Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
湯呑みの底に、少しだけ茶が残っていた。傾けると、冷めた苦味が舌に広がる。飲み終えた俺の隣で、イリヤも湯呑みを覗き込んでいた。
「……最後の方、苦いのね」
「濃く出すぎたか。淹れ直そうか」
「今はいいわ。シロウも、やっと座ったところでしょう」
そう言って、彼女は両手で器を包み直した。
湯呑みを置いた後も、袖の触れる距離に座っていた。イリヤも、離れなかった。
廊下で食器の触れ合う音がして顔を向けると、セラが盆を持って立っていた。
「お嬢様、少しでもお召し上がりください。お休みになる前に」
盆の上には、汁椀と小さく握った飯が並んでいた。切り分けた卵焼きもある。匂いを嗅いでから、腹が空いていたことに気づいた。胸の辺りに詰まっていたものが、急に場所を空けたようだった。
「悪い。そこまでやってもらって」
「台所をお借りしました。重いものはリズに運んでもらっています」
「遠坂たちは」
「桜様が落ち着いていらっしゃるので、凛様にもお声をかけます。皆様の分はございます」
俺は頷いた。イリヤが盆を見て、それから俺を見る。
「よかったわね、シロウ」
「うん。助かった」
「自分のお茶は忘れても、ごはんは用意してもらえたもの」
思わずセラを見ると、彼女は何も言わずに椀を置いた。
「……食べるよ。ちゃんと」
「そうしてください」
セラが下がると、俺たちは手を合わせた。
左手で、握り飯を一つ取る。右手は膝に置いたままだった。箸を持つには、まだ指の動きが怪しい。誰かに指摘される前に、小皿を近くへ寄せた。
一口食べると、塩が利いていた。噛んでいると飯の甘さが出てきて、思っていたよりも早く、次の一口が欲しくなった。
イリヤは汁椀を持ち、少し冷ましてから口をつけた。熱かったのか、一度口から離す。それから、もう一度。
「どうだ」
「おいしいわ。シロウが作ったんじゃないけど」
「分かってるよ」
笑いかけて、俺も汁を飲んだ。隣で、箸が小皿に触れた。
朝、出かける前に言ったことを思い出した。帰ってきたら、また一緒に食べよう。あの時には、教会で桜に会えることも、あんな戦いになることも知らなかった。こうして戻って、用意された飯を食べるところまでは、思い描いていたはずなのに。実際に隣で椀を持っているイリヤを見ると、しばらく目を離せなかった。
「なに?」
気づいた彼女が、顔を向ける。
「いや。……帰ってきたんだなと思って」
「さっき、シロウが門を開けたでしょう」
「そうなんだけどさ」
うまく説明できず、握り飯を見た。イリヤも、少しだけ黙った。
「隣、空けておいてくれたものね」
顔を上げると、彼女はもう食事へ目を戻していた。
「ああ」
俺も答えて、残りを食べた。途中で、遠坂が廊下へ出てきた。こちらを見て、足を止める。
「食べられてるなら、そのまま食べて。桜は眠ったわ」
イリヤが箸を置きかけた。
「息は?」
「落ち着いてる。痛がって起きたりもしてない」
「そう。変わったら呼んでね」
「分かってるわよ。あんたも、ちゃんと休みなさい」
遠坂は言って、台所の方へ行った。すぐにセラと話す声が聞こえた。イリヤが、置きかけた箸を持ち直す。
俺は椀を置いた。家の中には、まだすることが残っていた。教会からの連絡も待たなくてはいけない。それでも今は、食べている途中で立たずにいられた。
*
食器の載った盆を持って立とうとすると、セラが先に手を伸ばした。
「こちらへ」
「これくらいは運べるぞ」
「先ほどから、これくらいのことをお探しですね」
言い返せずにいると、イリヤが横で笑った。
「ほら。シロウの考えることなんて、お見通しなのよ」
「お嬢様もです。取り除いたものは保管してありますから、今すぐ確認なさらなくても結構です」
今度はイリヤが黙った。俺は、横を見た。
「……何よ」
「いや。何も」
セラは二人分の食器を盆へ戻し、立ち上がった。
「必要になりましたら、お呼びします。お二人とも、しばらくお休みください」
