Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
食器棚の奥に見慣れない箱があった。
引っ張り出して蓋を開けると、薄い紙に包まれた湯呑みが五つ並んでいた。そういえば、ここにしまったのだった。客が来ても普段使いの湯呑みで済ませていたから、すっかり忘れていた。
一つ取り出してみる。欠けてはいない。底を確かめてから流しに置くと、台所の入口でセイバーが足を止めた。
「まだ片付けがあるのですか」
「いや、これは明日の分。……セイバー、少し話せるか」
何についてかと聞かれる前に、箱の蓋を閉じた。
藤ねえたちは帰ったところだった。居間へ戻り、今日も公園でイリヤに会ったと話す。セイバーは座りかけたまま動きを止め、こちらを見た。
「また、一人で行ったのですか」
「ああ。だから、先に謝る。黙って行って悪かった」
「何かされたのですか」
すぐに聞かれた。何もされていない、とは言えなかった。怪我はないが、それだけだ。
帰ろうとしたところで、体を動かせなくされたことを話した。見えないところにいたイリヤに気づかなかったこと。魔術が解けた後は、一緒にたい焼きを食べて話をしたこと。
たい焼きの話になっても、セイバーの表情は変わらなかった。
「シロウ。相手がその気なら、貴方は戻ってこられなかった」
「……うん」
買い物袋を拾った時、手が震えていたことを思い出す。
「それでも、また会うつもりなのですね」
まだ言っていないことまで聞かれた。
「明日、うちに来ないかって誘った」
セイバーが目を閉じた。
しばらく返事がない。待っていると、膝の上に置かれた手に力が入った。
「待ってください。あれほど危険だと伝えた相手を、この屋敷に招くのですか」
「先に相談するべきだった。けど、誘ったのは本気だ」
「貴方の家です。誰を招くかは、貴方が決めることでしょう。しかし、私は貴方を守るためにここにいる。何も知らされず、客として迎えろと言われても従えません」
「だから、今、話してる」
少し強く答えてしまった。セイバーがこちらを見る。
「……悪い。今ならいいって話じゃないな」
自分で誘っておいて、後から何とかしてくれと言っている。セイバーに守ってもらうことまで、勝手に当てにしていた。
「イリヤにも、うちでは戦わないって約束してもらう。セイバーにも、こっちからは手を出さないでほしい」
「言葉だけで、彼女の魔術を防げるわけではありません」
「分かってる。でも、遊びに来た相手を最初から攻撃するわけにはいかないだろ」
「遊びに来るのだと、貴方は信じているのですね」
「ああ。俺も、そのつもりで呼んだ」
今日、額を寄せられた時のことを話した。自分の体は公園に置いたまま、森や城の廊下を見せてもらったのだと。
「家のことも、そこで一緒に暮らしてる人のことも話してくれた。だから、俺の方も見てもらいたくなったんだ」
今度はセイバーも途中で口を挟まなかった。
「それで危険がなくなるとは思わない。……でも、明日も一人で勝手に会うんじゃ、今日と同じだろ。どう迎えたらいいか、セイバーに相談したい」
言い終えると、居間の時計の音が聞こえた。
「待ち合わせは」
「学校が終わってから、公園で。今日と同じくらいの時間に」
「では、その前に私と合流してください。迎えには同行します。彼女の返答も、私が直接聞きます」
「いいのか」
「賛成はしていません」
そこは、はっきりと言われた。
「屋敷に戻った後は、近くで待機します。私が同じ席にいれば、落ち着いて話もできないでしょうから。ただし、何かあればすぐに呼んでください」
「ああ。ありがとう、セイバー」
頭を下げると、まだ礼を言う段階ではないと返された。それでも、明日はどこで会うかという話には付き合ってくれた。
遠坂にも電話を入れた。今日のことと明日の予定を伝えると、途中で一度、話が止まった。
『あんたね。相談するのと、決めたことを報告するのは違うんだけど』
「……それは、今セイバーにも言われた」
『でしょうね』
受話器の向こうで息を吐く音がした。
