Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
水が落ちる音がした。どこか深い岩の裂け目が、一滴を受け止める。音は濡れた石を伝い、幾つもの壁に触れながら遠のいていった。
さっきまで、剣と拳と槍の音で満ちていた場所だ。静けさの中で、洞窟の広さが戻ってきた。天井は闇に沈み、曲がりくねった通路は先が見えない。壁の奥には、地面そのものが呼吸するような低い振動があった。
「……足元、気をつけて」
腕に添えられた小さな手が、俺を引き止めた。イリヤが顎で示した先には、石の表面を薄く覆う水がある。踏めば滑る。それだけのことなのに、言われるまで気づかなかった。
「助かった。もう少しで転ぶところだった」
「シロウ、さっきからわたしの方ばっかり見てるんだもの」
「……そりゃ、心配だからな」
「知ってる。でも、わたしを見るならちゃんと隣を歩いて。転ばれたら困るわ」
言われた通り隣へ寄ると、今度はイリヤの方から指を絡めてきた。これでは、また顔を見たくなる。
背後に、幾つもの白い剣が残っている。言峰との戦いで投影した刃だ。折れたものも、岩に深く刺さったものも、まだそこにある。最後に置いた一本からは、細い霜が石の割れ目を這っていた。
空いた手が落ち着かず、もう一本作ることを考えかけた。だが、魔力を通そうとするだけで、背中の奥へ熱い針が刺さる。戦いの間は押し殺していた痛みが、静けさの中で疼き始めていた。残った力まで投影に使うわけにはいかない。
それに、次に握るのは斬り合うための剣じゃない。俺は空いた方の手を開き、そこに何もないことを確かめた。
*
洞窟の奥は、急に広くなっていた。岩壁が大きく後ろへ退き、見上げると暗闇の中に奇妙な幾何学模様が浮かんでいる。円。円を断ち切る直線。別の円に潜り込み、そこで途切れる細かな刻み。自然に割れた岩の模様ではなかった。巨大な何かが地面と岩壁を一枚の紙として使い、気の遠くなるような年月をかけて文字を書き続けたように見えた。意味は読み取れない。ただ、目を向けた場所と線の位置がわずかに食い違うような、不愉快なずれを感じた。
俺が足を止めたのを見て、遠坂が顔を上げた。
「どうしたの?」
「……向こう。壁の継ぎ目の辺り、何か変じゃないか」
俺が指すと、遠坂はしばらく岩壁を見つめた。
「……ああ、そういうこと。そこだけ繋がり方が違うのね」
懐から小さな宝石を取り出し、光に透かすように角度を変える。
「よく気づいたわね、衛宮くん」
「分かるのか?」
「あんたが指した後でね。あそこは、ただの岩場と思って近づかない方がよさそう」
褒められたのか、注意されたのか。多分、両方だろう。
セイバーが先へ出た。金の髪が暗い岩を背景に細く光り、傷ついた鎧から小さな金属音がする。彼女の剣は風に隠され、見えない刃だけが先の闇を測っている。
アーチャーは少し離れて歩いた。赤い外套の肩口が濃く染まり、そこを押さえる指にも血が乾きかけている。それでも彼は岩の刻みと通路を交互に見て、引き返すための足場を確かめていた。
桜は、遠坂のすぐ後ろにいる。手当てを手伝ったせいか、袖口には白い包帯の繊維が付いていた。歩幅を変えるたび、胸へ手を当てかけては戻す。身体の内側にある重さを、確かめているようだった。
「桜、大丈夫か」
俺が訊くと、桜は少し考えてから頷いた。
「……はい。でも、近づいてから、さっきよりはっきり感じます」
「何を?」
「引っ張られるような感じ、です。それと……もう一つ、違う重さが」
言い終える前に、桜の視線が暗闇へ吸い寄せられた。俺もそちらを見ると、奥の底に黒いものがあった。夜の色ではなかった。岩の陰よりもなお濃く、光の届かない場所でだけ鈍く濡れるもの。ほんの一瞬、その表面に赤茶けた光が浮かび、すぐに沈む。
声も視線もない。けれど、あれは影というには形を持ちたがりすぎていた。暗がりの底が膨らむたび、皮膚にもならない薄い膜が伸び、すぐに水へ戻る。生き物を真似ているのか、それとも、何かが生き物になる途中なのか。
答えを探すより早く、桜の呼吸が浅くなるのが分かった。
イリヤの指が、俺の手から一本ずつ丁寧にほどけていった。
「……ここからは、わたしの仕事ね」
