Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
濡れた布を折り返し、わずかに残った乾いたところを探した。顎を伝った水を拭き、次の息で胸が動くのを待つ。動いた。それを確かめてから、隣へ顔を向けた。
管と身体の接ぎ目を見ていたイリヤの指が、止まった。
「イリヤ?」
声をかけると、彼女は触れていた手を離し、自分の胸の前へ戻した。小さく息を吸い、赤い目を俺へ向ける。
けれど、すぐには返事がなかった。
前庭で見た姿が、頭をよぎった。アサシンが消えた後も、こうして一度、指が止まっていた。
「……また、なのか」
イリヤは、少し間を置いて頷いた。俺が彼女の肩へ手を伸ばしかけると、イリヤが先に息を吐いた。
「平気。今は、もう」
言って膝をつき直し、さっき見ていたところへ指を戻した。俺は、彼女の手から目を離せなかった。
外で、誰かが。
「セイバー」
呼ぶと、彼女もこちらを見ていた。
「外を、確かめてきてくれ。遠坂たちに、ここのことも」
セイバーは、部屋の奥へ目を向けた。それから入口と、そこへ続く足もとを確かめる。
「分かりました。二人とも、ここで待っていてください」
「ええ。こっちは、わたしが見ているわ」
イリヤが答えた。セイバーの足音が、地下聖堂へ遠ざかる。俺はイリヤの横へ膝をついた。
訊きたいことはあった。誰だったのか。イリヤの身体は、本当に大丈夫なのか。だが、彼女の手は、目の前の人へ向いていた。
「俺は、何をすればいい」
「向こうの人も、息をしているか見てきて。身体は動かさないでね」
俺は頷いた。
*
いくつもの足音が戻ってきて、俺は顔を上げた。
「シロウ。アーチャーは無事です」
入口から、セイバーの声がした。息が、少しだけ通った。
その後ろで、別の声がする。
「そこ、段があるから。ゆっくりでいいわ」
「はい」
遠坂と、桜だった。俺は立ち上がった。部屋を出ると、地下聖堂の入口に三人がいた。遠坂が桜の腕を支えている。桜の肩の掛け物は片側がずれ、端に土がついていた。
桜は、俯いていた。一段を下りきるたび、少し間を置く。遠坂は急がせず、その歩幅に合わせていた。
後ろに、アーチャーがいる。外套の裾が汚れていた。右の袖には血があり、左手を身体の近くへ置いている。
その後ろには、誰もいなかった。
「桜」
呼ぶと顔が上がった。目の縁が赤い。
「先輩」
それだけ言って、桜は口を閉じた。
俺は近づいた。手を貸そうとすると、遠坂が先に身体の向きを変えた。
「こっちで少し休みなさい。座れるところを――」
「姉さん。少し、待ってください」
俺は足を止めた。遠坂も立ち止まり、桜の顔を覗き込んだ。
「苦しい?」
「足が、まだ。急に引かれると」
「引っ張ってないわよ。……ごめん。ここでいい?」
桜が頷く。遠坂はすぐそばの長椅子を確かめ、桜をゆっくり座らせた。掛け物を肩へ寄せ直す。
俺は、二人を交互に見た。
「……姉さん?」
口にすると、遠坂が振り向いた。桜も、こちらを見る。
「遠坂と、桜が?」
「姉妹よ」
遠坂が言った。俺はもう一度、桜を見た。桜は小さく頷いた。
名字が違う。桜は学校では、遠坂先輩と呼んでいた。さっきまで、あの前庭でも。いくつも浮かんだ疑問が、うまく言葉にならなかった。
「詳しいことは、帰る時に話すわ」
遠坂は桜へ向き直り、掛け物の端を膝へ下ろした。
「今は、こっちを先にしましょう」
声に、急かす響きはなかった。俺は頷いた。
入口の方を見ると、イリヤが顔を出していた。二人を見て、それから俺へ目を向ける。俺が何か知っていたわけじゃないと、伝わったらしい。イリヤは訊き返さず、桜の前へしゃがんだ。
