Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
土曜日は朝から何度か電話が鳴った。
学校からは校内の点検が済むまで登校しないようにと連絡があった。体調がおかしければすぐに知らせること。昨日、帰宅してからの様子も聞かれたので、今朝はいつもと変わらないと答えた。
桜は昨夜のうちに間桐の家へ帰っていた。
朝、電話で話すと、まだ少しだるいと言っていたが、声は昨日よりしっかりしていた。
『今日、朝ごはんのお手伝いに行けなくて』
「いいって。そんなこと気にしないで休んでろ」
『でも、先輩もお怪我を』
「包丁は持てるよ。セイバーもいるし、二人分くらいなら何とかなる」
『……二人分、ですか』
少し間があって、桜が小さく笑った。
『ちゃんと、多めに用意してくださいね』
「分かってる」
藤ねえは爺さんの家にいた。
昨日は帰ってからも学校へ電話をかけ続けて、叱られたらしい。
『今日は寝てろって。子どもじゃないんだから、そこまで言わなくてもいいのに』
「言われることしてたんだろ」
『士郎にだけは言われたくないわよ』
返す言葉がなくなった。
それでも、学校で聞いた声よりはずっと力があった。昼に何を食べるかという話になり、そこでようやく、少し安心できた。
遠坂からは、慎二から連絡があったら知らせるようにと言われた。
俺のところへは何も来ていない。
学校の後始末は、まだ終わっていない。慎二だって、どこで何をしているか分からない。
電話を置いてから、腕のガーゼを外した。
傷口はもう塞がっていた。昨日ガラスで切ったところを指でなぞっても痛くない。肘を曲げ伸ばししてみたが、引きつれる感じもなかった。
いくら浅かったといっても、早すぎる気がする。
しばらく腕を眺めてから、血の跡を洗い落とした。新しいガーゼは使わずに、朝の食器を片づける。
昼を済ませたら、公園へ行くことにしていた。
*
イリヤは俺の顔を見るなり近づいてきた。
「今日は、ちゃんと食べてきた?」
「食べた。朝も昼も」
「じゃあ、歩けるわね」
満足そうに頷いてから、セイバーにも目を向ける。
「シロウのお返事だけだと、ちょっと信用できないの。どうだった?」
「普段どおりでした。食事も、私と一緒に」
「よろしい。それじゃ、お出かけできるわ」
「俺は許可をもらいに来たのか」
「昨日のシロウだったら、連れて帰ってもらうところだったわよ」
イリヤが俺の袖を引いた。
つかんだところで手を緩め、俺の右腕へ目をやる。それから手を離し、反対側へ回ってきた。
「こっちなら、いい?」
「右も、もう痛くないぞ。朝見たら塞がってた」
「そう。じゃあ、こっちでもいいでしょう?」
イリヤは左側に立ったまま、俺の袖を引いた。
「じゃあ、早く。明日の分、なくなっちゃう」
「菓子屋の菓子が、そんな簡単になくなるか」
「わたしが食べたいのがなくなったら、ほかにあっても同じなの」
それは確かに、そうかもしれない。
セイバーも頷いたので、少し足を速めた。
商店街はいつもの土曜とそう変わらなかった。
店先に並ぶ野菜が増え、普段は閉じている戸が開いている。学校の話をしている声も聞こえたが、呼び止められることはなかった。
イリヤは菓子屋の窓の前で止まった。
「これ」
指さした先には丸いケーキがあった。
白いクリームの上に赤い果物が並んでいる。
「城まで、どれくらい持って歩くんだ?」
「……そうだった」
イリヤが指を下ろす。
店の中へ入りながら、もう一度だけケーキを振り返った。
「あれは、今度こっちで食べる方がいいな」
「わたしもそう思ってたところよ。シロウが揺らして、ぐちゃぐちゃになったら困るもの」
「俺が持つって決まってるんだな」
「シロウのお土産でしょう?」
もっともだった。
棚には箱に詰められた焼き菓子が並んでいた。
一つずつ袋に入っているものなら、持ち歩いても困らない。店の人に見せてもらい、イリヤにも中身を確かめてもらった。
「これと、こっち。あと、ここの茶色いの」
「全部、甘そうだな」
「お菓子なんだから、当たり前じゃない」
「そりゃそうだけど。セラとリーゼリットは、どんなのが好きなんだ?」
イリヤの指が止まった。
「……みんなの分も買うの?」
「お世話になるんだから。二人の分もあった方がいいだろ」
イリヤは箱の中を見てから、隣の棚にも目を向ける。
「セラは、食べ過ぎちゃいけないって言うけど。リズなら、こっちも食べると思う」
「じゃあ、種類が多い方にするか。みんなが選べるやつ」
「でも、それだと、わたしが好きなのが少なくなっちゃう」
「同じのを幾つか入れてもらえばいいだろ」
イリヤが俺を見た。
それから、店の人へ向き直る。
「それ、できる?」
できると分かると、イリヤは急に忙しくなった。
どれを何個にするか、箱に収まるか、数が合うか。棚と箱を何度も見比べていた。
俺も数えたが、途中から何人で食べるつもりなのか分からなくなってきた。
「イリヤ。俺とセイバーも入れて、何人分だ」
「それは五人だけど」
「なら、だいたいこれくらいで」
「だって、セイバーもいるでしょう?」
横にいたセイバーが真面目な顔で答えた。
「招かれた先で、他の方の分まで頂くつもりはありません」
「遠慮するなら、余ったのはわたしが食べてあげるわ」
