Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
赤い荒野には、風が吹いていなかった。抜き放たれた剣が、その静けさを長く鳴らしていた。鋼を打つ鋼の響きが、地に刺さった刃を渡り、遠い歯車の軋みへ溶けてゆく。朱槍が聖剣と触れるたび、火花だけが高く舞った。
アーチャーの左肩から血が落ちた。その赤は、荒野の色へすぐに紛れる。乾いた砂に吸われた一滴を、次の足音が踏み消した。
ランサーが槍を握り直した。胸より高く穂先を上げ、大きく腕を引く。二騎を射程に収めた投擲の構えだった。
「いい加減、そっちの工房にも慣れてきたぜ」
槍兵が笑う。
「なら、そろそろ店じまいにしてもらおうか!」
セイバーは剣を立て、アーチャーの前を守る位置から、僅かに脇へずれた。槍兵の動きを見失わず、弓兵の右手が上がる場所を空ける。
「来ます!」
アーチャーはその声を聞くより先に、地へ片膝をついていた。槍を握る腕と踏み込んだ足を捉え、アーチャーは右手を開いた。双剣では足りない。
ランサーの魔力が穂先へ集中する。それまで槍の周囲を流れていた赤い光が、柄へ吸い込まれた。刃の輪郭が失われるほど密度を増し、真紅の線だけが槍兵の腕の先に残る。
魔槍が、血を求めて鳴った。
槍兵が地を蹴った。青い身体が剣の切っ先を越え、紅い空へ跳ね上がる。高みで腕を引き絞り、瞳を歓喜に細めた。騎士王も弓兵も、逃げない。二人を見据え、槍兵は叫んだ。
「――突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)!」
朱が、空を貫いた。空気が一筋、灼けたように白く裂ける。その中心を、槍の赤だけが濃く、まっすぐに落ちてきた。
*
セイバーは朱槍を捉えていた。だが、距離を測れない。朱槍の前にあるものが、ことごとく押し潰されてゆく。空気も、赤い砂も、地へ並んだ剣の切っ先も。飛来する一本の槍に、荒野そのものがめくり上げられるようだった。遠くの歯車の影まで、歪んだように見えた。
その槍の軌道へ、アーチャーが手を翳す。呼び出すのは盾。七つの花弁が、掌の先へ重なった。
「――熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)!」
透明な花が、赤い空の下に開いた。薄紫の光が、円を抱くように幾重にも広がる。重なった七枚の花弁の奥で、翳した弓兵の指が黒い影になった。破壊を迎えるための花は、息を呑むほど静かに咲いていた。
最初の花弁が槍に触れ、破裂した。二枚目が砕け、三枚目の中心が裂ける。朱槍はなお進む。砕けた三枚の光が尾を引き、薄紫の破片となって散った。
アーチャーの肩が沈む。
セイバーはその背後へ回った。盾の正面に割り込む余地はない。聖剣の大きな力を解き放つには、仲間が近すぎた。彼女は剣を低く構え、槍兵が追って踏み込む側へ身体を向けた。
四枚目が裂け、五枚目、六枚目と続く。
アーチャーの右腕から血が噴いた。盾へ受けた破壊が、肉と骨へ食い込んでくる。膝が砂を削り、押し戻される踵の前に、深い溝ができた。
それでも、手は下がらなかった。
七枚目の花弁へ、朱の穂先が触れる。薄紫の光が軋んだ。亀裂が一つ走る。その先がさらに枝分かれし、花弁の縁まで届いた。
アーチャーは息を止めた。開いた指の間を血が伝う。掌の向こうで、槍はなお回り、なお貫こうとしていた。
最後の光が、深く撓んだ。
朱の前進が、止まる。
次の瞬間、花弁と赤い閃光が、ともに弾けた。轟音。溜め込まれた衝撃が大地を抉り、折れた剣と土砂を噴き上げる。薄紫の欠片が雨となって降り、その向こうへ、勢いを失った朱槍が落ちた。
アーチャーの両膝が砂へ落ちた。盾を掲げていた腕が、重く垂れる。血を伝わせた指先が、震えながら砂へ触れた。左肩の傷も開き、外套の胸元まで濡らしていた。
セイバーが彼を支えようとする。
「……構うな」
声はかすれていた。
「敵を見ろ」
粉塵の向こうで、笑い声が響いた。
「――ははっ! 防いだか! 今のを!」
着地したランサーが、右腕を下ろした。投げた槍は、衝撃でできた穴の向こうへ落ちている。
「いいぞ。最高だ、おまえら!」
剣の荒野で、彼はあらためて走り出した。
*
大洞窟の奥では、別の戦いが続いていた。士郎は十本目の氷剣を低く構えていた。刃に凝った霜が、呼吸のたびに震える。汗の冷えた背中へ、石柱の湿り気が近かった。
床と柱には、折れたものも含め九本の刃が散っていた。低く流れる冷気が、言峰の進路を狭めている。右は凍り、左は加熱と冷却で割れている。神父は柱の陰から出てこない。
凛は目を上げた。柱の中ほどに、足をかけられる段がある。あそこからなら、長い剣の上を越せる。
言峰が動く。予想していたとおり、石柱へ足を掛けた。
「衛宮くん、上!」
士郎が剣を立てる。言峰は飛び降りない。左の黒鍵を投げ、士郎の剣先を外側へ誘った。次に、右の黒鍵を凛へ放つ。凛は足を引いた。その間に神父が柱を蹴り、今度こそ士郎の右へ落ちる。
