Fate/stay night IF BEYOND THE EVER 作:Мир
朝食の片づけを終えると、出発にはまだ少し早かった。
それでも、もう一度座る気にはなれなかった。台所に置いてあった紙袋を取り、箱が傾いていないか確かめてから玄関へ向かう。
「シロウ、そちらは私が」
靴を履いていたセイバーが袋へ手を伸ばした。
「昨日は任せたし、今日は俺が持つよ」
「では、途中で代わりましょう」
「分かった。頼む」
袋を左手へ持ち替えて戸締まりをした。
ポケットには財布と畳んだハンカチが入っている。
何か忘れているような気がして振り返ったが、思いつかなかった。
「どうしました?」
「いや。人の家に行くのって、こんなだったかなって」
昨日、一緒に菓子を選んだときには、もっと気楽だった。
今になって、セラたちに何と挨拶するかを考えている。
「イリヤスフィールは、楽しみにしているようでした」
「ああ。それは分かる」
だから、遅れるわけにはいかない。
門を閉めると、セイバーと並んで歩き出した。
公園ではイリヤがベンチのそばに立っていた。
俺たちを見つけると、こちらへ来ようとして、途中で足を止める。両手を背中に回し、俺が時計を見るのを待っていた。
「おはよう。まだ九時にはなってないよな」
「そうね。ちゃんと間に合ったわ」
「イリヤ、いつからいたんだ?」
「いま来たところよ。それより、ごはんは?」
「食べた。セイバーも一緒に」
イリヤは俺の隣を見て、セイバーの返事も聞いてから頷いた。
次に靴、最後に紙袋へと目を移す。
「忘れなかったのね」
「忘れるかよ。あれだけ二人で悩んだのに」
「だったらいいの。今日はわたしについてきて。案内してあげる」
言い終わるより先に、小さな手が俺の左手に触れた。
袋の持ち手に気づいて、指が止まる。
「……それ、やっぱりセイバーに持ってもらいましょう」
「俺が持つって、さっき言ったばかりなんだけどな」
「シロウが持てるのは分かったわ。わたしは、こっちがいいの」
セイバーが袋を受け取った。
今度こそ空いた手をつかまえ、イリヤは満足そうに俺を見上げた。
*
靴底の下で湿った落ち葉が沈んだ。
木々の間を抜ける風は冷たく、日向に出たと思っても、すぐに枝の影に入る。町で見上げていた空が、ここでは細く切り分けられていた。
「そっちじゃないわよ、シロウ」
先を行くイリヤが振り返った。
足を向けかけた場所にも道らしい隙間はある。けれど、彼女は迷わず別の木のそばを通り抜けていった。
「似たような所が多いんだな」
「前に見せてあげたでしょう?」
「見たけど、自分で歩くのとは違うよ。あのときは足元なんか気にしなくてよかったし」
落ち葉の下から出ていた根をまたぐ。
イリヤはその先で待ち、俺の靴を見て笑った。
「今日はちゃんと下も見てね。お城に着く前に転ばれたら困るもの」
「分かってる。イリヤも、こっちを見ながら歩くなよ」
「わたしは平気よ。何度も通ってるんだから」
そう言いながらも、前へ向き直ってくれた。
後ろでセイバーの足音が続く。木の間を見渡しながら、俺たちとの距離を保ってついてくる。イリヤが俺に声をかけると、セイバーもこちらへ顔を向けた。
前に見せてもらったときには、森の冷たさも、土の匂いもなかった。
景色だけが俺の知らない場所へ進んでいった。今は一歩ごとに地面を踏む感触があり、息を吐けば白くなる。イリヤの上着の裾が枝に触れるのを見て、俺もそこを避けて歩く。
「もうすぐ?」
「その先。あ、まだ見上げちゃ駄目よ。そこ、根っこがあるから」
「先に言ってくれるのは助かる」
イリヤが先で待っていた。
その隣まで行くと、木々の向こうが開けた。
白い壁が見えた。
見覚えはある。尖った屋根も、縦に並んだ窓も、一度は見たはずだった。
それなのに、目の前にあると、どこからどこまでを眺めればいいのか分からない。壁の端を追っていた目を上へ向けると、さらに上に窓があった。
「……でかいな」
間抜けな感想しか出なかった。
