Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
槍の穂先がほんの少し下がると、それだけで、岩床の向こうに立つ男の間合いが変わった気がした。
大洞窟は広い。頭上には幾重もの岩襞が垂れ、奥へ行くほど闇が厚く、濡れた石だけが鈍い光を返している。どこかで落ちた水の音が、忘れた頃にもう一度響いた。通れる場所なら、いくらでもあるように見えた。なのに、青い槍兵の持つ朱い穂先を見た途端、その広さが消えた。右も左も、あの刃へ続いている。喉の奥へ冷たい針を差し込まれたようで、唾さえうまく呑み込めなかった。
「……通す気はないんだな」
俺が言うと、ランサーは笑った。
「最初からそう言ってるだろ。聞き分けの悪い連中だ」
「通るだけだ。あんたと戦いに来たんじゃ――」
「シロウ」
こちらを見ないまま、セイバーが俺の言葉を遮った。
「奥へ進んでください。ここは私たちが引き受けます」
「……分かった」
セイバーの横で、アーチャーが片腕を上げる。細い光が指の間を走り、黒白の双剣――干将・莫耶へ凝った。手首が、その重みに沈む。
「先に言っておくが」
「何だよ」
「我々の方へ戻るな。あの槍に巻き込まれれば、守るべきものが増えるだけだ」
腹が立つ言い方だ。けど、間違ってはいない。右手の氷剣を持ち直す。握った柄から、骨にまでしみるような冷たさが伝わった。庭で確かめた感触と変わらない。あの時は、すぐそばに日向の土の匂いがした。今は石と水の匂いばかりが、冷えた鼻の奥に残った。
「遠坂、桜を」
「分かってる。あんたこそ、前に出すぎないで」
「シロウ、こっち」
イリヤの手が、俺の左袖に触れた。振り向きかけた、その時だった。
石が鳴った。靴底から突き上げる震えが膝へ届き、遅れて、耳のすぐそばで硬いものが裂けた。
*
何が起きたか、見えなかった。白い火花がセイバーの正面に散った。闇へ叩きつけられた星屑のように、それは鎧の縁を照らして消えた。槍と剣がぶつかったのだと理解したのは、もう二度目の火花が飛んだ後だ。
ランサーの姿が右へ流れる。いや、右へ動いたのではない。そう見えた時には既に、セイバーの背後へ回ろうとしている。
セイバーが振り向かずに身体を半歩ずらすと、見えない剣の切っ先が槍兵の足元を払った。
青い男は笑って跳ぶ。
「ははっ、そうこなくちゃな!」
そこへアーチャーの双剣が入った。片方を投げ、片方を持って踏み込む。投げられた白い刃がランサーの肩を狙い、同時に赤い影が左へ走った。
槍の柄が一度回り、白い刃が弾かれた。黒い刃が擦れる中、赤い弓兵が身を翻す。石を蹴る音が三つ重なった。
もう、目では追えない。二人の向こうに、奥へ走れる道が開いていた。
「行くわよ!」
遠坂の声がした。
俺はイリヤの手を取り、奥へ向けて走り出した。桜が遠坂と並んでいるのを確認する。桜の足がもつれないよう、速さを合わせる。
岩壁が左に迫った。前方へ大きく張り出した岩の向こうに、奥へ抜ける道が見えた。
背後で爆ぜる音がして振り返ると、ランサーが岩を蹴り、こちらへ抜けようとしていた。セイバーの剣が、その進路へ割って入る。
さらにアーチャーが、双剣を投げ捨てるように手放した。二本の刃が別々の角度から青い槍兵を挟む。弓兵の手には、もう次の黒白があった。失った刃を追う目の動きさえない。
ランサーは姿勢を崩さない。身体をひねって片方をかわし、もう片方を槍で弾く。その反動まで利用して、セイバーの懐へ踏み込んだ。
見えない剣が、槍の穂先を横から押した。セイバーは俺たちへ目を向ける暇もない。