廊下へ出ると、セイバーと会った。
「シロウ。休むのですか」
「ああ。剣は、起きてからでもいいか。さっき、一緒に確かめるって言ったけど」
「構いません。土蔵の鍵は私が預かっています。変化があれば知らせます」
「頼む。……セイバーも、休める時に休んでくれよ」
「はい。私も無理はしません」
頷くと、イリヤが俺の袖に触れた。
「シロウ」
「ん?」
振り向くと、イリヤは廊下の先へ目をやっていた。
「お部屋、行ってもいい?」
「俺の?」
「ほかに誰がいるのよ」
少し呆れたように言ってから、彼女は目を伏せた。
「……もう少し、話したいの」
袖を掴むほどの力は入っていなかった。触れた指を、引こうとしているようにも見えた。
「俺も、そう思ってた」
言うと、イリヤが顔を上げた。
「でも、眠いんじゃないかって」
「シロウだって眠そうよ」
「それは、そうだけど。まだ、一緒にいたい」
そこまで言ってから、セイバーがすぐそばにいることを思い出した。彼女は何も言わなかった。ただ、俺たちが通れるように、少しだけ脇へ寄った。
イリヤの指が、袖から俺の左手へ移る。
「じゃあ、決まりね」
……今のは、聞かなかったことにしてくれると助かる。セイバーの方を見られないまま、俺は繋いだ手を離さず、先に歩き出した。
*
部屋へ入っても、すぐには座らなかった。畳んだ寝具と机、置いたままの本へ目をやる。本は揃っているし、畳にも物は落ちていない。
……いや、別に、何か片づけなくちゃいけないわけじゃないんだが。
「落ち着かないの?」
イリヤに訊かれ、振り返る。
「いや。座布団、出すよ」
「うん」
二つ出して並べると、イリヤはすぐに座った。俺も隣へ腰を下ろす。さっきまでは平気だった距離が、自分の部屋へ来た途端、少し気になった。
繋いでいた手を離し、左手を膝に置く。イリヤは、その手を見ていた。
「右、まだ痛い?」
「動かすと。じっとしてれば、そんなには」
「そんなには、ね」
彼女が手を差し出したので、俺は右手を少し上げた。イリヤは手首の下を支え、指の動きを見ていた。俺が途中で止めると、そっと膝へ戻してくれる。
「今は使わないで。さっきより動くかどうか、何度も試さなくていいから」
「そんなに試してたか」
「見てたわ」
即答だった。帰り道でも、湯呑みを出す時でも、俺は何度か指を曲げていた。元のように動けば、気がかりが一つ減る気がしたのだ。イリヤの指が離れる。
「……剣を作れた時、嬉しかった?」
思っていなかったことを訊かれた。俺は、膝に置かれた自分の手を見た。形になった刃。握った柄の重さ。あの時は、出来たことを喜ぶ余裕なんてなかった。次に何をするかで、頭がいっぱいだった。
「嬉しいっていうか、間に合ったと思った。何も持ってないままじゃ、どうしようもなかったから」
「うん」
「それで、使えた。イリヤも手を貸してくれたし」
イリヤは頷いたが、笑わなかった。
「わたしも、間に合ってよかったと思ったわ」
彼女の視線は、まだ俺の右手にあった。
「でも、持てたら、それで安心していいわけじゃないのね」
分かってる、と口を開きかけたが、顔を上げたイリヤの目を見て、言葉を飲み込んだ。
「……怖かったか」
彼女は、少しだけ眉を寄せた。
「シロウは?」
「怖かったよ」
今なら、すぐに答えられた。
「どう動けばいいか、分からなくなる時があった。考えてる間にも、向こうは動くし。止まってるわけにもいかないし」
うまくやれたところだけを思い出せば、話は簡単だった。だが、剣を握っても、どこへ足を置けばいいのかは分からなかった。自分が届くより先に、誰かが傷つくかもしれなかった。
「イリヤがすぐそばにいたから、余計に」
言った途端、イリヤの目が少し細くなった。
「わたしがいたら、邪魔?」
「違う。そうじゃない。イリヤがいなかったら、俺はもっと何も出来なかった」
慌てて言い直した。
「ただ、手が届くところにいるのに、間に合わなかったらって思った」
