Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
「……胸の、奥が」
桜は小さな声で答え、膝に置いた手で掛け物の端を掴み直した。
「ずっとかどうかは、よく分からないんです。少し楽になったと思ったら、また……」
「うん。それでいいわ。今、感じていることを教えて」
イリヤは、桜の前に屈んだまま答えた。桜が胸へ手を上げかける。途中で止まった指を、イリヤが取った。
「お腹も?」
「……はい。でも、さっきよりは」
イリヤはその手を支え、しばらく黙っていた。
俺は、長椅子の端に座っていた。桜の返事を聞いていると、腰が浮きそうになる。だが、近づいたところで、イリヤの邪魔になるだけだった。開いた右手を膝へ置き直した。
「息を吸うのは、苦しい?」
「大丈夫です」
「じゃあ、一度、ゆっくり」
掛け物に覆われた肩が持ち上がり、下がる。桜は途中で目を伏せたが、息は最後まで続いた。イリヤが頷く。
「歩けそうでも、急には立たないでね。もう少し確かめたいから」
「……はい」
遠坂はイリヤの手が空くのを待ち、ずれていた掛け物を直した。桜は、その端を自分の指で押さえた。
「処置が必要なら、こちらでも診られる」
言峰の声がした。奥の部屋から出てきたところだった。片手に持った布を畳み、長椅子のそばまで来る。
「間桐の手が入った身体だ。苦痛が収まったように見えても、そのままで済むとは限らん」
「分かっているわ」
イリヤが答えた。言峰は、彼女を見た後で桜へ目を向ける。
「私に診せるか。何が出来るかは、それからの話になるが」
桜は顔を上げた。神父を見て、それから、イリヤの手元を見た。すぐには答えなかった。遠坂の唇が動きかけたが、声は出なかった。イリヤも、桜の指を支えたまま待っている。
「……わたしは」
桜はそこまで言って、一度息を継いだ。
「帰りたいです」
俺は顔を上げた。桜はこちらを見たが、すぐに言峰へ向き直った。
「先輩の家へ。イリヤさんに、続きを診てもらいたいです」
掛け物を掴んでいた手に、力が入っていた。
教会へ来た時も、俺たちは帰ろうと言った。桜は、帰れないと言った。あの老人がそばにいて、桜が顔を伏せたことを覚えている。俺たちはその言葉を聞いて、引き下がれなかった。
今は、桜の声を聞き終わるまで待てた。
「ここでは、受けないのだな」
言峰に確かめられて、桜は頷いた。
「はい。……お願いします。帰らせてください」
「私が拘束しているわけではない。診る者がいて、移動できるのなら、それでよかろう」
神父は、イリヤを見た。
「連れていけるか」
「急がせなければ。戻ったら、すぐ横になってもらうわ」
イリヤはそう答えてから、桜へ顔を戻した。
「途中でつらくなったら言って。ここで言ったからって、最後まで歩かなきゃいけないわけじゃないのよ」
桜の口もとが、僅かに動いた。頷いたのを見て、イリヤは手を離した。
「シロウ」
呼ばれる前に、俺は立っていた。今度は膝にも力が入る。
「ああ。帰ろう、桜」
桜は俺を見た。
「……はい、先輩」
*
遠坂は桜の身体を支え、立ち上がるのを待った。イリヤは二人の足もとを見ている。桜は一歩踏み出し、少し間を置いて、もう一歩進んだ。
セイバーが階段の方へ向かう。俺は、その前に壁際へ戻った。
剣があった。床の薄い霜は、まだ消えていなかった。細い刀身が、白い縁の中に横たわっている。
これを置いていくわけにはいかない。
左手で柄を取った。持ち上げると、床に張りついていた霜が音もなく剝がれた。刃の下を、冷えた空気が流れる。
「それ、消せる?」
