Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
金曜の昼休み、弁当を出そうとしたところで、廊下から呼ばれた。
「衛宮くん。少し来てくれる?」
遠坂が教室の入口に立っていた。
何人かがこちらを見たので、鞄の口を閉めて立ち上がる。一成に声をかけようとしたが、もう席にはいなかった。
「どうしたんだ」
「歩きながら。ちょっと確かめたいことがあるの」
周りに聞こえる声でそう言ってから、遠坂は先に歩き出した。
向かう先には、特別教室が並んでいた。昼休みの廊下は人で混み合っている。紙の束を持った桜が向こうの階段を下りていくのが見えたが、声をかける前に角を曲がってしまった。
人の声が遠くなったところで、足を止めた。
見慣れた廊下なのに、窓際の一角だけがおかしい。
壁が傾いているわけでも、何かが置かれているわけでもない。それでも、そこだけが妙に引っかかった。
「遠坂。あそこ、何かあるぞ」
遠坂が振り返る。俺の指した先を見て、足を止めた。
「……窓の下?」
「ああ。そこだけ、変なんだ」
近づいてしゃがむと、窓枠の下にひびが見えた。そこにたまった汚れだと思った細い筋が、途中で折れ曲がり、床に近いところで幾つか重なっている。
「……これ、血か?」
「触らないで」
遠坂が俺の隣にしゃがみ、指先を近づけた。筋が少し濃くなる。
何かが動いたように見えて、思わず足を引く。
「……ここにも仕掛けてあったのね」
「ほかにもあるのか」
「ええ。血で描いた呪刻よ。窓の外にも、別の廊下にもつながってる」
おかしい場所は分かる。けれど、そこに何を仕掛けられたのかまでは分からなかった。
遠坂は筋を目で追ってから、こちらへ顔を向けた。
「学校に、結界を張ろうとしてる」
「結界って、誰かが入ってきたのを調べるようなやつか」
「それなら、こんなに急いで呼ばないわ。これは中にいる人間から力を奪うもの。発動すれば、校舎の中が丸ごと餌場になる」
さっきまでの教室が頭に浮かんだ。
開いた弁当。机を寄せる音。階段を下りていった桜。
「止められるのか」
「今ならまだ、この部分から崩せると思う。あんたは向こうへ行って、人を――」
「何してるの、二人とも」
声がして、顔を上げた。
廊下の奥に慎二が立っていた。
視聴覚室の脇にある非常口を背にして、こちらを見ている。左手には、見慣れない本があった。
「こんな所で密談? 遠坂も、変わったところが好きなんだね」
「慎二。ここへ来るな。今、学校に――」
「知ってるよ。だから、何をしてるのかって聞いたんだ」
慎二の目が遠坂の手元へ動く。
遠坂は窓際を離れた。俺の前へ出るように、一歩だけ。
「これ、あんたの仕業?」
「やっと気づいたんだ。さすがだね、遠坂。もう少し後でもよかったのに」
「答えなさい」
「聞くまでもないだろ。見せてやれば分かるよ。なあ、ライダー」
慎二の隣に黒い影が立った。
長い髪が遅れて肩の後ろへ流れる。
女の人だった。黒い服に、目を覆うものをつけている。片手に持った細い刃から鎖が垂れ、床に触れる手前で揺れていた。
左手の甲が熱くなった。
「おまえ……マスターだったのか」
「おまえにできることが、僕にできないと思った?」
慎二は本を持ち上げた。
答えを待っている。驚いてやれば、もっと嬉しそうに話すのだろう。
けれど、今はそれに付き合っていられなかった。
「だったら止めろ。学校で、何をする気なんだ」
「そんな顔するなよ。話をしてるんだからさ」
「話なら後で聞く。まず、それを消してくれ」
「……おまえは少し黙ってろよ。僕は遠坂と」
