Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第五 Multi-Agent Planning
第三十二話 休息のあと


 指に触れている何かが温かく、少し動いた。

 

 目を開けると、障子の向こうがぼんやり明るかった。庭から葉の擦れる音がする。いつ眠ったのかは覚えているが、どれくらい眠ったのかは分からない。

 

 左手を動かしかけて、イリヤに握られているのに気づいた。隣に横になったまま、こちらへ顔を向けている。銀色の髪が掛け物の上に広がり、頬にかかった一筋だけが、息に合わせて微かに動いた。

 

 ……そうか。寝る前に、二人でここにいた。互いに魔力を渡せる経路を繋いで、それから、手を握ったまま眠った。目を覚ました時にも彼女がいる。当たり前のことのはずなのに、少しの間、動く気になれなかった。

 

 握られていない右手を持ち上げ、指を一本ずつ曲げてみる。途中で引っかからない。掌を開き、手首を返しても、休む前にはあった痛みがない。

 

「……あれ」

 

 思わず声が漏れ、もう一度、拳を握った。動く。普通に。教会で剣を振った時も、帰ってから湯呑みを持とうとした時も、指先が思うようにならなかった。あれだけ気にしていたのが、嘘のようだった。魔術を使った後の疲れは、まだ身体の芯に残っている。それでも右手だけは、何事もなかったように動いた。

 

 鞘。俺の身体の中にある、セイバーの鞘。セイバーとの繋がりが戻って、あれも働いているのだろう。握って、開く。湯呑みを持つだけで気を遣っていたのが、何だか馬鹿みたいだ。……いや。治ってくれたんだから、ありがたい話なんだけど。

 

 もう一度拳を作ったところで、左手を引かれた。

 

「……また、確かめてる」

 

 声の方を向く。イリヤが、片目を開けていた。

 

「起こしたか」

「ううん。シロウが、さっきから手を動かしてるから」

「右手が治ってるんだ」

 

 俺はその手を見せた。イリヤの目がちゃんと開く。掛け物から腕を出し、俺の手首を取った。

 

「動かしてみて」

 

 言われた通りに指を曲げる。

 

「痛みは?」

「ない。力も入る」

「手首は?」

「平気だ」

 

 イリヤは俺の指先まで確かめると、ようやく笑った。

 

「よかった」

「ああ。イリヤにも、ずいぶん心配かけたな」

「そうよ。シロウったら、何度も確かめるんだもの」

「でも、今は治ったぞ」

「うん。でも、治ったのは手だけよ。身体はまだ疲れてるでしょう?」

 

 そう言いながら、イリヤは手を放そうとはしなかった。俺も、引っ込めなかった。

 

「……もう一度確かめなくていいのか?」

「何を?」

「右手」

「もういいわ。これ以上確かめたら、何かしたくなるでしょう?」

「手を動かしただけだろ」

 

 イリヤは笑って、そのまま俺の手を引き寄せた。

 

「じゃあ、これはもう借りてもいいのね」

「借りるって、手を?」

「うん。休む前はずっと左ばっかりだったでしょう」

 

 右手の指に、彼女の指が重なった。休む前は傷めていたから、触れる時も、俺が先に庇っていた。今はその必要がない。

 

「返してくれるなら」

「考えておくわ」

「おい」

 

 文句を言うと、イリヤは楽しそうに笑った。……まったく。治ったと思った途端、今度は返してもらえなくなった。そう思いながら、俺も重なった指を握り返しているのだから、文句を言っても説得力がない。

 

     *

 

 身を起こして布団から出ようとすると、イリヤがこちらを見た。

 

「シロウ、どこ行くの?」

「いや、そろそろ起きないと。みんなに任せっぱなしだし」

「誰かに呼ばれた?」

「呼ばれてないけど」

「じゃあ、もう少し」

 

 掛け物の上から手を軽く引かれ、俺は座り直した。

 

