return文のギータ | while文のエピック   作:リネン_

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return文のギータ

 おじいちゃんちの古ぼけた洋館の二階に忘れ去られたような部屋があり、その部屋には忘れ去られたようなガラクタが山のようにあり、その山から自分だけの宝物を掘り出すことは、退屈な日常の中に潜む冒険のようなものだった。

 

 おじいちゃんの家はだだっ広い二間続きの畳部屋、広いが薄暗い台所、離れとして造られた小さな茶室、大きくなりすぎた鯉が狭そうに泳ぐ池、その池をまたぐように枝を伸ばす松など、どこを見ても絵に描いたような日本家屋だったのだが、その立派な日本家屋にはなぜか洋館が増築されていた。それはおじいちゃんのお姉さんがフルートをひくためにひいおじいちゃんが作った室内楽用の洋館だとか、おじいちゃんのおじいちゃんが集めた骨董品を誰かに自慢するために作った応接間としての洋館だとか、誰もがそれらしい由来を口にするものの、誰も本当の由来を知らない、不思議な洋館だった。

 

 その洋館の寄木張りの床は多くの足跡で磨かれ常にツヤツヤと光っていた。南西向きのためか、いつも少し傾いた日差しがオレンジ色と黄色の間ほどの色になって差し込んでは、窓の下に取り付けてあるパネルヒーターのひとヒダひとヒダに丁寧に降り積もったホコリを上昇気流にのせ、キラキラと輝かせていた。古ぼけたソファセットに座れば、差し込む日光にキラキラと輝くなどの表現では到底、抱括できないほどの致死量のホコリがたった。そのホコリが染み込んだように真っ白い漆喰に塗り込められた壁にはところどころヒビが入り、額縁の方が豪華に見える絵画が傾いてかかっていた。その絵画の下に鎮座する、大きなフリンジで縁取られ、植物柄の刺繍がびっしりと施されたカバーに覆われたアップライトのピアノはもう何年も調律されていないようで、鍵盤を叩くと不思議な音がした。高い天井から吊られた重そうなシャンデリアが幾本もの蜘蛛の糸をぶら下げながら、それら全部を見下ろしていた。そういう洋館だった。

 

 この部屋に来るだけでも十分非日常的だといえるだろう。しかし、ここからだ。この洋館には二階があった。そこは、屋根裏部屋然とした簡素な空間だった。一階のような寄木張りの床も白い漆喰壁もなく、板張りの床の上に置き畳が二畳、投げ捨てるように置かれ、壁は仕上げ材さえなく間柱が均等に並んでいるのみ。常にどこからか隙間風が吹いていて、申し訳程度にはめられた窓ガラスは汚れやらホコリやらで曇っており、歩くたびに床板がギシギシと鳴った。子供心に恐ろしさを感じなかったわけではない。一人だったら来なかっただろう。前述のようにこの二階にはガラクタが山のように積まれていて、ヒビの入ったガラスケースの中の古い日本人形と目が合うのではないか、頭部だけになって転がっている西洋風の甲冑が動き出すのではないか、と不気味に思う要素はたくさんあった。しかし、私は何度もこの洋館の二階に足を運んでは、長い時間を過ごしていた。それは、つまり、一人ではなかったからだ。

 

「見て! 古い漫画が出てきたよ!」

「ほんとだっ。古そうだね。 えっと、“少年王者”……? 聞いたことないなぁ」

 

 見つけた漫画の表紙を撫で、手のひらを灰色のホコリで染めた男の子は私の同級生だった。この男の子が私の冒険の相棒で、言うなれば幼なじみのようなものだった。幼稚園も小学校も一緒だったのだ。誰の方針かは知らないが私はいわゆるお受験をして入るような幼稚園に通っていて、同系列の小学校に持ち上りで入学したため、同級生たちとはなんとなく仲間意識が強かったように思う。本来であれば仲良くなるタイプではない、少し内向的なこの男の子も大事な仲間だと認識していた。

 

 そして、この男の子が、おじいちゃんの幼馴染の孫だったか、お父さんの仕事仲間の息子だったか、はたまたおばあちゃんの趣味友達、おばあちゃんはお花だとかお唄だとかたくさんの趣味を持っていた、の親戚だったか忘れたが、とにかく、この男の子と私はどうやら“同じ幼稚園、同じ小学校に通う同級生”以外に共通点があるらしいことを別の同級生の誕生日パーティで親同士が気づいたことをきっかけに、一層、身近に感じるようになったのだった。そして、割に親しくなってからというもの、この男の子は私のおじいちゃんちに遊びに来るようになった。

 

 両親共に仕事でいないことが多かった私は、同居しているわけでもないおじいちゃんおばあちゃんの家にいることが多かった。しかし、おじいちゃんおばあちゃんでは遊び相手に物足りなさを感じていた。私と両親が住むマンションからも、通っていた小学校からも歩いて行けるところにおじいちゃんちはあり、仲良くなった男の子の家もまた徒歩圏であることを知った私は、ぜひ遊びにおいで、と誘った。遊び相手が欲しかったのだ。他の仲の良い同級生は皆、電車や車での通学が必要な程度には離れた場所に住んでいて気軽に誘うこともできなかった。つまり男の子を誘ったのは消去法であったが、これは本人には秘密だった。男の子は男の子で、近所に遊び相手が欲しかったのか、私と遊ぶことを気に入ったのか、あの不思議な洋館に魅了されたのか、理由の如何は知らないが、たびたび、照れ臭そうにしながら「また遊びに行ってもいい?」と言うのだった。私たちは学校が終わればそのままおじいちゃんちに遊びに来て、おばあちゃんが出してくれる口がポソポソするばかりの落雁や最中などのおやつを食べ終われば、あの洋館に、あの洋館の二階にこもって遊んだ。

 

 洋館の二階では学校の宿題をしたり、好きな本を読んだり、同級生たちの噂話をしたり、帰り道に内緒で買った自販機のジュースを飲んだりと思い思いの時間を過ごしていた。中でも、ガラクタの中から遊べそうなものを発掘するのが二人にとって一番楽しい遊びだった。めんこがたくさん入った缶、誰かの日記、取っ手が片方取れた木馬、桐箱の中で鬱金の布に包まれた高そうな壺、弦の切れたアコースティックギター。とにかく古くて、とにかく色々なものが出てきた。

 

「これは、チェス……かな?」

 

 ある日、男の子が見つけたのは古ぼけたチェスセットだった。細かい彫刻が施されたチェス盤、キレイに箱に並んだチェス駒、子供が見てもそれが高級なものだと一目でわかるようなチェスセットだった。しかし、この二階にはそういった高級そうでありながら捨て去られたものばかりが積まれていた上、育った家の性質上、高級なものと接することは日常の一部だった私たちは、ためらうことなく駒を箱から取り出しては盤の上に並べた。

 

「チェスかぁ、ルールわからないんだよな」

 

 馬の形の駒を小さな窓から差し込む日にかざしながら嘆く私を見て、男の子はクスリと笑った。品の良い笑い方だった。男の子は他の同級生の男の子に比べ、粗野なところが少なく、声も小さかった。私もまた、それほど活発な方でもなかった。声は彼ほど小さくなかったと思うが。そういう点において、私たちは互いの空気を心地よく思っていたのだろう。でなければ、いくら長い期間、同級生をしていたからといって、近所に住んでいたからといって、これほど親密になることはなかっただろう。