彼女は少し前へ出て、黒いものの方を見た。背筋は伸びている。つい先ほど、ランサーの魂を受け入れて膝を折りかけたのと同じ身体だ。それを忘れてしまうほど、声は落ち着いていた。
「リン、あそこから先はわたしが触る。サクラの状態を見る方をお願い」
「分かった。でも、そっちの変化もこっちへ返して。黙って我慢するのはなしよ」
「それはシロウに言った方がいいんじゃない?」
「二人ともよ」
返す言葉がない。イリヤは一瞬だけ得意そうに笑った。笑みを収めたイリヤに続き、俺も奥へ足を向けた。
*
アーチャーが荷を下ろす。傷ついた腕で留め具を外す動きは、見ているだけで痛そうだった。俺が手を貸そうとすると、彼は短く顎を引いた。
「そちらを持て。金具を曲げるなよ」
「分かってる」
「おまえの『分かっている』には実績があるからな」
「今は言い返さないぞ」
「それは結構」
包みの中から、白い布が現れた。天の衣を模し、必要な働きだけを組み合わせた礼装だ。衣装と呼ぶには、あまりに小さい。長い裾も、煌びやかな飾りもない。腕に掛けるための白い布に細い金具が留められ、銀の糸が幾筋も渡されている。その一角に、遠坂の宝石が小さな灯のように据えられていた。
それでも、イリヤが手を伸ばした途端、ただの布ではなくなる。銀糸が彼女の指を迎えるように浮き、折り畳まれていた線がゆっくり開いた。銀色の細い枝が、冬の窓に育つ霜の模様を思わせる形を取る。イリヤはそれを肩から腕に掛け、留め具を確かめた。
「きつくないか」
「うん。ちゃんと作ってあるもの」
「そうだけど」
「シロウ」
彼女が振り返った。
「わたしが危ないと思ったら、ちゃんと言うわ。だから、今はわたしの言うことも聞いて」
ひどく真面目な目だった。俺は頷いた。
「……分かった。手が要る時は言ってくれ。止める時も、俺が手伝う」
「うん。お願いね」
イリヤは満足したように笑った。
セイバーが立ち位置を変え、俺たちと奥の闇との間に入る。遠坂は宝石の光を低く保ったまま、桜の傍に膝をついた。
「桜。変化があったら、そのまま言って。正しい言葉にしなくていいから」
「……はい、姉さん」
遠坂の指がごく僅かに止まり、すぐにまた動き始めた。
「見えるものは、こっちで確かめる。あんたは感じたことを教えて」
桜は頷いた。
イリヤが礼装の銀糸を整えた。指先から生まれた線が白い布を巡り、遠坂の宝石に触れる。淡い光が一度だけ強まり、回路に電気が通るように布の隅々まで行き渡った。
「……繋ぐわよ」
イリヤの声がした。
銀糸が大きく広がった。
*
最初は、何も起こらなかった。黒いものも、岩に刻まれた線も、そのままだ。ただ、耳の奥で鳴っていた水音が、ひどく遠のいた。いつの間にか、俺は呼吸を浅くしていた。何かを吸い込めば、周りの暗さまで肺へ入ってくるような気がした。
白い布の上で銀糸が鳴る。風に揺らされた細い鈴みたいな音だった。ひとつ鳴ると、二つ目、三つ目が追いかけてくる。遠坂の宝石に小さな光が集まった。
「……そこ、急に戻しては駄目」
遠坂が言った。
「分かってる」
ひと呼吸遅れて、イリヤの声が返った。彼女は目を閉じ、胸の内側にあるものの重さを確かめているようだった。
敗れた英霊の魂。バーサーカー、真アサシン、ライダー、そして、さっきのランサー。あれほど巨大だった存在が、今は目に見えないものとして一人の少女の中にある。その重さを、彼女は今まで普通の顔で抱えてきた。
「……イリヤ」
呼びかけると、彼女は目を開けた。
「聞こえてるわ。大丈夫」
言ってから、ひと呼吸置く。
「でも、少しだけ待って。中を押さえたまま外に手を伸ばすと、思ったより重いの」
銀糸がわずかに下がった。俺を通じてセイバーへ送られていた魔力が細くなる。イリヤが、流す量を少し絞ったのだ。俺は魔力を引き上げようとせず、その変化を受け取る。セイバーの鎧が一度だけ淡く揺れ、それから静かになった。
「シロウ。今はこれで足りる?」
「……ああ。俺はこのままで大丈夫だ。セイバーは?」
「こちらも。今の供給で鎧は保てています。変化があれば伝えます」
セイバーは奥から目を離さずに答えた。
「うん。お願いね」
イリヤは唇を結び、再び大聖杯へ向き直った。黒い表面に、細い筋が走る。まるで底の深い水に、別の水が一筋流れ込んだようだった。銀の光がその縁をなぞる。すると、それまでこちらへ伸びかけていた黒い影が、足場の手前でゆっくり止まった。
