Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
白い光が、岩の内側を流れていた。そこに水脈があるわけではない。濡れた石の向こう、手の届かない深さに埋め込まれた線が、一本ずつ目を覚ましている。冬の夜、窓硝子の裏へ霜が伸びていくのを、何倍もの速さで見ているようだった。
「……見つけた」
遠坂は返事をするより先に、宝石を持ち上げた。紅い光が彼女の指を透かし、白い布から伸びた銀糸へと注がれる。
「どっち?」
「こっち。色の濃い方じゃないわ。少し遅れて動く方」
「……そっちが保持?」
「うん。そこに形を繋ぎ止めてる。もう一つは、その形へずっと力を流してるの」
イリヤの指が宙に短い線を引くと、赤黒い光の奥で、二つの明滅が別々のものとして浮かび上がった。片方は、深い水底で魚の鰓が動くような、遅くて重い律動。もう片方は、岩の割れ目を走る熱のように忙しなく、明るくなっては暗くなる。
俺にはその違いしか分からない。いや、それだって遠坂とイリヤに教えられたから分かるのだ。目を凝らしただけで魔術の中身が読み取れるなら、もっと早く桜を助けられただろう。
「シロウ」
イリヤがこちらを見る。
「サクラの方は、もう切れているでしょう?」
「ああ。遠坂も確認した。桜自身も、引っ張られなくなったって」
「じゃあ、わたしたちはこっちを止める。先に、あれを造り続ける働きを止めるわ」
造り続ける。言葉だけ聞けば、土蔵で何かを組み立てているのと変わらない。しかしここで組み上げられようとしているのは、木材でも鉄屑でもない。人が押し付けた願いに従って、存在そのものを一つ造ろうとしている。それを止めるために、二百年前、この地の底へ築かれた仕掛けに手を入れる。
「……ほかの働きは、残したままで?」
「うん。シロウのお願いも叶えなくちゃいけないもの」
イリヤは、少し困ったように笑った。
「だから、動いているものの中から、終わらせるものを選ぶの。リン、こっちの流れを見てて」
「ええ。戻りが変わったら言うわ」
遠坂が宝石を低く構える。
「Anfang. Zeig mir, was bleibt.」
短いドイツ語が、濡れた岩へ触れる。紅い光が糸のようにほどけ、二つの明滅の周囲を巡った。水の中に落とした染料が流れを教えるように、その光は見えなかった境界を浮かび上がらせていく。イリヤの方も、銀糸を指へ巻き付けた。細い光が彼女の袖を這い、白い礼装の金具へ収まる。金具には目立った装飾もない。けれど、その一つが震えるだけで、足元の岩に描かれた巨大な線の一部が呼応した。
俺は、無意識に彼女へ手を伸ばしかけた。
「シロウ、そこにいて」
見ていないはずなのに、イリヤが言った。
「まだ倒れないわよ。それに、今はリンの手が要るの。シロウは、わたしが呼んだ時に来て」
「……分かった」
「いい子ね」
「子供扱いするな」
「ふふ。じゃあ、ちゃんと約束守ってね」
俺は答える代わりに、彼女の傍らへ立った。
*
岩の底から、低い音が立ち上った。音というより、何か巨大なものが止まろうとして、止まりきれずに軋んでいる気配だった。イリヤの腕に掛かった銀糸が一斉に張る。
「……ここ」
彼女の声が、細くなる。
「力を送る道を閉じるだけじゃ駄目。造る方が動いていたら、また流れが戻るかもしれない。だから、先に――」
言葉の後半を、イリヤは声にしなかった。細い指が空を滑り、銀色の光が、赤黒い脈動のさらに奥へ沈んでいった。まるで深い雪の下を、誰かが一筋の道を掘って進むように。
大聖杯の刻印の一部が白くなる。その白さが、俺にはひどく不自然に見えた。暗い海の底で、ある一点だけが朝になったようだった。
「リン!」
「見えてる。戻りが変わった――でも、まだ流れてる!」
「うん。今、造り続ける方を止める!」
遠坂が歯を食いしばる。宝石の光が強くなる。彼女の頬を紅く染めたまま、その輝きは白い銀糸と交差した。
俺は身体を強張らせた。目の前にいるのは敵ではない。なのに剣のない手が、何かを握ろうとしてしまう。
俺はイリヤの靴が乗る岩を見た。細かい水が溜まり、滑りやすくなっている。肩に触れずに彼女の後ろへ回り、倒れた時に受け止められる位置へ立つ。その小さな動きに、セイバーが気づいた。彼女は何も言わず、奥の闇へ向けていた足を半歩移す。俺たちの前に、いつでも割り込めるだけの場所が生まれた。
――キィン。金属を細い針で弾いたような音がした。赤黒い光の一方が、突然強く膨らむ。岩壁の奥から何かがせり上がろうとした。人の肩に似た起伏。顔に似た窪み。見る者が名前を与えれば、その形を真似てしまいそうな、不安定な輪郭。
桜が息を呑む。だが、影は彼女へ伸びなかった。こちらへ向かうはずだった黒い波は、途中で行き先を失い、自らの上へ折り重なった。
「……今!」
イリヤの指が、固く握られる。洞窟が震えた。赤黒い明滅が、そこで一拍、抜け落ちた。
次の拍が来ない。表面だけが遅れて揺れた。待っても、新しい輪郭は浮かばなかった。
「……止まった?」