放ち損ねた宝石が、痛いほど指へ食い込んだ。見えていたはずの一手。そのすぐ先へ、綺礼の影が落ちていた。
士郎は身体を返し、剣の柄で打撃を受けた。握りを包む指の内側へ拳が入り、十本目の氷剣が宙を舞う。士郎はそれを追わなかった。
言峰が剣を失った手へ向かって踏み込む。手が空いた、その場所へ白い光が生まれた。待たせた輪郭へ、士郎は意識を伸ばした。先ほど探り当てた感触が、今度は少し近い。そこへ力を通す。鉄の重さが掌へ落ちる。刃の根元から溢れた冷気が、迫る黒衣を撫でた。
言峰は止まらない。取り出す速さは崩せなくても、握る腕なら折れる。黒鍵が刀身へ入る。
士郎は受けず、剣を手前へ引いた。そして反対の足を、滑るために凍った石へ置く。身体が低く流れ、黒鍵の下を抜ける。足の裏で霜が割れた。剣の切っ先が袖を追うが、言峰は肩を引いてかわした。
神父が次の一歩を踏み替える。岩床に刺さった十本目が、白い霜の円を広げていた。その円を避けた先に、凛がいる。
「……遠坂!」
「分かってる!」
凛が指を向けた。黒い魔力弾が、霜の上を低く走って言峰の足を狙う。
神父は跳び、跳んだ先に迫る士郎の剣を身を捻って避けた。
白い霜が靴底で割れる。言峰は着地した足をすぐに引いた。その一歩先を、今度は士郎が先に見ていた。
十一本目を足元へ残し、十二本目で返る黒鍵を受けた。受け方が浅い。鍔ごと折られた剣を離し、その破片に十三本目を重ねて放つ。言峰が肩を沈める。飛んだ刃は柱に刺さり、黒衣へ細かな霜を浴びせた。その白さが消える前に、十四本目が士郎の手に収まっていた。
足元には幾重もの刃。神父が近づくたび、その帰り道へ冷気が残る。
*
赤い荒野では、槍兵が自分の槍を取り戻そうとしていた。投擲の衝撃は巨大な傷を地面に残している。朱槍は、その先に折れた剣の群れと一緒に突き立っていた。無数の鋼に埋もれても、その赤だけは沈まない。ランサーの目が、真っ直ぐにそれを捉えた。
ランサーはそこへ走る。アーチャーが三振り、四振りと剣を呼ぶ。空中へ現れた刃が、槍兵の進路へ斜めに落ちる。
槍兵は飛来する鉄を躱す。だが、その刃が地に刺されば障害になる。進路を曲げた一瞬に、間合いが詰まった。
そこへセイバーが追いつく。風を纏う見えない剣が、肩へ振り下ろされた。槍兵は地へ刺さった別の剣を掴み、握りも確かめずに叩きつけた。一撃を受けた鉄が折れる。
「……使わせてもらうぜ、赤いの!」
「好きにしたまえ。粗末に扱うなよ」
アーチャーの返事は低かった。
ランサーは折れた刃を投げ捨てた。青い影が低く走る。セイバーの追撃が、背中を掠めた。赤い血が空へ散る。背中を裂く熱が、肩甲骨から脇腹へ流れた。ランサーは歯を見せ、その痛みごと前へ運んだ。
跳び、破壊された大地の裂け目へ腕を伸ばし、朱槍の柄を掴む。
「――戻ったぜ!」
槍が、再び彼の手にあった。掌を満たす柄の太さ。腕を引けば、先端まで狂いなくついてくる重さ。血に濡れた指が、それを確かめるように一度締まった。振り返り、槍を構える。
「……さて。続きだ!」
アーチャーは立ち上がろうとした。足が僅かに震えた。セイバーが視線を向けると、男は首を振った。
「……長くはない」
赤い空には、薄い亀裂のような光が走っていた。心象世界が、少しずつ現実へ押し戻され始めている。
*
遠い剣から、輪郭が薄れていった。地平を埋めていた鋼の列に隙間が空き、巨大な歯車の軋みが遠ざかる。紅い空を白い亀裂が走った。焼けた色の向こうから、濡れた岩肌が冷たく覗いた。
ランサーは槍を構えたまま、頭上を見た。
「……そうか。時間切れか」
落胆はなかった。取り戻した槍を回し、薄れてゆく剣の列を見送る。
「悪くなかったぜ、赤いの。まったく、想像以上だった」
「君もな。……これだけ使わせて、不満だと言われては割に合わん」
アーチャーは肩を押さえていた。その声に、いつもの皮肉がまだ残っている。
セイバーは剣を下ろさない。
固有結界が消えた。乾いた砂を踏んでいた足が、冷たい岩床を捉える。高い天井へ息の音が返り、奥からは遠く、石の砕ける響きが聞こえた。柱の根元には、戦闘で欠けた岩が残っている。
セイバーは一度、肺の奥まで息を入れた。冷えた空気が、傷口へ触れたように沁みた。
血に濡れた赤い外套と青い衣が、岩陰で暗く沈む。傷だらけの鎧の向こうで、男たちが同時に息を吐いた。
最初に動いたのは、ランサーだった。槍を握った腕が、ゆっくり持ち上がる。
「なあ、セイバー」
「……何です」
「ここまで来て、まだ二対一ってのも野暮だろ」
アーチャーが眉を動かした。
「何を企んでいる」
「企むも何もねえさ。最後に一つ、俺の流儀でやらせてもらう」
槍兵は地面を見た。自らの血が、砕けた岩のあいだへ落ちる。
「……退くなって命令なら、ちょうどいい」
その笑みは、言峰に向けた皮肉でしかなかった。それから彼は、まっすぐセイバーを見る。
「こっから先は、俺の意地だ」
*
ランサーが左手を掲げた。指先が、四つのルーンを描いてゆく。光る刻線が低く漂い、彼とセイバーの足元を囲むように置かれた。青白い光は、血で濡れた石にも届いた。朱と青がその浅い水面で触れ、揺れている。槍兵は四つの印を見渡し、石突を地へ立てた。澄んだ音が一つ、大洞窟へ通った。