イリヤは、黙っていた。俺もそれ以上、すぐには言えなかった。自分の手が震えていることは、戦いが終わってから知った。握ったままのものを離すのにも、時間がかかった。
隣にいるイリヤを見る。
「……わたしも、そばにいたのよ」
彼女が言った。
「シロウが何かしようとするの、見てた。こっちを気にしてくれるのも、分かった。でも、見ている間に、シロウの方が倒れてしまうかもしれないでしょう」
声は、静かだった。
「わたしが間に合わないことだって、あるもの」
もうそんなことにはならない。そう言ってしまいたかったが、俺があの剣を使ったのは今日が初めてだった。
「……うん」
俺は頷いた。
「自分がどうなってるか、俺よりイリヤの方が見えてた時もあったと思う」
「今だって、そうよ」
少しだけ、いつもの調子が戻った。俺は苦笑した。
「今は、俺にも分かる。右手は痛いし、足も重い」
「だから、休んでいるんでしょう」
「ああ」
答えて左手を動かし、膝の横に置かれたイリヤの手へ、自分から触れた。
「一緒に帰ってこられて、よかった」
イリヤは俺を見て、それから指を握り返した。
「……うん」
短い返事を聞いて、俺はようやく息を吐いた。
*
しばらく、二人とも話さなかった。廊下を誰かが通る。俺は、ついそちらへ目をやった。足音は部屋の前を通り過ぎ、そのまま遠くなっていった。イリヤの指が、俺の指を軽く引く。
「呼ばれてないわよ」
「……ああ」
「何かあったら、呼んでくれるもの」
俺は頷いた。分かっている。遠坂もセラも、そう言っていた。それでも、静かになると音を探してしまった。何もしていない間に、何かが起きてしまう気がしていた。
「さっき、居間で座っててさ」
イリヤへ顔を戻した。
「もっとこっちって言っただろ。あれ、嬉しかった」
「……そうなの?」
「うん。俺も、そうしたかったから」
口に出すと、頬が熱くなった。隣に座るくらい、朝から何度もしている。なのに、近くへ来てほしいと言われると、こんなことで喜んでしまう。
「だったら、シロウから来ればよかったのに」
「それは、まあ、そうなんだけど」
「わたしが何も言わなかったら、ずっとあそこにいたの?」
考えてみる。黙ってお茶を飲み終えて、器を片づける。誰かに用がないか確かめて、また、あとで話そうと思う。たぶん、そんなふうになっていた。
「……そうしてたかもしれない」
「もう」
イリヤは呆れた声を出したが、繋いだ手はそのままだった。
「わたし、待ってあげない時もあるんだからね」
「うん。今度は、俺から行く」
「今度?」
イリヤがこちらを見る。返事を考える前に、俺は座布団を少し寄せた。膝が触れそうになる。彼女は動かなかった。近くなった顔を見てから、その目を見続けるのが急に難しくなった。
「これでいいか」
「わたしに訊くの?」
その言い方が、少しだけ意地悪だった。俺は息を吸った。
「俺は、ここがいい」
イリヤの口もとが緩んだ。
「うん」
それだけ言って彼女もこちらへ寄り、肩が触れた。握っていた指をほどき、左腕を彼女の肩へ回しかけて、止まった。イリヤは俺の手を見て、顔を上げた。
「……いいのに」
小さく言われて、俺はその肩へ手を回した。引き寄せるより先に、イリヤの方から近づいてきた。服を掴まれ、背中へ腕が回る。俺も左腕に力を込めた。右手は、膝に置いたままにした。
「そっちは、使っちゃ駄目よ」
「分かってる」
「本当に?」
「今、触ってるのは左だろ」
「うん。それならいいわ」
声が、すぐそばで聞こえた。こんなに近くにいるのに、さっきまで考えていた言葉が出てこなかった。イリヤも、すぐには話さなかった。俺の服を掴んだ指だけが、少しずつ力を強めた。
「……疲れたわね」
やがて、彼女が言った。
「ああ」
俺は答えた。口にすると、自分がどれほど疲れているかが分かった。朝からずっと、次にすることを考えていた。知っていることを聞き、知らないことを尋ね、間に合うように動こうとした。休む時にも、その後で何をするかが頭にあった。
イリヤを抱きしめたまま、何も言わずにいられた。彼女が、俺の背中を一度だけ撫でた。
「シロウ、肩、固い」
