Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
問いかけは、俺の腕の中から聞こえた。
こんなことがあるものか、と思った。イリヤの唇が動いて、イリヤの声がする。それだけなら、何もおかしくない。ついさっきまで、俺は彼女が話すたびに耳を傾けていた。大聖杯の仕組みを説明する時の自信たっぷりな口調も、遠坂に言い返す時の少し尖った声も、俺をからかう時にわざと甘くなる語尾も、ちゃんと覚えている。なのに今は、そのどれでもなかった。
小さな身体を抱えている腕へ、ゆっくりとした呼吸が伝わってくる。白い礼装の肩口に垂れた髪は、薄い銀の束になって俺の袖を覆っていた。濡れた岩に反射した光が一筋ごとに異なる明るさを与え、少し動くだけで、夜明け前の霜が光の向きを変えるように瞬く。
そこにいるのは間違いなくイリヤだった。頬はいつもより白い。鼻先も、指も、寒い日に外から帰った時のように冷えている。長い睫毛の下では赤い瞳が開いていたが、そこに映る俺の顔を、彼女は見ようとしなかった。目を合わせれば、きっと何か言ってくれる。そんな、いつの間にか当たり前になっていた期待が通じない。
「……士郎?」
遠坂が、横から小さく呼んだ。俺はイリヤを抱き直した。頭が後ろへ傾かないよう首の下へ手を入れ、腕に挟みそうな白い髪を指でそっと逃がす。これだけは、今の俺にもできる。
「分かってる」
遠坂へ答えてから、イリヤの顔を見た。
「俺の願いは、イリヤを助けることだ」
白い礼装の銀糸が微かに光った。応答はない。もっとちゃんと言え、ということなのかもしれない。いや、相手は願いを聞く仕組みだ。こっちが何を望むのか、分からなければ実行できない。
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルンを、聖杯の器としての役目から解放してほしい。魂を集めたり、大聖杯を動かしたりするために、人間としての機能を削られないように」
遠坂が、傍らで静かに頷いた。
「それから、短命になるように作られた身体を治してくれ。ここから連れて帰るだけじゃなくて、その後も、自分の身体で生きられるようにしてほしい」
腕の中の少女は動かないが、それでも俺は続けた。
「別の誰かにするんじゃない。今までのことを忘れた、似ているだけのイリヤも嫌だ。あいつが考えて、笑って、怒って、俺たちと一緒に過ごしてきた、そのままのイリヤに帰ってきてほしい」
ずいぶん勝手な注文だが、勝手で何が悪い。俺は、イリヤが好きだ。生きていてほしい。俺の家で、またくだらないことで言い合って、朝飯の献立に文句をつけられて、休みの日には一緒に出掛けたい。
「……できるか」
赤い瞳は俺を見ないまま、イリヤの声が答えた。
「指定された処置は、実行可能です。器機能の分離と、身体の寿命制約の解消を、別の処置として受け付けます」
喉の奥が熱くなった。遠坂が身を乗り出す。
「確認するわ。器を外したことで、この子自身の生命維持が止まったりしない? 身体の処置が済むまで、必要な働きは途切れないようにして」
「生命維持の連続性を保ったまま、対象の機能を変更できます」
「それなら、人格も記憶も連続したままね? この子がこの子でなくなるような変更はしない。成長も、寿命も、本人の人生として残す。それから、聖杯を後で止めても、治療の結果が失われないこと」
「指定を受け付けました。器の停止後も、独立した生命活動を維持する処置とします」
遠坂が一度だけ目を閉じた。その顔を見て、俺もようやく息を吐いた。
「……イリヤが自分で望んだことも、忘れないでくれ」
誰へ言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。白い礼装を身に着けると決めたのは、イリヤだ。危険を知っていて、それでも俺たちの隣を歩いてきた。
「俺たちは、一緒に帰ると約束したんだ。あいつも、帰りたいと言った。だから、俺はそれを叶えたい」
答える声は、あくまで平坦だった。
「願望の対象と実行条件を確認しました」
「……頼む」
そう言ったところで、いちばん大事なことがまだ残っている気がした。イリヤは今、目を開けている。それなのに、俺の声で笑わない。そんな姿を見たのは初めてだった。もう一度、この子に名前を呼ばれたい。それだけのためにここまで来た、と言ってしまえば、遠坂には呆れられるだろう。けど、それも俺の願いだ。
「俺は、イリヤと生きたいんだ」
その一言だけは、誰に説明するでもなく、まっすぐ彼女へ向けて言えた。白い光が、静かに揺れた。
*
