Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第三十三話 三つの家(後編)

「まず、桜を切り離すだけでは足りない」

 

 遠坂は紙を指した。

 

「ここまでは、異論はないわね」

 

 桜が頷いた。

 

「わたしの身体から何かが外れても、大聖杯に残るものは……そのまま、かもしれない」

「そうね」

 

 遠坂はそう答えて、筆記具を止めた。

 

「ただし、何が繋がっているのかはまだ全部分からない。『契約』という言葉で全部まとめるのも危ないわ」

 

「その通り」

 

 アーチャーが答えた。

 

「マスターとサーヴァントの契約、蟲を介した支配、桜を器として働かせる結び付き。それぞれ性質が違う。少なくとも、同じ刃で一度に何でも断てると考えるべきではない」

 

 桜の表情が少し強張った。

 

「……わたしの中に、まだそんなに」

 

「数を増やして驚かせたいわけではないわ」

 

 イリヤがすぐに言った。

 

「分けて考えた方が、安全に触れるところを探せるのよ。サクラの身体を壊さずに済むかもしれないから」

 

 桜は息を整えて、もう一度頷いた。

 

「……はい」

 

 俺は紙にある大きな丸を見た。

 

「じゃあ、桜との繋がりを切る前に大聖杯を止める、でいいのか?」

 

「完全に止めてしまっていいかは、別ね」

 

 遠坂が答えた。

 

「今、あれを壊したり儀式そのものを潰したりしたら、願望器として使えなくなる可能性がある。わたしたちは聖杯を壊しに行くんじゃないでしょう」

 

 イリヤが静かに頷いた。俺もイリヤを見た。大聖杯を壊してしまったら、その身体を治す手掛かりまでなくなる。

 

「……壊すんじゃなくて、危ないところだけ止めるのか」

 

「そういうこと。ただし、止め方を間違えたら、別のところに負担が行くかもしれない」

 

 遠坂が紙へ、『抑制』と書き込んだ。

 

「危険な働きを抑えた状態で、どこまで制御できるか確かめる。その後で、桜との結び付きを切る」

 

「……その間も、大聖杯の中にあるものは残るわね」

 

 イリヤが続けた。

 

「だから、大聖杯の方で、願いを実行し続けている働きを止めなきゃいけない。もう出来かけているものの保持と供給も、別に外す。サクラの方を切って終わりには出来ないの」

 

「もう出来かけてるものは、止めても残るのか」

 

 俺は聞き返した。遠坂が大きな丸の内側へ印をつける。

 

「さっきの話と同じよ。仕事を止めても、それまでに作ったものは別。そこに留めている働きと、力を送り続けている働きも、分けて確認する必要がある」

 

「なら、造る方を止めてから、その二つを外すんだな」

 

「止める対象を間違えなければ、ね」

 

 イリヤが答えた。

 

「聖杯の中の力を何でも外へ放り出すわけにはいかない。わたしたちは、アンリ・マンユだけを対象にしなくちゃ」

 

 桜の指が動いた。

 

「……それで、あれがいなくなれば」

 

「まだ『いなくなる』とは決められないわ」

 

 遠坂は、今度はすぐに頷かなかった。

 

「どういう状態に戻せばいいのか、そこまで考えないと」

 

 イリヤはしばらく黙ってから、自分の描いた小聖杯の丸へ指を置いた。

 

「……本来、召喚されたサーヴァントには退去という終わり方があるわ。でも、今のあれは、呼ばれた時の姿のまま残っているわけじゃない」

 

 遠坂が顔を上げる。

 

「聖杯が、受け取った願いを叶えようとしてるのよね」

「うん。だから、あれだけを追い出しても、造る方が続いていたら意味がないわ。先にそっちを止める。そのうえで、出来かけの形を支える働きを外せるか確かめたいの」

 

「それで、形がほどけるか……」

 

 遠坂は大きな丸を見つめた。

 

「形が消えても、造り直されないか確かめる必要があるわね。そこまで出来れば、別の場所へ封じ直す必要はなくなる」

「ええ。でも、現物を見なければ分からないところはあるわ。調べている間に生まれてしまわないよう、抑える方も保たなきゃ」

 

「なるほどね」

 