「わたしの返事も同じ。今すぐ解除しなさい」
遠坂の声は冷たかった。
慎二の笑みが固まった。口の端だけは、まだ上がっていた。
「解除、解除って。なんだよ、おまえたち。自分たちだけで組んで、僕には命令か」
「生徒を巻き込んだ時点で、対等な相談になると思わないことね」
遠坂が壁へ手を向けた。
「ライダー!」
鎖が鳴った。
目の前を細いものが走り、遠坂が俺の胸を押した。
窓枠に刃が突き刺さる。木の破片が頬をかすめた。
「触るなよ。僕が何日かけたと思ってるんだ」
慎二が本を開いた。
遠坂の指先に光が集まる。それより早く、黒い女が俺たちと慎二の間へ入った。
「まだ完成してないんでしょう。そんなものを使えば――」
「使えるんだよ。完成するまで待ってやる理由がなくなっただけだ!」
慎二が何かを叫んだ。
窓の外が、赤くなった。
夕日ではなかった。
光の色が変わったのではなく、透き通っていたガラスの向こうに薄い膜が張ったようだった。さっき見つけた筋が、壁の中へ染み込んでいく。
耳の奥が詰まった。
廊下の向こうで、何かが倒れた。
続けて、椅子を引く音。誰かの悲鳴。それを追い越すように、いくつもの音が重なった。
「遠坂、教室が!」
「分かってる!」
近くの教室から、一人の生徒が出てきた。
壁に手をつき、口を開けている。何か言おうとしたまま膝が折れたので、慌てて駆け寄って肩を支えた。
思ったより重かった。
生徒の腕はだらりと垂れ、まったく力が入っていない。
「おい。大丈夫か」
返事がない。
床へ下ろし、顔を覗き込む。息はしていた。ひどく浅いけれど、胸は動いている。
焼けた地面に倒れていた人の姿が、目の前の生徒に重なった。
違う。
この人はまだ生きている。ここには火もない。
「慎二、止めろ!」
振り返ると、慎二は本の上からこちらを見ていた。
「その程度なら、少し休めば戻るよ。魔術師でもないんだから、仕方ないだろ」
「何を言ってるんだ。こいつの顔を見ろ!」
「近づくな、衛宮。ライダー、そいつを止めろ」
黒い女の腕が上がった。
俺は生徒の体を引き寄せ、廊下の柱の陰へ押し込んだ。
鎖が頭上を通る。
ガラスの割れる音がして、肩に細かな破片が降ってきた。
遠坂の短い声。
何かが明るく弾け、黒い女が後ろへ跳んだ。その足元で床が割れる。
「士郎、こっちへ!」
遠坂が俺と生徒の前へ立った。
指の間で、宝石が一つ砕けた。散った光が消えずに残り、俺たちとライダーの間を覆う。
「長くは持たない。動ける?」
「俺は平気だ。遠坂、セイバーをここへ呼べないか」
「令呪を使えば呼べるわ。今ここへ来い、と命じるの」
左の袖をまくった。
セイバーは家にいる。歩いて来るのを待っていたら、ここの人たちはどうなる。
「使う。やり方を教えてくれ」
遠坂は俺の手を一瞬だけ見た。
「左手の印に意識を向けて。一画を解くつもりで、命令をはっきり思い描くの。ここへ来い、それだけに絞って」
もう一度、鎖が鳴った。
光の向こうでライダーが動き、遠坂が前へ手を突き出した。何かがぶつかる音に肩がすくんだが、俺は目を閉じた。
左手。
肌の上にあるはずの印が、目を閉じても分かる気がした。
ここへ来てほしい。あの女を止めて、この学校にいる人たちを助けたい。
言葉を増やしかけて、遠坂の注意を思い出した。
「セイバー、ここへ来い!」
左手に焼けるような痛みが走った。
思わず拳を握る。
すぐ隣で、空気が押し広げられた。
目を開けると、銀色の肩が見えた。
鎧を着たセイバーが俺と遠坂の前に立っている。
「シロウ。敵は、あのサーヴァントですか」