「……セイバー!」
名前を呼ぶと、鎧の肩越しに短い返事だけがあった。
「行ってください!」
俺はそれ以上、呼ばなかった。
*
張り出した岩を回り込むと、足音が少し変わった。天井の高さは変わらないのに、音は急に遠くなった。前方の床を走る亀裂には水が溜まり、靴音のたびに細い光が震える。黒い石柱が幾本も、その光を途中で断っていた。柱の向こうに何があるのか、ここからは見通せない。その先が、大聖杯へ続くはずだった。
俺たちは岩壁を背にして足を止めた。息を整えようとする桜へ、遠坂が近づく。
「大丈夫?」
「……はい。まだ、歩けます」
「今は歩かなくていい。一度確認するから」
遠坂は桜の返事を待ってから、身体を支えた。イリヤが俺を見上げる。
「シロウ、向こうは?」
「二人が引き受けてくれてる。……今は、戻らない方がいい」
俺自身へ言い聞かせるみたいな声になった。イリヤは頷き、俺の剣を見た。
「握りすぎ。指、固くなってる」
「……そうか?」
「さっきから、動いてないもの」
言われて初めて気づき、力を抜いた。柄の温度は変わらない。それでも、手首まで冷えが食い込むような感覚は少し薄れた。袖に触れたイリヤの指が、少し動いた。繋いだ道を通って、力が届く。銀髪が、風もないのに頬から浮いた。
「……助かる。けど、イリヤの方は大丈夫か」
「わたしの中だけから出してるんじゃないわ。周りの魔力も集めて、シロウが使えるようにしてるの」
岩と湿った空気のあいだから、彼女へ流れが寄ってくる。その気配が、繋いだ道の向こうから伝わった。冷たい泉を掌で温めて渡されるように、俺の内側へ力が満ちていく。
「ありがとう」
「うん。……帰ってから、また手を見せてね」
「ああ」
返事をすると、彼女は嬉しそうに笑った。袖にはまだ指が触れている。帰ってから、という言葉を、胸の中でもう一度繰り返した。
けれど次の瞬間、その表情が消えた。
「……誰か、いる」
石柱の間から響いた靴音に、遠坂が顔を上げた。濡れた床に、一つ。それが壁から返る前に、もう一つ。こちらの呼吸とは少しも合わない間隔で、足音が近づいてくる。
「これはまた、揃っているな」
聞き覚えのある声だった。黒衣の神父が、石の陰から現れた。暗がりから黒を一枚剥がしたように、まず肩が、次に顔が見えた。その口元には、足音と同じ、急がない笑みがあった。
「……言峰」
俺は剣を持ち上げた。教会で会った時と同じ顔だった。その男が、どうしてここで待っている。
「監督役が、こんなところで何をしてるんだ」
「監督役らしい仕事、と言って納得するかね」
「しない」
「ならば説明しても無駄だな」
神父の目が俺を通り越し、イリヤと桜へ向いたので、俺は半歩、視線を塞ぐ位置へ出た。
「待ってくれ。俺たちは、聖杯を壊しに来たんじゃない」
言峰の足が止まった。
「ほう」
「あんたには無理だって言われた。でも、調べて、やれることを見つけた。桜との接続を切って、大聖杯に残ってる汚染も――」
「分離する、と?」
「ああ」
言峰はしばらく黙った。
遠坂が言った。
「出来るかどうかを確かめるのよ。少なくとも、何もせず放置する気はないわ」
「どのような技術を用いるか、私に説明するつもりはないのだろう」
「当然でしょう。あんたがそこにいる理由すら分かってないんだから」
言峰は僅かに口元を緩めた。
「まったく、良く似たものだな。危険と知りながら手を伸ばす。その理由はいつも正しいつもりでいる」
「正しいかどうかなんて、まだ分からない」
俺は答えた。