イリヤは何も言わず、俺がもう一度建物を見上げるのを待っている。
「イリヤ、毎日あそこにいるのか」
「ええ。今日はシロウも入るのよ」
「それは、そうなんだけど」
うちに来たとき、広いと言っていた顔を思い出した。
「うちを案内したの、ちょっと恥ずかしくなってきた」
「どうして? シロウのお家はシロウのお家でしょう。わたし、いろいろ見せてもらえて嬉しかったわ」
イリヤが手を差し出した。
「今度はわたしの番。ほら、そこにいたら寒いままよ」
差し出された手を取る。
また歩き出した彼女は今度は俺が建物を見るたびに足を緩めてくれた。
玄関の扉が開くと、セラとリーゼリットが立っていた。
二人とも前に見たのと同じ姿だった。離れた場所の光景として見たときより、背が高く感じられる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
セラはイリヤに頭を下げた。
顔を上げて俺を見ると、その目がつながれた手のところで止まる。
「エミヤシロウ様ですね」
「はい。今日は、お邪魔します」
「伺っております」
そこで言葉が切れた。
頷くだけでは足りない気がして、セイバーから紙袋を受け取る。
「これ、よかったら。昨日、イリヤと選んだんです。セラさんと、リーゼリットさんの分も」
「お嬢様には、こちらで必要なものをご用意しております」
袋を差し出したまま、手が止まった。
「セラ。そのお菓子は、わたしが食べたくて選んだの。お茶のときに出してちょうだい」
イリヤの声は森の中にいたときより低かった。
「シロウとセイバーは、わたしが招いたお客さまよ」
「……承知いたしました」
セラは頭を下げたが、俺に向ける表情は変わらなかった。
横からリーゼリットの手が伸びる。
「預かる。上着も」
「ああ、ありがとう」
袋を渡し、上着を脱いだ。リーゼリットはそれを受け取り、袖を揃えて畳む。
「セイバーも」
「お願いします」
二人分の上着を腕にかけ、リーゼリットは脇へ退いた。
イリヤが俺の顔を覗き込む。
「行きましょう、シロウ。お茶が冷めちゃう」
「ああ。案内、頼む」
廊下へ出る前に振り返ると、セラはまだこちらを見ていた。
軽く頭を下げた。返ってきたのは、先へ進むよう促す仕草だけだった。
*
通された部屋では暖炉に火が入っていた。
外に面した窓は大きいが、冷たい風は入ってこない。テーブルには三人分の食器が並び、座る前から、どこか背筋を伸ばしたくなる。
「シロウはここ。セイバーはそっちに座って」
イリヤは自分の隣の椅子に手を置いた。
言われたとおりに腰を下ろすと、向かいに座ったセイバーと目が合う。セイバーは落ち着いたもので、椅子を引く音まで小さかった。
「シロウ。何か変?」
「いや。こういう食器、あまり使ったことがなくて」
「お茶を飲むのは同じよ」
「まあ、そうだけど」
取っ手に指をかけてから、まだ何も入っていないことに気づいた。
イリヤが口元を押さえる。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「見て笑うから、余計に気になるんだろ」
「だって、シロウがわたしのところに座ってるんだもの」
それが笑う理由になるらしい。
イリヤは自分のカップを両手で持ち上げ、俺のものと並べてみてから元へ戻した。
紅茶を注ぐセラの手元には迷いがなかった。
湯気と一緒に、甘いような、少し青いような香りが立つ。続いて運ばれてきたのは、温かいスープと、小さなパンを盛った籠だった。
「食事も用意してくれたのか」
「歩いたらお腹がすくでしょう? でも、あとでお菓子も食べるんだから、食べすぎちゃ駄目よ」
イリヤはそう言ってから、セイバーを見た。
「足りなかったら、ちゃんと言ってね」
「ありがとうございます。まずは、いただきます」
セイバーの返事に満足して、イリヤもスプーンを取った。
俺も倣う。ひと口飲むと、森を歩いているうちに冷えていた腹のあたりが温まった。