 

「そんなに難しくないよ。教えてあげようか」

 

 男の子は駒を二人分並べながら言った。男の子の細い指先が大きな駒を軽々と操る様子を、私はじっと見ていた。先ほど、性格的な面で共通点があったから親しくしていた、という旨を述べたが、あえて言わなかったことがある。おそらく、自分のことだというのに、おそらく、と言いたいのはつまり、単なる照れ隠しなのだが、端的に言えば、私は少なからずこの男の子を慕っていたのだった。幼い少女の淡い初恋、と言ったら良いだろうか。

 

「どう? やってみる?」

 

 はにかむように笑った顔もかわいらしかったし、あくまで私の意見を尊重する誘い方も好ましかった。チェスのルールを知っている、という大人っぽいところも少女の私は憧れを抱いたし、知っているだけあってスムーズに駒を盤面に並べていく様子がいかにも知的で魅力的に見えた。思えば、ウェーブがかった豊かな黒髪にも、外国の血が入っているらしいほんのり色の濃い肌にも、人と目を合わせることが苦手だというにも関わらず時折こちらを見て微笑む瞳にも、魅力を感じていた。男の子は、私にとって、あの洋館の二階にあるガラクタの山から見つけた宝物のひとつだったのだ。

 

「……うん、やってみたい」

 

 持っていた馬の形の駒を空いている場所に置いた私を見て、男の子はにっこりと笑った。男の子はチェスが好きだということだった。まずは駒の動き方を説明するね。あまり口数の多くないはずの男の子が、一生懸命、チェスのルールを説明し始めた。チェス盤を見つめる真剣な眼差しをカーテンのように隠す長い前髪が、どこからか吹き込む隙間風に揺れていたのを、私は、今も、覚えている。

 

-

 

 あの男の子はいなくなったらしい。らしい、というのは、あの男の子がいなくなる前に、私の方が先に“いなくなって”おり、伝聞でしか知らないための叙述であることをことわっておきたい。両親が離婚し、母親と二人で暮らすこととなった私は転校していた。通っていた私立の小学校の制服も学校指定の通学カバンも父親と三人で暮らしていたマンションに置き去りにして、母方のいとこからもらったお下がりのランドセルを背負って公立の小学校に通うことになっていた。

 

 急なことだった上、理由が理由だったので、同級生たちと大した別れの挨拶も交わさぬうちに転校しており、それはあの男の子に対しても同様で、「バイバイ」だとか「またね」だとか、またそれらに類するような気の利かないセリフで別れを告げただけだったように思う。当時の私は小学生で、両親の離婚というショッキングなことが起こったばかりで動転していたし、連絡先の交換を提案するというような対外的な所作も身についていなかった。新しい家や新しい学校に慣れた頃、ふと、あの男の子のことを思い出し、「もう会わないんだろう」とだけ思った。良家の子供しか通っていなかったあの私立の小学校に通う男の子と、お下がりのランドセルで公立の小学校に通う母子家庭の私とは、もう人生が交わることはないのだろう、子供ながらに世界の無さを肌に感じていた。

 

 そして、たまの父親との面会交流で祖父母の家に遊びに行く機会があった私は、祖父母の口から出た噂話から、あの男の子もまた“いなくなった”ことを知った。彼は留学か何かで海外に行ってしまったとのことだった。いよいよ、もう二度と、あの男の子とは会わないのだろう。彼との今生の別れは私の中で決定的なものとなった。寂しい気持ちもあった一方で、すでに、愛し合ったはずの男女の別れや、転校した小学校に案外早く馴染んだ自分自身という事実を目の当たりにしてきた私にとって、それは人生の中で何度か起こりうる寂しいけれど避けられないイベントの一つとして処理された。以降、私があの男の子のことを思い出すことはほとんどなくなっていた。

 

 なので、あのゲームに出会った時には思わず「あ!」と声が出た。あのゲーム、とは、インターネット上に公開されたフリーゲームのことだ。私が子供の時分、世はまさにインターネット黎明期、野良のゲーム製作者が自作のゲームをネット上に多く公開していた。母親は仕事で遅くまで帰ってこないため家で一人過ごすことの多かった私は暇つぶしに母のPCをピーヒョロヒョロとインターネットに繋いではそういったゲームで遊んだりしていた。そして出会ったのだった、あの洋館によく似た空間が出てくるあのゲームに。

 

 そのゲームは基本的にチェスのゲームであったが、少しばかりのストーリーがあった。秘密の洋館で見つけたチェスセットから妖精が現れ、洋館にはびこるお化けや怪物をチェスで負かしてほしいと頼まれる。敵キャラクター全部に勝つと妖精は自分が幽霊であったことを明かし、かつて一緒に過ごしたおもちゃたちの怨念が祓われたことに安堵したその幽霊は成仏して消える。というものだった。

 

 ストーリーの出来はさておき、驚いたのは、ここに出てくる洋館も、戦いが繰り広げられるチェスセットも、敵キャラクターとして現れる日本人形や西洋甲冑も、ラスボスのアジトである屋根裏部屋も、全て、見覚えがあるということだ。さらに驚くことに、チェスの妖精の容貌は私にそっくりだった。あの私立の学校の制服に似た服を着て、当時の私がよくしていた髪型と同じように髪を結っていた。私はすぐに気づいた。このゲームの制作者があの男の子であることに。ゲーム制作者の名前はSAI。確定だった。なぜならあの男の子の名前もまた、才(サイ)だったからだ。

 

–– 久しぶり

–– 久しぶりだね、元気にしてる?

 

 ゲームを通じて再会した私たちは、今度はチャット空間を二人の秘密基地にすることとした。彼が算数が得意だということは同じ小学校に通っていたため知っていたことだったが、これほど完成度の高いゲームを自作できるほど技術や知識があることは知らなかった。彼がその技術や知識をもって、外国の大学で講師を務めることになったことも、その外国が彼の母親のルーツでもあるインドであることも、私の祖父母の家の近くにあった彼の実家での暮らしが嫌でインドに渡ることにしたことも、知らなかった。思えば、あの洋館に通い詰めていたのは家にいたくなかったからだったのかもしれない。

 

 彼は彼で、私の両親が離婚したことも、私が母親の実家の近くに転居したことも、転校先の小学校は制服はなく黄色い帽子だけがお揃いであることも、彼の作ったゲームに出会った私が思わず声を上げるほど驚いたことも、知らなかった。そういった、互いに知らなかったことを改めて教えあって、ホコリの溜まった関係性を再び掘り返しては面白がっていた。あの頃の居心地の良い関係が戻ってきたことを喜んでいたのは私だけでなかったと思う。

 

–– インドでは毎日カレーなの?