「『四枝の浅瀬(アトゴウラ)』。……どうだ、騎士王。受けて立つか」
赤枝の騎士の流儀。退く道を捨て、相手を討つまで戦う誓い。セイバーはその問いを、正面から受け止めた。
背後で、アーチャーが傷ついた腕を押さえる。彼はセイバーへ視線を送り、それから、奥へ続く通路を見た。
「……こちらは見ておく。任せてよいのだな」
「ええ」
セイバーは短く答えた。
もう一度、弓兵を同じ速度で走らせることはできない。彼が作った傷も、削った力も、目の前の槍兵に残っている。セイバーは柄を握り直した。槍の向こうには、奥へ通じる道がある。
「……受けましょう」
剣が持ち上がる。
「騎士として。あなたの決意に応えます」
四つのルーンの光が、踏み出した靴の縁を照らした。二人の影が、割れた石の上で近づいてゆく。
セイバーが踏み込む。ランサーは笑って迎えた。
「そう言ってくれると思ったぜ!」
*
目が合った瞬間、槍と剣が衝突した。火花が二人の横顔を白く刻んだ。次の一撃で岩が跳ね、青白いルーンの光を遮る。明滅する石屑の向こうを、朱の穂先だけが途切れず走った。
ランサーは全身を使って突く。長い柄を滑らせ、引き、返し、足の位置を変える。斬撃を槍の内側へ誘い、届くはずのない角度から穂先を送り込む。
セイバーは受けたまま踏み込んだ。肩へ浅い傷を負い、鎧の合わせ目に血が滲む。それでも、剣の位置は崩れない。
ランサーが喉を狙う。セイバーは顔を引く。穂先が頬のすぐ前を通り過ぎた瞬間、騎士王の剣が下から走った。青い衣が裂ける。
槍兵が跳ぶ。跳んだ足で石柱の欠けた部分を踏み、その反動で槍を叩き落とす。セイバーは横へ踏み直し、受ける剣の角度を変えた。衝突。白い火花。
槍兵は膝をついたかに見えたが、その姿勢から槍の石突が騎士王の足首を狙う。セイバーは後退せず、足を上げてかわし、逆に槍の柄を踏みつける。ランサーが腕を引き、拘束を外した。
双方の武器が、大きく外へ開く。同時に拳と肘が動き、互いの鎧と肉体を打った。二人は離れ、また向かい合う。四つの刻印が、二人の戦いの周りで静かに灯っている。どちらの足も、その外へ退こうとはしなかった。
アーチャーは通路寄りに立ち、血に濡れた指を一度開いた。握り直すだけで、腕の奥が軋む。セイバーの背を見据え、次いで、奥へ続く闇へ視線を巡らせた。彼は傷ついた肩を押さえながら、小さく呟いた。
「……まったく、楽しそうな男だ」
剣が来るたび、槍兵は歯を見せて笑う。呼び出されてから一度も望めなかった戦いが、今、目の前にあった。
朱槍を引く腕に血が伝った。その手が緩むより先に、次の突きが出る。笑い声さえ、その速さに追いつかず、置き去りにされていた。
*
大洞窟の奥では、士郎の足元に新しい氷が広がっていた。言峰は、青い宝石の破片を踏まないように移動している。凛はその足を追い、小さな琥珀色の石を選んだ。
「右の柱、衛宮くん」
凛は小声で告げる。
士郎は答えず、十四本目の剣を右へ向けた。言峰の視線が刃を追う。士郎は右へ踏み込むと、柱の下へ剣を差し込み、床へ冷気を流した。
赤い宝石で熱せられた後の石は、表面に微細な亀裂が増えていた。そこへ氷の力が通る。石がかすかな音を立てて割れた。その割れ目を踏んだ言峰は揺らぎもせず、一歩だけ足の位置を変える。その一歩を、凛は待っていた。
「――Es läßt frei!」
琥珀の奥へ凝った光が、指の動きにつれて底へ沈む。凛は結晶を弾いた。宝石が割れた。金褐色の光が石へ吸い込まれ、低い唸りが靴底を打つ。地面の一点が、沈んだ。
言峰は片足を引いた。そこへ氷剣が迫る。神父は黒鍵で受けた。手応えを得ると、士郎はすぐ刃を引いた。今度は、次の黒鍵が届く前に退けた。
「……退くのがうまくなったな」
言峰が言う。
「おまえに褒められても嬉しくない」
「褒めてはいない。退くことを覚えても、逃げはせんのだな」
神父が踏み込み、左肘で士郎の剣を外へ流した。膝が続く。士郎は剣を盾代わりに回すが、間に合わない。胸の下へ鋭い衝撃が入り、身体が浮いた。
遅れて回した十四本目が、神父の肘に押されて軋む。鍔元に亀裂が走った。
士郎は傾いた刃を床の隙間へ押し込んだ。刀身が折れ、半分が柱の根元に残る。
冷たい破片が散った。折れた刃の断面から、白い靄がほそく吐き出される。その根元で霜が花の萼のように開き、柱を囲んだ。
言峰の足が、その冷気を避ける。避けた先へ銀糸が伸びる。
「……シロウ、今!」
イリヤの声。士郎は左足を踏ん張り、空いた右手を返した。
「――停止解凍」
待たせた一本が、銀糸の下から光を引く。十五本目の柄を握り、折れた剣の残る場所へ切っ先を向けた。
すぐに黒鍵が飛んできた。士郎が弾いた反動で腕が開き、言峰が懐へ入る。凛のガンドが石を打つ。言峰はそれも避けた。
イリヤの糸が、士郎の手首を引いて衝撃を逃がす。十五本目は折れなかった。だが、士郎の肩には深い痺れが残った。柄を握り直すだけで、腕が震える。
*
