嵐山と中学時代の同級生が自動車教習所に通う話
嵐山18歳の春を想定
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2026年10月15日ウェブサイトにて発表
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赤光

 目深にかぶった帽子が取り払われると、帽子のツバが遮るべき日光よりも眩しい笑顔が現れた。その眩しさを目にした女は、ヘッドライトに射抜かれた鹿のごとく、動きを止める。相変わらず太陽のように全方位平等に輝き、そして、相変わらず太陽のように遠慮のない熱量を放出している男が「久しぶり」と言って、パイプ椅子を軋ませながら立ち上がる。古びた会議テーブルが並ぶ、学校の教室より少し小さな部屋にはまだ男だけしかおらず、女は今、部屋に来たばかりだった。人の少ない部屋はパイプ椅子のたわむ甲高い音が良く響いた。

 

 二列になって並んでいる会議テーブルのうち右の列、その一番前に男は座を占めていた。テーブルには椅子が二つずつセットされており、男は左側を席としているようだった。女は少し考えるように間を置いてから、同じく一番前のテーブルのうち左側のテーブルの右側の席に座ることとした。通路を挟んで男と隣合う席だった。女がパイプ椅子を引くとこれもまた軋んだ音が響き、腰をかければ椅子はまた鳴いた。しかし、そんな老齢の椅子の機微など一向、気にせず、男は女にならって腰を下ろし、腰を下ろされたパイプ椅子の軋みを打ち消す溌剌とした声で質問を投げかけた。

 

「もしかして、スピードコースか?」

 

 女は頷く。そして、問い直す。

 

「嵐山くんも?」

 

 嵐山と呼ばれた男は並びの良い歯を惜しげもなく晒して、にっかりと笑った。是、という意味だった。

 

「元気だったか?」

 

 二人が会うのはおよそ三年ぶりだった。かつて同じ中学校の同級生だった彼らは、別の高校に進学し、卒業以来、会っていなかったのだ。

 

「おかげさまで」

 

 女は頷く。

 

「それはよかった」

 

 疎遠になっていた同級生が息災であったことを心より寿(ことほ)ぐ男の、高潔な慈悲深さを前に、女は眉の辺りを少しむずがらせながら笑みで返し、一つずつ拾い上げるように言葉を選んでは繋いでいく。

 

「本当に、おかげさまだよ。嵐山くんたち、ボーダーの皆様のおかげで、無事、高校を卒業できました」

 

 嵐山は具体的な賛辞を受け、一瞬、目を丸くし、そしてすぐに、丸くした目を細めた。嵐山が所属する防衛組織の皆が命を賭して守る町で、一人の女が無事に高等教育のカリキュラムを修了することができた。外敵に日常を壊されることなく三年間が過ごせた。それを謝している。その謝意に触れた嵐山の肩がふと落ちた。心なしか眉尻も落ちているように見えた。嵐山の様子を見た女の肩も少し下がる。肩の力を抜いた際に吐いた息を小さく吸って、口を開く。女は、かつての同級生に向けて、自分の話をしてみせることにした。

 

「私はさ、行く大学が田舎にあるから車が必要ってことで大慌てで」

 

 スピードコースを選んだ理由だった。二人が再会したこの部屋は自動車教習所の講義室である。これから普通四輪免許ATコースのうち、短期間での取得を目指すスピードコースを選択した生徒に向けたガイダンスが始まる予定だった。

 

「なるほどな。けど、田舎って、どこの大学なんだ? 三門大じゃないのか?」

「〇〇大だよ。薬学部に行きたくて。ここないでしょ?」

「薬学部か。確かに三門大にはないか」

 

 口元に手を当て、嵐山が感心したように小さく唸った。「受験勉強がんばったんだな。おつかれ」。女の労をねぎらう。一方、女にとって、自分が勉学に邁進できたのは、嵐山たちが町を守ることを背負ってくれていたから、という認識だった。昼夜問わず、防衛任務にあたる彼らの方が、幾分も「おつかれ」と言われるに値する。女は眉の端を小さく動かし、微かに首を振る。

 

「嵐山くんは?」

「もちろん、三門大だ。ボーダーお得意の裏口入学ってやつだな」

「裏口って。推薦ってことでしょ? 嵐山くん、優秀だもんね」

 

 謙遜とも自虐ともとれる嵐山の言葉に少しかぶせるように女が言った。女は嵐山がいかに優秀かを知っていた。同じ中学校に通っていた嵐山が、素行も学力も優秀で、市内随一の進学校に推薦が決まりそうだったことを、知っていた。そして、ボーダーへの入隊が決まった嵐山がその推薦を蹴ったことも知っており、その空いた枠で自分が推薦を得たことも知っていたのだ。そのため、嵐山の言葉を否定する女の語気が多少荒くなった。

 

「そんなことを言ってくれるのは君くらいだ」

 

 嵐山は困ったように目を細めながら答える。自分の言葉に非難の色が混じっていたこと、それに対して嵐山がこちらを気遣い、あえて軽い口調で応答したこと。女はそれらを察知し、自身の言動を省みるように視線を微かに左右させてから、気遣いの手を差し伸べる嵐山の言葉に乗ることを選択した。

 

「ふふ。なにそれ」

 

