Fate/stay night IF BEYOND THE EVER   作:Мир

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第六話 赤い校舎

 金曜の昼休み、弁当を出そうとしたところで、廊下から呼ばれた。

 

「衛宮くん。少し来てくれる?」

 

 遠坂が教室の入口に立っていた。

 何人かがこちらを見たので、鞄の口を閉めて立ち上がる。一成に声をかけようとしたが、もう席にはいなかった。

 

「どうしたんだ」

 

「歩きながら。ちょっと確かめたいことがあるの」

 

 周りに聞こえる声でそう言ってから、遠坂は先に歩き出した。

 向かう先には、特別教室が並んでいた。昼休みの廊下は人で混み合っている。紙の束を持った桜が向こうの階段を下りていくのが見えたが、声をかける前に角を曲がってしまった。

 

 人の声が遠くなったところで、足を止めた。

 見慣れた廊下なのに、窓際の一角だけがおかしい。

 壁が傾いているわけでも、何かが置かれているわけでもない。それでも、そこだけが妙に引っかかった。

 

「遠坂。あそこ、何かあるぞ」

 

 遠坂が振り返る。俺の指した先を見て、足を止めた。

 

「……窓の下?」

 

「ああ。そこだけ、変なんだ」

 

 近づいてしゃがむと、窓枠の下にひびが見えた。そこにたまった汚れだと思った細い筋が、途中で折れ曲がり、床に近いところで幾つか重なっている。

 

「……これ、血か?」

 

「触らないで」

 

 遠坂が俺の隣にしゃがみ、指先を近づけた。筋が少し濃くなる。

 何かが動いたように見えて、思わず足を引く。

 

「……ここにも仕掛けてあったのね」

 

「ほかにもあるのか」

 

「ええ。血で描いた呪刻よ。窓の外にも、別の廊下にもつながってる」

 

 おかしい場所は分かる。けれど、そこに何を仕掛けられたのかまでは分からなかった。

 遠坂は筋を目で追ってから、こちらへ顔を向けた。

 

「学校に、結界を張ろうとしてる」

 

「結界って、誰かが入ってきたのを調べるようなやつか」

 

「それなら、こんなに急いで呼ばないわ。これは中にいる人間から力を奪うもの。発動すれば、校舎の中が丸ごと餌場になる」

 

 さっきまでの教室が頭に浮かんだ。

 開いた弁当。机を寄せる音。階段を下りていった桜。

 

「止められるのか」

 

「今ならまだ、この部分から崩せると思う。あんたは向こうへ行って、人を――」

 

「何してるの、二人とも」

 

 声がして、顔を上げた。

 廊下の奥に慎二が立っていた。

 視聴覚室の脇にある非常口を背にして、こちらを見ている。左手には、見慣れない本があった。

 

「こんな所で密談? 遠坂も、変わったところが好きなんだね」

 

「慎二。ここへ来るな。今、学校に――」

 

「知ってるよ。だから、何をしてるのかって聞いたんだ」

 

 慎二の目が遠坂の手元へ動く。

 遠坂は窓際を離れた。俺の前へ出るように、一歩だけ。

 

「これ、あんたの仕業?」

 

「やっと気づいたんだ。さすがだね、遠坂。もう少し後でもよかったのに」

 

「答えなさい」

 

「聞くまでもないだろ。見せてやれば分かるよ。なあ、ライダー」

 

 慎二の隣に黒い影が立った。

 長い髪が遅れて肩の後ろへ流れる。

 女の人だった。黒い服に、目を覆うものをつけている。片手に持った細い刃から鎖が垂れ、床に触れる手前で揺れていた。

 

 左手の甲が熱くなった。

 

「おまえ……マスターだったのか」

 

「おまえにできることが、僕にできないと思った?」

 

 慎二は本を持ち上げた。

 答えを待っている。驚いてやれば、もっと嬉しそうに話すのだろう。

 けれど、今はそれに付き合っていられなかった。

 

「だったら止めろ。学校で、何をする気なんだ」

 

「そんな顔するなよ。話をしてるんだからさ」

 

「話なら後で聞く。まず、それを消してくれ」

 

「……おまえは少し黙ってろよ。僕は遠坂と」

 

「わたしの返事も同じ。今すぐ解除しなさい」

 