「腹は減ってないか」

「少し。でも、すぐじゃなくていいわ」

「遠坂たちも起きてるだろうし、桜の具合も」

「気になる?」

「ああ」

「わたしもよ」

 

 イリヤはそう言って身を起こし、俺の隣へ座った。

 

「だけど、セラたちがいるし、何かあったら呼んでくれる。そういう約束だったでしょう?」

 

 寝る前に、俺も同じことを言った。今度は俺が、頷く番だった。

 

「……そうだな」

「うん。だから、もう少しここにいて」

 

「俺も、もう少し一緒にいたい」

 

 口にすると、イリヤが瞬きをした。

 

「……それ、わたしが先に言ったんだけど」

「じゃあ、二人とも同じってことだろ」

「そうね」

 

 すぐに答えたくせに、彼女は少しだけ顔を背けた。その横顔を見て、こちらも笑ってしまう。

 

「なに?」

「いや。イリヤが言うのは平気なのに、俺が言うと照れるんだなと思って」

「……シロウ」

「悪い。からかった」

「別に、謝らなくていいわ」

 

 イリヤは言い返しながら、俺の肩へ寄りかかった。

 

「嬉しいだけだもの」

 

 小さな声だった。俺は返事をする代わりに彼女の手を握り直し、そのまま近づいて、額にそっと唇を触れさせた。

 

「……シロウ?」

「嫌だったか?」

「そんなこと、言ってないわ」

 

 イリヤは俺の肩へ額を押しつけた。

 

「……もう一回、って言ったら?」

「言わなくても、いいぞ」

 

 今度は彼女が顔を上げるのを待って、もう一度だけ額に口づけた。イリヤは目を閉じて、それから、嬉しそうに笑った。しばらく、そのまま庭の音を聞いていた。ふと、思い出す。

 

「そうだ。イリヤ」

「なあに?」

「寝る前に、まだ話したいことがあるって言ってただろ」

 

 イリヤが顔を上げた。

 

「あ。覚えてたんだ」

「忘れないって言ったからな」

「シロウにしては上出来ね」

「約束したことくらい覚えてるよ」

 

 少しむきになって答えると、イリヤが笑った。

 

「うん。じゃあ、教えてあげる」

 

 そこで言葉が途切れ、イリヤは自分の指を見ていた。

 

「……あのね。今度、また一緒に買い物へ行きたいの」

「買い物?」

「そう。ごはんの材料を買うような、普通のやつ」

 

 俺は首を傾げた。

 

「そんなのでいいのか?」

 

 言ってから、しまったと思った。イリヤが、むっと俺を見た。繋いでいた指に、少し力がこもる。

 

「……そんなの、じゃないよ」

「いや、違う。嫌なんじゃなくて、いつもの買い出しと同じでいいのかと思って。……ごめん、聞くから」

「シロウ、いつも何を作るか先に決めて、それから材料を選ぶでしょう?」

「まあ、そうだな」

「それをね、二人でお店を見ながら決めたいの。わたしも選ぶのよ。シロウが何を作ってくれるか、知ってるだけじゃつまらないもの」

 

 俺は、飯を作って一緒に食べるところまでしか考えていなかった。店先で迷うところから、か。それを「そんなの」で済ませたら、そりゃ拗ねる。

 

「……そっか。それなら、今度行こう」

「本当?」

「ああ。材料を見て、何にするか決めよう。イリヤが食べたいものを選んでもいいし」

「シロウも選ぶのよ?」

「え?」

「わたしが決めて、シロウが作るだけだったら、いつもと同じじゃない」

 

 ……なるほど。また自分が作る方へ話を持っていっていた。俺は、もう一度頷いた。

 

「分かった。二人で決める」

「約束ね」

「ああ」

 

 イリヤは満足そうに笑って、それから少し考えた。

 

