星野ルビーは、兄より先に復讐を終わらせる 作:M1tarash1
収録中、星野ルビーは三度、時計を見た。
一度目は、番組が始まって二十分ほど経った頃。
二度目は、共演者の若手俳優が長々と失敗談を披露している最中。
そして三度目は、司会者から突然話を振られたときだった。
「ルビーちゃんはどう? 最近、仕事で困ったこととかある?」
「えっ、私ですか?」
しまった。
完全に油断していた。
しかし、そこはアイドルである。
「ありますあります! この前、朝五時集合のお仕事があったんですけど、起きたら五時だったんですよ!」
「それ、もう遅刻じゃん!」
「そうなんです! だから人生で一番速く着替えました!」
スタジオに笑いが起こる。
司会者が大げさに驚き、共演者が突っ込み、スタッフが笑う。
ルビーも笑った。
けれど、頭の中では別のことを考えていた。
――まだ、いるかな。
廊下で出会った、あの男性。
母親に似ていると言った人。
収録が終わるまでいると言っていた。
それなら、あと少し。
あと少しだけ、待てばいい。
「いやあ、ルビーちゃんって本当に元気だね!」
「それだけが取り柄なので!」
「そんなことないでしょ!」
再び笑いが起こる。
ルビーは笑顔のまま、膝の上で両手を握った。
早く。
早く終わって。
そんなことを考えながら仕事をするのは、初めてだった。
◇
「はい、オッケーです! お疲れさまでした!」
スタッフの声とともに、スタジオの空気が緩んだ。
「ありがとうございましたー!」
ルビーは立ち上がり、深く頭を下げる。
共演者たちにも挨拶を済ませ、控室へ戻った。
鏡の前に座る。
メイクを落とす前に、スマートフォンを取り出した。
ミヤコからメッセージが届いている。
『収録お疲れさま。終わったら連絡してね』
ルビーは少し考えてから返信した。
『終わったよ! スタッフさんに挨拶してから帰るね!』
送信。
嘘ではない。
実際、スタッフに挨拶するつもりなのだから。
ただし、その目的は少し違う。
「……よし」
ルビーは立ち上がった。
廊下に出る。
スタッフたちが機材を片づけたり、出演者を見送ったりしていた。
あの男性の姿を探す。
いない。
さっき話していた場所にも。
スタジオの入口にも。
廊下の奥にも。
「……帰っちゃった?」
胸が冷たくなった。
せっかく見つけたのに。
名前さえ聞けなかった。
ルビーは唇を噛む。
けれど、すぐに首を振った。
まだ決まったわけじゃない。
探せばいい。
それだけだ。
「あの、すみません!」
近くにいた女性スタッフに声をかける。
「さっき廊下にいた、年配の男の人ってわかりますか? 昔の芸能界のお話をしてくれた人なんですけど……」
「ああ、もしかして篠原さん?」
「しのはらさん?」
「そうそう。制作協力で来てる人。今、奥の会議室にいると思うよ」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
ルビーは頭を下げた。
篠原。
それが、最初に手に入れた名前だった。
◇
会議室の扉は、少しだけ開いていた。
中から男性の声が聞こえる。
「……だから、来月の企画はもう少し予算を抑えて……」
ルビーは足を止めた。
仕事中だ。
今、邪魔をするのはよくない。
廊下の壁に寄りかかり、スマートフォンを取り出す。
画面を眺めるふりをしながら待った。
五分。
十分。
十五分。
やがて、扉が開いた。
「あれ?」
出てきた男性が、ルビーに気づいた。
「君、さっきの……」
「あっ! お疲れさまです!」
「お疲れさま。どうしたの、こんなところで」
「さっきのお話、もうちょっと聞きたくて!」
男性は目を丸くした。
「わざわざ待ってたの?」
「はい!」
「はは。熱心だねえ」
ルビーは笑った。
男性も笑う。
その笑顔には、特に警戒した様子はなかった。
「そういえば、自己紹介がまだだったね」
男性は胸元のパスを外した。
「篠原修一。昔はテレビ局で制作をやってて、今は独立して番組の企画や制作協力をしてる」
「篠原さん!」
「そう。よろしくね、ルビーちゃん」
「よろしくお願いします!」
ルビーは頭を下げた。
篠原修一。
