向けた。

 

「あちらに、まだ部屋があります」

 

 セイバーが言った。示した方に、入口があった。近づくと、臭いがした。薬品のような臭いと、湿ったものの臭いが混ざっていた。

 

 一滴、少し間を置いてまた一滴と、水の落ちる音が聞こえた。

 

 セイバーの足が止まった。俺は、その肩越しに中を見た。

 

     *

 

 初めは、何が並んでいるのか、分からなかった。壁際に、形の似たものがあった。細い管が、上から下へ伸びている。その下にあるものを見て、人の顔だと気づいた。

 

 頬が痩せていた。顎の下へ首が続いているはずなのに、どこから身体なのか、一度では見分けられなかった。目は、開いていた。こちらを見ているのかどうかは、分からなかった。

 

 その隣にも、人がいた。さらに奥にも。俺は一歩、入った。

 

 水が落ちた。管の先から落ちた一滴が、開いた唇へ触れる。口が、動いた。俺は、足を止めた。

 

 胸が動いていた。薄い身体が、わずかに上下している。

 

 生きている。臓硯が言った通りだった。

 

「……おい」

 

 声をかけた。返事はなかった。

 

 近くへ寄る。肩を抱いて起こそうとして、手が止まった。身体が、周囲のものと離れなかった。ただ寝かされているのではない。何が皮膚で、何がそれを支えているものなのか。薄暗い中で目を凝らしても、すぐには分からなかった。

 

「シロウ、待って」

 

 イリヤが、俺の横へ膝をついた。

 

「動かす前に、見せて」

 

 俺は手を引いた。引いた自分の手が、ひどく頼りなく見えた。蟲が来れば、刃を当てた。凍らせて、斬ればよかった。今も右手にある剣は、ここでは邪魔だった。

 

 俺は立ち上がり、入口へ戻った。部屋の外へ出て、地下聖堂の壁際へ寄る。人も管もなく、通行の邪魔にもならない場所へ剣を置いた。指を一本ずつ開く。刃の下に、薄い霜が広がった。

 

 右手は、空になっても震えていた。俺は急いで、イリヤのところへ戻った。

 

     *

 

 イリヤの指が、痩せた首のそばへ触れていた。その人の顔を、じっと見ている。それから、身体に沿って伸びる管を見た。その先を辿り、途中で手を止めた。

 

「イリヤ」

 

 俺は呼んだ。

 

「……聞こえてる」

 

 いつもより低い声だった。彼女は、もう一度その人の顔へ目を戻した。

 

「生きてるわ。この人は」

「ああ。見えた。息をしてる」

 

 言いながら、向こうを見る。他の人も、同じように見えた。

 

 俺は次の人へ近づき、胸を見た。動いている。長い間待ったような気がした。ようやく、次の息があった。

 

「こっちもだ」

 

 イリヤが頷く。セイバーは、入口から部屋の奥までを見ていた。通れる場所を確かめ、さらに先に誰かいないか目を配っている。

 

「襲ってくるものは、今のところありません。ですが、奥にも人がいます」

 

 俺はそちらへ行こうとした。足が、管へ触れかけた。止める。跨げばいい。そんなことさえ、足もとを見直さなければ出来なかった。イリヤが顔を上げた。

 

「引っ張らないで。この人たちの身体と、どう繋がっているかを見たいの」

「外せないのか」

「まだ、外していいか分からない。水を送っているものもある。そのほかに、何をさせているか」

 

 彼女は管の先へ目を戻した。

 

「先に、身体を調べるわ」

 

 俺は頷いた。早く、外へ出したかった。ここから運び出して、日の当たるところへ。寝かせる場所なら、うちにある。足りなければ、何とかする。けれど、抱き上げることさえ、今は出来ない。目の前の身体が、どこまで耐えられるのかも分からなかった。

 

 地下の冷えが、膝から上がってきた。俺は、部屋を見た。この人たちは、ずっとここにいたのか。俺たちが上で話していた時も。桜に帰ろうと言っていた時も。蟲を斬って、老人へ言い返していた時も。その下で、こんなふうに。

 

 喉が、詰まった。誰が、こんなことをした。ここは教会だ。言峰の。頭の中へ、その顔が浮かんだ。訊かなければならないことが、一度に押し寄せてくる。

 

 それを口にする前に、近くで息が鳴った。人の声になりきらない、小さな音だった。俺は顔を戻した。

 

     *

 

 唇の端に、水が溜まっていた。次の一滴が落ち、顎へ流れる。

 

 俺はポケットへ手を入れた。ハンカチがあった。引き出そうとして、指が滑った。左手で掴み直し、広げる。

 

「イリヤ。口のところ、拭いてもいいか」

 

 彼女はこちらを見てから、その人の顔へ目を向けて頷いた。

 

「ええ。頭は動かさないで。外へ流れたところだけ」

 

 俺は膝をついた。布を折り、顎へ触れさせる。水が染みた。皮膚は冷たかった。生きている人の身体だった。

 

「聞こえるか」

 

 近くから、声をかけた。

 

「俺たち、上から来たんだ。今、身体を調べてもらってる」

 

 目は、動かなかった。返事もなかった。俺は声を少し落とした。

 

「もう少し、ここにいるから」

 

 イリヤが隣で手を動かしていた。セイバーの足音が、一度遠ざかり、また近づく。俺はハンカチの濡れていないところを折り返した。

 

 臓硯に言われたことを、忘れたわけじゃない。どう救う。ここへ来ても、答えは出なかった。

 

 剣を作れた手で、出来ることを探した。次の水が顎へ流れる前に、もう一度、布を添えた。

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