俺が訊くと、遠坂がすぐには頷かなかった。宝石の光を弱め、少し待つ。一つ、二つ、三つと、暗い岩の上で水滴が落ちる。
「……新しい反応が来ない」
遠坂が、息を吐いた。
「新しい形を造る方は、止まってる」
イリヤが目を閉じると、肩が小さく上下した。
「うん。願いを実行し続けていたところは、止まってるわ」
彼女の唇に、僅かな笑みが戻る。
「でも、まだ残ってる。形を保つ働きと、そこに残っている力。そっちは別よ」
俺は奥を見た。停止した巨大な仕掛けの中で、形になりかけたものがまだ薄く揺れている。糸を外した人形が、床に落ちるまでほんの少し宙に残るような、頼りない揺れだった。
*
「保持の方へ移るわ」
イリヤが言う。遠坂は宝石を持ち直した。
「待って。供給が残ったまま保持だけ外したら、力がどこへ流れるか分からない。両方、こっちで比べておく」
「お願い。わたしは、繋ぎ目の方を見る」
二人の言葉が交わるたび、白と紅の光が細く組み替わる。
アーチャーが俺の傍らへ来た。外套の下で傷ついた肩を庇いながら、礼装の金具を横目で確かめる。
「大掛かりなものだな」
「お前も作ったんだろ」
「設計した者が、実際の使用を前に感心してはいけないという決まりはない」
「……そういうものか」
「特に今回は、使用者がよく働いている」
その言い方が妙に静かで、俺はイリヤを見た。彼女は銀糸を張ったまま、奥の流れだけを追っている。何かを誇る余裕も、誰かのために強がる余裕もないらしい。それでも指先は、一つひとつの線を確かめるように動いていた。
「……イリヤが、やるって決めたからな」
「ああ。おまえはそれを忘れるな」
アーチャーはそれだけ言い、礼装の留め具へ手を添えた。銀糸が一本、ひどく強く震えた。
「……外すわよ」
イリヤの声。俺は息を止めた。白い光が、今度は内側へ向かって折り返す。それまで形を支えていたものが、少しずつ緩んでいく。赤黒い膜は、縁から滲んだ墨のようにほどけ始めた。
遠坂が声を上げる。
「供給、落ちた! でも保持の反応がまだ強い!」
「分かってる――ここを、離す!」
イリヤの指が開く。白い線が、細い弧になって消えた。
何かが壊れた音はしなかった。代わりに、岩の奥へ染み込んでいた闇が、ゆっくりと薄くなっていった。肩になりかけた起伏が崩れ、顔になりかけた窪みも消えた。最後まで何の形にも届かなかったものは、声を上げることもなく、細かな霧になって消えていく。
赤黒い光はそこに残らなかった。後には、長い間何かが置かれていたような、色の違う岩肌だけが見えた。
俺は、自分の目がもう何も探せなくなっていることに気づいた。何かが出てくるのではないかと、まだ肩を強張らせている。しかし、岩はただの岩だった。
水が落ちる。今度は、その音が普通に聞こえた。
「……イリヤ」
呼びかけると、彼女は銀糸を離さないまま頷いた。
「うん。今ある形を支える働きも、止まってる」
遠坂はもう一度宝石を見つめた。
「生成も、供給も、保持も……少なくとも今の反応には、戻りがないわ」
桜が自分の胸を押さえた。
「……こっちから、引かれる感じもありません」
ゆっくり息を吸う。
「……本当に、離れたんですね」
「現世へ出ようとしていた形は、もう見えないわ」
イリヤが答えた。彼女は、ひどく疲れた顔で笑う。
「でも、まだ終わりじゃないの。大聖杯を、ちゃんと使えるところまで持っていかなくちゃ」
その言葉に、俺は頷いた。銀糸が触れない場所を選び、彼女の背中へそっと手を添えた。
「……次も、一緒にやろう」
「うん。次は、わたしだけじゃ出来ないから」
*
大聖杯の奥が静かになると、かえって桜の呼吸が目立つようになった。さっきまで黒い影に引かれていた時のものとは違う。彼女は自分の胸に手を当て、少しずつ息の深さを確かめている。傷を押さえた包帯には、新しい血が薄く滲んでいた。
遠坂は彼女の顔と、宝石の反応を交互に見ていた。
「桜。今、どんな感じ?」
「……さっきより、軽いです。でも、まだ中に重いものが二つあります」
「動こうとしてる?」
「いいえ。ずっと留まってる感じです。わたしが持っているのか、持たされているのか……そこは、まだよく分かりません」
遠坂が頷いた。イリヤが桜へ向き直る。
「サクラ。今から、その二つをわたしが受け取る準備をするわ」
桜の肩が僅かに跳ねた。
「……イリヤさんが、ですか」
「本来は、こっちへ戻ってくるものだもの。でも、急に引き受ければわたしの身体が保たない。先に、大聖杯へ渡す道を用意しておく」
イリヤは、少し言葉を探すように間を置いた。
「今のわたしの中には、もう四騎いるの。バーサーカーも、ライダーも、みんな。サクラの二騎が加われば、六騎になるわ」
俺は思わず彼女の顔を見た。
「……それは、駄目なんじゃないのか」
「ずっと持つならね」
イリヤは、俺にではなく桜に答えた。
「だから、受け取ってから考えるんじゃなくて、受け取ったらすぐに大聖杯へ渡せるようにしておくの。わたしが一人で持ちこたえるための計画じゃないわ」
遠坂が、白い礼装の接点へ宝石を寄せる。
