Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
第三十二話 休息のあと
指に触れている何かが温かく、少し動いた。
目を開けると、障子の向こうがぼんやり明るかった。庭から葉の擦れる音がする。いつ眠ったのかは覚えているが、どれくらい眠ったのかは分からない。
左手を動かしかけて、イリヤに握られているのに気づいた。隣に横になったまま、こちらへ顔を向けている。銀色の髪が掛け物の上に広がり、頬にかかった一筋だけが、息に合わせて微かに動いた。
……そうか。寝る前に、二人でここにいた。互いに魔力を渡せる経路を繋いで、それから、手を握ったまま眠った。目を覚ました時にも彼女がいる。当たり前のことのはずなのに、少しの間、動く気になれなかった。
握られていない右手を持ち上げ、指を一本ずつ曲げてみる。途中で引っかからない。掌を開き、手首を返しても、休む前にはあった痛みがない。
「……あれ」
思わず声が漏れ、もう一度、拳を握った。動く。普通に。教会で剣を振った時も、帰ってから湯呑みを持とうとした時も、指先が思うようにならなかった。あれだけ気にしていたのが、嘘のようだった。魔術を使った後の疲れは、まだ身体の芯に残っている。それでも右手だけは、何事もなかったように動いた。
鞘。俺の身体の中にある、セイバーの鞘。セイバーとの繋がりが戻って、あれも働いているのだろう。握って、開く。湯呑みを持つだけで気を遣っていたのが、何だか馬鹿みたいだ。……いや。治ってくれたんだから、ありがたい話なんだけど。
もう一度拳を作ったところで、左手を引かれた。
「……また、確かめてる」
声の方を向く。イリヤが、片目を開けていた。
「起こしたか」
「ううん。シロウが、さっきから手を動かしてるから」
「右手が治ってるんだ」
俺はその手を見せた。イリヤの目がちゃんと開く。掛け物から腕を出し、俺の手首を取った。
「動かしてみて」
言われた通りに指を曲げる。
「痛みは?」
「ない。力も入る」
「手首は?」
「平気だ」
イリヤは俺の指先まで確かめると、ようやく笑った。
「よかった」
「ああ。イリヤにも、ずいぶん心配かけたな」
「そうよ。シロウったら、何度も確かめるんだもの」
「でも、今は治ったぞ」
「うん。でも、治ったのは手だけよ。身体はまだ疲れてるでしょう?」
そう言いながら、イリヤは手を放そうとはしなかった。俺も、引っ込めなかった。
「……もう一度確かめなくていいのか?」
「何を?」
「右手」
「もういいわ。これ以上確かめたら、何かしたくなるでしょう?」
「手を動かしただけだろ」
イリヤは笑って、そのまま俺の手を引き寄せた。
「じゃあ、これはもう借りてもいいのね」
「借りるって、手を?」
「うん。休む前はずっと左ばっかりだったでしょう」
右手の指に、彼女の指が重なった。休む前は傷めていたから、触れる時も、俺が先に庇っていた。今はその必要がない。
「返してくれるなら」
「考えておくわ」
「おい」
文句を言うと、イリヤは楽しそうに笑った。……まったく。治ったと思った途端、今度は返してもらえなくなった。そう思いながら、俺も重なった指を握り返しているのだから、文句を言っても説得力がない。
*
身を起こして布団から出ようとすると、イリヤがこちらを見た。
「シロウ、どこ行くの?」
「いや、そろそろ起きないと。みんなに任せっぱなしだし」
「誰かに呼ばれた?」
「呼ばれてないけど」
「じゃあ、もう少し」
掛け物の上から手を軽く引かれ、俺は座り直した。
「腹は減ってないか」
「少し。でも、すぐじゃなくていいわ」
「遠坂たちも起きてるだろうし、桜の具合も」
「気になる?」
「ああ」
「わたしもよ」
イリヤはそう言って身を起こし、俺の隣へ座った。
「だけど、セラたちがいるし、何かあったら呼んでくれる。そういう約束だったでしょう?」
