Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第三十五話 持っていくもの(後編)

 セイバーは、礼装を片づけ終えた後も卓の前に立っていた。

 

「シロウ。ひとつ、確認しておきたいことがあります」

 

「何だ?」

 

「聖杯の制御が失われた場合の、退避についてです」

 

 遠坂が筆記具を置く。俺も、背筋を伸ばした。イリヤと遠坂が聖杯を止められなかった時、どうするか。昨日も話したことだ。

 

「まずは、桜とイリヤを外へ。そのあと、他の人も退く。……だったよな」

 

「はい。退避の妨げがあれば、私とアーチャーが対応します」

 

「聖剣を使うのは、全員が出て、もう他にどうにもならなくなった時か」

 

 大聖杯を破壊するために、ここまで準備したわけじゃない。

 

「その時に限ります」

 

 セイバーは静かに答えた。

 

「戦闘の最中、あの地下で聖剣を使うわけにはいきません。守るべきものが近すぎます」

 

「ああ。あの規模の攻撃じゃ、周りも巻き込む」

 

「それだけではありません。退避が済んだとしても、攻撃する位置は確認が必要です。何が残り、何が壊れるか。必ず安全に終わるとは言えません」

 

 俺は頷いた。

 

「セイバーは、最後まで残ることになるのか」

 

 口にすると、彼女は少しだけ目を細めた。

 

「そのような状況になれば、私が判断します。ですが、私一人で全員の退路を守れるとは限りません。ですから、そこも含めて確認したいのです」

 

 遠坂が紙を広げた。

 

「じゃあ、現場の地形が分からないうちは、仮の話にしておくわよ。出口が一つとも限らないし、逆に途中で塞がるかもしれない」

 

「うん」

 

「それに、誰かが道を塞いだら。攻撃する人と、逃がす人をその場で分ける必要がある」

 

 アーチャーが頷く。

 

「撤退は、負けを認めることとは違う。目的を果たせない戦場に留まれば、それこそ無駄死にだ」

 

 俺は、氷剣を包んだ布へ目を向けた。

 

「……分かった。危ない時は、ちゃんと退く」

 

「出来れば、危ないと思う前に動いてください」

 

 セイバーが言った。

 

「シロウは、その一拍が遅れることがあります」

 

「……そんなにか」

 

「昨日からの様子では、以前よりよくなっています。ですが、まだ心配です」

 

 何も言えなくなった。横を見ると、イリヤが俺を見ていた。

 

「シロウ。わたしからもお願い」

 

「……分かったよ」

 

「自分だけ残るって、勝手に決めないでね」

 

 すぐには答えられなかった。誰かを助けるために、自分が残る。その考えは今も消えない。けれど、イリヤと一緒に生きたいと、俺も答えたのだ。

 

「……ああ。イリヤと相談する」

 

「うん」

 

 イリヤは頷いた。セイバーも、ようやく少し肩の力を抜いた。遠坂は紙を折り、昨日の束へ重ねた。

 

「最終手段まで考えたんだから、次はそれを使わずに済ませる方法を実行するだけ。……まあ、それが一番大変なんだけど」

 

「……そうだな」

 

 俺は答えた。

 

     *

 

「残っている敵は、ランサーだけとは限らないわ」

 

 遠坂が言ったのは、その後だった。卓にあった駒の一つを、端へ寄せる。

 

「でも、少なくともランサーは生きてる。しかも、マスターが誰なのか分かってない」

 

 俺は、その名前を聞いて、剣を握っていた時の手の感覚を思い出した。あの青い槍兵は、戦争が始まった夜、俺を追ってきた男だ。あの速さを思い返すと、庭で足の運びを直したぐらいで、太刀打ちできる相手ではないと分かる。

 

「前にうちへ来た時も、結局、誰の指示だったか分からなかったな」

 

「ええ。様子を探りに来たことは確かでしょうけど、何をどこまで知ってるかは分からない」

 

 遠坂が答える。

 

「こちらが大聖杯へ向かうと知れば、待ち伏せしていてもおかしくないわ」

 

「待ち伏せる場所まで分かるのか?」

 

「分からない。だから気をつけるのよ」

 

 もっともだった。セイバーは腕を組んだ。

 

「ランサーは正面から戦うことを好む相手です。ですが、それを理由に背後や退路への警戒を怠るわけにはいきません」

 

「マスターがいるなら、令呪のこともある」

 

 アーチャーが言う。

 

「槍兵自身の考えと、命令が常に一致するとは限らんからな」

 