最初に変わったのは、音だった。岩の奥で低く唸っていた大聖杯の響きが、少しずつ遠くなる。止まったわけではない。むしろ、規則正しくなったのだ。ずっと大きな鐘の内側へ立っていたのが、鐘の外へ出て、初めてその響きを落ち着いて聞けるようになった感じだった。
遠坂が宝石をかざす。紅い光がイリヤの礼装の縫い目に沿って流れ、銀糸を一本ずつ浮かび上がらせた。細い銀線は、これまで岩壁の紋様と繋がっていた。いくつもの曲がり角を持ち、留め具から伸び、結び直され、また伸びる。その先はずっと遠く、大聖杯の奥まで続いているはずだった。
ところが、糸の端から淡い光が帰ってきた。水面の月を絹糸で引き寄せたら、きっとこんな光り方をするのだろう。ひと筋の銀色が袖を這い、次の銀色が肩へ戻り、また次が細い首元へ向かう。いつの間にか、彼女の周りを取り巻いていた無数の線が、ほどけた花弁のように宙へ浮かんでいた。俺の腕に触れている髪まで、光を拾って白く見える。
風もないのに、長い髪の先がふわりと持ち上がった。肩から滑り落ちた髪がゆっくりと浮き、細い束ごとに別の円を描く。毛先に宿った光が散り、星屑のような粒になって消える。白い頬の横を、一本の髪が横切った。俺が指で退けようとすると、その髪は触れる直前にそっと沈んだ。
「……きれい」
桜が、離れたところで呟いた。それは、俺も思っていたことだった。
いや、違う。普段からイリヤは綺麗だ。白い髪も、澄んだ赤い目も、笑うと少し持ち上がる頬も、初めて会った頃から何度も見ている。だけど今までの俺は、彼女が喋っている時にその顔を眺めると、すぐに何か言い返さなくてはならなかった。
今は言い返す言葉がなく、ただ見ていることしかできない。それが、こんなにも心細い。
「シロウ。頭を支えていて」
言ったのはセイバーだった。
「肩が落ちかけています」
「あ、ああ。悪い」
俺は慌ててイリヤの身体を抱え直した。光に見入っている場合じゃない。
セイバーは彼女の足元へ回り、靴が岩に触れて揺れないよう位置を変えた。その手つきは剣を扱う時と同じくらい慎重だった。
アーチャーが、銀糸の繋がった留め具へ指を添える。
「そこは引くな。戻りを妨げる」
「分かってるわよ」
遠坂が答えた。その声が、いつもより少し低い。誰も余計なことを言わなくなった。
イリヤの白い礼装は、銀糸だけが光を失い、布そのものはそこに残っている。首元の留め具も、袖の折り返しも、アーチャーたちと何度も確かめた時のままだ。
彼女を縛っていた働きが、ゆっくり退いていく。何がどう変わっているのか、全部は分からない。俺は腕に残るイリヤの身体を支えた。
*
銀糸が、最後の一本を残した。それはイリヤの胸元から伸びて、岩壁のさらに奥へ消えていた。他の線が静かに戻ってきても、その一本だけはしばらく震えている。
遠坂が顔を上げた。
「残りは?」
イリヤの唇が動く。
「器としての主要な接続は、分離の最終段階にあります。生命維持に必要な処置は継続しています」
また、彼女の声だった。どれだけ聞いても慣れない。俺の名を呼ばない声。俺に向かって笑わない声。なのに、そこへ向かって必死に頼み事をしている自分もいる。
「……分かった。そっちは任せる」
声を返した瞬間、イリヤの胸元にある銀糸がゆるんだ。引きちぎれたのではない。指に絡んだ細い糸を、傷つけないようにほどいていく。そんな慎重さで、光の結び目が一つ解ける。続けてもう一つ。そのたびに、細かな銀の粒が浮かんでは、音もなく消えていった。
礼装の襟元が少しだけ軽くなる。イリヤの頭が俺の胸へ寄り、頬が上着に触れた。赤い瞳が、ゆっくり閉じかける。
「……イリヤ」
呼んでしまった。返事がないのは分かっている。それでも、呼ばずにはいられない。
彼女の頬には、髪が数本貼り付いていた。さっきまでの光のせいで気づかなかったが、細い額には汗が浮かんでいる。銀糸に引かれて持ち上がっていた髪の束が落ち、耳の縁へ柔らかくかかった。髪の隙間から見える耳は少し赤い。冷え切っていた身体が、少しずつ熱を取り戻しているのかもしれない。
俺はそっと、その髪を払った。こうすると、いつものイリヤなら何か言う。くすぐったいと笑うか、もっと上手にしてと偉そうに注文するか、あるいは俺の手を捕まえて、そのまま放さないか。今日ほど、その勝手さが恋しい日はなかった。
白い糸が、すうっと消えた。遠坂の宝石が一度明るくなり、すぐに落ち着く。
「……分離した」
遠坂は、吐くように言った。
その横でアーチャーが手を離す。今まで留め具へ添えていた指が、何も引っ掛けずに離れた。
「確かに、器の側の反応は退いている」
彼の声は少し掠れていた。外套の下の傷が消えたわけではない。なのに、これまでずっと厳しかった目元が、一瞬だけ緩んだ。
「……あとは、身体の方だな」
「ええ。最後まで見届けるわよ、衛宮くん」