寝る前に、俺も同じことを言った。今度は俺が、頷く番だった。
「……そうだな」
「うん。だから、もう少しここにいて」
「俺も、もう少し一緒にいたい」
口にすると、イリヤが瞬きをした。
「……それ、わたしが先に言ったんだけど」
「じゃあ、二人とも同じってことだろ」
「そうね」
すぐに答えたくせに、彼女は少しだけ顔を背けた。その横顔を見て、こちらも笑ってしまう。
「なに?」
「いや。イリヤが言うのは平気なのに、俺が言うと照れるんだなと思って」
「……シロウ」
「悪い。からかった」
「別に、謝らなくていいわ」
イリヤは言い返しながら、俺の肩へ寄りかかった。
「嬉しいだけだもの」
小さな声だった。俺は返事をする代わりに彼女の手を握り直し、そのまま近づいて、額にそっと唇を触れさせた。
「……シロウ?」
「嫌だったか?」
「そんなこと、言ってないわ」
イリヤは俺の肩へ額を押しつけた。
「……もう一回、って言ったら?」
「言わなくても、いいぞ」
今度は彼女が顔を上げるのを待って、もう一度だけ額に口づけた。イリヤは目を閉じて、それから、嬉しそうに笑った。しばらく、そのまま庭の音を聞いていた。ふと、思い出す。
「そうだ。イリヤ」
「なあに?」
「寝る前に、まだ話したいことがあるって言ってただろ」
イリヤが顔を上げた。
「あ。覚えてたんだ」
「忘れないって言ったからな」
「シロウにしては上出来ね」
「約束したことくらい覚えてるよ」
少しむきになって答えると、イリヤが笑った。
「うん。じゃあ、教えてあげる」
そこで言葉が途切れ、イリヤは自分の指を見ていた。
「……あのね。今度、また一緒に買い物へ行きたいの」
「買い物?」
「そう。ごはんの材料を買うような、普通のやつ」
俺は首を傾げた。
「そんなのでいいのか?」
言ってから、しまったと思った。イリヤが、むっと俺を見た。繋いでいた指に、少し力がこもる。
「……そんなの、じゃないよ」
「いや、違う。嫌なんじゃなくて、いつもの買い出しと同じでいいのかと思って。……ごめん、聞くから」
「シロウ、いつも何を作るか先に決めて、それから材料を選ぶでしょう?」
「まあ、そうだな」
「それをね、二人でお店を見ながら決めたいの。わたしも選ぶのよ。シロウが何を作ってくれるか、知ってるだけじゃつまらないもの」
俺は、飯を作って一緒に食べるところまでしか考えていなかった。店先で迷うところから、か。それを「そんなの」で済ませたら、そりゃ拗ねる。
「……そっか。それなら、今度行こう」
「本当?」
「ああ。材料を見て、何にするか決めよう。イリヤが食べたいものを選んでもいいし」
「シロウも選ぶのよ?」
「え?」
「わたしが決めて、シロウが作るだけだったら、いつもと同じじゃない」
……なるほど。また自分が作る方へ話を持っていっていた。俺は、もう一度頷いた。
「分かった。二人で決める」
「約束ね」
「ああ」
イリヤは満足そうに笑って、それから少し考えた。
「でも、シロウが変なもの選んだら、わたしが止めるから」
「いきなり信用がないな」
「だって、休む前のお茶、最後の方すごく苦かったんだもの」
「……それは、次こそ何とかする」
イリヤが笑ったので、俺もつられて笑った。何を買うかも決まっていないし、いつ行けるかも分からない。それでも、二人で店先に立って、あれがいい、これは嫌だと言い合うところなら、すぐに想像できた。今は、そういう話をするのが嬉しかった。
*
部屋を出る時、イリヤが先に障子を開けた。廊下には、普段通りの空気が流れていた。誰かが台所で水を使っている。庭の方から、木戸の閉まる音もした。ずいぶん眠っていた気がする。廊下の角で、セラと出会った。
「お目覚めになりましたか、お嬢様」
「ええ。シロウも起きたわ」
「見れば分かります」
セラはそう答えた後、俺の方を見た。
「エミヤ様。お加減はいかがですか」
「だいぶいい。右手も治った」
