Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
鎖の音が、まだ耳に残っていた。ライダーは横たわった身体を起こそうとして、地面へ手をついた。指が土を掴む。けれど、それだけだった。肩がわずかに浮き、また落ちる。片脚が、芝を擦った。目を覆った布が、頬へ張りついていた。
前に、赤い外套がある。アーチャーは剣を下げていた。こちらへ目を向けたまま、もう踏み込んではこなかった。その向こうで、桜が動いた。
「ライダー!」
よろめきながら、さらに足を出す。掛け物の端が靴に絡み、桜の身体が前へ傾くと、凛がその腕を取った。
「待って、足が――」
「離してください!」
鋭い声だった。桜は凛の手を振りほどこうとした。だが、足がついていかない。凛はもう片方の手を桜の背中へ回し、倒れる前に支え直した。
「離したら転ぶでしょう!」
「だったら、止めてくれればよかったじゃないですか!」
凛の手が止まった。桜は凛の顔を見ていた。
「戦わないでって、言ったのに。ライダーは、わたしを連れていこうとしただけなのに」
声は震えていたが、途切れなかった。
「どうして、こんなことをするんですか」
凛の唇が開いた。返事が出るまでの短い間に、桜はまた腕を引いた。
「ライダーのところへ、行かせてください」
「行かせるわよ。だから、その足もとを見なさい」
凛が身を屈め、靴へ絡んだ布を外した。桜は動かなかった。凛が差し出した手を、見下ろしている。
「……そうやって」
低い声がした。
「いつも、先に決めるんですね」
*
ライダーは息を整えた。呼べば、桜は来る。その声を出そうとして、喉が詰まった。少しだけ、待つ。桜は立っている。凛も、そのそばにいる。アーチャーの剣は、もう桜へ通じる道を塞いでいなかった。
「勝手にいなくなったのは、そっちでしょう」
凛が立ち上がった。
「帰ってきたら、あんたはいない。何があったかも分からない。身体だって、あんな状態で」
「戻ってきてほしいなんて、頼んでいません」
「だから探さなくていいっていうの?」
凛の声も強くなった。
「昨夜から、ずっと捜してたのよ。見つけたら、今度は帰れないって言う。あの爺さんが何か言うたび、あんたは黙ってしまう。それを見て、そのまま帰れるわけないでしょう」
「だったら、わたしの話を聞いてくれればよかった」
「聞こうとしたわよ!」
「先に、帰るって決めてからです!」
桜が掛け物を握り締めると、指の節が白くなった。
「連れて帰って、身体を診てもらって。それでよくなるから、言うことを聞きなさいって」
「よくなるからなんて、言ってない。まず調べなきゃ何も出来ないでしょう」
「だから、そういうところです」
桜が言った。
「わたしがどうして嫌なのかより、何をすればいいかを、すぐに言う」
凛の目が細くなる。
「嫌な理由を、言ってくれた?」
桜が息を呑んだ。ライダーは、地面から顔を上げた。桜は俯かなかった。
「言えなかったら、分からないんですか」
「分からないことだってあるわよ」
「いつも、何でも分かってるみたいな顔をするのに」
凛が口を閉じた。桜は何度か息を吸い直し、詰まりかける言葉を、無理に押し出していた。
「平気そうにしてないと、余計に惨めになるんです。見られたくないことだって、あるんです。それなのに、こっちを見て、どうしたのって」
凛の指が動き、桜へ伸びかけた手が途中で止まった。
「……それなら、どうすればよかったの」
「知りません」
桜は言った。自分で言ったその言葉に、追いつこうとするように、もう一度息を吸う。
「分からないです。でも、嫌だったんです。いつも、わたしだけが言えなくて。そっちは、何も困っていないみたいにしていて」
「困ってるわよ」
凛が言い返した。
「今だって、困ってる。無理して立っているのを見て、支えようとしたら怒鳴られるんだから」