 遠坂は紙へ目を戻し、大きな丸の隣に『顕現を抑える』と書き添えた。次に『接続を切る』、その下に『願いの実行を止める』。さらに『保持・供給を切る』と続け、最後に『消失と、再び造られないことの確認』と記す。

 

「……これなら、少なくとも何を調べるべきかは見えてくるわ」

 

 遠坂が言った。

 

「どうやれば出来るかは、まだ何も保証できないけど」

 

「分かってる」

 

 イリヤの返事には、いつもの得意そうな調子がなかった。指先が、最初に書かれた『顕現を抑える』のところで止まっている。紙の丸に、手を入れる順番が出来た。けれど、何を用意し、どこへ触れればいいのかは、これからだ。

 

「……ひとつ聞いていいか」

 

 俺は遠坂を見た。

 

「その順番でやったら、桜もイリヤも助かるのか」

 

 遠坂は、すぐには答えなかった。代わりにイリヤが俺を見た。

 

「そうするための順番よ、シロウ。でも、出来るかどうかは、これから調べるの」

 

 出来る、と頷いてほしかった。だが、俺が安心したくて答えを急がせてどうする。少し遅れて、頷いた。

 

     *

 

「問題は、最初の『抑える』ね」

 

 遠坂が言った。

 

「そんな操作、口で言うほど簡単じゃない。大聖杯の主制御に入れなきゃ、後の手順だって危ないわ」

 

 イリヤは自分の袖を見た。

 

「アインツベルンには、そのための礼装があるの」

 

「……前に言ってた、聖杯を動かすための?」

「うん。天の衣。大聖杯の儀式に関わるためのものよ」

 

「持ってるのか?」

 

 俺が訊くと、イリヤは首を振った。

 

「今ここにはないわ。それに、原物があったとしても、どんな操作でも自由に出来るわけじゃない」

 

 遠坂が眉を寄せる。

 

「じゃあ、作るしかないわけ?」

 

「全部を、じゃなくてもいいのよ。今回使いたいのは、制御に必要な部分だけだもの」

 

 そう言ってから、イリヤはアーチャーを見た。皆の視線が、アーチャーへ集まった。

 

「……そう来るか」

 

 アーチャーが苦笑した。

 

「投影で作れない?」

 

 イリヤは、まっすぐに訊いた。

 

「知っている範囲の構造と、必要な働きを絞っても?」

 

「私の投影は便利な仕立屋ではないぞ」

 

 アーチャーは即答した。

 

「まして、元の仕組みを把握していない礼装ならなおさらだ。形を似せるだけでは意味がない。材料、機能、維持条件……分からないものを勝手に埋めれば、危険な代物になる」

 

「それは分かってるわ」

 

 イリヤは引かなかった。

 

「だから、わたしが知っているところを説明するの。必要ならリンにも手伝ってもらうわ。サクラに負担をかけないで済むところは、別の方法で支えればいい」

 

 アーチャーが遠坂を見る。

 

「凛」

「何よ」

「君もずいぶん面倒な話に巻き込まれたものだな」

 

「今さらでしょう。それに、面倒かどうかで決めるつもりはないわ」

 

 遠坂は紙を押さえた。

 

「出来るかどうか、確認する。無理なら無理で別の手を考える。それだけよ」

 

 アーチャーは少しだけ口元を緩めた。

 

「なら、まず必要な情報を見せてもらおう」

 

 イリヤが頷くと、遠坂は『擬似礼装・限定機能』と書き足し、その下に少し空白を残した。

 

「次は、切断ね」

 

 遠坂がこちらへ向き直った。

 

「衛宮くん。あんた、さっきから黙ってるけど」

 

「……何だよ」

「ここ、まさか見学だけして帰るつもりじゃないわよね」

 

 言われて、俺は顔を上げた。紙には『切断』という項目があり、その下はまだ空白だった。そこへ何を書くかは、俺にも心当たりがあった。

 

     *

 

「あの寺でさ」

 

 俺は言った。

 

「キャスターが持っていた短刀、覚えてるか」

 

 遠坂が顔を上げる。

 

「柳洞寺の?」

「ああ。あいつが持っていた、妙な形のやつ」

 