「でも、シロウが変なもの選んだら、わたしが止めるから」

「いきなり信用がないな」

「だって、休む前のお茶、最後の方すごく苦かったんだもの」

「……それは、次こそ何とかする」

 

 イリヤが笑ったので、俺もつられて笑った。何を買うかも決まっていないし、いつ行けるかも分からない。それでも、二人で店先に立って、あれがいい、これは嫌だと言い合うところなら、すぐに想像できた。今は、そういう話をするのが嬉しかった。

 

     *

 

 部屋を出る時、イリヤが先に障子を開けた。廊下には、普段通りの空気が流れていた。誰かが台所で水を使っている。庭の方から、木戸の閉まる音もした。ずいぶん眠っていた気がする。廊下の角で、セラと出会った。

 

「お目覚めになりましたか、お嬢様」

「ええ。シロウも起きたわ」

「見れば分かります」

 

 セラはそう答えた後、俺の方を見た。

 

「エミヤ様。お加減はいかがですか」

「だいぶいい。右手も治った」

 

 手を開いて見せると、彼女の目が僅かに細くなった。

 

「……本当に、動くのですね」

「ああ。もう物を落とさないと思う」

「それは何よりです。ただし、休む前までの負担が全てなくなったとはお考えにならないように」

「分かってる」

 

 イリヤが隣で頷く。

 

「そうなのよ。わたしもさっき言ったの」

「それでしたら、お嬢様にまたご心配をおかけすることのないよう、お願いいたします」

「二人がかりで言うほど無茶はしないよ」

 

 そう答えると、セラは無言で俺の手元を見た。イリヤの手を握っている。別に何も言われていないのに、何となく姿勢を正した。

 

「……何か?」

「いいえ。お嬢様がお休みになれたのでしたら、結構です」

 

 その返事を聞く限り、叱られてはいないらしい。

 

「ほらね、シロウ。わたしが一緒ならちゃんと休めるんだから」

「……それは、そうかもしれない」

 

 素直に頷くと、イリヤは得意そうにセラを見て、俺の手を握り直した。セラは一度目を伏せてから、廊下の奥を示した。

 

「お食事でしたら、用意がございます。皆様も少しずつ休まれました。桜様については凛様が見ていらっしゃいます」

「ありがとう。桜、起きたのか?」

「先ほど、一度お目覚めに。お身体の具合は落ち着いていると伺っております」

 

 ほっとした。まだ気は抜けないが、休む前の処置は役に立っているらしい。

 

「まずは、お食事をお済ませください」

 

 セラが言う。俺は一度、台所の方を見た。

 

「じゃあ、せめて飲み物くらいは自分で」

「エミヤ様」

「右手も治ったし。二人分だけだよ」

 

 セラが何か言いかける。

 

「いいじゃない、セラ」

 

 イリヤが先に言った。

 

「飲み物だけならいいでしょう? 出来たら、ちゃんとわたしのところへ戻ってきてもらうから」

 

 セラは、イリヤの顔を見た。

 

「……かしこまりました。長く台所へお立ちにならないことだけ、お守りください」

 

 飲み物を二人分。それが終わったら戻る。ついでに洗い物でも、とは言わないでおこう。セラの顔を見る限り、口に出したところで却下されそうだ。

 

     *

 

 台所に入って、まず右手で蛇口を回した。何ともない。ついまた指を動かして確かめそうになり、やめた。イリヤに見られたら、何回確かめるのと言われる。

 

 牛乳を出し、小鍋を取る。戸棚を開けると、使いかけのココアが残っていた。……よし、これなら大丈夫だろう。まず少しの牛乳でココアを溶き、粉の塊がなくなってから残りを加える。弱火にかけ、鍋底を匙でなぞりながら甘さを確かめた。

 

「シロウ、何を作ってるの?」

 

 居間からイリヤの声がした。

 

「もう少しで出来る。休む前のお茶の埋め合わせ」

「ふうん?」

 

 そんな返事が聞こえた。湯気が上がり、甘い匂いが広がった。

 