「でも、イリヤも桜も、ここに来るって決めた。俺も一緒に来た。誰かに押しつけられてるわけじゃない」
イリヤが俺の横へ出る。
「そうよ。わたしが決めたの。シロウ一人に任せるつもりもないわ」
「……なるほど」
言峰はイリヤへ視線を向けた。
「それは困る。おまえたちは、器を残したまま中身だけを除こうとしているらしい」
「何が困るんだよ」
「私には、その中身が必要だからだ」
声は落ち着いていた。すぐそばでイリヤの肩が俺の腕に触れている。言峰はその彼女を見ながら、同じ調子で話していた。
俺は氷剣の柄を握り直した。この男は、汚染されたままの聖杯を望んでいる。
*
「その前に、一つ答えろ」
俺は言った。言峰が目を細める。
「何だ」
「教会の地下にいた人たちは、どうなった」
返事がない。
「救助を頼んだだろ。あんた、引き受けたじゃないか」
「戦う前に、そちらの心配か」
「それもある。あの人たちは、ここまで来られないんだから」
言峰は、わずかに天井を見上げた。
「手配は進めた。処置を必要とする者から移している。全員が安全な場所へ出たとまでは言わんが、私がここにいなければ止まる仕事でもない」
「本当なの?」
遠坂が問い返す。
「おまえに信用されるために言ったわけではない。必要なら、後で確かめるといい」
「……そうする」
言峰は意外そうな顔をしなかった。あの地下を出た人がいるなら、帰ってから自分の目で確かめる。俺は息を入れた。
「なら、ここから先は俺たちの話だ」
「そうだな」
言峰が右手を持ち上げると、こちらへ向けた手の甲に赤い紋様が見えた。遠坂が息を呑んだ。
「……綺礼。それ」
「今さら気づいたか」
赤い光が、指の間を這う。俺の手にも、かつて似たものが浮かんだ。
令呪だ。ここにいる神父が、誰へ命令するというのか。遠い岩床で、剣と槍の音が一度途切れた。言峰が言った。
「令呪を以て命ずる」
一語ずつ、明瞭だった。
「ランサー。大聖杯へ通じる道を死守せよ。持てる死力のすべてを尽くし、あの二騎を退けろ」
赤い紋様の一画が、灼けるような光となって消えた。指の骨まで透かして見せる朱が、黒い袖口を染める。光が引いた後の手の甲は、もう何事もなかったように白かった。
胸の奥が冷えた。
「……ランサーの、マスターは」
「私だ」
言峰は答えた。
「驚くほどのことではあるまい。監督役は中立であるべきだ、とでも?」
遠坂の声が鋭くなる。
「中立であるべきよ。あんたがそれを言うの?」
「義務に対する感想は、戦いの後に聞こう」
言峰の右手から、淡い煙のような魔力が消えた。俺は遠坂の表情を見た。怒りだけではない。自分が知らずにいたことへの悔しさも混じっていた。
*
洞窟の入口側で、空気が弾けた。剣と槍の音ではなく、大きな獣が長い間閉じ込められていた檻を蹴破ったような音だった。岩の向こうから笑い声が届く。
「――は、ははっ!」
反響が、天井を渡った。重なった笑い声が岩襞へ裂けて、幾つもの喉で笑っているように聞こえた。
「やっとかよ、神父!」
槍兵が、笑っている。
「最後までつくづく気に食わねえ野郎だが……!」
その声が、急に近くなった。
「最高の命令じゃねえか!」
すぐ後に鋼鉄の衝突音が連続した。俺は振り返りかけたが、言峰が半歩動いただけで正面へ向き直った。あの男は、これまででも十分に速かった。それが今、岩の向こうでなお加速している。死力を尽くせという命令を、心底気に入ったらしい。
「……喜んでるのね、あいつ」
イリヤが呟いた。
「ああ」
言峰の声が返る。