「ああ。ライダーだ。学校中の人間が倒れてる。あいつを止めてくれ」
「承知しました。貴方は凛と行動してください」
「分かった。頼む、セイバー」
彼女が頷いた。
その瞬間、遠坂の前に残っていた光が砕けた。
突き出された刃をセイバーが受けた。
金属の鳴る音が狭い廊下に響いた。
*
ライダーの長い髪が窓の方へ流れた。
体はその反対へ動いている。
ライダーはセイバーの剣を避けると同時に、手から離した刃を鎖で引き戻した。空いていた方の手にも、同じような刃がある。
二人の動きに目が追いつかなくなった。
剣があるはずの場所へ鎖が巻きつき、セイバーが腕を引く。ライダーは引かれた勢いを利用して足を上げた。
蹴りが鎧を打つ。
セイバーは半歩だけ下がり、その場から押し返した。
「そっちへ行くな、ライダー! そいつらを通すな!」
慎二の声が響く。
セイバーは構わず前へ出た。ライダーが受け止めた剣をそのまま押し込み、教室から遠ざけていく。
「衛宮くん。その人、入口の内側へ」
遠坂の声で足元に目を戻した。
倒れていた生徒を教室の中へ引き入れ、扉の陰へ寝かせた。ここなら、廊下を走る鎖に巻き込まれずに済む。
教室の中にも生徒が倒れていた。
椅子に座ったまま机に突っ伏している者もいる。奥まで見通せず、何人倒れているのか分からなかった。
「慎二を止める」
「ええ。わたしが前に出る。あんたは勝手にライダーへ近づかないで」
遠坂が廊下へ戻る。
俺もその後を追った。
慎二は非常口の前まで下がっていた。
セイバーとライダーの間合いに入らないよう、遠坂が教室側の壁に沿って進む。
慎二がこちらに気づいて、本を胸へ引き寄せた。
「来るなよ。ライダー、何やってるんだ。遠坂が来てるじゃないか!」
ライダーが体の向きを変えた。
その横から、セイバーが踏み込む。
黒い服の脇が裂けた。
「っ……」
ライダーの背中が視聴覚室の扉にぶつかった。
赤いものが床へ落ちる。
セイバーは追った。振り下ろされた剣を、ライダーは二本の刃を交差させて受ける。
甲高い金属音がした。
片方の刃が鎖ごと床を滑った。
「慎二。これ以上やるなら、ライダーが死ぬぞ」
俺は慎二へ近づいた。
殴りたいと思った。
さっき倒れた生徒を見ても、こいつは笑っていた。その顔を思い出すだけで、手に力が入った。
けれど、本を持っているのはあいつだ。
ここで殴り倒しても、結界が止まるとは限らない。
「命令しろ。止めるんだ」
「負けてない。まだ、負けてないだろうが」
慎二が本を握り直した。
「立て、ライダー! そいつを倒せ! おまえ、僕を守るんだろ!」
ライダーの肩が動いた。
残った刃を持ち上げようとしたところで、片膝が床についた。それでもライダーは腕を伸ばし、セイバーを見上げた。
目は覆われていて、表情は分からない。
ただ、服の脇から落ちる血は増えていた。
「やめろ、慎二!」
俺が腕を伸ばすと、慎二は本を庇って後ろへ下がった。
遠坂が反対側から回り込む。
その時、ライダーが立った。
さっきまでと違う動きだった。
膝をついていた体が、引き上げられるように浮く。セイバーが剣を構え直し、踏み込んだ。
ライダーの唇が、わずかに動いた。
「……え?」
慎二が声を漏らした。
俺の目の前で本の縁が赤くなり、伸ばしていた手に熱が伝わってきた。
反射的に手を引く。慎二も本を持つ腕を突き出し、顔を背けた。
その瞬間、鋭い音がした。
セイバーの剣が扉の枠を削っていた。
そこにいるはずの黒い姿は、見えなかった。
髪が翻ったように見えたのは、ほんの一瞬だった。
目で追おうとする前に、慎二が本を放り出した。
「あっ、なんだよ、これ!」