遠坂が訊いた。俺は剣を見た。
「……消す方は、やったことがない」
作った時のことなら、まだ覚えている。何を思い浮かべ、どこから形を辿ったのか。指に残った痛みと一緒に、頭の奥に残っていた。
だが、その逆をすればいいのかと言われても、分からない。途切れさせれば消えるのか。壊すようなことになるのか。ここで試すには、近くに人が多すぎた。
「持って帰る。確かめるのは、その後にするよ」
「そうね。むき出しでは運べないけど」
遠坂の視線が、刃の先へ下りた。
「布を借りるか」
「刃が当たらないようにする物も要るでしょう。包んでも、冷たさまでなくなるわけじゃないんだから」
言峰は俺たちの話を聞き、上の物入れを顎で示した。
「板と布ならある。持っていけ」
セイバーが取りに行ってくれた。借りた薄板で刃を両側から覆い、その上から布を巻く。右手で紐を引こうとしたら指が攣れ、結び目はセイバーに任せることになった。
板の端が、白く曇った。冷気は、なくなっていない。セイバーはそれを確かめ、柄を握った。
「運ぶのは私が。シロウ、その手では途中で落としかねません」
「左なら持てる」
「階段では、手すりを使ってください」
言い返しかけて、やめた。さっきまで座らされていたのは、俺だった。
「……頼む。身体には、近づけないでくれ」
「分かっています」
セイバーは剣を身体から離し、階段へ向かった。
俺は、奥の部屋へ目を戻した。開いた入口の向こうに、人の足が見える。イリヤが直した布が掛かっていた。
ここを出て、桜を連れて帰る。そう決めても、足が止まった。
「綺礼。連絡は、わたしにも」
遠坂が言った。
「処置も、その後のことも。こちらからも確認するわ」
「聞いている。何度も念を押さずともよい」
「押しておきたいのよ」
言峰は、少しだけ目を細めた。俺は神父を見た。
「頼んだぞ」
「ああ」
言峰は俺たちを見送らず、布を置いて奥の部屋へ戻っていった。その背中を、入口の向こうへ消えるまで見た。
イリヤが、俺のそばへ来た。
「行こう、シロウ」
俺は頷いた。
*
外へ出ると、風が頬に当たった。地下とは違う冷たさだった。
息を吸い、吐く。教会の扉を出た先に、戦った跡が残っていた。
桜が足を止め、遠坂も止まった。桜は前庭の一方を見つめている。
俺は、そこで何があったのかを直接見ていない。遠坂から、ライダーが戻らないことを聞いた。桜の目は、その何もない場所から動かなかった。声をかけようとして、やめた。少しして、桜が顔を伏せる。
「……行けます」
遠坂は頷いただけだった。
先に歩き出すセイバーに、二人が続く。俺とイリヤも坂へ出た。アーチャーが最後になった。振り返ると、あいつは一度だけ教会を見ていた。右の袖には、まだ血の色が残っている。俺に気づき、顎を動かした。前を向け、と言われた気がした。
*
帰り道は、来た時より長かった。桜の歩幅に合わせて、坂を下りる。少し先を行くセイバーが、時々こちらを確かめた。包んだ剣は、道の外側へ向けられている。
桜は、遠坂の腕に添えた手を離していなかった。途中で、その手の位置が少し変わる。
「姉さん」
「なに。つらい?」
「……もう少し、ゆっくり」
遠坂は歩調を緩めた。
「ごめん」
「はい」
俺は、二人の後ろ姿を見た。呼ぶ方も、呼ばれた方も、その呼び方を直そうとしない。
「……気になりますか、先輩」
桜が少しだけ顔を向けたので、俺は慌てて目を上げた。
「いや。悪い、じろじろ見て」
「いいんです。急に、あんな呼び方をしたから」
桜に目を向けられ、遠坂が息を吐いた。
「話すって言ったものね」
「無理に、今じゃなくてもいいぞ」
