return文のギータ | while文のエピック 作:リネン_
爽やかな香りのするレモネードをグイッとあおる青年の様子をじっと見ている。宇宙飛行士訓練の一つである着衣水泳を終え、束の間の休憩時間を得た青年は、心身を休めるにはいささか不躾すぎる視線を送る私に向かって、あからさまに嫌な顔をした。「んだよ」。
「転属?」
「はい、もし、可能であれば」
青年、もとい、千空さんの空いたグラスにレモネードを注ぐ。運動後の疲労回復を考え、村全体の栄養管理を担うフランソワさんが作ったドリンクだった。フランソワさんの運営する食堂でランチを終えたころ、このドリンクが作られているところを目撃した私は、訓練をする皆へドリンクを届ける仕事に立候補し、この浜辺へやってきた。村から歩いてすぐの小さな入江である。千空さんに相談事があったからだ。つまり、転属の相談だ。
「手が足りねぇって話じゃなかったのかよ」
「それは……、そう、なのですが」
もはや全世界の知性が集い始めた今、末端のSEが一人抜けたところで支障はない。人工衛星は無事、打ち上げに成功。宇宙船操縦プログラムも完成。ここからは、より高度な軌道計算、バックアップナビゲーションシステムの開発が求められる。この頃のオンライン会議での専門家たちのやりとりについていけていない。企業内部の情シス程度しかやってきていない私は力不足であり、より適した仕事があるならそちらを請け負いたい。というような、説明を加えるが、これが詭弁である事はおそらく伝わっているだろう。泣く子も黙るほど合理主義でありながら、人情にも聡いこの青年は、まだ海水に湿る髪を乱暴にかきまぜながら、二杯目のレモネードを飲み干した。
「あー、俺は自慢じゃねぇが、こういうのは得意じゃねぇんだ。ゲンの野郎を呼んどいてやっから、一回、話してみろ」
「あ、ありがとうございます」
「その敬語やめやがれ」
「ごめん、ありがとう。千空くん」
飲み終えたレモネードのグラスを受け取ろうと手を伸ばすが、「これくれぇ自分でやっから」とはたき落とされたので、グラスの空いていそうなほかの訓練生にレモネードをついで回ることにした。
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「というわけで、みんな大好き、あさぎりゲンの登場だよ〜」
黒と白の特徴的な髪型の青年はニコニコしながら、しかし、注意深くこちらを観察しながら向かいの椅子に腰掛けた。
「わ〜、あさぎりゲンだ〜。私、芸能人をこんなに間近で見るの初めてかも」
早速、ミーティングがセッティングされた。決められてはいるが守られたためしのない終業時刻後、まだ夕食の時間には早い食堂のすみで会合が始まる。会議室のような話し合いをするための個室は、この村にはない。部門を跨いでの打合せは、どちらかの詰所で行われることが多く、プライベートな話は立ち話か森や海辺など人気のない外部で行われることが多い。ビジネス上の話でもあり、しかし、機密性の高い話でもある今回のような場合は、あまり想定されていないらしい。これはこの村の改善点の一つであろう。人気(ひとけ)の少ない食堂でのミーティングはあさぎりさんの提案だった。おそらく他者の前でする話ではないが、腰を据えて話すべき内容であることは、千空くんから伝わっているようだった。
「あらら、俺のこと知っててくれたのね。ありがとね〜。サインでもする〜?」
「え、してほしい。えっと、メモ帳」
「冗談だったのに。結構応援してくれてたの?」
「ごめんなさい、ミーハー心。でも、よくテレビでご活躍を拝見してました。夫があなたの出てる番組が好きだったの」
互いに探るような会話を数ラリー挟み、間合いを測ってから本題に入る。
「で、転属したいって? 」
「はい。千空くんに相談してみたんですけど、そしたらゲンくんと話してみろ、とのことで」
「出た、千空ちゃんによる俺の便利屋扱い。といってもね〜、俺は人事権を握ってるわけでもなんでもないんだけど。でも人の相談に乗るのは好きだし、一応いろんなところと繋がってるから、話によっては他のところに紹介ってのもできないこともないって感じ」
私が取り出したメモ帳にサインを書きつけながら、あさぎりさんは困っちゃうといった口ぶりで、しかし頼りにされること自体は満更でもないという風に口角を上げた。そして、サインを書いたメモ帳をこちらに手渡す。メモ帳を受け取った私の手から順に、胸、口、目までを滑るように彼の目線がたどっていく。
「転属を希望する理由を聞いても?」
人を観察するのが癖なのだろうあさぎりさんの目線にたじろぎつつ、私もまた目線をそっと巡らせる。夏の長い日が終業時刻後の弛緩した空気と共に、がらんとした食堂を柔らかく滲ませている。我々以外は誰もいない。厨房から夕食の支度をする音が響き始めた以外は静かなものだった。他にこの話を聞く人間がいないことを確認した私は、小さく頷いてから口を開いた。
「その、いわゆる人間関係、なのですが」
一歩を差し出した道が踏み締めるに足るものか確かめるように、言葉を切りながら話し出す。
「人間関係ね〜。職場あるあるよね」
あさぎりさんは眉を寄せ、口を曲げ、いかにもな理解を示してみせた。少なくとも自分の悩みが相談相手に拒絶されるものではないことが知れた私は、少し肩の力を抜く。
「といっても、プログラミングチームはSAIちゃんにクロムちゃん、スイカちゃんだけじゃない? 新人イビリするようなこわ〜いお局なんかいなさそうだけど」
「いや、その、イビられてるわけではなくて、どちらかというと好かれてて困ってるといいますか……」
一人ずつ提示された名前ごとに私の反応をうかがっていたのだろうが、煮え切らない回答と想定外の“悩み”の内容に、饒舌なはずのあさぎりさんも私と共に少しの沈黙を食んだ。厨房から響く、何かを包丁で刻むリズミカルな音だけが耳についた。その音が止んで、あさぎりさんは息を吐くような小さな笑いを漏らす。
「プログラミングなんてやってんだもの、本来は千空ちゃんみたいな合理主義なんじゃない? 俺、こう見えて、人の話をヨソでするような不届き者じゃないから、話したいように話してみてよ」
伸ばしていた背を少し丸めるようにして肘をつき、組んだ両手の上に顎をのせ、あさぎりさんは首を少し傾げて見せた。さすが、観察力と理解力に秀でた“メンタリスト”だ。私は初対面の人間にできるだけ好印象を抱いてもらおうという無意識の粉飾が、相談を持ちかけた側の人間がとる態度にしては無礼なものであると思い直し、取り繕うことを諦めた。
「はい。……率直にいいますと、SAIから私への好意が言動に現れ過ぎて仕事に支障が出かねない状況なんです。クロムさんやスイカさんの前でも平気でベタベタしてくるので、気まず過ぎます。ちょっと距離を置きたい」
二人でチャトランガをしたあの夜以来、SAIとの距離が急激に近くなった。距離というのは物理的なものだ。打合せをすれば膝が触れ合うほどの距離で隣に座り、隣に座れば私を抱えるように腕を後ろへ回し、ことあるごとに顔を覗き込んでは微笑みかけてくる。仕事場で四六時中一緒にいるにもかかわらず、食事もほぼ三食を共に食べ、夜はゲームや晩酌に誘われる。断れば仕事中だろうと、目に見えるほど落ち込む。食事や休憩で仕事場を離れようとすると必ずついてこようとするので、このミーティングのために仕事場から出る時も、SAIが手洗いに立った隙を狙ってこっそり出てきたくらいである。
年若いスイカさんも、さすがに我々の距離感が一般的なものではないことに気づいているのか、今までの通り食事や仕事終わりのゲームに誘っても遠慮するようになった。クロムさんは疎いらしく、特に気にせず「相変わらず仲良いな〜」とのんきそうに我々のことを見ているので、それはそれで気まずい。
「なるほどねぇ〜。ん〜、でも、さっき、ご結婚しているようなことを言っていたよね? 二人の関係性について、も少し聞いてもいい?」
「はい。少し長くなりますが」
あさぎりさんが目で頷き、私に話を促した。唇を巻き込むようにして少し湿らせ、話しはじめる。目の前の人間のような巧みな話術などというものはあいにく持ち合わせていないので、時系列に、事実を述べていくこととした。
「SAIと私は小さい頃、同じ小学校に通っていたことのある幼馴染でした。私たちは幼いながら互いに互いを好いていたと思います。少なくとも私にとって彼は初恋の人でした。といいつつも、私の転校や彼の渡印で疎遠になり、そのうちに私は彼のことを忘れ、別の人と結婚しました。彼と、SAIと再会するつもりもありませんでした。
ですが、この世界で数年ぶり、いや3700年と数年ぶりに再会しました。疎遠になったきっかけ、ともいうべき私たちのわだかまりを解消させたり、かつてのように長い時間を一緒に過ごしたりしているうちに、その、ほとんど直接的に、彼から私に対する好意を伝えられました。