–– 毎日カレーってわけじゃないけど、どれを食べてもカレーみたいな味がする。一緒に食べた最中をまた食べたいって思うことがあるよ

–– そうなんだ。私は最中よりカレーの方が好きだけどな

–– 毎日じゃ君もさすがに飽きると思うよ

 

 最中が食べたいというのなら送ってあげよう、などという気遣いは、まだ私には思いつかなかった。思いついていれば、せめて彼の住所が知れていたのかもしれない。しかし、たとえそのようなことを思いついていたとしても、彼がまた食べたいと言った最中がどこの菓子屋のものなのか、それを提供してくれた父方の祖母に聞くには関係上ためらわれたし、菓子を買って海外に送るほどの小遣いも私にはなかったのだから、これは後悔という俎上にあげることすらできないことだった。とはいえ、もし、彼から住所を聞けていたら、とだけは思うのだった。

 

–– あのゲームは消すことにした。またいつか。

 

 いつだって別れは突然だ。私はそれを知っていたが、別れの後には場合によって再会がある、ということを知ったばかりだった上、再びの別れの方が胸に痛いということを知るのは初めてのことだった。

 

 彼は私たちの思い出が詰まった洋館を再現したあのゲームを削除し、二人の秘密基地としていたチャットルームから姿を消した。この理由に、私は心当たりがあった。あのゲームが人気を得たためだ。

 

 彼の作ったゲームはフリーゲーム界で徐々に知名度をあげ、匿名掲示板で何個もスレッドが作られるような人気ゲームに成長しつつあった。そして、このゲームに登場するキャラクターのファンアートが掲示板や個人HPに投稿されるようになった。私を模した妖精のキャラクターは中でも人気で、多くのファンアートが創作されていた。そして、ここが問題なのだが、それらのファンアートはその妖精を性的に誇張したものばかりだった。脱衣麻雀のゲームや、美少女ゲーム、いわゆるギャルゲーが流行していたこともあり、ゲームに登場する女性や少女を性的に消費する文化は当時よくあることだった。

 

 彼は、才は、SAIは、それが許せなかったのだと思う。自分の作ったゲームに劣情の矛先が向くことへの根本的な嫌悪もあっただろう、自分の子供時代の思い出を汚されたように思ったかもしれない、キャラクターのモデルとなった実在する人間がどれほど不快な気持ちになるだろうと罪悪感もあったにちがいない。彼はあのゲームがフリーゲームランキングにのりはじめた頃、突然ゲームを消し、そして私の前から姿を消した。私は何日も彼がログインしないチャットルームに通い、何通もメールを送ったが、彼が再び現れることはなかった。

 

 そういうものか。以前の私であれば、そう納得していただろう。恋は冷めるし、愛は朽ちる。過去は忘れるし、運命はいたずらだ。頭では分かっていたのだが、腹の中からは怒りに似た感情が湧いて止まらなかった。かつて勝手に姿を消したのは私の方だったにも関わらず、こうして勝手に消えていく彼が許せなかった。私と食べた最中を恋しがっていたくせに。思い出の場所をモデルにゲームを作るほど私を忘れられなかったくせに。私は勝手に彼が、少なくとも私から彼へと同じくらいには、彼もまた私のことを好いているものだと思っていたため、それが裏切られた気持ちになり、悔しいやら恥ずかしいやら、悲しいやら寂しいやら、名状し難い感情にもみくちゃにされていたのだった。そして、それが世間知らずの少女の中で“怒り”として認識されたのだ。別れの挨拶くらいしてもいいではないか。これも過去の自分を棚上げした傲慢な言い草だったのだが、自分と彼とでは事情も年齢も異なるという理由で、私は彼に怒って良いと自分を甘やかしていた。

 

 怒りに囚われた私はどうしたかというと、猛勉強することとした。ゲームを作ってやろう。彼が思わず参加したくなるような、彼の作ったゲームよりも楽しい、そんなゲームを。プログラミングのプの字も知らないような状態の私は、ただ彼に今一度再会して、「勝手に消えるな」と怒りをぶつけたいがためにゲーム制作を勉強した。私という人間は、感情が昂ると停滞よりも行動を選ぶタイプだったらしい。

 

 そして作り上げた。同じ洋館を舞台にしたゲームだ。伝説のゲームが帰ってきた、と言う人もいれば、あのゲームのパクリだ、と言う人もいた。どちらにせよ、それなりに話題になった。しかし、彼は現れなかった。

 

 幸か不幸かゲームが出来上がったことに対する達成感から、彼に怒りをぶつけるという本来の目的への情熱はもはや冷めつつあった。また、ゲームが完成した頃には大学受験を考えるような年齢になっており、そちらの勉強に忙しくなったことでパソコンやインターネットに触れる時間も短くしないとならなかった。そんな私のゲームは一瞬話題になったが、すぐにワールドワイドウェブの藻屑となり、私の初恋も屋根裏部屋のガラクタのひとつとなった。つまり、誰にも取り上げられない忘れ去られた遺物となったのだった。

 

-

 

「あのチャトランガのゲームっ、君が作ったんだよね?」

 

 ウェーブがかった豊かな黒髪、私のものよりもほんのり色の濃い肌、右往左往する割にこちらを見ては微笑む瞳。再会した彼は昔とほとんど変わらない姿で私の前に現れた。UnityどころかUnrealさえも失われた世界で、彼の姿だけは昔のままだった。正確には、昔の面影がそっくり残った姿だった。

 

 どうやら人類は石化光線なるものでことごとく石像にされ、3700年間という文明の空白期間によってかつての文化のほとんどが消え失せたらしい。その石化光線を放った何者かが月にいるということで、先行して復活した人類たちは力を合わせてロケットを目下製作中。その製作メンバーとして復活させられた人間のうちの一人が私だった。何が何だかわからぬまま工事現場の新規入場者研修のような現状説明と注意事項伝達を受け、何が何だかわからぬまま3700年前の職種を聞かれ、何が何だかわからぬままロケット開発チームに配属された。ゲーム制作に熱中した時期のあった私は順当に理系学科に進み、大学卒業後は企業内部の情報システム部門の社員として働いていた。その経歴からこの世界で言うところの科学チームというものに適性があると判断されたらしかった。

 

 そして、中途採用の私がロケット開発チームとの顔合わせで、いかにもアクの強そうなメンバーと挨拶を交わしているところへ彼が現れた、というわけだ。新人紹介のミーティングに遅れたことを申し訳なさそうにしながら、あわあわと、おどおどと部屋へ入ってきた姿を見て、一眼で彼だと分かった。まさか。彼も復活していたのか。ここは日本だと説明されたはず。石化前に帰国していたのか。聞いていない。だとしたらなぜ一言も連絡がなかったのか。昔と全然変わっていない。また会えるだなんて。驚き、おののき、固まっている新人の私を見て、彼もまた驚いた顔をしていた。そして、言うに事欠いて「あのゲーム」だ。気が利いた言葉が出てこないのも昔と変わらない。お互いに。

 

「んだ、知り合いか?」

 

 ロケット開発チームのリーダーの男性が私たちの様子に少し驚きながら言った。室内の人間みんなが私たちを見ていた。西洋人らしい顔立ちの研究者風の男性も、ロケット開発に携わるにしては随分と若そうな少年少女も、老練の貫禄凄まじい職人風の男性も。皆に見つめられ部屋の入り口で固まったままの彼に代わって私が口を開く。

 

「あ、えっと、そう、知り合いです」

 

 知り合いといえば知り合いだ。しかし、知っているのは3700年と数年前までのことで、顔を合わせたのはそこからさらに数年前の幼少期のことだ。入ったばかりの職場でこの辺りの説明までする必要はないだろうから言及はしないが。

 

「なら話は早ぇ、SAIんとこで仕事見つけてくれ」

 

 リーダーの男性が短く言い放った。私は思わず声を出す。

 

「えぇ」

「えっ、嫌?」

 