 俺は、言峰の顔を思い浮かべた。教会では、あの神父が生きていることを確かめた。地下の人たちの救助についても話した。だが、ランサーを誰が従えているのかまでは聞いていない。

 

「……言峰は、俺たちが何をするつもりか知ってるのかな」

 

「分離したいとは聞いたでしょう。でも、その後に何を見つけたかまでは話してない」

 

 遠坂は答えた。

 

「第一、こっちがどんな方法を使うか、敵に親切に説明してやる義理なんてないわ」

 

「そうだな」

 

 ランサーのマスターさえ分からないまま、イリヤに残された時間は減っていく。

 

「もし槍兵が来たら、私とアーチャーが対応します」

 

 セイバーが言った。

 

「シロウは、儀式を担う方たちを守れる位置へ」

 

「俺と遠坂で?」

 

「基本はそう考えています。もちろん、敵の数や位置が違えば分担を変えます」

 

 アーチャーが、少し離れたところから口を挟んだ。

 

「覚えておきたまえ。敵が残っていることを知っているのと、敵がどう動くか知っているのは別だ」

 

「……ああ」

 

「それでも前へ進む、と決めたのなら。相手が自分の予想どおりに来てくれることを期待するな」

 

 あいつはそこで言葉を切った。俺は頷き、包みの上から氷剣を確かめた。

 

     *

 

 桜の部屋の障子は、少し開けられていた。外の光が畳を斜めに横切っている。桜は座っていた。昨日と違い、背中に枕を重ねなくても姿勢を保てている。

 

「……先輩」

 

 俺が入ると、顔を上げた。

 

「具合はどうだ?」

 

「昨日より、ずっと楽です。……まだ、急に立つと少し身体が重いんですけど」

 

「無理はするなよ」

 

「はい」

 

 桜はそう答えてから、俺の後ろを見る。遠坂とイリヤが入ってきた。

 

「サクラ。少し、歩けそう?」

 

 イリヤが訊く。

 

「はい。ゆっくりなら」

 

「じゃあ、立つところから。無理しなくていいわ」

 

 桜が頷いた。遠坂はすぐに腕を掴まず、立ち上がるのを待った。桜は布団の端へ手をついて膝を立て、少し時間をかけながらも、自分で立ち上がった。

 

「……大丈夫?」

 

 遠坂が訊く。

 

「はい」

 

 桜は一歩、二歩、三歩と進んだ。途中で立ち止まったが、呼吸は乱れていなかった。

 

「……これなら、行けそうです」

 

 遠坂は頷かなかった。

 

「歩けるのと、あの場所で何が起きても平気なのは別よ」

 

「……分かってます」

 

「ならいいわ。向こうで何か変わったら、必ず言って。遠慮するなら連れていけない」

 

 桜は少しだけ唇を結んだ。

 

「姉さん。わたし、遠慮してるつもりはないです」

 

「そう?」

 

「……心配してくれるのは分かります。でも、出来ることまで先に決めないでください」

 

 遠坂が瞬きをした。桜は、そのまま続けた。

 

「歩けます。つらくなったら言います。……行きたいって決めたのも、わたしですから」

 

 少しの間、誰も話さなかった。イリヤが頷いた。

 

「うん。ちゃんと聞いたわ」

 

 遠坂は、短く息を吐いた。

 

「……そうね。悪かった」

 

「……いえ」

 

「でも、体調の確認は続けるからね」

 

「それは、お願いします」

 

 桜が小さく笑った。遠坂も、少し口元を緩めた。俺は口を挟みかけて、やめた。桜は遠坂を見ている。遠坂も、その言葉を聞いていた。

 

「……先輩」

 

 桜が呼んだ。

 

「ああ」

 

「わたしが行くことで、皆さんの邪魔になりませんか」

 

 俺は首を振りかけた。けれど、桜は答えを待つようにこちらを見ている。邪魔じゃない、と言うだけなら簡単だった。実際、桜は儀式に必要なことを知っているし、本人がいなければ出来ないこともある。それでも、あの場所へ連れていくのは危険だ。

 

「……桜が必要なんだ。身体のことも、契約のことも、俺たちが勝手に決めるわけにはいかない」

 

「はい」

 

「ただ、危ない場所へ行くのも本当だ。だから、無理させたくはない」

 

 桜は少し考えた。

 

「……それなら、先輩」

 

「うん?」

 

「わたしのことも、ちゃんと頼ってください。出来ない時は出来ないって言いますから」

 