「そんな話をしているんじゃありません!」
「わたしは、その話もしてるの!」
凛が、桜の足へ目を落とす。桜は一歩だけ、足を引いた。
「また、そうやって――姉さんは、いつもそう!」
*
その呼び声だけが、少し高く響いた。桜の唇が、開いたまま止まる。凛は、目を逸らさなかった。
「いつもそうって、何よ」
取り繕う間も、聞き直す間もなかった。
「言いたいことがあるなら、最後まで言いなさいよ」
「言っています!」
「途中で、何でもありませんってやめるでしょう、あんたは!」
桜の頬が赤くなった。
「そう言えば、姉さんはそれ以上聞かないじゃないですか」
「聞いたら聞いたで、嫌な顔をするくせに」
「姉さんだって、すぐに怖い顔をします」
「心配してるのよ!」
「それなら、そう言ってください!」
凛の口が、一度閉じた。桜も、息を切らしていた。互いを見たまま、どちらも目を逸らさない。
「……言えばいいのね」
凛が言った。
「心配してるわよ。こんなところまで来て、まだ分からない?」
「分かりません」
桜は、今度はすぐに返した。
「怒っているようにしか、見えません」
「怒ってもいるの!」
アーチャーが息を吐き、口を開いた。
「凛」
「分かってる!」
凛は振り返らずに答えた。
「何がよ」
続けて、桜が言った。凛が、桜を見つめた。
「今、何て?」
「何が分かってるんですか。アーチャー、まだ何も言っていません」
赤い外套が、わずかに揺れた。アーチャーは二人を見ていた。今度のため息は、先ほどまでの剣戟とは別の疲れを帯びていた。
*
桜の声を、これほど続けて聞くのは珍しかった。ライダーは動かない手を、少しだけ握ろうとした。指先に、まだ土の感触がある。
目の前の桜は、謝っていなかった。凛が言い返しても、肩を縮めて話を終わらせない。言葉が途切れても、そこでやめない。次の息を吸い、また声を上げる。
「姉さんは、昔からそうです。自分が出来るからって、こっちも出来ると思ってる」
「出来ないなら、手を貸すって言ってるでしょう」
「それも、頼む前にするんです」
「頼まれるまで見ていろっていうの?」
「少しは待ってください」
「待ったら、あんたは一人で済ませようとするじゃない」
桜は言葉を詰まらせた。
「……姉さんに言われたくありません」
凛の眉が上がった。
「何よ」
「自分だって、何でも一人で済ませようとするじゃないですか。心配されるのは、嫌なくせに」
「今、わたしの話をしてる?」
「姉さんが、言い出したんです」
凛は返事をしかけて桜の肩からずり落ちた布を見ると、手を伸ばして掛け直した。
「ほら、また!」
「寒そうだったからでしょう」
「それくらい、自分で出来ます」
「さっきは踏んで転びかけたじゃない」
桜が布の端を引いた。凛も離さず、二人は一度引き合ってから手を緩めた。布が、桜の肩へ落ち着く。
「そういう言い方をするから、頼みにくいんです」
「じゃあ、どう言えばいいの」
「普通に」
「普通に言ってるわよ!」
桜の肩が小さく動き、掛け物が揺れた。笑ったわけではなかった。泣くのを堪えているようにも、何かを言い返したくて仕方がないようにも見えた。
「……声、大きいです」
「あんたもよ」
ライダーの口もとが、わずかに緩んだ。何をすればよかったのか、答えは出ていない。それでも凛は、まだそこにいた。言い返しながら、桜がふらつくたびに、手を添えられるところに立っている。桜も、その距離から逃げてはいなかった。
こんなふうに、怒れるのか。相手が言い返しても、次の言葉を出せるのか。ライダーは、もう一度、指を曲げようとした。今度は、土の感触が薄かった。
*
アーチャーがこちらを見ると、ライダーは顔を上げた。彼は何も言わず、地面についたライダーの手へ視線を落とし、桜へ戻した。