「そのためにわたしが、礼装へ戻ってくる反応を受ける。あなたが全部読み分けようとしなくていいようにね」
「……うん」
「ただし、魂そのものの重さは肩代わりできない。そこは勘違いしないで」
「分かってる。わたしの仕事だもの」
イリヤがそう言うと、遠坂は少しだけ眉を顰めた。
「……まったく、そういうところはあんたも衛宮くんも同じなのよね」
「どこがだよ」
「全部分かってても、心配されると意地を張るところ」
「わたしは張ってないわよ?」
「そういう返事をするところも」
イリヤがむっとした顔をする。その顔にほっとして、すぐに自分が嫌になった。平気なふりをしているのかもしれないのに。イリヤはもう、桜と向き合っていた。
「サクラ。ひとつ訊いていい?」
イリヤの声が、静かになった。
「……はい」
「あなたの中に残っている魂を、これ以上そこへ留めておきたい?」
桜はすぐには答えなかった。包帯を巻いた腕を見つめ、それから、遠坂の顔を見る。
「……わたしのものじゃ、ないですから」
言葉は小さかった。
「捕まえておきたいと思って、捕まえたわけでもないです。でも……手放した後、何が起きるのか分からなくて、怖い」
遠坂は桜の手を取った。
「怖いのは当然よ。だから、今やることも、やらないことも説明してる」
「……はい」
「大聖杯を止めずに使うなら、二騎を桜の身体からどう移すか決めなきゃいけない。けど、あんたが嫌だと言うなら、勝手に切るつもりはないわ」
桜は顔を上げた。
「……ずっと、ここに置いておく方法もあるんですか」
遠坂は答えに詰まった。イリヤが首を横へ振る。
「安全だとは言えないわ。サクラの身体には、まだほかにも残っているものがあるでしょう? 魂を抱えたまま、それとどう付き合えるか、わたしにも分からない」
桜は、しばらく黙っていた。俺は何度も口を開きかけ、閉じた。桜の答えを待った。やがて桜が、深く息を吸った。
「……放してください」
遠坂の指を、自分から握り返す。
「わたしの中にいるものを、わたしのために閉じ込めておきたくありません。ライダーだって……最後は、自分で決めてくれたから」
そこで、桜の声が少し揺れた。誰も、すぐには言葉を挟まなかった。
「でも、イリヤさんが倒れるのは嫌です」
桜は言い切った。
「だから、受け取ったら大聖杯へ渡せるっていう準備を、ちゃんと確かめてからにしてください。途中で駄目だって分かったら、わたしも待ちます」
イリヤが微笑んだ。
「……うん。その約束なら、出来るわ」
遠坂が桜の手を握り直す。
「じゃあ、順番を守りましょう。さっきと同じよ。慌てて切らない」
俺は頷いた。今度は、切る前に開ける道を用意する。
*
イリヤは大聖杯の奥へ向かい、白い布の銀糸を一本ずつ持ち上げた。あの細いものが、今は見えない橋を架けているように見えた。最初の橋はイリヤ自身の身体から大聖杯へ、次の橋は大聖杯の底で眠っていた古い道筋へ。そして最後の一本は、まだ何もない宙へ伸びていく。
「……これが、帰る道?」
俺が訊くと、イリヤは少し首を傾げた。
「帰る道そのものを、わたしが造ったわけじゃないわ。最初から繋がっているの。今は、大聖杯が魂を受け取って、その道を使えるように位置を合わせてるだけ」
指先をわずかに動かす。銀糸が、これまでとは別の方角へ光った。
「英霊の魂は、ずっとここにいるものじゃないもの。役目が終われば、戻ろうとする。その途中で開く隙間を使うのが、この儀式なのよ。大聖杯へ渡したら、帰り着く直前で留めておく。帰ろうとする働きを残したまま、開いた隙間を術式で支えるの」
説明を聞いても、実物を見るまでは想像がつかなかった。イリヤの中にある魂と、桜に残っている魂。それらが帰ろうとするだけで、こんな巨大な仕掛けが動く。俺には、あまりにも遠回りな方法に思えた。けれど、その遠回りをするために造られた場所が、今目の前にある。
遠坂が、岩壁に映る細い光へ目を凝らす。
「まだ開けないのね」
「うん。魂を受け取って留める準備が整う前に、動かしたくないもの」
「じゃあ今は、受け止める場所と、動かす順番だけ」
「そう。大聖杯を止めるんじゃなくて、正しい手順で動かすの」
イリヤが俺の方へ視線を寄せた。
「それからシロウ。ここからは、あなたへ流す魔力をもっと細くするわ。周囲から集める力も、今はわたしの方へ回したいの」
「分かった。こっちは無理に回路を動かさない」
イリヤは頷いてから、セイバーを見た。
「セイバーも、しばらくは維持する分だけでお願い。大きな宝具は使わないで」
「承知しました。今は警戒に専念します」
セイバーが、奥の巨大な刻印を見上げた。
「一度開けば、閉じるまでは維持されるのでしょうか」
「大聖杯が魂を留めて、開いたところを支えている間はね。ただし、永遠にという意味じゃないわ」
イリヤの返事に、セイバーは頷く。
「ならば、閉じる手順も忘れてはなりません。今は必要なことを終えるために開けるのですから」
「もちろんよ。必要なことが済んだら、魂を留めている働きを解く。今度こそ帰れるようにして、それから門を閉じるわ」