 私の声を聞いて、扉の前の彼、SAIもまた声を出した。驚きと衝撃を受けた顔でこちらを見ている。

 

「あ、嫌とかじゃなくて簡単に決まるもんだなって驚いたっていうか」

 

 これまでの職歴や持っている資格の確認だったり、希望する職種に関するヒアリングだったり、そういったいわゆる面接のようなものもなく配属が決まったことに驚いたのだ。とはいえ、この人数である。そこまで仕事が細分化されているわけでもないのだろう。まだ、このストーン・ワールドなる世界の事情に疎いことによる、小さなカルチャーショックだった。決して、かつての幼馴染であり、初恋の人である彼のいる部署へ配属されることに対しての反応ではなかった。しかし、タイミングとしてはそう思われて仕方ないものでもあった。喜んでいるとは思えない様子の私を見て、リーダーの男性は何か思うところがあるように解釈したようで、どこか気まずそうに頭をかいた。

 

「めんどくせぇことがあんなら別の場所で働きゃいい。仕事はいくらでもあるからな」

 

 知り合いと一口に言っても、その関係が良好なものもあれば、険悪なこともある。人間関係の健全性維持は仕事場で最も重要で難儀なプロジェクトのひとつだ。ソリの合わない人間と同じ職場で得意な仕事をするよりも、気の合う人間と一緒に苦手な仕事をする方がいくらも効率が良かったりする。この職場は、そういう点に理解のあるところのようだった。人事に関しては実にホワイトだ。単に効率厨なのかもしれないが。などと、考えていると、言葉に詰まりながら話す癖のある彼の声が部屋に響いた。

 

「僕のところっ、人手が欲しかったんだ!」

 

 彼はこう言った後、私の意向を聞く前に決定打となるような言葉を発した非礼を詫びているとでもいうように、眉を寄せた顔をこちらへ向けた。しかし続けた。「ぜひ、来てほしい、んだけど……」。

 

「だとよ」

「はぁ、じゃあ」

 

 かくして、私は彼の同僚となった。幼馴染でもなく、同級生でもなく、秘密基地を共有する友人同士でもなく。

 

-

 

 SAIがリーダーとなっているロケットプログラム開発チームのプロジェクト室は、こぢんまりとした小屋だった。小さな打合せテーブルに向かい合い、プロジェクトの目的や進捗状況の説明を受ける。一通りの内容が共有されたところで、同じチームの少年少女、クロムさんとスイカさんがティーブレイク用に茶と茶菓子を取りに部屋を去った。小さな部屋で彼と二人きりになるのは久しぶりだった。

 

 あの頃の洋館の屋根裏のように簡素な設えの小屋だった。質素な木製の床、間柱と外壁裏がそのまま見える壁、どこからか隙間風が吹いていて、舗装されていない外部から靴で持ち込んだホコリが立ち、かつての文明ほど精度が出ないのだろう、波打った窓ガラスからお茶どきのオレンジ色と黄色の間くらいの陽光が差し込んでは、そのホコリをキラキラと照らしていた。ホコリっぽい光の中、隙間風に吹かれ、彼の長い前髪が揺れていた。あの頃のように。揺れる長い前髪の向こうで、黒く大きな瞳がちらりとこちらを見た。

 

「ごめん。僕になんか、会いたくなかったよね」

「え?」

 

 石化の影響で黒く染まってしまったという彼の指先が小さく揺れていた。黒炭に紙をまいただけの簡素な鉛筆を折れそうなほど握り込めている。前髪と同様に隙間風に吹かれていた、と解釈するのはいささか無理があった。相変わらず気の利いた言葉を持ち合わせない私は、間抜けた声だけで返事をする以外できなかった。

 

「そのっ、前に僕の作ったゲームで嫌な思いをさせた、と思う、から……」

 

 彼の作ったゲーム。あの洋館を舞台にしたチェスのゲームのことだろう。私をモデルにした妖精が出てくるあのゲームだ。あのゲームを通じて再会した彼と私が、あのゲームがネット上で話題になっていることを彼と共に喜んだ私が、いかがわしい姿に描かれた妖精のファンアートの流布を目撃したことを彼は確信していた。そして、それについて謝罪しているのだった。

 

「……そうだね。嫌な思いをしたよ」

 

 自分がモデルとなったキャラクターが性的消費対象となったイラストなど気持ちが悪いに決まっている。ましてや思春期真っ只中で、生理が始まったことも、胸が膨らんできたことも気持ち悪かった年頃だ。一方的で暴力的な性的目線など嫌悪と恐怖でしかない。それはそうだ。しかし、それを彼が謝るべきだとは思わない。それらのファンアートを描いた人も、それらを共有した人も、私に謝るべきだと思ってすらいない。幸か不幸かインターネットで遊ぶことの多かった私は、いわゆるオタク文化というものが存在し、時に度を越した趣味が共有されることがあることも知識として知っていた。ネット上で注目が集まるということは、こういうことも起こりうる。世の流れの気まぐれさと理不尽さについてはいくらか覚えのある少女だったこともあり、それらのファンアートが当時の流行の中で生まれるべくして生まれたものだと受け入れていた。嫌な思いはした。ファンアートを見た時に気持ち悪いと思った。それは事実だ。しかし、この出来事における本質はそこじゃない。

 

「あんたが何も言わないで急にいなくなって、嫌な思いをした」

 

 共に遊んでいた時よりもはるかに長くなった手足をギュッと強ばらせていた彼が、私の言葉を聞いて目を見開いた。俯いていた顔を勢いよくあげ、見開いた大きく、黒い、あの瞳で私を見た。顔をあげた動きで長い前髪は乱れ、その瞳がよく見えた。そこに私が写っているのがよく見えた。

 

「“何も言わないで”って、ゲームは消すよって言ったじゃないか」

「それだけだった」

「それ以上っ、僕が君に何が言えたって言うんだ」

 

 彼も彼で動転していたのだろう。幼い頃の思い出を懐かしんで作ったはずのゲームが、まさかあのような形で蹂躙されるとは思っていなかったのだろう。自分がモデルにしたために幼馴染の女の子が辱められているという罪悪感は、繊細な彼を傷付けるには十分鋭利だったのだろう。私と同じ年齢の、思春期の男の子だった彼が受けたショックも、今となっては大いに理解できる。理解はできるのだが、あの頃、彼の突然の失踪に傷ついた少女がいたのも事実であって、私はその少女の痛みを覚えていてあげられる唯一の人間だった。だから、口を開かずにはいられなかった。

 

「私は他の人があのキャラクターをどう扱おうがどうでも良かった。あんたが勝手にいなくなった方が嫌だった」

 

 目の前の彼に怒りをぶつける。「勝手に消えるなんてひどい」。この言葉を、当時の私が抱いた怒りを、彼にぶつける。この長年の悲願は結局、思わぬ形で成就した。成就したのだが、成就したところで、考えていたよりスッキリした気持ちになるわけでもなかった。しかし、いわゆる、喉に引っかかっていた魚の骨がとれたような、というべきか、返さなきゃいけないが放ったままになっていた連絡にやっと返事をした時のような、いつか整理しようとしてファイルに入れたまま見ぬフリをしていた領収書の山を会計アプリに打ち込み終わった時のような、やるべきこととして視界の片隅にあり続けるせいで小さなストレスを感じ続けている小さなタスクをやっと片付けた、ともいうべき満足感はあった。いつの間にか私よりもはるかに大きく育ったらしい彼が、その体を小さく小さくして申し訳なさそうにしている姿を拝めただけでも、私の中に居続ける少女の私はいくらか満足そうにしていた。