 俺は顔を上げた。

 

「……ああ。頼りにしてる」

 

 桜が頷いた。その時、桜は俺の肩の向こうへ目を向けた。開いた障子の外にある、誰も立っていない廊下をしばらく見ていた。

 

 あの時、桜はそこへ向かって、ライダーの名を呼びかけた。今も、その姿を探したのかもしれない。俺には分からなかった。

 

「……桜」

 

 遠坂が、隣で静かに声をかけた。桜は目を戻す。

 

「……大丈夫です、姉さん」

 

 笑顔ではなかった。でも、目を逸らさずに言った。遠坂はそれ以上、訊かなかった。俺も、黙っていた。

 

 帰ってくる人を、もう一人増やすことは出来ない。それでも、今ここにいる桜を、ちゃんと連れて帰りたい。そう思った。

 

     *

 

 出発する時刻が近づくと、器を洗う音や、紙を畳む音が聞こえてきた。廊下を行き来する足音も増えている。

 

 俺も、出発前に台所へ戻った。鍋の中には、まだ温かい汁物が残っていた。朝から立っている間に何度も腹が空いて、そのたびセラに何か食べろと言われた。自分の家で、こんなに食べさせられるとは思っていなかった。

 

 盆を持ち上げると、セラが振り返った。

 

「エミヤ様。それは、どちらへ」

 

「桜の部屋。もう少しなら食べられるって言ってたから」

 

「そちらは、わたくしがお持ちします」

 

「今度は、俺にやらせてくれ。剣を使うのとは違うんだから」

 

 言い返すと、セラは少し考えるような顔をした。

 

「では、汁をこぼさないように」

 

「……俺、台所のことまで心配されてるのか」

 

「今朝から、何度もお嬢様のお手元を見ていらっしゃいましたので」

 

「……何の関係があるんだよ」

 

「手元をご覧になるのはよろしいですが、盆は水平にお持ちください」

 

 あまりに真顔で言われて、返す言葉がなくなった。俺は盆を持ち直した。廊下へ出ると、リズが大きな布袋を肩に掛けていた。

 

「持ち物?」

 

「そう。留守の間のもの」

 

「……留守の間?」

 

「帰ってきたら使う」

 

 リズは袋の口を押さえた。中身が何かは分からない。だが、セラとリズは、この家に残ると言っていた。

 

「……そっか。助かる」

 

「うん。帰ってきて」

 

 リズは短く答えた。俺は頷いた。自分の家なのに、誰かから帰ってこいと言われることが、不思議と嬉しかった。

 

     *

 

 出発前の最後の食事は、騒がしくならなかった。皆が同じ部屋にいる。それだけで、いつもより人の気配が多い。遠坂は紙を卓の端へ置いたまま、箸を持った。桜はその隣に座っている。セイバーは出されたものを丁寧に食べ、アーチャーは少し離れたところでこちらの話を聞いていた。イリヤは、当然のように俺の隣だった。

 

「シロウ。これ、ちょっとだけ分けて」

 

「いいよ。足りなかったか」

 

「そうじゃないの。シロウの方がおいしそうに食べるから」

 

「……同じ鍋から取ったぞ」

 

「知ってるわよ」

 

 イリヤは笑った。俺は皿の中身を少し分けた。

 

「……はいはい」

 

 遠坂がこちらを見ずに言う。

 

「何だ、遠坂」

 

「何でもないわ。いいから食べなさい。今は腹を空かせてる場合じゃないんだから」

 

 言われて、俺は箸を持ち直した。イリヤは、俺が取り分けたものを口へ運んだ。

 

「……うん。おいしい」

 

「だから、同じだって」

 

「同じでも、いいの」

 

 そんなことを言われたら、これ以上何も言えない。

 

 食事を終え、器を重ね始めた時、桜が俺へ声をかけた。

 

「先輩。帰ってきたら、わたしも何か作りたいです」

 

 俺は顔を上げた。

 

「……何か?」

 

「ちゃんと動けるようになったら、ですけど」

 

 桜は自分の手を見た。

 

「今日はずっと、皆さんに用意してもらってばかりでしたから」

 

「桜は、今日はそれでいいんだよ」

 

 言ってから、少し違うと思った。

 

「……いや。違うな。作りたいなら、一緒に考えよう。帰ってきてから」

 

 桜が目を丸くした。

 

「……はい」

 