本は床へ落ちる途中で燃え上がった。
紙の束が開き、黒く縮んだ端から崩れていく。
俺は腕で顔を庇った。炎が消えた時には、もう本の形は残っていなかった。
窓から、白い光が差した。
いつもの昼の光だった。
耳の奥に詰まっていたものが抜ける。
空気を吸うと、さっきまで浅くしか吸えなかったことに気づいた。
「ライダー……?」
慎二がさっきまでライダーのいた場所を見た。
床には血があった。武器も、髪も、黒い服もない。
セイバーは剣を下げず、廊下の向こうへ顔を向けていた。
「……何だよ。こんな、こんなに簡単に」
慎二が後ずさった。
俺と目が合う。
「おまえたち……」
「慎二、待て」
伸ばした手から逃れるように、慎二が非常口の取っ手を引いた。
遠坂が腕を上げる。
背後で椅子が倒れた。
振り返ると、教室の入口に、生徒の手が出ていた。何かをつかもうとしているのに、指が床を滑っている。
俺は教室へ向き直った。
「遠坂、手を貸してくれ!」
遠坂が振り返る。上げていた腕が下がり、俺の後から教室へ入ってきた。
背後では非常階段を駆け下りる足音が遠ざかっていった。
*
廊下で見ていた時より、教室の中はひどかった。
机の間に倒れた生徒が何人も重なっている。倒れた椅子に腕を挟まれている者もいた。
俺はまず椅子をどかした。
「聞こえるか」
返事はない。顔を近づけると、かすかな息が頬に触れた。胸も動いている。
隣に倒れていた生徒にも声をかけ、顔を覗き込む。こちらも息はあった。
遠坂は入口の近くで立ち止まっていた。
机の下へ目を向けたまま、唇を噛んでいる。さっきまで慎二へ向けていた手が小さく震えていた。
「遠坂。この二人は生きてる。向こうも確かめたい。手伝ってくれ」
「……ええ」
遠坂が俺の隣にしゃがみ、入口へ這ってきた生徒の顔に手を添えて呼びかけた。
小さく咳が返った。
「この子も、息はあるわ」
「なら、早く助けを呼ぼう。救急車でいいのか。魔術でこうなったんだから、教会にも知らせた方がいい?」
遠坂が顔を上げた。もう一度教室を見回し、震えていた手を膝に押しつける。
「両方に知らせるわ。わたしが職員室へ行く。セイバー、他の教室も見てきて。動ける先生がいたら、協力してもらって」
「分かりました」
「俺はこっちを見てる。遠坂、頼む」
「ええ。任せて」
立ち上がった遠坂は廊下へ出ると足を速めた。
教室の奥で誰かが呻いた。
その人へ声をかけると、今度は別の場所からかすかな返事があった。
名前を聞く。答えが返らなければ、呼吸を確かめる。
一人が動けるようになったので、廊下から他の教室へ声をかけてもらった。
階段を下りる時、手すりのところに藤ねえを見つけた。
壁にもたれた生徒の隣に膝をついている。
「藤ねえ!」
「士郎……あんた、歩けるの?」
「俺は大丈夫だ。そっちは」
「先生を呼んできて。上にも、まだ……」
藤ねえは立ち上がろうとして、手すりをつかみ損ねた。
肩を支えると、いつもの勢いがまったくない。顔も、唇も白かった。
「遠坂が連絡に行った。先生も何人か動いてる。藤ねえは、ここにいてくれ」
「でも、この子たち」
「分かってる。俺も見るから」
藤ねえを壁際へ座らせる。
教室から出てきた先生を呼び、藤ねえとそばにいた生徒を頼んだ。誰がどこにいるのか、分かる範囲で伝える。
話しながら、桜が下りていった階段を思い出した。
一階へ向かうと、廊下の向こうから名前を呼ばれた。
「先輩」
空き教室の入口に桜がいた。
戸に肩を預けて立っている。俺の顔を見ると歩き出そうとしたので、こちらから近づいた。
「桜。動かなくていい。具合は」
