Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第二十九話 やり直せない火

「第三次で、アンリマユというサーヴァントが入った。その時に、聖杯が汚れたって」

 

 俺は、今朝聞いた言葉を思い出しながら答えた。

 

「だから、今の聖杯に願っても、そのまま叶うとは限らない。人を助けようとして、別のことが起きるかもしれないんだろ」

 

 言峰は、俺の隣へ目を向けた。イリヤは何も言わなかった。

 

「大筋では、間違っていない」

 

 神父の目が、俺へ戻る。

 

「本来ならば、集められた力に使い道を与えるのは願う者だ。だが、今の聖杯には既に向きがある。善良な願いを入れれば善良な結果だけが出てくる、と期待するべきではないな」

「知っていたのね」

 

 遠坂は桜のそばに立ったまま、こちらを見ていた。

 

「前の戦争でも、そうだったの」

「ああ。今回になって生じた異常ではない」

 

 返事は、それだけだった。

 

 知っていた。願いを叶えるものだと、俺に説明した時も。この街で人が戦っている間も。

 

「だったら、どうして」

「おまえが何を尋ねたいのかは分かる。だが、まず聞こう。その聖杯をどうするつもりだ」

 

 また、こいつの聞きたい方へ話を持っていく。怒鳴り返しかけた息を、飲み込んだ。

 

「汚れているなら、取り除く方法を知りたい」

「使うためにか」

「そのまま使ったら、人を傷つけるんだろ。それをどうにか出来ないかって聞いてるんだ」

 

 右手を握りかけると指の付け根が痛み、途中で止めた。

 

 言峰の目が、僅かに細くなる。

 

「地下の者たちを助けろと要求した次は、聖杯の修繕か」

「……おかしいか」

「いや」

 

 神父は、ゆっくりと首を振った。

 

「ただ、思い出した。おまえの父親も、人の手に余るものを、いつまでも諦められなかった」

 

     *

 

 切嗣。声には出されなかった名前が、先に浮かんだ。

 

 言峰は、その間を待っていた。

 

「あの男が、何を望んで聖杯を求めたか。聞いているか」

「正義の味方に、なりたかったんだろ」

 

 答えると、神父の口もとが動いた。

 

「なるほど。おまえには、そう話したのか」

「何が言いたい」

「ずいぶんと、穏やかな言葉を選んだものだと思ってな」

 

 言峰は、長椅子の背へ片手を置いた。左腕の布が引っ張られ、服の裂け目が僅かに開く。傷を気にしているようには見えなかった。

 

「衛宮切嗣が望んだのは、争いのない世界だ。誰かが誰かを殺し、それを止めるためにまた誰かが死ぬ。その繰り返しを終わらせたかった」

 

 俺は黙って聞いた。

 

「大層な望みだろう。だが、あの男は、それを夢物語として棚へ置いておけなかった。自分に出来ることを探し、実行した。救える者がいるのなら、そのために何が必要かを選んだ」

「……それで、戦っていたのか」

「殺していた」

 

 地下聖堂に、その言葉だけが残った。

 

「多くを生かすために、少数を切り捨てる必要があるのなら、切り捨てた。必要だと判断すれば、自ら手を汚すことも躊躇わなかった」

 

 胸の中で何かが軋み、そんなはずはない、と言いかけた。

 

 けれど、俺の知っている切嗣は、聖杯戦争を終えた後の切嗣だ。庭をぼんやりと眺め、俺が呼ぶと、少し遅れて返事をする人だった。時々、何かを思い出したように笑い、またどこか遠いところを見た。その前に何をしていたのか、俺は知らなかった。

 

「……人を殺せば、それでいいと思ってたっていうのか」

「そう聞こえたか」

 

 言峰は、俺を見た。

 

「それで満足出来たのなら、あの男に聖杯は要らなかっただろう」

 

 返す言葉が、止まった。

 

「切り捨てるべきものを正確に選び、躊躇なく実行する。その働きだけを見れば、機械と呼んでもよい。だが、初めから何も感じなかったのなら、感情を押し殺す必要もない」

 

 落ち着いた声に、切嗣を褒める響きはなかった。

 