「何をさせるよりも、あの男には戦わせるのがよい」
「それを知ってて、今まで縛ってたってわけ?」
遠坂が言った。
「使うべき時まで温存していた。それだけのことだ」
俺は言峰の右手を見た。サーヴァントも手段だと言い切る男の向こうで、槍兵の笑い声だけが、妙に晴れやかだった。
*
遠坂が桜を岩壁側へ導いた。
「そこの石柱の陰なら、正面からの射線が切れる。イリヤ、お願い」
「うん。サクラ、こっちへ。無理ならすぐ言ってね」
「……はい」
桜は自分の足で位置を変えた。俺が支えようとすると、小さく頷いてくれたが、すぐに遠坂の指示へ注意を戻した。
俺たち四人の立ち位置が決まるまで動かない言峰が、妙に気に入らなかった。
「……待ってくれるのか」
「聞こえのよい礼儀を期待するな。おまえたちがどう動くか見ていただけだ」
言峰は歩き始めた。俺は剣を斜めに構える。氷剣の刃は長い。正面から来る相手なら、簡単には入れないはずだ。
そう思った瞬間、言峰は右手の指を動かした。黒い線が飛んだ。
「右!」
遠坂の声。剣を上げると、黒鍵が刀身を擦り、耳のそばで甲高い音を立てた。
次は低く来た。右足を引いた時、言峰の靴がもう俺の間合いに入っていた。
「っ!」
刃を下げる。
遅い。
拳が胸へ入り、息が途切れた。衝撃に押され、俺は岩床を滑った。身体が浮きかけたところで、凍った床に踵が引っかかる。自分の剣が残した霜だった。
転ぶ。黒衣が迫る。その足元へ、遠坂が指を向けた。黒い魔力弾が石を打つ。弾けた石屑が頬を掠め、迫っていた靴の影が揺れた。言峰が膝を引く。その隙に、俺は左足から起き上がった。
言峰は、もう別の間合いにいる。
「……師匠に向けるものではないな、凛」
「教える相手を間違えたと思ってる?」
「いや。なかなかよく育った」
「そういうところが嫌いなのよ!」
遠坂が指を払うと、言峰は二発目のガンドを避けた。だが、避けた先へ俺の剣が届いた。刀身が黒衣の裾を捉え、白い霜を残す。
神父は大きく後退しなかった。襟を掠める寸前で身を落とし、肘を俺の腕の内側へ当てる。剣が外へ流れた。
柄を握り直そうとした手首に、言峰の掌が触れた。身体の向きが変わり、壁と地面が入れ替わる。
「……っ、くそ!」
どうにか膝を着いて受け身を取った。右手は動く。なのに、剣を振らせてもらえない。あいつは刃の届く範囲へ入りながら、手首一つで俺を崩す。
なら、剣だけで勝とうとするな。
氷剣の切っ先を石へ触れさせると、細い霜が言峰との間に白い線を引いた。
「……なるほど」
神父が低く言った。
「教会で会った時とは、少し違うようだ」
「分かるなら、近づいてくるなよ」
「できるかどうか、試してみよう」
言峰が動いた。
*
遠坂の宝石が、一つ光った。指先で挟んだ石の奥に、金色の火が灯る。
「――Vier Stil Erschießung!」
黄色の閃光が、言峰の踏み込み先を撃った。岩肌の凹凸が一瞬、裏返ったように白く浮いた。眩しさの底で、石の砕ける音がした。光が消えた時、遠坂の指の間には、宝石の欠片だけが残っていた。遠坂は破片を見もせず、次の石へ指を伸ばす。この先にはイリヤの儀式も残っている。使わせ続けるわけにはいかない。
「遠坂! 次は俺が――」
「言わなくていい! 右の柱まで三歩!」
俺が三歩動くと、言峰も動いた。だが、その進路は先ほどの閃光で白く曇っている。霜と砕けた石の間へ、言峰が足を置く。そこしかないと分かっていれば、俺にも振れる。
横から走らせた氷剣を、黒鍵が受け止めた。力では敵わない。だが、剣から走った冷気が黒鍵を伝い、言峰の指先へ届く。神父の手がほんの僅かに遅れた。