 

「いや、その、だって、僕は、君自身がそういう目で見られているようで、君は気にしてなかったのかもしれないけど、でも、僕はそれが、僕がそれを、嫌だったんだよ……」

 

 彼は再び俯き、言葉に詰まりながら言い訳めいた口調で言った。時折、長い前髪の隙間からこちらを伺う瞳が見えた。

 

「……うん、分かった。分かってる。ありがとうね。怒ってくれて、ありがとう」

 

 幼い頃と変わらない。あの頃と同じように、透明度の低い窓ガラス越しに午後の日が差し込んでいて、その日差しが隙間風に舞うホコリをきらめかせていて、ごちゃごちゃとものが置かれているもののどこか寂しげな雰囲気の質素な部屋で、彼と私は二人きり。チェスで彼に負けただとか、彼の方が宿題を早く終わらせただとか、そういったくだらないことで一方的に私は不機嫌になり、それを彼はどうしてなだめて良いものか分からず、あわあわと長い前髪の向こうから私の様子を伺い、その狼狽した彼の様子を見て、私は満足し、なぜか知らぬが機嫌がなおった私に彼が胸を撫で下ろす。あの頃と同じ。彼は眉を下げ、大きいはずの瞳をぎゅっと細めて、不器用そうに笑っている。私はこの笑顔が、心底、好きだった。ちょっとサディスティックだろうか。

 

「思えばさ、私だって黙っていなくなったようなものだったもんね。……あのゲームを見つけた時、嬉しかったんだよ。私との思い出をゲームにするくらい覚えててくれたんだって」

「僕こそ、まさか君が見つけてくれるとは思わなかったよ」

 

 一通りの問答が済んで、改めて私たちは旧交を温めはじめた。良家の子女が通う私立小学校の制服も着ておらず、捨て置かれた古物に囲まれてもいない。麻を主材料としたストーンワールドのオートクチュールを着て、製造が追いついていないという藁半紙のようなガサガサした紙の資料に囲まれている。にも関わらず、あの頃の風景が蘇るのは、何度も私たちがあの屋根裏での思い出を共有してきたからなのだろうか。

 

「あの頃はたくさんゲームを作ったけど、僕、シナリオ考えるのが苦手だからさ。あのゲームでは君のことを勝手にモデルにさせてもらったんだ。おかげで良い出来だったと思う。まぁ、それであんなことになっちゃったんだけど」

 

 彼は苦笑いをしながら、どこか自虐的に言った。

 

「ん? たくさん? じゃ、あれはたくさん作ったうちの一つってこと?」

 

 たとえ気になったことがあったとしても、今は思い出話に花を咲かせることを優先して流せば良いものを、思わず追求してしまうのが私の良くないところであった。彼も彼で、私の言葉を字義通り受け取って、その質問の意図に思いを馳せようともしないのは良くないところだと思う。

 

「うん、他にはもっとファンタジーっぽいRPGとか、謎解きっぽいシナリオゲームとかも作ったかな。もはや全部なくなっちゃったんだけど。それにしても、君もゲーム制作に興味があったなんてねっ。なんだか嬉しいな……!」

 

 石化の影響で黒く染まったらしい指先で頬をかきながら、彼はこそばゆそうに微笑みながら答えた。その表情があまりに無邪気なものだから、さすがの私も追求する言葉を失って、狭い机に広げられた資料の上に両肘をつき、大きなため息をつかざるを得ないのだった。

 

「……はぁ〜」

「えっ、ど、どうしたの?」

「いや、なんでもない。とにかく、こんなところで幼馴染に再会できるとはね。素直に嬉しいよ」

 

 肘をついたせいで少しよれた資料の紙を指先で押し広げながら、この再会の総括を述べた。石化という大事件の後にも関わらず、すぐに知り合いに会えた。その知り合いが、連絡が途絶えていた初恋の人だった。その人は昔と変わらず優しく、気弱で、豊かな黒髪も、色の濃い肌も、黒く大きな瞳も昔のまま魅力的だった。その人に対し拗らせていた長年の怨念も成仏した。これ以上ないほど完璧な再会だった。それで十分だった。私はどこか緊張していた肩が降りるような心地を感じていた。

 

「おさな……、いや、うん、そうだね。僕もっ、嬉しいよ」

「仕事、よろしくね。あんたほど頭よかないけど、役に立ちたいとは思ってるよ」

「君がいてくれると思うと心強いよ」

 

 若き研究者仲間がティーセットを持って戻ってきた。二人では持ちきれないだろうということで、茶菓子を運んできたフランソワという人物に、私は見覚えがあった。いつだったか、私の祖父母の家で遅くまで遊んだ彼を迎えにきたことがある七海家の執事の方だった。フランソワさんは私のことはあまり覚えていないようだったが、彼が嬉しそうに私が幼なじみであること、こうして再会できたことを説明するので、少しあっけに取られたような顔をしてから、それは微笑ましそうに笑っていた。

 

-

 

 同じタイミングで石化から復活し、新規復活者研修を共に受講した女性を見かけた。昼食をとりにやってきた、フランソワさんが切り盛りするレストランでのことだ。

 

 彼女は石化前、アクセサリーデザイナーだったか、陶芸家だったか、そういったクリエイティブな仕事をしていたと言っていた。もちろん私とは別の仕事場に配属され、あの研修の数日間以降はほとんど顔を合わせることはなかった。そのため、こうして再び見かけることができ懐かしくなった私から声をかけ、隣あって昼食を取ることになった。私の選んだ本日のランチAは白身魚のフライと根菜のスープだった。フランソワさんという方はとても料理が上手らしい。どの食事もおいしかった。どれもおいしいのだが、隣に座る女性があまりに勢いよく食べるので、彼女の選んだランチBはそれほどおいしいのかと少し気にかかった。

 

「角煮、そんなにおいしい?」

 

 彼女がかぶりつく豚の角煮が、青空食堂に降り注ぐ正午の日光に輝いている。美しいテリだった。彼女の箸がつかんでいるので最後の一切れだった。それが大きく開けられた口の中に消える。次、角煮がランチに出るようなら絶対に食べたい、と思わせるほど良い食べっぷりだった。

 

「ごめん、ガツガツ食べて。お行儀悪かった? お腹減っちゃってさ」

「へぇ。仕事、大変なの? 何してるんだっけ?」

 

 ランチA、B共通の根菜のスープに口をつけ、彼女はふぅっと一息ついた。温かいスープが食道を通り、胃に落ちていくのをじっくり味わってから返答する。

 

「最近は壊れちゃってる石像を修復したり、整理したりしてるよ」

 

 石化してしまった人類の石像を探索、収集しているチームがある。彼女が配属されたのはそのチームだった。手先が器用で根気がある彼女は、人類石化から復活者が現れるまでの3700年の間に、建造物の倒壊や自然災害等で砕けてしまった石像を修復、整理する業務を任されているらしい。石の運搬、石像の欠けた部分を補うパズル。肉体労働に頭脳労働。彼女の仕事の概要を聞き、それはさぞお腹が減ることだろうと合点した。角煮のなくなった皿と彼女の顔を交互に見る。

 