凛は、言峰の呼吸を数えていた。男は表情を変えないが、連続した攻防のあと、ほんの少しだけ息を吸う位置が変わる。
右へ踏み込む時には、左の肩を引く。士郎の剣の冷気を避ける時、つま先へ重心を移す。石柱の陰へ下がる時、必ず宝石を握る凛の右手を先に見る。
その習慣を利用したい。だが、胸の内側を細い鉤で引かれるような痛みが、思考を遮った。アーチャーへ魔力が流れてゆく。奥からでは、彼の戦いは見えない。供給を細めないよう、凛は浅く息を継いだ。
凛は掌の宝石を握ったまま、声を落とす。
「……イリヤ。あと何回、糸を動かせる?」
「糸は、あと少し。魔力は集められるけど、シロウへ送る方を乱したくないの」
「分かった。供給を優先して。糸は一本あればいいわ」
「うん。一本ね」
イリヤの視線も声も、まだ確かだ。凛は罠を組み上げる位置を見た。桜が壁の陰から声をかけた。
「……姉さん」
「何?」
「先輩の右側、床が白くなっているところ……その奥は、まだ石が乾いています」
桜は柱の陰から、霜の途切れる場所を指していた。凛は振り向かなかった。
「見えたわ。ありがとう、桜。そこから出ないでね」
その言葉に桜は頷き、また身を低くした。
凛は、士郎の右に残る乾いた石を見た。氷も糸も避けられる足場。綺礼なら、そこを選ぶ。あと少し、時間が要る。
凛は右手を上げ、言峰の視線を引きつけた。その陰で、士郎は待たせていた一つに、五つの輪郭を添えていく。背中から腕へ熱が流れた。さっきまで詰まっていた辺りを、今度は息を止めずに通せた。
イリヤは岩壁に掌を添えた。石を伝う大源を集め、自身の回路で整えて送り続ける。士郎の呼吸に合わせ、流れを絞る。その額には細かな汗が浮いていた。
*
士郎は十五本目を言峰の右側へ投げた。黒鍵を受けた衝撃を、握ったまま堪えなかった。石床へ突き立った刃が、凍結の帯を広げる。
十六本目を引き出し、迫る黒鍵を上へ弾く。そのまま床へ刃を落とし、十七本目を低く放った。
言峰の足が外へ向く。そこへ十八本目を構える。神父は刃を打つ代わりに、士郎の腕を押し上げた。傍らの石柱へ刀身がぶつかり、半ばから折れる。
折れた重さを捨て、十九本目を掴んだ。短く握った柄が、痺れた掌に収まる。
言峰が足を止めずに詰めてくる。その靴の後ろへ、折れた刃が落ちた。
言峰が投げた黒鍵を受け流し、士郎は足ではなく肩を見た。次は、先に動く。言峰が右へ踏み込む直前、肩が僅かに回る。士郎は剣をそこへ置いた。黒鍵が衝突し、火花が散る。
剣は折れなかった。それでも言峰の力は大きい。刀身を沿わせるだけで、士郎の腕は外へ流された。
士郎はその流れを受け入れ、身体ごと回った。剣の尖端で柱の根元を掠め、地面へ冷気の白い線を引く。十九本目の剣は、今度は士郎の手に残る。士郎は、狙っていた石の上へ踵を置いた。膝から力が逃げず、剣先が初めて、思った高さで止まった。
そのすぐ隣で、イリヤの銀糸が細く揺れた。言峰がその銀を避け、靴を半歩、外へ置いた。士郎の肘に剣を振れるだけの隙間ができる。横へ走る糸の震えが、握った柄にまで届いたように思えた。
言峰の黒鍵が剣を打った。士郎は退かない。
凛のガンドが傍らを抜けた。それを避けた神父が、石の上へ足を置く。白い霜が割れた。男の身体が僅かに流れる。
士郎は剣を返した。切っ先が黒衣を裂く。今度の傷は浅くなかった。
言峰が後退する。士郎は追わず、足場を確かめた。柱に残した刃から、冷気が靴先へ流れてくる。
*
石柱の根元に、霜の細い枝が重なっていた。折れた剣の断面から流れる冷気が、岩の低いところへ溜まる。薄氷の下には、砕けた宝石の粒が閉じ込められていた。光を使い果たした赤や青は、濡れた砂粒のように暗い。
黒鍵が氷剣を打った。火花が一散りすると、氷の縁がいっせいに輝いた。細かな結晶の一つ一つに光が宿り、石柱の裾へ、露を結んだレースを思わせる模様が浮かぶ。目を凝らした時には、もう淡い白へ戻っていた。
イリヤの銀糸が、その前を横切った。糸に触れた霜がこぼれる。小さな欠片は、落ちる間だけ銀を帯びて、割れた床の暗がりへ吸われていった。
言峰が足を止める。靴先に、先ほどまでなかった氷の薄皮があった。神父は視線を落とし、乾いた石の縁を確かめ直した。
士郎は息を吐いた。剣を握る指は痺れている。白く曇る呼気の向こうで、相手の右足が次の場所を選んだ。
*
入口側の岩床には、四つのルーンが灯っていた。槍兵と騎士王は、その中心から一歩も外へ退かない。ぶつかるたび、剣と槍が長く鳴った。セイバーの足元で、砕けた岩が粉となる。
ランサーが足を踏み替えるたび、脇腹から石へ新しい血が落ちた。青い衣にも、銀の鎧の隙間にも、赤い筋が幾つも走っている。セイバーは柄の汗を握り込み、朱槍が再び上がるのを見た。
槍兵の攻勢が、さらに鋭くなる。真横からの薙ぎ払い。続く上段の突き。受ければ、その柄が下から跳ね上がる。
セイバーの肩に朱槍が当たり、鎧が裂ける。彼女は歯を食いしばり、見えない剣を突き出す。ランサーは身体を捻ったが、刃が脇を掠め、血を散らす。青い衣が赤く染まった。それでも槍兵は笑った。
「ははっ……! まだ、まだだ!」
