ダンジョンに最後の幻想を持ち込むのは間違っているだろうか? 作:白白
ヘファイストスの工房を出た私たちは、工業区のむせ返るような熱気を背に、オラリオの西側に位置するメインストリートへと足を踏み入れた。
通りには様々な種族の市民や冒険者たちが溢れ、荷馬車の車輪の音や商人たちの威勢の良い呼び込みが響き渡っている。見上げれば、オラリオの中心にそびえ立つ白亜のバベルの塔が、青空に向かって真っ直ぐに伸びていた。
「なんでやねん! さっきの交渉でウチの財布もスッカラカンや!」
隣で騒がしく喚く主神の声をBGMに、私は迷宮都市の雑踏をマイペースに歩いていたが、ふとロキの足取りが、とある方向へブレ始めたことに気づいた。
「……ロキ。財布がスッカラカンと言いながら、なぜ酒場や飲食店が多く集まる西の区画へ向かっているんですか?」
「あー、あー! 聞こえへん! 交渉で喋り倒したせいで喉がカラカラや! ファミリアのトップたる者、常に潤いが必要なんや! しゃーない、今日は特別にウチが一杯だけ奢ったる! その代わり、一番安い定食にしとけよ!」
(……一杯『だけ』で済むわけがないでしょうに。それに、奢ると明言したのはそっちですからね)
私は口元のホクロを微かに指で撫でながら、静かに微笑んだ。
私たちが辿り着いたのは、オラリオでも有名な酒場『豊穣の女主人』だった。夜の喧騒が本番の店だが、昼間もランチ営業を行っており、店内は冒険者や市民たちでそこそこの賑わいを見せていた。
カウベルの音と共に扉を開けると、昼間からエールを煽る冒険者たちの熱気と、香ばしい肉の匂いが押し寄せてくる。
「おお、ロキやないか。昼間っから飲んだくれかい」
カウンターの奥から、店主のミア母さんが豪快な声で出迎えてくれた。
「あら、ロキ様にミズキさん。いらっしゃいませ」
薄鈍色の髪をした店員――シルが、にこやかな笑顔でおしぼりと水を持ってくる。
「 今日はウチの可愛い眷族との親睦会や! とりあえず、エールを樽で持ってきてぇ!」
「はい、かしこまりました。ミズキさんはどうされますか?」
シルの問いかけに、私は席に座るなり、テーブルに置かれた木製のメニュー表を開いた。
「私はお腹が空いているので……そうですね、このページの一番上から一番下まで、全部お願いします」
「えっ……全部、ですか?」
シルが目を丸くして私とメニュー表を交互に見比べる。
「はァ!?」
遅れて、ロキが素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、おま、一番安い定食って言ったやろ!」
「聞こえませんでした。タンクは常に栄養を補給して、HPの最大値を高く保っておかないといけないんです。それに、さっき『奢る』と明言しましたよね? 神様が一度口にした言葉を撤回するなんて、みっともないですよ」
「ぐぬぬ……っ!」
ロキが悔しそうに歯を軋ませるが、私は涼しい顔でメニュー表を閉じた。
「ガハハハ! いい食いっぷりだねえ! 冒険者は腹が減ってちゃ戦えねえからな。よし、すぐに出してやるよ!」
ミア母さんが厨房へと指示を飛ばすと、シルや、薄緑の髪をしたエルフのリューといった店員たちが、次々と料理を運び始めた。
やがて、私たちのテーブルには凄まじい量の料理が並べられた。
巨大な肉のローストからは肉汁が滴り、山盛りのパスタはトマトとニンニクの香りを立たせている。鮮魚のカルパッチョ、彩り豊かなサラダのボウル、そして香ばしい匂いを漂わせる焼きたてのパンの山。
「いただきます」
私は淡々と手を合わせると、まずは肉のローストを切り分け、口に運んだ。
(うん、美味しい。やはりこの世界の料理は手作り感があって素晴らしいですね)
前世のゲーム――FF14の世界では、高難易度コンテンツに挑む前に必ず高ステータスが付与される食事(通称・食事バフ)を摂るのが常識だった。
その習慣が染み付いているせいか、あるいはアーマリーシステムの一部として肉体が最適化されているのか、私の胃袋は普通の冒険者の数倍の容量を誇っている。
どんな強力な階層主の攻撃も無傷で耐え切る鉄壁の防御力を維持するには、莫大なエネルギーが必要なのだ。いくら食べても太らないし、むしろ食べれば食べるほど体に活力が満ちてくる。
「……信じられない。人間の胃袋の構造を完全に無視している」