「うまいな、これ」
思わず言うと、イリヤが身を乗り出した。
「気に入った?」
「ああ。こんなに滑らかにするの、手がかかりそうだ」
「ほら、セラ。シロウもおいしいって」
「恐れ入ります」
返事はあったが、こちらを見てはいなかった。
食べ終えて、空いた皿へ手を伸ばすと、それより早く、セラの白い手が皿の縁を押さえた。
「お手を煩わせる必要はございません」
「あ、いや。そっちに重ねたほうが運びやすいかと」
「そのままで結構です」
手を戻す。
いつもの調子で動くと、かえって邪魔になるらしい。
イリヤがテーブルの下で俺の膝を軽くつついた。
「今日は座ってて。シロウのお家では、ずっとシロウが立っていたでしょう」
「そうだったか?」
「そうよ。わたしが話している途中でも、お茶がなくなったらすぐ立っちゃうんだから」
覚えがあるような、ないような。
とにかく、その点ではイリヤのほうがよく覚えているらしい。
「分かった。今日は任せる」
「ええ。それでいいの」
食事の皿が下がると、菓子の箱がテーブルに置かれた。
昨日見た包装紙がこの部屋にあるのが妙に嬉しい。イリヤも待っていたらしく、椅子を少し寄せた。
「それはわたしが開けるわ」
セラから箱を受け取り、リボンを外す。
紙を破かないように開いているのを見て、俺は空いた皿を寄せた。今度は止められなかった。
「こっちがリズで、こっちはセラ。二人の分、先に取っておくんだよな」
「ええ。でも、こっちの味も一つずつにしましょう。昨日、どちらにするか迷ったでしょう?」
「それなら、こうか」
小さな袋を二組に分ける。イリヤは数を確かめてから、皿をセラへ差し出した。
「あとでリズと食べて。わたしたちは、残りを分けるから」
「お預かりいたします」
セラが皿を持って下がる。
扉が閉まると、俺は思わず息を吐いた。
「……そんなに怖かった?」
「怖いっていうか。俺、何かまずいことしたかな」
「シロウは何もしていないわ。わたしが来てほしかったの。それでいいでしょう」
イリヤは菓子を一つ、俺の皿へ置いた。
「はい。シロウが選んだほう。わたしにも少しちょうだいね」
自分の分には手をつけず、俺が食べるのを待っている。
包みを開けて菓子を二つに割り、半分を渡した。
端の焼けたところはさっくりして、中は思っていたより柔らかい。
イリヤが同じようにひと口かじった。
「おいしい」
「ああ。これでよかったな」
「次はわたしの選んだほうよ。食べ比べてみましょう」
今度はイリヤが包みを開けた。
セイバーにも一つ勧めてから、俺の皿に半分を載せる。
「こちらは香りが違いますね」
「そうなの。シロウ、さっきのとどっちが好き?」
「迷うな。こっちもうまい」
もうひと口かじって、皿に残った二つを見比べる。
向かいのセイバーも同じようにしていた。
「種類が多い方にしてよかったな」
「ええ。わたしの好きなのも、ちゃんと多く入ってるし」
イリヤは得意そうに笑った。
俺の皿へもう一つ載せかけて、箱の中を見直す。
「でも、少し残しておきましょう。あとでもう一度、お茶にするんだから」
「まだ食べる予定なのか」
「当たり前よ。案内する場所、まだ一つも見ていないでしょう?」
急に、今日が長くなったような気がした。
俺は頷いて、まだ温かい紅茶を飲んだ。
*
廊下へ出ると、自分たちの声がよく響いた。
右へ曲がり、階段を上がる。突き当たりにある窓から外を見て、俺はようやく、さっきまでいた部屋がどちら側なのか見当をつけた。
「迷いそう?」
「たぶん、一人だと」
「だったら離れないでね。シロウを捜すのに一日使いたくないもの」
イリヤは俺の手を引いて、窓の右にある扉の前に立った。
振り返ってから、両手で取っ手を下げる。
「ここよ。シロウが見たいって言ったのは」
壁に沿って、本棚が並んでいた。
背表紙には金色の文字が並び、革の色も、本の厚みもまちまちだ。上の段を見るには、首を上げなければならない。窓から入る光の中に棚の影が伸びていた。