遠坂の声。
「今!」
肩から押し込もうとしたところで言峰の膝が動き、腹へ衝撃が来た。
剣を落としそうになった。目の前の黒衣が近い。相手は、自分の指が冷えたことまで攻撃の一部に組み込んでいた。
「……浅い、と言ったはずだ」
言峰の声が頭上から落ちる。俺は身体を捻り、剣を手放さないまま岩床を転がった。遠坂が割り込む。足を踏み替え、言峰の伸びた腕へ短い打撃を入れる。あの神父から習った体術なのだろう。自分より大きい相手の力を、まともには受けない。だが、言峰は彼女の動きも知っている。肘を引いて受け、肩を回して返そうとする。
その間に、銀の細い線が二人の間へ走った。
「リン、下がって!」
イリヤの声。遠坂が身体を引く。銀糸が柱から柱へ結ばれた。ついさっきまで何もなかったところに、光を細く削ったような糸が張っている。言峰の膝の前で、それが一度、澄んだ音を立てた。神父は足を止め、糸を避けて側方へ回った。一瞬だけ、息を継ぐ間ができる。
イリヤが俺を見る。
「シロウ、息!」
息を吐く。気がつけば、吸うより先に身体を動かしていた。
「……分かった」
イリヤは短く頷く。俺は握った柄へ目を落とす。さっきは、この一本を離せなかった。失えば次を作るまでに、あの拳が届く。
――なら、まだ握っているうちに、次を用意できないか。
刃を上げ、言峰を見たまま、もう一本の形を思い描く。
「――投影、開始(トレース・オン)」
光が指先に滲みかけた。まだ出すな。今ここに二本あっても、扱えない。形になる寸前で、力を止めた。背骨の奥が軋む。消えた、と思った。だが、指先から光が引いたあとも、どこかに冷たい手触りが残っている。そこへ意識を戻す。力むと薄れ、息を吐いた拍子に、また触れた。
「シロウ……?」
「……もう少し、そのままで」
イリヤは俺の手元を見て、短く頷いた。
「うん。息は止めないで」
浅く吸い、吐く。彼女から届く流れに沿って、背中の痛みが少しほどけた。
「――工程完了(ロールアウト)」
剣は外へ出ていない。それでも、呼びかければ届きそうなところに、さっきの形が残っていた。確かめる暇もなく、糸を回り込んだ言峰の靴が見えた。俺は手の中の一本を構え直した。背後には桜がいる。このまま追い詰められるわけにはいかなかった。
*
小さな足音がして、桜が石柱の陰から半歩出ていた。
「……桜、そこにいてくれ」
「はい。でも、先輩」
視線が、床へ落ちる。
「右の壁、少しだけ響き方が違います」
「壁?」
「この辺り、石が……薄いところがあるのかもしれません。足音が向こうへ抜けるように聞こえて」
桜は言いながら、また柱の陰へ戻った。俺は右側の壁を見た。亀裂が一本、上へ伸びている。どうやらそこだけ岩の厚みが違うらしい。言峰はその壁へ目を向けた。
「よく観察しているな、間桐桜」
桜が小さく身を固くする。
「桜を見てる暇があるなら、こっちを見ろ」
俺が言うと、神父は笑った。
「どちらを見ても、同じことだ。おまえは人を守ろうとする。その分だけ、行動を読む手掛かりが増える」
桜が危険なら、飛び出すしかない。言峰は、そこを見ている。
「遠坂」
「何?」
「こっちの動き、読まれてる」
「ええ。見れば分かる」
ひどい返事だ。だが遠坂は怒っていない。使い切った宝石の灰を踏まないように足を引き、俺の左横へ移っている。
「だったら、見せたい動きを見せればいいのよ」
「……わざと読ませるってことか」
「そうよ。あの男、わたしたちの手を先に読みたがるでしょう。それを利用すれば、あんたが遅いままでも次を作れる」