 遠坂の声は冷たかった。

 慎二の笑みが固まった。口の端だけは、まだ上がっていた。

 

「解除、解除って。なんだよ、おまえたち。自分たちだけで組んで、僕には命令か」

 

「生徒を巻き込んだ時点で、対等な相談になると思わないことね」

 

 遠坂が壁へ手を向けた。

 

「ライダー!」

 

 鎖が鳴った。

 目の前を細いものが走り、遠坂が俺の胸を押した。

 窓枠に刃が突き刺さる。木の破片が頬をかすめた。

 

「触るなよ。僕が何日かけたと思ってるんだ」

 

 慎二が本を開いた。

 遠坂の指先に光が集まる。それより早く、黒い女が俺たちと慎二の間へ入った。

 

「まだ完成してないんでしょう。そんなものを使えば――」

 

「使えるんだよ。完成するまで待ってやる理由がなくなっただけだ!」

 

 慎二が何かを叫んだ。

 

 窓の外が、赤くなった。

 

 夕日ではなかった。

 光の色が変わったのではなく、透き通っていたガラスの向こうに薄い膜が張ったようだった。さっき見つけた筋が、壁の中へ染み込んでいく。

 耳の奥が詰まった。

 

 廊下の向こうで、何かが倒れた。

 続けて、椅子を引く音。誰かの悲鳴。それを追い越すように、いくつもの音が重なった。

 

「遠坂、教室が!」

 

「分かってる!」

 

 近くの教室から、一人の生徒が出てきた。

 壁に手をつき、口を開けている。何か言おうとしたまま膝が折れたので、慌てて駆け寄って肩を支えた。

 思ったより重かった。

 生徒の腕はだらりと垂れ、まったく力が入っていない。

 

「おい。大丈夫か」

 

 返事がない。

 床へ下ろし、顔を覗き込む。息はしていた。ひどく浅いけれど、胸は動いている。

 

 焼けた地面に倒れていた人の姿が、目の前の生徒に重なった。

 違う。

 この人はまだ生きている。ここには火もない。

 

「慎二、止めろ!」

 

 振り返ると、慎二は本の上からこちらを見ていた。

 

「その程度なら、少し休めば戻るよ。魔術師でもないんだから、仕方ないだろ」

 

「何を言ってるんだ。こいつの顔を見ろ!」

 

「近づくな、衛宮。ライダー、そいつを止めろ」

 

 黒い女の腕が上がった。

 俺は生徒の体を引き寄せ、廊下の柱の陰へ押し込んだ。

 鎖が頭上を通る。

 ガラスの割れる音がして、肩に細かな破片が降ってきた。

 

 遠坂の短い声。

 何かが明るく弾け、黒い女が後ろへ跳んだ。その足元で床が割れる。

 

「士郎、こっちへ!」

 

 遠坂が俺と生徒の前へ立った。

 指の間で、宝石が一つ砕けた。散った光が消えずに残り、俺たちとライダーの間を覆う。

 

「長くは持たない。動ける?」

 

「俺は平気だ。遠坂、セイバーをここへ呼べないか」

 

「令呪を使えば呼べるわ。今ここへ来い、と命じるの」

 

 左の袖をまくった。

 セイバーは家にいる。歩いて来るのを待っていたら、ここの人たちはどうなる。

 

「使う。やり方を教えてくれ」

 

 遠坂は俺の手を一瞬だけ見た。

 

「左手の印に意識を向けて。一画を解くつもりで、命令をはっきり思い描くの。ここへ来い、それだけに絞って」

 

 もう一度、鎖が鳴った。

 光の向こうでライダーが動き、遠坂が前へ手を突き出した。何かがぶつかる音に肩がすくんだが、俺は目を閉じた。

 

 左手。

 肌の上にあるはずの印が、目を閉じても分かる気がした。

 ここへ来てほしい。あの女を止めて、この学校にいる人たちを助けたい。

 言葉を増やしかけて、遠坂の注意を思い出した。

 

「セイバー、ここへ来い!」

 

 左手に焼けるような痛みが走った。

 思わず拳を握る。

 すぐ隣で、空気が押し広げられた。

 

 目を開けると、銀色の肩が見えた。

 鎧を着たセイバーが俺と遠坂の前に立っている。

 

「シロウ。敵は、あのサーヴァントですか」

 