「少し、目が回って……でも、もう」
言いかけた桜が俺の右腕へ目を向けた。
「先輩、血が」
袖が切れていた。
その下の肌に赤い筋が見える。ガラスが割れた時にでも切ったのだろう。見た途端、急にひりつき始めた。
「これくらいなら平気だ。歩けるか」
「はい。あの、兄さんは……」
返事が一瞬遅れた。
慎二がどこへ逃げたか、俺にも分からない。
「今は、ここにいない。桜も外で診てもらおう」
桜は俺を見た。
それから、何かを飲み込むように頷いた。
玄関へ向かう途中、セイバーと合流した。
鎧はもう消え、いつもの服に戻っている。彼女に桜を頼み、俺はまだ人のいる廊下へ引き返した。
その後のことは、順番に思い出すのが難しい。
遠くでサイレンが鳴り始めた。
玄関の戸を開けておくように言われ、引っかかっていた靴をどかした。先生に呼ばれて、倒れている生徒の場所を案内した。
担架が一つ通ると、その後からまた別の人が来る。
遠坂もずっと動いていた。
職員室から戻ってきたと思えば、今度は先生に何かを説明している。教会にも連絡したと、すれ違った時に短く聞いた。
何が起きたのかと聞かれても、俺には答えられなかった。
分かっていることと、ここで言えることが違っていた。それが腹立たしかった。
せめて、人のいる場所だけは間違えずに伝えた。
桜と藤ねえが病院で検査を受けることになったと知ったのは、しばらく後だった。
二人とも、名前を呼べば返事をした。
藤ねえは運ばれていく前まで、学校に残った生徒のことを聞いていた。自分の足元もおぼつかないくせに、俺の袖を見て眉を寄せる。
「士郎。あんたも、ちゃんと診てもらうのよ」
「分かってる」
「その返事、信用できないんだから」
少しだけ、いつもの声だった。
*
右腕に白いガーゼを貼ってもらい、廊下の椅子に座らされた。
ガラスは残っていないと言われた。洗ってもらった時にはしみたが、血はもう止まり、浅い傷口は端から塞がり始めていた。
左手を開く。
赤い印の一部が消えていた。
一画を使った。
残っているのは、二つだ。
セイバーが来なかったらどうなっていたかと考えかけて、手を閉じた。
来てくれたのだ。今は、それでいい。
「シロウ。まだ痛みますか」
顔を上げると、セイバーが立っていた。
「腕は少し。ほかは、大したことない」
「立った時にふらつくようなら、言ってください」
「分かった。セイバーは?」
「傷はありません。魔力は使いましたが、すぐに支障が出るほどではない」
彼女も俺の隣の椅子へ座った。
空いた廊下を見てから、声を落とす。
「ライダーのことですが」
「倒したんじゃ、なかったのか」
「最後の一撃は、届いていません」
セイバーの剣が扉の枠を削った、あの音を思い出した。
「その前には、斬ってたよな」
「はい。しかし、消滅するほどの傷ではなかった。斬り込む直前に、相手の動きが変わりました。弱ったまま倒れたのではありません」
「……どこかへ逃げたってことか」
「その可能性があります」
職員室の方から、遠坂が戻ってきた。
話の途中であることに気づき、俺たちの前で足を止める。
「やっぱり、確実には仕留めてないのね」
「ええ。気配が途切れた瞬間が、剣の動きと合わなかった」
遠坂は窓へ目を向けた。
外にはまだ救急車が止まっている。校庭の方へ移った生徒もいた。
「結界が消えたからって、ライダーも死んだとは限らないか。あの本が燃えたことも、ちゃんと調べないと」
「本が、令呪だったのか?」
「少なくとも命令に使っていたわ。ただ、本がなくなった後も命令できるかどうかは分からない。本人は、倒されたと思って逃げたみたいだけど」