私が結婚していることは彼にも話しています。ただ、私の結婚相手、私の夫は石化の影響でおそらくもう亡くなっているだろう、ということも、伝えています。最初の石化時、彼は飛行機に乗っていたんです。遺体を確認したわけではないのですが、おそらく、あの人はもう……。
……私はSAIからの好意に対し、完璧な拒絶を示せていません。夫を失ったショックやら孤独感やらで動揺する私に寄り添ってくれる彼を拒絶することができませんでした。これは私の落ち度でもあり、私個人の感情の問題として留保させてもらう権利があると認識しています。
えっと、つまり、彼が私へ好意を示してくれること自体を問題としているのではなく、それが仕事場に持ち込まれることが問題であり、彼がそれを制御できないのであれば環境を変えるしかない、と考えました。そして、プロジェクトの内容上、彼があの職を離れることはありえないため、私の転属が望ましいのではないか、と」
語尾を濁しながら、話を終え、相手の顔をうかがう。聞き手のあさぎりさんは少し驚いたような顔をしていた。しかし、すぐに目を細めて柔らかく笑んだ。私は、自分の状況を初めて人に話す緊張感から解放され、意味のないお辞儀をしたりした。
「め〜ちゃくちゃ良くわかりました。ゴイスーに、理路整然。それはさておき。転属は自分の中ではほとんど決定事項ってことね。聞いた感じ、俺もその方が良いと思うし。一応、事実確認ってことで、あとでスイカちゃんあたりに様子を聞いてみたいんだけど、それはだいじょぶ? プライベートなことは伏せて、あくまで仕事場でどんな感じか聞くだけなんだけど」
「あ、はい。大丈夫です。むしろ、お手数をおかけします」
今度は意味のあるお辞儀をする。丁寧でホワイトな職場だ。組織が若いからだろうか。お辞儀から顔をあげ、自分と年が近そうなあさぎりさんを見る。テレビで見ていた頃は年下だったはずの彼は、私よりずっと前に石化から復活していたため、今やほとんど年齢は変わらない。テレビ番組の中で活躍していたあさぎりさんの姿と、それを見ていた夫の姿が脳裏をよぎった。テレビの中の人とこうして話していると知ったら、夫はどんな反応をするのだろう。自分が今、語った内容と、思い出している人間の姿との距離に、思わずもう一度顎が下がった。
「どこも人手不足だから転属先も転属理由もいくらでもどうとでもなっちゃうから任せてよ」
必要以上に申し訳なさそうにしているように見えたのか、あさぎりさんは励ますように、つとめて明るい声で言った。慌てて顔をあげ、うまくもない笑みを作って礼を言うと、あさぎりさんは小さく数回「うんうん」と頷いてくれる。
「た、だ、ねぇ」
「ただ?」
「あの七海家の人間であるSAIちゃんがその話を飲むかは、ちょ〜と俺にも未知っていうか。いや、たぶん、絶対、受け入れないんじゃないかな〜って」
「……ですよねぇ」
二人で乾いた笑い声を漏らす。七海家というバックグラウンドがどのように作用するのかは私には想定の外(ほか)ではあったが、SAIという個人だけを見たとしても、この異動の話を素直に聞き入れるはずがないことは分かりきっていた。今度は二人で腕を組み、うなる。「うーん」。
「SAIちゃんすらねじ伏せるほどの剛腕がいないこともないんだけど……」
あさぎりさんが言い淀んでいると、薄暗くなってきた食堂に明かりがパッと灯った。ディナー営業が始まる時間だ。あさぎりさんの方で調整ができたら声をかける、ということで、ミーティングは解散となった。
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次のミーティングはすぐに行われた。あさぎりさんと私はまた食堂のすみ、同じ席に座っている。つまり調整が完了したということだ。さすが仕事が早い。前回から今回までの間にあさぎりさんはプログラミングチームの小屋に顔を出してくれたり、スイカさんをはじめ、周囲の人間から聞き取りをしてくれたりしていた。こちらとしては非常に個人的な問題に巻き込んだにもかかわらず、これほど手厚い対応をしてもらっては、恐縮するばかりである。何かお礼を、と申し出ても「これが仕事だから〜」とのらりくらりとかわされてしまう。今日は異動先の責任者を呼んであるとのことで、そのもう一人を待っているこの間に、やはり礼をしたいと今一度迫ってみたが、「それじゃ、今度、マジックの助手でも頼んじゃおうかな〜」と明らかな社交辞令だけが返ってくるばかりであった。これは、もはやこっそり何かを用意して押し付けるしかない。根っからの負けず嫌いである性分が燃え始めるのを感じていた。その静かな攻防に、雷(いかずち)を落とすかのような大きな声が割って入ってきた。
「見かけない美女がいると思ったら、貴様がSAIの幼馴染か!」
真っ赤な服を着た大きな男の人が、大きな歩幅でズンズンとこちらへ近づいてくる。
「りゅ、龍水さん。はじめまして」
立ち上がって一礼と自己紹介をする。「七海龍水だ」と大きな手が差し出され、強い力で握手が交わされた。
「龍水ちゃん。龍水ちゃんとこの銀行で技術屋が欲しいって言ってたじゃない? この子、石化前はSEやってたらしいんだけど欲しかったりする?」
「ふぅん、欲しいに決まっている! この世の全てが欲しいのだからな!」
「じゃ、龍水ちゃんとこに異動ってことで」
仕事の内容も詳しく聞かないうちに異動先が決まってしまった。軽く言っていたが、金融系のようだ。金融系SEだけには進むまいと、就職活動時に心に決めた日ももはや遠く、かといって宇宙開発のプログラマーよりはまだ身近に感じられないこともない、などと逡巡していると、龍水さんが首を傾げた。
「しかし、貴様。SAIのところでロケット開発に携わっていたのではないか?」
「あ、それは、えっと……」
あなたのお兄様から好意を寄せられていて困っているから、と異動に至った経緯を正直に答えるわけにもいかず、思わず口籠る。見かねたあさぎりさんが助け舟を出してくれた。
「ジョブローテーションってやつをやってみようと思ってるのよ。他の部門の仕事を経験すると、他の人の仕事に対する理解や敬意が深まったりするじゃない? いろんな人と面識もできて団結力も高まるってわけ」
「ゲン、貴様が何かしら企んでいるのは分かった。当たるぜ、船乗りの勘は。しかし追求はするまい。貴様に恩を売っておくのも悪くないからな。何より、人手は欲しかったのだ」
ジョブローテーションなど、取ってつけたような理由であることを、この席に列する皆が理解していたが、誰も深追いはしなかった。これは仕事を回す上での異動であり、そこに別の意図が秘められていようと、今後、この村の産業全体が円滑に進むのであれば問題はない。そういう判断だったのだと思う。もし仕事に支障が出そうな内容であれば、あさぎりさんが内容を峻別し、龍水さんに必要な分だけ伝達していただろうし、龍水さんはあさぎりさんが必要な情報を理由もなく伏せることはないと信頼を置いているようだった。
「勘定システム作りに加わってほしい。できるか?」
「頑張ります」
とはいえ、追々、私の状況は龍水さんにも漏れ伝わるような予感がある。その時になってから事情を理解するのでも十分だ、というあさぎりさんの考えなのかもしれなかった。とにかく、私の異動はあっさりと決まったのだった。
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「黙って出て行くなんてっ、あんまりじゃないか!」
プログラミングチームの小屋よりも広く、頑丈な作りになっている銀行部門の建物に、けたたましい足音が飛び込んできた。朝一番にプログラミングチームの小屋から数少ない私物を持って銀行部門に運び込んでいた私は、足音と同様に響く男の声にぎくりと背を震わせた。不義理を働いている自覚が喉を引きつらせる。
「ご、ごめんね。あの、このあと挨拶しに戻るつもりだったんだよ」
すでに出勤していたスイカさんには異動の旨を伝えてあった。あとから出勤し、仕事場に私の姿と荷物が見当たらないことに気がついたSAIはスイカさんから私が銀行部門へ向かったことを聞いて、慌てて追いかけてきたらしい。長い前髪を汗で額にはりつかせ、肩で息をしている。ロケット開発部門の一端であるプログラミングチームの小屋と、生活エリアに位置する銀行までは少し距離があった。その間を急いで駆けてきたのだろう。もつれる長い足を動かして、ここまで来た様子が目に浮かんだ。そして、勉強は得意だが、体育の授業では活躍を見せていなかった小学生の少年の姿がふと思い出された。その少年を置き去りにしたようで、幼い彼を傷付けたようで、何か言い訳めいた言葉しかつげなくなるのだった。
「出て行くといっても別の部門に異動しただけで、全く会えなくなるわけじゃないんだから」
まだ大きく上下しているSAIの肩を軽く叩く。朝とはいえ、日本の夏は蒸し暑く、走ってきた体が汗ばんでいるのが服越しでも分かった。そして、同じく汗ばんでいる手が、肩を叩いた私の手をつかんだ。そこから熱が伝染したとでもいうように、私は私で、自分の体に汗が滲んでくるのが分かった。
