Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第三十話 帰る場所

「……胸の、奥が」

 

 桜は小さな声で答え、膝に置いた手で掛け物の端を掴み直した。

 

「ずっとかどうかは、よく分からないんです。少し楽になったと思ったら、また……」

「うん。それでいいわ。今、感じていることを教えて」

 

 イリヤは、桜の前に屈んだまま答えた。桜が胸へ手を上げかける。途中で止まった指を、イリヤが取った。

 

「お腹も?」

「……はい。でも、さっきよりは」

 

 イリヤはその手を支え、しばらく黙っていた。

 

 俺は、長椅子の端に座っていた。桜の返事を聞いていると、腰が浮きそうになる。だが、近づいたところで、イリヤの邪魔になるだけだった。開いた右手を膝へ置き直した。

 

「息を吸うのは、苦しい?」

「大丈夫です」

「じゃあ、一度、ゆっくり」

 

 掛け物に覆われた肩が持ち上がり、下がる。桜は途中で目を伏せたが、息は最後まで続いた。イリヤが頷く。

 

「歩けそうでも、急には立たないでね。もう少し確かめたいから」

「……はい」

 

 遠坂はイリヤの手が空くのを待ち、ずれていた掛け物を直した。桜は、その端を自分の指で押さえた。

 

「処置が必要なら、こちらでも診られる」

 

 言峰の声がした。奥の部屋から出てきたところだった。片手に持った布を畳み、長椅子のそばまで来る。

 

「間桐の手が入った身体だ。苦痛が収まったように見えても、そのままで済むとは限らん」

「分かっているわ」

 

 イリヤが答えた。言峰は、彼女を見た後で桜へ目を向ける。

 

「私に診せるか。何が出来るかは、それからの話になるが」

 

 桜は顔を上げた。神父を見て、それから、イリヤの手元を見た。すぐには答えなかった。遠坂の唇が動きかけたが、声は出なかった。イリヤも、桜の指を支えたまま待っている。

 

「……わたしは」

 

 桜はそこまで言って、一度息を継いだ。

 

「帰りたいです」

 

 俺は顔を上げた。桜はこちらを見たが、すぐに言峰へ向き直った。

 

「先輩の家へ。イリヤさんに、続きを診てもらいたいです」

 

 掛け物を掴んでいた手に、力が入っていた。

 

 教会へ来た時も、俺たちは帰ろうと言った。桜は、帰れないと言った。あの老人がそばにいて、桜が顔を伏せたことを覚えている。俺たちはその言葉を聞いて、引き下がれなかった。

 

 今は、桜の声を聞き終わるまで待てた。

 

「ここでは、受けないのだな」

 

 言峰に確かめられて、桜は頷いた。

 

「はい。……お願いします。帰らせてください」

「私が拘束しているわけではない。診る者がいて、移動できるのなら、それでよかろう」

 

 神父は、イリヤを見た。

 

「連れていけるか」

「急がせなければ。戻ったら、すぐ横になってもらうわ」

 

 イリヤはそう答えてから、桜へ顔を戻した。

 

「途中でつらくなったら言って。ここで言ったからって、最後まで歩かなきゃいけないわけじゃないのよ」

 

 桜の口もとが、僅かに動いた。頷いたのを見て、イリヤは手を離した。

 

「シロウ」

 

 呼ばれる前に、俺は立っていた。今度は膝にも力が入る。

 

「ああ。帰ろう、桜」

 

 桜は俺を見た。

 

「……はい、先輩」

 

     *

 

 遠坂は桜の身体を支え、立ち上がるのを待った。イリヤは二人の足もとを見ている。桜は一歩踏み出し、少し間を置いて、もう一歩進んだ。

 

 セイバーが階段の方へ向かう。俺は、その前に壁際へ戻った。

 

 剣があった。床の薄い霜は、まだ消えていなかった。細い刀身が、白い縁の中に横たわっている。

 

 これを置いていくわけにはいかない。

 

 左手で柄を取った。持ち上げると、床に張りついていた霜が音もなく剝がれた。刃の下を、冷えた空気が流れる。

 

「それ、消せる?」

 

 遠坂が訊いた。俺は剣を見た。

 

「……消す方は、やったことがない」

 