 二人の肩が揺れた。嵐山は丸めていた腰を伸ばすような動作で背もたれに大きく体を預けながら、部屋の中にさっと視線をめぐらせる。部屋には、やはり、二人だけしかいなかった。嵐山は、先ほど女がそうしたように自分の話をしはじめた。

 

「俺は、まとまった休みが取れることになって申し込んだんだ。緊急招集なんかがあるから、どうしても通学で取るのは難しいと思ってたんだが、この休みを利用して一気に取ってしまおうと思って。タイミングがいいことに、少しボーナスが入ったところだったしな」

 

 自己開示の応答を済ませ、嵐山は器用にウインクをしてみせる。

 

「ボーナス。ボーダーってそんなのあるんだ」

「この前、少し大きな戦闘があったから、その分だ」

 

 “戦闘”という言葉を聞いた女は、少し言葉を詰まらせた。しかし、平静を装って頷いてみせた。「へぇ、戦闘、ね」。太陽のような笑顔の男の口から出る言葉にしては剣呑な響きだった。親が教習所の受講料を払ってくれる、教習所だけでない、大学の費用も、大学近くのアパートの賃料も、親に頼っている、いたって“普通”の学生である女にとって、ボーナスという言葉もまた、口にし慣れない言葉であった。

 

 嵐山が、武器を持って、何者かと戦い、傷つけ、時に傷つけられ、それを仕事としており、その危険性に応じた報酬が支払われていること、彼にとってそれが日常であることを、女は知っていた。もちろん知っていた。嵐山がボーダーという防衛組織に戦闘員として所属していることは、この町の人間であれば誰であれ知っているのだ。彼は組織の中でも広報活動の最前線に立つ隊員だからだ。知っていたはずの男の仕事の様子を聞き及び、女は次の言葉を選びあぐねていた。その、女の束の間の逡巡を、嵐山のハリのある声が打ち砕いた。

 

「短い間かもしれないが、同じスピードコースの仲間として、よろしくな!」

 

 目の眩(くら)むような眩しい笑顔を前に、女はかすれた応答の声を漏らしながら、ぎこちない笑みを返す。

 

 報道やSNS等で一方的に目にする機会の多い嵐山の姿を、女が識別するのは容易だが、化粧や染髪を施し、流行りの服を身につけた女を、三年前の素朴な制服姿と結びつけるのはそう簡単ではなかっただろう。しかし、嵐山は一目見て、「久しぶり」と声をかけた。”久しぶり”に触れる、彼の有能さ、誠実さもまた、人付き合いが苦手でもないはずの女の言葉を詰まらせる一因でもあった。

 

「そろそろガイダンス始めますねー。部屋、暑くないですかー? 少し換気しますねー」

 

 部屋に自動車教習所のスタッフが説明用の資料を手にして入ってきた。スタッフは部屋に入るなり、窓を開けた。冬と春の間の、ほんのり柔らかい風が網戸越しに流れ込んでくる。窓の外に見える教習所の場内コースから、乾燥した排気ガスの香りが漂ってくる。嵐山の後ろに流した長い前髪が、新しい季節の気配に揺れていた。スタッフが入ってきた講義室の前方のドアとは反対の、後方のドアから別の受講生が入ってきた。嵐山はさりげない仕草で帽子をかぶり直した。キャップ型の帽子の前に飛び出たツバを顔の方へ引き寄せる。女の視界の端で揺れていた彼の黒髪は帽子の中に隠れた。“同じスピードコースの仲間”である、もう一人の受講生に、嵐山が声をかける様子はなかった。

 

*

 

 一日に学科教習、技能教習を二コマずつ、時に試験に備えた模擬テスト等が加わる。早い時は朝九時から、遅い時は夜八時ごろまで教習所に缶詰となる。嵐山と女の受講するスピードコースはかなりハードなスケジュールだった。ガイダンスで同席していた、もう一人の“同じスピードコースの仲間”はすでに、通常コースへ移行することにしたらしい。一方、夜勤や緊急呼出もある防衛任務をこなす嵐山にとっても、大学受験のため一日中勉強漬けの日々を送ってきた女にとっても、スピードコースの忙しさはさほどの困難ではなかった。むしろ、任務や勉強と異なる日々は新鮮で、苦楽を共にする仲間もいる、充実していると言って良いほどであった。

 

 同じ時間に教習所に集まり、同じ時間に教習車に乗り込み、同じ時間に学科教習を受け、同じ時間に帰る。家族でもない人間と、これほど終始一緒にいることはなかっただろう。相手が嵐山のような人格者でなければ、すぐに嫌気が差していたのではないだろうか。女は、教習車から降り、建物の中に戻ってきた自分を見るや、かぶっていた帽子をわざわざ手に取り、こちらに向けて振りながら「おつかれ!」と声をかける男の顔をしげしげと見た。同様に技能教習で運転の練習をしてきたはずの嵐山に、「そっちもおつかれさま〜。あれやった? すっごいスピード出すやつ」と声をかける。

 

「実際の車を運転するのは、やっぱりまだ緊張するな」

 

 嵐山は眉を下げ、口をへの字に曲げた。何でも卒なくこなすタイプと思っていた嵐山が、自分と同じように慣れない技能教習に緊張すると聞き、女はどこか嬉しそうに同意の言葉を口にする。「わかる。一気に肩こる」。二人同時に首を回したりする。この数日の濃密な時間によって二人の間には気安い空気が醸成されていた。