「……そうか?」
「うん。わたし、逃げたりしないよ」
少し力を抜いた。腕を緩めても、イリヤは離れなかった。それを確かめてから、俺は彼女の名前を呼んだ。
「イリヤ」
「なに?」
顔が上がる。その目を見て、俺は言った。
「好きだ」
イリヤが、瞬きをした。
「……知ってるわ」
少し遅れて、返事があった。だが、からかう声にはならなかった。言った彼女の方が目を伏せ、それからもう一度、俺を見た。
「わたしも、シロウが好き」
聞いていたはずのことだった。それなのに、胸の奥で、何かがゆっくりほどけていった。抱きしめていた腕を少し緩める。顔が見えるだけの隙間が出来た。イリヤは俺の服を掴んだまま、笑おうとして、少し困ったような顔になった。
「おかしいわね。言うだけなら、もっと簡単だと思ってたのに」
「俺も、そう思う」
「シロウは、元から下手でしょう」
「自分も困ってたくせに、俺だけ下手ってことにするなよ」
言い返すと、今度はちゃんと笑った。俺もつられて笑うと、イリヤは額を俺の肩へ預けた。
「……一人で休んだら、また考えてしまいそうだったの」
その声は、少し低くなっていた。
「今朝、話したこと?」
「うん」
俺は黙った。身体のことを説明していたイリヤは、よく知っていることを話す時の顔をしていた。俺が驚いて、言葉をなくしている間も、必要なことを教えてくれた。あの声を思い出しながら、腕の中のイリヤが話し始めるのを待った。
「シロウと、いろんな話が出来るようになったでしょう」
イリヤは、ゆっくり続けた。
「だから、言えると思ったの。知らないままにしておくのも、嫌だったし」
「うん」
「でも、話したら、シロウまで怖い顔になっちゃった」
俺は、目を閉じかけた。何か方法はないのかと、何度も訊いた。イリヤが今まで何も考えてこなかったかのように、思いついたことを口にした。
「……ひどい顔、してたんだろうな」
「してたわ」
返事は早かった。
「今だって、時々そうなる。わたしの顔を見てるのに、ずっと遠くを見ているみたいになるの」
俺は、彼女の肩に置いた手を動かした。
「先のことを考えると、何かしなきゃって思う。ここでこうしてていいのかって」
口に出してから、首を振った。
「でも、今、一緒にいられるのは嬉しい。それも、本当なんだ」
「……うん」
イリヤが顔を上げる。
「わたしも、嬉しい」
イリヤは俺の肩から少し離れ、背中に回していた手を下ろした。けれど、すぐ隣へ座り直しただけだった。
「怖い話をしたら、その後ずっと怖い顔でいなくちゃいけないのかと思ってた」
「そんなことはないだろ」
「なら、シロウもやめてね」
思わず口を閉じた。イリヤが、少し得意そうに笑う。
「わたしも一緒に考えるわ。でも、そればっかりはいや。シロウと、楽しい話だってしたいもの」
俺は頷いた。
「イリヤが笑うと、俺は嬉しいよ」
言うと、イリヤの表情が止まった。今度は、俺が少しだけ笑えた。
「だから、今みたいに話してくれ。怒っててもいいけど」
「怒っててもいいの?」
「それは、時々にしてくれると助かる」
「ふうん。シロウ次第ね」
繋ぎ直した手を、軽く振られた。
「……今は、怒ってないわよ」
声を落として、イリヤが言う。
「分かる」
「本当に?」
俺は頷き、彼女の手を少しだけ握り返した。
*
障子の向こうで、風が庭の木を揺らしていた。
イリヤは俺の肩へ寄りかかり、庭の音を聞いていた。眠ったのかと思って顔を向けると、目は開いていた。
「眠い?」
「少し。でも、まだ平気」
「寝てもいいぞ」
「シロウこそ」
同じことを言い合って、二人とも黙った。やがて、イリヤが小さく笑った。
「困ったわね。二人とも、相手を寝かせようとしてる」
「どっちも疲れてるからな」
「そうね」
彼女は姿勢を直した。俺も、壁の方へ少し下がる。背中を預けると、腰に入っていた力が抜けた。イリヤが隣へ座り直す。
「今度、あのお茶じゃないのがいいわ」
急に言われて、顔を向けた。
「やっぱり苦かったか」
「だって、最後まで飲むと、もっと苦くなるんだもの」