「ああ。ライダーだ。学校中の人間が倒れてる。あいつを止めてくれ」

 

「承知しました。貴方は凛と行動してください」

 

「分かった。頼む、セイバー」

 

 彼女が頷いた。

 その瞬間、遠坂の前に残っていた光が砕けた。

 

 突き出された刃をセイバーが受けた。

 金属の鳴る音が狭い廊下に響いた。

 

     *

 

 ライダーの長い髪が窓の方へ流れた。

 体はその反対へ動いている。

 ライダーはセイバーの剣を避けると同時に、手から離した刃を鎖で引き戻した。空いていた方の手にも、同じような刃がある。

 

 二人の動きに目が追いつかなくなった。

 剣があるはずの場所へ鎖が巻きつき、セイバーが腕を引く。ライダーは引かれた勢いを利用して足を上げた。

 蹴りが鎧を打つ。

 セイバーは半歩だけ下がり、その場から押し返した。

 

「そっちへ行くな、ライダー! そいつらを通すな!」

 

 慎二の声が響く。

 セイバーは構わず前へ出た。ライダーが受け止めた剣をそのまま押し込み、教室から遠ざけていく。

 

「衛宮くん。その人、入口の内側へ」

 

 遠坂の声で足元に目を戻した。

 倒れていた生徒を教室の中へ引き入れ、扉の陰へ寝かせた。ここなら、廊下を走る鎖に巻き込まれずに済む。

 

 教室の中にも生徒が倒れていた。

 椅子に座ったまま机に突っ伏している者もいる。奥まで見通せず、何人倒れているのか分からなかった。

 

「慎二を止める」

 

「ええ。わたしが前に出る。あんたは勝手にライダーへ近づかないで」

 

 遠坂が廊下へ戻る。

 俺もその後を追った。

 

 慎二は非常口の前まで下がっていた。

 セイバーとライダーの間合いに入らないよう、遠坂が教室側の壁に沿って進む。

 慎二がこちらに気づいて、本を胸へ引き寄せた。

 

「来るなよ。ライダー、何やってるんだ。遠坂が来てるじゃないか!」

 

 ライダーが体の向きを変えた。

 その横から、セイバーが踏み込む。

 黒い服の脇が裂けた。

 

「っ……」

 

 ライダーの背中が視聴覚室の扉にぶつかった。

 赤いものが床へ落ちる。

 セイバーは追った。振り下ろされた剣を、ライダーは二本の刃を交差させて受ける。

 

 甲高い金属音がした。

 片方の刃が鎖ごと床を滑った。

 

「慎二。これ以上やるなら、ライダーが死ぬぞ」

 

 俺は慎二へ近づいた。

 殴りたいと思った。

 さっき倒れた生徒を見ても、こいつは笑っていた。その顔を思い出すだけで、手に力が入った。

 けれど、本を持っているのはあいつだ。

 ここで殴り倒しても、結界が止まるとは限らない。

 

「命令しろ。止めるんだ」

 

「負けてない。まだ、負けてないだろうが」

 

 慎二が本を握り直した。

 

「立て、ライダー! そいつを倒せ! おまえ、僕を守るんだろ!」

 

 ライダーの肩が動いた。

 残った刃を持ち上げようとしたところで、片膝が床についた。それでもライダーは腕を伸ばし、セイバーを見上げた。

 目は覆われていて、表情は分からない。

 ただ、服の脇から落ちる血は増えていた。

 

「やめろ、慎二!」

 

 俺が腕を伸ばすと、慎二は本を庇って後ろへ下がった。

 遠坂が反対側から回り込む。

 

 その時、ライダーが立った。

 

 さっきまでと違う動きだった。

 膝をついていた体が、引き上げられるように浮く。セイバーが剣を構え直し、踏み込んだ。

 ライダーの唇が、わずかに動いた。

 

「……え?」

 

 慎二が声を漏らした。

 俺の目の前で本の縁が赤くなり、伸ばしていた手に熱が伝わってきた。

 反射的に手を引く。慎二も本を持つ腕を突き出し、顔を背けた。

 

 その瞬間、鋭い音がした。

 

 セイバーの剣が扉の枠を削っていた。

 そこにいるはずの黒い姿は、見えなかった。

 