俺は、奥の暗さを見た。桜を助け、あれを止めた後でも、ここはまだ恐ろしく大きな装置のままだ。使えるからといって、そのまま置いていけるものでもない。そのことは、今は頭の端に置くしかない。
先に、イリヤだ。
「……準備は?」
遠坂が訊いた。イリヤは目を閉じたまま、少し長く呼吸をする。
「大丈夫。受け取ったら、すぐ大聖杯へ渡せる」
「イリヤ」
遠坂の声が少し強くなる。
「大丈夫かどうかじゃなくて、どこまで整えたか教えて」
イリヤが目を開き、一瞬、驚いたように遠坂を見た。それから、ふっと笑った。
「……そうね。受け取る経路は確認した。大聖杯へ渡す方も繋いだ。向こうで魂を留めるところも、開く隙間を支えるところも合わせた。わたしが最後の合図を出せば、動かせる」
「分かった。じゃあ、こっちも確認する」
遠坂が宝石をかざす。白い銀糸の横に、紅い細線がもう一本並ぶ。途中で二度、光が弱まった。遠坂はそのたびに指先を動かし、反応を繰り返し確かめた。
何かが終わるのを、皆が黙って待っている。ただ待つことが、今は剣を振るより難しかった。
「……いいわ」
遠坂が言った。
「こっちからは、受け取った反応を大聖杯側へ渡すところまで追える。途中で詰まったら、わたしにも分かる」
イリヤが頷く。
「ありがとう、リン」
「終わってから言いなさい。まだ本番なんだから」
桜が、二人を見て少しだけ笑った。その笑みが、震えているのを俺は見た。
*
遠坂が、宝石とは別にしまっていた細長い包みを取り出した。布の留めを確かめてから、俺へ差し出す。
「もう一本。昨日の試験も済んでる方よ」
布の下に、短い刃の重さがある。さっき使った二本目は、布に包んでしまってある。今受け取ったのは、遠坂が予備として持っていた一本目だ。同じ形の刃を、今度は別の繋がりへ向ける。
「……桜」
呼ぶと、彼女がこっちを見る。
「今度は、あの中に残っている魂を、桜の方へ留めている契約を切る。奥と桜を繋いでいたものじゃない」
「はい」
「痛みは、またあると思う」
「……分かっています」
俺は短刀を見た。さっき使った時の感触が、まだ掌に残っている。奥へ伸びていた契約は、もうない。今度は、この身体に二騎を留めているものだ。
「……姉さん。今の反応も、見えますか」
桜が訊いた。遠坂は宝石を彼女へ向けた。
「見える。さっきと違う形よ。桜の中に留まっているものを、外へ逃がさないための繋がり」
「イリヤさんの方は?」
「わたしには、その先にある正規の道も分かるわ」
イリヤが答えた。
「黒い小聖杯が後から捕まえたからって、最初からあった道まで消えたわけじゃない。だから、サクラが付けられた拘束を離せば、魂はこっちへ戻ってくるはずよ」
遠坂が俺を見る。
「衛宮くん。今度も、わたしたちが反応を合わせる。あんたは短刀を振るう時に、ひとつだけ覚えておいて」
「……何を?」
「わたしたちが解こうとしてるのは、桜が新しく負わされた拘束よ。元からあるものじゃない」
俺は頷いた。正規の帰り道は残し、黒い小聖杯が後から結んだ、その繋ぎ止めだけを断つ。遠坂の札を切った時の感触を思い出す。今度も、二人が示したものを見失わずに刃を運ぶ。
「桜。……やるぞ」
桜は、包帯を巻いた腕を見つめた。そして自分から、その腕を差し出した。
「お願いします、先輩」
俺は深く息を吐いた。礼装から離れた足元の岩へ、包み布を広げておく。もう一度同じ場所に傷を作らないよう、遠坂が確かめた別の位置へ刃先を寄せる。
銀糸が鳴る。イリヤが、受け取る準備を済ませたと合図した。遠坂の宝石が、それを確かめて静かに灯る。桜の呼吸が落ち着く。
短刀は、俺の手の中で軽かった。柄を握り直すと、歪んだ刃が掌へ馴染む。指に残る札の手応えへ、俺が写した道具の経験が重なった。宝石から戻る光を見て、刃先の角度を合わせる。俺は桜を見る。
「……いくぞ」
「はい」
短刀の先を白い皮膚へ触れさせ、浅く、必要なだけ進める。桜が小さく眉を顰めた。その痛みから目を逸らさず、俺は刃を進める。
すると、手の中の重さが、ふいに変わった。きつく結ばれた糸が、結び目を知る指にほどけていくようだった。刃を伝って、ひとつの手応えが消える。続いて、別の手応えが――
「……切れた!」
遠坂の声。俺は刃を引き、広げておいた布へ伏せた。刃先を覆ってから、桜へ手を伸ばす。桜の身体が、僅かに後ろへ傾く。すぐに遠坂が支え、傷へ布を当てた。
だが、桜の目は傷を見ていなかった。胸の奥にあったものが、そこから離れていくのを確かめるように、虚空を見つめている。
「……あ」
桜が、息を吐いた。
「……軽く、なって……」
言葉が終わるより早く、イリヤの銀糸が、激しく鳴った。
最初に起こったのは、光だった。桜の足元から白い線が二つ、別々の速さで伸びていく。岩肌を這ったわけではない。石の前を通り、空気の中を通り、そして俺には見えない何かの奥へ、細い道が現れたように思えた。
片方はすぐに見えなくなったが、もう片方はひどく眩しかった。光の強さだけじゃない。目を向けていると、金属を口に含んだ時のような不快な重さが、舌の奥へ残る。あの黄金の王が生きていた時、周囲の空気まで自分のものにしていたことを思い出す。