『セイバーの言うことは聞きなさいよ。それと、何か分かったらわたしにも教えること。都合の悪い話も含めてね』
「分かった」
電話を切って台所へ戻る。流しには、さっき出した湯呑みが一つだけ置いてあった。
箱からもう一つ取り出し、二つとも洗った。
*
翌日は授業が終わると、そのまま校門を出た。
商店街の手前にセイバーがいた。上着の前を合わせて立っている姿を見つけ、少し足を速める。
「待ったか」
「いいえ。それより、シロウは何か忘れていませんか」
鞄を見た。ちゃんと持っている。財布もある。
「菓子を買うと言っていたでしょう」
「ああ、そうだった。店、こっちなんだ」
昨日、わざわざ念を押されたのに。これではイリヤにも文句を言われるところだった。俺が店へ向かうと、セイバーも隣を歩いた。
菓子屋で栗の入った饅頭を買った。何個にするか迷って、藤ねえたちの分も包んでもらう。藤ねえの分だけないと後で分かったら、明日の朝まで文句を言われそうだった。
公園へ着くと、ベンチの上で白い帽子が動いた。
「シロウ!」
イリヤが立ち上がり、こちらへ駆けてきた。途中でセイバーに気づくと、走るのをやめた。
「……今日は、一緒なんだ」
「昨日、話したんだ。イリヤが来ること」
「ふうん。怒られた?」
「かなり」
イリヤが笑いかけたところで、セイバーが俺の隣から一歩進み出た。
「イリヤスフィール。確認しておきたいことがあります」
「なあに」
イリヤは顎を上げ、セイバーを見返した。さっきまでの笑顔は、もうない。
セイバーが言葉を続ける前に、俺もイリヤへ向き直った。
「今日、うちにいる間は誰も攻撃しない。魔術で動けなくするのもなしだ。それを約束してほしい」
「昨日のこと、まだ怒ってるの?」
「怒るぞ、またやったら」
イリヤは口を尖らせた。それからセイバーを見て、片方の眉を少し上げる。
「セイバーは?」
「貴女が客として来るのであれば、こちらから攻撃はしません」
「じゃあ、いいよ。わたしだって、シロウのお家を壊しに来たんじゃないもの」
「帰る時も、いきなり始めるのはなしだからな」
「もう。そんなに心配なら、ちゃんと送ってくれればいいでしょう」
そう言って、イリヤが俺の袖をつかんだ。セイバーはその手に一度目をやり、またイリヤの顔へ視線を戻した。
「バーサーカーは、どこにいるのですか」
「お城。今日は待っててって言ってきたわ」
イリヤは答えると、俺の手元へ顔を寄せた。
「それ、お菓子?」
「ああ。頼まれてたから」
「見せて」
「家に着いてから」
「ちょっとだけ。何か知りたいの」
袋を持ち上げると、イリヤも背伸びをした。結局、袋は開けず、何を買ったかだけ教えた。
「栗? わたし、それ好き」
「そうか。じゃあ、よかった」
「いくつあるの?」
「全部は食べるなよ」
「まだ何も言ってないでしょう」
袖をつかむ手に引かれて、公園を出た。セイバーは少し後ろからついてくる。イリヤは振り返らず、どちらへ行くのかと俺を見上げた。
昨日までは一人で帰っていた道を、今日は三人で歩いた。
*
門の前でイリヤが足を止めた。
「ここ?」
「ああ」
イリヤの視線が塀に沿って動き、屋根へ上がっていく。
大したものじゃないだろうと口にしかけて、やめた。昨日も城と比べているわけではないと言われたばかりだ。
門を開け、先に入る。セイバーが玄関へ向かった後も、イリヤは門のところに立っていた。
「イリヤ?」
「……うん。今行く」
数歩で追いつき、また袖に触れてくる。けれど、今度は先へ引っ張らなかった。
玄関を開けると、セイバーがこちらへ振り返った。
「私は奥の部屋にいます。シロウ、案内が済んだら一度声をかけてください」
「分かった」
イリヤはその背中を見送り、俺が靴を脱ぐのを待った。上がり框の前で、ブーツのつま先をそろえる。
「脱ぎにくいか?」
「自分でできるわよ」
壁へ片手をつき、片方ずつ脱いでいく。帽子を預かろうと手を出すと、それは素直に渡してくれた。
「いらっしゃい。寒かっただろ」
「……おじゃまします」