影は波打ったまま、そこに留まった。進んではいけない場所を教えられたような、奇妙な静止だった。
「……止まった?」
遠坂が訊く。
「一時的にね。こちらへ出てこようとする流れを押さえてるだけ。目を離したら動くわ」
イリヤが答えた。
奥で蠢いているものが、じっと俺たちを待っているように見える。
「……あれが、アンリ・マンユなのか」
紙の上で何度も見た名前が、目の前の闇とうまく重ならなかった。
「まだ、現世で形を持ててはいないわ」
イリヤは再び目を閉じて答えた。
「昔呼ばれた英霊が、その時の姿のまま眠っていたわけじゃないの。聖杯が受け取ってしまった願いを叶えようとして、ああして生まれかけている」
「……この世全ての悪を、作るって願い」
「ええ」
黒い表面が震えた。指先を一本突き出そうとして、指の形にさえ届かずに潰れる。生まれる前から、何かを掴もうとしていた。
「サクラが、現世への足場にされているわ。わたしが抑えている間に、まずはそこを切るの」
桜は唇を引き結んだ。それから、黒いものへ向いていた目を、俺たちの方へ戻す。
「……お願いします」
すぐそばで遠坂が頷いた。
「……まず、桜の方を見ましょう」
イリヤが頷く。
宝石から伸びた光が、桜の足元で輪を描いた。その一端だけが遠坂の指へ細く戻り、桜が息を吸うたびに明るさを変える。光を通して、身体の内から返る反応を比べているらしい。
桜が輪の中へ足を進める。その動作ひとつにも覚悟が要ったらしい。靴底が岩を踏んだ時、肩が僅かに上がった。
「……大丈夫。何か変わったら、すぐ言うから」
遠坂が彼女の手首へ指を当てた。
「桜。今、こっちから少しだけ探るわ。中にあるものを引き出すつもりはないから」
「はい」
宝石の光が揺れる。桜の身体を通ったものが、そこから先へ続いているらしい。だが、線は一本ではなかった。光の戻り方が、ある時は遅く、ある時は急に強くなる。俺にはどう違うのか分からないが、桜の表情は一つひとつの変化に違う反応を見せた。
「……これは?」
遠坂が訊く。
「重い、です。ずっと同じところにあるような……」
「こっちは?」
「……っ」
桜が息を詰めた。黒いものの表面が、わずかに脈打つ。
「すみません、少し……嫌な感じがします」
遠坂はすぐに光を落とした。
「謝らなくていい。今のが知りたかったの」
桜は胸元へ手を当て、ゆっくり呼吸した。
奥の闇がざわめいたのは、その後だった。探るのをやめても、向こうからこちらへ届くものがある。桜の浅い息に合わせ、闇の表面が波打っていた。
「イリヤ」
「分かってる」
彼女の腕に掛かった銀糸が、少しだけ明るくなる。闇から伸びたものが、また止まった。
「……これよ」
イリヤが言った。
「サクラの中に魂を留めているものと、あれを現世へ繋いでいるもの。似たところを通っていても、別々だわ」
遠坂が顔を上げた。
「反応も違う。中の魂を逃がさないための拘束と、奥から桜へ伸びている繋がりね」
桜は自分の胸を見下ろした。
「……二つとも、わたしの中にあるんですね」
「ええ。でも、結び付いている相手が違う」
遠坂の宝石が二度、小さく瞬いた。
「臓硯は、マスターとサーヴァントの関係まで利用したんでしょう。桜を現界の足場にして、令呪で、生まれたものを従わせるつもりだった」
桜の睫毛が伏せられる。
「……お爺さまは、そう言っていました」
「けど、現界を支える契約と命令権は別よ。捕らえた魂を中に留める仕掛けも、それとは別にある」
遠坂は俺へ向き直った。
「今、切るのは桜をあれの足場にしている契約。魂を閉じ込めている方は、そのまま残す」
「……あれとの繋がりだけを切るんだな」
「そうよ」
イリヤが、銀糸を保ったまま口を開いた。
「魂の拘束まで壊したら、どこへ流れるか分からないわ」
「……イリヤの方へ来ることも、あるのか」
「ないとは言えない。だから、解いてから行き先を考えるわけにはいかないの」
イリヤは自分の胸に手を当てた。
「今のわたしはもう、空っぽの器じゃない。ランサーだって受け入れたばかりでしょう。何か起きたら全部わたしが受け止める、なんて約束はできないわ」