反撃の槍が来る。セイバーは防ぐ。防いだ衝撃で、右膝が揺れた。続けて槍の石突が走る。後退できない距離。
セイバーは自ら前へ出た。槍の長さが有利になる間合いを、自分の剣が届く距離へ変える。ランサーはそれを察し、槍を短く持ち直した。
刃が交差する。同時に二人の身体がぶつかる。剣が押され、槍が逸れる。騎士王の鎧と、槍兵の肩が擦れ合った。
セイバーは、槍兵が握りを戻す瞬間を待った。
何度目かの攻防で、ランサーは槍を押し返した。
その瞬間、セイバーは剣を持つ手の位置を変える。ランサーの肩は、弓兵との連携で刻まれた傷に引かれ、僅かに戻りが遅れていた。
握りを短くしたぶん、見えない剣の間合いが変わる。穂先が読み違えた位置を通り、槍兵の頬へ冷たい風が触れた。
その時には、聖剣の側面が槍を捉えていた。セイバーは刃を傾け、穂先を横へ逸らす。
赤い穂先が騎士王の肩を掠め、背後へ抜ける。槍兵はすぐに握りを戻そうとした。セイバーは、その前に一歩を踏み込んでいた。
斬撃。
青い衣が裂け、胸から血が弧を引いた。四つの刻印の光を横切り、その雫が黒く沈む。ランサーの息が、そこで初めて大きく詰まった。
ランサーはなお槍を離さない。返す穂先がセイバーの脇を狙う。セイバーは退かず、左の肩を入れてその軌道を押し潰した。
剣の重さが、続けて槍兵へ届く。今度は、受け止める腕がなかった。
ランサーの膝が岩床へ落ちた。膝の下で、石が砕けた。その裂け目へ血が流れ、足元のルーンの青白さを鈍らせた。
*
槍兵は、まだ立とうとした。片膝を地につき、朱槍を杖のように立てる。身体の奥から力を絞り出す。
セイバーも剣を構えた。ランサーは笑った。
「……は、はは……参ったな」
口元に血が滲んでも、その眼差しは晴れやかだった。
「これだけやって、まだ届かねえか」
セイバーは答えず、槍を構える手を見た。まだ、柄から離れていない。
「……楽しかったぜ」
ランサーは言った。血で濡れた唇が、笑みの形に開いた。声は途切れがちだったが、その目は、まだ交えたばかりの剣を追っていた。
「槍を投げて、剣の世界に閉じ込められて、最後は騎士王と真っ向勝負だ。……ははっ。言峰の奴、最後にとんでもねえ命令を寄越しやがった」
セイバーが僅かに息を吐く。
「あなたは、最後まで全力でした」
「当たり前だろ。手加減して負けるくらいなら、最初から戦わねえ」
槍兵がまた立とうとする。腕が震える。それでも指は、朱槍の柄を離れなかった。立ち上がろうと力を込めるたび、血に濡れた握りが僅かにずれた。
「……一つ、頼まれちゃくれねえか」
セイバーは槍兵の顔を見た。
「バゼットって女だ。俺を最初に呼んだ奴でな。……どうなったか、確かめてやってくれ」
ランサーは、元の主といた場所を短く告げた。セイバーはその言葉を聞き取り、頷いた。
「分かりました。必ず、確かめます」
「……悪いな」
「……なあ、騎士王」
「はい」
「こいつは、悪くねえ戦いだったな」
セイバーは剣を下ろし、静かに答えた。
「ええ。私も、そう思います」
ランサーの目尻が緩んだ。激しく笑い続けた顔に、その時だけ、長い道を歩ききったような静けさがあった。
「……そいつはよかった」
赤い槍の輪郭が薄れる。傷ついた肩から光の粒が浮いた。青い衣の色が透け、その向こうに暗い柱が見え始める。それでも、柄を握った指の形だけは、最後まではっきりしていた。
槍兵は最後に、大きく笑った。
「――ははっ! ああ、十分だ!」
勝ちを求めて伸ばし続けた腕が、ゆっくりと下りた。笑い声はなお高く、光へほどけてゆく身体から離れ、岩天井へ昇っていった。
青い槍兵の姿が、石の床から失われる。セイバーはその場に立ち、消えていく最後の光を見送った。アーチャーも、離れたところで息を吐いた。
砕けた岩の間で、四つの刻印が消えていった。最後の一つが暗くなるまで、セイバーは目を逸らさなかった。
天井から返った笑い声が、遅れて、静けさへ沈んだ。
*
ほとんど同じ瞬間、大洞窟の奥で、イリヤの表情が変わった。糸を操っていた指が止まる。
胸の奥が、深く沈んだ。底の見えない水へ重いものが落ち、その波が内側から骨を揺らすようだった。指先の感覚が遠のき、足元の石が急に頼りなくなる。
魂。
敗退した英霊の魂が、小聖杯へ戻ってきた。受け入れる働きが身体の奥で動き始め、その大きさに、イリヤの呼吸だけが追いつかなかった。
「……あっ」
短い声が漏れた。イリヤの膝が揺れ、銀糸が一筋、空中で緩んだ。
「イリヤ!」
士郎が振り向いた。
「前を見て、シロウ――!」
イリヤはすぐに呼び返した。振り向かせてはいけない。そう思っても、指に力が戻らなかった。
外から汲み上げていた魔力の流れが乱れた。整える手が止まり、士郎へ渡る力が一瞬細くなる。士郎の手が揺れ、剣先が落ちた。イリヤへ向けかけた視線を戻すのが、半拍遅れた。
緩んだ銀糸と落ちた剣先の間を、言峰の黒鍵が飛んだ。士郎が剣を上げたが、防ぎきれず、刃が胸の前を掠めた。よろめく士郎へ言峰が一歩詰め、拳を突き出した。
凛の声が響いた。
「桜、イリヤを!」
