Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
「第三次で、アンリマユというサーヴァントが入った。その時に、聖杯が汚れたって」
俺は、今朝聞いた言葉を思い出しながら答えた。
「だから、今の聖杯に願っても、そのまま叶うとは限らない。人を助けようとして、別のことが起きるかもしれないんだろ」
言峰は、俺の隣へ目を向けた。イリヤは何も言わなかった。
「大筋では、間違っていない」
神父の目が、俺へ戻る。
「本来ならば、集められた力に使い道を与えるのは願う者だ。だが、今の聖杯には既に向きがある。善良な願いを入れれば善良な結果だけが出てくる、と期待するべきではないな」
「知っていたのね」
遠坂は桜のそばに立ったまま、こちらを見ていた。
「前の戦争でも、そうだったの」
「ああ。今回になって生じた異常ではない」
返事は、それだけだった。
知っていた。願いを叶えるものだと、俺に説明した時も。この街で人が戦っている間も。
「だったら、どうして」
「おまえが何を尋ねたいのかは分かる。だが、まず聞こう。その聖杯をどうするつもりだ」
また、こいつの聞きたい方へ話を持っていく。怒鳴り返しかけた息を、飲み込んだ。
「汚れているなら、取り除く方法を知りたい」
「使うためにか」
「そのまま使ったら、人を傷つけるんだろ。それをどうにか出来ないかって聞いてるんだ」
右手を握りかけると指の付け根が痛み、途中で止めた。
言峰の目が、僅かに細くなる。
「地下の者たちを助けろと要求した次は、聖杯の修繕か」
「……おかしいか」
「いや」
神父は、ゆっくりと首を振った。
「ただ、思い出した。おまえの父親も、人の手に余るものを、いつまでも諦められなかった」
*
切嗣。声には出されなかった名前が、先に浮かんだ。
言峰は、その間を待っていた。
「あの男が、何を望んで聖杯を求めたか。聞いているか」
「正義の味方に、なりたかったんだろ」
答えると、神父の口もとが動いた。
「なるほど。おまえには、そう話したのか」
「何が言いたい」
「ずいぶんと、穏やかな言葉を選んだものだと思ってな」
言峰は、長椅子の背へ片手を置いた。左腕の布が引っ張られ、服の裂け目が僅かに開く。傷を気にしているようには見えなかった。
「衛宮切嗣が望んだのは、争いのない世界だ。誰かが誰かを殺し、それを止めるためにまた誰かが死ぬ。その繰り返しを終わらせたかった」
俺は黙って聞いた。
「大層な望みだろう。だが、あの男は、それを夢物語として棚へ置いておけなかった。自分に出来ることを探し、実行した。救える者がいるのなら、そのために何が必要かを選んだ」
「……それで、戦っていたのか」
「殺していた」
地下聖堂に、その言葉だけが残った。
「多くを生かすために、少数を切り捨てる必要があるのなら、切り捨てた。必要だと判断すれば、自ら手を汚すことも躊躇わなかった」
胸の中で何かが軋み、そんなはずはない、と言いかけた。
けれど、俺の知っている切嗣は、聖杯戦争を終えた後の切嗣だ。庭をぼんやりと眺め、俺が呼ぶと、少し遅れて返事をする人だった。時々、何かを思い出したように笑い、またどこか遠いところを見た。その前に何をしていたのか、俺は知らなかった。
「……人を殺せば、それでいいと思ってたっていうのか」
「そう聞こえたか」
言峰は、俺を見た。
「それで満足出来たのなら、あの男に聖杯は要らなかっただろう」
返す言葉が、止まった。
「切り捨てるべきものを正確に選び、躊躇なく実行する。その働きだけを見れば、機械と呼んでもよい。だが、初めから何も感じなかったのなら、感情を押し殺す必要もない」
落ち着いた声に、切嗣を褒める響きはなかった。
「あの男は、自分で捨てたものまで惜しんだ。救えた者を数えて、それで終わりに出来なかった。誰も切り捨てずに済む方法があるのなら、それを欲したのだ」
教会の床を這っていた蟲が、頭をよぎった。九人を助けた後。残された、一人。あの老人に、俺が返した言葉。
あの問答を、俺は言峰に話していない。聞いていないはずなのに、話の行き着く先は同じところだった。
「自分のやり方では、届かなかった」
俺が言うと、言峰は頷いた。
「だから、奇跡を求めた。人間の手で作れぬ世界を、それでも作ろうとした。あの男にとって、聖杯は最後に残った手段だったのだろう」