「好きに見ていいわよ。あ、でも、上の本を取るなら言ってね」
「これ、全部読んだわけじゃないよな」
「全部は読まないわ。面白くない本だってあるもの」
もっともだった。
近くの背表紙を見てみるが、題名も読めない。文字の形に覚えがあっても、単語になるとお手上げだ。
「こっちは、魔術の本なのか?」
「それは違うわ。読んでほしい?」
「いや、今度でいい。イリヤは、どんなのを読んでるんだ?」
イリヤは俺を見た。
それから、別の棚へ向かう。
「それなら、こっち」
窓辺には椅子と小さな机が置いてあった。
机の端に何冊かの本が積まれている。その一番下から、イリヤは薄い本を抜き出した。
ほかの本に比べて、ずいぶん小さい。表紙の角が擦れて、布の下の色が見えていた。
「ドイツから持ってきたの。これは何度も読んだわ」
開いて見せてくれる。
文字ばかりの本かと思ったら、木版画のような絵があった。森の道に子供が立っている。次のページには、同じ子供と、妙に偉そうな鳥が描かれていた。
「へえ。こいつが主人公?」
「そう。でも、そのページから見たら分からないでしょう」
「悪い。絵につられた」
最初のページに戻すと、イリヤは椅子を引いた。
俺が座るのを待って、自分は隣に立つ。題名を読み、絵の中の子供を指した。
聞き慣れない響きだった。同じ音を口にしてみると、途中で笑われた。
「違うわ。そこは、そんなに長くしないの」
「そんな細かい違い、分からないぞ」
「わたしには分かるもの。もう一回」
三度目で、ようやく許してもらえた。
セイバーは少し離れたところで、棚と窓を見ている。こちらのやり取りが聞こえたらしく、口元を緩めて振り返った。
イリヤの指が文章をたどる。
読み上げる声を聞きながら、俺は絵を見ていた。
言葉は分からないのに、途中で声が変わるので、登場人物が喋っているところだけは分かる。口を挟まずにいると、一段落したところで、イリヤが顔を上げた。
「いまの、分かった?」
「主人公が何か言われてるのは分かった」
「ぜんぜん分かってないじゃない」
「でも、読んでもらうのは面白い」
イリヤは開いた本に目を落とした。
もう一度、今度は日本語で話し始めようとして、窓の外を見た。
「……駄目ね。これを最後まで読んだら、お庭に行くのが遅くなっちゃう」
「あとで読んでくれるか?」
「シロウが聞きたいなら」
「聞きたい。さっきの鳥が何を言ってたのか、気になる」
イリヤは本を閉じ、机の真ん中へ置いた。
「じゃあ、続きはあとで。忘れちゃ駄目よ」
*
庭へ出る前に上着を着直した。
リーゼリットはイリヤの襟元を確かめ、外れかけていた留め具を直す。イリヤは少し顎を上げ、されるがままになっていた。
「リズ、そんなに長くはいないわ」
「冷えたら、戻る」
「分かってる。シロウたちもいるんだから」
俺たちのほうを見てから、リーゼリットは扉を開けた。
室内で温まった頬に風が当たる。
庭は部屋の窓から見たよりも奥行きがあった。
縁を整えられた花壇に、まだ花はない。低い木々の間を道が続き、その向こうで、森が城を囲んでいる。
イリヤは道の途中で立ち止まり、枝の先を指した。
「見て。ここ」
イリヤが折らないように枝を支える。
指さす先に小さな芽がついていた。硬い殻のようなものに包まれていて、触っただけでは、中に葉があるとも思えない。
「何もないわけじゃないのよ。シロウ、さっきちょっと残念そうな顔をしてたでしょう」
「そんな顔してたか?」
「してたわ。お庭って聞いて、花がいっぱいあると思ったんじゃない?」
「それは、少し」
正直に言うと、イリヤは頷いた。
「お花が咲いているときのほうが、きれいだけど。でも、今も見せておきたかったの」
支えていた枝を放す。
細い先端が揺れ、元の高さへ戻った。
「イリヤは、葉っぱがなくても木の種類が分かるのか」
「全部じゃないわ。知っているものだけ」
「それでも俺より詳しいよ。うちの庭にある木なら分かるけど、森へ行くとほとんど同じに見える」