 作った時のことなら、まだ覚えている。何を思い浮かべ、どこから形を辿ったのか。指に残った痛みと一緒に、頭の奥に残っていた。

 

 だが、その逆をすればいいのかと言われても、分からない。途切れさせれば消えるのか。壊すようなことになるのか。ここで試すには、近くに人が多すぎた。

 

「持って帰る。確かめるのは、その後にするよ」

「そうね。むき出しでは運べないけど」

 

 遠坂の視線が、刃の先へ下りた。

 

「布を借りるか」

「刃が当たらないようにする物も要るでしょう。包んでも、冷たさまでなくなるわけじゃないんだから」

 

 言峰は俺たちの話を聞き、上の物入れを顎で示した。

 

「板と布ならある。持っていけ」

 

 セイバーが取りに行ってくれた。借りた薄板で刃を両側から覆い、その上から布を巻く。右手で紐を引こうとしたら指が攣れ、結び目はセイバーに任せることになった。

 

 板の端が、白く曇った。冷気は、なくなっていない。セイバーはそれを確かめ、柄を握った。

 

「運ぶのは私が。シロウ、その手では途中で落としかねません」

「左なら持てる」

「階段では、手すりを使ってください」

 

 言い返しかけて、やめた。さっきまで座らされていたのは、俺だった。

 

「……頼む。身体には、近づけないでくれ」

「分かっています」

 

 セイバーは剣を身体から離し、階段へ向かった。

 

 俺は、奥の部屋へ目を戻した。開いた入口の向こうに、人の足が見える。イリヤが直した布が掛かっていた。

 

 ここを出て、桜を連れて帰る。そう決めても、足が止まった。

 

「綺礼。連絡は、わたしにも」

 

 遠坂が言った。

 

「処置も、その後のことも。こちらからも確認するわ」

「聞いている。何度も念を押さずともよい」

「押しておきたいのよ」

 

 言峰は、少しだけ目を細めた。俺は神父を見た。

 

「頼んだぞ」

「ああ」

 

 言峰は俺たちを見送らず、布を置いて奥の部屋へ戻っていった。その背中を、入口の向こうへ消えるまで見た。

 

 イリヤが、俺のそばへ来た。

 

「行こう、シロウ」

 

 俺は頷いた。

 

     *

 

 外へ出ると、風が頬に当たった。地下とは違う冷たさだった。

 

 息を吸い、吐く。教会の扉を出た先に、戦った跡が残っていた。

 

 桜が足を止め、遠坂も止まった。桜は前庭の一方を見つめている。

 

 俺は、そこで何があったのかを直接見ていない。遠坂から、ライダーが戻らないことを聞いた。桜の目は、その何もない場所から動かなかった。声をかけようとして、やめた。少しして、桜が顔を伏せる。

 

「……行けます」

 

 遠坂は頷いただけだった。

 

 先に歩き出すセイバーに、二人が続く。俺とイリヤも坂へ出た。アーチャーが最後になった。振り返ると、あいつは一度だけ教会を見ていた。右の袖には、まだ血の色が残っている。俺に気づき、顎を動かした。前を向け、と言われた気がした。

 

     *

 

 帰り道は、来た時より長かった。桜の歩幅に合わせて、坂を下りる。少し先を行くセイバーが、時々こちらを確かめた。包んだ剣は、道の外側へ向けられている。

 

 桜は、遠坂の腕に添えた手を離していなかった。途中で、その手の位置が少し変わる。

 

「姉さん」

「なに。つらい?」

「……もう少し、ゆっくり」

 

 遠坂は歩調を緩めた。

 

「ごめん」

「はい」

 

 俺は、二人の後ろ姿を見た。呼ぶ方も、呼ばれた方も、その呼び方を直そうとしない。

 

「……気になりますか、先輩」

 

 桜が少しだけ顔を向けたので、俺は慌てて目を上げた。

 

「いや。悪い、じろじろ見て」

「いいんです。急に、あんな呼び方をしたから」

 

 桜に目を向けられ、遠坂が息を吐いた。

 

「話すって言ったものね」

「無理に、今じゃなくてもいいぞ」

「全部を今話すつもりはないわ。……けど、何も言わないままっていうのも、変でしょう」

 