 

「微妙に時間空くよね。カフェでも行く?」

 

 昼休憩を挟み、その後の一コマが空き時間であった。教習が始まってからの数日間、全て同じスケジュールで動いている二人は、当然のように昼休憩も共に過ごしていた。たいがいは家から持ってきた弁当や、来る途中で買ったコンビニのおにぎりなどを、空いている講義室で食べるだけの昼休憩だったが、食べながら学科の勉強の復習をしたり、午前中の技能講習の指導員の噂話をしたりして、それなりに有意義に過ごすのが常だった。そして、女はこのいつもより長い昼休憩も、もちろん嵐山と過ごすことを前提とし、講義室ばかりではなくたまには外で気分転換でもしないか、と提案したのだった。

 

 教習原簿を返却ボックスに入れる嵐山の横までやってきた女が、昼ごはんは用意してきているが、今日は夜まで教習がある。夜食にとっておいても良いだろう、というようなことを言い、隣に立つ嵐山を見上げる。いつもの快活な調子で返事が聞けるだろうと考えていた。しかし、見上げた嵐山の顔は、深くかぶった帽子のつばの影が濃く落ちているだけで、賛意があるようには見えなかった。

 

 楽しげにカフェの提案をした女の唇が徐々にこわばり、ゆっくり閉じた。自分と二人でカフェに行くなど、したくないかもしれない。そのような仮定に少しも思い至らなかったことに気づいたのだった。当然自分が受け入れられると思っていた慢心が、羞恥へと変態する。状態の変化に伴い発生した熱は、喉からせり上がるようにして、女の首を、顔を、耳を赤く染めていった。

 

 女は嵐山にとっては、偶然同じコースを受講しているだけの、三年間も疎遠だった同級生である。そして、嵐山は誰にも平等に親切で善良であり、久しぶりに会った同級生にももちろん友好的であった。それ以上でもそれ以下でもない。そのことを失念していた。女は内省する。そして、顔に集まっていた熱を飲み込むように一呼吸おき、つとめて快活に言った。いつもの嵐山のように、口をしっかり開け、はっきりと言葉を押し出す。

 

「ごめん、持ってきてるお昼食べるよね。じゃ、また午後の学科で」

 

 女は手に持っていた教習原簿を返却ボックスの投入口に押し込んだ。教習所オリジナルのロゴが箔押しされたクリアファイルが投入口のふちに当たって、カツンと固い音を立てた。

 

「あ、ちょっと、待って—」

 

 そのまま立ち去ろうとする女に、嵐山が声をかける。—そこへ、さらに声がかかった。

 

「あの、すみません……」

 

 二人が振り向くと、女性が立っていた。手にクリアファイルを持っている。同じタイミングで教習を終えた生徒のようだった。

 

「あ、ごめんなさい! 邪魔でしたよね!」

 

 自分の体で返却ボックスの前を塞いでいたことに気づき、女は飛びのくようにして横へずれた。勢いよく動いたため、少しよろけた。よろけた女を支えようと嵐山が手を出すが、女は自分の手のひらを嵐山に向け、それを制した。声をかけてきた女性が何か話そうとしているのが見えたからだった。

 

「嵐山、さん、ですよね? ボーダーの……!」

 

 声をかけてきた女性は遠慮がちに、しかし、どこか期待と興味が隠しきれない熱量をたたえた眼差しを嵐山に向けた。自分が邪魔だったかと問うた女の言葉も、声をかけた自分のために体をずらした反動でよろめく女の姿も、認識の外にあるようだった。

 

「はい、そうです」

 

 帽子のつばの下で何か考えている様子だった先ほどの表情とも、その少し前の教習を終えて受付に戻った女に「おつかれ!」と声をかけた時の表情とも違う、しかし彼がよくする笑顔が、瞬間に形作られた。その顔の筋肉の挙動の素早さに軽い慄き(おののき)を覚えつつ、女は嵐山の背後へと静かに退く。

 

「やっぱり! あの、いつも応援してます!」

「ありがとうございます」

 

 嵐山は片手で軽く帽子を持ちあげ、顔に光を当てた。ロビーの昼白色の照明に、良く通った鼻筋が光った。瞳が光を集めて輝き、溢れる歯は純白にまたたく。あらわになった嵐山の顔を見て、声をかけた女性は息を呑むような小さな悲鳴を漏らした。

 

「こんなところで会えるなんて……! よかったら、あの、握手、してもらえませんかっ?」

「ええ、もちろん」

 

 声をかけてきた女性と嵐山のやりとりが長くなりそうだと判断したのだろう、後ろに退いていた女はその場を離れた。嵐山はカフェに行くつもりがないだろうから、一人で行ってしまおうか。その旨を一声かけた方が良いだろうが、そのためだけに彼らの会話を中断させるのも気が進まない。すぐに終わるようであれば声をかけることとし、終わらないのであれば一人で行ってしまおう。どうせ、午後の教習が始まれば顔を合わせるのだから。女の中で方針が定まり、同じロビー内の休憩コーナーにあるテーブルセットにしばし腰を落ち着けることとした。

 