遠坂は宝石を持ち直し、イリヤの胸元へ目をやった。
「この子が、この先も自分の身体で生きられるところまで。ちゃんと確かめるわ」
「ああ。頼む、遠坂」
少しだけ肩から力が抜けた。抱く腕は、そのままにしておいた。
俺はイリヤの胸に目をやる。呼吸はまだ、ゆっくり続いている。浅くも、深くもない。ただ、息を吸って、吐く。こんなに当たり前のことが、これほど大事になるなんて。
*
次の光は、どこから来たのか分からなかった。大聖杯の門の奥から溢れ出した、と言うには静かすぎる。岩壁の刻印が強く光ったわけでもない。遠坂が宝石を掲げたわけでもなかった。
気がつくと、イリヤの手の甲に、薄い光がひとつ宿っていた。小さな水滴ほどの白さが、ゆっくり広がる。爪の根元を通り、指の付け根へ移り、細い手首を淡く照らす。皮膚の下に別の物を作っているのではない。むしろ、元からそこにあったものが、初めて正しい場所へ戻っていくような、不思議に穏やかな明るさだった。
彼女の指は、俺の掌に収まっている。小さな指先の形は変わらない。指の節も、爪の曲線も、さっきまでと同じ。なのに、冷たいばかりだったそこに、ひどくかすかな熱が生まれた。指を重ねている俺にだけ分かる弱々しい温かさが、もう少しだけ強くなる。
礼装の白い布に、別の色が差した。今度は銀ではなく、朝日に似た淡い金色だった。窓辺で薄い布を広げた時、向こうから射し込む陽が繊維の一本一本を見せることがある。ちょうどあんなふうに、白い布の織り目が細かく浮かび上がっている。その光は、イリヤの肩から胸へ、胸から腹へとゆっくり降り、また指の先へ返っていく。
何かが彼女の中を巡っている。俺にはその正体は分からない。ただ、一定の間隔で続いていた呼吸が、少しずつ深くなってきた。
彼女の睫毛が、微かに震えた。まだ目は開かない。普段は上向きに揃っている睫毛の先が、光を受けて小さな影を落とす。その影に、俺は見入ってしまった。彼女の瞼は、薄い。目を閉じると、長い睫毛が頬へ影を作る。白い肌の上で、その影だけが妙にくっきりとしている。眉は細く、今は少しだけ内側へ寄っていた。苦しいのかと思って心臓が跳ねる。だが、その眉間の皺は、次の息とともにゆっくり解けた。
小さな鼻先が、俺の胸元をかすめる。口元が、ほんの少し緩んだ。何かを喋りたそうな形に見えて、思わず耳を寄せたが、音はしなかった。
……何を期待しているんだ、俺は。治療中だぞ。
遠坂が顔を近づける。
「……身体の方も、反応が変わってる」
彼女は宝石を傾け、光の戻りを追った。
「今までのは、動かし続けるために何かを削っているみたいだった。でも、今は違う。内側の働きが、一つずつ噛み合っていく」
「……治ってるのか」
「少なくとも、そう見える。まだ終わってないわ。今、返ってきている反応を確かめる」
俺は頷き、もう一度イリヤを見た。彼女の頬に、薄く赤みが差していた。温かな部屋で眠っている時のような色だった。いつものイリヤなら、笑った時にもっと鮮やかに頬を染める。拗ねた時には口を尖らせて、からかう時には片方の眉を少しだけ上げる。今はまだ、そんな表情はない。けれど、白い頬がただ白いままではなくなってきた。
それだけでよかった。いや、まだよくはない。ちゃんと戻ってくるまでは、何一つ終わっていない。そう思い直すたび、温かい手を握っていることに気づく。俺の方が、ずっと取り乱している。
「……きれいな光ですね」
桜が、今度ははっきりと言った。彼女は遠坂から少し離れて立っていた。腕の包帯はまだ新しく、白い布の端に、ほんの僅か赤いものが残っている。桜がイリヤを見る目には、さっきまでの怯えと違うものが浮かんでいた。
「……イリヤさん、あんなに苦しかったのに」
その後の言葉が続かない。俺も、何も言えなかった。
遠坂が静かに言う。
「桜。ここまで来たのは、あの子自身が決めたからよ。ちゃんと、その結果を見届けましょう」
「……はい」
桜が頷いた。
セイバーは彼女の隣に立ち、何も言わずに見守っている。アーチャーは壁へ寄りかかり、痛む肩を庇いながら、礼装の銀糸が余計な反応を返さないか確かめていた。
*
淡い金色が、いつの間にか白へ戻っていた。水晶が澄むような透明な明るさが、イリヤの周りを一巡した。細かな粒が浮かび、彼女の髪へ触れ、肌へ触れ、そのまま溶けるように消えていく。
雪が好きだと、イリヤは以前に話してくれた。寒いのは嫌いなのに、雪が降ると嬉しいらしい。何だそれ、と俺が笑った時、彼女は当然だという顔をしていた。雪が好きなのと、寒いのが嫌いなのは、別の話なのだそうだ。
今目の前に降っているのは、本当の雪ではない。冷たくもない。手に受けようとしても、たぶん何も残らないだろう。それでも、この子が目を開けていたら、きっと喜ぶ。そう思ったら、少しだけ惜しくなった。こんな綺麗なものを、本人が見られないなんて。