「見分け方を知らないだけよ。幹とか、枝とか、よく見ると違うでしょう」
言われて見比べてみる。
確かに違う。だが、違いが分かるのと、名前が分かるのとは別だった。
困っているのが伝わったらしく、イリヤが笑った。
「最初はそんなものよ。わたしも、知らなくて負けたことがあるわ」
「負けた?」
「ドイツにいたとき。森でクルミの冬芽を探したの。どちらがたくさん見つけられるか、競争して」
イリヤは道の端に落ちていた小枝を靴先で避けた。
「わたしは、教わった形の芽を探していたの。でも、向こうは違う形のものまで数えるのよ。それはクルミじゃないって言ったら、クルミにも種類があるんだって」
「それは、知ってるほうが有利だな」
「ずるいでしょう? だったら始める前に教えてくれればいいのに、自分が勝ってから教えるのよ」
腹を立てたような言い方だったが、口元は笑っていた。
小枝をまたぎ、俺の一歩先へ出る。
「もう一回って言ったら、今度は別の遊びにしようって。キリツグって、そういうところがあるの。自分ばかり勝って、おしまいにしようとするんだから」
足が止まった。
俺がついてこないので、イリヤが振り返る。
「どうしたの?」
「……切嗣と、そんなふうに遊んでたのか」
冬の森で、切嗣と遊んでいた。
負けて文句を言い、もう一度とせがむ。そんなふうに、あの人と過ごしていたのか。
イリヤは俺の顔を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「遊んだわよ。いつもじゃなかったけれど」
親父の名を口にするときの顔も、あの家でこらえていた涙も覚えている。
親父の娘ではないかと前から思っていた。それでも本人に確かめられずにいた。
「イリヤは、親父の娘なんだな」
「ええ。キリツグは、わたしのお父さまだったの」
風が吹いて、イリヤの髪が頬にかかった。
彼女はそれを払ってから、俺の返事を待った。
「そうか」
頷くと、イリヤは俺の顔を見つめた。
「……驚かないのね」
「ああ。そうじゃないかとは思ってた」
「キリツグが、わたしの話をしたの?」
「いや。親父からは聞いてない。イリヤと会ってからだ」
イリヤは唇を閉じた。こちらを見ていた目が、俺の肩の向こうへ逸れる。
「そう。何も、言わなかったのね」
親父がどうして話さなかったのかは分からない。
あの家で五年一緒に暮らしたが、イリヤの名前を聞いたことはなかった。
「イリヤは、俺のことを知ってたんだよな」
「ええ」
「初めて会ったときから?」
「その前から」
頷いた顔に、さっきの笑みはなかった。
親父を殺したかった、と言った声を思い出した。
うちへ来たとき、イリヤは泣いていた。俺は隣にいたが、親父との間に何があったのかは聞けなかった。
今日はこうして、昔の遊びの話をしてくれた。もっと聞きたいと思った。
セイバーが俺たちの少し後ろで立ち止まっていた。
イリヤを見つめ、わずかに眉を寄せている。その顔を見て、俺は尋ねた。
「セイバーは、知らなかったのか」
「……はい。イリヤスフィールが、彼の娘だとは」
それだけ答えて、口を閉じた。
俺はもう一度、イリヤに向き直る。
「イリヤ。親父と暮らしてたころのこと、もう少し――」
「シロウ」
途中で止められた。
イリヤは上着の袖口をつまんでいた。
「シロウの話を聞かせて」
「俺の?」
「キリツグと暮らすようになる前のこと。どうやって会ったのか、シロウから聞きたいの」
俺を見る目は、もう逸れなかった。
何から話すか考えて、まず、引き取られた年のことを口にした。
「十年前だよ。冬木で、大きな火事があっただろ。あのとき、助けてもらったんだ」
イリヤは黙って聞いていた。
セイバーもその場を離れずにいる。
「火の中を歩いて、途中で倒れた。そこへ親父が来た。どうやって俺を見つけたのかは、知らない」
「……一人だったの?」
「ああ。助けられたときは、一人だった」