器としての仕事が増えるほど、人として動き、考える余地が奪われていく。何度か聞かされてきた言葉が、さっき膝を折りかけた姿と重なった。桜の影が捕らえたのは、キャスターとギルガメッシュの魂だ。数だけなら二騎。だが、あの黄金の王まで一度に受け入れたら、どうなる。イリヤは淡々と話している。俺はその顔を見つめた。手を握ってやりたかったが、それでどうにかなる問題ではなかった。
「……だったら、桜の方は」
言いかけると、桜が先に顔を上げた。
「わたしの中に残しておく、ということですよね」
遠坂が頷く。
「今はね。行き先を確かめるまで、放さない方がいい」
桜は目を伏せた。
「……ずっと、ではないんですね」
イリヤが答える。
「もちろん。あれとの繋がりを外したら、大聖杯の側で扱い方を確かめるわ」
「でも、それだとイリヤさんが……」
桜の言葉が途切れる。イリヤは首を振った。
「だから、順番にするの。わたしまで倒れたら、サクラを助けられなくなるでしょう?」
遠坂が小さく息を吐いた。
「……桜の負担を、そのままイリヤに背負わせるんじゃ意味がない。二人とも帰るための手順でしょう」
桜が、手首を押さえていた遠坂の指へ自分から指を重ねた。
「……じゃあ、わたし、今は持ってます」
遠坂が目を見開く。
「桜」
「ずっとは嫌です。でも、どうなるか分からないまま放して、イリヤさんまで苦しめるのも、嫌です」
桜は顔を上げた。
「どうしたらいいのか分からないなら、分かるところからにしてほしいんです。……わたしの身体のことだから、そこは自分で決めたい」
遠坂はしばらく桜の顔を見ていた。
「……うん」
それだけ言って、握り返した。桜の指に力がこもった。
隣にライダーがいたら、何と言っただろう。そんなことを思いながら、俺は桜を呼んだ。
「……桜」
彼女はこちらを見た。
「先輩も、お願いします。……まだ終わってませんから」
笑おうとして、うまくいかなかったような顔だった。
「ああ。俺も、ここからちゃんとやる」
*
懐から、細長い包みを取り出した。出発前に自分でしまった、二本目のルールブレイカー。今朝、遠坂の札に触れさせて、働きを確かめた方だ。布の上から指を添えると、折れ曲がった刃の輪郭が残っている。
「予備は、こっちにあるわ」
遠坂が、宝石とは分けて持っていた包みを示した。俺が頷くと、彼女は一本目をしまい直す。
掌に、小さな重みが落ちた。長い間握り締めていた氷剣とは違う。人を斬り倒すには頼りなく、しかし不用意に触れさせるには危うすぎる重さだ。
俺は布の留めをほどいた。奇妙に折れ曲がった刀身が、岩壁の淡い光を受ける。柳洞寺で初めて見た時、俺はこの短刀が嫌だった。怖いというより、触れてはいけないものだと分かった。肉や骨を裂く鋭さよりも、その奥にある働きが恐ろしかった。目には見えない結び付きを断つ刃。細い刀身のどこにも、その切り口だけは映らない。
あの時はただ危険なものとして見た短刀を、今は桜を助けるために握っている。
「……使い方は覚えているか」
アーチャーが訊いた。
「遠坂の札を切った時のことなら」
「それは結果だ。おまえが何をしたかを訊いている」
俺は短刀を見下ろした。試験に使った二枚の札を思い出す。刃を向けたのは、紙ではなく、その間にある見えない結び付きだった。
「……札に触れた。だけど、触れようとしたのは札じゃない」
「ふむ」
「札を繋いでる方を、最初から切るつもりだった」
「それで?」
指先には、札へ触れた時の手応えが残っている。紙を裂くほどの力も使わずに、二枚を結んでいたものだけがほどけた。言葉にしようとすると難しかった。
「……こうやって使うんだ、って分かった。頭で考えるより先に」
アーチャーは頷いた。
「ならば、その先を使え」
「先?」
「おまえは、その短刀が何のために存在するかまで辿っている。使い方の手掛かりも、一緒に写しているはずだ」
作る時には、構造と材質を追い、そこへ至った技術や年月まで辿っている。札を切った時、手に馴染んだあの感触を思い出す。
「……それを、引き出せってことか」
「勘違いするなよ。おまえの代わりに何でも判断してくれるわけではない」
アーチャーの声は、思ったより厳しかった。
「何を断つかは、おまえたちが決める。決めた後で、その刃が持つ経験を使うんだ。順番を逆にするな」
切れる包丁を用意しても、何を料理するかまでは決まらない。そんな身近なことへ置き換えて、ようやく手の力が抜けた。
「……目的は決まってる」
俺は短刀を見て言った。