「あの男は、自分で捨てたものまで惜しんだ。救えた者を数えて、それで終わりに出来なかった。誰も切り捨てずに済む方法があるのなら、それを欲したのだ」

 

 教会の床を這っていた蟲が、頭をよぎった。九人を助けた後。残された、一人。あの老人に、俺が返した言葉。

 

 あの問答を、俺は言峰に話していない。聞いていないはずなのに、話の行き着く先は同じところだった。

 

「自分のやり方では、届かなかった」

 

 俺が言うと、言峰は頷いた。

 

「だから、奇跡を求めた。人間の手で作れぬ世界を、それでも作ろうとした。あの男にとって、聖杯は最後に残った手段だったのだろう」

 

 隣で、イリヤが小さく息をした。顔を向けると、彼女は言峰を見ていた。知らない話を初めて聞いた時の顔ではなかった。

 

 俺の視線に気づいて赤い目をこちらへ向けたが、何か言いかけて、やめた。

 

「ずいぶん、詳しいんだな」

 

 言峰へ目を戻した。

 

「切嗣から、聞いたのか」

「まさか。あの男と夢を語り合った覚えなどない。私は、敵としてヤツを見ていた」

 

 神父は、僅かに顎を上げた。

 

「少なくとも、おまえが知る父親の顔は知らん」

 

 こいつは、あの顔を知らない。焼けた街で、俺を見つけた時の。何も出来なかった俺の手を取って、自分の方が助けられたように、泣きながら笑った顔を。

 

「……そうか」

 

 俺は答えた。言峰の話を嘘だと言い切れずにいる間も、あの顔は浮かんでいた。

 

     *

 

 奥の部屋で、水が落ちた。俺は、開いた入口を見た。さっきまで膝をついていた場所が、ここから見える。濡れた布を畳んで置いたところも。

 

 切嗣も、ああして誰かのそばへ屈んだのだろうか。助けられるかどうか分からなくても、息をしているのを見て、手を伸ばしたのだろうか。

 

「切嗣があの火災で拾ったのは、おまえだったな」

 

 言峰の声に、そちらへ顔を戻した。

 

「……ああ」

「その後、引き取った。おまえは衛宮の名を得て、あの男の家で育った」

「それが、どうした」

「あちらにいる者たちにも、引き取り手が見つかっていれば、別の暮らしがあったかもしれんな」

 

 意味が、すぐには分からなかった。

 

 遠坂が、こちらへ一歩出た。

 

「綺礼。何の話をしているの」

「十年前の話だ。あの火災で家族を失い、行き場のなくなった子供たちを、この教会で引き受けた」

 

 水が、落ちた。続く一滴を、待ってしまった。

 

「……あの、人たちが」

 

 俺は言った。言峰は、頷いた。

 

「おまえと同じだ。あの火から生きて出てきた者たちだよ」

 

 足もとの床が、妙に遠かった。俺はもう一度、奥を見た。

 

 そんなこと、分からなかった。手を取った。顎を拭いた。胸が動くのを確かめた。その間、一度も。

 

「病院から……ここへ、来たのか」

「そういう者もいた。おまえも聞かなかったか。引き取り手のない子供を、どこへ預けるのか」

 

 聞いた。あの白い部屋で、大人たちが話していた。親戚を捜すこと。家族のこと。どこへ行くのか、まだ決まっていない子がいること。

 

 俺には切嗣が来た。だから、俺は。布団を畳む場所を教えてもらった。食器を出す場所を覚えた。学校へ行って、帰って、玄関で靴を脱いだ。

 

 十年。その間、ここに。

 

「おまえが、ずっと」

 

 声が、うまく出なかった。

 

「あの人たちを、こんなふうにしていたのか」

「管理していたと言ったはずだ」

 

 言峰の返事は変わらなかった。

 

 指が動き、右手を握るより先に、左手で自分の服の裾を掴んでいた。

 

「ふざけるな」

 

 低い声だった。

 

「あの火から、生きて出てきたんだぞ」

「知っている」

「知ってて、こんな――」

 

 足が前へ出た。イリヤの手が腕に触れた。引かれるまでもなく、足が止まった。

 