 自分の分も忘れずに器を二つ用意し、ココアを注ぐ。休む前には、自分の湯呑みを出し忘れてセラに指摘された。今度は大丈夫だ。

 

 器を盆に載せて居間へ向かうと、イリヤがこちらを見ていた。

 

「はい。熱いから、少しずつ」

「……あ、これ」

 

 イリヤは両手で器を受け取り、匂いを確かめた。

 

「チョコレート?」

「ココア。甘くしたつもりだけど、足りなかったら言ってくれ」

 

 彼女が口をつけるまで、何となく目を離せなかった。イリヤは一口飲み、それから器を下ろした。

 

「……おいしい」

「そっか」

「前のお茶より、ずっと好き」

「比べる相手が悪すぎる」

 

 イリヤが笑う。今度は少し多めに口に含むのを見て、俺は慌てて声をかけた。

 

「熱くないか?」

「大丈夫よ。シロウの方は?」

「俺も飲むよ」

 

 隣へ腰を下ろすと、イリヤが自然に寄ってきたので、俺も少し座る場所を詰めた。器を片手に持ち替えたイリヤが、空いた手をこちらへ差し出す。

 

「なに?」

「別に。空いてるでしょう?」

 

 俺はその手を取った。確かに、片手は空いている。飲み物が冷めるまでくらい、そうしていても支障はないだろう。

 

「……ねえ、シロウ」

「ん?」

「今度の買い物、こういうのも一緒に選んでいい?」

「もちろん」

「じゃあ、何を買って帰るかは、わたしが決める日も作るの」

「二人で決めるって言わなかったか?」

「選ぶのは二人で、最後に決めるのは交代。これなら公平でしょ?」

 

 妙にきっちりした規則だ。

 

「分かった。じゃあ、次はイリヤの番だな」

「うん!」

 

 嬉しそうな返事だった。そこへ、リズが小皿を二つ運んできた。卵を挟んだパンが、食べやすい大きさに切ってある。

 

「セラから。これも、食べて」

「ありがとう、リズ」

 

 俺が礼を言うと、リズはイリヤを見た。

 

「イリヤも、ちゃんと」

「分かってるわよ」

 

 イリヤは笑って、繋いでいた手を一度放した。

 

「はい、シロウ。食べる時は返してあげる」

「そりゃ助かる」

 

 パンを一切れ取る。食べ始めると、思っていたより腹が減っていたことに気づいた。イリヤも一切れ取り、俺が二つ目へ手を伸ばすのを見て満足そうに頷いた。食べ終わると、彼女はまた当然のように俺の手を取り、隣へ寄ってきた。

 

「……ずいぶん楽しそうね」

 

 障子の方から、聞き慣れた声がした。遠坂が立っていた。片手で髪を押さえ、もう片方には畳んだ布を持っている。さっきまで桜のそばにいたのだろう。目元には疲れが残っていた。

 

「遠坂。桜は?」

「起きてるわ。少し水も飲めた。イリヤの処置は効いてるみたいね」

「よかった」

 

 イリヤが、ほっと息を吐く。遠坂は頷いた。それから、俺たちの方をもう一度見た。

 

「……で。二人で何の相談?」

「今度のお買い物よ」

「へえ」

 

 遠坂の目が、俺の手元に落ちた。俺は器を持っている。空いた方の手は、イリヤと繋いだままだ。

 

「ずいぶん仲良くなったじゃない。飲み物を飲むのにも、くっついてないといけないわけ?」

「別に、決まりなんかじゃないわよ」

 

 イリヤが、さらりと返した。

 

「わたしがここに座りたいんだもの」

「なるほどね。衛宮くんは?」

 

 今度は俺に振ってきた。手が空いていたから、と言いかけてやめた。そんなことは見れば分かる。遠坂が訊いているのは、その先だ。……まったく。何でわざわざ、本人の前で訊くかな。