「桜を、あれの現世の足場にしている契約。そこを切る」
桜が感じた方向。遠坂が照らし分けた反応。その先を探るイリヤの指。目には見えない場所まで、みんなが道をつけてくれている。
遠坂がこちらを向いた。
「わたしたちが確かめた範囲では、それが一番先に切るべきものよ。だけど、他まで巻き込まないという保証はない」
アーチャーも頷く。
「今見えている反応を見失うな。刃の感触だけを追うなよ」
「分かってる」
*
「先輩」
桜が呼んだ。俺は顔を上げた。
「……準備が出来たら、教えてください」
「まだ、もう少しかかると思う」
「待ちます」
俺は、包帯の巻かれた自分の腕と、彼女の手元を交互に見た。
「……桜。短刀だから、傷をつけずに済むとは言えない」
「はい」
「切れた後も、身体に残っているものまでは治せないと思う」
「それも、聞いてます」
桜は目を逸らさなかった。
「……それでも、お願いします」
その視線を受け止め、俺は頷いた。
「……ああ。やろう」
イリヤが傍へ寄ってきた。
「シロウ、ちょっと手を貸して」
短刀を持っていない方の手を差し出すと、彼女は指先で俺の手首に触れた。銀糸から流れてくるかすかな冷たさは、剣の氷とは違った。水の底で小さな星が明滅するように、一定の間隔で脈を打っている。
「わたしの合図が変わったら、止めて。サクラの方も同じ。おかしいと思ったら無理に続けない」
「……ああ」
「それから」
イリヤは、俺の目をまっすぐ見た。
「切った後に、わたしがすぐに動けなくなったら……それでも、急に魂の方へ手を出さないでね。何が起きたか確かめてからにして」
胸の奥が冷えた。
「イリヤ、それは……」
「約束して、シロウ」
大丈夫だと答えてほしかった。崩れたらすぐに手を伸ばせるよう、俺の指はもう強張っている。イリヤの目から逃げずに、俺は頷いた。
「……分かった。勝手にはしない」
イリヤが、ようやく微笑んだ。
「うん。じゃあ、信じる」
指がほどける。その手を追いかけるのを堪え、俺は桜へ向き直った。
*
遠坂の宝石が、もう一度明るくなった。桜の足元の光が薄くほどけ、今度は彼女と俺の間に細い線が生まれる。遠坂が宝石の角度を変えると、戻ってくる光を、俺の位置からも追えるようになった。桜の袖をかすめる淡い色に、札へ刃を触れさせた時の感触が甦る。
「士郎。今から反応を比べるわ。あんたはまだ動かないで」
「分かった」
遠坂は桜の方を見た。
「まず、今まで中に留まっていたものの感覚を思い出して。無理に動かそうとしなくていい」
桜は目を閉じた。
「……はい」
宝石が低く光る。イリヤの銀糸も、その変化を受けたように一度揺れた。
「……変わりません。中の重さは、そのままです」
桜が言った。遠坂が頷く。
「次は、奥から来る方。こっちも無理に追わないで。感じたらすぐ知らせて」
桜がもう一度頷くのを待って、遠坂が光の向きを変えた。次の瞬間、桜の身体が小さく強張った。黒いものの表面に波紋が広がる。
「……来ます」
桜が言う。
「さっきのと違う。こっちは……わたしを、向こうへ引っ張ろうとしてる」
イリヤが目を開けた。
「見つけた」
声が静かに通った。
「シロウ。その反応を覚えて。サクラの中の魂じゃない。奥からサクラへ届いている方よ」
宝石の光を目で追い、桜の言葉を聞く。その先を探るイリヤの声を待った。自分では確かめられないところまで、今は任せる。
「……遠坂。その反応が止まったら、分かるな?」
「分かるようにしてるわ」
「イリヤ、そっちは」
「わたしも見る。サクラの中の魂が動いたら、すぐ言うわ」
俺は桜を見た。
「桜。切るとき、俺の方からも声をかける。嫌なら、その時に止めてくれ」
桜は短刀へ目を落とし、それから頷いた。
「……はい」
遠坂が立ち上がる。
「アーチャー。何かあったら、イリヤ側の反応を見て」
「承知した。こちらから手元が見えるようにしてくれ。今は場所を変えるのも一苦労だ」
アーチャーは口元だけで笑った。息を継ぐ時に、眉が僅かに寄る。
セイバーが一歩、奥へ寄る。
「シロウ。周囲は私が見ます。あなたは桜から目を離さないでください」
「……ああ。頼む」
*
桜が片方の袖を、肩の近くまでまくった。白い腕が露わになる。
俺は短刀を下げたまま立っていた。腕は動くのに、足が出ない。言峰へ踏み込んだ時よりも、ずっと怖かった。目の前で、桜が信じて待っている。その細い腕へ、俺が刃を向ける。