……だが、今ここにいるのは、もうあの男ではない。敗れた英霊の魂だ。桜に捕らわれていたものが、本来向かう場所へ動き出した。
「……来る!」
イリヤが言った。続けて何かを言いかけ、口を閉じる。
白い布が大きく膨らんだ。風はない。それなのに銀糸が宙へ伸び、まるで見えない大きな鳥の翼を支えようとするように張り詰める。
イリヤの身体が、小さく跳ねた。
「イリヤ!」
俺は手を伸ばした。今度は、止められなかった。彼女の肩を抱き、倒れかけた身体を支える。
腕の中の重さが、さっきまでと違った。身体が急に重くなったわけじゃない。むしろ、力が抜けてしまったように軽い。背中へ回した手に、細かな震えが伝わる。
「……遠坂!」
俺の声に、遠坂は顔を上げた。
「分かってる! 今の反応を追ってる――!」
宝石から紅い光が溢れる。遠坂はそれを、大聖杯の奥ではなく、イリヤの礼装へ繋いだ。途切れかけた銀糸が、一度だけ張り直される。
「イリヤ、聞こえる!?」
「……う、ん」
返事が遅れた。いつもなら、問いかけを最後まで聞く前に何か言い返すくせに。イリヤは、俺の腕に寄りかかったまま、遠くを見ていた。焦点の合わない赤い瞳。唇が僅かに開き、次の呼吸まで、ひどく長い間が空く。
「……シロ、ウ」
「ここにいる。ちゃんと支えてる」
その言葉に、彼女の指が微かに動いた。俺の袖を掴もうとして、途中で止まった。
俺はその指へ自分の手を添えた。イリヤの手は冷たかった。冷えている、というだけではない。触れているのは同じ手なのに、そこへ通っていたはずの力が、別の仕事へ持っていかれてしまったようだった。
胸に耳を寄せる余裕もない。それでも呼吸の間が延びるたび、何かが壊れていく気がした。
「遠坂、これ……!」
「分かってるって言ってるでしょう!」
遠坂の声が、初めて鋭くなった。彼女は額に汗を浮かべ、宝石に込めた魔力の反応を読み続けていた。
「魂は二つとも、正規の経路へ戻ってる! 黒い小聖杯の拘束は消えた! でも……受け取り側の負担が、急に上がってる!」
桜がイリヤへ手を伸ばしかけた。
「イリヤさん……!」
「桜。今は触れないで。あなたが悪いんじゃない。もう動き出したものを、途中で引き戻す方が危ない」
遠坂が言った。桜は震える手を胸の前で止めた。その代わり、俺の方へ向かって言う。
「先輩。……イリヤさんを、離さないでください」
「……ああ」
抱いているだけでは救えない。それがひどく悔しかった。
次の銀糸へ、もう光が走っている。受け取る側から、大聖杯へ渡す側へ。さっき二人が揃えた道を、紅い光が追いかけていく。それを送るイリヤの指が、途中で止まりかけた。六騎。数えれば、それだけだ。けれど、その重さのために、呼吸も、瞬きも、俺の袖を握ることさえ奪われていく。
「……イリヤ」
顔を寄せる。赤い瞳が、ほんの少し動いた。
「俺、ちゃんと迎えに来てるから」
彼女の唇が動く。
「……まだ、する……こと……」
息に混ざる声へ頷いた。銀糸の光は、止まっていない。
「……分かってる。一緒にやろう」
イリヤの指が、俺の袖を僅かに掴んだ。その手が届くように、俺は腕の位置を少し下げた。
*
銀糸が鳴った。一度目は、遠くに置いた鐘のように。二度目は、耳のすぐそばで小さな硝子を弾いたように。それから、数えきれないほど細い音が重なって、ひとつの長い響きになった。
「……繋がった!」
遠坂が叫ぶ。
「イリヤ、今よ! 準備した順番で!」
イリヤは返事をしなかった。代わりに、俺の腕の中で小さな手が動き、白い布の端に触れた。そこから伸びた銀糸が、彼女の指先を包み、向こう側へ走る。
俺には、何が起きているのか全部は分からなかった。だが、今まで銀糸が引き受けていた重さが、少しずつ移動していることだけは感じた。奥へ、さらに奥へ。人が歩いて行けるはずのない、洞窟のその先へ。
濡れた岩壁の模様が、ひとつの巨大な輪になった。その中央に、薄い亀裂が生まれる。岩が割れたのではなく、目の前の空間が、そこだけ別の奥行きを持ち始めたのだ。
亀裂の向こうには、何も見えなかった。闇ですらない。色を持たない場所が、こちらの世界の内側へほんの僅かに顔を出したようだった。
「……扉」
思わず口にする。イリヤが、微かに頷いたように見えた。
まだ、完全に開いてはいない。光が近づくたび、亀裂は薄く開き、また閉じかける。何かが向こうへ戻ろうとして、その瞬間だけ道が生まれる。そして大聖杯の刻印が、その開きかけた隙間へ白い光を差し込む。
光が、その縁で留まった。戻ろうとするものを、まだ向こうへ通さない。幾重もの白い線が揺れる隙間へ重なり、その縁を支えていた。
イリヤの中から、最初の重さが抜けた。彼女の肩が、僅かに下がる。次に、別の重さ。
俺にはそれらの顔は見えない。名前を呼んでも返事はないだろう。けれど、バーサーカーが地を踏む音を知っている。あの巨大な斧剣が振り下ろされる時の、逃げ場のない重さを覚えている。ライダーが桜の傍らに立っていたことも、忘れていない。