 髪が翻ったように見えたのは、ほんの一瞬だった。

 目で追おうとする前に、慎二が本を放り出した。

 

「あっ、なんだよ、これ!」

 

 本は床へ落ちる途中で燃え上がった。

 紙の束が開き、黒く縮んだ端から崩れていく。

 俺は腕で顔を庇った。炎が消えた時には、もう本の形は残っていなかった。

 

 窓から、白い光が差した。

 いつもの昼の光だった。

 

 耳の奥に詰まっていたものが抜ける。

 空気を吸うと、さっきまで浅くしか吸えなかったことに気づいた。

 

「ライダー……?」

 

 慎二がさっきまでライダーのいた場所を見た。

 床には血があった。武器も、髪も、黒い服もない。

 セイバーは剣を下げず、廊下の向こうへ顔を向けていた。

 

「……何だよ。こんな、こんなに簡単に」

 

 慎二が後ずさった。

 俺と目が合う。

 

「おまえたち……」

 

「慎二、待て」

 

 伸ばした手から逃れるように、慎二が非常口の取っ手を引いた。

 遠坂が腕を上げる。

 

 背後で椅子が倒れた。

 振り返ると、教室の入口に、生徒の手が出ていた。何かをつかもうとしているのに、指が床を滑っている。

 

 俺は教室へ向き直った。

 

「遠坂、手を貸してくれ!」

 

 遠坂が振り返る。上げていた腕が下がり、俺の後から教室へ入ってきた。

 背後では非常階段を駆け下りる足音が遠ざかっていった。

 

     *

 

 廊下で見ていた時より、教室の中はひどかった。

 机の間に倒れた生徒が何人も重なっている。倒れた椅子に腕を挟まれている者もいた。

 俺はまず椅子をどかした。

 

「聞こえるか」

 

 返事はない。顔を近づけると、かすかな息が頬に触れた。胸も動いている。

 隣に倒れていた生徒にも声をかけ、顔を覗き込む。こちらも息はあった。

 

 遠坂は入口の近くで立ち止まっていた。

 机の下へ目を向けたまま、唇を噛んでいる。さっきまで慎二へ向けていた手が小さく震えていた。

 

「遠坂。この二人は生きてる。向こうも確かめたい。手伝ってくれ」

 

「……ええ」

 

 遠坂が俺の隣にしゃがみ、入口へ這ってきた生徒の顔に手を添えて呼びかけた。

 小さく咳が返った。

 

「この子も、息はあるわ」

 

「なら、早く助けを呼ぼう。救急車でいいのか。魔術でこうなったんだから、教会にも知らせた方がいい?」

 

 遠坂が顔を上げた。もう一度教室を見回し、震えていた手を膝に押しつける。

 

「両方に知らせるわ。わたしが職員室へ行く。セイバー、他の教室も見てきて。動ける先生がいたら、協力してもらって」

 

「分かりました」

 

「俺はこっちを見てる。遠坂、頼む」

 

「ええ。任せて」

 

 立ち上がった遠坂は廊下へ出ると足を速めた。

 

 教室の奥で誰かが呻いた。

 その人へ声をかけると、今度は別の場所からかすかな返事があった。

 名前を聞く。答えが返らなければ、呼吸を確かめる。

 一人が動けるようになったので、廊下から他の教室へ声をかけてもらった。

 

 階段を下りる時、手すりのところに藤ねえを見つけた。

 壁にもたれた生徒の隣に膝をついている。

 

「藤ねえ!」

 

「士郎……あんた、歩けるの?」

 

「俺は大丈夫だ。そっちは」

 

「先生を呼んできて。上にも、まだ……」

 

 藤ねえは立ち上がろうとして、手すりをつかみ損ねた。

 肩を支えると、いつもの勢いがまったくない。顔も、唇も白かった。

 

「遠坂が連絡に行った。先生も何人か動いてる。藤ねえは、ここにいてくれ」

 

「でも、この子たち」

 

「分かってる。俺も見るから」

 

 藤ねえを壁際へ座らせる。

 教室から出てきた先生を呼び、藤ねえとそばにいた生徒を頼んだ。誰がどこにいるのか、分かる範囲で伝える。

 話しながら、桜が下りていった階段を思い出した。

 

 一階へ向かうと、廊下の向こうから名前を呼ばれた。

 

「先輩」

 