「全部を今話すつもりはないわ。……けど、何も言わないままっていうのも、変でしょう」
遠坂は、前を向いたまま続けた。
「わたしたちは、生まれた時は同じ家にいた。桜は、遠坂から間桐へ養子に出されたの」
俺は黙って聞いた。名字が違うのだから、そういうことなのだろうとは考えた。けれど、実際に聞くと、その間にある時間の長さが気になった。
「小さい時にか」
「ええ。十一年前」
十一年。俺が切嗣の家へ来るより、前のことだった。
「間桐では、魔術を継げる子供が生まれなくなっていた。遠坂には、素質のある子供が二人いた」
遠坂の声は、いつもの説明の仕方に近かった。だが、桜の腕を支える手は、さっきより動かなくなっていた。
「魔術師の家は、一人に継がせるの。長く積み上げてきたものを、二人に分けて同じように渡すことは出来ないから」
「だから、桜が?」
「父が決めたことよ。わたしが残って、桜が間桐へ行った」
桜は、道を見ていた。
「家同士の取り決めもあった。向こうの後継者になる子に、こちらから無闇に会いに行かないようにって」
「……同じ町にいるのにか」
「そうよ」
遠坂は答えた。
「同じ町にいて、同じ学校に通うようになっても」
俺は、学校で二人を見た時のことを思い出そうとした。すぐに浮かぶ場面は、なかった。
遠坂は、桜のことを気にしていた。それは覚えている。俺の家に来ていることも、身体の具合も。だが、桜と二人でいるところを、俺はどれだけ見ただろう。
「……ずっと、守ってたのか。その取り決めを」
訊いてから、少し強い声になったことに気づいた。遠坂は、言い返さなかった。
「それだけじゃないわ」
少し間が空いた。
「そう決まったことだからって、わたしも、自分に言い聞かせていた。桜には桜の家があって、わたしが姉の顔をして入り込むものじゃないって」
桜の足音が、一つ遅れた。
「それは、姉さんが決めたことですよね」
静かな声だった。遠坂は立ち止まらなかった。けれど、返事は少し遅れた。
「……ええ」
「わたしには、聞かなかったです」
遠坂の横顔が、見えた。唇を閉じ、それから開く。
「そうね」
それ以上、すぐに言葉を続けなかった。桜も、続けて責めようとはしなかった。二人の足音だけが、少し揃わずに続いた。
「俺の家に来てることは、知ってたんだよな」
俺が言うと、遠坂は頷いた。
「知っていたわ」
「じゃあ、学校で訊いてきたのも」
「気になっていたから」
短い返事だった。桜が顔を上げた。
「先輩に、わたしのことを?」
「時々よ」
「……わたしに聞けば、よかったのに」
遠坂は、桜を見た。
「ええ。そうすればよかった」
俺が知っているのは、その途中から家へ来るようになった桜だ。学校での二人を思い返しても、空いた十一年は埋まらなかった。
「……家では、どうしてたんだ」
口にしてから、桜の肩が少し固くなるのを見た。あの家。あの老人。身体の中に入れられた蟲。今聞いたことと、その全てが繋がりそうになって、先を急いだ。
「悪い。今、全部聞きたいってことじゃなくて」
桜は、首を振った。
「……うまく、話せないと思います。今は」
「うん。それなら、今はいい」
俺は答えた。桜が息を整えるのを待った。遠坂も、桜へ向き直る。
「わたしも、聞きたい。けど、今じゃなくていいわ」
桜は、姉の顔を見ていた。
「あとで、やっぱり聞かないって言わないでくださいね」
「言わない」
遠坂がすぐに答えると、桜は顔を伏せ、姉の袖を少しだけ掴み直した。
イリヤが二人へ近づく。
「一度、休もうか。そこの端なら、座れるわ」
桜は大丈夫と言いかけたが、遠坂の顔を見て、やめた。