「……先輩」
桜が静かに言った。
「わたし、平気だって言ったら、嘘になると思います」
俺は顔を上げた。
「……うん」
「怖いです。痛いのも、切った後どうなるかも」
桜は、袖をまくった手を下ろさなかった。
「でも……今のまま、誰かに引っ張られているのは、もっと嫌です」
俺は何も言えなかった。
「だから、お願いします。わたしが頼んだことを、先輩が覚えていてくれたら、それでいいです」
袖を押さえる指が震えていた。その手を下ろさずに、桜は俺を見ていた。
「……分かった」
短刀を握り直す。
「忘れない」
遠坂が桜の反対側へ回り、彼女の肩を支えた。
一歩近づき、短刀の形を確かめる。曲がった刃。柄と刀身の継ぎ目。柳洞寺で見た時には分からなかった細部まで、今は手の中にある。握りをわずかに変えると、指が馴染んだ。札を切った時にも感じた、使い慣れた道具のような手応え。
桜を、あれの現世の足場にしている契約。断つべき相手を思い描き、その感触を手繰った。
刃先を、桜の腕へ近づける。肩より少し下、遠坂が確かめた場所へ切っ先を合わせる。息を吐く。
「……桜。いくぞ」
「……はい」
刃先が皮膚へ触れた。手の中に、別の重さが加わった。刃をわずかに傾けたくなる。自分で考えるより先に、指が動きかける。
そこで、桜の息を聞いた。遠坂の宝石は一定の間隔で明滅し、銀糸は黒いものの縁を押さえている。俺は目を閉じず、その反応と刃の手応えが重なるところを探した。
「……これだ」
刃を浅く進める。桜の肩が震え、皮膚を破る抵抗が手に伝わった。だが、その次に触れたものは違った。
何かが、解ける。絡み合う輪のうち、一つが指を滑るように抜けた。教えられた相手へ向けた切っ先から、張り詰めていたものがほどけていく。
薄い布が裂ける音さえしなかった。手の中にあった抵抗が、突然なくなる。
「――っ!」
桜が息を詰めた。遠坂が名を呼ぶ。
「桜!」
同時に、黒いものが大きく脈打った。水面から何かがせり上がりかける。夜の色をした膜が、誰かの肩になりかけ、そこから先へ伸びようとした。しかし、その先にはもう、繋がる場所がなかった。黒い輪郭が空を掴む。支えていた一点を失った影は、前へ出ることも、そこへ留まることもできず、折れた枝のように内側へ崩れた。
短刀を引くと、桜の腕に細い血が滲んだ。胸がひどく痛む。けれど、何が起きたか分かるまで、柄を握る手は緩められなかった。
「……イリヤ!」
俺が呼ぶより早く、彼女の声が返ってきた。
「待って。今、確かめてる――!」
銀糸の一部が白く輝く。黒いものの表面に走った波紋が、こちらへ伸びかけたまま消えた。闇が薄くなる。風のやんだ霧のように、こちらへせり出していたものが奥へ引いていった。その境には、銀糸が張られたままだった。
遠坂の宝石が一度、強く光った。
「……反応が、消えた」
遠坂が呟く。
「桜。さっきの、奥から引っ張られる感じは?」
桜は苦しそうに何度か息を吸い、遠坂の問いに答えた。
「……ない、です」
目を見開いて、自分の胸へ手を当てる。
「……今は、来てない。あの、ずっと向こうへ引っ張られてたものが……なくなっています」
桜はそこで、自分の足元を見た。
「……わたし、ここに立ってる。ちゃんと、自分の足で」
そこで声が止まった。遠坂は桜の顔を見たまま、もう一度宝石を確かめた。
俺も何か言おうとしたが、その時イリヤが呼んだ。
「シロウ。まだ動かないで」
低い、しかしよく通る声だった。俺はその場へ留まる。イリヤは目を閉じ、胸へ手を当てている。
長い沈黙だった。短刀を下げることもできず、俺は彼女の胸が上下するのを見つめていた。
やがて、イリヤが小さく息を吐いた。
「……増えてない」
遠坂が顔を向ける。
「本当?」
「うん。さっきまでなかったものが、入ってくる感じはないわ。中の重さも、変わっていない」
俺は桜を見た。桜はまだ震えていたが、ゆっくり頷いた。
「……わたしの方も、残っています。あの……中にある重さは、変わらない」
イリヤが頷く。
「リン。そっちには、何か出てる?」
遠坂は宝石へ目を落とした。桜の呼吸を待ち、二度、三度と光の戻りを追う。
「保持していた方の反応は変わらない。奥から桜へ届いていた方だけが、途切れてる」