 いびつな刃だった。剣とも包丁とも違う。長さも形も、戦うための武器としては心許ない。それでも、目にした瞬間に、その構造と働きが頭の中へ流れ込んできた。刃で斬り裂く前に、そこへ繋がる魔術を壊す。だから、あの刃に触れるなとセイバーへ叫んだ。俺とセイバーの契約まで断たれるかもしれないと分かったからだ。

 

「あの短刀なら、桜を縛っている契約も切れるんじゃないか」

 

 アーチャーがこちらを見た。

 

「……ほう」

「何だよ」

「続けたまえ」

 

 妙に素直に聞かれると、かえって落ち着かない。

 

「あれを見た時に分かった構造を、もう一度辿ってみたい。教会で剣を作った時みたいに、形にできれば……」

 

「再現できるかもしれない、と?」

 

「……ああ」

 

 言い切ってしまうと、少し怖くなった。教会で作った剣は、形になった。だが、形に出来ることと、使いこなせることは違う。右手を傷めて、その違いを思い知った。

 

「契約を破る短刀、か」

 

 アーチャーは少し考えた。

 

「ルールブレイカーに相当するものなら、可能性はある。だが、構造と働きが分かっていても、その性質まで完全に再現できるとは限らんぞ」

 

「分かってる」

 

 答えると、イリヤが俺の右手を見た。

 

「治ったからって、同じように無理していいわけじゃないのよ」

 

「……うん」

 

 俺は素直に頷いた。遠坂が、そのやり取りを見て小さく笑った。

 

「珍しいわね。衛宮くんが一回で引き下がるなんて」

 

「引き下がってない。ちゃんと確かめてからやるって言ってるんだ」

 

「……まだ言ってなかったでしょう、それ」

 

 イリヤが指摘した。何も言い返せなかった。アーチャーは俺たちのやり取りを眺めた後、紙を指した。

 

「では、切断の候補には書いておこう。ただし、何の契約を対象にするのか、そこを間違えてはいけない」

 

「……サクラの身体に残ったもの全部を、切るわけじゃないのね」

 

 イリヤが確認した。

 

「ええ」

 

 遠坂が答えると、桜も頷いた。

 

「お爺さまの話が本当なら、切っていいものと、無理に動かしてはいけないものが……別にあるはずです」

 

「そうね。だから先に、桜を儀式に繋いでいるのがどこなのか確かめるわ。蟲そのものまで、刃一本で安全に取り除けるなんて思わないこと」

 

 遠坂が一度、桜の顔を見た。

 

「それから、ライダーとの契約はもう終わっている。そこまで全部ひとまとめに『契約』って書くのはやめましょう」

 

 桜が、わずかに目を伏せた。

 

「……はい」

 

 遠坂は何も言い足さず、紙へ向き直った。俺も、そこで言葉を探すのをやめた。

 

「アーチャー」

 

 俺が呼ぶと、あいつは顔を上げた。

 

「投影を確かめる時、見てくれないか」

 

「何を見るつもりだ?」

「ちゃんと構造を辿れているか。あの短刀が何を切るものなのか。……俺が勝手に決めつけていないか」

 

 アーチャーは少しの間、黙っていた。

 

「よかろう。私にも知らぬことはある。まして、私が知っていることと、おまえが再現できることは別だ。出来たつもりで実戦に持ち出すな。試して確かめろ」

 

「分かった」

 

「それに、儀式を始めた後で魔力が尽きられても困る。使う量と身体への負担は別に確認しておくことだ」

 

 俺は、イリヤが繋いでくれた経路を思い出した。左手を見ても、何かが見えるわけではない。それでも、今は少し意識すれば、以前と違う流れを感じられる。

 

「その辺も、イリヤと確かめる」

 

「ええ」

 

 イリヤが頷いた。

 

「わたしが渡せる量と、シロウが使える量は同じじゃないもの。勝手にたくさん流せば解決するわけじゃないのよ」

 

「……本当に、この家には人を休ませる者が増えたな」

 

 アーチャーが呟いた。

 

「何か文句でもあるの?」

 

 イリヤが訊く。

 

「いや。結構なことだ」

 

 そう言いながら、あいつは何故か俺を見た。……何だ、その顔は。

 