 それから、口元だけで笑った。遠坂が俺と桜を見比べ、軽く頷く。帰ってきたら、桜と献立を考える。俺も、作ってもらったものを食べたい。

 

     *

 

 荷物をまとめ終わった頃には、日が傾き始めていた。セイバーが布で包んだ氷剣を持ち、廊下の先で待っている。遠坂は宝石の入った箱を確かめ、アーチャーと短く話していた。桜は自分で履物を揃えている。イリヤは、まだ部屋から出てこなかった。俺が声をかけようとしたところで、襖が開く。

 

「……シロウ」

 

 イリヤが顔を出した。

 

「少し、入って」

 

「ああ」

 

 呼ばれて部屋へ入ると、小さな包みが置いてあった。昨日まで使っていたものとは、少し違う形にまとめられている。銀糸と礼装の周りに余計な布がなく、動いても引っかかりにくそうだった。

 

「セラが直してくれたの」

 

「そうなのか」

 

「うん。あの子、心配すると手が速くなるのよ」

 

 イリヤは包みを持ち上げた。

 

「……本当は、まだ言いたいことがあるんだと思う」

 

「セラが?」

 

「うん。でも、わたしが行くって決めたの、もう知ってるから」

 

 俺は頷いた。イリヤは机や寝具、開けたままの障子へと目を向け、部屋を見回した。

 

「……帰ったら、ここに戻るのよね」

 

「ああ。俺の部屋だけど」

 

 そう言うと、彼女は俺を見た。

 

「何よ。今さら使っちゃ駄目って言うの?」

 

「違う。そうじゃないって」

 

 慌てて首を振る。

 

「イリヤが戻ってくるなら、俺もここがいいって思ってた」

 

 言ってから、少し恥ずかしくなった。イリヤは何も答えず、手に持った包みを床へ置いた。

 

「……シロウ」

 

「ん?」

 

「近くに来て」

 

 一歩近づく。もう一歩、と言う代わりに、彼女は俺の袖を取った。そのまま彼女を抱きしめると、イリヤも背中へ腕を回した。

 

 少しの間、何も言わなかった。廊下の向こうから、誰かが荷物を置く音がする。ここから先は、もう皆と行かなければならない。それでも今、彼女を離したくないと思っていた。

 

「……ねえ」

 

 イリヤが言う。

 

「買い物、何にするか決めちゃった?」

 

「いや。約束しただろ。二人で見るって」

 

「ほんとに、何も?」

 

「……ちょっとだけ考えた」

 

 彼女が顔を上げた。

 

「やっぱり」

 

「いや、別に買う物を決めたわけじゃないぞ。あのお茶、また苦くしたら嫌だろうなと思って」

 

 イリヤが目を丸くする。

 

「……それだけ?」

 

「それだけっていうか。ちゃんと淹れられる茶葉があるか、とか」

 

「シロウ」

 

「何だよ」

 

「わたしが欲しいのは、おいしいお茶だけじゃないのよ」

 

 言われて、口を閉じた。イリヤは俺の胸元に額を寄せた。

 

「一緒にお店を見たり、迷ったり、何でもないことでシロウと喧嘩したり。そういうの、してみたいの」

 

「ああ」

 

「だから、先に決めなくていいの。帰ってから、わたしたちで選ぶの」

 

 俺は頷いた。

 

「……分かった。俺も、それがいい」

 

 イリヤが顔を上げる。

 

「うん」

 

 その返事が、嬉しかった。廊下で足音が近づいた。

 

「お嬢様」

 

 セラの声だった。

 

「皆様がお揃いです」

 

「はーい」

 

 イリヤは答えてから、もう少しだけ俺の服を掴んでいた。俺も腕をほどかなかった。そして、どちらからともなく離れた。

 

「行くか」

 

「うん。行きましょう、シロウ」

 

 イリヤが包みを取るのを待って戸を開け、俺は彼女と一緒に廊下へ出た。

 

     *

 

 玄関には、もう皆が揃っていた。遠坂が桜の襟元を直す。桜は少し困った顔をしたが、今度は何も言わなかった。セイバーは包んだ剣を持ち、いつでも手渡せるように俺の近くに立っている。アーチャーは柱に寄りかかっていた。

 

「……何だよ」

 

「いや。随分と時間がかかったものだと思ってな」

 

「約束の時間には間に合ってるだろ」

 

「そうだな。私もそう思うことにしよう」

 

 あいつは、こちらを見て少し笑った。遠坂が振り返る。

 