手を開いて見せると、彼女の目が僅かに細くなった。
「……本当に、動くのですね」
「ああ。もう物を落とさないと思う」
「それは何よりです。ただし、休む前までの負担が全てなくなったとはお考えにならないように」
「分かってる」
イリヤが隣で頷く。
「そうなのよ。わたしもさっき言ったの」
「それでしたら、お嬢様にまたご心配をおかけすることのないよう、お願いいたします」
「二人がかりで言うほど無茶はしないよ」
そう答えると、セラは無言で俺の手元を見た。イリヤの手を握っている。別に何も言われていないのに、何となく姿勢を正した。
「……何か?」
「いいえ。お嬢様がお休みになれたのでしたら、結構です」
その返事を聞く限り、叱られてはいないらしい。
「ほらね、シロウ。わたしが一緒ならちゃんと休めるんだから」
「……それは、そうかもしれない」
素直に頷くと、イリヤは得意そうにセラを見て、俺の手を握り直した。セラは一度目を伏せてから、廊下の奥を示した。
「お食事でしたら、用意がございます。皆様も少しずつ休まれました。桜様については凛様が見ていらっしゃいます」
「ありがとう。桜、起きたのか?」
「先ほど、一度お目覚めに。お身体の具合は落ち着いていると伺っております」
ほっとした。まだ気は抜けないが、休む前の処置は役に立っているらしい。
「まずは、お食事をお済ませください」
セラが言う。俺は一度、台所の方を見た。
「じゃあ、せめて飲み物くらいは自分で」
「エミヤ様」
「右手も治ったし。二人分だけだよ」
セラが何か言いかける。
「いいじゃない、セラ」
イリヤが先に言った。
「飲み物だけならいいでしょう? 出来たら、ちゃんとわたしのところへ戻ってきてもらうから」
セラは、イリヤの顔を見た。
「……かしこまりました。長く台所へお立ちにならないことだけ、お守りください」
飲み物を二人分。それが終わったら戻る。ついでに洗い物でも、とは言わないでおこう。セラの顔を見る限り、口に出したところで却下されそうだ。
*
台所に入って、まず右手で蛇口を回した。何ともない。ついまた指を動かして確かめそうになり、やめた。イリヤに見られたら、何回確かめるのと言われる。
牛乳を出し、小鍋を取る。戸棚を開けると、使いかけのココアが残っていた。……よし、これなら大丈夫だろう。まず少しの牛乳でココアを溶き、粉の塊がなくなってから残りを加える。弱火にかけ、鍋底を匙でなぞりながら甘さを確かめた。
「シロウ、何を作ってるの?」
居間からイリヤの声がした。
「もう少しで出来る。休む前のお茶の埋め合わせ」
「ふうん?」
そんな返事が聞こえた。湯気が上がり、甘い匂いが広がった。
自分の分も忘れずに器を二つ用意し、ココアを注ぐ。休む前には、自分の湯呑みを出し忘れてセラに指摘された。今度は大丈夫だ。
器を盆に載せて居間へ向かうと、イリヤがこちらを見ていた。
「はい。熱いから、少しずつ」
「……あ、これ」
イリヤは両手で器を受け取り、匂いを確かめた。
「チョコレート?」
「ココア。甘くしたつもりだけど、足りなかったら言ってくれ」
彼女が口をつけるまで、何となく目を離せなかった。イリヤは一口飲み、それから器を下ろした。
「……おいしい」
「そっか」
「前のお茶より、ずっと好き」
「比べる相手が悪すぎる」
イリヤが笑う。今度は少し多めに口に含むのを見て、俺は慌てて声をかけた。
「熱くないか?」
「大丈夫よ。シロウの方は?」
「俺も飲むよ」
隣へ腰を下ろすと、イリヤが自然に寄ってきたので、俺も少し座る場所を詰めた。器を片手に持ち替えたイリヤが、空いた手をこちらへ差し出す。
「なに?」
「別に。空いてるでしょう?」
俺はその手を取った。確かに、片手は空いている。飲み物が冷めるまでくらい、そうしていても支障はないだろう。
「……ねえ、シロウ」
「ん?」
「今度の買い物、こういうのも一緒に選んでいい?」