どこから歩いてきたのか、どれだけ歩いていたのか。今ではもう、はっきりしない。
それでも、覗き込んできた顔だけは覚えている。
「俺を見つけたとき、泣いてたんだ」
イリヤの指が袖口から離れた。
「キリツグが?」
「うん。こっちは息をするのも苦しいのに、親父は、俺が生きてるのが嬉しくて仕方ないみたいでさ」
ひどい顔だった。服も汚れていたし、泣きながら笑っていた。
助けられているのは俺なのに、目の前の人のほうが、やっと助かったように見えた。
「変な言い方だけど、俺を見つけてよかったんだな、って。そのときは、それだけ分かった」
イリヤは何か言おうとして、唇を閉じた。
俺はイリヤが話すのを待ったが、言葉はなかった。
「それから、病院にいた。怪我がよくなってきた頃に、親父が来て。これからどうするかって話をした」
「すぐに、あのお家へ行ったわけじゃないのね」
「ああ。最初から一緒に暮らすつもりで助けたわけじゃないと思う」
病院の白い壁と窓から入る日差しを思い出す。
入院していたときの記憶には、抜けているところが多い。引き取られた日の話だって、あとで親父が何度も話すうちに、覚え直した部分がある。
「孤児院に行くか、自分に引き取られるか、どっちがいいって聞かれたんだ」
「シロウは、どうしてキリツグにしたの?」
少し考えた。
先の暮らしまで考えて決めたわけではない。あのときは、どちらを選んでも知らない場所へ行くのだと思った。
「孤児院も、親父のことも、よく知らなかったからな。それなら、この人のところに行ってみようって」
そう答えてから、イリヤの目を見た。
「あの家へ行ってよかったよ」
そう言うと、イリヤは俯いた。
俺の靴と自分の靴の間を見ている。
先を話していいのか迷っていると、小さな声がした。
「……それで?」
「それで、家へ行くことになった。荷物をまとめてるときに、親父がいきなり、自分は魔法使いだって言い出して」
イリヤが顔を上げた。
「魔法使い?」
「そう。魔術師じゃなくて、そう言ったんだよ。子供に分かるようにしたつもりだったのかもしれないけど」
「シロウは信じたの?」
「信じた。すごいと思った」
即答すると、イリヤは呆れたように目を丸くした。
それから、息を漏らす。
「……シロウらしいわね」
「そのときは、魔術なんて知らなかったからな。助けてくれた人が魔法まで使えるって、そんなの、すごいだろ」
「ええ。きっと、すごく喜んだんでしょうね」
俺のことを言ったのか、親父のことを言ったのか。
イリヤは、それ以上笑わなかった。
庭の端に石のベンチがあった。
俺がそちらを見ると、イリヤも目を向ける。日が当たっていたが、座面は冷たそうだった。
セイバーが一度、建物へ目を戻した。
「中へ戻りますか」
イリヤは首を振った。
「もう少し、ここがいいの」
俺たちはベンチのそばまで歩いた。
イリヤは座らず、背もたれに手を置く。俺も隣に立って、同じように庭を見た。
「あの家で、何をしていたの?」
「何って……普通の暮らしだよ。俺は学校へ行って、帰ったら宿題をして。親父が縁側にいたら、そこで話したり」
「キリツグは、いつも家にいたの?」
「いや、よく旅に出てた。一ヶ月くらい帰ってこないのは珍しくなかったな。帰ってくると土産話をしてくれるから、それを楽しみに待ってた」
「魔術は?」
「なかなか教えてくれなかった。俺が頼み続けて、やっと少しだけ」
「キリツグが教えるの、上手だった?」
「それは、どうだろうな。俺の覚えが悪いのもあるし」
答えに詰まると、イリヤは一度だけ俺を見た。
問い詰めるつもりはないらしく、すぐ庭へ目を戻す。
「ごはんは、一緒に食べていたのね」
「ああ。最初は作ってもらってたけど、そのうち俺も手伝うようになって。藤ねえもよく来てた」
醤油の場所を捜す声や、あと何分で食べられるか聞いてくる声が浮かんだ。
話せと言われれば、いくらでも話せた。失敗した料理も、くだらないやり取りも、あの家での出来事は覚えている。