少し離れた場所から、追加の皿を運んできたリューが呆れたような、あるいは畏怖するような眼差しで私を見ていた。
「エルフの森では考えられない食事量だ。彼女は一体、どんな原理で……」
「あらあら、ミズキさんは相変わらずすごい食欲ですね。ふふっ、見ていて気持ちがいいです」
シルは楽しそうにくすくすと笑っている。
そんな店員たちの反応などお構いなしに、私はパスタを巻き取り、カルパッチョを平らげていく。
「ちょ……おま、どこに入ってんねんその量……!」
エールのジョッキを傾けていたロキが、目を見開いて私を凝視していた。
「あんたの胃袋も、その手品みたいなインベントリとやらの別空間に繋がっとるんか!?」
「そんなわけないでしょう。単なる消費カロリーの違いですよ。階層主のブレスを大盾で受け止めるには、それ相応のカロリーを使うんです。……ああ、このパスタもいけますね。シルさん、すいません、これのおかわりをお願いします」
「まだ食うんか!?」
私が次々と皿を空にしていくのを見て、ロキの対抗心に火がついたらしい。
「くっそー、ウチも負けへんで! ミア! あの一番高い幻獣の肉のステーキ持ってこい! あと、とびきり上等なワインもや!」
「まいどあり!」
そこからは、一種の耐久戦だった。
私はひたすらに料理を平らげ、ロキは高級な酒とツマミを次々と頼んでは喉に流し込む。
「シズカァ、お前ほんまに遠慮ってもんを知らんヤツやなァ……」
「遠慮してほしいなら、最初からそう言えばよかったじゃないですか。でも、ロキの奢りで食べるご飯は格別に美味しいです」
「ふふん、せやろ! もっと褒めてええんやで!」
酔いが回ってきたロキは、すっかり上機嫌になって私の頭を撫でてきた。私はそれを適当にかわしながら、食後のデザートである大盛りのフルーツタルトにフォークを伸ばす。
圧倒的な防御力ゆえに、私の心は常に凪いでいる。焦ることも、怒ることも、危機感に急き立てられることもない。こうして美味しいものを食べ、平和な昼下がりを過ごすのが、私にとって何よりの贅沢だ。
やがて、テーブルの上にはジェンガのように積み上げられた空の皿と、ジョッキの山が築き上げられていた。
「……ふぅ。ごちそうさまでした。」
私がナプキンで口元を拭っていると、ミア母さんが分厚い羊皮紙の伝票を持ってやってきた。
「お疲れさん。よく食ってよく飲んだねえ。お代はしめて、三十五万ヴァリスだ」
「ぶっ!?」
ロキが飲んでいたワインを盛大に吹き出した。
「さ、さんじゅうごまんヴァリスゥ……!?」
「おや。意外とリーズナブルですね。さすが良心的なお店です」
「どこがや! ちょっとした下級冒険者の数ヶ月分の生活費やぞ!? なんやあのステーキ、一皿で五万ヴァリスもしとるやないか!」
「あんたが一番高いの持ってこいって言ったんだろうが。さあ、きっちり払ってもらうよ。ウチはツケはなしだ」
ミア母さんがドスンとテーブルに拳を置くと、その威圧感に神様であるロキでさえビクッと肩を震わせた。
「ホンマに鬼や……この店はホンマに鬼の住処や……」
ロキは涙目になりながら、震える手で懐から革袋を取り出し、テーブルの上に硬貨をぶちまけた。
ジャラジャラと音を立てて、金貨や銀貨が転がる。ロキが持ち歩いていた、ファミリアの当座の活動資金だろう。普段ならこれだけの額を持ち歩くこともないはずだが、今日はヘファイストスとの遠征用の武器交渉のために多めに用意していたのだ。
ミア母さんが素早い手つきできっちりと硬貨を数え上げていく。
「……よし、ちょうど三十五万ヴァリスだ。毎度あり!」
ミア母さんが硬貨を全て回収すると、テーブルの上には何も残らなかった。
そして、ロキの手元にある革袋も――逆さに振っても、指を突っ込んでも、本当に一ヴァリスも出てこない、完全な「空」になっていた。
「あ、ああ……」
ロキは、空っぽの革袋を見つめたまま、灰のように真っ白になってテーブルに突っ伏した。
「ホンマに……ホンマにスッカラカンになってもうた……ウチの、ウチのなけなしのお小遣いが……」
「だから言ったじゃないですか。スッカラカンだって」
「お前のせいやろがい!!」