「もちろん」
「じゃあ、何を買って帰るかは、わたしが決める日も作るの」
「二人で決めるって言わなかったか?」
「選ぶのは二人で、最後に決めるのは交代。これなら公平でしょ?」
妙にきっちりした規則だ。
「分かった。じゃあ、次はイリヤの番だな」
「うん!」
嬉しそうな返事だった。そこへ、リズが小皿を二つ運んできた。卵を挟んだパンが、食べやすい大きさに切ってある。
「セラから。これも、食べて」
「ありがとう、リズ」
俺が礼を言うと、リズはイリヤを見た。
「イリヤも、ちゃんと」
「分かってるわよ」
イリヤは笑って、繋いでいた手を一度放した。
「はい、シロウ。食べる時は返してあげる」
「そりゃ助かる」
パンを一切れ取る。食べ始めると、思っていたより腹が減っていたことに気づいた。イリヤも一切れ取り、俺が二つ目へ手を伸ばすのを見て満足そうに頷いた。食べ終わると、彼女はまた当然のように俺の手を取り、隣へ寄ってきた。
「……ずいぶん楽しそうね」
障子の方から、聞き慣れた声がした。遠坂が立っていた。片手で髪を押さえ、もう片方には畳んだ布を持っている。さっきまで桜のそばにいたのだろう。目元には疲れが残っていた。
「遠坂。桜は?」
「起きてるわ。少し水も飲めた。イリヤの処置は効いてるみたいね」
「よかった」
イリヤが、ほっと息を吐く。遠坂は頷いた。それから、俺たちの方をもう一度見た。
「……で。二人で何の相談?」
「今度のお買い物よ」
「へえ」
遠坂の目が、俺の手元に落ちた。俺は器を持っている。空いた方の手は、イリヤと繋いだままだ。
「ずいぶん仲良くなったじゃない。飲み物を飲むのにも、くっついてないといけないわけ?」
「別に、決まりなんかじゃないわよ」
イリヤが、さらりと返した。
「わたしがここに座りたいんだもの」
「なるほどね。衛宮くんは?」
今度は俺に振ってきた。手が空いていたから、と言いかけてやめた。そんなことは見れば分かる。遠坂が訊いているのは、その先だ。……まったく。何でわざわざ、本人の前で訊くかな。
「俺も、イリヤの隣がいいんだ」
答えると、遠坂は一瞬黙った。イリヤも黙った。……いや、二人揃って黙られると、こっちまで困るんだけど。
「……あら」
遠坂が先に声を出した。
「そう。そこまでちゃんと言えるようになったんだ」
「言うと変なのか?」
「変じゃないわよ。全然」
全然、という割には楽しそうだ。
「それよりイリヤ、どうしたの。自分から言っておいて」
「……何でもないわ」
イリヤはココアへ目を落とした。さっきまで堂々としていたくせに、耳の辺りが少し赤い。
「遠坂」
「はいはい。分かってるわよ」
遠坂は笑いを抑えながら、空いている場所へ座った。
「いいじゃない。二人とも元気になったみたいで」
言ってから、ほんの少し表情を緩める。その顔を見て、俺も何も言えなくなった。遠坂の手元には、まだ畳まれた布が残っている。からかわれた分くらいは言い返そうと思ったが、先に何か温かいものを飲ませたくなった。
「遠坂も、何か飲むか?」
「もらうわ。でも先に、あんたたちに話があるの」
遠坂は持っていた布を脇へ置いた。
「桜がね。三人に来てほしいって」
*
桜の部屋に入ると、枕元の湯呑みが目に入った。水は半分ほど減っている。桜は上体を少し起こしていた。遠坂が背中へ当てたのだろう、枕が重ねて置かれている。
「先輩」
俺に気づいて、桜が口を開いた。
「休めましたか?」
「うん。桜の方はどうだ」
「……処置の前より、ずっと楽です」
桜は胸の辺りへ手を置いた。
「まだ変な感じはします。でも、こうして座っていられますから」
声が、処置の前よりもはっきりしている。ただ、顔色まで戻ったわけではなかった。話す途中で、息を整えるように言葉を切ることがある。