 通路を挟んで隣あって座った講義室や、見上げなければ顔を見れないほど近くに並び立った教習原簿の返却ボックスの前の嵐山の姿ではなく、この三年間、話す機会などなかったニュースやポスターの中の嵐山の姿が少し離れたところに見えた。応援してくれる人へ向けた輝くような笑顔、街を守るという言葉が空虚に聞こえない程度には平均よりも恵まれている大きな体躯、守るべき市民を決して邪険にすることのない柔らかな物腰、その中に揺るぎない信念が見え隠れする。目の前の男が、良く知った友人である嵐山から、良く知った有名人の嵐山に変貌する。女は放心気味に、嵐山とそのファンの女性の姿を眺めていた。その奥に、受付カウンターの横の壁にかかる時計が見えた。すでに昼休憩時間は始まっていた。時間を確認すると腹が減ったような気がした。さすがにもう一人でここを出よう、女はカバンの内ポケットにしまい込んでいた携帯電話を取り出す。カフェまでの道順を調べようとした。

 

「え、嵐山准だ」

「ボーダーの? なんでこんなとこに」

 

 カフェの名前を地図アプリに打ち込んでいる女の耳にざわめきが聞こえだす。最初に声をかけた女性のはしゃぐ様子を見て、周囲の人間が嵐山の存在に気がつきはじめたようだった。自動車学校のロビーには、時期的に春休みを利用して通っている学生も少なくなく、あっという間に数人が嵐山の周りを取り囲むこととなった。

 

 女は休憩用に置かれたプラスチックの座面を持つ椅子から少し腰を上げる。ガタンと硬い音がしたが、嵐山を覆うざわめきにかき消される。少し持ち上げた腰を下ろすこともできず、かといって彼の方へ歩み寄ることもできないまま、女は何か逡巡していた。逡巡している女の目には、変わらず爽やかな笑顔を浮かべる嵐山が見えていた。

 

「ありがとうございます。では、次の予定がありますので。みなさん、教習頑張ってくださいね!」

 

 自身を囲んでいた数人の輪を自ら抜け出し、嵐山は女の元へやってきた。出入口の方へ目配せをする。外へ行こうと言うのだった。小さく頷いた女が尻で椅子を押し出すように立ち上がると、再び椅子がガタンと硬い音を立てた。今度は、その硬い音がロビーに良く響いた。

 

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 結論、二人はカフェでサンドイッチとコーヒーをテイクアウトし、いつもの空き教室に戻ることとした。昼時のカフェは混んでおり、公園などでは人目につくからだった。

 

 外出して戻ってきてからの昼食となったため、いつもの時間より少し遅れたランチタイムは、もはや午後一番の授業の開始時間に近く、まもなく隣の教室に人が集まる音が聞こえ始めていた。嵐山は教室の出入口扉をそっと閉めた。空き教室での飲食は本来認められていないのだが、ロビーなどにいると人目について先ほどのようなちょっとした騒ぎを起こす可能性があるため、教習所に頼んで使わせてもらっている。カフェから教習所へ戻る道すがら、嵐山は女に言った。女は、嵐山の昔からの友人であるということで、使用を黙認されていたということだ。

 

 出入口扉を閉めた嵐山は長い足で教室内を横断し、次に窓を大きく開けた。特別に使用を許されている教室に食べ物の匂いがこもらないよう配慮してのことだった。開け放たれた窓から排気ガス臭い風が吹き込む。嵐山の黒髪が揺れていた。この教室に入った嵐山は帽子を脱いでいた。

 

「カフェに行けなくて、すまない」

「いいのいいの。てか行けたっちゃ行けたわけだし。イートインはまた今度、機会があれば、ね」

 

 嵐山は「一人で行ってくれて良かった」とは言わず、女は「今度一緒に行こう」とも言わない。儀礼的に言葉を交わし、小さく頷き合い、そして、違う話題を探る。

 

「にしても、人気者は大変だね。嵐山くんの日常ってあんな感じなの?」

 

 女はカフェでテイクアウトしたバインミーにかじりつきながら言った。口の端からこぼれ落ちそうなパクチーの茎を指で押し込む。硬いパンを咀嚼しながら返答を待つが、飲み込む頃になっても返事はなかった。嵐山は一口でかじるには骨が折れそうな厚みのパストラミサンドを両手で持ち、じっとその断面を見つめている。バインミーにするかパストラミサンドにするか、カフェの陳列棚の前で大いに悩んだ女もまた、男の選んだサンドイッチの断面を見つめる。人の食事を見つめるにしては不躾と思われる程度には時間が経つも、嵐山はサンドイッチをかじることはおろか、返答すらせず、口をつぐんでいた。

 

「嵐山くん?」

 

 汗をかき始めているアイスコーヒーのカップを自分の方へ引き寄せながら、女は嵐山に声をかける。勉強をするはずの会議テーブルの上に、結露の雫が尾を引いた。

 

「准」

 

 紙袋に覆われたストローが差し出される。嵐山が女の前に差し出したのだった。女は数秒ぶりに口を開いた男を見上げる。相変わらず嵐山の顔は笑みをかたどっていたが、見慣れたそれよりもいくらか眉尻が下がっているようだった。

 

「って、呼んでくれないか?」

 

 差し出されたストローを受け取りつつ、女はオイルのさされていないブリキオモチャ並みにぎこちなく頷いた。断る理由はないが、この提案の真意がはかりかねた。

 