     *

 

「……あの」

 

 桜の声に顔を向けると、彼女は紙から目を上げて俺たちを見ていた。

 

「一つだけ、聞いてもいいですか」

 

「もちろんよ」

 

 遠坂が筆記具を置いた。

 

「これを切ったら……わたしは、どうなるんでしょう」

 

 部屋が静かになった。

 

「身体は、ちゃんと動くんでしょうか。魔術のことも、まだ分からないところが多いです。あの影が……その後、どうなるのかも」

 

 桜は一度、言葉を止めた。

 

「お爺さまは、無理に外せば身体を傷つけるって言いました。でも、無理に外せないからって、残したままだったら、また……」

 

 桜の手が、掛け物の上で止まる。

 

「今度は何をされるのか、分かりません」

 

 身を乗り出しかけた。大丈夫だ、と言いたかった。だが、遠坂は先に首を振った。

 

「……まだ、全部は分からないわ」

 

 桜が姉を見る。

 

「身体に食い込んだ蟲は、別に処置しなきゃいけない。臓硯自身が中に残ってる問題もある。今考えている契約解除だけで、そこまで終わったことには出来ない」

 

「……はい」

 

「それから、影との関係も、解除した後にどう変わるか確かめる必要がある。危険があれば、そのまま進めない」

 

 遠坂の声は、さっきより少し低かった。

 

「でも、桜を実験に使っていいって話じゃないわ。これは桜の身体のことなんだから」

 

 桜は、しばらく答えなかった。イリヤが、桜の近くへ座り直す。

 

「サクラ。わたしも、分からないまま触るのは嫌よ」

 

 彼女は桜の手を取ろうとして、一度止まった。

 

「触れてもいい?」

「……はい」

 

 桜が自分から手を差し出すと、イリヤはその指先を支えた。

 

「今は前より少し楽になったでしょう。でも、痛みを減らしたのと、身体の中の仕組みを全部直したのとは違う。そこを無視して、次を急ぐつもりはないわ」

 

 桜が頷く。

 

「どこを切るか、何が残るか。わたしもちゃんと確かめる。危なくなった時に止められるように、その方法も先に考えるわ。……だから、サクラが嫌なら、そう言って」

 

「……嫌、と言ったら」

 

「勝手にやらないわ」

 

 イリヤはすぐに答えた。

 

「でも、何もしなければ安全だとも言えない。そこも、隠したくないの」

 

 桜の目が、イリヤから遠坂へ移った。遠坂は頷いた。

 

「そういうこと。どちらにも危険はあるわ。だから、一つずつ調べるのよ。何が危なくて、何なら出来るのか。知らないまま桜に選べとは言わないわ」

 

 桜は、掛け物を掴んでいた方の手をゆっくり開いた。

 

「……わたし、知りたいです」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

「ずっと、自分の身体のことなのに、何をされているのか分からなかったんです。何も起こらない時は、それでも過ごせました。でも、何かが起きたら、どうすればいいか分からなくて……」

 

 桜は一度、息を吸った。

 

「怖いです。これからのことも、今ここに残っているものも。でも、知らないまま誰かに決めてもらうのは、もう嫌なんです」

 

 遠坂は口を結んだ。桜はその顔を見た後、少しだけ笑った。

 

「だから、ちゃんと教えてください。わたしも、分かることは話します。……危ないことがあれば、先に言ってほしいです」

 

「ええ」

 

 遠坂が答えた。

 

「約束する。わたしが分からないことも、分からないって言うわ」

 

 桜は頷いた。俺は、少し息を吐いた。さっきは、大丈夫だと言いかけた。任せておけと続けていたかもしれない。それでは、桜の知りたいことは何も分からない。俺も、一緒に確かめなきゃいけない。

 

     *

 

「それと、もう一人」

 

 遠坂は、紙に書かれた『主制御』の文字を指してイリヤを見た。

 

「この役をやるのは、あんたよ。そこも勝手に決めるわけにはいかない」

 

「分かってるわ」

 

 イリヤは桜の手を離し、座り直した。

 

「わたしがやる。そうしたいもの」

 

 遠坂はまだ何か言いたそうだった。俺も同じだった。

 