あの二人が今、何かを語りかけてくるわけではない。確かにここにいた者たちが、イリヤの身体から離れていく。けれど、まだ帰り着いたわけではない。大聖杯へ渡った先で、あの道へ向かうところを留められている。送り出すのは、必要なことを終えてからだ。今は、その重さをイリヤ一人に抱えさせない。
大聖杯の光が、幾重にも重なる。亀裂が、少しずつ広がった。
白い線は、空の高みへ向かう道のように見えた。だが、そこに空はない。冬木の地下深く、朝日も星も届かない岩の底だ。それでも、あの道の伸びる先だけは、なぜか上だと思えた。
俺は、イリヤを支える腕へ力を込める。さっきまで彼女を押し潰しそうだった重さが、ひとつずつ抜けていく。そのたびに、銀糸が白く鳴る。
遠坂は宝石の光を細く保ち、戻ってくる反応を追っていた。桜は離れた場所で、今度は自分の胸ではなく、イリヤの顔を見つめている。セイバーは剣を下ろさない。アーチャーは、最後まで留め具から手を離さなかった。
最後に、ひどく重い反応が銀糸を伝い、大聖杯側へ渡った。遠坂の宝石が一瞬だけ眩しく輝き、すぐに色を落とす。
「……っ!」
イリヤが小さく身を震わせた。限界まで引き絞っていた糸が緩むように、その震えは腕の中へ伝わった。
俺は、彼女の呼吸が一つ戻ったことを感じた。次の呼吸も、来た。それだけで、涙が出そうになった。
――まだ早い。まだ、イリヤが俺を見て笑ってくれたわけじゃない。そう自分に言い聞かせる。
門の向こうへ続く道が、ひとつの広がりとして留まる。その奥を見ようとしても、俺には何も見えない。ただ、洞窟の空気が変わった。水の匂いと、古い石の匂いがする。そのどちらでもない、澄み切った何かが、ほんの一瞬だけ混じった。
春の朝に窓を開けた時、まだ冷たいのに冬のものではない空気が入ってくることがある。それに似ていた。
門は開いた。だが、何かがこちらへ出てきたわけではない。戻ろうとするものは、まだこちら側に留められている。その働きで開く道を、大聖杯の光が支えていた。そのことが、理屈ではなく、ようやく目の前の出来事として分かった。
*
遠坂が、宝石を握り直した。
「……イリヤ。中に残ってる反応を教えて」
返事がない。俺は腕の中を見下ろす。イリヤは目を開けていた。けれど、その瞳はまだ奥の白い光を向いている。
「……イリヤ?」
呼びかけても、反応が遅い。やがて、唇が少し動いた。
「……渡せ、た」
かすれた声だった。
「……みんな……」
遠坂が目を閉じ、深く息を吐いた。
「六つとも……大聖杯へ渡ったのね」
イリヤは小さく頷く。その頷きさえ、ひどく苦しそうだった。
俺は彼女の額に触れた。冷たいが、さっきよりは血の通った冷たさだった。
「……イリヤ。もう終わったのか」
彼女は俺の顔を見ようとした。赤い瞳が、僅かに動く。
「……まだ」
息が、続かない。
「……シロウの……」
そこまで言って、声が途切れた。俺は彼女の手を強く握りかけ、すぐに力を緩めた。痛がらせたくなかった。
いや、違う。痛がってくれるなら、まだ返事があると分かる。そんなひどいことを、一瞬でも考えてしまった。
「……イリヤ。俺の願いは、まだだ。分かってる」
彼女の指が、かすかに動く。それきり、動かなくなった。
*
「……シロウ。少し、こちらへ」
セイバーが呼んだ。俺はイリヤから目を離せなかった。彼女が何も言わなくなったことより、その瞳がこっちを向かなくなったことの方が怖い。
ついさっきまで俺に子供扱いするなと言わせて喜び、手を繋いで帰りたいと言った。その女の子が、目を開いたまま、俺の呼ぶ声に応えてくれない。
「……シロウ」
もう一度、セイバーが言った。俺はようやく顔を上げた。
「……なんだ」
「私が代わって支えましょうか」
「いや。大丈夫だ」
答えてから、自分の膝が震えていることに気づく。セイバーは何も言わなかった。ただ、俺の脇へ立ち、もし俺が倒れたら二人とも受け止められる位置へ剣を持ち替えた。隣のセイバーが、ひどく有難かった。
遠坂がイリヤの礼装を確かめている。宝石の光が、先ほどよりずっと静かに動いた。
「……収容の反応は、もうない」
彼女が言う。
「桜の方も、イリヤの方も。追っていた六騎分は、大聖杯側へ移ってる。あちらで留められている反応もあるわ」
「……じゃあ、なんで」
言葉が出てこなかった。魂を大聖杯へ渡せば、イリヤは楽になるはずだった。なのに、どうして。
「衛宮くん」
遠坂は俺の顔を見た。
「今、この子を動かしてるのは、魂を抱える器の仕事だけじゃない。大聖杯と繋がって、願望機能を動かす方もあるの」
「……だから、返事がないのか」
「まだ断定は出来ない。でも、身体の呼吸は戻ってきてるし、さっきの収容負荷は落ちてる。今、無理に接続を外したら、何がどうなるか分からない」
俺はイリヤを抱え直した。遠坂の言葉は理解できるのに、聞きたくない。
ここまで来て、また待つのか。あんなに苦しそうにしていたのに、まだ別の仕事が残っているのか。俺の中に浮かんだ言葉は、どれも自分勝手だった。