「はいはい。揃ったんなら確認するわよ。途中で勝手に先へ行かない。異常があったら声をかける。儀式担当者の近くへ敵を通さない」

 

「……さっきも聞いたぞ」

 

「三回目で覚えたなら、それでいいでしょう」

 

 遠坂は俺を見て言った。

 

「特に衛宮くん。剣があるからって、一人で敵を引き受けるつもりにはならないでよ」

 

「分かってる」

 

「じゃあ、いいわ」

 

 それから、セイバーとアーチャーへ目を向ける。

 

「二人もね。敵が来たら、とにかく儀式の人間を守ること。勝ち負けを急いで役割を忘れないで」

 

「心得ています」

 

 セイバーは真面目に答えた。

 

「善処しよう」

 

 アーチャーは、いつもの調子だった。

 

「……そこは心得てるって言いなさいよ」

 

「分かっているとも。そう睨むな、凛」

 

 遠坂は額を押さえた。桜が、小さく笑った。それを見て、俺も少し肩の力が抜けた。

 

 玄関の脇で、セラが一礼する。

 

「お嬢様。お帰りをお待ちしております」

 

「うん。セラも、リズも。ここはお願いね」

 

「承知しております」

 

 リズは手を振った。

 

「帰ったら、ごはん」

 

「うん。ちゃんと食べるわ」

 

 イリヤが笑った。リズは、俺の方も見た。

 

「士郎も」

 

「ああ。俺も食べるよ」

 

「よし」

 

 それだけだった。セラは、もう一度イリヤへ視線を向けた。

 

「無理をなさらないでください」

 

 いつもと同じ言葉だった。イリヤは、すぐには返事をしなかった。

 

「……うん。無理しないように、ちゃんと考えてきたの」

 

 セラが目を伏せた。

 

「ならば、信じてお待ちしております」

 

「ありがとう」

 

 イリヤは少し近づき、セラの手を取った。二人は何か話したわけではない。けれど、イリヤが手を離した時、セラは深く頷いていた。俺は、そのやり取りを見ていた。イリヤが俺と会うよりずっと前から、彼女の帰りを待つ人はいた。今日は、その二人が俺の家で待っていてくれる。

 

「行ってくる」

 

 俺が言うと、セラは頭を下げた。

 

「行ってらっしゃいませ、エミヤ様」

 

 その声を聞いて、俺は戸を開けた。

 

     *

 

 外へ出ると、空はまだ明るかった。夕方の風が家の塀に沿って流れている。六人で門へ向かう。遠坂は桜のすぐそばにいたが、腕を引いてはいない。桜も、自分の歩幅で歩いている。イリヤは俺の隣だ。

 

 俺は門の前で立ち止まり、振り返った。衛宮邸の屋根が見えた。庭木の上に、いつもの空がある。

 

 あの家に帰りたい。昨日、イリヤと約束した買い物もある。桜は、また料理を作りたいと言った。戻ってからのことが、一つずつ増えていた。

 

「シロウ」

 

 イリヤが、俺の袖を引いた。

 

「なに?」

 

「また考えてる?」

 

「……少し」

 

「ふうん」

 

 彼女は俺を見上げた。

 

「じゃあ、わたしも考えてること、教えてあげる」

 

「何だよ」

 

「今日は、シロウの隣にいるってこと」

 

 思いがけない返事だった。俺は、イリヤを見た。

 

「それ、さっきもそうだったろ」

 

「そうよ。だから、今も同じにするの」

 

「……ああ」

 

 俺は彼女の手を取った。イリヤが笑う。

 

「ほら。そんなに難しくないでしょう?」

 

「そうだな」

 

 答えると、遠坂が少し先から声をかけてきた。

 

「お二人さん。行くわよ」

 

「今行く」

 

 イリヤが手を引いた。俺は門を閉め、皆の方へ歩き出した。

 

     *

 

 山へ近づく頃には、日はほとんど沈んでいた。移動している間、遠坂とアーチャーは時折短い言葉を交わしていた。アーチャーはずっと姿を見せていたわけではない。必要な時だけ近くに現れ、周囲を確かめてまた離れる。

 

 セイバーは包みを持ったまま、少し前を歩いていた。何度かその背中を見たが、剣を返してほしいとは思わなかった。使う時に受け取ればいい。

 

 道が狭くなったところで、桜が足を止めた。

 

「……少し、待ってもらえますか」

 

 全員が立ち止まる。俺も振り返った。

 

「大丈夫か、桜」

 

「はい。息を整えたいだけです」

 

 遠坂が隣へ立った。

 