桜は既に動いていた。石柱の陰から手を伸ばし、倒れそうなイリヤの身体を抱き止める。銀の髪が頬に触れた。見た目よりもずっと小さな肩が、腕の中で細かく震えている。桜は自分の足の震えを堪え、その重さを引き受けた。
「……イリヤさん、こっちへ。座れますか」
イリヤは頷こうとして、できなかった。目を閉じ、胸の内へ意識を向ける。魂を収める働きが、まだ止まらない。糸へ力を戻そうとすると、胸の奥が軋んだ。銀糸が、また一本緩んだ。
士郎が振り返りかけるが、言峰はそれを許さない。膝が士郎の胸へ入り、少年の身体が後退する。十九本目の剣が石床を擦った。
凛の掌で、宝石が音を立てた。凛は残った石を選び取った。
*
拳が士郎の胸へ入り、続けて黒鍵が走る。右の刃が肩の傷を広げ、左が剣の握りを押し開く。士郎は歯を食いしばる。十九本目の氷剣が、指の間で滑った。
霜の上で、士郎の足が滑る。神父は乾いた岩の縁を踏み、剣の内側へ入った。
右の拳は受けた。続く左の肘を受けきれず、士郎は柱へ打ちつけられる。十九本目の剣が手を離れ、石に突き刺さった。
士郎は右手を開いた。待機した輪郭は、まだ二つある。だが、最後の形を与える力が届かない。使い続けた回路も、焼けつくように痛んでいた。
「――停止解凍……!」
二十本目の剣が、指先から現れた。待機していた輪郭へ、自分の魔力を押し込む。刃は伸びたが、切っ先へ至る寸前で光が揺れた。さっきまで重さの返っていたところで、手応えが途切れる。士郎は奥歯を噛んだ。この手応えでは、受ければ折れる。
その弱さを見抜いたように、黒鍵が振り下ろされた。士郎は受ける前に、二十本目の剣を石床へ突き立てた。白い冷気が、一筋伸びる。刃は衝撃で裂けたが、凍結の線だけは残った。
言峰の踏み込み先が、一寸ずれた。士郎はその間に、次の拳を避ける。掠めた拳が右肩を打ち、身体を岩へ押しつけた。
凛が目を見開いた。最後の一本を引き出すまで、士郎が持ちこたえられるか。宝石を割りかけ、凛は言峰の足を見た。乾いた石の端。桜が見つけ、何度も誘い込んできた場所へ、男の重心が乗っている。
「……綺礼」
神父は足を止めない。
「まだ何かあるのか、凛」
「ええ。最後に一つ、教えてあげる」
彼女は深い紫色の宝石を一つ、親指と中指で挟んだ。磨いた表面に、傷のある指が映った。幾度も魔力を注ぎ、蓄えてきた時間が、紫の奥に沈んでいる。
凛は少しだけ笑った。今、使う。親指に力がこもった。
「わたし、あんたの教えを全部忘れたわけじゃないのよ」
言峰の目が、宝石へ向く。凛はその視線を待っていた。
*
イリヤは、桜の肩を借りて立っていた。
「……ごめんね、サクラ。もう少し、肩を貸して」
「謝らないでください」
桜は答えた。
彼女自身の身体も万全ではない。長い移動と、目の前の戦いで疲れている。けれど今は、イリヤが何をしようとしているかを聞きたかった。
「休んだ方が……」
「休むわ。だから、少しだけ支えていて。先に、シロウへの流れを戻したいの」
イリヤは目を閉じた。小聖杯の内側に、新しく受け取った魂がある。闇の中では、その重さがいっそう近かった。胸いっぱいに沈んだものを抱えたまま、息をする場所を一つずつ探す。
手放してはいけない。収めた魂は、そのままに。士郎へ魔力を渡すことまで、一緒に止めなくていい。
衛宮邸で、皆と紙に書き出した手順を思い出した。紙の上を動いた指を辿る。まず、自分の中に残る魔力で細い流れを保つ。次に、湿った大気へ意識を伸ばした。胸の重みに奪われていた感覚の外に、まだ汲み上げられる力がある。それを一度、自分の回路へ通す。士郎の待機が崩れぬ量まで、ゆっくりと送り戻した。
あとは銀糸を一本。それだけなら、まだ動かせる。イリヤは深く息をした。
「……サクラ。手、離してくれる?」
「大丈夫ですか」
「うん。今は、自分で立てるわ」
桜は頷き、支えていた手をゆっくり離した。イリヤは両足で石に立った。身体はまだ重く、頭の奥も鈍く疼く。その向こうに、士郎の背中が見えていた。
帰ってから、一緒に買い物をする。その約束を思うと、石と血の匂いの向こうへ、陽の差す道がほんの少し近づいた。シロウと、そこを歩く。
イリヤは一本だけ、銀糸を動かした。
*
「――Es läßt frei」
凛の声に、紫の光が結晶を満たす。深い色が爪を透かし、血の滲んだ指先まで照らした。
言峰が掌の光を追う。投げる手を見極めるように、僅かに身を沈めた。
凛は親指で結晶の縁を押し、綺礼へ笑いかけた。
「――そこが、あんたの足場よ」
紫の宝石が彼女の手の中で砕けた。光が床を走った。亀裂の細い闇が、奥から紫に染まる。言峰の靴の下で、乾いていた石が低く鳴った。数分前から凍結と加熱で脆くなっていた岩の割れ目へ、圧力が集中する。
地面が沈んだ。言峰の右足が落ちた。引き抜こうとしても、崩れた石に捕らわれている。神父は咄嗟に左足へ重心を移す。その移動先は、凛には分かっていた。
「イリヤ!」
声が飛ぶ。銀の線が一本、石柱の陰から走り、左足の着く直前の高さで張りつめた。言峰は糸を断ち切ろうと黒鍵を振る。糸は切れた。張りつめていた銀が、弾けるようにほどける。言峰の左足が僅かに外へ流れ、黒鍵を振った肩が開いた。右足は、まだ沈んだ石から抜けていない。