「悪かった。次は薄く淹れるよ。それか、別のものを用意する」
「甘いのがいい」
「分かった」
頷くと、イリヤは俺の右手へ目を落とした。
「でも、その手がよくなってからでいいわ。今すぐ台所へ行かないでよ」
「行かないって」
「シロウは、言われるとすぐ用意するでしょう」
返す言葉がなかった。イリヤは、俺の顔を見て笑った。
「そういうところ、好きだけど」
何でもない調子で言われて、俺の方が困った。
「……急に言うなよ」
「シロウだって、さっき言ったわ」
「俺は、もうちょっと考えてから言った」
「じゃあ、わたしが考えてないみたいじゃない」
もっともだった。俺が謝る前に、イリヤがまた肩へ寄ってきた。
「今は、ここにいて」
今度は、迷わず頷けた。
「いるよ」
少しの間、庭の音を聞いた。何処かで戸が閉まる音がした。部屋の外から、セラに声をかけられた。返事をすると、掛け物を持って入ってくる。壁に背中を預けた俺たちと、畳んだままの寝具を見比べた。
「お休みになるのでしたら、お布団をお使いください」
立とうとした俺へ、セラが手を向けた。
「その手は使わずに。こちらで敷きますから」
イリヤが俺の手を離し、座布団を脇へ寄せた。俺も左手を畳について、少し場所を空ける。セラは寝具を広げ、持ってきた掛け物を添えた。
「ありがとう、セラ」
イリヤが言うと、セラは彼女を見てから、俺へ目を向けた。
「何か必要なものはございますか」
俺は、少し考えた。食器はセラが片づけてくれた。剣はセイバーに頼んだし、桜のそばには遠坂がいる。
「今は、大丈夫。何かあったら呼んでくれ」
「承知しました」
セラが下がった。俺たちは布団へ移って腰を下ろした。イリヤが掛け物の端を膝へ寄せる。
「話、出来た?」
訊くと、イリヤがこちらを見る。
「うん。でも、まだ話したいことはあるわ」
「何だよ」
「今から?」
眠そうな声で言われて、俺は笑った。
「起きてからでいい」
「忘れないでね」
「覚えとく」
「シロウも、寝るのよ」
「ああ。少し休む」
「わたしが寝たら、こっそり出ていかない?」
顔を向けた。イリヤは、からかうように笑った。けれど、俺が答えるまで、その目は逸れなかった。
「出ていかない。俺も、ここで休みたいから」
彼女は、ゆっくり頷いた。
「うん」
そのまま横になろうとした時、イリヤが俺の左手へ触れた。
「シロウ。寝る前に、もう一つだけ」
俺は動きを止めた。
「なに?」
「魔力のこと。わたしとシロウの間に、道を作っておけるわ」
イリヤは俺の左手を持ち上げた。開いた掌を見て、指を少し曲げさせる。その手つきが、さっきまでとは変わっていた。
「セイバーとの繋がりを直したのとは、別に?」
「ええ。あちらはシロウからセイバーへ届く道でしょう。今度は、わたしとシロウの回路を繋ぐの。どちらからも、相手へ渡せるように」
「俺からイリヤにも?」
「うん。一度だけ魔力を移すんじゃなくて、渡し合える道を残すのよ」
自分の魔力でセイバーを支える。魔術を使えば、自分も消耗する。今日、剣を作った後の疲れは、今も身体に残っていた。
「それが出来たら、助かる。でも、イリヤの方は?」
「渡せば、その分は使うわ。そこは二人とも同じ。今はわたしから少し渡して、シロウが受け取れるところを確かめる。その後で、シロウからも返してみて」
「今からやって、大丈夫なのか。桜を診て、疲れてるだろ」
「だから、繋がるところまで。今日は少しだけ流して確かめるの。わたしも、その後は休むわ」
そこでイリヤは、俺の右手を見た。
「剣を作って試すのは、なしよ」
「今は作らないって」
「うん。それなら、よろしい」
得意そうな返事に、俺も少し笑った。けれど、預けている左手へ目を戻すと、気にかかることが残った。
「……イリヤがつらくなっても、俺には分からないかもしれない」
「あら。シロウは、自分のことならすぐ平気って言うくせに」
顔を上げる。
「わたしだって、シロウが言ってくれないと分からないことはあるのよ」
何も言えなくなった。イリヤは責めるようには続けず、支えていた俺の手を軽く揺らした。