「いや、その、嵐山って名前、あんまりいないだろ? ボーダーの嵐山だってすぐ知れてしまうから……」

 

 紙がよじれる音がかすかにした。嵐山の指がパストラミサンドを覆う紙袋にくいこんだ音だった。なかなか食べてもらえないサンドイッチが居心地悪そうに傾いている。

 

「あ、そうだよね。ごめん、配慮が足りず」

「いや、いいんだ。ただ、君にも迷惑がかかってしまうから」

「迷惑だなんて」

 

 女はストローの包装をむしりとり、アイスコーヒーのカップに差し込んだ。ストローがザクザクと音を立て氷をかき分ける。すぐに一口飲み込んだ。酸味の強いコーヒーだった。窓から風が吹き込む教室で飲むならホットコーヒーにすれば良かった。女はちょっとした後悔を口にしかけ、その言葉を押し戻すようにバインミーをもう一口かじった。嵐山もやっとパストラミサンドにかじりついた。分厚いサンドイッチにかぶりつく男の口の大きさに驚いた女が「え、一口でいけんの」と笑うと、嵐山は少し恥ずかしそうに頬を持ち上げて笑った。

 

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 教習所の閉館時間が迫り、女はPC学習室を出た。正面玄関から出ようと、ロビーを通りがかると、夜にも関わらず深く帽子をかぶった嵐山がいた。技能教習を終えたところらしい。ほぼ全ての教習を同じ時間に受けてきたスピードコースの仲間である嵐山は、今日は用事があって午後の技能教習を休むと言っていた。その補講を終えたところなのだろう。

 

「どうしたんだ、こんな遅くまで」

 

 驚いた様子を隠さない嵐山が聞く。同じコースを受けている嵐山は、女のスケジュールにこの時間まで教習や講義が入っていないことを知っていた。時刻は夜の八時。外はすっかり暗かった。

 

「パソコン室で効果測定の勉強してた」

 

 今日は午後からしか教習が入っていなかったこともあり、体力が余っていた。家に帰ってもだらけるだけだろうから、教習所のPCで学科の勉強をしてから帰ることにした。女は簡単に説明を加える。

 

「そうか。偉いな」

「偉いって。仕事してから来たんでしょ。准の方が偉いよ」

 

 今日の午後の教習を休んだのは、仕事場から臨時ミーティングの招集がかかったからだということを、女は嵐山本人から知らされていた。いるはずの人間がいないとなれば心配をかけるだろう、という配慮から、嵐山は今日の欠席について女に連絡していたのだ。教習所で再会してすぐに、二人は連絡先を交換しており、時折、業務連絡程度のやりとりを交わすようになっていた。

 

 とはいえ、空いた時間をどのように過ごしているか、例えば、教習所の学習室で勉強してから帰ることにした、だとか、その日のうちに補講が受けられることになったので夕方には教習所に行く、だとかの詳細なやりとりまではしない。そのため、互いが今、ここにいることに驚いていた。驚きはしたものの、このところ毎日見ていた同志の顔を今日も見れたことは喜ばしく感じていた。そして、互いがその喜びを共通して持ち合わせている、ということを、それぞれ感じ取ったのか、どこか照れ臭そうに微笑みあいながら、出入口の自動ドアをくぐった。

 

「送っていくよ」

「え、いいよ。疲れてるでしょ」

「疲れている時は、女性が一人で暗い夜道を帰るのを送らなくても良い、って問題があったなら答えはバツなんじゃないか? そもそも、それほど疲れていないしな」

「うーん。じゃあ、途中までお願いします」

 

 嵐山は自転車置場に自転車を取りに行くという。女は送ってもらうために、自転車置き場から戻ってくる嵐山を待っていた。相変わらず帽子を目深(まぶか)にかぶっている男の顔を、待つ女の背後にある教習所の明かりが真横から照らしては濃い陰影を刻むので、その整った顔立ちはむしろ目立って見えた。女は自分の目の前に嵐山が来るのを待たず、教習所のあるブロックから大通りに抜ける生活道路に進む。ポツポツと街灯があるだけの狭い道路は暗かった。すぐに嵐山は女の隣に追いついた。

 

「昔から、勉強家だとは思っていたが、やっぱり偉いな」

 

 自転車のタイヤが回る乾いた音が小さく鳴り続けている。嵐山は器用にも片手で自転車を道路側に並走させ、女を歩道側に歩かせた。歩道といっても、車道と歩道を区切る白線すらないような狭い道だった。

 

「図書館でよく勉強してるだろ? 時々、見かけてたんだ」

 

 中学校卒業以来、会っていなかった。しかし、一方的に見かけることがあった。それはお互い様だということだった。女が町の図書館を時折訪れていたことは事実である。家では漫画やら動画やらと誘惑が多いので、通常であれば予備校の自習室で勉強するのだが、自習室が混雑しているときや、予備校が開いていないときなどは、近所の図書館に行くのだった。その様子を見かけていた、と嵐山は言う。

 

「えぇ、はず。てか、図書館、よく行くの?」

 

 勉強する時の自分の姿を思い起こした女は、話題を変えることにする。勉強するためだけに行く図書館では、ろくにクシも通していない髪を雑にくくり、化粧はおろか、コンタクトも入れず、長年使っているガタガタのメガネだけを身につけていたはずだ。見られていたとはいえ、わざわざ思い出してほしい姿ではない。