「そばにいていいって、同僚だから、そばにいるって、君が言ったんじゃないかっ」
始業前の誰もいない銀行に私を糾弾するSAIの声が響く。全てが木造である村の多くの建物と違い、人の背丈程度までレンガが積まれた一部組積造の銀行には、人の声がよく響いた。
「そ、それはそうだけど、同僚じゃなくなっても、時間が合えばまたチェスでもチャトランガでもしよう? それでいいでしょ?」
「嫌だ。そうやって僕を避けるつもりだろう?」
手をひこうとすればより強く引き寄せられた。少し痛みを感じるほど、SAIの手の力は強かった。長い前髪の奥から睨め付ける視線も痛かった。目を逸らす。持ち出した筆記具とノートが銀行のカウンターに投げ捨てるように置かれているのが目に入った。私の荷物はこれだけだった。他に何もない。何もない私を、この男はなぜか追いかけてきた。なぜか、など、白々しいのは承知だった。しかし、先日のあさぎりさんの前で取り繕うことを諦めたような素直さを、“なぜか”、今、この人の前で見せられない。
「避けないよ。わかった、じゃあ毎週金曜日の夜は一緒にゲームでもして過ごそう。どう?」
一息ついて、私の手を握るSAIの手を、もう片方の手で軽く叩いた。SAIをなだめるような仕草でありながら、その実、私自身を落ち着かせるための挙動でもあった。SAIの手がゆるんだ。私たちの手は離れる。汗が空気に涼しかった。部分的に石造りだからか銀行の中はどこかひんやりとしており、少し湿気た匂いがした。
「そんな事務的な……。約束がなけりゃ会えないなんて」
「旧世界の恋人同士だったとしても、約束してデートするし、会えるのは週に一回なんて珍しくもないじゃない。むしろ多い方だとおも–」
「僕らは恋人同士じゃないじゃないか。それともっ、恋人になってくれるのかい?」
開け放したままの扉から戸外の音が聞こえてくる。すでに仕事が始まっているらしい新築現場から響く金槌の音、初等教育のために設置された学校に向かう子供らの声、繊維小屋の軒先に干された草木染の生地が風でひるがえる音。明かりを灯していない薄暗い銀行の中で、私たちだけが沈黙と停滞に足を取られている。いや、私たち、ではない、私、だ。これほどにはっきりと意思を示す男から、今も、また、私は目を逸らすしかできない。私だけが、進むことも退くことも拒んでいた。
「……そういう話じゃなくて」
「恋人同士じゃないからこそ、できるだけそばにいたいのに」
「……はぁ。そういうところが私の転属理由なんだけど」
「え?」
「あんたが所構わずそういうこと言ってくるのが困るってこと。仕事中だろうと、クロムさんやスイカさんの前だろうとお構いなしなのは正直気まずい」
「それが、理由?」
「そう」
「それを直せば出て行かない?」
「いや、もう龍水さんの仕事引き受けちゃったから異動はします」
「えぇ〜。しかもなんでわざわざ龍水のところに? 僕への当てつけか何かなの?」
「たまたま必要な人材に当てはまっただけだから。当てつけって、小さい子みたいにわめかないでよ」
そのうちに、新入りの私に仕事の詳細を説明するため龍水さんがここへやってくる。この痴態を晒す前に話を切り上げたかった。SAIの背を押し、扉の方へ追いやっていく。外部から差し込む午前の日光が男を染めていく。影の中から追い出した彼を見上げた。黒だとばかり思っていたこの男の髪は、太陽光の下で見ると思ったよりも茶色がかっていることを私は最近知った。思い出の中でのSAIは傾いた日差しがさす屋根裏小屋の中で、堆積した翳りと同化していたが、それはもはや虚像なのであった。
「じゃあっ、毎晩九時に僕の部屋でお茶を飲もう。それなら良いよ」
「それなら良いよってなんであんたの許可がいるわけ。もう異動は決まったことなの。それに毎晩は無理」
「無理な時は言ってくれたらいい」
「うーん」
「早速、今夜から。九時だよ。待ってるから」
「今日は無理」
「なんで。何かあるの?」
「ないけど」
「君は待っていてくれたんだろう? 僕の来ないチャットルームで、何日も。今度は僕が待つ。君が来てくれなくても」
「……って、いや、あんたは自分の部屋にいるだけでしょ。あっぶな、騙されるとこだった」
「じゃ、じゃあ、作業小屋で待つ」
「だから、仕事場にそういうの持ち込むなって言ってんの」
「だったらどうしろって言うんだよ」
焦燥を隠さないSAIが一歩、室内へ戻る。石化の影響で黒く染まった腕が伸ばされ、墨色を濃くした。その手が今一度、私の手を取る。先ほどの汗はひいており、しかし、興奮からか未だ熱のこもったその手が、燻る木炭のようにしてこちらに火を移そうとする。
「……わかった、今夜九時ね。でも、場所はフランソワさんのバーにしよう?」
「……うん!」
この押し問答に負けはしたが、満面の笑みを前に嫌な気のしない私を、SAIの黒い両腕が覆った。抱き返すのは憚られ、かといって直立のままでいることもできない程度には感情が泡立って、思わず、広い背をそっと撫でた。撫でたところから小さくホコリが立つのが肩越しに見えた。懐かしい光景が重なる。さらにその奥に人影が重なった。その人影が誰のものかを視認した私は、両腕をつっぱるようにして性急にSAIの体を引き剥がした。
「どうしたSAI! こんなところで!」
やってきたのはSAIの弟で、私の新しい上司である龍水さんだった。思わぬ兄の姿を見て、嬉しそうに口角をあげた龍水さんは、その兄の影にある私の姿に気がついた。体自体は離れたが、互いに手をかけたままの状態の我々を見て、龍水さんは近づいてきた足を止める。さすがの龍水さんも我々の尋常じゃない様子に驚いたようだった。つまるところ、早速、異動希望の本当の理由が露見することになったのだった。
「そ、そうだ! 今夜は、龍水さんにも来てもらおう!引き継ぎを兼ねて部門間交流会ってことで!」
SAIを突き飛ばすようにして私は室内側に身を退け、口を開いた。
「え!」
予期せぬ言葉にSAIが大きな声を出す。私は私で、自分の言葉に驚いていた。驚きと共に、さっきの今で約束を反故にするような軽々しい言葉が口をついて出たことへの罪悪感も同時に湧き上がる。SAIの顔が見れない。
「あっ、どうせなら、クロムさんとスイカさんにも声をかけよう! あさぎりさんも呼ぼう! えっと、そうだな時間は早めて七時とか……!」
焦りと混乱に舌をもつれさせながら、早口にまくしたてる。この異動はジョブローテーションという名目だったことを盾にして、それらしいことを口にしているだけだった。泳がせていた目をそっとSAIの方へ戻すと、SAIは口をむずがらせるように結び、不満そうに目を湿らせ、こちらを見ていた。しかし目が合うと、今度はSAIの方から視線をふいと外した。
「オーケー。いいよ、それで。君が楽しいなら。僕はなんだっていいんだ」
背中側から日光を受けるSAIのうつむいた顔が影を濃くする。常時、堂々とした態度に大きな声で自身の主張をしたがる性格だというのに、この状況を飲み込めていないのか、ただひたすら面食らっているのか、けげんそうに私たちを交互に見るだけでいる龍水さんには、SAIが去ってから、今のちょっとした修羅場の内容とそこに至る経緯、また、この異動の真意について説明することになったのだった。
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その夜、行われた部門間交流会は、突然の思いつきであったにも関わらず、終始、有意義なものとなった。仕事場だけでは見られない個人個人の人間性に触れること、部門内だけで抱えていた問題を共有することで今後の連携につなげること、一度言葉を交わしたことで互いへの相談へのハードルが下がったことなどは、ひたすらに仕事をしているだけでは得られなかったものだろう。私たちが生きていたご時世では嫌われがちだった飲みニケーションというものも、業務の円滑化にはある一定の効果がある、というわけだった。
というのも、ほとんどが同世代のため、上下関係がなく、上司の自己陶酔的な昔話や説教を聞く必要がなかったのが良かった。誘いを断れず、ひたすら上司の話をヘラヘラしながら聞いて、安くはない代金を払わなければならなかった3700年前とは大違いである。飲みに連れ回された挙句、最終的にキャバクラに連れて行かれ、申し訳なさそうに眉と肩を下げながら帰ってきたことのある夫の姿がふと思い出された。キャバクラに行ったことよりも、遅く帰ってきたことよりも、大して強くないのにフラフラになるまで飲んで帰ってきたこと、そうなるまで連れ回した彼の上司に怒りが湧いたことは鮮明に覚えている。一方、私が酔って帰っても、夫は、心配こそすれ怒ることはなかった。場合によっては車で迎えに来てくれることもあれば、そのまま寝ようとする私を風呂にいれてくれることもあった。酔いと眠気に意識を喰われながらウトウトとする私の髪を乾かす大きな手の感触が好きだった。本当はそこまで酒に弱くないので、全部自分でできることは、夫も私も分かっていた。