 

「俺も、イリヤの隣がいいんだ」

 

 答えると、遠坂は一瞬黙った。イリヤも黙った。……いや、二人揃って黙られると、こっちまで困るんだけど。

 

「……あら」

 

 遠坂が先に声を出した。

 

「そう。そこまでちゃんと言えるようになったんだ」

「言うと変なのか?」

「変じゃないわよ。全然」

 

 全然、という割には楽しそうだ。

 

「それよりイリヤ、どうしたの。自分から言っておいて」

「……何でもないわ」

 

 イリヤはココアへ目を落とした。さっきまで堂々としていたくせに、耳の辺りが少し赤い。

 

「遠坂」

「はいはい。分かってるわよ」

 

 遠坂は笑いを抑えながら、空いている場所へ座った。

 

「いいじゃない。二人とも元気になったみたいで」

 

 言ってから、ほんの少し表情を緩める。その顔を見て、俺も何も言えなくなった。遠坂の手元には、まだ畳まれた布が残っている。からかわれた分くらいは言い返そうと思ったが、先に何か温かいものを飲ませたくなった。

 

「遠坂も、何か飲むか?」

「もらうわ。でも先に、あんたたちに話があるの」

 

 遠坂は持っていた布を脇へ置いた。

 

「桜がね。三人に来てほしいって」

 

     *

 

 桜の部屋に入ると、枕元の湯呑みが目に入った。水は半分ほど減っている。桜は上体を少し起こしていた。遠坂が背中へ当てたのだろう、枕が重ねて置かれている。

 

「先輩」

 

 俺に気づいて、桜が口を開いた。

 

「休めましたか?」

「うん。桜の方はどうだ」

「……処置の前より、ずっと楽です」

 

 桜は胸の辺りへ手を置いた。

 

「まだ変な感じはします。でも、こうして座っていられますから」

 

 声が、処置の前よりもはっきりしている。ただ、顔色まで戻ったわけではなかった。話す途中で、息を整えるように言葉を切ることがある。

 

 桜は一度、部屋の入口へ目を向けた。何かを言おうとしたようだったが、結局、何も言わずに目を戻す。俺も同じ場所を見た。ライダーは、帰ってこない。桜が誰を探したのか、訊かなくても分かる気がした。遠坂は湯呑みを桜の手の届くところに寄せ、それ以上は何も言わなかった。

 

「無理はしないでくれよ」

「はい」

 

 返事をしてから、桜は小さく笑った。

 

「先輩こそ。手は、もういいんですか?」

「治った。ほら」

 

 右手を見せると、桜が安心したように目を細めた。

 

「よかった……。休む前は、ずっと痛そうでしたから」

「心配させたな」

「いえ。わたしが心配をかけてばかりで」

「そんなことはないよ」

 

 そう言って、続けようとした言葉を飲み込んだ。今の桜に、心配なんかしていないと言うつもりはない。気にしているのは本当だ。

 

「……桜が少し楽になって、よかったと思ってる」

 

 そう言うと、桜は静かに頷いた。イリヤが桜のそばへ座る。

 

「サクラ。痛みが戻ったところはない?」

「今のところ、大丈夫です」

「胸の奥も?」

「……はい。処置の前よりは」

 

 桜は一度、目を伏せた。

 

「でも、少しだけ……妙な感じがするところがあるんです」

 

 イリヤの表情が変わる。

 

「どんな感じ?」

「痛みじゃありません。さっき、目が覚めた時から……いえ、眠っていた時だったかもしれません」

 

 桜は言葉を探すように、膝の上の手を握った。遠坂は隣に座ったまま、口を挟まなかった。俺は、桜が何かを言うのを待った。

 

「……先輩。イリヤさん。それから、姉さんも」

 

 桜が顔を上げた。

 

「聞いていただきたいことが、あるんです」

 

 俺たちは頷いた。桜はもう一度息を整えてから、言った。

 

「お爺さまから、話を聞きました」

 

 ……え?