 空き教室の入口に桜がいた。

 戸に肩を預けて立っている。俺の顔を見ると歩き出そうとしたので、こちらから近づいた。

 

「桜。動かなくていい。具合は」

 

「少し、目が回って……でも、もう」

 

 言いかけた桜が俺の右腕へ目を向けた。

 

「先輩、血が」

 

 袖が切れていた。

 その下の肌に赤い筋が見える。ガラスが割れた時にでも切ったのだろう。見た途端、急にひりつき始めた。

 

「これくらいなら平気だ。歩けるか」

 

「はい。あの、兄さんは……」

 

 返事が一瞬遅れた。

 慎二がどこへ逃げたか、俺にも分からない。

 

「今は、ここにいない。桜も外で診てもらおう」

 

 桜は俺を見た。

 それから、何かを飲み込むように頷いた。

 

 玄関へ向かう途中、セイバーと合流した。

 鎧はもう消え、いつもの服に戻っている。彼女に桜を頼み、俺はまだ人のいる廊下へ引き返した。

 

 その後のことは、順番に思い出すのが難しい。

 遠くでサイレンが鳴り始めた。

 玄関の戸を開けておくように言われ、引っかかっていた靴をどかした。先生に呼ばれて、倒れている生徒の場所を案内した。

 担架が一つ通ると、その後からまた別の人が来る。

 

 遠坂もずっと動いていた。

 職員室から戻ってきたと思えば、今度は先生に何かを説明している。教会にも連絡したと、すれ違った時に短く聞いた。

 何が起きたのかと聞かれても、俺には答えられなかった。

 分かっていることと、ここで言えることが違っていた。それが腹立たしかった。

 

 せめて、人のいる場所だけは間違えずに伝えた。

 

 桜と藤ねえが病院で検査を受けることになったと知ったのは、しばらく後だった。

 二人とも、名前を呼べば返事をした。

 藤ねえは運ばれていく前まで、学校に残った生徒のことを聞いていた。自分の足元もおぼつかないくせに、俺の袖を見て眉を寄せる。

 

「士郎。あんたも、ちゃんと診てもらうのよ」

 

「分かってる」

 

「その返事、信用できないんだから」

 

 少しだけ、いつもの声だった。

 

     *

 

 右腕に白いガーゼを貼ってもらい、廊下の椅子に座らされた。

 ガラスは残っていないと言われた。洗ってもらった時にはしみたが、血はもう止まり、浅い傷口は端から塞がり始めていた。

 左手を開く。

 赤い印の一部が消えていた。

 

 一画を使った。

 残っているのは、二つだ。

 

 セイバーが来なかったらどうなっていたかと考えかけて、手を閉じた。

 来てくれたのだ。今は、それでいい。

 

「シロウ。まだ痛みますか」

 

 顔を上げると、セイバーが立っていた。

 

「腕は少し。ほかは、大したことない」

 

「立った時にふらつくようなら、言ってください」

 

「分かった。セイバーは?」

 

「傷はありません。魔力は使いましたが、すぐに支障が出るほどではない」

 

 彼女も俺の隣の椅子へ座った。

 空いた廊下を見てから、声を落とす。

 

「ライダーのことですが」

 

「倒したんじゃ、なかったのか」

 

「最後の一撃は、届いていません」

 

 セイバーの剣が扉の枠を削った、あの音を思い出した。

 

「その前には、斬ってたよな」

 

「はい。しかし、消滅するほどの傷ではなかった。斬り込む直前に、相手の動きが変わりました。弱ったまま倒れたのではありません」

 

「……どこかへ逃げたってことか」

 

「その可能性があります」

 

 職員室の方から、遠坂が戻ってきた。

 話の途中であることに気づき、俺たちの前で足を止める。

 

「やっぱり、確実には仕留めてないのね」

 

「ええ。気配が途切れた瞬間が、剣の動きと合わなかった」

 

 遠坂は窓へ目を向けた。

 外にはまだ救急車が止まっている。校庭の方へ移った生徒もいた。

 

「結界が消えたからって、ライダーも死んだとは限らないか。あの本が燃えたことも、ちゃんと調べないと」

 

「本が、令呪だったのか?」

 

「少なくとも命令に使っていたわ。ただ、本がなくなった後も命令できるかどうかは分からない。本人は、倒されたと思って逃げたみたいだけど」

 