イリヤはここまで来ると決め、俺が願いを届けられるように、あの門を開いてくれた。なら、今度こそ俺が何かをする番だ。
「……分かった」
ようやく答える。
「でも、確かめてくれ。イリヤが、ちゃんとそこにいるか」
遠坂の表情が、僅かに変わった。
「……ええ。そこは、ちゃんと確かめるわ」
宝石を握り、イリヤの手首へ指を置く。しばらくすると、遠坂の息が少しだけ緩んだ。
「身体は生きてる。反応もある。今のこれは、魂を失ったとか、別人になったとか、そういうふうに決めつける状態じゃないわ」
俺は頷いた。イリヤの髪が、俺の胸元で揺れた。その柔らかさだけは、何も変わっていない。
*
黒い影のあった場所には、もう赤黒い光がなかった。それでも、大聖杯の刻印は静かに動いている。床を走る線は、先ほどまでの不吉な脈動とは違う。まるで水面に映った月を、風がそっと撫でるように、淡く揺れていた。
遠坂はイリヤの傍へ宝石を残したまま、もう一つの小さな石を取り出した。
「……桜。こっち、見てて」
「はい」
新しい宝石が、大聖杯へ向けられる。光は岩へ届き、そこから戻ってきた。先ほどまでなら、必ず途中に赤黒い濁りが混じっていた。あの波打つものが、どこかから反応を横取りするように、光の形を崩していた。今は違う。戻ってきた光は、入っていった時とほとんど同じ形をしていた。
「……変わってる」
俺が言うと、遠坂は振り返った。
「見えるの?」
「いや、光の感じが。さっきまでは、向こうが勝手に何か掴もうとしてたみたいだったけど……今は、それがない」
遠坂は、少し驚いた顔をした。
「……そう。まあ、今の衛宮くんなら、そっちの違和感の方が分かるか」
宝石を、もう一度かざす。
「でも、見た目だけじゃ駄目。旧い願いが戻ってこないか、大聖杯の動きが変なところへ逃げてないか、確かめるわよ」
アーチャーが壁に背を預けたまま、口を開いた。
「大聖杯の働きまで壊したのなら、今の光は戻ってこないはずだ。だが、それだけで正常と断じるのも早計だな」
「分かってるわよ」
遠坂は顔をしかめた。
「確認してる最中に口出ししないで。あんたは自分の肩を押さえてなさい」
「忠告の仕方が、随分と丁寧になったものだ」
「まだしゃべる元気があるなら、後でたっぷり叱れるわね」
アーチャーは肩を竦めようとして、傷に響いたらしく眉を顰めた。俺は少しだけ笑いかけ、すぐにイリヤへ目を戻した。笑えることが、申し訳ないような気がした。けれど、ここにいる皆がずっと歯を食いしばっていたら、イリヤが目を覚ました時、きっと怒る。何より、彼女はこんな顔の俺たちを見るために、あの門を開いたわけじゃない。
「……姉さん」
桜が遠坂を呼んだ。
「わたしの方、確かめてもらってもいいですか」
「もちろん」
遠坂が彼女へ向き直る。桜は自分から袖をまくった。包帯の下には二つの小さな傷がある。どちらも、俺が作ったものだ。その包帯を見ると、胸の奥が少し痛んだ。けれど桜は、傷そのものより遠坂の顔を見ていた。
「……中に、あの重さはもうありません」
「そうね。二騎分の収容反応は消えてる。黒い小聖杯の、後から魂を縛っていた部分も動いていない」
「じゃあ……」
桜の言葉は続かなかった。遠坂が首を横へ振る。
「ほかに残っているものは、また別。そっちは帰る前に、改めて時間を取って処置する」
「……はい」
桜は、自分の身体に触れた。俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
遠坂が大聖杯へ向き直る。
「……いいわ。あの願いを繰り返す反応はない。新しく何かを造ろうとする動きもない。六騎の移管は終わって、大聖杯側の保持も落ち着いてる」
その言葉を聞いて、セイバーが僅かに剣を下げた。
「ならば、破壊のために聖剣を向ける必要はないのですね」
「今はね。けど、まだ全部終わったわけじゃない」
セイバーが頷く。
「承知しています」
目を向ける先は、大聖杯ではなく、俺の腕の中のイリヤだった。
*
洞窟の空気が、また変わった。今度は、何かが消えていくのではない。静かな水面に、目に見えない一滴が落ちるような変化だった。
イリヤの腕に掛かった白い礼装が、僅かに浮く。銀糸がひとつずつ光り、すぐに落ち着いた。
「……遠坂」
俺は呼んだ。
「今度は、何だ」
遠坂が、俺へ顔を向ける。彼女の視線が、イリヤの唇で止まった。
「……待って」
その声が、ひどく小さかった。俺も、イリヤを見る。彼女の指は動かないが、呼吸はある。胸が上下するたび、白い布の銀糸が少しだけ揺れた。それだけだ。
「……イリヤ」
呼びかけても、いつもの返事はない。だが、彼女の唇が静かに開いた。
「――接続は、成立しています」
イリヤの声だった。聞き間違えるはずがない。あの公園で、初めて名前を呼ばれた時の声。食卓で、くだらないことを得意そうに話していた声。俺が心配すると、わざと不満そうにしてみせる声。その全部と同じ音が、今、俺の腕の中から聞こえた。
なのに。
「……イリヤ?」