士郎の正面に、黒衣の胸元が見えた。
「……シロウ!」
イリヤは叫んだ。士郎が顔を上げる。魔力の流れが戻ってきていた。外から集められ、イリヤの中を通った力が、熱を帯びた回路を再び満たす。
最後の一つは、まだ待っている。
士郎は右手を開いた。砕けた宝石の光を返し、切れた銀糸がひとひら、指のそばを落ちる。イリヤの声に合わせて、その一本を引き出した。
「――停止解凍」
二十一本目の氷剣が、掌の中で形を取る。白い刃が、ひとつの線として伸びた。冷たい重さが掌へ落ちる。震えていた指が、柄を捉えた。士郎は振りかぶらず、言峰がまだ自由に動ける方向を見た。糸を切った黒鍵が戻る前に、開いた胸元を捉える。
士郎は踏み込んだ。氷が割れた。靴の後ろで薄い結晶が舞い、消えかけた紫を一度だけ返す。言峰はなお黒鍵を捨て、肩を入れた。拳が士郎の胸へ向かう。士郎は左腕でその軌道を受けた。骨への衝撃に身体が揺れた。それでも右手の剣は、まっすぐ前にある。
言峰の拳が届くよりわずかに早く、氷剣が黒衣へ入った。鉄が肉を裂く、短い音。白い霜へ、赤い血が滲んだ。刃に沿って走った熱が、冷えた柄を通じて掌まで届いた気がした。
言峰の身体が、大きく傾いた。士郎は剣を引き抜く。神父は膝をつき、石柱の方へ倒れた。もう拳は上がらなかった。
大洞窟の奥で、戦闘の音が止まった。転がった黒鍵が、最後に一つ鳴った。その響きが消えると、士郎には自分の息だけが、ひどく大きく聞こえた。
*
士郎は剣を握ったまま立っていた。言峰の胸元へ入った感触が、手に残っている。冷たい刃と、熱い血。
手首の内側が僅かに震えた。刀身を動かすと、周囲の空気まで冷える気がした。
「……衛宮くん」
凛の声がする。士郎はすぐには振り向けなかった。倒れた言峰の姿が、石柱の陰に半分隠れている。黒衣は血を吸い、胸元が不自然に折れ曲がって見えた。動かず、声もない。もう立ち上がらないように、士郎には見えた。
凛が近づき、少し離れた場所から神父を見た。彼女の唇が引き結ばれる。
「……終わった、のね」
「……多分」
士郎は答えた。見下ろした黒衣の輪郭が、目に焼きついたように動かなかった。確かめようとした言葉は、乾いた喉の途中で止まった。
凛はそれ以上、神父の傍へ踏み込まなかった。士郎の肩へ手を伸ばし、傷の状態を見る。
「血が出てる。まずこっち」
「……ああ」
士郎はようやく剣を下ろした。自分が息を止めていたことに、そこで気づいた。吸い込んだ空気が痛い。石の湿り気も、血の匂いも、肺の奥へ一度に入ってきた。遠くで水が落ちた。戦う前から、ずっと同じ間隔で落ちていたはずの音だった。
脇腹、左肩、腕の内側。今まで堪えていた痛みが、一度に戻ってきた。
「シロウ」
別の声がした。士郎が顔を上げる。イリヤが、そこにいた。桜がすぐ後ろについている。支えが必要なら手を伸ばせる距離だが、今はイリヤ自身の足で歩いている。
「……イリヤ」
「無事、って顔じゃないわね」
イリヤが言った。士郎は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「そっちこそ」
「うん。まだ少し重い。でも、ちゃんと入ったの」
「……何が?」
「ランサーの魂」
士郎の指が、剣の柄を握り直した。
「……そうか」
「だから、さっきちょっとだけ……」
「……びっくりした。イリヤが倒れるかと思って」
イリヤは士郎の顔を覗き込んだ。
「そんな顔しないで。ちゃんとここにいるでしょう?」
「……ああ」
士郎は剣を置く場所を探した。床には白い霜が広がっている。石柱に残った刃と、床へ刺さった剣が、まだ冷気を吐いていた。
士郎は二十一本目の剣を、皆の歩く道から離れた石の隙間へそっと置く。柄から手を離し、初めて両手でイリヤの肩に触れた。剣を握っていた指には、まだ力が残っていた。傷つけないように少しずつ緩める。その下に、布越しの温かさがある。彼女の呼吸につれて、その温かさが小さく動いた。
「……無事でよかった」
声が掠れた。イリヤが士郎を見上げる。
「シロウも」
その言葉を聞いて、士郎の身体から力が抜けた。イリヤはすぐに彼の腕を取った。
「ほら。ちゃんと支えるから」
「……助かる」
「そうよ。わたしが一緒でよかったでしょう?」
自慢するような口調だったが、目の奥には疲労が残っている。士郎は頷く。
「ああ。……何度も助かった」
イリヤは少し笑い、彼の腕を離さなかった。銀の髪が肩からこぼれ、士郎の袖に触れる。張りつめていた糸とは違う柔らかさが、疲れた指先をくすぐった。
凛が二人を見て、短く息を吐く。
「無事を確かめたなら、次は傷を見せなさい。二人ともよ」
「わたしは、シロウの手当てが済んでからでいいわ」
「順番はこっちで決める。イリヤ、あんたも顔色が良くないんだから」
「……分かったわ。じゃあ、ちゃんと見て」
イリヤは一度士郎を見てから、凛へ頷いた。桜が近くへ来る。
「……先輩。わたしにも、何か出来ますか」
