ダンジョンに最後の幻想を持ち込むのは間違っているだろうか? 作:白白
薄暗い洞窟の冷たい空気が、肌にじっとりとまとわりつく。
鼻を突くのは、土くれとカビ、そしてかすかな血の匂い。
ダンジョンの壁や天井に生えた苔が放つ青白い燐光だけが、迷宮の上層をぼんやりと照らしている。
(まったく、うちの馬鹿犬は酒癖が悪すぎます)
頭の隅をよぎるのは、さっきまでいた酒場『豊穣の女主人』での光景だ。
ロキ・ファミリアの同僚であるベートが酔っ払って、居合わせた少年に「ミノタウロスから逃げたトマト小僧」と散々に暴言を吐いていた。
あの時の、顔を真っ赤にして泣きそうな顔で店を飛び出していった少年の背中。
あんな精神状態で夜のダンジョンに潜れば、どうなるかくらい素人でもわかる。
気になって追いかけてみれば、案の定だった。
「うおおおおおっ!」
入り組んだ通路の奥から悲痛な絶叫が響いた。
急いで足音を殺して角を曲がると予想通り白髪の少年がいた。
三体のコボルトに囲まれ、短い刃をがむしゃらに振り回している。
「ぐっ……!」
ステップの遅れを突かれ、コボルトの鋭い爪が彼の肩を深く掠めた。
赤い飛沫が舞い、少年がバランスを崩して膝をつく。
そこに、別のコボルトが牙を剥き出しにして死角から跳びかかった。
――カシャッ。
私は歩みを止めず、スキル『アーマリーシステム』を起動した。
纏っていた軽装の衣服が光の粒子に包まれ、瞬時に純白の法衣――『白魔道士』の装束へと切り替わる。
現れた両手幻具の杖を掴み少年とコボルトの間に飛び込み、杖を軽く床に打ち鳴らした。
(タンクでタゲを集めるより、ヒーラーの範囲魔法で吹き飛ばすのが手っ取り早いですね)
「ホーリー」
短い詠唱。
その直後、私を中心に眩い光の奔流が通路いっぱいに弾け飛んだ。
「キシャアアアアッ!?」
視界を白く染め上げる閃光。
コボルトたちは断末魔を上げる間もなく、光の渦に飲み込まれて紫紺の魔石へと変わった。
パリンッ、パリンッ、と魔石の落ちる澄んだ音が、静まり返った通路に響き渡る。
「え……?」
尻餅をついたままの少年が、目を丸くして私を見上げている。
私は法衣の裾を翻し彼に歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい……助けていただいて、ありがとうございます」
少年は慌てて立ち上がろうとしたが、足元がおぼつかずによろけた。
肩や腕の衣服は裂け、さっきのコボルトにつけられた真新しい傷から赤黒い血が滴っている。
私はインベントリから青い液体の入ったガラス瓶を数本取り出し彼に差し出した。
「使ってください。これは馬鹿犬が無礼を働いた詫びです」
「馬鹿、犬……?」
少年がぽかんと口を開けた。
「ええ。さっき酒場で、あなたを大声で笑っていた狼の獣人のことです。あれは身内として本当に恥ずかしい。彼に代わって謝罪します」
私が深く頭を下げると、少年は慌てて両手を振った。
「い、いいんです! あれは僕が弱いから……ミノタウロスから逃げたのは本当のことだし……」
(レベル1の初心者が中層のモンスターと遭遇したら、逃げるのが当たり前では?)