 遠坂は、前を向いたまま続けた。

 

「わたしたちは、生まれた時は同じ家にいた。桜は、遠坂から間桐へ養子に出されたの」

 

 俺は黙って聞いた。名字が違うのだから、そういうことなのだろうとは考えた。けれど、実際に聞くと、その間にある時間の長さが気になった。

 

「小さい時にか」

「ええ。十一年前」

 

 十一年。俺が切嗣の家へ来るより、前のことだった。

 

「間桐では、魔術を継げる子供が生まれなくなっていた。遠坂には、素質のある子供が二人いた」

 

 遠坂の声は、いつもの説明の仕方に近かった。だが、桜の腕を支える手は、さっきより動かなくなっていた。

 

「魔術師の家は、一人に継がせるの。長く積み上げてきたものを、二人に分けて同じように渡すことは出来ないから」

「だから、桜が?」

「父が決めたことよ。わたしが残って、桜が間桐へ行った」

 

 桜は、道を見ていた。

 

「家同士の取り決めもあった。向こうの後継者になる子に、こちらから無闇に会いに行かないようにって」

「……同じ町にいるのにか」

「そうよ」

 

 遠坂は答えた。

 

「同じ町にいて、同じ学校に通うようになっても」

 

 俺は、学校で二人を見た時のことを思い出そうとした。すぐに浮かぶ場面は、なかった。

 

 遠坂は、桜のことを気にしていた。それは覚えている。俺の家に来ていることも、身体の具合も。だが、桜と二人でいるところを、俺はどれだけ見ただろう。

 

「……ずっと、守ってたのか。その取り決めを」

 

 訊いてから、少し強い声になったことに気づいた。遠坂は、言い返さなかった。

 

「それだけじゃないわ」

 

 少し間が空いた。

 

「そう決まったことだからって、わたしも、自分に言い聞かせていた。桜には桜の家があって、わたしが姉の顔をして入り込むものじゃないって」

 

 桜の足音が、一つ遅れた。

 

「それは、姉さんが決めたことですよね」

 

 静かな声だった。遠坂は立ち止まらなかった。けれど、返事は少し遅れた。

 

「……ええ」

「わたしには、聞かなかったです」

 

 遠坂の横顔が、見えた。唇を閉じ、それから開く。

 

「そうね」

 

 それ以上、すぐに言葉を続けなかった。桜も、続けて責めようとはしなかった。二人の足音だけが、少し揃わずに続いた。

 

「俺の家に来てることは、知ってたんだよな」

 

 俺が言うと、遠坂は頷いた。

 

「知っていたわ」

「じゃあ、学校で訊いてきたのも」

「気になっていたから」

 

 短い返事だった。桜が顔を上げた。

 

「先輩に、わたしのことを?」

「時々よ」

「……わたしに聞けば、よかったのに」

 

 遠坂は、桜を見た。

 

「ええ。そうすればよかった」

 

 俺が知っているのは、その途中から家へ来るようになった桜だ。学校での二人を思い返しても、空いた十一年は埋まらなかった。

 

「……家では、どうしてたんだ」

 

 口にしてから、桜の肩が少し固くなるのを見た。あの家。あの老人。身体の中に入れられた蟲。今聞いたことと、その全てが繋がりそうになって、先を急いだ。

 

「悪い。今、全部聞きたいってことじゃなくて」

 

 桜は、首を振った。

 

「……うまく、話せないと思います。今は」

「うん。それなら、今はいい」

 

 俺は答えた。桜が息を整えるのを待った。遠坂も、桜へ向き直る。

 

「わたしも、聞きたい。けど、今じゃなくていいわ」

 

 桜は、姉の顔を見ていた。

 

「あとで、やっぱり聞かないって言わないでくださいね」

「言わない」

 

 遠坂がすぐに答えると、桜は顔を伏せ、姉の袖を少しだけ掴み直した。

 

 イリヤが二人へ近づく。

 

「一度、休もうか。そこの端なら、座れるわ」

 

 桜は大丈夫と言いかけたが、遠坂の顔を見て、やめた。

 

「……少しだけ」

 

 セイバーも足を止める。俺たちは道を外れ、桜が腰を下ろすのを待った。

 