ようやく息が漏れた。二人の言葉を聞いて、柄を握る指が緩んだ。
岩の奥には、まだ暗い脈動が残っている。それでも、銀糸の縁を越えて桜へ伸びる影は、もうなかった。
遠坂が俺へ手を伸ばす。
「士郎。短刀、もう下げていいわ。それから桜の傷を見せて」
「……ああ」
俺は刃先に滲んだ赤から目を離し、布を巻いた。留めを確かめて包みをしまい、桜の腕へ目を戻す。
*
遠坂は桜を岩に座らせ、その前に膝をついた。腕を支え、手早く傷を押さえる。傷は浅かったが、白い布は細く赤く染まった。押さえられると、桜が唇を噛む。
「……ごめん、桜」
俺が言うと、彼女は顔を上げた。
「先輩」
少し叱るような声だった。
「頼んだのは、わたしです」
「……それでも、痛い思いをさせた」
「痛かったです。でも、頼んでよかったと思ってます」
桜は、自分の腕の包帯を見た。
「……だから、謝るなら最後にしてください。まだ、みんなの仕事が残ってますから」
俺は、少しだけ笑った。
「……分かった。帰ってから、ちゃんと話そう」
「はい」
桜も、僅かに笑った。遠坂は何か言いかけ、口を閉じた。包帯を留めると、桜の手を取ったまま立ち上がる。その時、桜の表情が変わる。桜は黒いものから目を離し、自分の胸へ手を当てていた。
「……まだ、あります」
桜が言った。遠坂が顔を向ける。
「何が?」
「……お爺さまの、嫌な感じも。それから、身体に残ってるものも」
俺は桜の腕を見た。
「……分かってる」
遠坂が言った。
「そこは、後で別に診るわ。ちゃんと覚えてる」
桜が小さく頷いた。
「……はい。お願いします」
声は疲れていたけれど、先ほどより少しだけ、息が深かった。
*
終わった、と一瞬だけ思った。遠坂に支えられて立つ桜が、小さく会釈した。何か言おうとして、やめたような顔だった。言葉を探しているのは、こっちも同じだ。ただ、ずっと強張っていた肩が下がり、呼吸が深くなっている。それで充分だと思いたかった。
――ごう、と音がした。風ではない。頭の上でも、背後でもない。足裏に触れている岩のずっと向こうで、巨大なものが回り続けている音だった。大聖杯の刻印が、ゆっくりと明滅する。先ほどまで桜へ伸びかけていた影は引いた。けれど、闇の底には赤黒い光が消えずにある。薄くなった表面の向こうで、何かの形を組み立てようとする揺らぎだけが、なお続いていた。
「……次は、大聖杯の方だな」
俺が言うと、イリヤは頷いた。
「うん。アンリ・マンユをここに保っているものと、そこへ力を送り続けているもの。まずは、その二つを見分けるわ」
白い布の上で、銀糸が一本、強く張った。細い光に引かれて、岩の刻印が闇の中から浮かび上がる。紙に描いた時には指先で覆えた線が、今は俺たちの頭上を越え、地の底へ続いていた。
「ほかの魂や、残しておく力まで巻き込まないようにね」
遠坂が宝石の光を絞る。
「……退去を確かめるところまで、だったな」
「ええ。あの願いを実行し続けている働きを先に止める。保持と供給も切って、退いたのを確かめる。その後で、残った働きを調べるの」
イリヤは、奥を見たまま答えた。桜との契約を断っても、アンリ・マンユは大聖杯の中にいる。それは分かっていた。それでも、桜が息をつけた時には、ほんの一瞬、ここまでで済んでくれればと思った。足の下から響く音が、その願いを静かに押し戻す。俺の呼吸など知りもしない深さで、儀式はまだ動いていた。
俺はイリヤを見た。彼女はまだ、銀糸を手放せずにいる。
「……イリヤ」
呼びかけると、彼女は笑おうとしたが、その途中で眉が寄る。銀糸の一部が白く光り、次いで、光り方を変えた。
「……あ、これ……」
少女の膝が沈む。俺が踏み出すより早く、セイバーが足場を確かめて横へ回った。遠坂がイリヤの手首を取り、礼装の端を支える。アーチャーも片肩を押さえたまま目を上げた。
「供給が増したのか?」
「……違う。流れは、さっきと同じ。でも、奥を分けて見ようとすると、抑える方へ引き戻される。いっぺんに触るには、重いわ」
イリヤは一度、口を閉じた。ほんのそれだけの間に、頬から色が引いていく。銀糸に触れた指は動く。だが、瞬きが少し遅れ、次の言葉を選ぶための間が長くなる。四騎の魂を抱えた身体で、さらに大聖杯へ手を伸ばしている。返事を待つわずかな間さえ、彼女自身の時間がどこかへ奪われていくようで、恐ろしかった。