テレビ局の元制作スタッフ。
現在は独立。
頭の中に、一つずつ情報を並べる。
この人は、昔の芸能界を知っている。
そして、ママのことも。
「それで、さっきの話なんですけど……」
「ああ、君のお母さんに似てるって話?」
「はい!」
ルビーは頷いた。
「どんな人だったんですか?」
篠原は少し考え込んだ。
「……いや、正直に言うとね。僕も直接親しかったわけじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。昔、あるアイドルグループの仕事に少し関わったことがあってね」
ルビーの心臓が跳ねた。
アイドルグループ。
まさか。
「……そのグループって?」
「B小町。昔の方のね」
呼吸が止まりそうになった。
けれど、ルビーは笑顔を崩さなかった。
「へえー! 私たちと同じ名前!」
「そうそう。君たちが名前を引き継いでるって聞いて、懐かしくなったよ」
「その頃のB小町って、どんな感じだったんですか?」
「まだ今ほど有名じゃなかった時期もあったし、いろいろ大変だったみたいだよ」
篠原は苦笑する。
「でも、星野アイって子がいてね」
名前が出た。
ママの名前。
ルビーは膝の横で、拳を握った。
「……星野アイ?」
「うん。すごく目を引く子だった。ステージに立つと、自然と視線が集まるんだよ」
知っている。
そんなこと、誰よりも知っている。
ルビーは頷いた。
「……すごい人だったんですね」
「そうだね。あの子は、特別だったと思う」
篠原の声が少しだけ柔らかくなった。
「君、笑ったときの目元が少し似てるんだよ」
「えへへ。嬉しいなあ」
ルビーは笑った。
胸が痛かった。
でも、笑った。
「篠原さんは、アイさんとお話したことあるんですか?」
「何度か挨拶した程度かな。僕は番組全体の進行を見てたから、個々の出演者と話す機会は少なくて」
「そっかあ……」
「ただ、当時の担当者ならもっと詳しいと思うよ」
ルビーは顔を上げた。
「担当者?」
「うん。出演交渉とか、事務所とのやり取りをしてた人」
「その人、今も芸能界にいるんですか?」
「いるよ。少なくとも去年までは仕事で名前を見かけた」
ルビーは身を乗り出しかけた。
慌てて、背筋を伸ばす。
「へえ! すごい!」
篠原が笑う。
「そんなに昔のB小町に興味あるの?」
「もちろんです! 私たちの先輩みたいなものですから!」
「なるほどね」
篠原は納得したように頷いた。
そして、少し考えてから言った。
「……そうだな。名前くらいなら教えても問題ないか」
ルビーの心臓が、また大きく鳴った。
「当時、番組の出演交渉を担当していたのは、久我って人だよ」
「……くが?」
「久我直人。今は別の制作会社にいるはずだけど」
ルビーは、その名前を頭の中で繰り返した。
久我直人。
久我直人。
忘れない。
絶対に。
「……ありがとうございます!」
「いやいや。そんな大した話じゃないよ」
篠原は笑った。
「ただ、もうずいぶん昔のことだから、本人が覚えてるかどうかはわからないけどね」
「それでも嬉しいです!」
ルビーは深く頭を下げた。
篠原は軽く手を振る。
「じゃあ、僕はそろそろ戻るよ。また現場で会ったらよろしくね」
「はい! ありがとうございました!」
男性が廊下の向こうへ歩いていく。
ルビーは、その背中が見えなくなるまで頭を下げていた。
そして。
一人になった瞬間、スマートフォンを取り出した。
メモアプリを開く。
『篠原修一』
『元テレビ局制作スタッフ』
『旧B小町の仕事に関わった』
『久我直人』
『当時の出演交渉担当』
指が少し震えていた。
怖いからではない。
嬉しいからでもない。
ようやく、何かが動き始めた。
その実感が、胸の奥を熱くしていた。
「……久我直人」
ルビーは、小さく名前を呟いた。
この人なら。
ママのことを、もっと知っているかもしれない。
ママが誰と会っていたのか。
誰と仕事をしていたのか。
誰に恨まれていたのか。
そして。
ママを奪った人間につながる、何かを。
◇
帰りの車の中。
「どうだった? 今日の収録」
運転席のミヤコが尋ねた。
「めっちゃ楽しかった!」