ライダーにも、分かっていた。指の縁が、淡くなっている。身体の形を繋ぎ留めようとしても、離れていくものを戻せない。
アーチャーが歩いた。
「そこまでだ、二人とも」
凛と桜の声が、止まった。彼は凛を見てから、桜へ顔を向けた。
「続きは後にしろ。ライダーのそばへ行け」
桜の顔が、こちらを向いた。ライダーは口を開いた。名前を呼ぶ前に、桜が動いた。
「ライダー」
今度は、凛が道を塞ぐことはなかった。桜の腕を支え、その歩幅に合わせてついてくる。アーチャーが半歩退いた。桜が、ライダーの前へ膝をつく。掛け物が芝へ広がった。
「ごめんなさい。わたし――」
「サクラ」
声を出せた。桜が顔を上げる。桜の息は、まだ整っていなかった。ライダーを呼ぶ声に、小さく鼻をすする音が混ざった。
「手を、貸していただけますか」
桜はすぐに頷き、両手でライダーの手を取った。冷たくなった指を包み、土のついた掌へ、自分の掌を合わせた。ライダーは、その手に力を込められなかった。桜が、その分まで強く握った。
*
「……どうしたら、いい?」
桜が言った。言葉の終わりが、掠れていた。
「わたし、何をすれば。魔力が足りないなら、もっと」
ライダーは、わずかに首を横へ動かした。
「どうして」
手を握る力が強くなる。
「昨日は、ちゃんと。傷だって、よくなって……」
ライダーは、桜の声へ顔を向けた。身体を支えていたものが、もう保てない。失われたところを埋めても、そこから自分を繋ぎ直すことは出来なかった。
「申し訳ありません」
静かに言う。桜は首を振った。
「謝らないで。ライダーは、何も」
声が切れた。その間に涙が一つ落ち、ライダーの手の甲へ触れた。
「わたしが、連れていってって、言ったから」
「あなたを連れていこうとしたのは、私です」
桜の唇が震えた。
「私が、そうしたかったのです」
そばにいたかった。桜の声が小さくなれば聞き取り、立てなければ支え、ここにいたくないと言うのなら、抱き上げて離れたかった。そのために、剣を持つ者の前へ出た。
桜の手が、薄くなった指を逃がすまいとするように、また動く。
「……まだ、いて」
その声は、はっきり聞こえた。
「怒ってもいいから。嫌だって言ってもいいから、いなくならないで」
ライダーは握られた手へ意識を向け、握り返そうとした。指が、少しだけ動いた。桜が、顔を近づける。
「ライダー?」
「嫌では、ありません」
もう、長くは話せなかった。
「あなたと、いたかった」
桜の顔が歪んだ。涙が、次々と落ちてくる。
「わたしも」
桜は言った。
「わたしも、一緒に。帰ろうって、言いたかったのに」
桜の背後で、衣擦れの音がした。凛が、桜のすぐ後ろにいた。何も言わず、肩へ手を添えている。桜はその手を振り払わなかった。
「姉さん」
桜が呼んだ。さっきとは、違う声だった。
「……分かってる」
凛が答えた。今度は、言い返す声が続かなかった。凛は桜の背後に膝をつき、倒れそうな身体を支えた。
ライダーは、凛の声を聞いていた。桜を支える手が、あった。
*
朝の風が、頬へ触れた。芝が擦れる音がする。ほんの少し前まで、自分もそこを走っていた。
ライダーは、桜の方へ少し顔を向けた。名前を、もう一度呼びたかった。
「サクラ」
桜は頷いて顔を寄せ、聞こうとしてくれる。
「帰って、ください」
桜の息が詰まった。
「あなたが、帰りたいところへ」
返事は、すぐには聞こえなかった。
「……うん」
桜は何度も頷いた。握られた手に、また力がこもる。その返事が聞こえれば、十分だった。
手の感触が、遠くなった。桜の手が離れたのではない。こちらから、触れていられなくなっている。
「ライダー」
呼ばれた。声は、まだ届いていた。
「ありがとう」
ライダーは微笑もうとした。出来たかどうかは、分からなかった。
桜がライダーの手を、自分の頬へ引き寄せる。泣き濡れた肌が、掌へ触れた。
最後に分かったのは、その温かさだった。