顔を上げたロキが涙ながらに抗議してくるが、私はどこ吹く風で食後のハーブティーを優雅に啜った。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです、ロキ。お腹もいっぱいですし、これでまた59階層でも60階層でも、心置きなくタンクの仕事ができます」
「くそぉ……この鉄壁の胃袋め……次こそは絶対に安飯屋に連れてったる……」
ブツブツと恨み言をこぼす主神を横目に、私は心の中に広がる圧倒的な平穏と共に、温かいティーカップの温もりを楽しんだ。
理不尽なまでの防御力と、底なしの胃袋。
そして、頼りになる(?)仲間たち。
迷宮都市での私の生活は、どうやらまだまだ退屈せずに済みそうだ。
「さて、ロキ。少し休んだら帰りましょうか。今日の夕飯はファミリアの食堂で食べますから、ご心配なく」
「もう食う話すなやぁ!!」
酒場に響く主神の叫び声を心地よいBGMに、私は小さく微笑んだ。
夕刻の『黄昏の館』の食堂は、いつにも増して騒がしかった。
「……で? 次回の遠征に向けた武器調達の交渉は上手くいったものの、その帰りに寄った『豊穣の女主人』で、ロキのお小遣いである三十五万ヴァリスを全て飲食代で使い果たしたと。そういうことだな、ロキ」
「ひぃっ! す、すまんリヴェリア! ウチが全っ部悪かった! 許してぇやぁ!」
王族特有の威厳と、母親のような圧を放つエルフ――リヴェリア・リヨス・アールヴの冷たい声が響く。その足元には、我がファミリアの主神であるロキが、涙目で綺麗な正座をさせられていた。
そんなオラリオ最大派閥のトップ二人のやり取りをBGMに、私は食堂のテーブルに並べられた夕食(今日は白身魚の香草焼きと、たっぷりの温野菜サラダだ)を、淡々と、しかし確かなペースで口に運んでいた。
「三十五万ヴァリスって……ちょっとした下級冒険者の数ヶ月分の稼ぎだよな。いくらなんでも、昼飯一回でどうやったらそんな額になるんだい?」
私の向かいの席で、小人族(パルゥム)の団長、フィン・ディムナが、親指の爪を軽く噛みながら呆れたようにため息をついた。
「ガハハハ! 全く、お前さんは相変わらず後先考えんアホやな!」
フィンの隣では、ドワーフのガレス・ランドロックが豪快に笑い飛ばしている。彼ら『三首領』と呼ばれる最古参幹部たちの前では、神であるロキも形無しだ。
「ち、ちゃうねん! ウチかて最初は一杯だけって言ったんや! そしたらこのミズキの奴が、メニューの端から端まで全部頼むとか言い出して……!」
「ロキ、私は『一番安い定食にしておけ』というあなたの言葉が聞こえなかっただけですよ。それに、三十五万ヴァリスのうち大半を占めていたのは、あなたが対抗心を燃やして頼んだ『幻獣の肉のステーキ』と『とびきり上等なワイン』じゃないですか」
私は白身魚をフォークで切り分けながら、涼しい顔で事実を訂正した。
「そもそも、神様が『奢る』と言ったんです。神言に二言はないですよね?」
「ぐぬぬ……っ! せやけど、あっこまで食うとは思わへんやろ普通! 人間の胃袋の限界を超えとるでホンマ!」
「ミズキ。君、昼にそれだけの量を食べておきながら、今は普通に夕食を平らげているのか……?」
フィンが、私のテーブルに積み重なりつつある空のおかわり用プレートを見て、引きつった笑いを浮かべた。
「ええ、まあ。タンク……つまり、最前線で敵の攻撃をすべて受け止める盾役には、莫大なエネルギーが必要なんです。HP(体力)の最大値を常に高く保っておくための、事前の食事(バフ)みたいなものですよ」
前世のゲーム――FF14における高難易度コンテンツ前の『食事』は、ステータスを底上げする必須の儀式だ。
この世界に転生し、アーマリーシステムという規格外の能力を得た私の肉体は、どれだけカロリーを摂取しても太ることはなく、すべてが圧倒的な防御力を維持するためのエネルギーへと変換される。
階層主のブレスを無傷で耐え切るには、これくらいのカロリーは必要な経費なのだ(そんなわけない)。
「あはははっ! ミズキ、すっごいねー! 私も食べるの好きだけど、さすがにそこまでは無理かなー!」
アマゾネスの少女、ティオナ・ヒリュテが、自分の夕食が乗ったトレイを持って私の隣に座り、目を輝かせて笑った。
「ティオナ、感心してる場合じゃないでしょ。三十五万ヴァリスよ? 私たちの遠征用の予備ポーションがどれだけ買えると思ってるの」
双子の姉であるティオネが、呆れたように肩をすくめる。