「サクラ。どこか、新しく痛めた?」
桜は首を振った。
「わたしは……」
そこで、声が止まった。
*
「ライダーは、消えたわ」
遠坂は、桜の肩から手を離さずに言った。
俺は、二人の後ろを見た。そこにいないことは、もう分かっていた。さっき、イリヤに起きたことも。それでも、言葉になるまでは、どこか別のところにいるのかもしれないと考えていた。教会の入口を見張っているとか。桜を下ろして、少し離れたところへ立っているとか。
「……桜は、そばに」
「いたわ。最後は、話せた」
遠坂が答えた。
桜の指が膝の上で動き、何かを握ろうとして、掛け物を掴んだ。
何と言えばいい。
ライダーは、桜を支えていた。俺たちが近づこうとするたび、その前へ立っていた。ついさっきまで、そこにいた。
「先輩」
桜に呼ばれ、顔を戻した。
「あの人たちは、生きているんですよね」
桜は奥の部屋へ目を向けていた。俺は頷いた。
「ああ。まだ、調べているところなんだ。動かしていいか分からないから、イリヤに診てもらってる」
桜は、俯いた。
「そう、ですか」
息が震えた。遠坂が、肩の掛け物を押さえ直す。桜は、その手を避けなかった。
イリヤが立ち上がった。
「ここで休んでいて。サクラの方も、後でちゃんと診たいから」
桜は顔を上げ、小さく頷いた。
イリヤは俺を見た。赤い目が、一度だけ静かに動く。俺も頷いた。誰が彼女の中へ入ったのかを、ここで訊く必要はなかった。
*
遠坂へ、地下を見つけた経緯を話した。セイバーが臓硯を斬ったこと。臓硯が最後に、地下を見ろと言い残したこと。階段の先で、まだ生きている人たちを見つけたこと。
遠坂は奥の部屋を覗き、すぐには何も言わなかった。戻ってきた顔から、血の気が引いていた。
「……ここに、こんなものを」
低い声だった。俺は遠坂を見た。知っていたのか、という言葉は出なかった。彼女は部屋から目を離せずにいた。
「言峰は、まだ戻っていないのね」
「ああ。俺たちが来てからは、見てない」
遠坂が、強く拳を握った。
アーチャーが、地下聖堂の奥から戻ってきた。俺たちが話している間に、出入りする場所を確かめていたらしい。
「今のところ、他に動いているものはない」
「外は?」
「周囲は見た。神父の姿はなかった」
遠坂は頷いた。
「セイバー、入口をお願い。わたしはイリヤと、少し見てくる」
「分かりました」
セイバーが階段の方へ移った。遠坂は一度桜を見てから、奥の部屋へ入る。俺も続こうとした。
「待て」
呼び止めたのは、アーチャーだった。
*
彼は壁際を見ていた。俺が床に置いた剣の細い刀身が、薄い霜の中に伸びている。
「それは、おまえが作ったのか」
「ああ」
答えると、彼の目が俺の右手へ動いた。
「……ずいぶん握り締めたようだな」
俺が指を開くと、少しだけ引き攣れた。
「蟲を止めるのに、必要だったんだ」
「必要だったことと、無茶をしたことは別だ」
言い返そうとして、やめた。最後の方は、抜こうと思っても剣が抜けなかった。こんな腕の状態で言い返しても、説得力はなかった。
「城で見た剣か」
「ああ。壁に刺さって、周りが凍ったやつだ」
アーチャーは刀身へ目を戻したが、すぐには触らなかった。
「昨夜、言ったことは思い出したか」
「輪郭と、材質と、内側の構造だろ。考えた。……それだけじゃなかったけど」
剣が出来た時のことを、思い返す。形を思い浮かべた。その形を、どう作るのか。どうして、あの刃から冷たい力が出てくるのか。辿っていくと、見た時には分からなかったものまで、手の中へ入ってきた。
「握り方も、分かったんだ。どこへ刃を立てればいいかも。けど、分かっているのに、腕が遅れて」