桜は一度、部屋の入口へ目を向けた。何かを言おうとしたようだったが、結局、何も言わずに目を戻す。俺も同じ場所を見た。ライダーは、帰ってこない。桜が誰を探したのか、訊かなくても分かる気がした。遠坂は湯呑みを桜の手の届くところに寄せ、それ以上は何も言わなかった。
「無理はしないでくれよ」
「はい」
返事をしてから、桜は小さく笑った。
「先輩こそ。手は、もういいんですか?」
「治った。ほら」
右手を見せると、桜が安心したように目を細めた。
「よかった……。休む前は、ずっと痛そうでしたから」
「心配させたな」
「いえ。わたしが心配をかけてばかりで」
「そんなことはないよ」
そう言って、続けようとした言葉を飲み込んだ。今の桜に、心配なんかしていないと言うつもりはない。気にしているのは本当だ。
「……桜が少し楽になって、よかったと思ってる」
そう言うと、桜は静かに頷いた。イリヤが桜のそばへ座る。
「サクラ。痛みが戻ったところはない?」
「今のところ、大丈夫です」
「胸の奥も?」
「……はい。処置の前よりは」
桜は一度、目を伏せた。
「でも、少しだけ……妙な感じがするところがあるんです」
イリヤの表情が変わる。
「どんな感じ?」
「痛みじゃありません。さっき、目が覚めた時から……いえ、眠っていた時だったかもしれません」
桜は言葉を探すように、膝の上の手を握った。遠坂は隣に座ったまま、口を挟まなかった。俺は、桜が何かを言うのを待った。
「……先輩。イリヤさん。それから、姉さんも」
桜が顔を上げた。
「聞いていただきたいことが、あるんです」
俺たちは頷いた。桜はもう一度息を整えてから、言った。
「お爺さまから、話を聞きました」
……え?
意味を考えるより先に、教会で見たものが浮かんだ。あの老人の身体。セイバーが斬り、崩れたもの。
「臓硯、から?」
確かめると、桜は頷いた。
「はい」
「でも、あいつは」
そこまで言って、続かなかった。倒したはずだ。俺たちは、そう思って帰ってきた。
「桜。どういうこと?」
遠坂の声が、低くなった。桜は身を縮めたが、すぐに顔を上げ直した。
「……まだ、生きているんです」
部屋の中が静かになった。
「お爺さまは、あの身体だけじゃなかったんです」
桜の手が、胸元の衣服を軽く掴む。
「わたしの中に、残っています」
立ち上がりかけたが、すぐそばでイリヤが動くのを見て、腰を下ろし直した。
「サクラ。今、痛む?」
イリヤは、落ち着いた声で訊いた。
「いいえ。痛くは……ないです」
「触れてもいい?」
「はい」
イリヤが桜の手を取る。指先を支え、桜の返事を確かめながら、静かに様子を見ていた。
あの老人が、まだ桜の身体の中にいる。黙っていられるものか。だが、何をする。桜の中にいるというのなら、殴る相手すら見えない。下手に何かすれば傷つくのは桜の方だ。帰ってきた時に、イリヤはその危険を説明していた。
「……今すぐ動きが広がっているようには感じないわ」
イリヤが、桜の手を放した。
「でも、今の確認だけじゃ、何が残っているかまでは決められない」
桜が頷く。
「……はい。何が残っているのかは、わたしにも分かりません」
遠坂は、桜の胸元を見ていた。
「……あの爺さん」
吐き捨てるような声だった。
「自分だけ安全なところに残って、人の身体を……」
遠坂が言葉を切ると、桜は顔を伏せた。
「ごめんなさい。もっと早く言えたら……」
「違う」
遠坂の即座の返事に、桜が顔を上げた。
「桜に怒ってるんじゃないわ。あいつに、よ」
遠坂の手が、一度、膝の上で固く握られた。
「……で、いつ気づいたの?」
「眠っている時に、呼ばれた気がしたんです。声が耳から聞こえたわけじゃありません。でも、あの人の言い方で……間違えようがなくて」
桜は言い淀んだ。
「起きてから、思い違いかもしれないって考えました。でも、教えられたことがあるんです。わたしの身体のことまで。知らなかったことを、幾つも」
彼女の指が、掛け物の端を掴む。
「怖かったです。また命令されたら、どうしようって」