 目の前の男の服を掴むために、一歩。奥へ行くためなら、もう少し。その距離が、腹立たしいほどはっきり分かった。

 

「引き受けたことは、やってもらうわ」

 

 遠坂が言った。声が、硬かった。

 

「この話で、終わったことにはさせないから」

「承知している」

 

 言峰は遠坂へ答え、それから俺を見た。イリヤの手は、まだ腕にあった。俺は足を引いた。言峰から目を離すことは出来なかった。

 

 奥で、息が詰まるような音がした。イリヤもそれを聞いて俺の腕から手を離し、部屋へ向かう。入口で一度こちらを見たが、すぐに中へ入った。

 

 俺も続こうとした。

 

「今は、診られる者へ任せておけ」

 

 言峰が言った。こいつに言われたくなかった。だが、イリヤも奥から顔を上げた。

 

「シロウ。大丈夫、ここはわたしが見ているから」

 

 俺は、入口の前で止まった。

 

     *

 

 見覚えのある顔を探しかけて、やめた。分かるはずがなかった。あの時、自分のことで精一杯だった俺が、同じ場所にいた全員の顔を覚えているはずがない。

 

 けれど、知っている誰かだったら。俺が知らないだけで、同じ部屋にいて、同じ話を聞いていた子だったら。自分でも嫌になるほど、目が動いた。

 

「思い出したか」

 

 言峰の声が、背後から届いた。

 

「やめなさい、綺礼」

 

 遠坂が言う。

 

「あんたが、それを言うの」

「思い出させたのが誰であろうと、あったことは変わらん。私が黙れば、衛宮士郎は楽になるのかね」

 

 俺は振り返った。言峰は、同じ場所に立っていた。

 

「……何が言いたい」

「おまえには、あの火災の後があった。家があり、父親がいた。あちらの者にはなかった。切嗣に見つけられず、この教会へ預けられていれば、おまえも同じところにいたのだろうな」

 

 喉が、狭くなる。

 

 そんなことは分かっている。いや。今、分かったのだ。

 

 自分だけが助かったと思っていた。その後、同じように助かった人が、どこかで暮らしているのだとも思っていた。学校や、店や、道ですれ違った人の中に。何も知らないまま、隣を歩いているのかもしれないと。

 

 俺は、ここへ来なかった。坂を上れば、来られた。今朝だって、自分の足で来たのに。

 

「ずいぶん、苦しそうだ」

 

 言峰が言った。その声は、それまでより穏やかだった。

 

「そうして自分を責め続けることが、おまえの望む生き方なのか」

「……おまえに」

 

 言われることじゃない。その続きが、出なかった。

 

「では、一つ訊こう」

 

 言峰は、俺の返事を待たずに続けた。

 

「仮に、十年前へ戻れるとしたら。あの火災そのものを無かったことに出来るなら、おまえは、それを願わないか」

 

 息が止まった。

 

 向こうで、セイバーが顔を上げた。遠坂が口を挟んだ。

 

「綺礼。今の聖杯では――」

「仮の話だ、凛」

 

 言峰が言う。

 

「実行する方法を論じているのではない。おまえがそれを望むかと、聞いている」

 

 俺を見ていた。

 

「誰も焼かれず、家も失われない。おまえがあの日、置き去りにした者も死なない。衛宮切嗣に拾われる前の、おまえ自身の暮らしへ帰れるとしたら」

 

 声が、遠かった。

 

 そんなものはない。そう答えればよかった。どうすれば出来るのかも知らない。今の聖杯が危険だと、こいつも認めたばかりだ。

 

 けれど、言峰は方法を訊いていない。欲しくないのかと、訊いている。

 

 俺は、否定出来なかった。

 

     *

 

 帰りたかった。

 

 病院の天井を見ていた時も。知らない家の布団で、目を覚ました時も。目を閉じる前と、開けた後で、何かが変わっていないかと考えた。火の中を歩いたことの方が夢で、起きれば誰かが呼んでくれる。学校へ行く支度をしなければならなくて、昨日の続きを始められる。そういう朝が来ればいいと思った。

 

 来なかった。

 