士郎は一瞬迷い、差し出された手を見た。
「……悪い。遠坂に包帯を渡してくれるか」
「はい」
桜の表情が緩んだ。道具へ伸ばした手はまだ震えていたが、包帯を探す指は迷わなかった。
*
入口側から足音がした。セイバーとアーチャーだった。先に見えたのは、傷ついた銀の鎧と、その上で揺れる金の髪だった。装甲に刻まれた幾筋もの傷が、歩くたびに鈍い光を返していた。その後ろに、片肩を押さえた赤い弓兵がいる。
士郎は思わず前へ出かけた。イリヤが腕を引く。
「シロウ、走らない」
「……分かってる」
セイバーは、すぐにこちらを見た。
「シロウ。イリヤスフィール。無事でしたか」
「ああ。……二人は」
「ランサーは退場しました」
セイバーの声は、静かだった。
「最後まで、見事な槍でした」
アーチャーが小さく息を吐く。
「……楽しそうだったぞ、あの男は。こちらが気にするのが馬鹿らしくなるほどにな」
凛がアーチャーの肩を見た。
「何をされたの、あんた」
「少々、華々しく迎えてもらっただけだ」
「その言い方で誤魔化せると思ってる?」
「思ってはいない。だから、もう少し静かに叱ってくれ」
アーチャーは苦笑した。だが凛は、それ以上すぐに言い返さなかった。
アーチャーの垂れた腕から、血が一滴落ちた。契約越しに感じていた重さが、その傷だらけの姿と重なる。隣のセイバーも、鎧の留め具が裂けていた。
二人が戻ってきた。今はその顔を確かめるだけで、次の言葉が喉につかえた。凛は叱る代わりに、弓兵の傷へ手を伸ばした。
セイバーの視線が、奥の石柱へ動いた。血に染まった黒衣の周囲に、白い剣が突き立っていた。
「……言峰は」
「倒した」
士郎が答えた。
「遠坂と、イリヤが助けてくれた。……桜も、ずっと見ててくれた」
セイバーは頷いた。凛の手が、アーチャーの傷の上で僅かに止まっていた。彼女の横顔を見て、セイバーはそれ以上尋ねなかった。
セイバーは、ランサーから託された頼みも伝えた。バゼットという元の主の消息を確かめてほしい、と。教えられた場所も、短く添えた。
「……分かった。ここを出たら、確かめに行きましょう」
凛は弓兵の傷に手を添えたまま、頷いた。
*
アーチャーは、周囲の床へ目を向けた。白い霜、ひび割れた石、刀身が折れたまま刺さった剣。柄を失ったもの。斜めに立ったもの。冷気を細く吐き続けているもの。
アーチャーは、柱に残った刃から、床で折れた一本へ目を移した。原型は同じ。再現された構造にも、繰り返し使った同じ癖がある。だが折れた位置、刺さった角度は、一振りずつ違っていた。受けて捨てた剣、その隙に放った剣、次を取り出すために残した剣。弓兵の目が、その順序を辿った。
弓兵は傍らの一本へ手を伸ばしかけ、垂れた腕を止めた。刃先の霜が一粒、石へ落ちる。その先には、足跡があった。滑った靴の跡。石を踏み直した跡。剣と剣のあいだを、少年の歩いた線が不器用に繋いでいた。
「……まったく」
アーチャーが小さく呟く。士郎が顔を向けた。
「何だよ」
「いや。随分と派手に散らかしたものだと思ってな」
「……悪い。あとで片づける」
「今、おまえがやる必要はない」
「……待機まで使ったか」
「……やってるうちに、少し分かってきた。まだ、うまくいかない時もあるけど」
アーチャーの視線が、士郎の顔へ戻った。何か言いかけた口元が、僅かに閉じる。
「残っている分は」
「全部使った。もう、残ってない」
「ならば回路を休ませろ。次まで開け放しておくな」
士郎は頷き、深く息を吐いた。次の刃を探しかけていた意識を、ゆっくりとほどく。セイバーへ続く流れを確かめるうちに、背中の熱も少しずつ引き始めた。
アーチャーは士郎の剣から目を離し、奥の通路へ向き直る。
「……それより、まだ仕事が残っているだろう」
士郎も、奥を見た。白い剣が並ぶ区域より先に、大聖杯がある。
セイバーが剣を下ろす。
「道は開きました。ただし、皆が消耗しています。先に状態を確かめましょう」
凛が頷く。
「ええ。これからが本番なんだから」
イリヤは士郎から手を離さず、奥へ目を向けた。
「……行けるわ」
「イリヤ」
「無理をして言ってない。少し休んで、確かめてから。……ちゃんと、わたしがやる」
士郎は彼女の顔を見た。疲れた顔だった。それでも、奥へ向けた目は逸れなかった。
「……分かった。俺も、ちゃんと手伝う」
イリヤが頷いた。
凛が道具を確かめる。桜は自分の身体の具合を伝える。セイバーが周囲を見張り、アーチャーは傷を押さえながらも持参した礼装の状態を確かめた。
擬似・天の衣はある。ルールブレイカーも二本、まだ役目を果たしていない。
通路から外した氷剣の柄に、薄い霜が結び始めていた。士郎は一度そちらを見て、空になった手を開いた。掌には、まだ握っていた形が残っている。
次は、切るべきものを間違えてはならない。
大聖杯へ続く奥の闇は、まだ開いたままだった。吹き上がってくる空気は冷たく、濡れた石の匂いの底に、別の重さを含んでいる。
士郎の腕に、イリヤの指が触れた。ひとつずつ返る声を聞きながら、士郎は隣に触れる指を握った。