「イリヤ」

「なあに、シロウ」

 

 俺は彼女の横顔を見た。

 

「主制御って……いちばん大変なところなんだろ」

 

「そうね。負担はあると思う」

 

「それに、桜を助けるために、イリヤが無理するようなことになったら」

 

「シロウ」

 

 少し強い声だった。俺は言葉を止めた。イリヤは、怒っているというより、真剣な顔をしていた。

 

「わたしだって、サクラを助けたいの。シロウがそう思うのと同じよ」

 

「ああ」

 

「それだけじゃないわ。わたし、自分の身体を治したい。もっと先まで生きて、シロウと一緒にいたいの」

 

 答えようとして、声が出なかった。紙の『主制御』から、イリヤへ目を戻した。一緒にいたいと言った彼女は、まっすぐ俺を見ていた。

 

「シロウがわたしを助けようとしてくれるの、嬉しいわ」

 

 イリヤは続けた。

 

「でもね、わたしを助ける話なのに、わたしが何をしたいか聞かれなかったら、困っちゃうでしょう?」

 

「……うん」

 

「だから、わたしに出来るところは、わたしがやる。出来ないところは、お願いする。無茶なことまで全部一人でやるって言ってるんじゃないのよ」

 

 俺は、少しだけ俯いた。買い物だって、二人で決めると約束したばかりだ。ここで俺一人が決めていいはずがない。

 

「……分かった」

 

 俺は顔を上げた。

 

「イリヤに任せるところは、任せる。でも、疲れたら言ってくれ。俺も、分からないことはちゃんと訊くから」

 

「うん。それがいいわ」

 

 イリヤは紙の上ではなく、俺の方へ手を伸ばした。俺はその手を握った。

 

「……ねえ、シロウ」

「何だ?」

「これが終わったら、買い物に行く約束、忘れないでね」

 

「忘れないよ」

 

「本当に?」

「二人で選ぶんだろ」

 

 イリヤは、ようやく笑った。

 

「そう。わたしが決める日もあるんだから」

 

「ああ。楽しみにしてる」

 

 言うと、俺の手を握るイリヤの指に、少し力が入った。遠坂が、そこで大きく息を吐いた。

 

「……はいはい。大変結構なことね」

 

 俺は顔を向けた。

 

「何だよ」

「いやあ、何でもないわよ。ただ、今は会議中だってことを忘れないでほしいだけ」

 

「忘れてないぞ」

「そう? わたしには、二人で買い物の相談を再開したように見えたけど」

 

 イリヤが得意そうに顔を上げる。

 

「会議が終わるまで待ってあげてるのよ、リン」

 

「それはどうもご親切に」

 

 遠坂はそう言って、筆記具を持ち直した。桜が少し笑っていた。その顔を見て、俺もようやく笑えた。

 

     *

 

 話し合いが終わる頃には、紙の余白がほとんどなくなっていた。見返すと、何度も書き直した跡があちこちに目についた。遠坂は一番上に『確認できたこと』と書き、その下へ短い線を引く。身体に残るものと、儀式上の結び付き。二つの器と、一つの大聖杯。書き直された図の脇には、顕現の抑制から、消失と造り直されていないことの確認までの順序が並んでいた。

 

 遠坂が、図を見直して言う。

 

「他のものまでまとめて放り出さないように。正常な機能を残せなきゃ意味がない」

 

 アーチャーが口を開いた。

 

「今の話で確かなのは、必要な操作が複数あるということだ。順番と成立条件は、まだ検証を要する。ここで成功を宣言しても、何も進まんよ」

 

「分かってるわよ」

 

 遠坂は新しい紙を一枚取り、その上に『これから確かめること』と書いた。礼装の構造、投影できる範囲、切断する対象、魔力と身体の負担。

 

 抑制が続く条件、桜との接続を切った後に何が残るか。そして、二つの器に集まった力を、その後も儀式に使えるか。書きながら、遠坂は途中で筆記具を止めた。

 

「……こうして並べると、結構あるわね」

 

「結構どころじゃないと思うけど」

 

 俺が言うと、遠坂は肩を竦めた。

 

「だから、一つずつやるのよ」

 