 アーチャーは、少し離れたところに立っていた。何も言わなかった。遠坂がそちらへ目を向けると、あいつは左手の指を一度動かし、首を振った。それが何についての返事なのか、俺には分からなかった。

 

 イリヤが桜の様子を見る。俺はその横で、家までの道を頭に浮かべた。

 

 坂を下りきれば、あとは。何度も歩いていた道だった。今日は、まだ少し長かった。

 

     *

 

 門が見えた時、桜の顔が上がった。俺も、つい歩調を速めかけた。振り返り、歩幅を戻す。

 

 門を開ける音に、家の中から足音がした。

 

「お帰りなさいませ」

 

 出てきたセラが、そこで言葉を止めた。俺たちを見て、桜を見て、それからイリヤへ顔を向ける。

 

「お嬢様」

「サクラを寝かせたいの。朝、用意してもらったところへ」

「はい。リズ」

 

 呼ばれる前に、リズが玄関へ来ていた。遠坂と反対側から、桜へ手を差し出す。

 

「段。気をつけて」

「……ありがとうございます」

 

 桜が靴を脱ぐ。足を上げた時、少し身体が傾いた。リズがその身体を支え、遠坂が肩を押さえる。桜は、二人に支えられたまま上がった。敷居を越えてから、振り返る。

 

「先輩」

「ん?」

 

 呼ばれて顔を上げた。桜は、玄関に立った俺を見ていた。

 

「……ただいま、です」

 

 ああ、と答えかけて、言い直した。

 

「おかえり、桜」

 

 桜は目を伏せた。遠坂の手を借りながら、廊下の奥へ歩いていく。

 

 セラが、俺たちの後ろを見た。何か訊こうとしたのが分かった。

 

「ライダーは、戻らない」

 

 俺は、小さく言った。セラの目が、桜の背中へ向く。

 

「……承知しました」

 

 それだけ答え、すぐにイリヤへ向き直った。

 

「必要なものをお申しつけください」

「前に使った道具と、きれいな布。お湯もお願い。リン、サクラを横にしてあげて」

 

 イリヤが靴を脱ぎながら言う。

 

「シロウは、まず剣を置いてきて。それを持ったまま、こっちへ来ないでね」

「分かってる」

 

 俺はセイバーを見た。彼女はまだ、玄関の外にいた。剣を覆った板の縁に、白い粒が残っている。

 

「こっちだ。土蔵なら、置くところを作れる」

 

     *

 

 土蔵の戸を開けると、いつもの匂いがした。金属と、木と、古い油。

 

 俺は入口近くの箱を動かした。中身が軽いものを選び、左手と膝で押して、土間を空ける。

 

「そこへ置くんじゃなくて、少し待ってくれ」

 

 棚の下から、余っていた煉瓦を二つ出した。間を空けて並べ、周囲の紙や布を遠ざける。セイバーが膝をつき、紐をほどいた。板と布を外すと、冷たい空気が手首を撫でた。刃へ触れた板の内側が、薄く凍っていた。

 

 剣を、煉瓦の上へ横たえる。煉瓦で柄と刃の平を支え、刃先が他のものに当たっていないことを確かめた。

 

「……ひとまず、ここなら」

 

 俺は手を引いた。

 

 金属の色が、暗い土蔵の中でも見えた。城で見た時には、近づくことも出来なかった剣。それが、自分の家にある。名前も、知らないままだった。何処から来て、誰が使ったものなのか。確かめたいことが浮かんだが、剣へ手を伸ばすのはやめた。

 

「冷気が広がるようなら、場所を変えましょう」

 

 セイバーが言った。

 

「私も後で確かめます。今は、桜のところへ」

「ああ。セラたちにも、ここに置いたって言っておく」

 

 戸を閉めた。鍵をかけ、戸を引いて確かめる。鍵は、セイバーへ渡した。

 

 家へ戻ると、アーチャーは縁側に腰を下ろしていた。右の袖をずらしている。傷口を見ていた遠坂が、俺に顔を向けた。

 

「剣は?」

「土蔵。刃に触らず置けるようにした。まだ冷たいから、誰も入れないようにする」

「分かった。そっちも、あとで見ましょう」

 

 遠坂はアーチャーへ目を戻した。

 