隣で、イリヤが小さく息をした。顔を向けると、彼女は言峰を見ていた。知らない話を初めて聞いた時の顔ではなかった。
俺の視線に気づいて赤い目をこちらへ向けたが、何か言いかけて、やめた。
「ずいぶん、詳しいんだな」
言峰へ目を戻した。
「切嗣から、聞いたのか」
「まさか。あの男と夢を語り合った覚えなどない。私は、敵としてヤツを見ていた」
神父は、僅かに顎を上げた。
「少なくとも、おまえが知る父親の顔は知らん」
こいつは、あの顔を知らない。焼けた街で、俺を見つけた時の。何も出来なかった俺の手を取って、自分の方が助けられたように、泣きながら笑った顔を。
「……そうか」
俺は答えた。言峰の話を嘘だと言い切れずにいる間も、あの顔は浮かんでいた。
*
奥の部屋で、水が落ちた。俺は、開いた入口を見た。さっきまで膝をついていた場所が、ここから見える。濡れた布を畳んで置いたところも。
切嗣も、ああして誰かのそばへ屈んだのだろうか。助けられるかどうか分からなくても、息をしているのを見て、手を伸ばしたのだろうか。
「切嗣があの火災で拾ったのは、おまえだったな」
言峰の声に、そちらへ顔を戻した。
「……ああ」
「その後、引き取った。おまえは衛宮の名を得て、あの男の家で育った」
「それが、どうした」
「あちらにいる者たちにも、引き取り手が見つかっていれば、別の暮らしがあったかもしれんな」
意味が、すぐには分からなかった。
遠坂が、こちらへ一歩出た。
「綺礼。何の話をしているの」
「十年前の話だ。あの火災で家族を失い、行き場のなくなった子供たちを、この教会で引き受けた」
水が、落ちた。続く一滴を、待ってしまった。
「……あの、人たちが」
俺は言った。言峰は、頷いた。
「おまえと同じだ。あの火から生きて出てきた者たちだよ」
足もとの床が、妙に遠かった。俺はもう一度、奥を見た。
そんなこと、分からなかった。手を取った。顎を拭いた。胸が動くのを確かめた。その間、一度も。
「病院から……ここへ、来たのか」
「そういう者もいた。おまえも聞かなかったか。引き取り手のない子供を、どこへ預けるのか」
聞いた。あの白い部屋で、大人たちが話していた。親戚を捜すこと。家族のこと。どこへ行くのか、まだ決まっていない子がいること。
俺には切嗣が来た。だから、俺は。布団を畳む場所を教えてもらった。食器を出す場所を覚えた。学校へ行って、帰って、玄関で靴を脱いだ。
十年。その間、ここに。
「おまえが、ずっと」
声が、うまく出なかった。
「あの人たちを、こんなふうにしていたのか」
「管理していたと言ったはずだ」
言峰の返事は変わらなかった。
指が動き、右手を握るより先に、左手で自分の服の裾を掴んでいた。
「ふざけるな」
低い声だった。
「あの火から、生きて出てきたんだぞ」
「知っている」
「知ってて、こんな――」
足が前へ出た。イリヤの手が腕に触れた。引かれるまでもなく、足が止まった。
目の前の男の服を掴むために、一歩。奥へ行くためなら、もう少し。その距離が、腹立たしいほどはっきり分かった。
「引き受けたことは、やってもらうわ」
遠坂が言った。声が、硬かった。
「この話で、終わったことにはさせないから」
「承知している」
言峰は遠坂へ答え、それから俺を見た。イリヤの手は、まだ腕にあった。俺は足を引いた。言峰から目を離すことは出来なかった。
奥で、息が詰まるような音がした。イリヤもそれを聞いて俺の腕から手を離し、部屋へ向かう。入口で一度こちらを見たが、すぐに中へ入った。
俺も続こうとした。
「今は、診られる者へ任せておけ」
言峰が言った。こいつに言われたくなかった。だが、イリヤも奥から顔を上げた。
「シロウ。大丈夫、ここはわたしが見ているから」
俺は、入口の前で止まった。
*
見覚えのある顔を探しかけて、やめた。分かるはずがなかった。あの時、自分のことで精一杯だった俺が、同じ場所にいた全員の顔を覚えているはずがない。
けれど、知っている誰かだったら。俺が知らないだけで、同じ部屋にいて、同じ話を聞いていた子だったら。自分でも嫌になるほど、目が動いた。
「思い出したか」
言峰の声が、背後から届いた。
「やめなさい、綺礼」
遠坂が言う。
「あんたが、それを言うの」
「思い出させたのが誰であろうと、あったことは変わらん。私が黙れば、衛宮士郎は楽になるのかね」