 玄関の形も、窓の位置も、少しずつ曖昧になった。思い出せなくなるのが怖くて、もう一度確かめようとして、途中でやめた。思い出したところで、そこへ帰る道はなかった。

 

 切嗣の家には、帰れた。名前を呼ばれれば、返事をした。教わったことを、何度も繰り返した。出来ることが増えれば、やることも増えた。

 

 誰かの役に立っている間は、少しだけ息が出来た。何もしていない時に浮かぶ顔を、見なくて済んだ。

 

 それで、ここへは来なかった。

 

「……望んだことは、ある」

 

 口にすると、声が掠れた。

 

「戻れたらいいって。あんなこと、起きなければよかったって」

「だろうな」

 

 言峰は頷いた。

 

「それが、おまえ自身の願いではないのか。出来なかったことを埋めるために走り続けるより、初めから、何も失わずに済めばいい」

 

 何も失わずに。その言葉を、頭の中で繰り返した。

 

 誰かに手を伸ばせた自分を、想像したこともある。もっと力があって。足が止まらなくて。呼ぶ声を聞きながら、通り過ぎずに済んだならと。

 

 けれど、それより前へ戻れたら。誰も助けを呼ばなくてよかったのなら。

 

 膝が、少しだけ緩んだ。長椅子の背へ手を置く。指に、木の縁が当たった。痛かった。

 

 俺は、奥の部屋を見た。イリヤが屈んでいた。肩から落ちた白い髪を、耳にかけ直している。彼女の前に、細い手があった。俺がさっき、取った手だった。

 

 ここにいる。火の中から、生きて出てきた人が。自分がどうなりたいのか、俺にはまだ何も話してくれていない人が。

 

 目から涙が落ち、情けないと思うより先に、もう一つ落ちた。目を拭こうとして、手を上げられなかった。

 

「……でも、それを願うことは、出来ない」

 

 言峰の目が、止まった。

 

「出来ぬ理由を訊いているのではない。望むかと――」

「だから、俺は、それを望まない」

 

 言い直した。うまく息を吸えず、少し間が空いた。

 

「あの火があってよかったなんて、思ってない。誰も死ななければよかった。……今だって、そう思ってる」

 

 木の縁を、握った。

 

「けど、だからって、その後まで全部、無かったことには出来ない」

 

 言峰は黙っていた。

 

 胸に浮かんだものを、一つずつ、言葉にしていった。

 

「俺を捜してくれた人がいた。助けようとして、手を伸ばしてくれた人がいたんだ」

 

 あの顔を、思い出した。何も持っていない俺を見つけて、見つかったと喜んでくれた人。それだけのことを、何度思い出しただろう。切嗣が死んだ後も、あの時の顔は残っていた。

 

「その人が、苦しかったことも。助けられて、嬉しかったことも。俺に何かを教えようとしてくれたことも」

 

 声が切れた。

 

 言峰の語った切嗣を、知らない。どれだけ人を殺したのか。何を捨てて、どんな顔で戻ってきたのか。それを聞いた今も、俺を救ったことまで間違いだったとは思えなかった。あの手は、ここまで届いていた。

 

「俺が苦しいからって、最初から何もなかったことにするのは……嫌だ」

 

 息を吐いた。

 

「置いてきたものを、なかったことにはしたくない」

 

 誰かが泣いた。誰かが、それを見ていた。泣いた人が立ち上がるまで、待った人もいたのだろう。俺が知らないところで、そうして過ぎた日がある。

 

 それを、俺が知らないというだけで。俺が覚えていたくないというだけで。消してしまう願いを、自分のものには出来なかった。

 

「苦痛が残ると分かっていてもか」

 

 言峰の問いに頷いた。それで胸が楽になるわけではなかった。

 

「忘れたら、助けてもらったことまで分からなくなる」

 

 喉が痛い。それでも、言った。

 

「俺は、あの人に助けてもらった自分でいたい」

 

 言峰の顔を見た。

 

「その先で、何をするかを考えたい」

 

     *

 

 しばらく、誰も話さなかった。水の音は、変わらず続いていた。

 