遠坂の開いた掌に、薄い緑色の宝石が一つあった。昨日、試験の時に最後まで使わずに残していた石だ。
「本番用だ。今ここで使っていいのか」
「使わずに死んだら、もっと馬鹿でしょうが」
それは、そうだ。遠坂の親指が結晶の角を撫でる。爪の間から滲んだ緑が、血の気を失った指先を透かしていた。
「聞いて、衛宮くん。今からあんたが正面へ出る。綺礼は正面の剣を避けて、あんたの右へ回るはず」
「そこで魔術を撃つのか?」
「それを期待させる。実際には、撃たない」
遠坂が笑った。言峰はその会話を聞いていた。聞かせている、と言った方が正しい。
「……随分と親切な作戦会議だな」
「ええ。教えてあげるわ。どうせあんた、疑うでしょう」
俺は剣を構え直した。言峰が正面へ踏み込み、急に右へ動いた。読んでいた通りだ。
俺は剣を振る。神父が脇へ回る。遠坂の掌が光った。言峰は、その手を見て即座に左へ重心を移した。撃たれるはずのない魔術を避ける動き。
左足が俺の置いた霜の上へ乗り、わずかに滑った。その一瞬を、俺は狙っていた。
返した氷剣が言峰の黒衣を掠め、切れた布が落ちた。白い霜が散る。
「……っ」
初めて、こちらの攻撃が先に届いた。
だが、言峰は止まらなかった。傷んだ上着など捨てるように身体を回し、俺の懐へ入ってくる。柄を持つ手を強く打たれ、肩が痺れた。
剣が右へ引かれる。言峰の手が首へ伸びた。イリヤが銀糸を放つ。神父はその先端を黒鍵で弾き、距離を取った。
数呼吸の攻防で、俺は肩で息をしていた。
「……今ので、少しは動かせたな」
「ええ。けど、同じ手はもう通じないと思いなさい」
遠坂が言った。掌の宝石は、まだ残っていた。
「次はまた別の手よ。こっちだって、あの男の思ったとおりに動いてやる必要はないんだから」
俺は剣を持ち直した。視界の端に、桜の見つけた亀裂がある。遠坂の宝石も、イリヤの銀糸も。俺一人の動きを読まれたところで、終わりじゃない。
*
言峰は、剣の正面へは入ってこなくなった。刀身を前へ置くと、その外側を回る。追って振れば手元へ潜られ、掌と肘で剣の向きを変えられる。長い刃を持っているのは俺の方なのに、動かされているのも俺だった。手首の痛みが、少しずつ肘まで上がってくる。
「……嫌な戦い方だな」
息と一緒に言うと、言峰の口元が上がった。
「敵に好かれる必要があるのかね」
「そんな話じゃない!」
剣を振る。神父が一歩引く。返ってきた黒鍵が、靴のすぐ脇へ刺さった。反射的に足を引く。その先の石は斜めに傾いていて、乗せた体重が踵から外れた。しまった、と思った時には、もう言峰の拳が来ていた。
肘を打たれて腕が開き、がら空きになった胸の前を、銀が横切った。石柱から伸びた糸が神父の手首へ絡み、ぴんと張る。細い光に止められた拳が、目の前で一瞬、震えた。
黒鍵が糸を断つ。切れた先が暗がりへ跳ねた時、俺はどうにか腕を引き戻していた。
「……助かった!」
「シロウ、今のは前に出すぎ!」
背後から声が飛ぶ。
「分かってる!」
「分かってるなら、次はちゃんと見て!」
言い返しかけて、口を閉じた。糸が拳を止めてくれた間に、退けたはずだ。剣ばかり強く握っていた指が、痺れていた。
「……分かった。もう少し、周りも見る」
「うん」
今度の返事は柔らかかった。振り向くことはできない。それでも、イリヤがほんの少し笑った気がした。
*
遠坂の視線が、俺の剣から石柱へ動いた。中央の柱の左には、少し広い床がある。右側は割れた岩が重なっていて、靴を置く場所さえ選ばなければならない。