アーチャーは、俺の手を見た。
「剣の経験まで辿ったか」
その言葉に、顔を上げる。
「あれは、そういうことなのか」
「おまえが持たぬものが、剣にはある。それを写し取ったのなら、扱いの手掛かりも得られるだろう」
彼は、俺の右腕へ顎を向けた。
「だが、おまえの身体まで鍛え上がったわけではない。分かったつもりで振り回せば、先にそちらが壊れる」
俺は腕を下ろした。そう言われても、あの時は使うしかなかった。けれど、使えたことだけ覚えていたら、次は同じようにいかないかもしれない。
「それで。次は、どうすればいい」
訊くと、アーチャーはわずかに眉を上げた。
「まず、その腕を休めろ」
「……それは、分かってる」
「なら、忘れる前に考えておけ。作った時、何を思い描いた」
俺は剣を見た。
「あれを、もう一度?」
「ここで作れとは言っていない。同じ一本を作るつもりで、頭の中を辿れ。どこまで捉え、どこから曖昧になったか」
低い声だった。
「出来た、で済ませるな。おまえが確かめるべきものは、おまえ自身のイメージだ」
俺は黙った。彼はもう、剣から目を離していた。その左手が、一度開いた。指の動きが、ひどく遅かった。
「おまえも、腕が」
「魔眼の影響が残っている。気にするなら、余分な仕事を増やすな」
言って、右の袖を押さえる。その布にも、血がついていた。俺は、それ以上訊かなかった。
「……分かった。覚えておく」
アーチャーは返事をせず、階段の方を見た。
*
上で、靴の音がした。セイバーが身を起こす。アーチャーも、こちらから離れた。俺は奥の部屋へ顔を向けた。
「遠坂」
呼ぶと、彼女はもう入口へ来ていた。足音は、止まらなかった。壁に沿って、ゆっくり下りてくる。
「ずいぶんと、奥まで入ったものだ」
声が聞こえた。言峰だった。階段の下へ姿を現し、セイバーのところで足を止める。黒い服の片側に、裂けた跡があった。左腕を動かした時、その下に白い布が見えた。だが、立ち方も、声も、いつもの神父と変わらなかった。
「綺礼」
遠坂が言った。
「今まで、どこにいたの」
「昨夜、客に追い出されてな。戻ってみれば、別の客が地下にいる」
言峰の目が俺たちの後ろへ動き、開いた入口を捉えた。その向こうにいる人たちまで、見通すように。
俺は前へ出た。
「あの人たちに、何をしていた」
言峰がこちらを見る。その顔には、驚きがなかった。
「見たのか」
「見た。生きてるのに、自分じゃ動けない。身体が、あそこから離れないんだ」
声が大きくなった。
「おまえの教会だろ。知らなかったとは言わせないぞ」
言峰は、奥へ目を向けた。
「知らぬとは言わん。私が管理していたものだ」
返事を聞いて、思わず拳を握った。痛みが走っても、緩められなかった。
*
「何のためにだ」
俺は訊いた。言峰は、俺の拳へ一度目を落とした。
「魔力の供給に用いていた」
短い言葉だった。一瞬、何を言われたのか、分からなかった。管がある。水を送って、身体をそこへ留めて。生きている人間を。
「……あんな状態にして、まだ取るのか」
言峰は、答えなかった。
遠坂が、俺の横へ来た。
「誰に供給していたの」
「その話をする前に、聞いておこう。おまえたちは、あの者たちをどうするつもりだ」
遠坂の顔が強張った。
「質問に答えなさい、綺礼」
「話している間にも、時間は過ぎるぞ」
俺は、もう一歩踏み出しかけた。セイバーの手が、横から出た。押し戻されたわけではない。俺の腕へ、指が触れた。
「シロウ」
呼ばれて、奥を見る。イリヤが、部屋の入口に立っていた。
「身体と、周りの仕組みが繋がっているわ。すぐに外して運べる状態ではない」
言峰へ向けた声だった。