遠坂は、桜の方へ少し身を寄せた。
「今は?」
「……何も聞こえません」
「また聞こえたら、教えて」
「はい」
桜が小さく頷いた。俺は、ようやく口を開けた。
「話してくれて、ありがとう」
桜がこちらを見る。
「……悪い。俺たちの方が騒いだな。でも、聞けてよかった。あいつが何を言ったか、俺にも教えてくれ」
怒鳴りたいのは、桜じゃない。怖い思いをした本人に、こっちまで怖い顔をしてどうする。
「……わたし、自分で考えたんです」
桜は、ゆっくり言った。
「聞いた通りにするのは、嫌です。でも、黙っていたら、何が本当なのかも分からないままですから」
それから、遠坂へ目を向けた。
「姉さんにも、聞いてほしいです」
遠坂は、少しだけ息を詰めた。
「……ええ。聞くわ」
その返事を待ってから、桜は話し始めた。
*
「……全部を、教えられたわけじゃありません」
桜は、最初にそう断った。
「お爺さまがわたしに施したものには、身体の中に残っている蟲と、それを使って結ばれたものがある、と」
遠坂が眉を寄せた。
「『結ばれたもの』って?」
「……命令、みたいなものです。どこまで動いていいとか、何を拒めないとか。そういうものを、身体の中のものと同じに考えるな、と言われました」
桜は途中で言葉を切りながら、聞かされたことを思い出していった。
「それと……残っているものを、力ずくで全部取り出すな、と」
俺はイリヤを見た。
「休む前の処置でも、同じことを言ってたな」
「ええ。サクラの身体に深く結びついているところを、無理に剥がせば傷つく。それは確かよ」
イリヤが頷く。
「だけど、だから何も出来ないってことにはならないわ。どこに何が繋がっているか、確かめないと」
桜は、自分の手を見ていた。
「お爺さまも……似たようなことを言いました。蟲の数だけ見ていても、分からない。何が、どこへ通っているのかを見るようにって」
「自分の術式のことなら、知っていて当然でしょうね」
そう言った遠坂の声には、嫌悪が隠れていなかった。
「でも、教えたことが全部本当とは限らない。嘘を一つ混ぜるだけでも、こっちは危険になる」
「はい」
桜が顔を上げた。
「だから、確認してほしいんです」
少し間を置いて、続ける。
「わたしには、どこが本当なのか、まだ分かりません。でも、何か感じるところがあれば、出来るだけ話します」
遠坂は桜を見ていた。すぐには答えなかった。俺も、訊こうとしていたことを考え直した。痛くないか、苦しくないか。そればかり気にして、話すより休んでいろと言いかけていたが、桜はその話をしたくて俺たちを呼んだのだ。
「……そうね」
遠坂が言った。
「確認するわ。あいつの言葉は信用しない。けど、桜が聞いたことまで捨てるつもりはない」
桜の肩から、少し力が抜けた。イリヤは考え込んでいた。
「サクラ。もう一つだけ訊いてもいい?」
「はい」
「お爺さんは、どうしてそんなことを教えたの?」
桜の表情が曇る。
「……ちゃんとは、答えてくれませんでした」
そこで、少し迷ったようだった。
「でも……衛宮の人間が、何をするか見ておく、と」
俺は顔を上げた。
「俺を?」
「はい。教会での話を、覚えているみたいでした」
あの老人と、救うということについて話した。何を犠牲にするのか。誰を助けるためなのか。セイバーに斬られる前、臓硯が何を考えたのか、俺には分からない。そもそも、今までしてきたことを思えば、そんな言葉をまともに受け取る気にはなれなかった。
「……何を考えてるんだ、あいつは」
俺が言うと、遠坂が首を振った。
「衛宮くんのために親切に教えた、なんて考えないことね」
「分かってる」
「相手が何を望んでいるにしても、こちらの都合とは別よ」
遠坂は桜を見た。
「それに、もう桜を勝手に動かさせるつもりはないわ」
桜はしばらく黙っていた。それから膝の上で指をほどき、はっきりと頷いた。
「……はい」
*