 

「弟と妹の付き添いでな。最近はあまり行かないが」

「へー、弟と妹がいるんだっけ」

「かわいいぞ。見るか?」

「どれどれ」

 

 嵐山が携帯電話を開く。写真フォルダから弟たちの写真を見せてくれるのかと思いきや、開けばすぐに彼らの写真が待受画像に設定されていた。この待受の画像や、言葉からするに、嵐山は弟妹を非常に愛しているらしい。微笑ましい限りである。

 

「車の免許が取れたら、副と佐補を一番に乗せてやりたいんだ」

「それはいいね」

 

 夏はキャンプやプールに連れて行ったら喜ぶだろうな。携帯電話の明かりで照らされた嵐山の顔は、女が見たことのあるどの笑顔とも違った。女の歩くスピードが少し遅くなった。

 

「そっちは?」

「ん?」

「誰を一番に乗せるんだ?」

「うーん。決めてないな」

 

 車のヘッドライトが二人の足元から舐めるように道路に伸びた。後ろから車が近づいているようだった。嵐山は少し立ち止まり、自転車を歩道の方へ寄せる。自分の身も女の方へ少し寄せた。住宅の塀と嵐山の体に挟まれた女もじっと、車が通り過ぎるのを待った。暗くて細い道に歩行者など、運転者にとって嫌すぎるシチュエーションであることを、路上教習の始まった二人は良く分かっていた。立ち止まっている間、女は、近づいた嵐山の体から、うっすらと輻射熱を感じていた。嵐山は、顔のすぐ近くにある女の髪からトリートメントか整髪料だろう、花のような香りが漂ってくるのを感じていた。

 

 まもなく、二人は大通りに出た。背の高い街灯や、遅くまで開いているファミレスなどの明かりで道は明るい。女は、家の前まで送ると言う嵐山を置いて、家路の方面へ横断歩道を足早に渡った。「また、明日ね!」。四車線の道路の対岸に向けて、手を振った。この大通りは、教習で良く走る道路だった。

 

-

 

 路線バスの後部、二人がけの座席はあまり広いものではない。人より少し大きい嵐山は窮屈そうに、その長い足を折りたたんで座席に体を収めている。横に座る女のスペースを侵食しないようつとめているようだった。

 

「免許センターってなんでこんな山奥なわけ? 免許持ってない奴らが行くっていうのにさ」

 

 自動車教習所での教習を終え、卒業検定に無事合格した二人は、最後の学科試験を受験するため地域の免許センターに向かっていた。免許センターは市街地から離れたところにあり、電車とバスを乗り継いで行く必要がある。数の少ない路線バスは、免許センターに向かう人で混雑していた。

 

「いいじゃないか。のんびりできて」

 

 帽子のつばを引っ張りながら、嵐山が笑った。相変わらず眩しいほどの白い歯がこぼれる。広報の仕事をするようになり、歯のホワイトニングに定期的に通っているらしい。努力の賜物であるその白さを前に、女は以前ほど居心地の悪さを感じることはなかった。単に見慣れただけかもしれなかった。

 

「帰りにさ、さっきの駅でなんか食べて帰ろ」

「いいな」

「何食べたい?」

「選ぶほど店があるかどうかってところだろうな」

「確かに」

 

 三十分に一本程度しか電車がやってこないローカル線の小さな駅を思い出し、二人の肩が揺れる。狭い座席に押し込められた二人の肩は触れ合っている。二人はその振動を共有する。バスが揺れる。人里離れた免許センターに向かう坂道を登り始めたようだ。カーブで揺れる体を揺れるままに任せ、女の体は嵐山にもたれかかる。一方、逆のカーブでは自身より小柄な女に体重がかかりすぎないよう嵐山は踏ん張っていた。

 

「あっという間だったな」

「とれちゃうもんなんだね。免許」

 

 まだ取れたわけではないんだけど。女が付け加える。これから二人は学科試験を受ける。この試験に合格すれば、即日、免許が発行される。何事もなければ、帰りのこのバスの中では運転免許を携えているはずだ。そして、あの毎日通った教習所に行くことはなくなる。

 

「あのさ、前、話したじゃん? 一番に乗せる人は誰にするかって」

 

 窓際に座る嵐山を、女は見やった。窓の外は放置されたような竹林が続いていた。竹林の緑が流れる車窓に、嵐山の横顔が写っていた。帽子の影では隠しきれない、高く通った鼻のシルエットが竹の葉に重なる。

 

「ああ」

 

 嵐山は目線だけで女の方を見た。顔を向けると、顔同士が近づきすぎる。バスの座席は狭かった。

 

「乗せてあげよっか」

 

 女も目線だけで嵐山を見る。バッグを抱える手の、指だけを動かして嵐山の方へ向けた。

 

「俺をか?」

 

 目線だけで応答していた嵐山は思わず顔を動かして、女の方に向けた。女も、顔を少し嵐山の方へ向ける。目が合う。近かった。たじろぐように女は目線を落とし、嵐山の方へ向けていた指を上下に揺らした。

 

「卒業おめでとう記念ドライブ、しようぜ?」

 

 嵐山も上下に動いている女の指へ視線を向け、その指に向けて返事をする。

 