小さく答えてから、イリヤは廊下を見た。板の上に足を乗せ、もう一歩進む。継ぎ目を確かめるような歩き方だった。
居間へ案内し、コートを受け取った。帽子と一緒に脇へ置くと、イリヤは部屋の真ん中に立ったまま、ぐるりと周りを見回した。
「シロウ、いつもここにいるの?」
「飯を食う時はな。寝る部屋は別にある」
「そんなことは分かってるわよ」
少しだけ、いつもの声に戻った。
座布団を出すと、イリヤは膝をそろえて座った。さっきまで俺の袖を引っ張っていた手が、行儀よく膝の上に置かれる。
「お茶、淹れてくる。ちょっと待っててくれ」
「うん」
台所へ入っても、イリヤの声は聞こえなかった。湯を沸かしながら居間を覗くと、目が合った。イリヤは慌てて障子へ目をそらす。
待たせすぎただろうか。菓子だけ先に出そうとして、盆に載せた湯呑みが一つ傾いた。支え直すと、居間から小さく笑う声がした。
「シロウも、落ち着いてね」
「分かってる」
どうも、人のことはよく見ている。
茶を淹れ、饅頭を載せた皿と一緒に運んだ。イリヤは盆の上を見て、それから俺の顔を見た。
「ちゃんと、甘くないお茶なのね」
「お菓子は甘い。言われたとおりだろ」
「うん。よく覚えてたわ」
褒めてもらった。昨日のことだからな、と返すと、イリヤはちょっと口元を緩めた。
イリヤは両手で湯呑みを持ち、一口飲んだ。
そのまま、しばらく動かなかった。
「……苦い?」
イリヤはゆっくり湯呑みを下ろした。
「こういう味なのね」
「無理しなくていいぞ。薄くするか」
「まだ一口しか飲んでないでしょう。決めるのが早いわ」
止められたので、自分の分を飲んだ。俺にはうまいが、甘い飲み物が好きな相手にいきなり出すには、苦すぎたかもしれない。
イリヤが饅頭を一口かじった。中を覗き込み、もう一口食べる。
「あ、あった」
「栗?」
「うん。ちゃんと大きいのが入ってる」
イリヤはかじったところをこちらへ向けて見せてくれる。俺も自分の皿を引き寄せた。
イリヤは菓子を食べてから、もう一度茶を飲んだ。今度はすぐには湯呑みを置かず、少しずつ口をつけていた。
「これなら、いいわ」
「なら、よかった」
「だから、待ってればよかったのよ。シロウはすぐ、何かしてあげようとするんだから」
「苦そうな顔をしてたんだよ」
「してない」
「したぞ。こう、口が」
「してないったら」
真似をする前に止められた。イリヤは湯呑みで口元を隠し、俺を睨む。目の端は笑っていた。
そのうち、膝の上にそろえていた手も、菓子の皿を寄せたり、部屋のあちこちを指したりと忙しく動き始めた。あの戸の向こうは何か、庭にはどこから出るのか。聞かれるまま答えていると、イリヤは飲み終えた湯呑みを置き、こちらへ身を乗り出した。
「ねえ、見てまわってもいい?」
「家の中を?」
「うん。シロウのお部屋も」
部屋の中を思い浮かべた。朝、布団はしまった。脱いだものも置きっぱなしにはしていない。教科書が少し出ているくらいだ。
「いいけど、面白いものなんてないぞ」
「わたしが見たいんだから、いいの」
そう言った時には、もう立ち上がっていた。座布団を踏まないように回り込み、俺の袖を引く。
「早く。シロウがいないと、どこへ行ったらいいか分からないでしょう」
「分かったから、引っ張るなって」
空になった皿を重ねて、俺も立ち上がった。
*
最初に足を止めたのは台所だった。
「ここで作るのね」
イリヤは入口から中を覗き込み、鍋の並んだ棚へ目を向けた。
「肉じゃがも?」
「ああ。ほかに作る場所がないしな」
「シロウ、一人で全部使うの?」
棚の鍋を指さしている。
「作るものによって違うんだよ。それに、桜も使う。藤ねえは……たまに入ってくる」
「食べに?」
「よく分かったな」
イリヤが笑った。
流しの縁へ手を置き、自分の背と比べるように少し伸び上がる。
「ちょっと高いわね」
「踏み台ならあるぞ」
「ふうん。どこにあるの?」
冷蔵庫の脇を指すと、イリヤは踏み台を確かめ、流しに置いていた手を離した。俺が置いた皿と、まだ半分残っている菓子の包みを見比べる。
「あれも、後で食べるのね」