 奥にいる人たちが、俺の答えをどう思うのかは分からない。俺は、その人たちの声を聞いていない。だから、頷いてもらえたと思うことも出来なかった。

 

 顔を上げると、言峰はまだこちらを見ていた。

 

「そうか」

 

 やがて、それだけ言った。肯定された気はしなかった。

 

「それで、あちらの者たちはどうする。おまえには引き受ける過去があった。それを守れば、十分か」

「違う」

 

 今度は、すぐに答えた。

 

「あの人たちは、生きてる」

 

 俺は奥を見た。イリヤが顔を上げていた。

 

「ここにいるんだ。だから、今からでも出来ることがあるなら、やる」

「元の暮らしには戻れぬかもしれんぞ」

「さっき聞いた」

 

 言峰へ向き直った。

 

「それでも、ここに置いたままにはしたくない。おまえも、引き受けたことをやってくれ」

 

 神父は笑いもせず、俺を見下ろしていた。こちらが言葉を変えるのを、待つように。俺は、目を逸らさなかった。

 

「……約束は変わらん」

 

 言峰が言った。俺は、ようやく木の縁から手を離した。指が、うまく開かなかった。

 

     *

 

「シロウ」

 

 セイバーが、階段のそばからこちらを見ていた。

 

「それでも、戻りたいと思ったことは、あるのですね」

 

 俺は、少しだけ目を伏せた。

 

「あるよ。何度も」

 

 セイバーの唇が動いた。続く言葉はなかった。彼女は自分の手へ目を落とした。細い指が一度閉じ、また開く。

 

「……そうですか」

 

 それだけ答えた。

 

 俺は、何か訊き返そうとした。セイバーが顔を上げる。目が合ったが、すぐには話せなかった。

 

 少し離れたところで、アーチャーが壁へ背を預けていた。右の袖を押さえた手は、そのままだった。いつからこちらを見ていたのか、分からない。あいつは何も言わなかった。

 

 イリヤが、部屋から戻ってきた。

 

「……大丈夫か」

 

 訊くと、彼女は奥を振り返った。

 

「今は落ち着いているわ。さっきの続きは、あとで神父にしてもらう」

「そうか」

 

 俺が頷くと、イリヤは俺の顔を見て、何も言わずに手を伸ばした。指先が頬へ触れ、目の下を一度拭う。

 

「自分で、出来る」

「うん」

 

 そう返事をしたイリヤは、すぐには手を引かなかった。俺も、避けなかった。指が離れてから、息を吸う。

 

 泣いていたのを、みんなに見られた。今更、何もなかったような顔は出来そうになかった。

 

「……まだ、聞いてないことがある」

 

 俺は言った。イリヤが頷き、俺の隣へ戻る。言峰は、待っていた。

 

     *

 

「聖杯に入ったものを、分ける方法だ」

 

 俺は訊いた。

 

「今のままじゃ、望んだようには使えないんだろ。だったら、汚れているところだけ取り除けないのか」

 

 言峰は、すぐには答えなかった。

 

 遠坂が、俺の横へ来た。

 

「アンリマユとして取り込まれたものと、大聖杯の仕組みを分けられるか、ということよ。儀式そのものまで失わずに済む方法はないの」

 

 そうだ、と頷く。

 

「不可能だ」

 

 言峰が答えた。あまりに短かった。俺は、息を止めた。

 

「……どうして、そう言い切れる」

「それが外から付着した汚れなら、洗い落とすという考えも成り立つだろう。だが、アンリマユを取り込んだことで、聖杯の力そのものが方向を持った。おまえたちは、その状態から、都合のよい力だけを取り出そうとしている」

「力だけ使えればいいって、言ってるんじゃない。分けられるかどうかを」

「同じことだ。中身を変えたものを取り去り、元の働きだけを残す。私には、そのような処置が可能とは思えん」

 

 言峰が間違っていると、言いたかった。さっきは、自分の望みを辿ればよかった。だが、聖杯のどこをどうすればいいのか。俺には説明出来なかった。

 

「器を替えるだけでは、済まないということね」

 

 遠坂が言った。イリヤが、彼女を見た。

 

「前の戦争でも、器を用意したのはアインツベルンよ」

 