俺は振り返った。言峰は、同じ場所に立っていた。
「……何が言いたい」
「おまえには、あの火災の後があった。家があり、父親がいた。あちらの者にはなかった。切嗣に見つけられず、この教会へ預けられていれば、おまえも同じところにいたのだろうな」
喉が、狭くなる。
そんなことは分かっている。いや。今、分かったのだ。
自分だけが助かったと思っていた。その後、同じように助かった人が、どこかで暮らしているのだとも思っていた。学校や、店や、道ですれ違った人の中に。何も知らないまま、隣を歩いているのかもしれないと。
俺は、ここへ来なかった。坂を上れば、来られた。今朝だって、自分の足で来たのに。
「ずいぶん、苦しそうだ」
言峰が言った。その声は、それまでより穏やかだった。
「そうして自分を責め続けることが、おまえの望む生き方なのか」
「……おまえに」
言われることじゃない。その続きが、出なかった。
「では、一つ訊こう」
言峰は、俺の返事を待たずに続けた。
「仮に、十年前へ戻れるとしたら。あの火災そのものを無かったことに出来るなら、おまえは、それを願わないか」
息が止まった。
向こうで、セイバーが顔を上げた。遠坂が口を挟んだ。
「綺礼。今の聖杯では――」
「仮の話だ、凛」
言峰が言う。
「実行する方法を論じているのではない。おまえがそれを望むかと、聞いている」
俺を見ていた。
「誰も焼かれず、家も失われない。おまえがあの日、置き去りにした者も死なない。衛宮切嗣に拾われる前の、おまえ自身の暮らしへ帰れるとしたら」
声が、遠かった。
そんなものはない。そう答えればよかった。どうすれば出来るのかも知らない。今の聖杯が危険だと、こいつも認めたばかりだ。
けれど、言峰は方法を訊いていない。欲しくないのかと、訊いている。
俺は、否定出来なかった。
*
帰りたかった。
病院の天井を見ていた時も。知らない家の布団で、目を覚ました時も。目を閉じる前と、開けた後で、何かが変わっていないかと考えた。火の中を歩いたことの方が夢で、起きれば誰かが呼んでくれる。学校へ行く支度をしなければならなくて、昨日の続きを始められる。そういう朝が来ればいいと思った。
来なかった。
玄関の形も、窓の位置も、少しずつ曖昧になった。思い出せなくなるのが怖くて、もう一度確かめようとして、途中でやめた。思い出したところで、そこへ帰る道はなかった。
切嗣の家には、帰れた。名前を呼ばれれば、返事をした。教わったことを、何度も繰り返した。出来ることが増えれば、やることも増えた。
誰かの役に立っている間は、少しだけ息が出来た。何もしていない時に浮かぶ顔を、見なくて済んだ。
それで、ここへは来なかった。
「……望んだことは、ある」
口にすると、声が掠れた。
「戻れたらいいって。あんなこと、起きなければよかったって」
「だろうな」
言峰は頷いた。
「それが、おまえ自身の願いではないのか。出来なかったことを埋めるために走り続けるより、初めから、何も失わずに済めばいい」
何も失わずに。その言葉を、頭の中で繰り返した。
誰かに手を伸ばせた自分を、想像したこともある。もっと力があって。足が止まらなくて。呼ぶ声を聞きながら、通り過ぎずに済んだならと。
けれど、それより前へ戻れたら。誰も助けを呼ばなくてよかったのなら。
膝が、少しだけ緩んだ。長椅子の背へ手を置く。指に、木の縁が当たった。痛かった。
俺は、奥の部屋を見た。イリヤが屈んでいた。肩から落ちた白い髪を、耳にかけ直している。彼女の前に、細い手があった。俺がさっき、取った手だった。
ここにいる。火の中から、生きて出てきた人が。自分がどうなりたいのか、俺にはまだ何も話してくれていない人が。
目から涙が落ち、情けないと思うより先に、もう一つ落ちた。目を拭こうとして、手を上げられなかった。
「……でも、それを願うことは、出来ない」
言峰の目が、止まった。
「出来ぬ理由を訊いているのではない。望むかと――」
「だから、俺は、それを望まない」
言い直した。うまく息を吸えず、少し間が空いた。
「あの火があってよかったなんて、思ってない。誰も死ななければよかった。……今だって、そう思ってる」
木の縁を、握った。
「けど、だからって、その後まで全部、無かったことには出来ない」
言峰は黙っていた。
胸に浮かんだものを、一つずつ、言葉にしていった。