「藤ねえたちの分もあるからな」
「分かってるわよ。わたし、そんなに食べないもの」
言いながら、包みの大きさをもう一度見ていた。
廊下へ戻ると、今度はイリヤが先に歩き始めた。違う方へ曲がろうとするので呼び止める。
「俺の部屋はこっちだ」
「だったら、先に言ってよ」
「勝手に先へ行くからだろ」
戻ってきたイリヤが俺の腕を両手でつかんだ。
「これなら大丈夫」
歩きにくくなった気がするが、本人は満足したらしい。そのまま部屋まで案内し、戸を開けた。
イリヤは敷居のところで中を見回した。
「……ここ?」
「そうだよ」
「シロウのもの、これで全部?」
「ああ。どうかしたか?」
「だって、まだ引っ越しの途中みたいじゃない」
改めて部屋を見る。机があり、本があり、必要なものはしまってある。何か足りないと言われても、すぐには思いつかなかった。
「これで困ったことはないぞ」
「ふうん……」
あまり納得していない顔で入ってきた。机の前にしゃがみ、積んであった教科書の表紙へ指を置く。
「これ、学校の?」
「ああ。触ってもいいぞ」
イリヤは一冊開いた。しばらく眺め、次の頁をめくる。
「こんなに書き込んで、後で読めるの?」
「俺が書いたんだから、読めるよ」
「ここも?」
指されたところを横から覗く。
小さな字を詰め込んだ後で線を引き、別の場所へ書き足していた。何を訂正したのか、すぐには分からない。
「……今、思い出してる」
「ほら」
嬉しそうに笑われた。そこはまだ習ったばかりなんだと弁解すると、余計におかしいと言われる。
教科書を閉じたイリヤが今度は押し入れを見た。
「ベッドはないの?」
「布団だから。夜になったら出すんだ」
「毎晩?」
「毎晩」
「朝も、ちゃんと片付けるの?」
「片付ける。イリヤなら、セラに起こされた後もここに敷いたままだろうな」
「そんなことないわ。片付けてもらうもの」
なるほど。そもそも自分でやるとは考えないわけだ。
「眠くなったら、また出すのか?」
「シロウったら、わたしがずっと寝てると思ってるでしょう」
「違うのか」
「違うわよ。こうして会いに来てあげてるじゃない」
それには頷くしかなかった。
立ち上がったイリヤは俺の部屋をもう一度見渡した。さっきよりゆっくり、机から本棚、押し入れへと目を動かす。
「ここに帰ってきて、あの本を読むのね」
「宿題があればな」
「ない時は?」
「飯を作ったり、何か直したり。明日の支度もあるし」
「それ、ここじゃなくてもできるでしょう」
たしかに、台所や土蔵にいる時間の方が長いかもしれない。
「本も読むよ。学校のじゃないやつ」
「じゃあ、次に来たらそれも見せて」
「いいけど、読めるか?」
イリヤがこちらを向いた。
「わたしが、字を読めないと思ってるの?」
「そうじゃなくて、日本語の本だから」
「シロウの書いた字より、ずっと分かりやすいわ」
まだ言うか。
教科書を机へ戻し、廊下へ出た。イリヤは俺が戸を閉めるのを待って、また腕につかまった。
庭に面した廊下へ差しかかると、足元が少し冷たくなった。イリヤがガラスの向こうを覗き込む。
「お庭、ここから全部見えるのね」
「見渡せる方が便利だろ。落ち葉がたまっても分かるし」
「シロウは、お掃除の話ばっかり」
「実際にやると気になるんだよ」
イリヤは庭の端まで見渡してから、向こうに見える屋根を指さした。
「あっちは?」
「道場。その横が土蔵だ」
「あの、古い方?」
「そう。物をしまってある。さっき言った修理も、あそこでやるんだ」
「寒そう」
「寒いぞ」
「どうして、わざわざ寒いところへ行くのよ」
「道具がそろってるし、広げても邪魔にならないからな」
今度は本気で変な顔をされた。
「シロウのお部屋に、置けばいいでしょう。あんなに空いてるんだもの」
「片付かなくなったら寝られないだろ」
「使ったらしまえばいいのよ」
さっきはセラに片付けてもらうと言っていたじゃないか。
言い返そうとしたが、イリヤはもう道場の方を見ていた。次はあそこがいいと言うので、先へ案内する。
道場へ入ると、イリヤは声を上げた。