「チッ。アホくさ。どいつもこいつも緊張感が足りねェんだよ」
離れた席では、灰色の毛並みを持つ狼人――ベート・ローガが、舌打ちをしてそっぽを向いていた。言葉こそ辛辣だが、なんだかんだ言って彼もこの騒ぎを放置しているのだから、ファミリアの仲間に対しては甘いところがある。
「……ミズキ。じゃが丸くんなら、何個くらい食べられるの?」
不意に、静かな声で問いかけられた。
見ると、金髪金眼の剣士――アイズ・ヴァレンシュタインが、真剣な眼差しで私の胃袋の辺りを見つめていた。彼女の手には、屋台で買ってきたらしい大好物の『じゃが丸くん』が握られている。
(なぜそこをじゃが丸くんで換算しようとするんですか、うちの剣姫は)
「そうですね……アイズが買ってきてくれるなら、百個くらいはいけるんじゃないでしょうか」
「……百個。すごい」
アイズは小さく呟き、尊敬の念すら込めたような目で私を見た。どうやら彼女の中の「すごい冒険者ランキング」に、変な項目が追加されてしまったらしい。
「まぁ、ロキが散財したのはいつものことだが……次からは気をつけるんだぞ、ミズキ。お前がいかに頑丈だとはいえ、暴飲暴食が過ぎれば動きが鈍るかもしれないからな」
フィンが団長としてのまとめに入ろうとしたところで、リヴェリアが鋭い視線を私に向けた。
「いや、ミズキにも連帯責任を負ってもらう。彼女の無尽蔵の胃袋がロキの対抗心を煽ったのも事実だ。次回の59階層への遠征、ミズキにはこれまで以上に前衛で体を張ってもらうぞ」
「人使いが荒いですね、お母さん」
「誰がお母さんだ!」
王族のエルフ様をからかうと、見事に柳眉を逆立てられた。
私は、食後のハーブティーが入ったカップを手に取り、ふうと息を吹きかけて香りを立てた。
「心配には及びませんよ、フィン、リヴェリア。今回の遠征資金が少し減った分は、私がダンジョンで完全に補填してみせますから」
「ほう? 補填というと?」
ガレスが太い眉を寄せた。
「私が前衛ですべての攻撃を引き受け、誰一人として被弾させなければ、回復用のポーションや、防具の修繕費は丸々浮きますよね? 私の装備は絶対に壊れない(耐久度低下なし)ですし、無敵のバリアで皆さんを守れば、被害はゼロ。結果的にファミリアの経費は大幅に削減できるという計算です」
「なっ……」
私の極端すぎる理論に、首脳陣の三人が顔を見合わせた。
「いやいや、いくらミズキの盾が硬いと言っても、59階層の未知の領域で無傷(ノーダメージ)なんて……」
フィンが苦笑交じりに否定しようとするが、私は自信を持ってカップを置いた。
「やりますよ。むしろ、それが私の仕事(ロール)ですから。皆さんは後ろから、思う存分攻撃(火力)に集中してください」
私のアーマリーシステムは、どんな理不尽な攻撃だろうと、システムとして『防御』を成立させる。私が倒れない限り、このファミリアの仲間たちに傷一つ負わせるつもりはない。
圧倒的な硬さがあるからこそ、私はこうしてマイペースに、美味しいものを食べていられるのだから。
「……はぁ。お前のその、どこから湧いてくるのか分からない自信と落ち着きには、時々毒気を抜かれるよ」
リヴェリアが、毒気を抜かれたようにため息をついた。
「ガハハハ! ええやないか! 盾役(タンク)がそれだけ豪語しとるんや、ウチらも背中を預け甲斐があるってもんや!」
ガレスが嬉しそうに私の背中をバンッと叩く。少しだけむせそうになったが、私は表情を崩さずに頷いた。
「そういうこっちゃ! ウチのミズキの鉄壁の盾を甘う見たらアカンで! だからリヴェリア、今回の散財はこれでチャラってことで……」
「それはそれ、これはこれだ。ロキ、あなたは一週間、禁酒だ」
「ぎゃあああああああ!! それだけは勘弁してぇやぁ!!」
再び食堂に、主神の悲鳴が響き渡った。
「どんまい、ロキ……」
ティオナが同情するように苦笑いし、ティオネがやれやれと首を振る。アイズはまだじゃが丸くんをかじりながら、私の胃袋の容量について考えているようだった。
騒がしくも温かい、オラリオ最大派閥の日常。
次に待ち受ける59階層の未知なる脅威も、このマイペースな日常を脅かすことはできないだろう。
「おかわり、お願いします。デザートのフルーツタルトも一緒に」
私は心の中に広がる圧倒的な平穏と共に、まだまだ続く夕食の続きを楽しむのだった。