だが、それを一つ口にするたびに、イリヤの知らない切嗣が増えていく。
「シロウ」
背もたれを押さえていた手に力が入った。
「キリツグは、あのお家で楽しそうだった?」
すぐに答えられなかった。
笑っていた顔なら、すぐに思い浮かぶ。けれど、それをこの子に話していいのか。
イリヤは目を逸らさず、返事を待っていた。
「……笑ってたよ」
俺は言った。
「いつもじゃないけど。一緒に飯を食ってるときとか、藤ねえに呆れてるときとか。笑ってた」
イリヤの目が、ゆっくり下がった。
「そう」
それきり、声がしなくなった。
風が通り、背後の枝が擦れ合う。
俺は何度か口を開きかけた。親父には事情があったのかもしれない。戻りたくても戻れなかったのかもしれない。思いつくことはあったが、どれも俺が知らないことだった。
「わたしは、待っていたわ」
小さな声だった。
「キリツグが帰ってくるのを。今日は帰るかもしれないって思って、また違って。それでも、待っていたの」
白い指が石の縁を滑った。
「その間に、シロウのところでは笑っていたのね」
俺は答えられなかった。
さっき言ったことを、取り消すことはできない。
イリヤが待っている間、俺は親父の帰りを家で迎えた。飯を作ってもらい、魔術を教えろとせがみ、何度も同じ話を聞いた。
イリヤは手を離した。
俺から半歩ほど離れ、上着の前を合わせる。
「ずるいわ」
顔を見ようとしたが、こちらを向かなかった。
「シロウの話を聞いたら、わたしも、よかったって言わなきゃいけないみたいじゃない。助けてもらえて、よかったねって」
「言わなくていい」
思ったより早く、声が出た。
イリヤが振り向く。
「無理に、そう言わなくていいよ」
彼女の目が俺の顔を確かめるように動いた。
「……シロウは、キリツグが好きなんでしょう?」
「ああ」
今度は迷わず頷いた。
「助けてもらったことも、一緒に暮らしたことも、俺は嬉しかった。それは変わらない」
イリヤの唇がきつく結ばれた。
俺は続けた。
「でも、だからって、イリヤに同じことを言ってもらおうとは思わない」
どうして迎えに行かなかったのか。
なぜ、俺にこの子のことを話さなかったのか。
今、ここに親父がいたら、俺だって聞きたかった。
「親父が何を考えてたのか、俺には分からない。イリヤが待ってたことも、今日初めて聞いた」
親父に代わって何か言えたらと思った。
けれど、俺も聞きたいことばかりだった。
イリヤは黙って俺を見ていた。
「……怒らないのね」
「何を?」
「シロウの好きな人のこと、わたしは嫌いだって言ってるのよ」
「怒れないよ。今の話を聞いて、それは」
イリヤは目を伏せた。
「わたし、まだ怒っているわ。何で帰ってこなかったのか、聞きたかった。帰ってきたら、いっぱい言ってやろうと思ってた」
そこで一度、息を吸う。
「もう、聞けないのに」
俺は隣に立ったままでいた。
手を伸ばせる距離だったが、今、そうしていいのかは分からなかった。
やがて、イリヤのほうから半歩戻ってきた。
俺には触れず、同じ方向を向く。
「……冬芽を探したときも、そうだったのよ」
突然話が戻ったので、俺は顔を向けた。
「わたしが怒っても、キリツグは笑っているの。お母さまも知っていたくせに、二人して。わたしだけが、まだ知らなかったのよ」
言葉の最後で口元がわずかに動いた。
笑ったのかと思ったが、すぐに消えた。
「お母さんも、一緒だったのか」
「ええ。わたしが文句を言いに行くと、キリツグと仲良しねって。負けて怒っているのに、変でしょう?」
今度は、笑ったと分かった。
すぐに俯いてしまったが、俺はその顔を見ていた。
「お母さんの名前、聞いてもいいか」
イリヤは頷いた。
「アイリスフィール。アイリスフィール・フォン・アインツベルンよ」
衣擦れの音がした。
セイバーが一歩こちらへ近づいていた。
「アイリスフィールが……あなたの、母親なのですか」
それまでの声と明らかに違った。
イリヤは体ごとセイバーへ向き直った。
「ええ。知っているのね、セイバー」