グラスを置く。この世界で酒を飲む機会は少ない。少し、アルコールに弱くなったかもしれない。それほど量を飲んでいないのに、いやに感傷的になってしまうのは、きっとそれが理由だ。テントのような屋根だけが設られたバーを照らす電飾の連なりも、若い人々の賑やかな話し声も、村を囲む森の青く土っぽい香りも、見慣れない、聞き慣れないのに、どこか懐かしい。酒はここまでにしよう。皆が囲むテーブル席を離れ、バーのカウンター席に座り直し、水を飲んだ。
「ね、ねぇ」
まだ半分ほどワインが入ったグラスを片手にしたSAIが立っているのが、グラス、その中の水を通して見えた。アルコールで収縮した神経細胞のようにゆらゆらと揺れている。揺れているのは私が傾けている水だった。
「あ、明日は?」
「もう明日の話?」
飲み干したグラスに水を足そうとピッチャーに手を伸ばす。それを黒い腕が横取りにした。私の空になったグラスに水を注いでいく。グラスの中で、飲用水が渦を巻いているのを、私は、ただ、見下ろしていた。
「僕は、君が楽しいならなんだっていんだけど。でも、同じくらい、君と二人で過ごしたい、とも思ってる。それは、忘れないで」
水を注ぎ終わり、ピッチャーを置いたSAIはそっと自分のグラスに口をつけた。先日の貨物便で工業用の資材と共に運び込まれた南米のワインは少し渋みがあった。私も先ほどまでこれを飲んでいた。口の中に残るタンニンが、今も、チリリと舌の端をくすぐる。SAIが注いだ水を一口飲むと、一瞬、刺激が流されるも、すぐにワインの味が蘇った。口を開くと、いつも以上に渇きを覚えた。
「こんなずるい人間にまだそんなことを思ってくれるの?」
「ずるい?」
渦はおさまり、平穏が訪れるも、決して凪ぐことのないグラスの中の水面に写り込んだ自分と目が合う。その自分が何かを垂れ流そうと口を開ける。
「寂しいから、心細いから、あんたのことちゃんとフらないで曖昧なままにしてるだけのずるい人間だよ。嫌いでない人から毎日好意を示されるなんて気持ちが良いもの。もしかしたら、あんたに口説かれ続けたくて受け入れないだけなのかもしれない。あの頃から変わらない。私はあんたから好かれてるっていう実感に寄りかかって、自分の輪郭を確かめてるだけのずるい人間なんだよ」
そして、ずるい自分という自嘲に酔ってさえいる。全く唾棄すべき人間性である。自分で言っていて情けなくなる。これさえもアルコール摂取による感傷だろうか。油断をすれば涙すら出てきそうだ。うつむいた顔をあげられない。うつむいた先に見えるグラスの中では、相変わらず、ことさら不幸ぶった卑しい女の顔が浮かんでいる。
「君は、そうやって、自分の気持ちでさえ観測可能な現象として、既存の言葉を当てはめては整理をつけようとする。それは君の美徳で、欠点でもある」
はっきりとした声が響いた。見ていた水面が揺れるほどだった。音によって揺れたのではない。実際は、SAIが私の座る席から一席遠い椅子に腰掛け、その際にカウンターテーブルが揺れた影響だった。SAIのグラスは空になっていた。私と同じように水でグラスを満たす。ほんのりとワインの赤色が混ざったその水をぐっと飲み干し、再び空になったグラスを覗き込みながら続けた。
「世界はもちろん、それを観測する一個の人間というミクロコスモスは君が思うよりずっと混沌としているんじゃないか。僕の住んでいたインドでは秩序なんてなくて、人種も宗教も人も動物も、生と死さえも渾然一体となっていた。良いんだよ、分かりやすくなくて。打ち込んだ関数が思った通り動かないなんてよくあることじゃないか」
ワインが一滴混じった水、空っぽのグラス。混沌と空。その明滅。それらを手中にして、SAIはそれらからも手を離す。全てを置き去りにして、黒い手が動いた先は、そこに写る真実をのぞこうと水面ばかりを大事に抱える女の手だった。何度か触れているはずの彼の手が、グラスとそれを握り込む私の手と並ぶと、より大きく見えた。先ほど思い出していた私の髪をすく大きな手が脳裏に浮かんだ。
「今すぐに答えを出して欲しいとは思っていないよ。なんなら答えなんて出ないものだと思っている。君の中に別の人がい続けたって、それが君だというのならそれでいい。全部含めて君という存在だ。だから、サティーのような真似は、過去と心中するようなことは、やめてくれよ……」
あ、ごめん。黒い手が慌てて引っ込む。どこからが彼の恥じらいの基準になるのか分からないが、SAIは眉を下げ肩を下げ、小さく謝した。そして、「じゃ、また明日」と承諾したわけでもない明日の約束を口にしながら再びテーブル席へ戻っていったのだった。
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以来、部門間交流会は定期的に開かれるようになった。会の名前はさておき、交友関係が広がり、友人同士の飲み会が時折行われるようになったのだ。先日の交流会で知り合ったメディア部門のジャーナリストの女性と編集者の女性とはすっかり飲み友達である。
「デートをバックれるのはいいけど、私たちを体(てい)のいい理由にしてんのが気に食わないのよね」
「別にそういうわけじゃないから……。てか、デートじゃないし」
最初の交流会でSAIと私が輪を離れて二人で話していたところを見た時から、このジャーナリストの女性は我々の間の微妙な空気を察知していたらしい。飲み友達になってすぐに状況を吐かされた。とはいえ、これもまた全くの被害者ヅラである。自分の状況を誰かに相談したかったところに、話を聞いてくれる友人が現れたと言った方が正しい。
「気に食わないとか言いつつ、南はこういう話、好きだもんね」
編集者の女性がニヤニヤしながらジャーナリストの腕をつついた。科学王国の初期メンバーとほぼ同時期に石化から復活し、人類復活へのこれまでのあゆみのほとんどを目撃してきたジャーナリストは、生きるか死ぬかの極限状態から、こうした惚れた腫れたの浮わついた話ができるほど平穏な日常がやっと訪れたことを日々噛み締めているそうだった。
「ふふふ。ジャーナリストの性(さが)ってやつかしら」
「野次馬根性ってやつでしょ」
「なにを〜!」
編集者の方は私とあまり変わらないタイミングで石化から復活したらしいが、ジャーナリストとは旧世界からの友人だったそうで、憎まれ口も叩くような仲である。二人の間の垣根の低さが少し羨ましかった。思い返せば、旧世界においても私はそこまで友人が多くなかった。大学進学、就職、転勤、結婚など人生の転機が訪れるたびに気のおけない友人は減り、気が付けばなんでも相談できるのは夫だけだった。今となってはその夫もいない。
今日も村のバーにやってきている。友人たちとの飲み会はもっぱらここで行われた。言い合いをする友人たちの向こうにバーカウンターが見える。先日、私はあそこに座っていた。一席あけて、あの人も座っていた。夫ではない。だけど、私の隣にいてくれる人。
「自罰的な自分に酔っているだけなのも重々承知なの」
交流会の夜以来、SAIは毎日“明日”の約束を望んだ。その度に私はためらった。有名人を見て夫を思い出し、酒を飲んで夫を思い出し、SAIの手に触れて、夫の手を思い出すような私が彼の誘いに喜んで乗れるわけがなかった。SAIはそれで良いというのに、私がためらってしまうから。そのため、こうして、友人を誘って飲み会を開いてはSAIと会えない理由を作っていた。
数日に一度、終業後の夜分、ゲームやお茶をしに彼の部屋に行く。そのたび彼はこの上なく嬉しそうにする。逢瀬と逢瀬の間があくほど、次に会った彼の喜びは大きい。はしゃいだように、仕事とは別に作ったゲームを見てほしいとせがんだり、弟からふられた無茶な業務についての愚痴をこぼしたり、教え子たちの目覚ましい成長を自慢したり、と次から次へと私に聞いてほしいことを話す。そんな彼の様子を見て、嫌な気持ちがするわけがなかった。しかし、私もこの逢瀬を楽しんでいいのかは、いまだ決めかねていた。回っている方が倒れない駒のように、ただこの煩悶を巡らせてばかりいた。
「常に酔っていなければならない。酒でも、詩でも、道徳でも。時の奴隷になりたくないのなら」
編集者が言った。ジャーナリストと私は顔を見合わせる。
「またなんか知らないこと言ってる」
編集者の女性は文学好きだそうで、酔うとこうして何かの作品からの引用を口走る。そして一人で満足げに微笑んでいたりする。これは、この友人の少し変わっていて、けっこうかわいいところだった。
「ボードレール。いいじゃないの、酔ってれば」
編集者はグラスをぐっとあおって言った。今日はラム酒だった。アジア周りの貨物船が運んできたものだ。インド産だと言っていた。炭酸水で割っただけのハイボールにして飲んでいる。喉を通る炭酸ガスの跳梁に少し眉を曇らせてやり過ごしてから、編集者は微笑んだ。そして、いたずらな笑みを浮かべたまま、私のグラスにトクトクとラムを注いでいる。ラム酒のアルコール度数が何度だと思っているのだろう。酔っ払い始めた友人の手から酒瓶を奪う。