だから、あとで話そう。光がどんなふうに降ってきたか。髪の先でどんな色に変わったか。俺が見惚れて、セイバーに頭を支えろと注意されたことも、たぶん正直に話す。きっと笑われる。それでいい。
イリヤの髪が、また落ちてきた。軽い束が俺の手首へ触れ、指の間をすり抜ける。細い毛先が上着の縫い目へ引っ掛かったので、俺は少しだけ指を広げた。
光が弱まった。布の銀糸が、最後に一度だけ、明るくなる。遠坂が息を呑んだ。イリヤの口が、静かに開く。
「処置は完了しました。器機能の分離、生命維持の独立化、寿命制約の解消を確認しました」
やはり、彼女の声だった。いつものイリヤなら、得意そうに俺を見て、ほら、できたでしょう、と笑うはずだ。今、その目は俺を向かない。
「……終わった、のか」
「指定された願望実現は完了しています」
それだけを告げると、声は途切れた。銀糸の輝きが、すっと引いた。イリヤの瞳が閉じる。頭が俺の肩へ寄った。
「……イリヤ?」
声をかけても、返事はなかった。さっきまで何かを問いかければ答えた、その声すら返ってこない。洞窟の奥から落ちる水の音ばかりが聞こえる。
俺は彼女の手を確かめた。温かい。胸が、ゆっくりと上下する。指を少し動かして、肩の下へ添える。ぴたりと身体が収まる位置を探し、首が苦しくならないようにする。
間違いなく、生きている。それでも、名前を呼びたかった。呼べば返事が返ってくると思いたかった。
「イリヤ」
静かなままだった。
*
「衛宮くん、少し待って」
遠坂が、さっきまで銀糸へ向けていた宝石を下ろした。今度は直接、イリヤの手首へ指を添える。脈を取り、それから白い礼装の襟元へ目をやった。
俺は黙っていた。何を訊いても、遠坂の確認が終わるわけじゃない。邪魔になるようなことだけはしたくなかった。もっとも、何かあったら口を出さずにいられる自信もない。
遠坂が一度、俺の顔を見た。
「……そんな顔しないで。怖いなら怖いって言っていいのよ」
「言ってる場合じゃないだろ」
「言ったところで、検査は止まらないわ」
それはそうだ。悔しいけど、反論できない。
「……怖いよ」
俺は言った。
「イリヤの声がしなくなったのに、まだ本人は起きない。ちゃんと願ったはずなのに、これで本当に良かったのかって、考えちまう」
遠坂は、すぐには答えなかった。イリヤの胸の辺りへ、宝石から細い紅の光を当てる。白い礼装の表面で光が反射し、その下にあるものを確かめるように、淡く揺れた。やがて遠坂の口元が、ようやく少し緩む。
「……大丈夫。少なくとも、わたしが今確かめられることは、全部いい方向へ動いてる」
「本当か」
「本当よ。小聖杯として魂を管理する反応はない。大聖杯へ身体を使わせる経路も外れてる。それなのに、この子の生命の反応は途切れていない。身体の中の動きだって、さっきよりずっと整ってる」
遠坂は、まだ何かを確かめるように少し間を置いた。
「長い年月をその場で確かめることはできないわ。けど、願いの実行結果と、今の身体の状態は矛盾してない。少なくとも、この子を聖杯へ戻さなきゃ生かせないなんて状態じゃない」
俺は、イリヤの横顔を見た。白い頬に、少しだけ血色がある。さっきまで大聖杯の声を出していた唇は、今は柔らかく閉じている。唇の端が微かに上がっているようにも見えたが、それが笑っているからなのか、ただ眠っているからなのかは分からない。まだ、反応がない。
遠坂が、俺の肩に触れた。
「眠ってるのよ。あれだけのことをしたんだもの。今すぐいつもの調子で喋り出さなくても、不思議じゃないわ」
「……そっか」
「だから、あんたも少し落ち着きなさい。支える腕ががくがくしてる」
確かに、その通りだった。イリヤの重さは変わらない。俺の方が、限界だったらしい。
「悪い。少し、座っていいか」
「最初からそうしてなさいよ」
遠坂が呆れたように言った。
セイバーがすぐ、足場の平らな場所を見つけてくれた。湿っていない岩の縁に腰を下ろす。膝を折ると太腿に痛みが走ったが、今は気にしないでおく。イリヤの首と背を支え直し、彼女が楽に息をできる角度を探した。
白い礼装の裾が、膝の上へ広がる。銀糸の刺繍はもう光を放っていない。けれど、そこに残った細かな模様は、水面へ落ちた霜の跡みたいに、薄く美しかった。皆で手を入れ、直し、彼女が自分の意思で身に着けてきた服だ。
イリヤの髪が、胸元から肩へ、肩から膝へとひろがった。銀色の流れが幾筋も重なり、光の消えた布の上で静かに波を作る。少し曲がった毛先や、汗で頬に張り付いた短い髪まで見える。汗で乱れた髪も、疲れた寝顔も、いつものイリヤだった。そのことに気づいたら、胸の奥が急に軽くなった。