「いいな、しよう」

 

 再び目線だけで互いを見る。微笑み合う。

 

「ただ」

 

 バスがガタンと大きく揺れた。免許センターについたようだった。広いロータリーをバスがぐるりと回る。揺れに女の体が大きく傾く。その体を嵐山が受け止めた。先日の教習原簿返却ボックスの前でのように断る隙もなかった。女を受け止めた嵐山の体はぶつかったところでビクともしなかった。女の肩を支える手は大きく、春物のコート越しに、その手の熱が女の皮膚へと伝播した。女の頭上で嵐山は言葉を続ける。

 

「あまり遠くへはいけないんだ」

 

 自分を抱きとめた嵐山の息が、つむじあたりの髪を揺らすのが女には分かった。

 

「……うん。私こそ、遠くまで行く自信はまだないかな」

 

 バスが止まる。免許センターの正面玄関の目の前だった。

 

「まぁ、まずは学科試験に受からないとだね」

「大学受験に比べれば、余裕だろう?」

「なんでよ」

「がんばろうな」

 

 学科試験には二人とも合格し、無事に普通運転免許を受け取った。帰り道に寄ろうと考えていた最寄駅の飲食店は小さなそば屋だけで、同様のことを考えていたらしい免許取立ての人たちで溢れていたため諦めることになった。地元の駅に戻ってから、どこかに寄るという案もないではないが、地元に近づくほど嵐山を知る人間が多いため不都合であることは女もいい加減承知しており、議論の俎上にすら上がらなかった。果たして、二人は来た道をそのまま帰り、地元の駅で別れた。嵐山は、そのままボーダー本部へあいさつに行くそうだった。

 

-

 

 警戒区域にほど近いコインパーキングは、ゲート式の上、比較的広く、若葉マークをつけた運転初心者に易しい形状をしていた。両隣の空いた奥の方の車室に、若葉マークをつけた黒い軽自動車が停まっている。エンジンは切ってあるが、運転席に人が乗っていた。その運転席の窓をコツコツと叩く音がする。叩いたのは防衛任務を終えたばかりの嵐山だった。

 

「こんな時間になって悪かった」

 

 車の前方をぐるりと回り、嵐山は助手席側のドアを開けた。手に持っていた缶コーヒーを運転席の方へ差し出す。運転席に座る、スピードコース仲間であった女は受け取った缶コーヒーを両手で包むようにして持った。缶コーヒーは温かかった。春先とはいえ、エンジンを切った車内は寒く、冷えた指に熱が染み込むのが心地よかった。

 

「お勤めご苦労様」

 

 ダッシュボードに取り付けた携帯電話スタンドに手を伸ばし、女は音楽アプリを停止する。かけ流していた音楽が止まった。缶コーヒーのプルタブを引っ張ろうとする爪の音が何度か鳴る。冷えた指先がうまくプルタブを引けない様を見て、嵐山が無言で手を差し出す。女も無言で缶コーヒーをその手にゆだねる。

 

「夕食は食べたか? いや、もはや朝食か」

 

 時刻は朝の五時だった。帰宅困難区域に指定されたため暗闇に沈む住宅街の向こうの空がうっすらと白んできていた。

 

 免許取得から、女の大学進学のための引っ越しまで間がなく、嵐山は嵐山ですぐに仕事が再開し、“卒業おめでとう記念ドライブ”の決行日を選ぶのは至難の業であった。結論、嵐山の夜勤終わりを狙った、この日時しか都合がつかなかったのである。女の家族は、あまりに早い時間の外出に驚いていたが、早朝の車の少ない時間帯に運転の練習をしたい、などというとってつけたような理由に、ある程度納得した様子であった。

 

「軽く。准は?」

「実は何も」

 

 仕事を終え、とにもかくにもこのコインパーキングを目指したらしい嵐山は、もちろん何も食べておらず、その旨を示すように両手で腹を押さえてみせた。

 

「じゃあ、初めてのドライブスルーチャレンジしてみようかな」

「行けるか?」

「私はクランクで一度もぶつけたことのない女だぞ?」

「それは頼もしい」

「運転に集中するから、注文は任せた」

「わかった、任せてくれ」

 

 百円ショップで購入した携帯電話スタンドはすぐに画面が俯いてしまう。その俯く画面を持ち上げて、女は近くにある二十四時間営業の牛丼屋へのルート検索をする。街道沿いのその店にはドライブスルーがあったはずだ。ハンバーガーショップもあった気がするが、仕事帰りの嵐山には牛丼の方が腹に溜まって良いのではないかと考えてのことだった。

 

 免許を返納した祖母からゆずってもらった五年ものの軽自動車は、教習車のセダンタイプよりもずっと運転しやすく、早朝の道はすいており、女の運転する車はすぐに牛丼屋についた。ドライブスルーに並ぶ車はなく、非常にゆっくり進んだところで、誰にも迷惑をかけないというのも安心だった。

 

「牛丼、大盛りお願いします。豚汁に変更で」

 

 顎を引くようにして身を避ける女の顔の前に、嵐山の顔が伸びている。運転席側の窓の外にあるマイクに向かって注文をしている。

 

「他には?」

 