「こっちの方が、ずっと広いじゃない!」
「当たり前だろ。体を動かす場所なんだから」
イリヤは俺の腕を離し、数歩進んで振り返った。それから床を確かめるように歩き、壁に掛けてあるものへ視線を向ける。
「誰が使うの?」
「藤ねえも使うぞ。剣道をやってるから」
「お肉をいっぱい食べる人?」
「そう。竹刀を持つと、ほんとに強いんだ」
イリヤが振り返った。
「シロウより?」
「俺と比べるなよ」
「じゃあ、セイバーより?」
「今度は比べる相手がおかしい」
イリヤが声を立てて笑った。
「シロウのお話だと、ごはんを食べに来るだけの人かと思ってたわ」
「そんなことないぞ。学校じゃ先生なんだ。俺も、あの人には世話になってる」
「へえ。だったら、今度会ってみたい」
「そのうち、嫌でも会えるよ。毎日来るから」
「お菓子、残しておいてよかったね」
それは本当にそうだったので、頷いた。
イリヤは道場の端まで歩いていった。床を踏む足音が、居間にいる時より大きく聞こえる。
俺も後を追った。窓の向こうでは、庭木の枝がわずかに揺れていた。
「昨日見た城にも、こういう場所はあるのか」
「同じのはないわ。でも、シロウがまだ見てないお部屋なら、いっぱいあるよ」
「あれでも広かったけどな」
「ちょっとしか見せてないもの。お庭だって、上から見ただけでしょう」
「そういえば、庭には下りなかったな」
「下りたい?」
イリヤが目を輝かせたので、少し身構えた。
「今、もう一回はやめてくれ。せっかく食べたのに」
「違うわよ。自分の足で来ればいいじゃない」
「城へ?」
「うん。今度はわたしのお家に来て。シロウも、自分で歩けば気持ち悪くならないでしょう?」
イリヤが一歩近づいた。
「お茶も出してあげる。セラに言っておけば、ちゃんと用意するわ」
「それは、嬉しいけど」
「けど?」
俺が続きを言う前に、イリヤの目が少し細くなった。
「歩いて行けるところなのか。昨日は、ずいぶん遠くに見えたぞ」
「迎えに来てあげる。わたしについてくれば迷わないわ」
「なら、行ってみたい。見せてもらった廊下も、自分で歩いてみたいし」
イリヤの顔が明るくなった。
「でしょう? じゃあ、決まりね」
「ただ、セイバーにも一緒に来てもらうぞ。昨日も今日も、一人で行くなって言われてるんだ」
「お家に帰ってからまで、そんな話をしてたの?」
「誰かさんを家に呼ぶ相談もしたからな」
イリヤは少し首を傾け、俺の顔を見ていた。それから、仕方がないと言うように頷く。
「いいよ。セイバーも、ちゃんとお客さまにしてあげる。その代わり、バーサーカーに喧嘩を売ったら駄目だからね」
「こっちも同じことを頼むからな」
「分かってるわ。わたしが招待するんだもの」
まっすぐに答えられ、俺も頷いた。
「いつにするかは、セイバーと話してからでいいか。学校もあるし、帰りのことも考えないと」
「うん。決まったら教えて。わたし、待ってるから」
最後だけ、少しゆっくりした言い方だった。
イリヤは立つ向きを変え、俺の横から入口を見た。
「じゃあ、続き。まだ見てないところ、あるんでしょう?」
「あるけど、あとは使ってない部屋が多いぞ」
「いいの。そっちも見せて」
差し出された手を取って、道場を出た。
*
裏側へ回ると、廊下の光が薄くなった。
閉めていた戸を開ける。冷えた空気が流れてきて、イリヤは俺の手を離し、入口から部屋の中を覗いた。
「ここにも、誰か泊まれるのね」
「ああ。普段は使ってないけどな」
「ずっと?」
「時々、風は通すよ。掃除もする」
また掃除の話だと笑われるかと思ったが、イリヤは黙っていた。畳の端を見て、向こうの戸へ目を向ける。
そちらも開けた。部屋の奥まで光が通り、窓の外に塀が見えた。
「あっちは、もう外なの?」
「そう。向こうの廊下とつながってる」
イリヤは頷き、敷居を越えた。さっきまでなら俺より先に行っていただろうに、今度は窓の手前で止まっていた。
庭へ出たいのかと思い、声をかける。
「開けるか」
「ううん。見えるから、いい」
ガラスには触れず、その向こうを見ていた。