「へぇ、石像を。修理すれば壊れちゃってても生き返るの?」

 

 なんとはなしに聞いた質問だった。いや、気になっていた部分だった。全人類の復活を目指している。彼女と共に受けた新人講習で、そう説明された。ご大層な目標だが、素晴らしい希望だと思った。事実、私はこうして石像から復活している。何もかもが失われた世界で、衣食住の確保どころか、ロケットを作って月まで行こうというのだ。この新世界を治める科学王国というものは、そのご大層な目標、全人類の復活、を成し遂げうる。新参者なりに科学王国への信頼はあつかった。しかし。石化当時、洋上にいるなどして海の底へ沈んでしまった石像は。土砂崩れや雪崩などの自然災害で埋もれてしまった石像は。粉々になって山谷の一部となってしまった石像は。全ての石像を見つけ、全ての人類を復活させる。それは、やはり机上の空論ではないのか。理論上では組み上がっていたが製作に至らなかったバベッジの解析機関に類するものではないのか。私は、それが気になっていた。

 

「……生き返らないよ。でも、それが誰かって、分かる方が、いいでしょ? 探してる人がいるかもしれないしね。そんで、その探してる人が見つけられたとして、やっぱ欠けてるところが少ない方がいい、と、思うから」

 

 彼女は少しためらいがちに、しかし、確信的な口調で答えた。彼女はすでにこの科学王国の掲げる理念の欠陥に行き当たり、いくども逡巡し、いくども自身の仕事に疑念と諦念を抱き、その上で、そこに大いなる意義を見出している様子だった。

 

 石像が割れ、割れた面が風化すれば元通りにはならない。というのが、先行して復活した人類が知り得た石化のルールらしい。手足が折れた人間に復活液をかけるとどのようになるのか、欠けた部分がある場合はどうなるのか。それはこれからの検討、研究が待たれる状況とのことである。現段階では、そういった割れや欠けのある石像はできるだけ修復した状態で見つかった場所の近くに安置するのが最善という判断だった。

 

「どんな形でも家族や友達の安否が分かった方がいい、私もそう思う」

 

 それが悲しい事実だとしても。安否不明の家族を探し続けるよりも。いつかまた会えるかもしれないと待ち続けるよりも。少なくとも私はそう思う。そのようなことを述べた私の言葉を聞いて、彼女はちょっと驚いた顔をして、ちょっと笑って、ちょっと頷いて、それから、残っていたスープをかきこんだ。午後も仕事を頑張ろう。私たちはまた一緒にランチでも、と約束してから、レストランを後にした。

 

-

 

 夜食のおにぎりを頬張りながら、SAIが急に言い出した。

 

「せっかく四人になったからっ、チャトランガをやってみない?」

 

 ロケットプログラム開発チームのその日の夜は、少し間伸びした空気だった。というのも、クロムさんとスイカさんたちはどうやらメインのロケット開発とは異なる極秘プロジェクトを行っているようで、そして、その進捗がはかばかしくないようで、どこか沈んだ表情をしており、その様子はプログラムや数学ばかりを友としてきたSAIでさえも感じ取れるほどだった。行き詰まった時は単純なパズルとかやると、意外といい息抜きになったり、頭がリセットされていいアイデアがでたりするから。そう言って切り出されたボードゲームの提案は、この空気を打破しようという彼なりの心遣いのようだった。

 

「チャトラ……? なんだ、それ?」

「チャトランガ。ボードゲームだよ。チェスみたいなやつだけど、これは四人でできるの」

 

 聞いたことのない単語に怪訝そうな表情を惜しまないクロムさんに、私が簡単に説明を加える。

 

「チェスってSAIと龍水がやってるやつなんだよ?」

「そうだよ。チェスはこのチャトランガから発展したと言われているんだ。チェスだけじゃなく、将棋の起源とも言われてるね」

 

 スイカさんの問いにSAIが答える。龍水というのはSAIの弟だ。子供の頃、SAIからこの弟や他の兄弟の名前を聞いたことはあったが、私が龍水さんに対面したのはストーンワールドで目覚めてからのことだった。龍水さんは、顔立ちこそSAIと似ているが、性格は真逆も良いところで、物怖じしない、あえていうなら不遜な、しかし器の大きさと圧倒的なリーダーシップを感じさせる男性だった。彼ら二人はこの性格の違いから親しい兄弟とは呼びにくい関係だったそうだが、石化復活後はいくらか関係性の改善が見られ、今では時折、二人でチェスなどをする仲らしい。なんとも微笑ましい話だ。

 

 その兄弟二人が興じるチェスセットをSAIが取り出して、部屋の中央にある打合せテーブルに置いた。木箱を開け、収納されている駒を一つ一つ取り出していく。私は駒を軽々と操る彼の指先を見ていた。かつて見た細い少年のそれとは異なる、節だった、そして石化の影響で黒く染まった、彼の指先。

 

「俺、ルール知らねぇぞ?」

「スイカもなんだよ」

「そんなに難しくないよ。教えてあげよう」

 

 どうかな? 彼は、二人の少年少女に向かって、はにかむように笑った。少年少女が「やってみたい!」と意気込んで動くたびギシギシと鳴る質素な床板、仕上げ材がはられておらず間柱が剥き出しの壁、その壁かどこかから時折吹き込む隙間風、隙間風に揺れるウェーブがかった長い前髪、前髪の向こうの大きくて黒い瞳が微笑んで、彼の指がチェスの駒を動かしている。私は一人、誰にも悟られない程度に、小さく、息を飲んだ。あの頃の屋根裏部屋が、目の前に再現されているようだったからだ。あの洋館の二階にあるガラクタの山から見つけた、私だけの宝物を、今、もう一度、掘り起こしてしまったような気がしたからだ。

 

「その間、私、駒に色分けの札を貼っておくね」

 

 SAIがクロムさんとスイカさんにチャトランガのルールを説明している間、私はその輪から外れるようにして、駒に貼るための札を作ることとする。彼の説明の声だけが耳に入る。

 

 古代インドで生まれたというチャトランガのルールは実のところ正確なものが伝わっておらず、地域や研究者ごとに少しずつルールが異なる。しかし、彼の説明するチャトランガのルールは私の知っているものだった。なぜなら、私が自分流に解釈し、ゲーム化したあのチャトランガのルールだったからだ。一通り彼は説明を終え、私の方を見る。人と目を合わせることが苦手だというにも関わらず時折こちらを見て微笑む、あの瞳が、こちらを見ていた。私は色分けの札を貼ったアシュワの駒を空いている盤面に置いて、彼の問うような眼差しに頷いて応えた。私たちは同じルールを共有していた。

 

-

 

 プロジェクトの行き詰まりを感じていた若き研究者たちは、SAIの提案通り簡単なボードゲームですっかり気分転換ができたようで、今一度自分達の研究を進めると部屋を後にした。遅くなってきたからほどほどに、という私の声はあまり届いていなさそうだった。何かに熱中する若者にとって多少の無茶は必要経費であるため強くは言えない。私自身も、かつてゲーム制作に精魂をつぎ込んだ日々は、それは寝る間も惜しんでPCにかじりついていたものである。その時に作ったゲームを、まさかこのような形で他者と共有するとは思いもしなかったが。ゲーム制作の動機となった男の子の成長した姿を盗み見ながら考えていた。その男の子はゲームに夢中になっては輝かせていた表情も昔のままに、取り捨てられていた駒を再び盤上に並べながら声を弾ませた。