「衛宮くん、右へ下がって」
「……そっちは足場が悪いぞ」
「分かってる。足元を見て、下がって!」
俺が右へ動くと、言峰は剣の正面を避け、広い方から回り込もうとした。遠坂が右手を上げた。神父は身を低くしたが、魔力弾は飛ばなかった。代わりに、遠坂の左手が青く光っている。
「……あんたの教えたことよ。相手がどこを見るか、自分で決めさせない」
宝石の光が、石柱の根元へ走った。岩が濡れたように艶を帯び、次の瞬間、薄い氷に包まれる。俺の剣が這わせた霜へ青い光が届くと、細かな結晶が葉脈のように枝分かれして、床の窪みを埋めていった。左と右を繋ぐ、凍った帯ができた。
言峰が足を止めた。遠坂の掌で、乾いた音がした。光を失った石の欠片が、指の間から零れる。
「……これで、来る方を絞るんだな」
「そう。あの男も、一度に二方向へは動けない」
「でも、あいつなら跳ぶだろ」
「ええ。だから跳んだ先を、あんたが見るのよ」
俺は頷いた。言峰が低く笑う。
「凛。教えた覚えのある技術を、なかなか器用に使う」
「ありがと。次はもう少し痛いのを見せるわ」
「期待しておこう」
神父は凍った床の端へ、靴先を置いた。氷の薄皮が、ぱり、と鳴る。次に動いた足は、もう別の石を選んでいた。さっきまで踏んでいた場所へは戻らない。こっちが覚える間に、あいつも覚えている。
隣で、遠坂が残りの宝石を指で探った。石同士の触れる小さな音がした。俺はそれを聞きながら、言峰の次の一歩を見た。
*
背後の岩の向こう、入口側で、また槍と剣が衝突した。音が岩天井を渡る。遠くでアーチャーの声がした。何か短く言ったようだったが、言葉までは聞こえない。続いてランサーの哄笑。
言峰から目を離せない。隣には遠坂、背後にはイリヤと桜がいる。今は、ここを守る。
言峰の右手に、新たな黒鍵が三本現れた。どれが飛び、どれが手元に残るのか。俺は指の動きを追った。
「……おまえたちが考えた方法とやらを見てみたい気もする」
「なら、退いて見てろよ」
「残念ながら、それでは私の望みが叶わん」
言峰が一歩前へ出る。俺は剣を構え直した。足元の霜が柱の根元まで届いていた。薄氷に閉じ込められた宝石の粉が、黒鍵と剣の打ち合う火花を拾って、瞬くだけの光を返す。靴を引くたび、その小さな明かりが砕けた。そんなものを見る余裕があるなら、まだ動ける。
「……遠坂。あいつ、次は右へ来る」
「根拠は?」
「左には糸が残ってる。正面の床は割れてる。あの速さなら、右の柱の陰を使う方がいい」
遠坂は一瞬、足元を見た。
「……分かった。そこは任せる」
信じてくれた。
言峰が予想どおり右へ動き、俺は氷剣を構えた。
しかし、今度の神父は二歩目で向きを変えた。正面から来るはずだった攻撃が、俺の左肩へ向かう。二歩目まで読めていなかった。
剣を引き戻す間に、黒鍵の先端が肩を掠めた。熱いものが服の下を流れた。剣の冷たさに慣れた腕には、その細い流れだけが、ひどく鮮明だった。
俺は歯を食いしばる。遠坂の手が上がる。それより早く、言峰の拳が俺の胸へ迫った。
岩壁が背中に近い。逃げ場がない。
その時、遠くの戦場で地鳴りがした。何が起きたか、確かめる暇はない。二人もまだ戦っている。その震えが、背中の岩から伝わった。
目の前の拳を剣の柄で受けると、衝撃が腕へ走った。骨の芯を鐘のように打たれ、指の感覚が白く遠のく。それでも、柄は掌に残っていた。踵を石へ押しつける。震えた膝が、どうにか身体を支えた。
まだ、立っている。俺が剣を握っている限り、ここから先へ、簡単には通さない。