俺も隣へ立った。ここからは、さっき歩いてきた廊下が庭木の向こうに少し見える。枝の影が壁に落ちていた。
待っていると、イリヤが自分から振り返った。
「次は?」
「この隣くらいだな。あとは、来る時に通っただろ」
「そっか」
小さく頷いて、俺の後へついてくる。
残りの部屋を見せた時も、イリヤは何も言わなかった。入口で足を止め、奥を見て、それから出てくる。やっぱり、使っていない部屋を見ても面白くないか。俺の部屋ほどには、文句をつけるものもなかった。
「寒いな。そろそろ戻るか」
「……うん」
イリヤの手は、もう俺の袖をつかんでいなかった。
廊下を戻る途中、セイバーのいる部屋に声をかけた。案内が済んだので居間へ戻ると伝えると、中から返事があった。
居間の戸を開ける。座布団も、さっき置いた湯呑みもそのままだった。イリヤは入口で止まり、部屋の中をゆっくり見渡した。
「これで、ひとまわりだな」
「……うん」
「疲れたか。座っててくれ。お茶、温かいのを淹れ直すから」
盆を取ろうとして、イリヤがまだ立っていることに気づいた。
「イリヤ?」
「本当に、いないんだね」
声が小さくて、初めは何のことか分からなかった。
イリヤの視線が俺を通り過ぎ、庭へ向いた。
「キリツグ」
その名前を聞いて、盆へ伸ばしかけた手が止まった。
イリヤは庭を見たままだった。何かを見つけたようでもなく、ただ、向こうに目をやっている。
「……そうだな」
それしか言えなかった。
切嗣がいつも座っていたところなら、俺は知っている。天気がよければ縁側に出て、庭を見ていた。帰ってきた俺が声をかけると、振り返った。
今そこには、廊下を通ってきた俺たちの影が薄く伸びているだけだった。
「知ってたのよ」
イリヤがこちらを向いた。
「そんなこと、分かってたのにね」
笑おうとした口元が、途中で止まった。
目元から、光るものが一つこぼれた。
「……あれ」
イリヤは頬に指を当てた。濡れた指先を見て、もう一度、今度は手の甲で拭った。
次の涙が、同じところを通った。
「やだ。止まらない」
笑おうとして、うまくいかなかったような声だった。
俺はポケットからハンカチを出した。差し出すと、イリヤはそれを見て、首を横に振りかけた。
「いいから。使ってくれ」
「……汚れちゃうよ」
「洗えばいいだろ」
イリヤは端をつまみ、ゆっくり受け取った。片方の目へ押し当ててから、もう片方へ移す。その間、俺を見なかった。
何を言えばいいのか分からないまま、座布団を少し引いた。
「座るか」
イリヤが小さく頷いて座るのを待ち、俺も隣へ腰を下ろした。
さっきも、俺が台所にいる間、イリヤはこちらを見ていた。今、席を外していいのか分からなかった。湯呑みを脇へ寄せ、両手を膝の上へ置いた。
「……シロウ」
「ん?」
「そんなに、見ないで」
「ああ。悪い」
庭の方へ顔を向けた。
隣で、息を吸う音がする。ハンカチを握り直すかすかな音も聞こえた。俺は膝に置いた手を一度開き、また握った。
「復讐するつもりだったの」
庭を見たまま、続きを待った。
「会ったら、言ってやりたいこともあったわ。いっぱい。……ちゃんと、覚えてたのに」
そこで、声が途切れた。
俺の知っている切嗣へ、どんな言葉を言うつもりだったのだろう。聞けば、答えてくれるかもしれない。
けれど、隣で息を整えようとしているイリヤに、それを尋ねることはできなかった。
切嗣なら、何と答えただろう。
考えてみても、思いつかなかった。俺に笑いかけていた顔しか浮かんでこない。イリヤの前で、同じ顔をするのかどうかも知らない。
やがて、隣から小さく息が漏れた。
「……シロウ、変な座り方」
気がつくと、両手を膝に押しつけたまま、背筋を伸ばしていた。
「動いてもいいのよ」
「ああ。そうだな」
肩の力を抜いた。イリヤの方を向いていいのか迷っていると、向こうから袖を引かれた。
「もう、いい」
顔を見る。目の周りが赤かった。ハンカチを両手で握り、膝の上に置いている。
「お茶、飲むか」
イリヤは湯呑みへ目を落として、少し考えた。
「……少しだけ」