「じゃあ、慎二を見つけても、またライダーが出てくるかもしれない」

 

「ええ。もう戦えないって決めつけて近づかないこと」

 

 遠坂は俺の腕のガーゼを見た。

 

「そっちは終わったの?」

 

「手当てなら。俺はもう少し、教室を」

 

「各教室の確認は、先生と救急の人に引き継いだわ。あんたが知ってることも、もう伝えてある」

 

「でも」

 

「あんたしか居場所を知らない人が、まだいるの?」

 

 考えた。

 上の教室、階段、桜のいた場所。全部、案内したか、場所を伝えた。

 

「……いや」

 

「なら、戻って同じことを聞いて回るのはやめなさい」

 

 遠坂は怒鳴らなかった。

 疲れた顔で、ただこちらの返事を待っていた。

 

「分かった。帰るよ」

 

「そうして。帰ったら、藤村先生たちのことを確かめておいて」

 

「遠坂は?」

 

「あと少し。連絡の続きがあるから。セイバー、頼んだわ」

 

 セイバーが頷く。

 俺は椅子から立ち上がった。

 足が思ったより重かった。

 

 鞄を取りに教室へ寄ると、自分の机だけが妙にいつもどおりだった。

 鞄を開けると、手をつけていない弁当があった。

 蓋がずれないよう包み直し、元へ戻した。

 

     *

 

 校門を出ると、知らない大人が何人も立っていた。

 先生に何かを尋ねる人。名前を呼びながら子どもを探す人。道を塞がないようにと、繰り返し声をかけている人。

 

 セイバーとその脇を通った。

 通りへ出てから、立ち止まる。

 

 イリヤとの約束を思い出した。

 

「セイバー。イリヤが――」

 

「シロウ!」

 

 向こうから声がした。

 人の集まっている場所から少し離れたところに、白い髪が見える。

 イリヤはこちらへ駆けてきて、俺のすぐ前で止まった。

 

「何があったの。みんな外にいて、車もたくさん来てるし、シロウは出てこないし」

 

「悪い。学校で、ちょっと」

 

「ちょっとじゃないでしょう」

 

 イリヤの視線が俺の切れた袖で止まった。

 その下のガーゼを見てから、セイバーへ顔を向ける。

 

「戦ったの?」

 

「ここでは話せません。少し、離れましょう」

 

 セイバーが答えた。

 イリヤもそれ以上は聞かず、俺の横へ来た。三人で人のいない方へ歩く。

 

 角を曲がってから、学校で起きたことを話した。

 同級生がマスターだったこと。ライダーが学校に結界を張り、生徒や先生が倒れたこと。セイバーに来てもらって止めたが、相手のマスターは逃げてしまったこと。

 

「シロウが戦ったわけじゃないのね」

 

「ライダーとは、セイバーが。俺は遠坂と一緒に、慎二の方へ行った」

 

「その人を捕まえればよかったのに」

 

「倒れてる人がいたんだ。そっちが先だった」

 

「……ふうん」

 

 イリヤは少し黙った。

 俺を見上げ、それから校舎の方を振り返る。

 

「それで、こんな時間までいたの?」

 

「ああ。人を運んだり、先生に説明したり。桜も藤ねえも、病院へ行ったから」

 

「シロウのお家に来る人たち?」

 

「うん。二人とも話はできた。念のため、検査してもらうって」

 

 イリヤは頷いた。

 慰めるようなことは言わなかった。ただ、俺の歩く速さに合わせて、隣を歩いた。

 

「今日は橋の方へ行ってみたかったんだけど」

 

「橋?」

 

「うん。お店ばかりじゃなくて、向こうもシロウと歩いてみたかったの」

 

「そうか。今からだと、少し暗くなるかな」

 

「今日は行かないわよ」

 

 イリヤがきっぱりと言った。

 

「そんな顔で連れていってもらっても、楽しくないもの。ほら、そっちに座るところがあるでしょう」

 

 示されたのは、通り沿いの小さな広場だった。

 植え込みの脇に背もたれのないベンチがある。

 

「いや、俺は」

 

「まだ学校に戻る用があるの?」

 

「……ない」

 

「じゃあ、ここで休むの。座って、シロウ」

 