「……少しだけ」
セイバーも足を止める。俺たちは道を外れ、桜が腰を下ろすのを待った。
アーチャーは、少し離れたところに立っていた。何も言わなかった。遠坂がそちらへ目を向けると、あいつは左手の指を一度動かし、首を振った。それが何についての返事なのか、俺には分からなかった。
イリヤが桜の様子を見る。俺はその横で、家までの道を頭に浮かべた。
坂を下りきれば、あとは。何度も歩いていた道だった。今日は、まだ少し長かった。
*
門が見えた時、桜の顔が上がった。俺も、つい歩調を速めかけた。振り返り、歩幅を戻す。
門を開ける音に、家の中から足音がした。
「お帰りなさいませ」
出てきたセラが、そこで言葉を止めた。俺たちを見て、桜を見て、それからイリヤへ顔を向ける。
「お嬢様」
「サクラを寝かせたいの。朝、用意してもらったところへ」
「はい。リズ」
呼ばれる前に、リズが玄関へ来ていた。遠坂と反対側から、桜へ手を差し出す。
「段。気をつけて」
「……ありがとうございます」
桜が靴を脱ぐ。足を上げた時、少し身体が傾いた。リズがその身体を支え、遠坂が肩を押さえる。桜は、二人に支えられたまま上がった。敷居を越えてから、振り返る。
「先輩」
「ん?」
呼ばれて顔を上げた。桜は、玄関に立った俺を見ていた。
「……ただいま、です」
ああ、と答えかけて、言い直した。
「おかえり、桜」
桜は目を伏せた。遠坂の手を借りながら、廊下の奥へ歩いていく。
セラが、俺たちの後ろを見た。何か訊こうとしたのが分かった。
「ライダーは、戻らない」
俺は、小さく言った。セラの目が、桜の背中へ向く。
「……承知しました」
それだけ答え、すぐにイリヤへ向き直った。
「必要なものをお申しつけください」
「前に使った道具と、きれいな布。お湯もお願い。リン、サクラを横にしてあげて」
イリヤが靴を脱ぎながら言う。
「シロウは、まず剣を置いてきて。それを持ったまま、こっちへ来ないでね」
「分かってる」
俺はセイバーを見た。彼女はまだ、玄関の外にいた。剣を覆った板の縁に、白い粒が残っている。
「こっちだ。土蔵なら、置くところを作れる」
*
土蔵の戸を開けると、いつもの匂いがした。金属と、木と、古い油。
俺は入口近くの箱を動かした。中身が軽いものを選び、左手と膝で押して、土間を空ける。
「そこへ置くんじゃなくて、少し待ってくれ」
棚の下から、余っていた煉瓦を二つ出した。間を空けて並べ、周囲の紙や布を遠ざける。セイバーが膝をつき、紐をほどいた。板と布を外すと、冷たい空気が手首を撫でた。刃へ触れた板の内側が、薄く凍っていた。
剣を、煉瓦の上へ横たえる。煉瓦で柄と刃の平を支え、刃先が他のものに当たっていないことを確かめた。
「……ひとまず、ここなら」
俺は手を引いた。
金属の色が、暗い土蔵の中でも見えた。城で見た時には、近づくことも出来なかった剣。それが、自分の家にある。名前も、知らないままだった。何処から来て、誰が使ったものなのか。確かめたいことが浮かんだが、剣へ手を伸ばすのはやめた。
「冷気が広がるようなら、場所を変えましょう」
セイバーが言った。
「私も後で確かめます。今は、桜のところへ」
「ああ。セラたちにも、ここに置いたって言っておく」
戸を閉めた。鍵をかけ、戸を引いて確かめる。鍵は、セイバーへ渡した。
家へ戻ると、アーチャーは縁側に腰を下ろしていた。右の袖をずらしている。傷口を見ていた遠坂が、俺に顔を向けた。
「剣は?」
「土蔵。刃に触らず置けるようにした。まだ冷たいから、誰も入れないようにする」
「分かった。そっちも、あとで見ましょう」