私は内心で首を傾げたが、彼のひどく傷ついた表情を見て、深くは突っ込まないことにした。
「それでも、あの言い方はありません。遠慮なく受け取ってください」
「あ、ありがとうございます……」
少年は申し訳なさそうにポーションを受け取り、栓を抜いて一気に飲み干した。
たちまち傷口から薄い光が漏れ、血が止まって皮膚が塞がっていく。
(うん、効果は十分ですね。私が作ったハイポーションのHQ(ハイクオリティ)品ですから、即効性があるはずです)
「あの、あなたは……?」
少年が私の法衣をじっと見つめてくる。
さっき一瞬で服が変わったのを見て、不思議に思っているのだろう。
「私はミズキ・シズカ。一応、あの馬鹿犬と同じ『ロキ・ファミリア』に所属しています」
「ロキ・ファミリア……! じゃ、じゃあ、アイズさんの……!」
少年の赤い瞳が、パッと輝いた。
(アイズ? ああ、うちの剣姫のことか。この子、アイズのファンなのかな)
「ええ、アイズ・ヴァレンシュタインの同僚です。あなたは?」
「ベル・クラネルです! ヘスティア・ファミリアの……」
「ベル君ですね。こんな夜中に無茶をすると、命がいくつあっても足りませんよ」
私は周囲を見渡した。
ダンジョンの上層とはいえ、薄暗い通路の奥からはまだ微かにモンスターの気配が漂ってくる。
「帰還した方がいいのでは? さっきの戦闘を見る限り、あなたはまだ……」
「ダメです!」
ベル君は、強く首を横に振った。
「もっと……もっと強くならないと。今のままじゃ、全然ダメなんです!」
その声には悲痛なほどの切実さがこもっていた。
握りしめた拳が小刻みに震えている。
(……なるほど)
私は彼を見つめた。
あの酒場で受けた屈辱が、彼をここまで駆り立てているのか。
それとも、彼の中にあるもっと別の感情が彼を急き立てているのか。
私にはダンジョンの深い事情も、神々の思惑もよくわからない。
ただ、目の前の少年が、傷だらけになりながらも何かを掴もうとしているのだけは、肌で感じ取ることができた。
「そうですか。なら、これ以上は止めません」
私は軽く肩をすくめ、再びアーマリーシステムを起動した。
法衣が光の粒子となって消え去り、今度は分厚い金属の装甲――『ナイト』の甲冑へと切り替わる。 左手には大盾、右手には片手剣。
「えっ!? 服が……!」
目を真ん丸にしてベル君が私を指差した。
無理もない。
さっきまで真っ白なローブを着ていた私が一瞬にして分厚い金属の重装甲に包まれたのだから。
だが、いちいちアーマリーシステムの仕組みを説明していると夜が明けてしまう。
「これは私のスキルなので気にしないでください。それより、行くのでしょう?」
「あ、はいっ!」
私は左手の大盾を軽く構え直しダンジョンの奥へと足を踏み出した。
目を丸くして驚くベル君をよそに、私は大盾を軽く地面に打ち付けた。
金属の重たい音が響く。
「ただし、死なない程度にしてくださいね。もしもの時は、私が前に出ますから」
(私の防御力なら、こんな上層の攻撃なんて痛くも痒くもないですからね)
私は兜の下でクスリと笑う。
ベル君は一瞬呆気にとられていたが、やがて真剣な顔つきになり、しっかりと頷いた。
「……はい! ありがとうございます、シズカさん!」
「ミズキでいいですよ。さあ、行きましょうか」
ダンジョンの冷たい空気が頬を撫でる。
私にとって彼はただの一人の駆け出し冒険者だ。
階層主クラスの攻撃すら弾くこの無敵の身体を持て余していた私にとって誰かの背中を見守るのも悪くない。
彼がこれからどんな風に成長していくのか。
ほんの少しだけ、楽しみになってきた。
薄暗い通路には、まだ夜の冷気が淀んでいる。
カチャリ、カチャリと私の甲冑が鳴る重たい音とベル君の軽い足音だけが静寂に響く。
(それにしても、危なっかしい戦い方ですね……)
「うおおおおっ!」
前方の角から飛び出してきた大蛙――フロッグ・シューターの長い舌を、ベル君はがむしゃらに短剣で叩き落とした。
体勢を崩した大蛙の懐に飛び込み、その単眼めがけて短い刃を突き立てる。
紫色の飛沫が舞いモンスターがパリンッと甲高い音を立てて魔石に変わった。
「はぁっ……、はぁっ……!」
肩で息をするベル君の横顔には焦燥感がべったりと張り付いている。
さっきからずっとこれだ。
敵を見つけるなり突っ込んでいき力任せに武器を振るう。
回避や防御を後回しにしたまるで死に急ぐような特攻。
(あの馬鹿犬……ここまで新人を追い詰めるとか本当にギルティ。若葉には優しくしろとあれほど……)
ロキ・ファミリアの同僚の顔を思い浮かべ私は兜の中で小さくため息をついた。
「ベル君。少し肩に力が入りすぎていますよ。それに、周りが見えていません」
「えっ……?」
「右、来てます」
私が顎でしゃくった瞬間ベル君の死角にあたる頭上から、ドス黒い影のようなモンスターが降ってきた。
十字の顔に、鋭利な三本の鉤爪。
(あれは……たしか、冒険者ギルドで『新米殺し』とか呼ばれてるやつですね。ウォーシャドウでしたっけ? いまいち覚えられないんですよねぇ弱すぎて)
「しまっ――」
ベル君が顔を青ざめさせ、短剣を構えようとする。
だが、遅い。 爪が彼の首筋を捉える直前、私は床を強く蹴った。
――ガギィィィンッ!!