 イリヤが先に腰を下ろした。

 隣を手で叩かれ、俺も座る。

 膝から、力が抜けた。

 

 鞄を足元へ置いた途端、イリヤが俺を見た。

 

「やっぱり。疲れてるじゃない」

 

「少しな。走り回ったから」

 

「シロウの少しって、どのくらいなの?」

 

 答えを探している間に、腹が鳴った。

 イリヤが目を丸くする。

 セイバーまでこちらを向いた。

 

「……昼、食べてなかった」

 

「もう夕方よ」

 

「食べようとした時に、呼ばれたんだ」

 

 イリヤは何か言いかけて、やめた。

 自動販売機の方へ歩いていく。俺も財布を出しかけたが、イリヤが振り返って睨んだ。

 

「今日は、わたしが選んであげる」

 

「いや、代金くらい」

 

「昨日はシロウがパンを買ってくれたでしょう。わたしが買ってもいいじゃない」

 

 反論する理由が見つからず、財布をしまった。

 

 戻ってきたイリヤは缶のココアを差し出した。

 両手で受け取ると、思ったより熱かった。

 

「甘いわよ、それ」

 

「見れば分かる」

 

「シロウ、また甘くない方を選びそうだったんだもの」

 

 イリヤはセイバーにも温かい缶を渡すと、俺の隣に腰を下ろした。

 俺は蓋を開けた。

 ひと口飲むと、舌に甘さが残った。昨日のパンより、よほど甘い。

 

「どう?」

 

「うまい。ありがとう」

 

「でしょう」

 

 イリヤは満足そうに自分の缶を開けた。

 しばらく、何も話さなかった。

 

 広場の前を自転車が通っていった。

 店の前で誰かが看板を直している。学校の方から聞こえていたサイレンは、もう遠かった。

 

 片手で缶を持ち、空いた手を膝に置く。

 ずっと何かを持ったり、誰かを支えたりしていたので、ただ手を置いているだけなのが変な感じだった。

 

「イリヤ。今日、待たせたな」

 

「うん。学校の方に来てよかったわ。公園だったら、何があったか分からなかったもの」

 

「そうだな。悪かった」

 

 イリヤは缶の縁を見ていた。

 

「……今は、ここにいるからいい」

 

 小さい声だった。

 顔を上げると、イリヤがこちらを見ている。

 

「でも、今日の分は残ってるんだからね。橋の方も、行ってもらうわよ」

 

「ああ。今度、明るいうちにな」

 

「約束」

 

 頷くと、イリヤも頷いた。

 

 缶が空になる頃には、手の冷たさもなくなっていた。

 立とうとすると、イリヤが俺の鞄へ手を伸ばす。

 

「それは自分で持つよ」

 

「さっき、重そうに置いたじゃない」

 

「弁当が残ってるからな。明日は軽くしておく」

 

「そういうお話じゃないんだけど」

 

 イリヤは呆れた声で言いながらも、手を引っ込めた。

 

「明日は?」

 

「午後なら会えると思う。藤ねえたちの様子を確かめてからになるけど」

 

「じゃあ、お昼の後ね。公園で待ってる。明後日、迎えに行く時間も決めなくちゃ」

 

 そうか、日曜日はもう明後日なのか。

 昨日はまだ先だと思っていた。

 

「手土産も買わないとな」

 

「それなら、わたしが選んであげる」

 

「また甘いやつか」

 

「もちろん。嫌なら、シロウの分だけくるみのパンにする?」

 

「いや。せっかくだから、同じものを食べたい」

 

 イリヤが笑った。

 ようやく、昨日と同じような顔になった。

 

 別れてから、セイバーと並んで歩いた。

 空はまだ明るかったが、家の塀の影は長くなっている。

 

「今日は、来てくれて助かった」

 

 言うと、セイバーがこちらを見た。

 

「あの時、呼んでくれたのはシロウです」

 

「そうだけど。来てもらわなかったら、どうにもできなかった」

 

「間に合ってよかった」

 

 それだけ言って、彼女は前へ向き直った。

 俺も鞄を持ち直して歩く。

 

 帰ったら、まず電話をしよう。

 藤ねえと桜がちゃんと帰れるのか確かめる。それから、遠坂にも連絡する。

 夕飯は温かいものを作って、俺もちゃんと食べようと思った。

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