「じゃあ、慎二を見つけても、またライダーが出てくるかもしれない」
「ええ。もう戦えないって決めつけて近づかないこと」
遠坂は俺の腕のガーゼを見た。
「そっちは終わったの?」
「手当てなら。俺はもう少し、教室を」
「各教室の確認は、先生と救急の人に引き継いだわ。あんたが知ってることも、もう伝えてある」
「でも」
「あんたしか居場所を知らない人が、まだいるの?」
考えた。
上の教室、階段、桜のいた場所。全部、案内したか、場所を伝えた。
「……いや」
「なら、戻って同じことを聞いて回るのはやめなさい」
遠坂は怒鳴らなかった。
疲れた顔で、ただこちらの返事を待っていた。
「分かった。帰るよ」
「そうして。帰ったら、藤村先生たちのことを確かめておいて」
「遠坂は?」
「あと少し。連絡の続きがあるから。セイバー、頼んだわ」
セイバーが頷く。
俺は椅子から立ち上がった。
足が思ったより重かった。
鞄を取りに教室へ寄ると、自分の机だけが妙にいつもどおりだった。
鞄を開けると、手をつけていない弁当があった。
蓋がずれないよう包み直し、元へ戻した。
*
校門を出ると、知らない大人が何人も立っていた。
先生に何かを尋ねる人。名前を呼びながら子どもを探す人。道を塞がないようにと、繰り返し声をかけている人。
セイバーとその脇を通った。
通りへ出てから、立ち止まる。
イリヤとの約束を思い出した。
「セイバー。イリヤが――」
「シロウ!」
向こうから声がした。
人の集まっている場所から少し離れたところに、白い髪が見える。
イリヤはこちらへ駆けてきて、俺のすぐ前で止まった。
「何があったの。みんな外にいて、車もたくさん来てるし、シロウは出てこないし」
「悪い。学校で、ちょっと」
「ちょっとじゃないでしょう」
イリヤの視線が俺の切れた袖で止まった。
その下のガーゼを見てから、セイバーへ顔を向ける。
「戦ったの?」
「ここでは話せません。少し、離れましょう」
セイバーが答えた。
イリヤもそれ以上は聞かず、俺の横へ来た。三人で人のいない方へ歩く。
角を曲がってから、学校で起きたことを話した。
同級生がマスターだったこと。ライダーが学校に結界を張り、生徒や先生が倒れたこと。セイバーに来てもらって止めたが、相手のマスターは逃げてしまったこと。
「シロウが戦ったわけじゃないのね」
「ライダーとは、セイバーが。俺は遠坂と一緒に、慎二の方へ行った」
「その人を捕まえればよかったのに」
「倒れてる人がいたんだ。そっちが先だった」
「……ふうん」
イリヤは少し黙った。
俺を見上げ、それから校舎の方を振り返る。
「それで、こんな時間までいたの?」
「ああ。人を運んだり、先生に説明したり。桜も藤ねえも、病院へ行ったから」
「シロウのお家に来る人たち?」
「うん。二人とも話はできた。念のため、検査してもらうって」
イリヤは頷いた。
慰めるようなことは言わなかった。ただ、俺の歩く速さに合わせて、隣を歩いた。
「今日は橋の方へ行ってみたかったんだけど」
「橋?」
「うん。お店ばかりじゃなくて、向こうもシロウと歩いてみたかったの」
「そうか。今からだと、少し暗くなるかな」
「今日は行かないわよ」
イリヤがきっぱりと言った。
「そんな顔で連れていってもらっても、楽しくないもの。ほら、そっちに座るところがあるでしょう」
示されたのは、通り沿いの小さな広場だった。
植え込みの脇に背もたれのないベンチがある。
「いや、俺は」
「まだ学校に戻る用があるの?」
「……ない」
「じゃあ、ここで休むの。座って、シロウ」