「……よかった」
声が勝手に漏れた。今まで何度も言おうとして、言えなかった言葉だった。
「……本当に、よかった」
目の前が滲む。白い髪の一本一本が見えなくなり、赤い頬も、長い睫毛も、遠坂の姿までひとまとめにぼやけた。俺は慌てて顔を逸らす。まずい、こんな時に泣いたら、何も見えなくなる。
でも、もう何も見張らなくてもいいんじゃないか。イリヤは生きている。その身体で、これからも生きていけるようになった。だったら、今くらい。そう考えた途端、涙が落ちた。
一滴が、イリヤの髪へ吸い込まれる。もう一滴は、礼装の白い布の上に小さな丸を作った。
俺は、どうしようもなく笑ってしまった。情けない顔をしているのは分かる。泣いているのに口元が緩んで、無理に止めようとすると今度は笑い声になりそうになる。
こんな顔を、誰かに見られたくない。けれどイリヤになら、見せてもいい気がした。むしろ、この顔を見せたかった。
……そうか。
ずっと昔、あの火災の夜に、俺を助けてくれた男のことを思い出した。あの人は俺を見つけた時、泣きそうなほど嬉しそうな顔をしていた。当時の俺には、その理由がよく分からなかった。助けられたのは俺なのに、どうして助けた方があんな顔をするのだろうと、不思議に思ったことがある。
今なら、少し分かる。助けた相手が生きている。それだけで、自分の方まで救われたような気がする。
切嗣が抱えていたものまで、全部分かったわけじゃない。ただ、イリヤが生きていて、嬉しかった。
「……シロウは、ほんとに」
聞こえた気がして、俺は顔を上げた。
……いや。今の声は、遠坂でもセイバーでもない。
まさか。
腕の中へ目を戻す。イリヤはまだ目を閉じていた。睫毛の先に光が少し残っている。鼻先はさっきより温かそうな色をしていて、頬は薄く染まっていた。
俺は自分が聞き間違えたのかと思った。なのに、彼女の指がほんの少し動いた。俺の上着へ触れていた小指が、布の端を探るように曲がる。それから、もう一本。指先が何かを確かめるように、俺の服を摘まんだ。
寝ぼけて何かを握ろうとしただけかもしれない。けれど、俺には分かった。さっきまで動かなかった指が、今、俺を掴もうとしている。
「……イリヤ」
声が震えた。白い睫毛の影が、ゆっくりと揺れた。
*
最初に見えたのは、瞼の隙間から覗く赤だった。薄く閉じていた睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がる。長い銀色の髪が頬へ落ちたまま、その奥で赤い瞳が光を受けた。
まだ焦点が合っていない。白い礼装の襟元を見て、それから俺の上着へ目を移し、また少しだけ瞬きをする。夢と現実を確かめるような、頼りない動きだった。
けれど、次の瞬きは違った。赤い瞳が、まっすぐ俺を捉えた。大聖杯の奥へ向けられていた目とは、まるで違う。光を映すだけの硝子じゃない。そこには、俺の顔を見つけたという驚きがあって、その驚きがすぐに安心へ変わり、最後には何か楽しいものを思いついたような、いたずらっぽい輝きが戻ってきた。
「……シロウ」
声は少し掠れていた。いつもの勢いもない。唇はゆっくり動き、名前の最後で息が僅かにこぼれる。それでも、間違えようがない。俺を見つけて、呼んだ声だった。
「……イリヤ?」
彼女は、すぐには答えなかった。代わりに、俺の顔をじっと見上げた。眉が少し寄る。薄い唇が、困ったように一度結ばれる。何か言おうとして、またやめる。そうしているうちに、俺の目元から落ちた涙がひとつ、彼女の頬へ届いた。
イリヤが驚いて瞬いた。
「……つめた」
「わ、悪い」
俺は反射的に手を動かしたが、拭おうとした指を、彼女の手が捕まえた。まだ力は弱い。手首へ添えられた指は頼りなく、少し震えていた。それでも、俺が動かそうとすると、ぎゅっと握り直してくる。その仕草に、胸がいっぱいになった。
「……ねえ、シロウ」
「ああ」
「どうして、そんな顔してるの?」
「……どんな顔だよ」
イリヤは、俺の眉と口元を交互に見た。瞳がわずかに細くなる。
「泣いてるのに……笑ってる。変なの」
そこで彼女も、少しだけ笑った。頬の両端が持ち上がって、目元が柔らかくなる。口を開く前に、くすっと息が漏れる。笑うといつも少しだけ得意そうになる、その癖が戻ってきた。俺は、それを見ただけでまた泣きそうになった。
「……仕方ないだろ」
「仕方ないの?」
「ああ。イリヤが起きてくれたから」
赤い目が大きくなった。イリヤは、しばらく俺の顔を見つめていた。それから、困ったように笑う。
「……そっか」
彼女の目元が薄く赤くなる。小さな鼻が、すん、と動いた。そして、俺の腕に収まったまま、口を尖らせた。