 

 意味を考えるより先に、教会で見たものが浮かんだ。あの老人の身体。セイバーが斬り、崩れたもの。

 

「臓硯、から?」

 

 確かめると、桜は頷いた。

 

「はい」

「でも、あいつは」

 

 そこまで言って、続かなかった。倒したはずだ。俺たちは、そう思って帰ってきた。

 

「桜。どういうこと?」

 

 遠坂の声が、低くなった。桜は身を縮めたが、すぐに顔を上げ直した。

 

「……まだ、生きているんです」

 

 部屋の中が静かになった。

 

「お爺さまは、あの身体だけじゃなかったんです」

 

 桜の手が、胸元の衣服を軽く掴む。

 

「わたしの中に、残っています」

 

 立ち上がりかけたが、すぐそばでイリヤが動くのを見て、腰を下ろし直した。

 

「サクラ。今、痛む?」

 

 イリヤは、落ち着いた声で訊いた。

 

「いいえ。痛くは……ないです」

「触れてもいい?」

「はい」

 

 イリヤが桜の手を取る。指先を支え、桜の返事を確かめながら、静かに様子を見ていた。

 

 あの老人が、まだ桜の身体の中にいる。黙っていられるものか。だが、何をする。桜の中にいるというのなら、殴る相手すら見えない。下手に何かすれば傷つくのは桜の方だ。帰ってきた時に、イリヤはその危険を説明していた。

 

「……今すぐ動きが広がっているようには感じないわ」

 

 イリヤが、桜の手を放した。

 

「でも、今の確認だけじゃ、何が残っているかまでは決められない」

 

 桜が頷く。

 

「……はい。何が残っているのかは、わたしにも分かりません」

 

 遠坂は、桜の胸元を見ていた。

 

「……あの爺さん」

 

 吐き捨てるような声だった。

 

「自分だけ安全なところに残って、人の身体を……」

 

 遠坂が言葉を切ると、桜は顔を伏せた。

 

「ごめんなさい。もっと早く言えたら……」

「違う」

 

 遠坂の即座の返事に、桜が顔を上げた。

 

「桜に怒ってるんじゃないわ。あいつに、よ」

 

 遠坂の手が、一度、膝の上で固く握られた。

 

「……で、いつ気づいたの?」

「眠っている時に、呼ばれた気がしたんです。声が耳から聞こえたわけじゃありません。でも、あの人の言い方で……間違えようがなくて」

 

 桜は言い淀んだ。

 

「起きてから、思い違いかもしれないって考えました。でも、教えられたことがあるんです。わたしの身体のことまで。知らなかったことを、幾つも」

 

 彼女の指が、掛け物の端を掴む。

 

「怖かったです。また命令されたら、どうしようって」

 

 遠坂は、桜の方へ少し身を寄せた。

 

「今は?」

「……何も聞こえません」

「また聞こえたら、教えて」

「はい」

 

 桜が小さく頷いた。俺は、ようやく口を開けた。

 

「話してくれて、ありがとう」

 

 桜がこちらを見る。

 

「……悪い。俺たちの方が騒いだな。でも、聞けてよかった。あいつが何を言ったか、俺にも教えてくれ」

 

 怒鳴りたいのは、桜じゃない。怖い思いをした本人に、こっちまで怖い顔をしてどうする。

 

「……わたし、自分で考えたんです」

 

 桜は、ゆっくり言った。

 

「聞いた通りにするのは、嫌です。でも、黙っていたら、何が本当なのかも分からないままですから」

 

 それから、遠坂へ目を向けた。

 

「姉さんにも、聞いてほしいです」

 

 遠坂は、少しだけ息を詰めた。

 

「……ええ。聞くわ」

 

 その返事を待ってから、桜は話し始めた。

 

     *

 

「……全部を、教えられたわけじゃありません」

 