「本当に酔っ払うでしょうが」
「酒は扱い方次第で良き友になる、ってね」
「それも何とかレール?」
「これはシェイクスピア」
「えぇ……」
手洗いに立ったジャーナリストが道すがら出会った人間を連れてきた頃には、編集者と私はすっかり酔っ払っていた。
「じゃ、そっちよろしく」
ジャーナリストは、まだ「千の天使がバスケットボールする……」などと、おそらくこれも何かの引用と思われる言葉を口走っている編集者を引っ張り上げた。今日の飲み会はこれでお開きだそうだ。酔っ払い二人を介抱するには細すぎる腕をしたジャーナリストは、編集者の腕を支える手と反対の手で、もう一人の酔っ払いの介抱のための助っ人として呼んできた人間に指示をする。「水も飲ませといて」。引っ張ってこられた人間はジャーナリストに短く返事をしてから、私の肩を小さく揺すった。
「の、飲み過ぎじゃない?」
赤い顔をしているだろう私を心配そうに覗き込むSAIの長い前髪が目の前で揺れている。ジャーナリストはたまたますれ違ったと言っていたが、気を利かせてこの男を呼びに行ってくれたのかもしれない。気を利かせて、というよりは、面白がって、が正解かもしれないが。
「ほら、おいで。おぶってってあげるから」
椅子に座る私の前にSAIが背を向けるようにしてしゃがみ込んだ。
「え〜、なんかあやしいなあ」
「さすがに、こんな酔ってる人をどうこうしたりしないよ」
「ふふふ、知ってる」
二人きりの時間を過ごしたのは、もはや数回ではない。何度、二人きりになっても踏み込んだ身体接触もなければ、私の気持ちを無理に確かめるようなこともなかった。ただ、二人で過ごす時間を大切にしてくれていた。彼が私を慈しんでくれていることは疑いようがなく、彼の好意がただの性愛によるものではないことも疑いようがなかった。眼前に広がる、私を受け止めるためだけに開かれた背中に身を預けたくないわけがなかった。それは、つまり、私が酔っ払っていたからだ。
「時の奴隷になりたくなければ、酔っていなければならないんだって」
「時の奴隷……?」
おぶさったSAIの背は広かった。細身で筋肉はあまりないようだが、それでも私をおぶって歩くくらいはできるらしかった。また、私は誰かを思い出しかけている。夫は小柄だったので、私を背負うほどの力はなかった。では、誰の背に負われていたのだろうか。広くて、絶対に私を落としたりしない、安心できる場所。いつか経験したことのある“おんぶ”の記憶。酒が記憶を滲出させる。頭ではなく、男の首に回した腕に、背に密着した腹に、忘れかけている過去が蘇る。
「頼ってくれて、ありがとうね。おやすみ」
SAIと別れ、部屋に一人横たわっている。胸に、腹に、残った他人の体温を抱き込むように、体を折り畳む。引き留めてしまいそうだった。眠るまでそばにいて、と、駄々をこねそうだった。親にすがる幼子のように。引き留めたがる腕をしまいこみ、体を縮こめていた。親にすがれない幼子のように。できるわけもなかった。私の部屋は女性用の集合住宅の一室であり、彼は建物に入ることさえできないのだから。そんな現実さえ忘れるほど酔ってしまえていたら良かったのだろうか。
しばらく動けずにいたが、ひと思いに立ち上がり、大量の水を飲んだ。酒を飲んだら、倍の量の水を飲め。酒にまつわる名言としてあの編集者に暗唱してもらいたいところだ。
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銀行部門の定例会議は毎週金曜日の朝一番に行われる。統括責任者である龍水さんは銀行だけでなくメディア部門、エネルギー部門など、幅広い事業に携わっていることに加え、月面ロケットのパイロットとしての飛行士訓練もある、という非常に忙しい身のため、定例会議に出席できる時間は限られている。システム開発担当である私のほかに、預金業務担当、海外支店との連携担当、造幣担当など、様々な担当者がその限られた時間内に龍水さんに報告や確認、相談したい事案を持ち寄っている。一担当者に与えられる時間内に、手短に要点を伝える必要があるのだ。私は今日確認しなければいけない点を箇条書きにしたメモ帳に目を落としながら、中央アジアの復活者向けの新たな支店整備に関する議題が進んでいくのを聞いていた。
「システム担当です。オンラインシステムの構築ですが、やはり、まだまだコンピュータの性能が足りないため、ひとまずはこの銀行本店における個人向け預金システムの試作を進めています。そもそもなのですが。かつての貨幣経済そのままを再現することを想定として良いでしょうか。造幣担当とも話していたのですが、そうなると、十分な量の現金の製造と保管はどのように行うか、それとも、基本的には為替? 小切手? をメインで取引することになるのか、など、前提を確認させていただきたく。そのあたりについて、何か構想あったりしますか?」
自分の番となり、メモを目で追い追い、懸念事項について伝える。一通り言い終え、顔をあげると、あらかじめ相談しあっていた造幣担当と目が合った。頷きあう。一息つく。一息ついても、議場は静まったままだった。長方形のテーブルの短辺に座った統括責任者の方へ首を回(めぐ)らす。統括責任者である龍水さんは、肘をつき両手を組んだ上に顎をのせたまま、どこか焦点の合わない目を動かしもせずに沈黙していた。
「龍水さん?」
おそるおそる声をかけると、龍水さんはパッと顎を持ち上げ、我にかえったようだった。
「失礼。うむ、経済に詳しい人間が北米にいたはずだ。渡りをつけておくから、経済学者を交え各支店とのオンライン会議を行おう。それまでに俺の方でも方針を考えておく。会議の日程調整は俺の秘書が行うので、都合の悪い日があればあらかじめ秘書に伝えてくれるか」
珍しいこともあるものだ。私はもちろん、ミーティングの座についていた一同が驚きの表情で龍水さんの様子を見た。通常の会議での龍水さんは、誰よりもエネルギッシュで、誰よりも積極的なはずだ。さすがの龍水さんも、肉体を酷使する飛行士訓練の疲れが溜まっているのかもしれない。銀行メンバーは、会議中の上の空を責める気持ちよりも、心配の方が勝っていたのだろう、何事もなかったかのように次の議題に移り、会議は進んだ。
「恐れ入ります。龍水様、次の予定が」
同席していた秘書の女性が、小さな声で、しかし、明瞭な口調で進言した。龍水さんは小さく頷いて席を立った。
「すまない。他に何かあれば書面にて預かろう」
私がお預かりします。秘書の女性が十五度の角度でお辞儀をする間に、龍水さんは銀行建物を出て行った。この後、龍水さんはメディア部門でスポーツ番組で配信する予定の座組について会議があるそうだ。それらが終われば、午後からは飛行士訓練だという。
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スラスラとつづられるコードを見ながら、私は声を漏らした。
「そ、そういうことか……」
毎週金曜日はSAIとの約束の日だった。銀行システム用のプログラムで悩んでいるところがあったため、今日はSAIの部屋でゲームに興じるのでも、バーで晩酌をかわすのでもなく、銀行内のコンピュータの前でSAIのプログラミング講座となった。SAIは喜んで引き受け、私の悩みはあっという間に解決に至った。しかし、この漏れ出した感嘆のような声はSAIのプログラミング技術への賛辞ではなかった。
「だから、心ここに在らずって感じだったんだね」
今朝、この銀行内で行われた定例会議での龍水さんの様子をSAIに話すと、SAIは龍水さんが飛行士を辞退したことを教えてくれた。全人類復活の最適ルートをたどるには、自分よりも適性のある人間がいる。彼はそれを自覚し、念願だった月世界旅行を自ら手放すべきではないかと自問自答を続けていたそうだ。それが、あの上の空の真相だった。
「頼っておいて言うのもなんだけど、龍水さんのところ、行かなくていいの?」
自ら辞退したとはいえ、過酷な訓練もこなし、夢にまで見た宇宙への切符を一度は手にしていたからこそ、その落胆の大きさは計り知れない。そんな、今ごろ悲嘆に暮れているかもしれない龍水さんのたった一人の肉親であるSAIは、ただの幼馴染との約束を律儀に守り、大して緊急性のないプログラミング講座を開いている。
「ん? うん。龍水にはフランソワがいるから」