「わたしも言う。だからシロウも教えて。痛いとか、変だとか。大丈夫って決めてしまう前に」
「分かった。……頼む、イリヤ」
そう答えると、イリヤの口もとが緩んだ。
「うん。任せて」
俺たちは布団の上で、向かい合って座り直した。右手は膝へ置き、左手だけを彼女に預ける。イリヤは俺の手首の下へ自分の手を添え、もう片方の指で位置を確かめた。
「シロウが、ちゃんと頼んでくれるのは嬉しいわ」
「いつも頼ってるだろ。今日だって、ずっと」
「でも、頼った後で、悪かったって顔をするでしょう。わたしがしたくて、してあげてるのに」
思わず彼女を見る。
「今も?」
「少しね」
否定しようとして、やめた。無理をさせたくない、ということばかり考えていた。
「……助かるよ。いや、それだけじゃなくて。イリヤが手を貸してくれるのが、嬉しいんだ」
指の動きが止まった。
「そ。なら、その顔をしていて」
「どんな顔だよ」
「今の顔」
どんな顔をしているかなんて、自分では見えない。……まあ、イリヤが笑っているなら、悪い顔ではないんだろう。
「それじゃ、目を閉じて。今、使える回路を意識してくれる?」
頷いて息を整え、目を閉じると、庭の音が少し近くなった。手首の下には彼女の手がある。そこを確かめてから、意識を身体の内側へ向ける。今日、何度も動かしたところ。まだ使い慣れない回路の感覚を探り、その先へ力を通そうとした。
「待って。今は、魔術を作らないで」
手首を支える指に、軽く止められた。
「そこを、わたしにも確かめさせて。シロウは今の状態を保っていてくれればいいわ」
「……ああ」
息を吐き、入れかけた力を緩める。いつもなら、ここから先も自分で押し進める。形を思い描き、足りないところを探し、どうにかして届かせようとする。今日は、その手前で待った。
イリヤの指が手首の少し上へ移る。それに沿うように、自分では動かしていない感覚が、ごく浅いところを辿った。
「今、触れてるのか?」
「うん。受け渡しに使うところを探してるの。重くなるところがあったら教えて」
最初は、どこを見られているのか分からなかった。腕に触れる指の感触と、内側で起きていることを一緒に追おうとして、どちらも曖昧になる。
「悪い。今の、もう一度頼めるか。指の方に気を取られて、見失った」
「いいわよ。急がなくていいから」
同じ感覚がゆっくり戻ってきたが、今度は指の位置から考えようとしなかった。自分の回路へ意識を残したまま待つ。途中で、わずかに重くなるところがあった。
「そこ。今、少し引っかかった」
「ここね」
動きが止まった。イリヤが何かを確かめる間、俺はその場所を見失わないようにした。やがて重さが退き、その脇に、先ほどより細い感覚が触れた。
「そっちなら、平気だと思う」
「うん。ここから少しだけ通してみるわ」
彼女の指が、俺の手首へ短い線を描いた。小さな声で何かを唱える。言葉が途切れると、今まで触れていただけの力が、向こうから届き始めた。
自分で魔力を起こす時とは違う。力の出どころを探しても、俺の中にはなかった。イリヤが支えている左手の方から、細い流れが続いている。まだこちらへ馴染まず、接したところで小さく揺れていた。
「少し、押される感じがする」
「痛みは?」
「ない。でも、ここだけ狭いような……」
言いながら、そこを押し広げようとした。
「そのまま。無理に通そうとしないで」
声がすぐに届いた。力を抜くと、押される感覚も弱くなる。
「今、わたしの方を合わせるわ。変わったら教えて」
彼女の手が、俺の手首を支え直した。同時に、近づいていた魔力の流れ方が変わる。同じところを押していた力が、細く引かれ、少しずつこちらの回路に沿っていく。
「さっきより楽になった。まだ、少しだけ残ってるけど」
「どこに?」
感じたところを説明する。うまく言葉にならずに言い直しても、イリヤは待ってくれた。
もう一度、流れが変わった。引っかかっていた先へ、細い力が通る。痛みはなかった。途切れていた線の続きが見つかり、そのまま先を辿れるような感覚だった。