「管理していたのなら、どこを外してはいけないかも知っているのでしょう」
「知っている」
「なら、説明して。あのまま引き剝がすわけにはいかない」
言峰はイリヤを見た。
俺は、自分の拳を見た。握っているだけだった。目の前の神父を殴っても、あの人たちを運び出せるようにはならない。そのことが、ひどく腹立たしかった。
「助けろ」
俺は言った。
「あそこから出して、治療を受けられるようにしてくれ。おまえが、ここまでやったんなら」
言峰は俺を見た。
「元通りになると、約束はできん」
「だから放っておけなんて、言ってないだろ」
息を吸った。
「生きてるんだ。今、出来ることをしてくれ」
言峰は、少しだけ黙った。それから、セイバーへ顔を向けた。
「通してもらおう。状態を見なければ、話も進まぬ」
セイバーが俺を見た。頷くと、彼女は道を空けた。言峰が俺のそばを通って部屋へ入り、イリヤも続いた。
*
俺は、入口から言峰の手を見ていた。言峰は、最初の一人のそばへ屈んだ。身体と、その周りを確かめる。イリヤに何かを訊き、彼女が短く答えた。
言峰の指が、俺たちには触れてよいか分からなかったところへ向かう。手順を知っている。見ていると、また腹の底が熱くなった。
「衛宮くん」
遠坂が、隣に立った。
「あとで、どうなったか確かめるわ。引き受けさせたままで終わらせない」
俺は彼女を見た。
「あいつに、任せていいのか」
「全部信用しろなんて言ってない」
遠坂は、言峰の手もとを見ていた。
「ただ、引き受けた約束を投げる人間ではないわ。……それくらいは、知ってる」
声は硬かった。俺は、もう一度奥を見た。イリヤが言峰の説明を聞き、別の場所を指していた。言峰が答える。彼女は頷いたが、言峰の手もとから目を離さなかった。
「綺礼」
遠坂が呼んだ。
「この人たちの救助と、必要な処置。引き受けるのね」
言峰は、顔を上げた。
「ああ。移すための手配もする。いま抱えて出すことは勧めん」
「分かってるわ。だから、ちゃんとやって」
遠坂は、そこで口を閉じた。言峰は再び屈んだ。俺も、近くの人のそばへ戻った。水の落ちる音は、まだ続いていた。
*
しばらくして、言峰が立ち上がった。イリヤは、最後に診ていた人へもう一度触れ、ゆっくり手を離した。あの部屋には、まだ人がいる。動かさずにどう状態を保つか、移す前にどんな処置が必要かを、イリヤも確認した。その確認だけでも、俺にはずいぶん長く感じられた。
言峰は手配の連絡をするため地上へ上がり、やがて戻ってきた。俺たちは、地下聖堂で待っていた。桜は長椅子に座っている。遠坂がそばへ戻り、短く言葉を交わした。アーチャーは階段の方が見える位置に立ち、左手を確かめるように、一度握って開いた。
俺は壁際の剣を見た。まだ、そこにあった。作れた、で済ませるな。今は、その言葉を覚えておく。
イリヤが、俺の隣へ来た。
「座らないの?」
「……もう少ししたら」
答えると、彼女は俺の右手を見た。
「力、入ってるわ」
俺は手を開いた。掌に、爪の跡が残っていた。
「すまん」
「謝る相手は、その手よ」
イリヤはそれ以上言わず、そばに立った。言峰が、こちらへ来る。
「さて。地下に用があって訪ねてきたわけではあるまい」
俺は顔を上げた。聞くために来た。桜を見つける前は、そのつもりだった。
「聖杯のことで、話がある」
俺は言った。言峰の目が、こちらで止まった。
「続けろ」
遠坂が顔を上げ、イリヤも神父へ向き直る。俺は奥の入口を一度見てから、言峰へ目を戻した。
「今の聖杯が、汚染されているって聞いた。そのことを、確かめたい」
神父はしばらく俺を見てから、静かに頷いた。
「どこまで知った」