「俺を捜してくれた人がいた。助けようとして、手を伸ばしてくれた人がいたんだ」
あの顔を、思い出した。何も持っていない俺を見つけて、見つかったと喜んでくれた人。それだけのことを、何度思い出しただろう。切嗣が死んだ後も、あの時の顔は残っていた。
「その人が、苦しかったことも。助けられて、嬉しかったことも。俺に何かを教えようとしてくれたことも」
声が切れた。
言峰の語った切嗣を、知らない。どれだけ人を殺したのか。何を捨てて、どんな顔で戻ってきたのか。それを聞いた今も、俺を救ったことまで間違いだったとは思えなかった。あの手は、ここまで届いていた。
「俺が苦しいからって、最初から何もなかったことにするのは……嫌だ」
息を吐いた。
「置いてきたものを、なかったことにはしたくない」
誰かが泣いた。誰かが、それを見ていた。泣いた人が立ち上がるまで、待った人もいたのだろう。俺が知らないところで、そうして過ぎた日がある。
それを、俺が知らないというだけで。俺が覚えていたくないというだけで。消してしまう願いを、自分のものには出来なかった。
「苦痛が残ると分かっていてもか」
言峰の問いに頷いた。それで胸が楽になるわけではなかった。
「忘れたら、助けてもらったことまで分からなくなる」
喉が痛い。それでも、言った。
「俺は、あの人に助けてもらった自分でいたい」
言峰の顔を見た。
「その先で、何をするかを考えたい」
*
しばらく、誰も話さなかった。水の音は、変わらず続いていた。
奥にいる人たちが、俺の答えをどう思うのかは分からない。俺は、その人たちの声を聞いていない。だから、頷いてもらえたと思うことも出来なかった。
顔を上げると、言峰はまだこちらを見ていた。
「そうか」
やがて、それだけ言った。肯定された気はしなかった。
「それで、あちらの者たちはどうする。おまえには引き受ける過去があった。それを守れば、十分か」
「違う」
今度は、すぐに答えた。
「あの人たちは、生きてる」
俺は奥を見た。イリヤが顔を上げていた。
「ここにいるんだ。だから、今からでも出来ることがあるなら、やる」
「元の暮らしには戻れぬかもしれんぞ」
「さっき聞いた」
言峰へ向き直った。
「それでも、ここに置いたままにはしたくない。おまえも、引き受けたことをやってくれ」
神父は笑いもせず、俺を見下ろしていた。こちらが言葉を変えるのを、待つように。俺は、目を逸らさなかった。
「……約束は変わらん」
言峰が言った。俺は、ようやく木の縁から手を離した。指が、うまく開かなかった。
*
「シロウ」
セイバーが、階段のそばからこちらを見ていた。
「それでも、戻りたいと思ったことは、あるのですね」
俺は、少しだけ目を伏せた。
「あるよ。何度も」
セイバーの唇が動いた。続く言葉はなかった。彼女は自分の手へ目を落とした。細い指が一度閉じ、また開く。
「……そうですか」
それだけ答えた。
俺は、何か訊き返そうとした。セイバーが顔を上げる。目が合ったが、すぐには話せなかった。
少し離れたところで、アーチャーが壁へ背を預けていた。右の袖を押さえた手は、そのままだった。いつからこちらを見ていたのか、分からない。あいつは何も言わなかった。
イリヤが、部屋から戻ってきた。
「……大丈夫か」
訊くと、彼女は奥を振り返った。
「今は落ち着いているわ。さっきの続きは、あとで神父にしてもらう」
「そうか」
俺が頷くと、イリヤは俺の顔を見て、何も言わずに手を伸ばした。指先が頬へ触れ、目の下を一度拭う。
「自分で、出来る」
「うん」
そう返事をしたイリヤは、すぐには手を引かなかった。俺も、避けなかった。指が離れてから、息を吸う。
泣いていたのを、みんなに見られた。今更、何もなかったような顔は出来そうになかった。
「……まだ、聞いてないことがある」
俺は言った。イリヤが頷き、俺の隣へ戻る。言峰は、待っていた。
*
「聖杯に入ったものを、分ける方法だ」
俺は訊いた。
「今のままじゃ、望んだようには使えないんだろ。だったら、汚れているところだけ取り除けないのか」
言峰は、すぐには答えなかった。
遠坂が、俺の横へ来た。
「アンリマユとして取り込まれたものと、大聖杯の仕組みを分けられるか、ということよ。儀式そのものまで失わずに済む方法はないの」
そうだ、と頷く。
「不可能だ」
言峰が答えた。あまりに短かった。俺は、息を止めた。