「はい。前の戦いで、お会いしています」
セイバーはイリヤを見つめていた。
何かを確かめるように目を動かし、それから、言葉を選ぶように口を閉じる。
「そうですか。あなたが……」
切嗣の娘だと聞いたときには、なかった顔だった。
イリヤもそれに気づいたのか、セイバーから目を離さなかった。
「お母さまのことなら、話してくれる?」
「私の知っていることでよければ」
「キリツグのことは、話したくないのね」
セイバーの表情が引き締まった。
イリヤはセイバーを見たまま、返事を待っている。
「……私は、切嗣のやり方を受け入れられませんでした」
声にははっきりとした硬さがあった。
「今でも、それは変わりません。彼が何を考え、何のためにそうしたのか。最後まで、理解できなかった」
俺は黙って聞いた。
親父を語るセイバーが険しい顔をするのは、初めてではない。さっき話した食卓のことを、もう一度聞かせる気にはなれなかった。
「さっきの話を聞いても?」
イリヤが尋ねた。
セイバーは一度、俺を見てから答える。
「シロウが嘘を言っているとは思いません。あなたの思い出も。ですが、私にとっては、同じ人物のことだとすぐには思えない」
イリヤはしばらくセイバーを見上げていた。
やがて、短く頷く。
「……そう」
セイバーも無理に言葉を足さなかった。
「セイバー」
イリヤが呼んだ。
「じゃあ、まずはお母さまの話を聞かせて。わたしが知らないときのお母さまを、あなたは知っているんでしょう?」
今度はセイバーもすぐに頷いた。
「ええ」
イリヤの肩から、少し力が抜けた。
口を開きかけてから、指を握り込んだ。
それを見たセイバーが建物へ目を向けた。
「続きは、中で。手が冷えている」
「……そうね。リズにも、戻るように言われていたもの」
イリヤは両手を擦り合わせ、先に歩き出した。
俺も後を追う。
扉へ向かう途中、イリヤが歩みを緩めた。
「シロウ。今日、聞いたことだけで、キリツグのことを全部分かったと思わないでね」
「思わないよ」
同じことをこちらからも頼みたかった。
けれど、イリヤはもう、続きを聞こうとしてくれている。
「また聞かせてくれるか。さっきみたいな話」
「わたしが話したくなったらね」
「ああ」
「シロウもよ。聞かれたことだけ答えて、おしまいにしないで」
俺は頷いた。
「何から話せばいいのか、迷ってたんだ」
「それなら、わたしが聞くわ」
イリヤの手が俺の左手に触れた。
指先が冷たい。包むように握ると、今度は向こうからも握り返してきた。
*
室内へ戻ると、暖かさにほっとした。
リーゼリットが上着を受け取り、イリヤの手を見た。
「冷えた?」
「少しだけ。お茶にしてくれる?」
「分かった」
廊下の先にいたセラがこちらへ来た。
俺とイリヤの手を見ても、何も言わない。
「先ほどのお部屋に、ご用意いたします」
「待って、セラ。お茶の前に、もう一つ見せたいところがあるの」
セラが足を止めた。
イリヤは考えてから、言い直す。
「いいえ。先にお茶にするわ。そのあとで案内するから、少し待っていてね、シロウ」
「慌てなくていいよ。ちゃんとついていくから」
返事をすると、イリヤは俺の手を一度だけ引いた。
客間へ向かう角で階段のほうを見る。
「本も、持ってこなくちゃ」
机の上に置かれた、小さな本を思い出す。
「取りに行こうか」
「シロウ一人で?」
「そこまでなら覚えてる。階段を上がって、窓のある突き当たりを左だろ」
「右よ。最後で間違えてるじゃない」
イリヤが笑った。
俺は言い返せず、セイバーに目を向ける。彼女も、かすかに首を振った。
仕方がない。初めて来た家なのだから、少しくらい間違える。
「じゃあ、もう一度案内してくれ」
「ええ。今度はちゃんと覚えてね」
イリヤはセラに本を取りに行くと告げ、俺を階段のほうへ連れていった。
歩く速さはさっきよりもゆっくりだった。
つないだ手が温まってきても、彼女は離そうとしない。
俺もそのまま、隣を歩いた。