 桜は、最初にそう断った。

 

「お爺さまがわたしに施したものには、身体の中に残っている蟲と、それを使って結ばれたものがある、と」

 

 遠坂が眉を寄せた。

 

「『結ばれたもの』って?」

「……命令、みたいなものです。どこまで動いていいとか、何を拒めないとか。そういうものを、身体の中のものと同じに考えるな、と言われました」

 

 桜は途中で言葉を切りながら、聞かされたことを思い出していった。

 

「それと……残っているものを、力ずくで全部取り出すな、と」

 

 俺はイリヤを見た。

 

「休む前の処置でも、同じことを言ってたな」

「ええ。サクラの身体に深く結びついているところを、無理に剥がせば傷つく。それは確かよ」

 

 イリヤが頷く。

 

「だけど、だから何も出来ないってことにはならないわ。どこに何が繋がっているか、確かめないと」

 

 桜は、自分の手を見ていた。

 

「お爺さまも……似たようなことを言いました。蟲の数だけ見ていても、分からない。何が、どこへ通っているのかを見るようにって」

 

「自分の術式のことなら、知っていて当然でしょうね」

 

 そう言った遠坂の声には、嫌悪が隠れていなかった。

 

「でも、教えたことが全部本当とは限らない。嘘を一つ混ぜるだけでも、こっちは危険になる」

「はい」

 

 桜が顔を上げた。

 

「だから、確認してほしいんです」

 

 少し間を置いて、続ける。

 

「わたしには、どこが本当なのか、まだ分かりません。でも、何か感じるところがあれば、出来るだけ話します」

 

 遠坂は桜を見ていた。すぐには答えなかった。俺も、訊こうとしていたことを考え直した。痛くないか、苦しくないか。そればかり気にして、話すより休んでいろと言いかけていたが、桜はその話をしたくて俺たちを呼んだのだ。

 

「……そうね」

 

 遠坂が言った。

 

「確認するわ。あいつの言葉は信用しない。けど、桜が聞いたことまで捨てるつもりはない」

 

 桜の肩から、少し力が抜けた。イリヤは考え込んでいた。

 

「サクラ。もう一つだけ訊いてもいい?」

「はい」

「お爺さんは、どうしてそんなことを教えたの?」

 

 桜の表情が曇る。

 

「……ちゃんとは、答えてくれませんでした」

 

 そこで、少し迷ったようだった。

 

「でも……衛宮の人間が、何をするか見ておく、と」

 

 俺は顔を上げた。

 

「俺を?」

「はい。教会での話を、覚えているみたいでした」

 

 あの老人と、救うということについて話した。何を犠牲にするのか。誰を助けるためなのか。セイバーに斬られる前、臓硯が何を考えたのか、俺には分からない。そもそも、今までしてきたことを思えば、そんな言葉をまともに受け取る気にはなれなかった。

 

「……何を考えてるんだ、あいつは」

 

 俺が言うと、遠坂が首を振った。

 

「衛宮くんのために親切に教えた、なんて考えないことね」

「分かってる」

「相手が何を望んでいるにしても、こちらの都合とは別よ」

 

 遠坂は桜を見た。

 

「それに、もう桜を勝手に動かさせるつもりはないわ」

 

 桜はしばらく黙っていた。それから膝の上で指をほどき、はっきりと頷いた。

 

「……はい」

 

     *

 

 遠坂が紙と筆記具を持ってくる間、イリヤは桜のそばに残った。俺は水を取りに、台所へ向かった。途中、セイバーと顔を合わせた。

 

「シロウ。桜の具合は?」

「身体は少し落ち着いてる。でも、相談したいことが出来た」

 

 セイバーの表情が引き締まる。

 

「危険があるのですか」

「……臓硯が生きてるらしい。あいつが、まだ桜の中にいるんだ」

 

 セイバーは動きを止めた。俺は、桜が自分から話してくれたことと、イリヤが今は大きな変化を感じなかったことを短く伝えた。

 