きっと、僕には泣いてるところとか見られたくないだろうしね。眉を下げたSAIは、少し笑んだ声で言う。私は、男兄弟同士というものはそういうものか、と納得したような、とはいえ白状ではないのか、などと首を小さく傾げながら、ハーブティーに口をつけた。SAIの部屋に集まる日は、SAI自らが茶や酒を用意して待っていてくれる。先日、私が大層酔っ払っているところを見られて以来、酒が出ることはなくなってはいたが。今日は急遽場所が変わったこともあり、わざわざ食堂に取りに行ってくれたらしい。香りの良いハーブティーは以前、SAIの部屋で飲んだことがあり、私が好きだと言ったものと同じものだった。もう茶葉がきれてしまったと聞いていたが、おそらくSAIが村の飲食を総括するフランソワさんに頼んで用意してもらったのだろう。有能なフランソワさんはすぐに用意してくれたに違いない。七海兄弟はどちらも、フランソワさんという人物を非常に頼りにしているようだった。
「ほんと、龍水にフランソワがいてくれて良かったよ。僕らには母親って呼べるような人がいなかったからね」
SAIも龍水さんも七海家の本妻の子ではないらしい。実母と離れ、庶子という立場で育った龍水さんを見守り続けたのはフランソワさんだったそうだ。昔からあの豪胆な性格の龍水さんを、時には叱り、しかし常に、その信念を共に守り続けてきた、まさに母親代わりともいうべき存在である。
龍水さんと同じ立場のSAIもフランソワさんにはお世話になっていたそうだが、SAIにとっては兄弟二人の世話係というよりも弟・龍水のための世話係という認識のようだった。確かに、小さい頃、私の祖父母の家で遊んでいるSAIをフランソワさんが迎えに来ていたところを目撃しはしたが、毎回ではなかった。私は幼い日の思い出を掘り起こす。迎えにきた男性の執事から、家に帰ると勉強ばかりさせられて嫌なんだ、と逃げ回るSAIの姿もまた、思い出された。
「SAIにもそういう人がいたの?」
龍水さんにとってのフランソワさんのような人が。
「僕? いたらインドなんて行ってないよ」
七海家にとって都合の良い人材に育てるべく数学漬けにされたSAIを、子供として保護し愛してくれる人はあの家にはいなかった。彼が好きなゲームをしている様子を微笑ましく見守ってくれる人も、ゲームに没頭して寝食をおろそかにした時に叱ってくれる人も。だから彼はプログラミングの世界に逃げ、そしてインドに逃げた。
「僕には、君だけだったよ」
気がつけば私が作り上げるべき預金システムの試作品はほぼ完成していた。数日間に渡って頭を悩ませていた自分との力量の差を見せつけられた私は、この頼りになる幼馴染を悔し紛れに睨むのだが、当の幼馴染は役に立てたことを喜んでいるのか、少し恥ずかしげに、しかしどこか誇らしげに、相好を崩しているだけだった。
「そういう話じゃないんだけど」
「本当なんだけどなぁ」
仕事は片付き、私たちは今朝、部門の皆が会議を行った広いテーブルに並んで座った。SAIが長い腕を折り畳むようにして、ポットから急須にお湯を注いでいる。ハーブの良い香りがした。「なんとかアザミっていう肝臓に良いハーブを入れてもらってるんだよ」。SAIは目を細めながら、私のカップにハーブティーを注いだ。すっかり酒乱扱いである。しかし、気遣ってもらうのは悪い気がしない。暖かいカップを両手で持つ。湯気をふっと吹く。その一部始終を見守る視線が頬に刺さっているのを感じている。
「ありがと」
プログラミングを教えてくれて、私のためにお茶を用意してくれて。急須にお湯を入れてくれて、お茶のおかわりをくれて、体を気遣ってくれて、いつでも優しくしてくれて。“君だけ”などと、言ってくれて。様々な言葉をハーブティーと一緒に飲み込んでしまう。言ってしまったら、彼はどんな顔をするだろうか。茶をすする私を見ているSAIの方に視線をやる。
「どう、いたしまして」
彼は、特徴的なはっきりした眉を下げ、目の周りの筋肉を揺らしていた。嬉しそうな顔にも、苦しそうな顔にも見えた。急いで前を向く。息がしにくかった。顔の前にあるカップから立ち上り続ける湯気のせいだった。湯気のせいで、視界がにじんでもいた。鼻が慣れたのか、ハーブの香りは先ほどよりも感じなかった。
「明日は龍水とチェスをしようと思うんだ。だから、明後日の夜、また部屋で会うのはどうかな?」
彼が“明日”以外の約束を望むのは初めてだった。自分が弟を慰める必要はない、というようなことを言っているが、心配には違いないのだろう。それが理由なのは十分理解していた。一方で、当たり前のように“明日”を望まれることに慣れていた私の指が静かに揺れた。半分以上飲み進められたハーブティーからはもはや湯気はたたず、私の分不相応な衝撃に共鳴して、小さな水面がかすかに揺れているだけだった。
「うん。明後日ね」
月が明るいので一人で帰れると言っても、夜道は危ないからとSAIは帰路に着く私についてきた。夜の逢瀬の終わりはいつもそうだった。暗がりに乗じて手を繋いだり、肩を抱いたりしてくるようなことはなかった。人前での過剰なスキンシップを嫌がった私を尊重してくれているようだった。いつも、道すがら他愛のない話をして、女性用の集合住宅の近くまで来ると立ち止まり、私が扉をくぐるまで見届けるだけだった。私の無事の帰宅を見守っている彼を振り返って、その姿を確かめる。手を振る。彼も手を振る。それがルーティーンだった。今日も振り返る。彼は長い前髪の隙間から私を見守っている。夜道に見る彼の髪は、昔の印象通り黒く、周囲に溶け込んでいるように見えた。手を振る。呼応して彼の黒く染まった手が持ち上がり、これもまた、夜闇に溶けた。
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プログラミングチームの小屋にくるのは久しぶりだった。終業後とはいえ夏の日は長く、換気のために開け放った窓から直接、西日が差し込んでいた。傾く日差しと似た黄金色の髪の少女が嬉しそうに声を弾ませる。
「一緒にゲームするの、久しぶりなんだよ。嬉しいんだよ!」
「うん、私も嬉しい!」
飛びついてくるスイカさんを抱き止めると、目の前の髪からおひさまの香りがした。小柄な彼女は私の腕の中で少し気恥ずかしそうに顔を綻ばせている。かわいい。私は彼女をぎゅっと抱きしめる。ハグにはストレスを大幅に軽減する効果があるそうだが、柔らかいスイカさんの体を抱きしめるのは確かにとても癒し効果がありそうだった。
今夜は久しぶりに元チームメイトとのゲーム大会だ。先ほどまで、プログラミングチームの三人が村の教室で使う教科書の策定のため取材を受けていた。私の元チームメイトであるクロムさんとスイカさんが一から数学を学んでロケットを作っているという話を聞いた友人の編集者が希望したもので、紹介者である私も取材に同席していた。取材を終え、編集者と共に小屋を去ろうとしたのだが、「もう行っちゃうんだよ?」と寂しげな顔で引き留められては無碍にできるわけもなかった。では、久しぶりに皆でゲームにでも興じようではないか、ということになったというわけだった。
「銀行?ってやつの仕事はどうなんだよ!」
クロムの腕が私の肩にかけられる。石神村出身の子たちは、村全体が家族のようなものとして育ったからか、パーソナルスペースが非常に狭い。最初はドギマギしたが、今となっては慣れてしまった。見知らぬ世界で見知らぬ人間ばかりに囲まれた心細い生活である。ハグには癒し効果が、ではないが、こうした物理的接触は案外、精神衛生に良いのだ。腕の中にスイカさん、背後にクロムさんの体温を感じながら、部署を異動してもなお慕ってくれるかわいい仲間たちに、ぜひ今度銀行の仕事を見に来てほしいと声をかける。
「準備っ、できたよ!」
旧交を温める私たちに、SAIが言った。彼が新たに作ったというインド式のすごろくスネーク&ラダーの盤面に、音を立てて駒が置かれる。いささか乱暴な響きに気がついたのは、私だけのようだった。異動前にそうしていたように、私たちは小屋の中央にある作業用兼打合せ用の少し広いテーブルに参集する。
「やったー! ゴールなんだよ!」
何度目かのゲームでやっと一位になれたスイカさんが驚きと共に飛びついてきた。まさか年上ばかりのメンバー内で自分が一位になれるとは思っていなかったらしい。思わず隣に座っていた私に抱きつくほど嬉しかったようである。負け続きで不機嫌になるどころか、一度の勝利を全力で喜んでいる、そのいじらしさに、心から「よかったね」という言葉がこぼれおちた。妹がいたらこんな感じなのだろうか。子供扱いするわけではないが、ついその頭を撫でてしまう。撫でられたスイカさんは嬉しそうに「えへへ」と笑っていた。
「次は俺がゴールだぜ! やったなスイカ、俺たちで上位独占だぜ!」
続いてゴールしたクロムさんが、勢いよく立ち上がる。テーブル越しにスイカさんとハイタッチを交わす。ついでに私もクロムさんとハイタッチをする。力が強すぎて手のひらが痛くなったが、無邪気に喜ぶ二人がかわいいので良しとする。
「ねぇ、さっきからさ、ちょっと近すぎるんじゃない?」
そんな仲睦まじい私たちに向かって、刺々しい声がかけられた。SAIは不機嫌そうに顔を曇らせ、乱暴に駒をテーブルに置く。駒が立てた音に弾かれるようにスイカさんが私の体から離れた。
「ご、ごめんなんだよ。つい……」