火花が散り、強烈な金属音が通路に響き渡る。
私の大盾がウォーシャドウの鉤爪を完全に弾き返していた。
「ロウブロウ」
短く呟き、足を振りぬき影の顔面に叩き込む。
「キィッ!?」
完全に動きが止まったモンスターから私は一歩退いた。
「今」
「はいっ!!」
ベル君が地を蹴り、無防備なウォーシャドウの胸に短剣を深く突き刺す。
数秒の痙攣の後、影は灰となって砕け散った。
「……っ、ありがとうございます、ミズキさん」
ぽろりと魔石が転がる音を聞き届けベル君が膝に手をついて肩を上下させた。
全身は汗と返り血で汚れ呼吸はひどく乱れている。
私はインベントリを開き水筒を取り出して彼に投げ渡した。
「飲みなさい。少し休憩です」
「でも、僕はまだ……」
「ダメです。ポーションで傷は塞がっても、精神力と体力は回復しません。次に囲まれたら確実に死にますよ」
私の強い口調にベル君はビクッと肩を震わせ大人しく壁際にへたり込んだ。
水筒の水を勢いよく飲み干す彼の横顔を私は兜のバイザー越しにじっと見つめる。
(なんでここまで必死になるんでしょうね。命がいくつあっても足りないのに)
レベル1の冒険者が深夜のダンジョンで死に物狂いで剣を振るう理由。
酒場で馬鹿にされた悔しさだけでは、到底説明がつかない執念だった。
「あの馬鹿犬の言葉……そんなに悔しかったですか?」
静寂の中、ポツリと問いかけると、ベル君は水筒を握りしめたまま俯いた。
「……悔しかった、です。でも、悔しかったのは馬鹿にされたからじゃなくて」
ポツリ、ポツリと、彼の口から絞り出すような声が漏れる。
「本当のことだったから。ミノタウロスから逃げて、泣き叫んで……アイズさんに助けてもらったのに。あんな無様な姿を見せた自分が、情けなくて、悔しくて……っ」
「……追いつきたいんです」
顔を上げたベル君の赤い瞳が、薄暗いダンジョンの燐光を反射して燃えるように光っていた。
「憧れた人に。僕はもっと強く……彼女にふさわしい冒険者になりたいんです!」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
純粋で、ひたむきで、圧倒的なほどの熱量。
(なるほど。酒場での暴言は単なる着火剤。彼をここまで突き動かしているのは……『憧れ』ですか)
私は無意識のうちに、口元を綻ばせていた。
「……いい目ですね」
「えっ?」
「無茶と無謀は違います。今のあなたは無謀ですが、その気持ちがあるなら、いつか本当に辿り着けるかもしれませんね」
私がそう言って立ち上がると、ベル君の顔がパッと明るくなった。
「本当ですか!?」
「ええ。ただし、死ななければいつか、という話ですが」
私は軽く肩をすくめ、落ちていた魔石を拾い上げて彼に渡した。
「さあ、息が整ったなら行きますよ。夜明けまで、もう少し付き合ってあげます」
「はいっ!!」
それから数時間。
私たちは上層の通路をひたすら歩き続けた。
ゴブリンの群れが現れればベル君が飛び込み、手におえない攻撃は私が大盾で弾き返す。
疲労の色が濃くなればポーションを渡し、また彼が前へ出る。
何度も泥だらけになり、転んでは立ち上がり、剣を振るう彼の背中は、出会った時よりもほんの少しだけ頼もしく見えた。
やがて、ダンジョンの空気が微かに変わった。
肌にまとわりつくような湿気が薄れ、代わりに乾いた風が吹き下ろしてくる。
「……さてそろそろおしまいですね」
「え...」
「もうダンジョンの外は朝でしょうから...君の主神が心配するのでは?」
私がそう言うと、ベル君も荒い息を吐きながら頷いた。
それから上を目指しダンジョンを出た頃には白み始めた朝の光が差し込んでいた。
冷たい青色だった空が、少しずつオレンジ色に染まっていく。
「朝……ですね」 ベル君が眩しそうに目を細めた。
その横顔は疲労困憊で、今にも倒れそうだったが、瞳の中の光は少しも失われていない。
(なんだか、私まで清々しい気分ですね。若葉のレベリングを手伝うのも悪くない)
「お疲れ様でした、ベル君」
私が言うと、彼は慌ててこちらを向き、深く頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございました! ミズキさんがいなかったら、僕、絶対死んでました!」
私は苦笑しながら、彼に向かって軽く右手を差し出した。
「次会う時は、もう少しマシな戦い方を見せてくださいね」
「……っ! はい! 頑張ります!」
ベル君は満面の笑みを浮かべ、両手で私の手をしっかりと握り返した。
朝日が差し込む螺旋階段を、二人の冒険者がゆっくりと上っていく。
これから彼がどんな英雄譚を紡ぐのか。
その背中を見守る楽しみが、私のオラリオでの生活にまた一つ増えたのだった。