「……でも、わたし、ちゃんと帰ってきたでしょう?」
「……ああ」
「だからそんなに泣かなくてもいいのに」
そう言った本人の瞳にも、涙が溜まっていた。俺は何か言い返そうとして、やめた。いや、やめたんじゃない。言葉にならなかった。
さっきからずっと見ているイリヤの顔が、見るたびに変わる。俺を見上げる時の眉の角度。目が合った時に浮かぶ笑み。言い返したくて少しだけ開く唇。照れたことを隠そうとして、わざと不機嫌そうに膨らませた頬。
「……おかえり」
ようやく言えた。イリヤは目を瞬かせ、それから、ふいに顔を伏せた。頬がさっきより赤くなる。白い髪がさらさらと前へ落ち、表情が隠れた。
「……ただいま」
小さな声が、俺の胸元へ届いた。俺は、それだけで胸が苦しくなった。苦しいのに、今度は怖くなかった。
*
イリヤは少しだけ身体を起こそうとしたが、力を入れた途端に眉を顰め、すぐ俺の腕へ戻ってくる。
「……あれ?」
「無理するな。今は休んでろよ」
「ん……なんか、変な感じ」
彼女は自分の手を見た。掌を開いて、閉じる。指を順番に折り、一本だけ伸ばしてみる。まるで初めて自分の手を確かめているみたいに真剣だった。
「……ねえ、シロウ。もう、わたしの中には、あの重いの、いないのね」
俺は頷いた。
「六騎とも、大聖杯の方へ移った。遠坂も確かめた。もう、イリヤの身体で抱えてなくていいんだ」
「……そう」
イリヤは、胸元へ手を置いた。白い礼装を指先でなぞる。銀糸の刺繍はもう光っていない。彼女はその一本に触れ、ほんの少し笑った。
「変なの。ずっと何かを抱えてたのに、今は何も引っ張ってこない」
「……身体は、大丈夫か」
「分かんない。すごく疲れてる。でも……苦しくないの」
俺を見上げる。
「それに、シロウがいる」
「そりゃ、いるだろ」
「ふふ。そうよね」
笑いながら、イリヤは俺の手を握り直した。身体の疲労はまだ抜けていないらしい。指先は柔らかく、少し温かい。けれど、その握り方にはさっきまでの頼りなさが少なくなっていた。俺の手を自分の方へ引き、手の大きさを比べるみたいに、指を一本ずつ合わせてくる。
「……ねえ。ちょっとだけ、こうしてて」
「ああ」
「シロウも、まだ立たなくていいでしょう?」
「分かった。離さない」
「……うん」
彼女は満足そうに目を閉じ、そのまま俺の胸へ頬を寄せた。白い髪が首筋をくすぐった。細い束が上着の襟へ入り、思わず肩を動かしかける。けれどイリヤはその小さな動きにも気づいたらしく、目を閉じたまま笑う。
「……くすぐったい?」
「ちょっとな」
「我慢してね」
「そこは髪を退けてくれないのか」
「やだ」
即答だった。……ああ、もう。こんな時まで勝手なことを言うんだから、この女の子は。けれど、嬉しくて仕方なかった。
俺が笑うと、イリヤも少しだけ顔を上げた。睫毛の影から覗く赤い目が、俺の口元を見ている。
「……あ。笑った」
「さっきから笑ってるだろ」
「ううん。さっきのは、泣きそうな顔でしょ。今のはちゃんと笑ってる」
「……そうか?」
「そうよ。わたしには分かるもの」
得意げだった。ただし、得意そうな顔を作ったせいで、自分の目から涙がひとつ零れた。イリヤは慌てて顔を逸らす。
「……あ」
「イリヤも泣いてるぞ」
「ち、違うわよ。これは……」
言い訳を探すように、彼女は口を開いたり閉じたりした。そして、どうにもいい説明が思いつかなかったらしい。
「……もう。シロウのせいなんだから」
「俺のせいかよ」
「そうよ。先に変な顔で泣いてたの、シロウでしょう?」
「……それは、そうだけど」
「ほらね」
小さく鼻を鳴らし、勝ったつもりらしい顔をする。けれど、目元の涙は消えていなかった。俺は空いている指で、その涙をそっと拭った。イリヤは一瞬だけ目を閉じた。次に開いた時、瞳の奥にあった戸惑いが、柔らかな光へ変わっていた。
「……ありがとう、シロウ」
「……ああ。こっちこそ」
「何が?」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
イリヤは、少しだけ目を丸くした。そして、また頬を染めた。
「……そういうの、不意打ちだわ」
「何がだよ」
「シロウは、たまに何でもない顔でそういうこと言うんだもの」
「今、何でもない顔してるか?」
イリヤは俺を見上げて、また笑った。
「……ううん。全然」
そこで、少し声が震えた。俺は彼女を抱き寄せた。イリヤが、両腕をゆっくり上げる。まだ重そうな動きだった。それでも俺の背へ腕を回し、上着をしっかり掴んだ。
ぎゅっと抱き締め返される。白い髪が、二人の間で柔らかくつぶれた。その髪から、冷たい岩の匂いと、微かに残る布の匂いがする。いつもの衛宮邸のような、台所の湯気の匂いじゃない。