 声は静かだった。

 

「家は、そのために用意していたの」

「そして、その時にも聖杯は既に汚れていた」

 

 言峰が続けた。

 

「新しい器へ受ければ、中身まで新しくなるわけではない。おまえたちの望む分離とは、別の話だ」

 

 イリヤは答えなかった。遠坂も、少し考えてから頷いた。

 

「……そこは、分かったわ」

 

 俺は、二人を見た。今朝、同じ紙を囲んで話していた。知らないことを聞いて、教えてもらって、ようやく、調べる先が見えたと思った。そこへ立ってみると、また何も見えなくなる。

 

「本当に、方法は知らないんだな」

 

 言峰へ訊いた。

 

「知らん。知っている方法をおまえに渡すかどうか、迷っているわけではないぞ」

 

 返事は、変わらなかった。こいつが隠しているだけなら、まだ何か言えた。教えろと怒鳴ることも。条件を聞くことも。だが、知らないと言われたところに、怒鳴って作れる答えはなかった。

 

「……そうか」

 

 俺は言った。横で、イリヤの袖が動いた。そちらへ手を伸ばしかけて、止める。ここで、その先を話すつもりはなかった。

 

 戦争が終わっても、ここで暮らしたい。今朝、そう言った声を、思い出していた。あの言葉を聞いた自分へ、言峰の返事をどう持ち帰ればいいのか。すぐには、分からなかった。

 

     *

 

「帰ったら、もう一度確かめましょう」

 

 遠坂が言った。言峰へ向けた声ではなかった。

 

「ここで聞けたことも含めて。分かっているところから、見直す必要があるわ」

 

 イリヤは、少し間を置いて頷いた。

 

「ええ」

 

 俺は二人の間へ顔を向けた。

 

「俺にも、教えてくれ」

 

 言うと、遠坂が顔を向けた。

 

「聞いて、一緒に考えたい。分からないまま、出来るはずだって言っても、しょうがないから」

「そのつもりよ」

 

 遠坂は答えた。

 

「だから、勝手に結論を出して、一人で走らないこと」

「……ああ」

 

 俺は頷いた。言峰が、長椅子の背から手を離した。

 

「話は済んだか」

 

 済んだ、と言える気はしなかった。切嗣のことも。火災のことも。地下にいる人たちのことも。聞いていないことが、まだ幾つもある。けれど、今ここで聞き続ければ全部が分かるわけではない。

 

 俺は奥を見た。

 

「あの人たちの、名前を」

 

 言峰が、こちらを見る。

 

「あとで教えてくれ。分かる分だけでも」

 

 神父は、一度だけ奥へ目を向けた。

 

「救助の経過を知らせる時に、伝えよう」

 

 遠坂が、言峰を見据えた。

 

「わたしも確認するわ」

「分かっている」

 

 言峰は答え、部屋へ向かった。その背中から、目を離せなかった。

 

 イリヤが、痛めた右手を避け、左手の指先へ触れた。

 

「シロウ」

 

 顔を向ける。彼女の目は、俺を見ていた。

 

「少し、座って」

「でも」

「立っていないと聞けない話は、もうないでしょう」

 

 言い返そうとして、自分の膝に力が入っていないことに気づいた。俺は頷き、長椅子の端へ腰を下ろした。木が、僅かに鳴った。

 

 座ると、床が近くなった。靴の先に、乾いた泥がついている。前庭でつけたものだろう。ついさっき、あそこで戦っていた。ずいぶん前のことのようだった。

 

 遠坂が桜のそばへ戻る。桜は顔を上げたが、何も言わなかった。膝の上で、掛け物の端を握っていた。イリヤが、桜の前へ屈んだ。

 

「サクラ。今、どこが一番つらい?」

 

 桜の唇が少し動いたが、イリヤは急かさずに待っていた。

 

 俺は、自分の手を開いた。右手にはまだ、剣を握っていた時の痛みが残っている。左手の指には、さっき触れたイリヤの温かさがあった。

 

 奥で、水の落ちる音がした。今度は、その音のする方を向いたまま、次の呼吸が聞こえるのを待った。

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