「そうでしたか」

 

 セイバーは目を伏せた。

 

「私が斬ったものは、本体ではなかったのですね」

「たぶん。俺たちも、今初めて知った」

「桜を危険に晒したままにするわけにはいきません」

「ああ。でも、無理に取り出せない。まずは、何が起きてるか確かめる」

 

 セイバーは頷いた。

 

「ならば、今は周囲を警戒します。何かあれば呼んでください」

「頼む」

 

 水を持って部屋へ戻ると、遠坂が紙を広げていた。桜はイリヤと話していたが、俺が入ると一度口を閉じた。

 

「どうした?」

「……いえ。イリヤさんに、処置で取ってもらったもののことを訊いてたんです」

 

 イリヤが、こちらを見た。

 

「セラが、誰も不用意に触れないように保管してくれているわ。後で確かめられる」

「そっか」

 

 俺は水を置いた。桜が湯呑みを取ろうとすると、遠坂の手が伸びかけた。桜は自分で持ち上げ、一口飲んで戻した。遠坂は黙って見ていた。

 

「さて」

 

 遠坂が、紙へ目を落とした。

 

「まず、確かなことから並べましょう。桜が聞いた話と、わたしたちが確かめたことは分けておくわ」

 

 イリヤが頷いた。

 

「聖杯と器のことなら、わたしが確かめられる部分もある。でも、間桐の処置の全部は知らないわ」

「遠坂には、儀式について残っている知識がある。けど、桜の身体に何をしたかは、あの爺さんの仕事だからね」

 

 遠坂の指が、紙の端を押さえる。

 

「だから桜、覚えているところから話して。思い出せないところは、そのままでいいわ。無理に辻褄を合わせないこと。そこは、わたしたちで調べるから」

 

 桜は、少し驚いたような顔をした。

 

「……それで、いいんですか」

「もちろん。分からないことを、分かったことにする方が困るのよ」

 

 桜は頷く。

 

「分かりました。……それと、姉さん」

「なに?」

「わたしの身体のことですから、決める時には……わたしにも、聞いてください」

 

 遠坂の手が止まった。

 

「当たり前でしょう」

 

 少し強い返事だった。桜は驚いたように目を開き、それから、ほんの少し笑った。

 

「……はい」

 

 イリヤも笑った。俺は、彼女の隣へ座った。イリヤがこちらを見る。

 

「シロウ、分からないところはない?」

「俺?」

「そう。さっきから黙ってるから」

 

 答えようとして、少し考える。俺に、御三家の魔術が分かるわけじゃない。蟲と、それを使って結ばれたものが別だという話も、まだ上手く掴めていない。だが、分かった顔をしていたって、手伝えることは増えない。

 

「正直、分からないことの方が多い。途中で止めるかもしれないけど、教えてくれ。俺に出来ることも知っておきたい」

 

 イリヤが、満足そうに頷いた。

 

「うん。分からなくなったら、その時に言ってね。ちゃんと教えてあげるから」

 

 俺も頷く。彼女の手は紙のすぐそばにあった。その手をそっと握る。イリヤがこちらへ目を向け、何も言わずに握り返した。

 

 遠坂が筆記具を取った。

 

「まず、どこから整理する?」

 

 桜は、広げた紙を見つめていた。

 

「……わたしが、聞いたことから」

 

 静かな声だった。

 

「そこから、お願いします」

 

 遠坂は頷き、紙の一番上に間桐、その隣に遠坂と書いた。二つの名の隣の空白へ、イリヤが指を置いた。

 

「アインツベルンも、ね」

 

 遠坂が三つ目の名を書いた。桜が紙の端に手を置くと、遠坂はそちらへ向けて紙を少し回した。桜の目が、書かれた三つの名前を追っている。

 

 俺は三人の顔を見て、手元の空白へ目を戻した。まずは、そこからだった。

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