「休める?」

 

「ええ。ここなら」

 

 桜は道端の平らな場所へ移り、ゆっくり息をした。イリヤが様子を見る。

 

「今、胸は?」

 

「……少し重いです。でも、さっきほどでは」

 

「うん。悪くなっていないなら、ここで一度休みましょう」

 

 桜が頷く。セイバーは周囲を見張り、アーチャーも少し離れたところへ視線を向けた。俺は、その様子を見ていた。桜の息が落ち着くまで、誰も歩き出さなかった。

 

 やがて桜が顔を上げた。

 

「……もう、大丈夫です」

 

「よし。じゃあ行こう」

 

 俺が言うと、桜は頷いた。遠坂が桜の隣につき、俺たちはもう一度歩き出した。空から色が失われていく。大聖杯へ続く道は、まだ先にある。

 

 隣にいるイリヤの手を、そっと握り直した。この手を取って、同じ道を戻る。そう思いながら、暗くなった道の先を見た。

 

     *

 

 イリヤの示した入口をくぐり、地下へ下りた。外の風は、もう届かない。靴底が石を踏むたびに、狭い通路の奥から足音が返ってきた。

 

 しばらく進むと、左右の岩壁が不意に遠ざかった。思わず、顔を上げる。

 

 広い。

 

 奥の薄明かりに照らされて、岩床が遠くまで続いていた。見上げた先には岩の天井がある。けれど、その高さも、壁までの距離も、すぐには掴めなかった。山の下に、これほどの空間があったのか。

 

「……ここが、大洞窟か」

 

「ええ。大聖杯は、奥よ」

 

 イリヤの声が、頭上へ小さく響いた。全員が通路を抜けたところで、セイバーが足を止めた。俺は、何が起きたのか分からず、半歩遅れて足を止めた。

 

「……セイバー?」

 

 返事の代わりに、彼女が包みを差し出した。

 

「シロウ。剣を」

 

 声が低かった。包みを受け取ると、冷えた板が掌に触れた。刃へ余計な衝撃を与えないよう、布をほどいて板を外す。その間も、セイバーは前を見たままだった。

 

 遠坂が桜を後ろへ下げる。イリヤは俺の隣で立ち止まり、指先から細い銀糸を伸ばした。

 

「……いるの?」

 

「はい」

 

 セイバーが答える。

 

「前方です」

 

 アーチャーが姿を現した。俺たちより少し前へ出て、洞窟の奥を見ている。岩壁から離れた広い岩床の上に、一人の男が奥への進路を塞ぐように立っていた。

 

 青い衣をまとい、長い槍を持っている。何も隠そうとせず、まっすぐこちらを見ていた。

 

「……ランサー」

 

 俺が呟くと、男は口元を吊り上げた。

 

「よう。ずいぶん大所帯じゃねえか」

 

 軽い口調だった。だが、手にある槍は少しも揺れていない。

 

「こんな地下まで揃って来るとはな。見物ってわけでもあるまい」

 

 俺は答えなかった。ランサーがここへ来た理由は分からない。あの男のマスターが誰なのかも、まだ分かっていない。ただ、大聖杯へ向かう俺たちの前に立っている。

 

「そこを通してもらうわ」

 

 遠坂が言った。ランサーは肩を竦めた。

 

「そいつは、ちょいと無理な相談だな」

 

「……退くつもりはない、ということですね」

 

 セイバーが前へ出た。

 

「悪いな、嬢ちゃん。そういう役目で来てるんでね」

 

 男は笑った。どこまでが本人の言葉で、どこからが誰かの命令なのか、俺には分からない。けれど、その足は進路から外れなかった。

 

 セイバーが一歩、踏み出す。アーチャーも、その隣へ出た。

 

「……まったく。ここで足止めを食うとは、割に合わん仕事だ」

 

 赤い弓兵が言う。

 

「文句は、終わってから聞く」

 

 青い槍兵が槍の先を少し下げると、穂先は岩床すれすれの高さで止まった。

 

 氷剣の柄を握ると、いつもの重さが右腕に戻った。左手には、まだイリヤの指先の感触が残っていた。

 

 背後で桜が静かに息を吸う。遠坂が一歩下がる足音が、岩壁に返った。

 

 セイバーとアーチャーは、二人とも前を向いている。槍兵も、動かない。

 

 広いはずの岩床が、槍兵の立つ場所で断ち切られて見えた。奥へ行くには、あの穂先の前を通らなければならなかった。

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