 軽自動車の車内は狭く、上背のある嵐山が少し身を乗り出すと、運転席を軽々横断できるほどだった。目の前の嵐山の顔が自分の方へ向いた時、その余りの近さに女は、内心ギョッとしていた。言葉を詰まらせながら、答える。

 

「えっと、私も! 豚汁!」

「豚汁単品?」

 

 ドライブスルーには他に客もいないが、なぜか慌ててしまう様子の女は、小さく、しかし何度も頷いて、肯定の意を嵐山に伝える。自分の方がマイクに近いのだから、自分で注文すれば良い、ということが頭から抜けてしまっているようだった。

 

「すいません、豚汁、単品で一つ」

 

 注文を終え、ゆっくりと車を進める。「ひぇ〜、緊張した〜」。まだ注文をしただけで、ドライブスルーというイベントを完了したわけでもないというのに、なぜか安堵のため息を漏らしている女を見て、嵐山はカラカラと楽しそうに笑った。商品受け渡し口の店員は、軽自動車の助手席に座る男が、町の有名人であるボーダーの嵐山隊員であることに気づいていないのか、興味がないのか、気怠げに牛丼と豚汁二杯の入ったビニール袋を突き出すだけだった。

 

「食べたら眠くなった?」

「いや……、うん、そうかもしれない」

 

 腹が減っているだろうからすぐに食べろ、と半ば強引な指示で、女は嵐山に牛丼を食べさせた。女は運転を続けており、豚汁にはまだ手をつけていない。狭い車内は牛丼の甘ったるい香りで満ちた。嵐山が車内の暖房に気を遣いながら細く窓を開けると、夜明けどきの少し湿気の混じる冷たい風が入り込んできた。今日は帽子をかぶっていない嵐山の黒髪が、風に揺れている。足元に吹き付ける暖房の暖かさ、程よく満たされた空腹、眉のあたりを撫でていく朝焼けの香りの冷たい風、信号に引っ掛かっては停止と発進を繰り返す車の振動。眠気に誘われるには十分な条件が揃っていた。

 

「寝てもいいよ」

 

 シート、倒しなよ。女は嵐山の座る助手席の背もたれを軽く叩いた。

 

「運転してもらってるのに悪いだろ」

 

 ドリンクホルダーからペットボトルを取り、嵐山はごくごくと喉を鳴らしながら水を飲んだ。

 

「寝れるくらい私の運転が安心だってことでしょ?」

「高速じゃないからな」

「まだ言う」

「高速教習の時は、一生、合流車線にいるのかと思ったな」

 

 嵐山は、教習所の高速教習で同乗した際、女がなかなか本線に合流できなかったことを思い出しては、女をたびたびからかった。そう言う嵐山も高速を降りてすぐはスピード感覚が麻痺しており、急ブレーキで女や教官を驚かせていた。これもまた女からの反撃のカードとして良く用いられた。

 

「寝てる間に高速乗って知らない街に連れてったっていいんだからね」

「はは、それはいいな」

 

 軽自動車は街中から抜け出し、河川敷と平行する片側一車線の道へやってきていた。河川敷、川、対岸、さらにその向こうに高速道路の高架が見えた。二人が教習で走った高速道路だった。

 

「大学、あの高速に乗って行くのか?」

「そう、五時間くらいかかるかも」

 

 居眠りしている嵐山を本当に遠い街へ連れて行ったなら、たとえば、数日後には女が一人で暮らし始める大学の他には何もないような田舎町に連れて行ったなら、彼はどんな顔をするだろうか。次の防衛任務までに帰らなければ、と焦るだろうか。もはや、誰かを傷つけたり傷つけられたりするような戦闘に参加せずにすむ、と安堵するだろうか。他者のために自分の命を軽々差し出すなど狂気であった、と気付くだろうか。女は、車はおろか、人も動物もいない早朝の道路であることをいいことに、運転から少し心を離していた。隣に座るのが教習所の指導員だったなら、上の空での運転を注意されていたかもしれない。

 

「……そんなに遠いのか」

「うん……」

 

 河川敷の野球グラウンド横の広い駐車場にやってきた。車を止め、二人は少し冷めた豚汁をすする。河口に近いそこからは海辺に並ぶ工場の煙突、置き去りにしてきた自分たちの住む町に散らばる街灯の列、高速道路の高架とそれに交差する新幹線の線路、夜明けの明かりに消されて行く星々が良く見えた。街が起きて行く。女の引っ越しの日が近づく。嵐山は今日の午後にはまた仕事に出るらしい。

 

「大学の夏休みって、長いんだろ?」

「そうらしいね」

「その……、帰って、来るんだよな?」

「ふふ。なにそれ。お父さんみたい」

「笑うなよ」

 

 赤く染まり始めた日光が、フロントガラス越しに車内に深く差し入った。帽子もかぶらない嵐山の顔を、胸を、体を、朝日の赤が無遠慮に染めて行く。嵐山に赤は良く似合った。女にとって、嵐山と赤の組み合わせが見慣れているだけかもしれなかった。

 

 やっぱり少し寝てもいいか、と嵐山はシートを倒した。瞼をそっと閉じる。輝く澄んだ瞳も、またたく白い歯も、形良く整えられた笑顔もない嵐山の寝顔を見下ろし、女は手の中の車のキーを握りしめていた。

 

終

 

♪キンモクセイ「二人のアカボシ」


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