「左手は、どう?」

「先ほどよりは動く。今すぐ弓を引けと言われなければ、文句はない」

「言わないわよ」

 

 言いながら、遠坂は彼の左手の指が開くのを見た。アーチャーが、こちらへ目を向ける。

 

「何だ。順番待ちか」

「いや。……おまえも、休んでろよ」

「おまえに言われるとはな」

 

 声はいつも通りだったが、あいつは立ち上がろうとはしなかった。セイバーが、家の外へ目を向ける。

 

「周りを見てきます。終わったら、私も戻ります」

 

 遠坂が頷いた。俺は、桜のいる部屋へ向かった。

 

     *

 

 枕と畳まれた掛け布団は、朝のまま用意されていた。桜はその脇に座り、自分の肩から落ちた掛け物を畳もうとしていた。

 

「それは、わたしがやるから」

 

 遠坂が後ろから入ってきて、手を伸ばす。

 

「……このくらいは」

「座る時、痛そうだったでしょう。先に横になって」

 

 桜は布を持ったまま姉を見て、それから手を離した。

 

「畳むだけですからね」

「分かってるわよ。捨てたりしない」

 

 遠坂は受け取った布を、膝の上で静かに畳んだ。桜が横になる。リズが枕を直し、イリヤが掛け布団をかけた。

 

「シロウ。そこの道具、台の上へ置いて」

 

 呼ばれて、俺はセラが運んできた箱を台の上へ移した。蓋を開け、中の布をどける。見覚えのあるものも、何に使うのか分からないものもあった。イリヤはその中から、幾つか選んで手元へ置いた。

 

「サクラ。前に診たところも、もう一度確かめるわ。痛みが変わったら、すぐ言ってね」

「はい」

「我慢できるかどうかじゃなくて、変わったかどうか。そこは、わたしに教えてほしいの」

 

 桜は、少し考えてから頷いた。

 

 イリヤが手を取り、指先から手首へと辿っていく。途中で細い指が止まり、赤い目が僅かに細くなった。何かを確かめて、先へ進む。

 

「……ここは?」

「そこは、あまり。でも、今、奥が少し」

「うん。分かった」

 

 イリヤは手を止め、桜が息を吐くのを待ってから、触れる場所を変えた。遠坂は、畳み終えた布を脇へ置いていた。

 

「イリヤ。わたしは?」

「こっちへ来て。先に、今どこまで触れられるか見たいの」

 

 遠坂が、イリヤの隣に座る。二人の会話が小さくなった。俺には、途中からついていけなかった。魔術回路と、身体の傷。別々に話しているようで、一つを動かせば、もう一つへ影響があるらしい。

 

 イリヤは何度か頷き、桜へ向き直った。

 

「取り除けそうなものはあるわ。傷んでいるところも、手を入れられる。全部を一度に元通りにすることは出来ないけど、今より楽にはしたい」

 

 桜がイリヤを見る。

 

「……お願いします」

 

 イリヤは頷いた。

 

「じゃあ、始めるね」

 

 セラが、俺のそばへ来た。

 

「エミヤ様。こちらは、わたくしたちで」

 

 俺は顔を上げた。桜の着替えが、畳んで持ってこられていた。

 

「……ああ。外にいる。何か要ったら呼んでくれ」

 

 立ち上がると、桜がこちらを見た。

 

「先輩」

「うん?」

「……どこかへ、行くんですか」

 

 俺は首を振った。

 

「家にいるよ。何かあったら、呼んでくれ」

 

 桜は、小さく頷いた。

 

「……そうですか」

 

 桜は一度目を閉じ、イリヤに呼ばれて、そちらへ顔を向けた。俺は、部屋を出た。

 

     *

 

 襖が閉まる。しばらく、その前に立っていた。中から、布を動かす音がする。イリヤの声。桜の、短い返事。

 

 俺は、廊下を離れた。

 

 台所へ行くと、使った器が伏せられていた。朝、ここを出る前に片づけたものだった。まだ同じ日なのだと、妙なところで気づく。

 

 戸棚を開け、湯呑みを出した。一つずつ、左手で並べる。右手で二つ持とうとすれば、滑らせるだろう。それくらいは、もう認めるしかなかった。

 