それでも、俺の腕の中にはいつものイリヤがいた。頬を寄せれば温かい。名前を呼べば、返事が返ってくる。それが、本当に嬉しかった。
*
「……よかった」
声がして、顔を上げた。遠坂だった。いつの間にか、宝石をしまっている。片手で髪を耳へ掛け直そうとして、途中でやめた。何だか、さっきから同じ仕草を何度も繰り返しているように見える。俺が見ているのに気づくと、途端に顔をしかめた。
「何よ」
「いや。遠坂も、安心したんだなって」
「当たり前でしょう。あれだけ準備して、あれだけ苦労して、結果が出たんだから」
返事はいつも通りの勢いだったけれど、語尾だけがほんの少し揺れた。
「……イリヤ。聞こえる?」
遠坂が膝を折って、こちらへ顔を寄せる。イリヤは俺の胸へ頬を押し付けたまま、片目だけ開けた。
「なあに、リン」
「具合、どう?」
「眠い。あと、身体が重い。でも、ちゃんと動くわよ」
証明するつもりなのか、俺の服を掴んでいる指が、またぎゅっと動いた。
「……ほら」
「分かった、分かった。そんなに頑張らなくていいから」
「むー。リンもシロウも、さっきから同じこと言うんだから」
そう言って、イリヤは口を尖らせた。さっきとは違う、いつもの不満そうな顔だ。遠坂はそれを見て、ふっと笑った。
「……口まで元気になってるなら、もう少し安心してよさそうね」
「何それ。心配してくれてたの?」
「してたわよ。悪い?」
イリヤは、赤い目を大きくした。次に、ひどく嬉しそうな笑みを浮かべる。
「……ふふ。じゃあ、特別に許してあげる」
「はいはい。ありがたく受け取っておくわ」
遠坂は肩を竦めた。その目元が、ようやく柔らかくなった。
セイバーが、一歩こちらへ寄った。
「イリヤスフィール。御無事で、何よりです」
彼女はいつものように真面目だった。けれど剣を構えていた時の張り詰めた気配は、もうない。イリヤはセイバーを見上げた。
「……ありがとう、セイバー。さっき、シロウが転ばないようにしてくれたでしょ」
俺は思わず顔を上げた。
「……見てたのか?」
「全部じゃないけどね。少しだけ、覚えてるの」
イリヤは眉を寄せた。
「途中で、すごく遠くへ行ったような気がする。でも、シロウが何度も呼んでたのは……何となく」
何をどこまで聞いていたのかは、分からない。けれど、彼女自身の記憶を辿ろうとするその仕草が嬉しかった。
セイバーは静かに頷いた。
「皆で支えた結果です。あなたご自身の働きも、大きかった」
「……当然よ」
イリヤは言ってから、少しだけ顔を赤くした。
「……って、言いたいところだけど。今回は、みんなのおかげね」
その素直な言い直しに、遠坂が目を細めた。アーチャーは壁に寄りかかったまま、小さく息を吐いた。
「礼を言われるなら、私は休息の許可が欲しいところだ」
「アンタはもう休みなさい」
遠坂が即座に答えた。
「……さすがに異論はない」
珍しくあっさり引き下がったアーチャーを見て、イリヤがくすっと笑う。彼女の笑い声はまだ小さかったが、洞窟の奥で不思議によく響いた。
桜が近づいてきた。包帯を巻いた腕を庇いながら、イリヤの前へしゃがむ。
「……イリヤさん」
「サクラ」
「よかったです。本当に……」
桜の目元が赤くなった。言葉を続けようとして、うまくいかなかったらしい。イリヤは俺の手から片方の手を離し、桜へ伸ばした。
「……ね。サクラも、ちゃんと休んでね」
桜が驚いたように顔を上げた。
「わたし、もう大丈夫よ。もちろん、今はちょっと疲れてるけど」
イリヤは少しだけ笑った。
「だから、サクラも自分のこと考えていいんだから」
桜の唇が、僅かに震えた。彼女はゆっくりと、差し出された手を取った。
「……はい。ありがとうございます」
俺は桜を見た。その笑顔は、まだ寂しそうだった。失ったものの大きさが消えたわけではない。身体に残っているものも、まだこれから確かめなくてはならない。桜はイリヤの手を握っている。俺も、抱える腕の力を少し緩めた。
*
皆が少し離れてから、イリヤは俺の袖を引いた。
「……シロウ」
「ん?」
「ねえ。ひとつ、聞いていい?」
さっきまでの得意げな顔は、もう消えていた。赤い瞳が、俺をまっすぐ見ている。
「……わたし、ほんとに、これからも生きていられるの?」
その言葉を聞いて、胸が詰まった。イリヤは、自分の身体のことを知っていた。俺たちよりずっと長く、その先が短いことを知ったうえで過ごしてきた。俺が何か言う前に、彼女は少しだけ笑おうとした。
「変な質問よね。ちゃんと目が覚めてるし、今だってこうしてるのに」
「……変じゃない」
俺は首を横へ振った。