 

「顔を合わせてゲームをするのは久しぶりだったね」

「うん、楽しかった」

「ねぇ、二人でもやろうよ。チャトランガ」

「いいね」

 

 私たちは再びゲームを始める。チェス盤を間に、二人で向かい合って。彼の指先が駒を動かす。私はそれを見つめている。私が駒を動かす。彼はそれを見て、なぜかいつも嬉しそうに微笑んでいた。

 

「あのゲーム、私が作ったっていつ気づいたの?」

 

 再会した時に聞いた言葉を思い出しながら、私は問うた。彼は言った。「あのチャトランガのゲームっ、君が作ったんだよね?」。つまり、彼は、あのゲームの制作者が私であることにほとんど確信を持っていた、ということだ。しかし、そのことを私は知らなかった。

 

「いつも何も、あのゲームが発表されてからランキングトップを譲ったことはないよ」

「は? えっと、え、いや、え? ランキングトップって、もしかしてあんたがRAI?」

「そう、RAI。知っててくれたんだね、嬉しいな」

 

 作ったゲームはコンピュータを相手にした対戦ものだったが、その対戦内容がポイント換算され、獲得ポイントによってユーザのランキングが生成される仕様になっていた。これは、ユーザにHNを入力してほしい、つまりSAIが現れた時に知れるようにしたい、という私の個人的な願いを込めた仕様であった。そのランキングにおいて発表当時からずっとトップに名前を刻んでいたのがRAIというユーザだった。いくら待ってもSAIは現れなかったが、代わりにRAIというユーザはいくら時が経ってもランキングトップのままだった。まさか、このトップランカーが探しあぐねていた人物だったとは。私は手に持っていたガジャを取り落とす。

 

「ラーイっていうから、てっきりインド人かと……」

「ラーイ……、確かにインドの名前にあるね」

 

 取り落とした駒を盤上に戻し、相手側へ侵攻させた。動揺が手に現れたのだろう、進めた駒はすぐに彼の指に攫われ、盤上から姿を消した。私はむくれた顔をする。彼はそれを困ったように笑いながら見ていた。

 

「私だって気づいてたなら一言くらい連絡してくれてもいいのに」

「ごめん、なんていうか、気後れしちゃって」

 

 気後れしていた彼の気持ちも先日のやりとりで十分理解していた。少しだけ恨み言を言わせてもらうが、それ以上は追求しない。ただ、彼のパダーティが少しずつこちらへ進んでくるのをどう捌くかを考えていた。

 

「名前も、なんでRAI? SAIでいいでしょ」

「あの手のゲームでランキングトップのSAIなんてっ、もう完全にSAIじゃないか」

「SAIはSAIでしょ」

「チェスゲームの時も言われたんだよ、漫画の読みすぎだって」

「え、あ、そうか、“ヒカルの碁”のsaiを真似してる、って思われるってこと?」

「……うん」

「ぷっ、あはは! 確かに、あの頃、流行ってたもんねぇ」

「今考えれば、別に他の人からどう思われたっていいんだけど」

 

 意外と俗っぽいことで頭を悩ませる彼にたまらず吹き出す。彼は彼で恥ずかしそうに、しかし、どこか嬉しそうに笑っている。黒く染まった指先で頬をかいている。

 

「なんでSAIがRAIになったの?」

「うーん、特に意味はないけど。S言語がR言語に、みたいな」

「ふーん。チャトランガがチェスに、みたいな?」

「それ合ってるのかな」

「ふふ。ちょっと違う?」

「あはは。わかんない」

 

 私たちは朗らかに笑いながら、盤上ではしのぎを削っていた。私は彼のローカを奪い、彼は私のアシュワを奪った。彼のパダーティが絶妙にラージャを隠している。悩んだ末、ガジャを動かした。先ほど取り落とした駒だ。落とされた恨みを忘れてよく働いてくれよ、と盤上を滑らせる。

 

「君は変わったようで、変わってないね。大人の女性にはなったけど、こうして一緒にゲームをしていると昔のままのように思うよ」

 

 パダーティの動きばかりに気を取られていた私は、急に動き出したラタにラージャを取られた。ゲームの勝敗は決した。いつだって、ゲームでこの男の子に勝てたことなどなかったことを思い出す。あの屋根裏部屋でチェスや他のゲームに興じては、彼に負け、すね、すねた私にあわてふためく男の子の様子にやっと機嫌を直し、仲直りをして、また二人で遊んだ日を思い出す。男の子も私も大人になったが、またこうして一緒にゲームをしている。一方、私はもう負けたからといってすねたりしない。大人になったからだ。

 

「僕、君と二人であそこで遊ぶのが好きだったよ」

「……私も」

「君と二人でいるのは居心地が良いんだ」

「……そうだね」

 

 彼の指が乱れた盤面の上を行き交う。駒を持ち上げ、最初の陣形に直していく。王様、象、船。キング、ビショップ、ルーク。本来の役目と異なる役割を押し付けられた駒たちを並べていく。細くて柔らかかった男の子の指がチェスの駒を操る様子を、屋根裏部屋の少女は、大人っぽい、と憧れの眼差しで眺めていた。今、盤上を駆け巡る彼の指は、肉は少なく節くれだった男性の手で、なにより、石化の影響で真っ黒に染まっている。それを眺め、私は、過ぎ越した年月を感じていた。

 

「……ずっと、昔から、君は、僕のラーダーだったんだと思う」

「ラーダー? インドの言葉?」

「そう。“ギータ・ゴーヴィンダ”っていう古い詩があって。それで、その……」

 

 彼は長い前髪の奥から探るようにこちらを見ている。あの大きくて黒い瞳だ。しかし、見たことのない熱量がそこにあった。思わず目を逸らそうとする。逃げようとする。彼が自分のゲームを消したときのように、向き合うことから逃げようとした。その私の手を彼がつかんだ。持っていたナイトが盤面に落ちて、コンと音を立てた。ナイトが落ちた拍子に立っていたポーンもひとつ倒れた。

 

「その、つまり……。ずっと昔から、僕は、君のことがっ」

「っごめん! ……ごめんね」

 

 倒れている駒に視線を落としながら、私は彼のように少し言葉を詰まらせながら言った。

 

「私っ、結婚、してるの」

「え?」

 

 私の手を掴む彼の手をそっとはずす。彼の手は重力に従って、二人の間にあるチェス盤の上へ落ちた。今度はナイトやポーンどころではなく、多くの駒が彼の手によって薙ぎ倒された。外界から現れた怪物の襲来に、駒たちはなすすべもなく次々と倒れた。

 

「夫が、いるの」

「ほ、本当に?」

「うん」

 

 私は彼との突然の別れのあと、彼を思ってゲーム制作に打ち込んだ。しかし、彼は現れず、私は次第に彼への執着の熱を失った。そして、多くの同世代の人間と同様に大学受験をして大学に入学し、卒業後は企業に就職し、働いていた。その間、多くの同世代の人間と同様に、恋愛ごとを経験した。多くの同世代の人間と同様に、年頃になって気の合う人間と出会い、その人間を人生を共にするパートナーとすることに決めた。パートナーとなった夫は同じ職場の人間で、仕事ぶりは優秀で、優しく気弱な人間だった。どこか、今ここでチェス盤の向こうに座っている男に似ていた。単に、私のような跳ねっ返りを相手にできる寛大な人間となると、似たような種類になってしまうだけかもしれないが。彼と夫の違いは、その時、そこにいたか。それだけだったのだろう。結婚はタイミング。多くの人が言うように、私にとってもそれは真だっただけだ。とはいえ、優しく気弱で、ふとしたことですぐに不機嫌になる私を暖かく見守ってくれる夫は私にとって良き夫であった。私の愛した人だった。