 手を洗った時、指の間に残っていた土が落ちた。水が、流れていく。地下の部屋が浮かんだ。細い手と、顎を伝った水。次の息を待つ間。

 

 言峰は、今もあそこにいる。俺は、ここに戻ってきた。

 

 蛇口を閉めた。この家には、桜がいて、イリヤがいる。俺は湯呑みの数を確かめ、お湯を沸かした。

 

 途中でセラが出てきた。

 

「お湯、もう少し要るか」

「そちらは足りています。きれいな布を、もう二枚いただけますか」

「ああ」

 

 言われたものを取って渡す。桜はどうだ、と訊きかけたが、セラは俺の顔を見て先に答えた。

 

「お嬢様が、処置を続けていらっしゃいます」

 

 俺は頷いた。セラは、俺の右手を見た。

 

「重いものは、リズにお申しつけください」

「分かった。お茶くらいなら、こぼさないよ」

「でしたら、ご自分の分もお忘れなく」

 

 そう言って、戻っていった。俺は湯呑みを見た。人の分から数えていたので、自分のものは、まだ戸棚に入っていた。

 

     *

 

 お茶が冷めかけた頃、襖の開く音に顔を上げると、イリヤが出てきた。袖を直しながら、こちらを見つける。

 

「シロウ。入っていいわ」

 

 立ち上がる時、膝が少し固かった。俺は湯呑みを置き、部屋へ向かった。

 

 桜は目を開けたまま、布団に横たわっていた。それを見て、言葉より先に息が出た。

 

「……桜」

 

 呼ぶと、顔がこちらへ向く。

 

「先輩」

 

 さっきより声が通っていた。枕元に座ると、掛け布団の上にある桜の手が見えた。ずっと握っていた指が、今は少し開いている。

 

「どうだ」

 

 それだけ訊くので、精一杯だった。桜は、すぐには答えなかった。一度息を吸い、胸へ目を落とす。

 

「……さっきより、楽です」

 

 言ってから、もう一度、ゆっくり息をした。

 

「ずっと、力を入れてないといけない感じがしてたんですけど。今は、少し……」

 

 肩が、布団へ沈む。

 

「力を抜いても、大丈夫みたいです」

 

 桜は指を一度曲げて、開いた。俺も、掛け布団の上のその手を見ていた。

 

「そっか」

 

 俺は言った。声が、思ったより小さくなった。

 

「……よかった」

 

 イリヤが、俺のそばに座った。

 

「身体から離せるものを、いくらか取り除いたわ。傷んでいたところも、そのままにしておくよりはよくなっている」

 

 俺はイリヤを見た。彼女は、桜の手に軽く触れた。

 

「でも、残っているものもある。身体の働きに食い込んでしまったところは、同じようには取れないの」

 

 桜は、その説明を聞いていた。俺も頷いた。

 

「無理に取ったら、桜の方まで傷つくってことか」

「ええ。今、楽になったからって、そこまでなくなったわけじゃない。さっき説明したこと、覚えている?」

 

 イリヤが桜へ訊く。

 

「はい。変わったら、すぐに言います。……我慢できても」

「そう。起こしてくれていいからね」

 

 桜は頷いた。遠坂が、水の入った湯呑みを持った。

 

「少し飲む?」

 

 桜の返事を待ち、身体を支える。一口飲んで、桜は湯呑みから唇を離した。

 

「もう少し、欲しいです」

 

 遠坂は湯呑みを傾け直した。俺は、二人を見ていた。桜が飲み終わるまで、誰も次の話をしなかった。

 

     *

 

「眠れそう?」

 

 イリヤが訊くと、桜は少し目を伏せた。

 

「……眠い、です」

 

 自分でも不思議そうな声だった。遠坂が、枕を直す。桜は布団へ戻り、部屋の入口へ目を向けた。その唇が、動いた。

 

「ライ……」

 

 途中で、止まった。俺は、動けなかった。桜の目は、開いた襖の方にあった。そこには、誰も立っていなかった。

 

「……すみません」

 

 桜が言う。遠坂は、湯呑みを置いた。

 

「謝らなくていいわ」

 

 桜は答えなかった。唇を閉じたまま、目の縁だけが赤くなっていく。

 

 何か言わなければ。そう思っても、ライダーの最期の言葉を、俺は聞いていなかった。

 