「イリヤ、いったん――」
「うん。新しく触るのは、ここで止める」
銀糸の先が、それ以上は奥へ伸びなくなった。
「けど、この糸はまだ外さないで。顕現の抑えまで解けてしまうわ」
伸ばしかけた手を止め、俺は彼女の傍へ膝をついた。礼装に触れないよう背中へ手を添えると、薄い布越しに息の揺れが伝わってくる。
「今は、それだけなら保てるのか」
「……少しなら。全部を一度に見ようとしなければ」
「無理になったら退く。決めた通りに、だぞ」
イリヤが俺を見た。
「分かってる」
「本当に?」
彼女は、困ったように眉を寄せた。
「……シロウったら。そういう聞き方、どこかで覚えてきたの?」
俺はアーチャーの方を見かけて、やめた。赤い弓兵は、何も聞いていないという顔で目を逸らした。
遠坂が、彼女の銀糸と宝石の接点を確かめた。
「戻ってくる反応は、こっちで受ける。まず、今の抑えを落ち着かせましょう。奥を見るのは、それからよ」
「うん。……ありがとう、リン」
宝石の光が低くなる。代わりに、濡れた岩肌へ薄く紅が散った。白い銀糸の周りをその紅が巡り、ほどけかけていた線を一つずつ支えていく。
イリヤが息を整える。さっきほど青ざめてはいない。だが、疲れは消えていなかった。
「……今なら、見ていけるわ。一つずつにする」
イリヤが言うと、遠坂は宝石を支えたまま頷いた。俺はもう一度その顔を確かめ、背中から手を離す。
「サクラ」
イリヤが呼んだ。桜は、包帯を巻いた腕を抱えるようにして近づいた。
「……わたしも、何か出来ますか」
「今は、中の魂に触ろうとしないで。重さは変わっていない? 苦しくなってきたら教えてね」
桜は目を閉じ、胸に手を当てた。
「……はい。重さは残っています。でも、さっきとは違う。向こうへ引かれる感じがなくなったから……自分で、持っているって分かります」
イリヤが頷く。
「分かった。あとで必ず、一緒に考えるわ」
桜は「はい」と答えて、今度は少しだけ長く、イリヤの顔を見ていた。
セイバーは大聖杯へ剣を向けたまま、静かに言った。
「影は退きましたが、別の形で現れる恐れがあります。警戒は続けます」
「そうね。だから、ここで終わらせない」
遠坂の声は明瞭だった。
アーチャーが片腕で壁を支え、礼装の金具へ目を向ける。
「その刃が次も役に立つとは限らん。どこへ使うか決まるまでは、余計な力を使うな」
「ああ。まず、二人が確かめるのを待つ」
返すと、アーチャーは僅かに眉を上げた。
「ほう。それなら信用してもよさそうだ」
「ずいぶんな言い方だな」
「少しは進歩した、と言っているんだ」
俺は言い返さなかった。床の裂け目から冷たい空気が立ち上る。掌には、短刀を握っていた形がまだ残っていた。包みをしまった場所へ手をやりかけ、下ろす。
今、空いたこの手を何に使えるか。そう考えながら、イリヤの姿を見た。小さな指が銀糸を操る。皆で用意した白い布に、大聖杯の光が流れていた。冬の夜に浮かぶ雪のように、彼女の輪郭だけが白い。俺は、思わず一歩近づいた。
「イリヤ」
「なあに、シロウ」
「……無理になったら、すぐ言ってくれ。退く時は、一緒だ」
「うん。だから、ちゃんと傍にいてね」
彼女は一度俺を見て、それから、少しだけ視線を落とした。
「それにね。終わったら、いつものように手を繋いで帰りたいの」
いつものように。そんな言い方ができるほど、俺たちは長い時間を一緒に過ごしたわけじゃない。それでも、帰るところがあるのだと、彼女が当たり前のように言ってくれる。
「……俺もだよ」
そう答えると、イリヤは頬をわずかに染めた。
「うん。じゃあ、ちゃんと迎えに来てね」
俺は頷いた。
銀糸が静かに揺れる。遠坂が宝石をかざし、桜が隣で自分の呼吸を確かめた。セイバーは闇を見張り、アーチャーは白い布の留め具がずれないよう、動かせる方の手で支えた。
イリヤが奥へ手を伸ばす。大聖杯の刻印の奥で、二つの光が違う速さで脈を打ち始めた。片方が強くなると、もう片方が遅れて応える。イリヤが指をずらすたび、そのわずかなずれが見えるようになった。そのどちらも、まだ止まっていない。
「……見つけた」
イリヤの声がした。
「リン、次は、こっちよ」
再び白い光が広がる。イリヤの指先を見つめる。さっきまで繋いでいた手だ。
今度は、その手をもう一度握って帰るために。