遠坂はアーチャーへ目を戻した。
「左手は、どう?」
「先ほどよりは動く。今すぐ弓を引けと言われなければ、文句はない」
「言わないわよ」
言いながら、遠坂は彼の左手の指が開くのを見た。アーチャーが、こちらへ目を向ける。
「何だ。順番待ちか」
「いや。……おまえも、休んでろよ」
「おまえに言われるとはな」
声はいつも通りだったが、あいつは立ち上がろうとはしなかった。セイバーが、家の外へ目を向ける。
「周りを見てきます。終わったら、私も戻ります」
遠坂が頷いた。俺は、桜のいる部屋へ向かった。
*
枕と畳まれた掛け布団は、朝のまま用意されていた。桜はその脇に座り、自分の肩から落ちた掛け物を畳もうとしていた。
「それは、わたしがやるから」
遠坂が後ろから入ってきて、手を伸ばす。
「……このくらいは」
「座る時、痛そうだったでしょう。先に横になって」
桜は布を持ったまま姉を見て、それから手を離した。
「畳むだけですからね」
「分かってるわよ。捨てたりしない」
遠坂は受け取った布を、膝の上で静かに畳んだ。桜が横になる。リズが枕を直し、イリヤが掛け布団をかけた。
「シロウ。そこの道具、台の上へ置いて」
呼ばれて、俺はセラが運んできた箱を台の上へ移した。蓋を開け、中の布をどける。見覚えのあるものも、何に使うのか分からないものもあった。イリヤはその中から、幾つか選んで手元へ置いた。
「サクラ。前に診たところも、もう一度確かめるわ。痛みが変わったら、すぐ言ってね」
「はい」
「我慢できるかどうかじゃなくて、変わったかどうか。そこは、わたしに教えてほしいの」
桜は、少し考えてから頷いた。
イリヤが手を取り、指先から手首へと辿っていく。途中で細い指が止まり、赤い目が僅かに細くなった。何かを確かめて、先へ進む。
「……ここは?」
「そこは、あまり。でも、今、奥が少し」
「うん。分かった」
イリヤは手を止め、桜が息を吐くのを待ってから、触れる場所を変えた。遠坂は、畳み終えた布を脇へ置いていた。
「イリヤ。わたしは?」
「こっちへ来て。先に、今どこまで触れられるか見たいの」
遠坂が、イリヤの隣に座る。二人の会話が小さくなった。俺には、途中からついていけなかった。魔術回路と、身体の傷。別々に話しているようで、一つを動かせば、もう一つへ影響があるらしい。
イリヤは何度か頷き、桜へ向き直った。
「取り除けそうなものはあるわ。傷んでいるところも、手を入れられる。全部を一度に元通りにすることは出来ないけど、今より楽にはしたい」
桜がイリヤを見る。
「……お願いします」
イリヤは頷いた。
「じゃあ、始めるね」
セラが、俺のそばへ来た。
「エミヤ様。こちらは、わたくしたちで」
俺は顔を上げた。桜の着替えが、畳んで持ってこられていた。
「……ああ。外にいる。何か要ったら呼んでくれ」
立ち上がると、桜がこちらを見た。
「先輩」
「うん?」
「……どこかへ、行くんですか」
俺は首を振った。
「家にいるよ。何かあったら、呼んでくれ」
桜は、小さく頷いた。
「……そうですか」
桜は一度目を閉じ、イリヤに呼ばれて、そちらへ顔を向けた。俺は、部屋を出た。
*
襖が閉まる。しばらく、その前に立っていた。中から、布を動かす音がする。イリヤの声。桜の、短い返事。
俺は、廊下を離れた。
台所へ行くと、使った器が伏せられていた。朝、ここを出る前に片づけたものだった。まだ同じ日なのだと、妙なところで気づく。
戸棚を開け、湯呑みを出した。一つずつ、左手で並べる。右手で二つ持とうとすれば、滑らせるだろう。それくらいは、もう認めるしかなかった。