 イリヤも、黙っていた。

 

 桜の指が、掛け布団の上を動く。遠坂はその近くへ、自分の手を置いた。掴ませようとはしなかった。桜が、少しずつ指を伸ばした。

 

「姉さん」

「うん」

 

 声が、いつもより柔らかかった。

 

「ここに、いてくれますか」

 

 遠坂は頷いた。

 

「いるわ」

「……眠るまで」

「ええ」

 

 桜が目を閉じると、溜まっていた涙が一つ、こめかみの方へ流れた。遠坂は空いている手で布を取り、涙の跡へ当てる。桜は、その間も姉の指を離さなかった。

 

 俺は立ち上がった。イリヤも、ゆっくり腰を上げる。襖の前で、遠坂がこちらを見た。

 

「あとは、わたしが見てる」

「何かあったら、呼んで」

 

 イリヤが答えた。遠坂は頷いた。俺たちは部屋を出た。襖を閉める直前に、桜の声がした。

 

「……姉さん」

「ここよ」

 

 俺は、音を立てないように手を離した。

 

     *

 

 廊下で息を吐き、イリヤは立ち止まった。

 

「イリヤ」

 

 呼ぶと、イリヤが顔を上げる。

 

「ありがとう」

 

 赤い目が、俺を見た。

 

「桜、楽になったって言ってた。帰ってきた時より、ちゃんと息が出来てた」

 

 イリヤは、閉じた襖を見た。

 

「……まだ、残っているわ」

「うん。聞いた」

 

 俺もそちらを見た。

 

「それでも、今は眠れるんだろ。さっきまで、ずっと痛そうだったから」

 

 イリヤは黙っていた。やがて、頷く。

 

「そうね。今は、休めると思う」

 

 その返事を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。廊下の向こうから、セラが来る。

 

「お嬢様。後片づけはこちらで。お休みください」

「あとで、取ったものを確かめたいの。触らないようにしておいて」

「承知しております。リズにも伝えてあります」

 

 イリヤが頷いた。セラの目が俺へ動く。

 

「エミヤ様も」

 

 後片づけを手伝う、と言いかけていた俺は口を閉じた。

 

「……分かった」

 

 セラが通り過ぎてから、イリヤが俺を見上げる。

 

「何か言おうとしてたでしょう」

「イリヤだって、まだ働くつもりだったじゃないか」

「確かめるのは、あとでよ」

「なら、俺もあとでにする」

 

 イリヤは少しだけ目を細めたが、叱らなかった。

 

「お茶、ある?」

「淹れた。……少し、冷めたけど」

「それでいいわ」

 

 俺たちは、居間へ向かった。セイバーが戻ってきて、土蔵の様子を教えてくれた。剣を置いた辺りに霜がついているだけで、今のところ周囲へ広がってはいないという。俺は礼を言い、あとで一緒に確かめると答えた。

 

 アーチャーが座っていた縁側は空いていた。休めるところへ行ったのだろう。イリヤが腰を下ろす。俺は湯呑みを取ろうとして、右手を止めた。左手で取ろうとすると、先にイリヤの手が伸びてきた。

 

「わたしの分は、自分で取るから」

「……ああ」

 

 彼女は湯呑みを両手で持ち、一口飲んだ。熱すぎないのを確かめたように、もう一口。俺も自分の湯呑みを取った。

 

 家の中で、足音がした。セラとリズが、使ったものを片づけている。遠坂は桜のところにいる。セイバーも戻ってきた。

 

 ここへ戻らなかった人がいる。まだ、あの地下にいる人たちもいる。それを思い出したまま、俺はお茶を飲んだ。苦味が、口の中に残った。

 

「シロウ」

 

 イリヤが呼んだ。顔を向けると、彼女は隣の畳へ目を落とした。

 

「もう少し、こっち」

 

 俺は湯呑みを置き、座り直した。膝の横で、袖が触れた。イリヤは何も言わず、そのままお茶を飲んでいた。俺も、すぐには話しかけなかった。

 

 今日は、何度もこの手を借りた。今は隣にいて、その手が、湯呑みを包んでいる。俺はもう一度湯呑みを持ち上げ、イリヤと同じように、少しずつ飲んだ。

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