立ち上がり、台所へ行った。新しく湯を沸かす間に、急須の茶葉を替える。
今度は茶が濃く出る前に、湯呑みへ注いだ。
居間ではイリヤがさっきと同じ場所でハンカチを畳んでいた。俺が盆を置くと、手を止めて顔を上げた。
湯呑みを渡すと、イリヤは両手で包み込むように持ち、口へ運んだ。それから俺の方をちらりと見る。
「さっきより、薄いわ」
「ああ」
「さっきのでも、飲めたのに」
「今は、俺もこっちの方がいいんだよ」
そう答えると、イリヤはそれ以上言わなかった。
二人でしばらく茶を飲んだ。
*
「帰るね」
湯呑みを置いて、イリヤが言った。
庭木の影が来た時より長く伸びていた。気づかずにずいぶん座っていたらしい。
「公園まで送るよ」
「うん」
イリヤは立ち上がり、持っていたハンカチを見た。返そうとして、途中で手を引っ込める。
「これ、借りていくわ」
「いいよ」
「ちゃんと返すから」
「分かった」
コートを渡すと、イリヤはハンカチをポケットへしまい、袖を通した。髪が襟に挟まっていると教えると、自分で引き出した。
帽子をかぶり直した頃には、目の赤さも少し目立たなくなっていた。
セイバーを呼び、イリヤを送ってくると伝える。彼女は俺とイリヤを見比べてから、自分も行くと答えた。
玄関でブーツを履いたイリヤが廊下へ振り返った。
「シロウ」
「どうした」
「お菓子、おいしかった」
「ああ。また用意しとくよ」
イリヤは頷いた。それから少し迷って、もう一度こちらを見た。
「今度は、わたしの番だからね」
「城の方か」
「うん。……来るでしょう?」
セイバーが俺へ顔を向けた。
さっき話したことを、まだ伝えていなかった。帰ってから説明すると目で頼んで、イリヤへ向き直る。
「行くよ。さっき約束しただろ」
「うん」
そう返事をしてからも、イリヤはまだ俺を見ていた。
「シロウのお部屋より広いし、本もあるわ。お庭も、ちゃんと歩いて見せてあげる」
「分かってるって。楽しみにしてる」
そう答えると、ようやく口元が緩んだ。
「じゃあ、おいしいのも用意しておく。シロウがびっくりするくらい」
「あんまり多いと食べきれないぞ」
「大丈夫。セイバーも来るんでしょう?」
いきなり話を向けられたセイバーは、少しだけ眉を動かした。
「招待については、後ほどシロウから聞きます」
「そうして。今度はシロウのお話も、最後まで聞いてあげてね」
「イリヤ」
「なあに?」
注意する前に、にっこり笑われた。
セイバーは言い返さず、先に外へ出た。イリヤも続き、門のところで俺を待った。
帰り道は来た時より静かだった。
それでも、曲がり角に来ると、イリヤは俺の袖を引いて道を確かめた。来る時に通った道なのに、今は俺が先へ出るのを待っていた。
公園に着くと、イリヤは袖を離した。
「ここでいいわ」
「気をつけて帰れよ」
「シロウこそ。セイバーと、ちゃんと一緒に帰るのよ」
「分かってる」
今度は本当にそのつもりだった。
イリヤは数歩離れてから振り返り、小さく手を振った。俺も片手を上げる。
もう片方は、さっきまでハンカチを入れていたポケットに入れたままだった。
姿が見えなくなると、隣にいたセイバーがこちらを向いた。
「招待されたのですか」
「ああ。次は自分の家に来てほしいって。セイバーにも一緒に来てもらうと話した」
「日時は」
「まだ。先に相談してから決めるって言ってある」
セイバーは少し黙って、それから頷いた。
「では、帰りながら聞かせてください」
歩き始めた彼女の隣へ並んだ。
何を話したか、どこを案内したか。聞かれたことには答えたが、イリヤが泣いた時の言葉は、うまく口にできなかった。
家に戻ると、居間にはまだ二つの湯呑みがあった。
イリヤの座っていた場所には座布団が少し斜めになって残っている。向きを直し、湯呑みを盆へ載せた。
台所の菓子の包みを開けて、残りを数える。藤ねえが来たら、夕飯前に全部食べないよう言っておかなくてはいけない。
洗った湯呑みは布巾の上に伏せた。
食器棚を開け、普段使う茶碗の隣を少し空けた。
乾いたら、ここへ置いておこう。