「……どうして、そう言い切れる」
「それが外から付着した汚れなら、洗い落とすという考えも成り立つだろう。だが、アンリマユを取り込んだことで、聖杯の力そのものが方向を持った。おまえたちは、その状態から、都合のよい力だけを取り出そうとしている」
「力だけ使えればいいって、言ってるんじゃない。分けられるかどうかを」
「同じことだ。中身を変えたものを取り去り、元の働きだけを残す。私には、そのような処置が可能とは思えん」
言峰が間違っていると、言いたかった。さっきは、自分の望みを辿ればよかった。だが、聖杯のどこをどうすればいいのか。俺には説明出来なかった。
「器を替えるだけでは、済まないということね」
遠坂が言った。イリヤが、彼女を見た。
「前の戦争でも、器を用意したのはアインツベルンよ」
声は静かだった。
「家は、そのために用意していたの」
「そして、その時にも聖杯は既に汚れていた」
言峰が続けた。
「新しい器へ受ければ、中身まで新しくなるわけではない。おまえたちの望む分離とは、別の話だ」
イリヤは答えなかった。遠坂も、少し考えてから頷いた。
「……そこは、分かったわ」
俺は、二人を見た。今朝、同じ紙を囲んで話していた。知らないことを聞いて、教えてもらって、ようやく、調べる先が見えたと思った。そこへ立ってみると、また何も見えなくなる。
「本当に、方法は知らないんだな」
言峰へ訊いた。
「知らん。知っている方法をおまえに渡すかどうか、迷っているわけではないぞ」
返事は、変わらなかった。こいつが隠しているだけなら、まだ何か言えた。教えろと怒鳴ることも。条件を聞くことも。だが、知らないと言われたところに、怒鳴って作れる答えはなかった。
「……そうか」
俺は言った。横で、イリヤの袖が動いた。そちらへ手を伸ばしかけて、止める。ここで、その先を話すつもりはなかった。
戦争が終わっても、ここで暮らしたい。今朝、そう言った声を、思い出していた。あの言葉を聞いた自分へ、言峰の返事をどう持ち帰ればいいのか。すぐには、分からなかった。
*
「帰ったら、もう一度確かめましょう」
遠坂が言った。言峰へ向けた声ではなかった。
「ここで聞けたことも含めて。分かっているところから、見直す必要があるわ」
イリヤは、少し間を置いて頷いた。
「ええ」
俺は二人の間へ顔を向けた。
「俺にも、教えてくれ」
言うと、遠坂が顔を向けた。
「聞いて、一緒に考えたい。分からないまま、出来るはずだって言っても、しょうがないから」
「そのつもりよ」
遠坂は答えた。
「だから、勝手に結論を出して、一人で走らないこと」
「……ああ」
俺は頷いた。言峰が、長椅子の背から手を離した。
「話は済んだか」
済んだ、と言える気はしなかった。切嗣のことも。火災のことも。地下にいる人たちのことも。聞いていないことが、まだ幾つもある。けれど、今ここで聞き続ければ全部が分かるわけではない。
俺は奥を見た。
「あの人たちの、名前を」
言峰が、こちらを見る。
「あとで教えてくれ。分かる分だけでも」
神父は、一度だけ奥へ目を向けた。
「救助の経過を知らせる時に、伝えよう」
遠坂が、言峰を見据えた。
「わたしも確認するわ」
「分かっている」
言峰は答え、部屋へ向かった。その背中から、目を離せなかった。
イリヤが、痛めた右手を避け、左手の指先へ触れた。
「シロウ」
顔を向ける。彼女の目は、俺を見ていた。
「少し、座って」
「でも」
「立っていないと聞けない話は、もうないでしょう」
言い返そうとして、自分の膝に力が入っていないことに気づいた。俺は頷き、長椅子の端へ腰を下ろした。木が、僅かに鳴った。
座ると、床が近くなった。靴の先に、乾いた泥がついている。前庭でつけたものだろう。ついさっき、あそこで戦っていた。ずいぶん前のことのようだった。
遠坂が桜のそばへ戻る。桜は顔を上げたが、何も言わなかった。膝の上で、掛け物の端を握っていた。イリヤが、桜の前へ屈んだ。
「サクラ。今、どこが一番つらい?」
桜の唇が少し動いたが、イリヤは急かさずに待っていた。
俺は、自分の手を開いた。右手にはまだ、剣を握っていた時の痛みが残っている。左手の指には、さっき触れたイリヤの温かさがあった。
奥で、水の落ちる音がした。今度は、その音のする方を向いたまま、次の呼吸が聞こえるのを待った。