「……通った」
目を開けると、イリヤは俺の顔を見ていた。
「うん。まだ動かないでね。ここから、道を残すから」
彼女は手首へ添えた指を、そのままにした。もう片方の手が俺の掌を支え、逃げかける流れを、少しずつ同じところへ戻していく。
俺が意識を向けている間にも、線は細くなったり、脇へ逸れそうになったりした。そのたびにイリヤが調整する。俺は変化した場所を伝え、彼女の指が動くのを待った。
「シロウ、少し肩の力を抜いてみて」
言われた通りにすると、随分、身構えていたことが分かった。それでも流れは切れなかった。イリヤが短く言葉を結ぶ。手首へ触れていた指が止まった後も、同じ細さの力が、俺の回路へ続いていた。
「今度は、量を変えるわ」
届く魔力が、僅かに弱くなる。
「今、少なくなった」
「苦しくない?」
「平気だ」
少し待ってから、元の量へ戻る。道を探り直すような引っかかりは、もうなかった。俺がそれを伝えると、イリヤは頷いた。
「じゃあ、手を離すわね」
まず、手首に触れていた指が離れた。それから、下で支えていた手も。俺は左手を膝へ戻した。イリヤも両手を自分の膝へ置く。どこにも触れていないまま、何度か息をする。
流れは、残っていた。彼女の指がないところを、目で確かめる。思わず顔を上げると、イリヤが少し得意そうに笑った。
「分かるでしょう?」
「ああ。手を離しても、届いてる」
「うん。次は、シロウの番よ」
笑っていた顔が、また静かになる。
「わたしからの分は、いったん止めるわ。そのまま待っていて」
流れが細くなり、やがて届かなくなった。部屋まで静かになったような気がした。耳を澄ますと、庭の音は変わらず聞こえていた。
「今から、少しだけ魔力を起こして。さっきわたしの力が入ってきたところへ、渡してみてくれる?」
「今度は、俺から繋ぐんだな」
「ん、少し違うわ。道はもうあるでしょう。今度はシロウが、そこへ魔力を送るの。最初は少しだけよ」
俺は頷いた。手は膝に置いたまま、回路へ意識を向け直す。いつものように形を作ろうとはせず、自分の中で起こした小さな力を、さっきまで魔力を受け取っていたところへ導いた。
途中で、行き先が分からなくなる。力を足しかけて、やめた。いや、まず送り先だ。分からないまま増やしても、さっきと同じじゃないか。そこへ届くまでの感覚を、もう一度辿る。
「……この先か?」
「うん。わたしの方で受けるから。そのまま、少しずつ」
イリヤも、左手を開いていた。何かを掴むのを待つような、静かな手だった。彼女の方へ渡そうとすると、今まで自分の中にあった力が、細く抜けていった。
「届いたわ」
俺は顔を上げた。
「本当に?」
「うん。今、シロウが送ってくれてるの、分かる」
届いた。それなら、もう少し、と力を込めかけて、イリヤの目が細くなったところで止まる。
「増やさなくていいわ。今ので、ちゃんと分かってるから」
「……悪い」
「謝るより、少し減らしてみて」
言われた通りにする。流れを細くすると、彼女も頷いた。
「うん。今、変わった。じゃあ、そこでおしまい」
イリヤへ送る分を、ゆっくり絞る。自分の中から出ていく感覚が弱まり、やがて止まった。
「止まったぞ」
「こっちでも、分かったわ」
受け取っている時には、自分がどう感じたかを伝えた。今度は俺のしたことを、イリヤが言葉にして返してくれた。その返事を待つ間が、少し照れくさくて、嬉しかった。
「俺の魔力、そっちに届いたんだな」
「ええ。そんなに嬉しい? ……わたしもだけど」
イリヤはそう言って、自分の左手を俺へ見せた。俺も同じように掌を開く。触れなくても繋がっていることが、さっきよりよく分かった。
「これで、どちらからも渡せるわ。今はわたしから、少しだけね」
聞き終わる頃には、また細い力が届いていた。入り口を探していた時の揺れはなく、確かめた道を、そのまま通ってくる。
「分かる」
俺が言うと、イリヤはようやく肩の力を抜いた。俺も息を吐いた。右手はまだ痛いし、足の重さもなくなってはいない。だが、自分から送り出す感覚と、彼女から受け取る感覚を、今は別々に思い出せた。