遠坂が紙と筆記具を持ってくる間、イリヤは桜のそばに残った。俺は水を取りに、台所へ向かった。途中、セイバーと顔を合わせた。
「シロウ。桜の具合は?」
「身体は少し落ち着いてる。でも、相談したいことが出来た」
セイバーの表情が引き締まる。
「危険があるのですか」
「……臓硯が生きてるらしい。あいつが、まだ桜の中にいるんだ」
セイバーは動きを止めた。俺は、桜が自分から話してくれたことと、イリヤが今は大きな変化を感じなかったことを短く伝えた。
「そうでしたか」
セイバーは目を伏せた。
「私が斬ったものは、本体ではなかったのですね」
「たぶん。俺たちも、今初めて知った」
「桜を危険に晒したままにするわけにはいきません」
「ああ。でも、無理に取り出せない。まずは、何が起きてるか確かめる」
セイバーは頷いた。
「ならば、今は周囲を警戒します。何かあれば呼んでください」
「頼む」
水を持って部屋へ戻ると、遠坂が紙を広げていた。桜はイリヤと話していたが、俺が入ると一度口を閉じた。
「どうした?」
「……いえ。イリヤさんに、処置で取ってもらったもののことを訊いてたんです」
イリヤが、こちらを見た。
「セラが、誰も不用意に触れないように保管してくれているわ。後で確かめられる」
「そっか」
俺は水を置いた。桜が湯呑みを取ろうとすると、遠坂の手が伸びかけた。桜は自分で持ち上げ、一口飲んで戻した。遠坂は黙って見ていた。
「さて」
遠坂が、紙へ目を落とした。
「まず、確かなことから並べましょう。桜が聞いた話と、わたしたちが確かめたことは分けておくわ」
イリヤが頷いた。
「聖杯と器のことなら、わたしが確かめられる部分もある。でも、間桐の処置の全部は知らないわ」
「遠坂には、儀式について残っている知識がある。けど、桜の身体に何をしたかは、あの爺さんの仕事だからね」
遠坂の指が、紙の端を押さえる。
「だから桜、覚えているところから話して。思い出せないところは、そのままでいいわ。無理に辻褄を合わせないこと。そこは、わたしたちで調べるから」
桜は、少し驚いたような顔をした。
「……それで、いいんですか」
「もちろん。分からないことを、分かったことにする方が困るのよ」
桜は頷く。
「分かりました。……それと、姉さん」
「なに?」
「わたしの身体のことですから、決める時には……わたしにも、聞いてください」
遠坂の手が止まった。
「当たり前でしょう」
少し強い返事だった。桜は驚いたように目を開き、それから、ほんの少し笑った。
「……はい」
イリヤも笑った。俺は、彼女の隣へ座った。イリヤがこちらを見る。
「シロウ、分からないところはない?」
「俺?」
「そう。さっきから黙ってるから」
答えようとして、少し考える。俺に、御三家の魔術が分かるわけじゃない。蟲と、それを使って結ばれたものが別だという話も、まだ上手く掴めていない。だが、分かった顔をしていたって、手伝えることは増えない。
「正直、分からないことの方が多い。途中で止めるかもしれないけど、教えてくれ。俺に出来ることも知っておきたい」
イリヤが、満足そうに頷いた。
「うん。分からなくなったら、その時に言ってね。ちゃんと教えてあげるから」
俺も頷く。彼女の手は紙のすぐそばにあった。その手をそっと握る。イリヤがこちらへ目を向け、何も言わずに握り返した。
遠坂が筆記具を取った。
「まず、どこから整理する?」
桜は、広げた紙を見つめていた。
「……わたしが、聞いたことから」
静かな声だった。
「そこから、お願いします」
遠坂は頷き、紙の一番上に間桐、その隣に遠坂と書いた。二つの名の隣の空白へ、イリヤが指を置いた。
「アインツベルンも、ね」
遠坂が三つ目の名を書いた。桜が紙の端に手を置くと、遠坂はそちらへ向けて紙を少し回した。桜の目が、書かれた三つの名前を追っている。
俺は三人の顔を見て、手元の空白へ目を戻した。まずは、そこからだった。