 

「そ、そんな……。だって、君は、僕を見つけてくれて、僕を探してくれて、僕と同じようにゲームを作って、僕と同じようにあの洋館を、あの思い出を大切にしていて……」

 

 チェスも、難しい数学も、複雑なプログラミングも容易にこなす頭脳明晰な彼は、私の言葉の意味が理解できずに頭を抱えている。私はそんな彼の様子を見ていられず、自分の気持ちを落ち着かせるためとでもいうように、薙ぎ倒された駒たちを、箱にひとつずつしまっていく。

 

「……なんでもっと、早く、言ってくれなかったの。なんでチェスゲームを消して、いなくなったの。なんでチャトランガのゲームを見て、名乗ってくれなかったの」

「それは……」

「なんてね。こんなこと言ったって仕方がない。過ぎたことだよ」

 

 もし、あのゲームを消した後も連絡を取り合っていたら、もし、私のゲームを通じてもう一度再会していたら。しかし、そうはならなかった。私たちは再会せず、長い間、離れて暮らし、その間に互いのことを思い出す時間は少しずつ減った。そういうものだ。別れはいつだって突然。恋は冷めるし、愛は朽ちる。過去は忘れるし、運命はいたずらだ。これは私の人生の教訓である。愛し合って私を産んだはずの両親は憎み合って別れ、私は私で強い仲間意識を持っていた私立の小学校の同級生たちを忘れて新しい小学校を楽しんでいた。幼馴染の男の子と再会しても、すぐに音信不通になった。その男の子へ向けてゲームを作るほど執心していたにも関わらず、ゲームを作り終えればその熱は冷めた。そういうものだ。そういうものなのだ。S言語からR言語が生まれ、S言語は忘れ去られ、チャトランガからチェスが生まれ、チャトランガのルールは失われ。そういうものなのだ。そして、また、私は何かを失い、そしてその失ったことさえ、いつしか忘れてしまうのかもしれなかった。

 

「そっか。うん。分かった。その、夫さんとは、もう再会できた? まだだったら、僕、一緒に探すよ」

「……私の夫はあの時おそらく飛行機に乗ってた。十中八九、彼の石像は壊れていると思う」

 

 復活してからというもの、私は石化光線を浴びたあの日のことをいくども思い返していた。あの日、私は職場にいた。社内システムについて調達部とミーティングをしていた。調達部は私の夫の所属する部だった。そうしてたびたびミーティングで顔を合わせることから私と夫は仲を深め、結婚に至っていた。しかし、その日、夫はミーティングには出席していなかった。海外にある支店に出張していたからだ。その日の前日、夫がスーツケースに丁寧に荷物を詰めていた姿が思い出されていた。フライトは明日の〇〇時だよ。君は打合せだったよね。そう言っていた。今頃、夫は飛行機に乗っている頃だ。毒にも薬にもならないような上司の脱線話を聞きながら、私は打合せ室の窓の外に目を向け、狭いエコノミー席にぎゅうぎゅうに体を詰め込んでいる夫の姿を思い描いていた。眺めていた窓の外から異様な光が迫ってくる見えた。これが、石化前の最後の記憶だった。

 

「だから、今、あんたの言葉を受け取っても、倫理的には悪いことなんてないのかもしれない。もう帰らない人に操を立てるようなタイプでもないし。でも、まだ、心の整理がつかないんだ。結婚するほど好きだったんだもの……」

 

 誰かの勝手な都合で何かを失うことにはうんざりだった。それを仕方のないことだと納得したフリをするのも飽き飽きしていた。だからこそ、かつて少女だった私ははやり場のない心情に“怒り”と命名して、その火を絶やさずに燃やし続け、ゲームの制作に邁進した。あの男の子に八つ当たりをするために。そして、今の私は、このやり場のない心情に名前をつける前に、ロケットを作っている。夫を奪った何者かに罵詈雑言を浴びせるために。しかし、それが達成できたら、私はまた、このやり場のない気持ちも、夫への愛も、忘れてしまうのかもしれない。それは、恐ろしいことだった。

 

「……こんなこと、僕が言えたことではないって分かってるけど」

 

 相変わらずこの小屋に吹き込む隙間風で彼の長い前髪は揺れていた。その前髪の向こうで彼の瞳も揺れていた。おそらく、私のものも揺れている。隙間風に揺らされた吊り下げ式の照明も揺れているので、その明かりのせいでそう見えるのかもしれない。窓の外では月明かりが揺れていた。精度の悪い波打った窓ガラスがそう見させているだけかもしれなかった。

 

「君にとって大事な人が別にいたとしても、それが僕じゃないとしても、君が悲しい顔をしているなら、そんな君に寄り添う人がいないというなら、今は……、ちがう、今度こそは、僕は、君の、そばにいたい」

「……」

 

 駒をしまい終わった私は木箱を閉じた。閉じた木箱のように私たちはしばらく押し黙った。沈黙の中、彼の手が音もなく伸び、駒が収納された木箱の上に乗った。反対側に私の手も乗っている。互いの指先はチェス盤のひとマス分ほど進めば触れ合えそうな距離にあった。

 

「その人のことを忘れてほしいわけではないんだ、僕の方を見てほしいわけでもない、いや、本当は見てほしいけど、今の君にそんなことを望む資格は僕にはなくて、えっと、なんて言ったらいいかなっ。その、こうして顔を合わせて、ゲームをしたり、昔みたいに話をしたり、するのはどうか、ってこと、なんだけど、……どう、かな?」

「……ふふ。同僚だからね。顔は合わせるだろうし、時々ゲームをしたりもするだろうね」

 

 辿々しい彼の言葉に思わず笑声をこぼす。その笑い声と遠回しな受諾の言葉に彼は眉を少し下げ、安堵の嘆息を漏らした。ほとんど泣きそうな顔をしているのに、やはり、前髪の奥の大きく黒い瞳は微笑みながら私を見ている。

 

「……触れるのは?」

「ダメ」

 

 私の返答に反し、彼の指は木箱の上を滑った。チェス盤の上を自在に動く時とたがわぬなめらかな動きで、彼の指が私の指に触れた。彼は優しくて気弱だが、自分の意思を貫く強さがあった。あの堂々とした性格の弟君と性格上似ているところがあるとすれば、こういうところかもしれない。面倒ごとを押し付けられては人の分まで出張に行っていた私の夫との違いをあげれば、こういうところかもしれない。

 

「君が辛い時には頼ってほしいって、思っても良い?」

「……ん」

 

 彼の黒い指先に触れるのはそれが初めてで、あの屋根裏に登る階段でつないだ手の感触と比べたいものだったが、その記憶は昔のものすぎて思い出されず、比較することは叶わなかった。ただ、そこにある、その指が、意外に暖かいことだけが知れたのだった。

 

-

プログラミング等なにもわかってない人間が書いています。おかしいところありましたらご容赦ください。

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