俺はもう一度、名前を呼んだ。彼女は、俺を見なかった。赤い瞳は開いているのに、その視線の先には俺がいなかった。
「……正常な願望機能が、使用可能な状態にあります」
声は、静かだった。そこに、いつものイリヤらしい間がない。からかうために語尾を上げることも、言い直す前に少し笑うこともない。俺の顔を覗き込んで、困らせようとする気配もなかった。
これは、イリヤの声だ。でも、イリヤが俺に話しかけているんじゃない。
遠坂が一歩、近づいた。
「……今、答えているのは誰?」
その声には、魔術師らしい鋭さがあった。
イリヤの唇が動く。
「聖杯の機能が、器を通して応答しています」
遠坂は息を呑んだ。
俺の腕の中で、イリヤの身体は温かさを取り戻しつつあった。それなのに、声だけが、遠くから届いているように聞こえる。
「……イリヤ本人は」
俺が訊く。
「どこにいるんだ」
一瞬だけ、静寂が落ちた。銀糸が、淡く光った。
「器としての接続が続いています。この発話は、本人の意識による応答ではありません」
知りたかったのは、イリヤが今、何を感じているかだった。聞こえているのか。苦しくはないのか。だが、声の向こうに彼女の表情を探しても、答えは見つからない。
遠坂が俺の肩へ手を置いた。
「……イリヤ自身を変えずに、器の働きを外したい。身体に残る問題も、そのままにはしたくない。分けて扱える?」
「器の機能の分離と、身体への処置は、分けて指定できます」
同じ声が答えた。遠坂は俺を見た。
「聞こえたわね。接続を外すだけで終わりにしない。あんたが望んでることを、そこまで伝えて」
俺は頷いた。イリヤの首を支え、腕の中へ抱き直した。白い髪が、俺の腕に落ちる。腕に残る重さと温かさから、今は手を離せなかった。
*
言葉を交わすなら、今は何を言えばいいのだろう。白い布の光は、彼女の呼吸に合わせて揺れている。その一息一息を、さっきまで数えていた。同じ声が聞こえたからといって、それだけで安心したかったわけじゃない。食卓で好みを言い張り、昨日の約束を持ち出して俺を困らせる、その続きを取り戻したいのだ。
だったら、俺に出来ることは一つしかない。イリヤが自分で声を出せるようにする。俺の名前を呼んで、また勝手なことを言って、俺の返事に笑えるようにする。
「……遠坂」
俺は顔を上げた。
「俺が願いを言えば、いいんだな」
遠坂は、少し考えてから頷いた。
「ええ。ここから先は、あんたが言わなきゃ始まらない」
「イリヤを……」
喉が詰まる。名前を口にするだけで、胸の奥が熱くなった。
「……俺たちが決めてきたことを、ちゃんと伝える」
遠坂は静かに頷いた。
「そのために、ここまで来たんでしょう」
俺はイリヤを見下ろした。銀色の髪が、俺の袖を覆っている。白い布の縁に、彼女が自分で触れて確かめた小さな留め具がある。何度も調整して、上手くいかないところを直して、皆で持ってきた礼装だ。イリヤはそれを身に着け、俺たちと一緒に生きるために、自分でここまで歩いてきた。
「……桜」
呼ぶと、彼女が顔を上げた。
「先輩」
「ありがとう。さっき、決めてくれて」
桜は小さく首を横へ振った。
「……わたしも、イリヤさんに帰ってきてほしいです」
その言葉に、俺は頷いた。
セイバーが剣を下げた。目に見えない刃の周りで、最後の風が静かになる。
「シロウ」
遠坂と桜の少し後ろから、彼女が声をかける。
「あなたがここまで守ろうとしたものを、今度は言葉にしてください。私たちは、まだここにいます」
俺は顔を上げた。セイバーの隣には、傷ついたアーチャーが立っている。彼は何も言わず、ただこちらを見て、僅かに顎を引いた。
その程度の仕草なのに、妙に腹が立たなかった。ここで格好のいいことを言われたら、きっと言い返してしまっただろう。今は、ただ頷くだけでよかった。
*
大聖杯の門は、静かに開いていた。その向こうから光が溢れているわけじゃない。俺の知っている世界と同じ暗さが、その場所だけ別の深さを持っている。
イリヤは俺の腕の中にいる。六つの魂を渡し終えても、彼女の腕にはまだ白い礼装が掛かり、銀糸が聖杯へ繋がっていた。
もう一度、その顔を見る。赤い瞳が開いている。俺が好きになった少女の顔だ。でも、彼女は俺を見ていない。それでも、俺はその顔から目を逸らさなかった。
イリヤと初めて手を繋いだ時、何を考えていたか。城へ行った時、彼女の隣へ並んだ時、衛宮邸で他愛もない話をした時。その一つひとつを、今ここで思い出そうとする必要はなかった。そんなものはもう、忘れようとしても忘れられない。
ただ、もう一度。あの声で、俺の名前を呼んでほしい。そんな、当たり前のことを望んでいる。
俺はイリヤの手を、そっと握った。指先はまだ冷たい。けれど、そこにある。
銀糸が微かに鳴る。イリヤの唇が、静かに開いた。さっきまで彼女自身が使っていた声が、同じ高さで、同じ柔らかさで、俺へ届く。その声音には、まだ、あの得意そうな笑みがない。
だけど今は、その違いを恐れるより先に、答えたいと思った。目を逸らさずにいると、聖杯は、イリヤの声で尋ねた。
「――あなたの願いは、何ですか?」