手を洗った時、指の間に残っていた土が落ちた。水が、流れていく。地下の部屋が浮かんだ。細い手と、顎を伝った水。次の息を待つ間。
言峰は、今もあそこにいる。俺は、ここに戻ってきた。
蛇口を閉めた。この家には、桜がいて、イリヤがいる。俺は湯呑みの数を確かめ、お湯を沸かした。
途中でセラが出てきた。
「お湯、もう少し要るか」
「そちらは足りています。きれいな布を、もう二枚いただけますか」
「ああ」
言われたものを取って渡す。桜はどうだ、と訊きかけたが、セラは俺の顔を見て先に答えた。
「お嬢様が、処置を続けていらっしゃいます」
俺は頷いた。セラは、俺の右手を見た。
「重いものは、リズにお申しつけください」
「分かった。お茶くらいなら、こぼさないよ」
「でしたら、ご自分の分もお忘れなく」
そう言って、戻っていった。俺は湯呑みを見た。人の分から数えていたので、自分のものは、まだ戸棚に入っていた。
*
お茶が冷めかけた頃、襖の開く音に顔を上げると、イリヤが出てきた。袖を直しながら、こちらを見つける。
「シロウ。入っていいわ」
立ち上がる時、膝が少し固かった。俺は湯呑みを置き、部屋へ向かった。
桜は目を開けたまま、布団に横たわっていた。それを見て、言葉より先に息が出た。
「……桜」
呼ぶと、顔がこちらへ向く。
「先輩」
さっきより声が通っていた。枕元に座ると、掛け布団の上にある桜の手が見えた。ずっと握っていた指が、今は少し開いている。
「どうだ」
それだけ訊くので、精一杯だった。桜は、すぐには答えなかった。一度息を吸い、胸へ目を落とす。
「……さっきより、楽です」
言ってから、もう一度、ゆっくり息をした。
「ずっと、力を入れてないといけない感じがしてたんですけど。今は、少し……」
肩が、布団へ沈む。
「力を抜いても、大丈夫みたいです」
桜は指を一度曲げて、開いた。俺も、掛け布団の上のその手を見ていた。
「そっか」
俺は言った。声が、思ったより小さくなった。
「……よかった」
イリヤが、俺のそばに座った。
「身体から離せるものを、いくらか取り除いたわ。傷んでいたところも、そのままにしておくよりはよくなっている」
俺はイリヤを見た。彼女は、桜の手に軽く触れた。
「でも、残っているものもある。身体の働きに食い込んでしまったところは、同じようには取れないの」
桜は、その説明を聞いていた。俺も頷いた。
「無理に取ったら、桜の方まで傷つくってことか」
「ええ。今、楽になったからって、そこまでなくなったわけじゃない。さっき説明したこと、覚えている?」
イリヤが桜へ訊く。
「はい。変わったら、すぐに言います。……我慢できても」
「そう。起こしてくれていいからね」
桜は頷いた。遠坂が、水の入った湯呑みを持った。
「少し飲む?」
桜の返事を待ち、身体を支える。一口飲んで、桜は湯呑みから唇を離した。
「もう少し、欲しいです」
遠坂は湯呑みを傾け直した。俺は、二人を見ていた。桜が飲み終わるまで、誰も次の話をしなかった。
*
「眠れそう?」
イリヤが訊くと、桜は少し目を伏せた。
「……眠い、です」
自分でも不思議そうな声だった。遠坂が、枕を直す。桜は布団へ戻り、部屋の入口へ目を向けた。その唇が、動いた。
「ライ……」
途中で、止まった。俺は、動けなかった。桜の目は、開いた襖の方にあった。そこには、誰も立っていなかった。
「……すみません」
桜が言う。遠坂は、湯呑みを置いた。
「謝らなくていいわ」
桜は答えなかった。唇を閉じたまま、目の縁だけが赤くなっていく。
何か言わなければ。そう思っても、ライダーの最期の言葉を、俺は聞いていなかった。