鈍感だと有名なクロムさんもただならぬ様子を察知して、私と合わせていた手をそっと離し自席に座り直した。二人が触れていた部分は、開け放たれた窓から吹き込む夜風にさらされ、どこよりもひんやりと感じた。ゲームに興じているうちに外はすっかり夏の夜空が広がっていた。
「私とこの子たちの距離感は私たちで決めることでしょ。あなたにとやかく言われる筋合いない」
SAIの言葉よりもよほど棘のある私の言葉のあとには、虫の鳴く声が聞こえてきた。夜になり、虫が鳴き始めていたようだった。気づかないほどゲームを楽しんでいた。その熱狂は急激に静まった。勝利を喜んでいた二人は、気まずそうに顔を下に向けている。
このために異動したのだった。私は今夜の集まりを避けるべきだったのだ。SAIにばかり責任をなすりつけていたが、私こそ大人げない言い方をして、いっそう場の空気を冷やしている。年上ぶって二人をかわいがるようなことをしても、中身は未熟で愚かな人間だったことを思い出す。突然機嫌を悪くして、人を混乱させるのは昔からだ。こんな私をなだめ、許してくれるのは夫くらいだった。いや、夫と幼馴染の男の子くらいだった。私の不機嫌を困ったように見守って、いつの間にか機嫌を直した私を見て微笑んでくれるのは。
「ご、ごめ……」
「ぼ、僕っ、お茶でももらってくるよ。三人で続けてて!」
謝罪の言葉を言いかけた私を遮り、SAIは立ち上がった。誰の返事も聞かずに、小屋の外へ駆け出す。まだゴールしていないSAIと私の駒が蛇とハシゴに足を取られて、盤面から動けずにいる。
このスネーク&ラダーというボードゲームは元はヒンドゥーの教えを子供たちに伝えるために作られたものだと、ゲームを始める前にSAIが説明していた。盤面全体が因果応報を示しており、ラダーつまりハシゴは善行を、スネークつまりヘビは悪行を象徴し、善行を積み上げることでゴール、解脱に至るのだそうだ。解脱までの道の上で善行も悪行も前も後ろも分からず、ただ、硬直している私たち二人の駒はいかにもこのゲームの物語に沿うているように思えた。
「二人ともごめんね。なんか変な感じにしちゃって」
乾いた笑いを含ませながら謝罪を述べ、盤上に残っていた二つの駒をそれぞれの席の前に戻す。投げ出されたサイコロを勝者であるスイカさんの元へ運ぶ。気を取り直して、次のゲームを始めよう。しかし、スイカさんは受け取ったサイコロをふらず、指でつまみながらポツリと言った。
「SAIはきっと、なんだか、寂しくなっちゃったんだよ。いつも一緒にいてくれる人がとられちゃったみたいで」
スイカさんは、小さなサイコロを両手でぎゅっと包み込む。
「スイカ、そういうのちょっと分かるんだよ」
スイカさんの両親は早くに他界していることは聞いていた。きょうだいもいないそうだ。昔は引っ込み思案で友人も少なかったらしい。村全体が家族のようなコミュニティだとしても、肉親が不在の彼女はどれほどの孤独を抱えていたか、察して余りある。彼女にとってコハクさんという女性が姉のような存在だというが、それでもコハクさんには血のつながった家族が別にいる。どれだけ近くに感じていても、実際の姉と親げにしているコハクさんを前に疎外感を感じずにいられようか。私はサイコロをつつむスイカさんの手に、自分の手を重ねようとした。その目の前を横切ってクロムさんの腕が伸びた。先ほどのハイタッチと同じくらいの強さでクロムさんがスイカさんの肩を叩く。
「んだよ、スイカ! スイカには俺たちがいるだろ!」
「そうだよ。クロムさんにとっても私にとっても、スイカさんがすっごく大事だよ。それに、いつかスイカさんにも生涯のパートナーが現れるかもしれないよ」
「おうよ! 千空にとっての大樹みたいなやべーほど信頼できるやつがな!」
「ふふ。まあ、そんなところかな」
「クロムはいつまでたってもお子ちゃまなんだよ」
叩かれた肩をさすりながらスイカさんは笑った。プログラミングチームの小屋には再び笑い声が響いた。そのうちにティーセットを持って戻ってきたSAIは、小屋の和やかな雰囲気にホッとしたように眉を下げていた。しかし、一度耳についてしまった虫の鳴き声は、皆の笑い声のうしろに小さく聞こえ続けていた。
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ゲーム大会が終わり、それぞれの寝床へ帰る時間となった。またゲームをしたり、お茶をしたりしよう、と約束を交わし、私たちは小屋の前でそれぞれの道へ別れた。人の熱気と照明の熱で温まっていた部屋の中から外に出ると、ひんやりとした外気が肌に心地よかった。蓄熱性の高いコンクリートに覆われ、機械の排熱にゆだっていた3700年前の日本に比べ、土地のほとんどが森に覆われたストーンワールドの日本はいくらか平均気温が下がっているらしかった。
そういえば子供の頃の夏の夜も、このくらいの涼しさだった。幼い頃に祖父母の家から自宅へ帰る夜道を思い出した。父の手に繋がれて歩いた夜道の風は、今くらいの湿度と涼しさだった気がする。あの頃、仕事帰りの父はたびたび祖父母の家に預けられていた私を迎えに来てくれた。思えば、母は元から義実家にあまり立ち入っていなかった。母と母にとっての義父母はソリが合わなかったのだろう。そういった様々な要因が絡みあって、私の両親は離婚したのだろう。大人になってから理解が追いつき始めた、私があの屋根裏小屋をさらざるを得なかった理由を数えながら家路を歩いていると、後ろから誰かが追いかけてくる音がした。誰かが、など、分かりきっていた。
「さ、さっきはごめんっ。もう、あんなふうに言ったりしないから、だから、避けないでっ」
夜闇に黒髪と肘から先を溶かし、しかし、白いシャツは月光を受けて光っているSAIだった。SAIがいつも通り送っていくと言いだす前にと足早に場を離れた私を追いかけてきたのだ。こうなることをどこかで予想していた。期待にも近い感情だった。送られるのも追いかけられるのも嫌なら、別れる際に一人で帰る旨をはっきりと伝えれば良かったのだ。しかし、そうしなかった。拒絶したい。しかし、追いかけられたい。虫の良いことばかりで自己保身と他者からの愛情を得ることに余念のない、そんな自分に反吐が出そうだった。
「君が嫌がるなら無理に誘ったりもしない。触ったり、好きだとか言ったりも。だから……」
SAIの声が小さくなっていく。部屋の中で聞くよりもはっきりと虫の鳴き声が四方から響いてくる。まるで何者かを責め立てるように。糾弾されているのは紛れもなく私だろう。自己弁護する権利さえない私は振り返りざま、頭を下げた。
「ごめん。でも、やっぱり、距離を置きたい。あなたの気持ちを受け入れる気がないのに、優しさだけを受け取るのは不誠実だと思うから」
どれだけ拒絶しても、変わらず追いかけてきてくれる。非道い扱いを受けても、嫌わないでいてくれる。困ったことがあれば、助けてくれて、辛そうなら、おぶってくれる。その行為の根底にある恋情を返すどころか、受け取る気がないというのに、私はそれを享受し続けている。
「さっきだって、あんな言い方しなくたって良かったのに。あなたが私を嫌ったりしないって分かってて、わざと意地の悪い言い方して……」
下げた頭をあげられない。言葉を続けられない。鼻の奥が苦しかった。喉もつまりそうだった。夏の夜風は必要以上に涙腺を刺激した。
「いいんだ! 君のいう通り、僕は君を絶対に嫌わない。酷い言い方をされても、避けられても。たとえ、僕の気持ちを受け入れる気がなくても。それを君が分かっててくれてるだけで十分だよ」
SAIが近づく気配がした。しかし彼は私に触れない。私が拒み続けたからだ。私が嫌がることはしないのだそうだ。彼は私を大切にしてくれているから。衣擦れの音、風の流れの変化で、近くにいるのは感じるというのに、私は彼に縋ることができない。私が彼を拒み続けたからだ。
「ごめん、これはちょっとキレイゴトすぎたな」
ちょっと歩かない? SAIは私の手を引くでもなく、そっと歩き出した。やっと顔をあげる。何も言わず歩を進める彼の数歩後ろをついていく。浜辺に出た。先日、千空君に異動を願い出た、浜辺だった。あの日のような照りつける太陽も、青い海も、レモネードの甘ずっぱい香りもない。青白い月と、月までのハシゴを刻む黒い海、少し遠のいた虫の声があった。
「本当は……、本当はね、昔みたいに、僕だけを秘密の部屋に招いてほしい……。僕だけと遊んでほしい……。君を独り占めしたい、って思ってる」
解脱からは程遠そうな執着を口にしながらSAIは、後ろを歩いていた私を振り返った。彼の後ろにはハシゴが伸びているのに、見向きもしないでこちらを見ていた。
「でもっ、さっきみたいにワガママ言って困らせたいわけじゃないんだ。そういう気持ちってだけで。それに、だからといって恋人になって性的につながりたいってわけでもなくて、いや、全くそういうことがしたくないわけじゃないんだけど、そんなことよりも、一緒にいられることの方が大事で……」