「そう。よかったわ」
「あとね、昔のB小町を知ってる人に会った!」
「……え?」
ミヤコの声が少し変わった。
ルビーは窓の外を見たまま続ける。
「篠原さんって人! 昔、テレビ局で働いてたんだって!」
「篠原……?」
「知ってる?」
「名前だけじゃわからないわね」
「そっかー」
ルビーは軽く笑った。
ミヤコはバックミラー越しに、ルビーを見た。
「……その人と、何を話したの?」
「昔のアイドルの話!」
「そう……」
それきり、ミヤコは黙った。
ルビーも、それ以上は話さなかった。
嘘はついていない。
ただ。
全部を話していないだけ。
◇
その夜。
ルビーは自室の机に向かっていた。
スマートフォンには、検索結果が並んでいる。
『久我直人 制作会社』
『久我直人 テレビ』
『久我直人 B小町』
いくつかの記事。
古い番組のスタッフ一覧。
制作会社の紹介ページ。
しかし、思っていたほど情報は出てこなかった。
「……全然わかんない」
ルビーは椅子の背にもたれた。
名前がわかったからといって、すぐに会えるわけではない。
そもそも、相手が今どこで働いているのかもはっきりしない。
芸能界には、同じ名前の人だっている。
間違った相手を追いかけるわけにはいかなかった。
「……どうしよう」
思わず呟く。
すると、スマートフォンが震えた。
ミヤコからだった。
『来週、制作会社との打ち合わせがあるんだけど、ルビーも同席してみる?』
ルビーは目を瞬かせた。
続けてメッセージが届く。
『最近、仕事の仕組みに興味があるみたいだから。勉強になると思うわ』
「……ミヤコさん」
胸が少し温かくなった。
何も知らないミヤコは、ただ自分のためを思ってくれている。
それなのに。
自分は、その優しさを利用しようとしている。
ルビーは画面を見つめた。
ほんの少しだけ、指が止まる。
けれど。
『行きたい! ありがとう!』
送信した。
迷っている時間はない。
先生を奪った人間は、今もどこかで生きている。
ママを奪った人間も。
ならば。
自分だけ、立ち止まっているわけにはいかない。
◇
同じ頃。
アクアは五反田泰志の仕事場にいた。
「……お前、またその話か」
五反田が、呆れたように言った。
「悪いですか」
「悪いとは言ってねえよ。ただ、少しは別のことも考えろ」
「考えてますよ」
「嘘つけ」
アクアは黙った。
五反田はため息をつく。
「……で、何が知りたい」
「昔、アイが仕事で関わった人間のことです」
「範囲が広すぎるだろ」
「わかってます」
アクアはスマートフォンを取り出した。
画面には、いくつかの名前が並んでいる。
「今、整理してるところです」
五反田は、その画面をちらりと見た。
「……相変わらず、執念深いな」
「そうでもないですよ」
「どの口が言うんだか」
アクアは答えなかった。
ただ、画面を見つめる。
母親の過去。
父親の正体。
まだ、終わっていない。
自分の復讐は。
そして。
その画面の中に、ルビーが今日知った名前はなかった。
久我直人。
アクアがまだ追っていない、一人の男。
それが本当に重要な人物なのか。
今は、誰にもわからない。
けれど、少なくとも。
兄妹の調査は、すでに別々の方向へ進み始めていた。
◇
深夜。
ルビーは、机の上に置いたメモを見つめていた。
篠原修一。
久我直人。
たった二つの名前。
それだけだった。
けれど、昨日までは一つもなかった。
何も知らなかった自分が、初めて自分の力で手に入れた情報。
ルビーはペンを取った。
紙の一番上に、一つの名前を書く。
『星野アイ』
その下に、線を引く。
『旧B小町』
さらに、その下。
『篠原修一』
『久我直人』
まだ、つながりは薄い。
ただ仕事で関わったというだけ。
それでも。
ここから始めるしかない。
ルビーはペンを置いた。
「……待っててね、ママ」
机の上の写真を見る。
「先生も」
笑顔はなかった。
けれど、その瞳には、確かな意志が宿っていた。
「絶対に、見つけるから」
窓の外では、街の灯りが静かに揺れている。
そのどこかに、探している相手がいる。
名前も、顔も、まだわからない。
それでも。
星野ルビーは、もう止まらない。