イリヤも、黙っていた。
桜の指が、掛け布団の上を動く。遠坂はその近くへ、自分の手を置いた。掴ませようとはしなかった。桜が、少しずつ指を伸ばした。
「姉さん」
「うん」
声が、いつもより柔らかかった。
「ここに、いてくれますか」
遠坂は頷いた。
「いるわ」
「……眠るまで」
「ええ」
桜が目を閉じると、溜まっていた涙が一つ、こめかみの方へ流れた。遠坂は空いている手で布を取り、涙の跡へ当てる。桜は、その間も姉の指を離さなかった。
俺は立ち上がった。イリヤも、ゆっくり腰を上げる。襖の前で、遠坂がこちらを見た。
「あとは、わたしが見てる」
「何かあったら、呼んで」
イリヤが答えた。遠坂は頷いた。俺たちは部屋を出た。襖を閉める直前に、桜の声がした。
「……姉さん」
「ここよ」
俺は、音を立てないように手を離した。
*
廊下で息を吐き、イリヤは立ち止まった。
「イリヤ」
呼ぶと、イリヤが顔を上げる。
「ありがとう」
赤い目が、俺を見た。
「桜、楽になったって言ってた。帰ってきた時より、ちゃんと息が出来てた」
イリヤは、閉じた襖を見た。
「……まだ、残っているわ」
「うん。聞いた」
俺もそちらを見た。
「それでも、今は眠れるんだろ。さっきまで、ずっと痛そうだったから」
イリヤは黙っていた。やがて、頷く。
「そうね。今は、休めると思う」
その返事を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。廊下の向こうから、セラが来る。
「お嬢様。後片づけはこちらで。お休みください」
「あとで、取ったものを確かめたいの。触らないようにしておいて」
「承知しております。リズにも伝えてあります」
イリヤが頷いた。セラの目が俺へ動く。
「エミヤ様も」
後片づけを手伝う、と言いかけていた俺は口を閉じた。
「……分かった」
セラが通り過ぎてから、イリヤが俺を見上げる。
「何か言おうとしてたでしょう」
「イリヤだって、まだ働くつもりだったじゃないか」
「確かめるのは、あとでよ」
「なら、俺もあとでにする」
イリヤは少しだけ目を細めたが、叱らなかった。
「お茶、ある?」
「淹れた。……少し、冷めたけど」
「それでいいわ」
俺たちは、居間へ向かった。セイバーが戻ってきて、土蔵の様子を教えてくれた。剣を置いた辺りに霜がついているだけで、今のところ周囲へ広がってはいないという。俺は礼を言い、あとで一緒に確かめると答えた。
アーチャーが座っていた縁側は空いていた。休めるところへ行ったのだろう。イリヤが腰を下ろす。俺は湯呑みを取ろうとして、右手を止めた。左手で取ろうとすると、先にイリヤの手が伸びてきた。
「わたしの分は、自分で取るから」
「……ああ」
彼女は湯呑みを両手で持ち、一口飲んだ。熱すぎないのを確かめたように、もう一口。俺も自分の湯呑みを取った。
家の中で、足音がした。セラとリズが、使ったものを片づけている。遠坂は桜のところにいる。セイバーも戻ってきた。
ここへ戻らなかった人がいる。まだ、あの地下にいる人たちもいる。それを思い出したまま、俺はお茶を飲んだ。苦味が、口の中に残った。
「シロウ」
イリヤが呼んだ。顔を向けると、彼女は隣の畳へ目を落とした。
「もう少し、こっち」
俺は湯呑みを置き、座り直した。膝の横で、袖が触れた。イリヤは何も言わず、そのままお茶を飲んでいた。俺も、すぐには話しかけなかった。
今日は、何度もこの手を借りた。今は隣にいて、その手が、湯呑みを包んでいる。俺はもう一度湯呑みを持ち上げ、イリヤと同じように、少しずつ飲んだ。