「ありがとう、イリヤ」
「どういたしまして」
彼女は少し顎を上げた。よく出来た時の顔だった。
「わたし、教えるの上手でしょう」
「うん。分からないって言っても、ちゃんと待ってくれた」
「……そこなの?」
「そこも。俺一人だったら、また力を入れて、どうにかしようとしてたと思う」
イリヤは俺を見ていた。それから、得意そうだった顔を少し緩めた。
「それじゃ、次もちゃんと言うのよ」
「ああ。イリヤも、疲れたら言ってくれ」
「今は、眠いわ」
返事が早くて、笑ってしまった。
「分かった。寝よう」
そう言いながら、俺は左手を伸ばした。膝の上に戻っていた彼女の手を、もう一度取る。イリヤが、その手を見た。
「確認は、もう終わったわよ?」
「分かってる」
「手を繋いでいなくても、経路は繋がったままなんだから」
「それも、分かった」
指を握り直して、彼女を見る。
「でも、こうしてたい」
イリヤは口を開きかけてやめ、俺を見たまま、何も言わなかった。……そんなに驚かれると困る。言った俺だって、平気なわけじゃないんだから。それでも、手を引っ込める気にはならなかった。
「……シロウって、時々ずるいわ」
「何がだよ」
「そんなふうに言われたら、からかえないじゃない」
それなら、言ってよかった。そう思ったのが顔に出たらしい。イリヤは少し眉を寄せたが、すぐに笑って、指を握り返してくれた。
「……じゃあ、離さないでね。わたしも、こうしていたい」
その顔を見ていると、手を握ったまま、ただ頷くだけでは足りない気がした。
「イリヤ」
「なに?」
呼びかけたくせに、言葉にするまで時間がかかった。彼女は首を傾げて待っている。
「……キスしても、いいか」
言ってから、自分の声が少し小さかったことに気づいた。イリヤは驚いたように目を開いた。それから、握っていた俺の手を引いた。
「うん。……こっち、来て」
少し身を寄せる。イリヤが目を閉じるのを見て、俺はそっとキスをした。
顔を離した時、何を言えばいいのか分からなかった。イリヤも黙っている。目が合うと、彼女は困ったように笑った。
「シロウ、顔、赤い」
「イリヤだって」
「わたしのことは、今はいいの」
「よくないだろ。それじゃ、俺だけじゃないか」
小声で言い返すと、イリヤが笑った。俺もつられて笑う。声を出せたら、少しだけ、いつものように彼女の顔を見られた。
「……嬉しかったわ」
まだ笑いの残る声で、イリヤが言った。
「シロウから、来てくれて」
「……俺も、そうしたかったんだ」
言ってから、俺は彼女の手を握り直した。イリヤはその手を自分の方へ寄せ、しばらく眺めていた。
「……今日、嫌なことばっかりじゃなくて、よかった」
俯いたままの声だった。俺は、繋いだ手へ目を落とした。剣を握っていた時とは違う力の入れ方を、今は考えずに出来ていた。
「起きたら、また話そう」
「うん。さっき約束したものね」
顔を上げた彼女へ、頷いた。
*
イリヤが掛け物をめくった。俺は左手をいったん離し、右腕に体重をかけないように横になる。彼女も隣へ横になり、二人の肩まで掛け物を引き上げた。
右手は身体の脇で楽にしておく。その分、左手を彼女の方へ伸ばした。イリヤは、もう手を出して待っていた。
「遅いわよ」
「まだ、何も言ってないだろ」
「言わなくても、これは分かるもの」
その手を取ると、彼女は満足そうに笑った。
部屋へ来た時には、何を片づけようかと考えていた。今は、机の上の本も、畳の端へ寄せた座布団も、そのままでよかった。
家の中で、足音がした。イリヤの指が少し動く。俺は顔を上げず、握っている手へ力を返した。足音は部屋の前を通り過ぎ、やがて聞こえなくなった。
すぐ隣で、彼女の目がゆっくり閉じる。
今朝の話は、目を覚ましたらまた考える。今は、俺も眠かった。
「俺も、眠くなった」
「……うん。おやすみ、シロウ」
「おやすみ、イリヤ」
返事をすると指をそっと握り返され、その手を持ったまま、俺も目を閉じた。