イリヤが先に腰を下ろした。
隣を手で叩かれ、俺も座る。
膝から、力が抜けた。
鞄を足元へ置いた途端、イリヤが俺を見た。
「やっぱり。疲れてるじゃない」
「少しな。走り回ったから」
「シロウの少しって、どのくらいなの?」
答えを探している間に、腹が鳴った。
イリヤが目を丸くする。
セイバーまでこちらを向いた。
「……昼、食べてなかった」
「もう夕方よ」
「食べようとした時に、呼ばれたんだ」
イリヤは何か言いかけて、やめた。
自動販売機の方へ歩いていく。俺も財布を出しかけたが、イリヤが振り返って睨んだ。
「今日は、わたしが選んであげる」
「いや、代金くらい」
「昨日はシロウがパンを買ってくれたでしょう。わたしが買ってもいいじゃない」
反論する理由が見つからず、財布をしまった。
戻ってきたイリヤは缶のココアを差し出した。
両手で受け取ると、思ったより熱かった。
「甘いわよ、それ」
「見れば分かる」
「シロウ、また甘くない方を選びそうだったんだもの」
イリヤはセイバーにも温かい缶を渡すと、俺の隣に腰を下ろした。
俺は蓋を開けた。
ひと口飲むと、舌に甘さが残った。昨日のパンより、よほど甘い。
「どう?」
「うまい。ありがとう」
「でしょう」
イリヤは満足そうに自分の缶を開けた。
しばらく、何も話さなかった。
広場の前を自転車が通っていった。
店の前で誰かが看板を直している。学校の方から聞こえていたサイレンは、もう遠かった。
片手で缶を持ち、空いた手を膝に置く。
ずっと何かを持ったり、誰かを支えたりしていたので、ただ手を置いているだけなのが変な感じだった。
「イリヤ。今日、待たせたな」
「うん。学校の方に来てよかったわ。公園だったら、何があったか分からなかったもの」
「そうだな。悪かった」
イリヤは缶の縁を見ていた。
「……今は、ここにいるからいい」
小さい声だった。
顔を上げると、イリヤがこちらを見ている。
「でも、今日の分は残ってるんだからね。橋の方も、行ってもらうわよ」
「ああ。今度、明るいうちにな」
「約束」
頷くと、イリヤも頷いた。
缶が空になる頃には、手の冷たさもなくなっていた。
立とうとすると、イリヤが俺の鞄へ手を伸ばす。
「それは自分で持つよ」
「さっき、重そうに置いたじゃない」
「弁当が残ってるからな。明日は軽くしておく」
「そういうお話じゃないんだけど」
イリヤは呆れた声で言いながらも、手を引っ込めた。
「明日は?」
「午後なら会えると思う。藤ねえたちの様子を確かめてからになるけど」
「じゃあ、お昼の後ね。公園で待ってる。明後日、迎えに行く時間も決めなくちゃ」
そうか、日曜日はもう明後日なのか。
昨日はまだ先だと思っていた。
「手土産も買わないとな」
「それなら、わたしが選んであげる」
「また甘いやつか」
「もちろん。嫌なら、シロウの分だけくるみのパンにする?」
「いや。せっかくだから、同じものを食べたい」
イリヤが笑った。
ようやく、昨日と同じような顔になった。
別れてから、セイバーと並んで歩いた。
空はまだ明るかったが、家の塀の影は長くなっている。
「今日は、来てくれて助かった」
言うと、セイバーがこちらを見た。
「あの時、呼んでくれたのはシロウです」
「そうだけど。来てもらわなかったら、どうにもできなかった」
「間に合ってよかった」
それだけ言って、彼女は前へ向き直った。
俺も鞄を持ち直して歩く。
帰ったら、まず電話をしよう。
藤ねえと桜がちゃんと帰れるのか確かめる。それから、遠坂にも連絡する。
夕飯は温かいものを作って、俺もちゃんと食べようと思った。