 桜が布団の上で小さく姿勢を変えると、イリヤがすぐに気づいた。

 

「サクラ、疲れた?」

 

「……少しだけ」

 

「じゃあ、ここまでにしましょう」

 

 イリヤが言うと、桜は一瞬、何か言いかけた。

 

「でも、まだ……」

 

「続きは出来るわ。今、無理しなくても」

 

 遠坂が紙を畳まずに重ねた。

 

「桜がいないところで身体のことを勝手に決めないって、約束したでしょう。今日はここまで」

 

 桜はしばらく二人を見比べていたが、やがて頷いた。

 

「……はい」

 

 遠坂が枕を直す。桜は自分で掛け物を引き上げ、その上に両手をそっと置いた。イリヤは水の入った器を、桜の近くへ置いた。

 

「何か変だったら、呼んでね。痛みが戻った時だけじゃなくて、あの声がまた聞こえた時も」

 

「……はい。今度は、ちゃんと話します」

 

「今度なんて言わなくても、もう話してくれたでしょう」

 

 イリヤが微笑む。桜も、かすかに笑った。俺は立ち上がった。

 

「桜。今日はありがとう」

 

「……わたしが?」

 

「うん。聞いたことを話してくれて。怖かっただろうに、俺たちと一緒に考えてくれて」

 

 桜は、少し驚いた顔をした。そして、目を伏せた。

 

「……ありがとうございます、先輩」

 

 顔を伏せる前に、ほんの少し笑ったように見えた。

 

     *

 

 部屋を出ると、廊下の空気がひんやりしていた。セイバーが少し離れたところで待っていた。

 

「話し合いは終わりましたか」

「ああ。まだ、やることは多いけどな」

 

 俺が答えると、遠坂が紙を掲げた。

 

「とりあえず、準備するものは分かったわ。まずは礼装と、衛宮くんの投影ね」

 

 セイバーが俺を見る。

 

「身体に負担はありませんか」

「今は大丈夫だ。右手も動くし、休めたから」

 

「だからって、すぐに何でも試していいわけじゃないのよ」

 

 横からイリヤが言った。

 

「……分かってるって」

 

 アーチャーが、小さく笑った。

 

「どうやら、私が口を出すまでもないらしい」

 

「……その分、準備の時にはちゃんと教えてくれよ」

 

「必要なことは、な」

 

 またその言い方だ。俺は文句を言いかけたが、やめた。あいつが手を貸すと言ったことは確かだ。遠坂が、紙の上の見慣れない単語を指した。

 

「ところで、アーチャー」

 

「まだ何か?」

 

「この『AIエージェント』ってやつ。どうしてあんたが詳しいのか、まだ聞いてないんだけど」

 

 アーチャーは、遠坂の手元を見た。大聖杯の図の端に、『命令停止≠結果の取消』と書かれていた。その脇に、遠坂が小さく『AIエージェント?』と添えたらしい。

 

「……わざわざ書き残しておいたのか」

 

「そうよ。忘れないようにね」

 

「その話は、もう終わったはずだが」

 

「大丈夫。必要になったら、また聞くから」

 

 遠坂が笑った。どう見ても、必要な話だけを聞くつもりの顔ではなかった。アーチャーは珍しく目を伏せ、短く息を吐いた。

 

「……まったく」

 

 それを見てイリヤが笑う。

 

「リン、あとでわたしにも教えてね。未来の映画の話」

 

「もちろんよ。まず本人に聞いてからね」

 

「……未来の、というのは比喩だ」

 

 アーチャーの訂正は、誰にも聞いてもらえなかった。俺も少し笑った。遠坂が持っている紙には、俺が確かめる短刀の名も書いてある。イリヤが隣へ来て、俺の手を取った。

 

「シロウ。次は、わたしと一緒に確かめようね」

 

「ああ」

 

 握り返すと、手の中にはちゃんと温かさがあった。

 

 遠坂が紙をしまう音がした。まだ道具は揃っていない。必要なものを探し、作って、確かめる。廊下の先から、セラが桜のために湯を運んでくるのが見えた。俺は、イリヤと繋いだ手を離さずに、少し脇へ寄った。

 

 次にすることは、もう決まっていた。

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