「……余らせるとは言っていません」
店の人が笑いながら、少し大きい箱を出してくれた。
それでようやく収まった。
会計を済ませ、包み終わるのを待つ。
イリヤはカウンターの上の箱を見ていた。
「そんなに見なくても、入れたのはなくならないぞ」
「分かってるわよ。明日、ちゃんと出してもらおうと思って」
「俺の分まで先に食べるなよ」
「食べないわよ。一緒に食べるために選んだんでしょう?」
「……そうだったな」
昨日、自分でそう言ったのだった。
イリヤは覚えていたらしく、こちらの顔を見て得意そうに笑う。
包まれた箱を受け取って、店を出た。
紙袋の中で菓子が動かないか気になって、つい持ち方を変えてしまう。
隣から小さな手が伸びて、袋の底に触れる。
「重い?」
「これくらいなら平気だよ」
「じゃあ、落とさないでね」
「落とさないって」
イリヤは手を離し、今度は俺の空いている左手を取った。
袖ではなかったので、少し驚いた。
本人はもう前を向いて、歩き始めている。
「明日は、まずお茶にしましょう。歩いてきたら、お腹も空くもの」
「昼飯の前に、その箱を全部開けるつもりじゃないだろうな」
「全部食べるなんて言ってないでしょう。それからお庭。シロウ、お庭を歩くって言ったんだから、忘れちゃ駄目よ」
「覚えてるよ。本のある部屋も見たい」
「うん。じゃあ、そこも」
俺が見たい場所を言うたびに、イリヤは少し考えて順番を変えた。
自分の家だから全部知っているのだろう。それでも、どこから案内するかは簡単には決まらないらしい。
「そんなに急いで全部回らなくてもいいんじゃないか」
「急いでないわよ」
「だって、今の話だと、お茶を飲むだけで二回くらい呼び戻されそうだぞ」
「……お茶の方を、一回減らせばいいのね」
そっちを減らすのか。
何か言おうとしたが、イリヤが真剣に考えているので、いったん黙った。
つないだ手は、冷たかった。
歩くたびに、少し前へ引かれる。明日の話が弾むにつれて、イリヤの足も速くなっていた。
紙袋が脚に触れた。中の箱が傾いていないか気になって、少し足を緩める。
「どうしたの?」
「いや。箱が揺れてないかと思って」
イリヤが足を緩めた。
向こう側から、セイバーが紙袋へ手を添える。
「しばらく持ちます」
「でも、俺の土産だし」
「私も選びました」
セイバーは袋へ手を添えたままだった。
そう言われると、俺だけで持つ理由もなくなる。
「……そうだな。じゃあ、頼む」
「はい」
セイバーが袋を引き受けた。
イリヤは俺の左手を離さなかった。
「これで、シロウも前を見て歩けるわね」
「イリヤが急に引っ張らなければな」
「急にじゃないわよ。さっきから、ずっと歩いてたでしょう」
言いながら、イリヤは少しゆっくり歩き出した。
今度は俺もその隣に並んだ。
*
公園へ戻る頃には、日が少し傾いていた。
イリヤがベンチの前で足を止め、つないでいた手を離す。
「明日は、ここに九時ね」
「ああ。朝飯を済ませて来る」
「歩きやすい靴にして。シロウが途中で疲れても、わたしは運んであげられないわよ」
「そのくらいは歩くよ。道は任せていいんだな」
「もちろん。わたしについてきて」
イリヤは少し胸を張った。
それからセイバーへ向き直る。
「セラにも、二人で来るって言ってあるわ。ちゃんと用意しておくから」
「分かりました。よろしくお願いします」
丁寧な返事にイリヤが少しだけ目を瞬かせた。
「……うん。いいわよ」
その返事だけ、妙に素直だった。
いつも別れる場所まで歩く。
今日はイリヤの方から足を止めた。
「今日はここまで。わたしも、帰ってやることがあるの」
「明日の準備か」
「そう。シロウが来てから、あれもこれも忘れてたなんて言いたくないもの」
「そんなに大げさにしなくていいぞ。俺が行くだけなんだから」
イリヤの眉が少し上がった。
「シロウが来るんでしょう。だから、ちゃんとしたいの」
返事に詰まった。
俺が家へ招いた時も、菓子を買って、部屋を片づけて、湯呑みを選んだのだった。
「……そっか。じゃあ、楽しみにしてる」
「うん」
イリヤは今度はすぐ笑った。
「遅れちゃ駄目だからね、お兄ちゃん」
「分かった。明日な、イリヤ」
小さく手を振って、イリヤが歩き出す。
その姿が見えなくなるまで、セイバーと並んで見送った。
家へ戻り、遠坂に翌朝の時刻と待ち合わせ場所を伝えた。
短いやり取りの後、電話を切る。
セイバーから紙袋を受け取って、台所の台へ置いた。
箱の角は潰れていなかった。包み紙もきれいなままだ。
中身を確かめたくなったが、せっかく包んでもらったものを開けるのもおかしいので、そのままにした。
明日の朝食は早めに用意しよう。
食器を洗ってからでも九時に間に合うように、いつもより少し早く起きればいい。
部屋へ戻って、目覚ましの針を合わせる。
鞄の中から、木曜に返してもらったハンカチを出した。ポケットから移して以来、使わずにしまってあった。
明日着る服のそばへ置く。
家を案内するイリヤの姿を思い浮かべた。
たぶん、今日より忙しくなる。見たいと言った部屋のことを忘れたら、すぐに叱られそうだ。
それなら、俺もちゃんと覚えておこう。
目覚ましを枕元へ置いてから、もう一度、針の位置を確かめた。