「聖杯は、器の仕事を外して、短命の原因も治したって言った。遠坂も確かめてる。俺には詳しいことは分からないけど、少なくとも、今までみたいにすぐ終わりが来る身体じゃなくなったんだ」
イリヤは、じっと聞いていた。
「だから、明日も、その次の日も……ちゃんと予定を考えていいんだ。何をするか、一緒に決められる」
そう言った途端、彼女の赤い瞳が揺れた。泣きそうな顔だったけれど、そこに浮かんでいたのは寂しさだけじゃない。あまりに嬉しいことを聞いて、どう笑えばいいのか分からなくなったような、そんな表情だった。
「……じゃあ、シロウ」
「ああ」
「次のお休み、どこかへ連れていって」
「……もう予定か」
「そうよ。だって、これからもあるんでしょう? お休み」
俺が頷くと、イリヤは少し考えるように目を伏せた。
「何しようかな。お買い物もいいし、どこかを歩くだけでもいいわね。それから……」
「それから?」
「……シロウの作る、ごはんも食べたい」
「それはいつでも作るぞ」
「いつでも?」
「家に帰ったらな」
イリヤは、ふにゃりと笑った。いつもの得意顔とは違う、力を抜いた笑顔だった。白い頬が柔らかく持ち上がり、赤い目が細くなる。上手く隠せない嬉しさが、顔じゅうに広がっている。
「……そっか。いつでも、なんだ」
何かを大切にしまっておくように、彼女はゆっくり頷いた。やがて、また顔を上げる。
「でも、シロウ。ひとつだけ約束、忘れてないでしょうね?」
「もちろん。手を繋いで帰るんだろ」
イリヤは、俺の手元を見て、少しだけ口を尖らせた。
「だったら、今からちゃんと繋いでおいて」
「今も握ってるじゃないか」
「もう。こうするの」
そう言って、俺の掌を自分の方へ引いた。指と指が、もう一度重なる。
「帰る時も、このままよ」
念を押すように、指の間へ細い指が入り込んでくる。俺は握り返した。
「分かってる。約束しただろ」
イリヤは、満足そうに頷いた。
「よろしい。じゃあ、ちゃんと守ってね」
「分かったよ」
「それと、もうひとつ」
「まだあるのか」
彼女は、急に声を小さくした。さっきまでの勢いが引いて、何となく言いづらそうに唇を結ぶ。俺の手を掴んでいる指が、少しだけ強くなった。
「……帰ったら、しばらく一緒にいて」
真っ赤というほどではないが、頬の色が少し濃くなる。
「まだ、眠いの。でも、目が覚めた時、シロウがいなかったら……嫌だから」
俺は、彼女の髪に触れた。さらさらとして、少しだけ湿っている。耳の横へ落ちた束を整えてやると、イリヤはくすぐったそうに目を細めた。
「ああ。ちゃんといるよ」
「ほんと?」
「本当だ。どこか行く時は言う。勝手にいなくなったりしない」
イリヤはしばらく俺を見てから、嬉しそうに笑った。
「……じゃあ、わたしも」
そう言って、頬を俺の胸元へ寄せる。
「もう、ひとりでどこかへ行かない。ちゃんと言うから」
いつの間にか、彼女の髪に最後の光の粒がひとつ残っていた。イリヤが動くと、白い束の上で硝子の欠片みたいに瞬いていた光がふわりと浮かび、何もない空気へ溶けていった。俺は目で追った。
大聖杯の門は、まだ奥で静かに開いている。あんなものが目の前にあるのに、俺は今、その向こうを見たいとは思わなかった。腕の中のイリヤの方が、ずっと気になる。彼女が息を吸う時、肩が少し上がること。眠くなると睫毛がゆっくり伏せられること。俺の服を握る手が、離れかけても、気がつくとまた探り当ててくること。その一つひとつを、これから何度でも見られる。たぶん、何度見ても飽きないだろう。
「……シロウ」
イリヤが、もう一度呼んだ。
「ん?」
赤い瞳が、いたずらっぽく輝く。口元に小さな笑みが生まれた。
「……ううん。呼んでみただけ」
俺は、思わず笑った。
「何だよ、それ」
「いいでしょ。わたしが呼びたいんだから」
言い終わると、彼女は自分でもおかしくなったらしい。ふふ、と小さく笑って、それから手を握り直した。今度は、俺の名を呼ぶ声を、何の心配もなく聞いていられた。
「……ああ。何度でも呼べよ」
イリヤは、嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、何度でも返事してね、シロウ」
「もちろん」
彼女は満足そうに頷き、また俺の胸へ頬を寄せた。白い髪が腕を覆う。小さな手が、俺の手をしっかり握っている。
彼女がもう一度、俺の名前を呼んだ。俺は、何度でも、その声に答えようと思った。
――これで、ようやく全部終わった。そう思った、その時だった。
開いたままの大聖杯の門が、何の前触れもなく、ふっと光った。
イリヤは、俺の胸に頬を寄せたまま笑っている。だから、今度の声は彼女のものではなかった。どこまでも穏やかで、何事もなかったかのような声が、背後から告げた。
「次の願いは?」