一生懸命、言葉を繋ごうとするSAIの長い前髪が浜風に揺れていた。屋根裏部屋に吹き込む隙間風に揺れていたあの時よりも大きく。プログラミングチームの仕事小屋に入り込む隙間風に揺れていたあの夜よりもはためいて。黒い瞳があらわになる。すがるような眼差し。直視できない。私の瞳が揺れる様が月明かりに照らされているだろうから。
「それってさ、私に母親を求めているんじゃない?」
龍水さんにとってのフランソワさんのような存在が、SAIにとっては私だと言っていた。その場のいい加減な言い草かと思っていたが、はたして、それは真実なのかもしれなかった。幼い彼が心を休められるのは、私が招いたあの屋根裏部屋だけだったとしたら。SAIが好きなゲームに興味を持ってくれるのは私だけで、菓子を分け与えてくれるのも私だけで、屋根裏部屋へ向かう狭い階段を登るのに手を引いてくれるのも私だけだったとしたら。SAIの能力だけを欲しがるのではなく、ただそのままのSAIを受け入れてくれるのが私だけだったとしたら。
「たぶん、私たち、親が欲しいだけなんじゃないかな」
SAIにとっての私が母の代わりに愛してくれる人間であれば、私にとってのSAIは父の代わりに愛してくれる人間なのかもしれない。
両親の離婚が決まり、私の養育者は母に決まった。揉めている様子はなかった。実際は父なりの葛藤があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。しかし、少なくとも当時の私は、父が少しの未練もなく私を捨てたものだと感じた。父は私と離れても良いと思ったと理解した。父が私を迎えにきてくれることはもうない。私の手を引いてくれることも。おぶってくれることも。そもそも、父と手を繋ぐことも、おぶってもらうことも、そう頻繁なものではなかったのに、もう一生その機会がないのかもしれないと思うと、急に懐かしく、手放し難いものに思えた。母は優しく、娘の私に不自由をさせまいと一生懸命働いてくれたが、父がいない寂しさを共有することはできるはずもなかった。
私のことを全面的に受け入れてくれて、絶対に私を嫌いにならない人を求め続けていた。私のことをいつまでも忘れず、大事に思い続けてくれる人。その人はコンピュータの向こうにいた。私との思い出をゲームにして、大事に保存し続けていた。しかし、その人もやがて消えた。
そのうちにある男と出会った。のちに夫となったその人は私を絶対に嫌いにならなかった。なぜなら夫は誰のことも嫌いにならないほどの善人だったからだ。私のことを全面的に受け入れてくれた。夫は慈悲深い人間だったからだ。私は交際を始めて彼のその人間性を知り、間もなく彼に結婚を申し込んだ。彼の善性、彼の慈悲を独り占めしたかった。私だけを唯一愛して欲しかった。そしてその夫が失われ、現れたのがSAIだった。一度姿を消したはずのその人。彼は、今度こそ私を無条件に受け止め、絶対に離れず、大事にしてくれると言う。父の代わりも、夫の代わりもしてくれる。私が望むのであれば。しかし、それを私は望むべきでない。ただ過去の自分を救うためだけに誰かに虚像を重ねるような、そんな、相手の尊厳と誠意を踏みにじるような真似を、もうすべきでない。お互いに。
「あなたはあなたの全てを受け入れて守ってくれる母親を、私は私の存在を尊重し導いてくれる父親を。あの頃の私たちが欲しかった、そういう存在をお互いにかぶせて補い合っているだけ」
私たちの間にあるのは恋ではない。酩酊に貪欲、虚栄に嘘。あのすごろくに刻まれたヘビの悪徳だ。ヘビばかりでは、いつまでも堂々巡りでどこにも行けない。私たちは盤を降りるべきだ。無限ループでハングアップする前に。
「それじゃっ、それじゃダメなの?」
絞り出すような声が響いた。SAIは一歩、こちらに近づいた。月明かりを背負ったSAIのふちが仄かに白んで発光している。月光の照度はそれほどない。銀行の朝ほど、彼の顔の影は濃くなく、西日射す屋根裏部屋ほど、彼の髪は翳りを吸っていなかった。
「僕たちをつなぐものが親子愛のようなものでも、友人同士の信頼でも、それだけじゃ、一緒にいる理由にはならない? 恋愛だけしか理由にしてはいけない?」
SAIが問いを重ねた。答えることのできない私の代わりに波がささやいていた。入江となっているこの浜辺の波は穏やかで、しかし、とどまることはなく、繰り返し繰り返し、何か言いたげに小さく音を立てている。責めるように喚き続けていた虫の声は今や遠かった。
「前に、君のこと、僕のラーダーだと言ったね。あの時は運命の恋人、と思って言った言葉だった。でも、違った。今こそ、君が、本当の意味で、僕のラーダーだと分かった。君は僕の魂の片割れだ」
以前、言われたラーダーというものがどういう意味か分からなかった私は、古今東西の物語に詳しい編集者の友人にたずねたことがある。ラーダーとは牛飼いの女で、最高神クリシュナの恋人であると、友人は教えてくれた。二人は愛し合いながらも夫婦ではなく、それぞれ別に伴侶がいた、とも。だとしても、肉体的、世俗的な関係を超越した二人の愛の物語は今も多くの人から信仰の対象となっているのだという。
「君は、僕が君を母親の代わりにしていると言ったね。ラーダーの無条件の愛情を君に求めているというのなら、それは幻想のような母の愛を求めているということと近しいのかもしれない。でもさ、仕方ないじゃないか、あんな風に君を辱めた僕なんかのために一から勉強してゲームを作ってくれるなんて、そんなの、プレーマじゃないか」
ラーダーとクリシュナについては学んだが、プレーマという言葉は知らない。しかし、彼が言わんとしていることは理解できてしまう。私たちは幼馴染で、理解者で、互いを探し続けてきた者同士だったから。
「今度こそ、僕は僕の全てで君の全てを愛したい。君の、父親からの愛への執着も、愛した人を失った痛みも、その人への忠義も、それらを背負う偽善心も、自己欺瞞の自覚と呵責も、全部、含めて」
黒い手が差し出される。夜闇に溶けていたあの黒い手に月光が注ぐと、その手はうっすらと青く光った。
「物分かりの良いふりをするしかなかった子供だった、あの頃から、たまたまそこにいた人間同士だけど、それでもお互いしかいなかった、あの頃から、君だけが、僕を見てくれた唯一の人だったんだから」
月明かりを吸って青く染まった手に、自分の手を重ねた。震えていたと思う。SAIの背後で潮の流れに揺れる、月へのハシゴのごとく。相変わらず彼はハシゴなどに目もくれない。一人分の幅しかない解脱の道など興味がない、とでも言うように。
「わ、私、あの人のこと、忘れられない、きっと」
「うん」
SAIはたぐりよせるように私の手を引いた。近づいた体から輻射熱を感じる。
「でも、あなたを拒めない」
「うん」
体温を感じるほど近づいても、彼はそれ以上私に触れようとしない。私の言葉を待ってくれている。私の感情の処理を待っている。
「苦しいの」
「うん」
「怖いよ」
「うん」
「みんな、置いてく、私を、離れてく」
別れはいつだって突然。恋は冷めるし、愛は朽ちる。過去は忘れるし、運命はいたずらだ。父も、夫も、あれほど私を好きだと言ったにも関わらず、私を置いてどこかへ行ってしまった。彼らが好きでそうしたのではないことくらい分かっていた。しかし、この寂しさは、この虚しさは、まぎれもない事実で、私はそれをずっと手放せない。この痛みは、彼らと愛し合った証だったから。この苦しみは私の宝物だった。ずっと、恐ろしかった。目の前の胸に飛び込んだら、この宝物が失われてしまうと思っていた。痛みなど忘れ、ただ、そそがれる愛に酔うことになると。
「僕はいるよ。いたよ、ずっと」
失われた秘密の屋根裏部屋でずっと、SAIは私を待っている。時間という奔流に押し流され、今や破片すら残っていないであろう私たちの楽園。私たちは楽園が失われるたびに、自分達の手で作り直しては、そこに遊んだ。屋根裏部屋に積まれたがらくたの中に、私たちだけの宝物が隠されている。この私の痛みも、この私の宝物も、二人の屋根裏部屋に持ち込んで良いのだろうか。
SAIを直視できず、その背後の海やら、月の影やらに意識を向けていた私は、そっと、彼の顔を見る。長い前髪の向こうで黒い瞳が微笑んでいる。ずっと、こうして、こちらを見ていたのだろう。今度は、異なる理由でこの視線に耐えられなくなり、私は、一歩、彼に近づいて、その胸に額を押し当てた。おそるおそるといった風に、重ねていない方の彼の手が私の背に回った。
「嫌いにならないで。どこにも行かないで」
「嫌いになるわけない。どこにも行かない」
重ねていた手が離れる。しかし、これは抱きしめるためだった。SAIの長い腕が私の腰に、肩に巻き付く。私の腕は彼の背を全て抱きしめるには短いので、月明かりに青白く光るシャツをつかむ。
「うそ」
「そうだね。この世界は何が起こるかわからないから、絶対はないんだけど」
「ふふ。そこはさ、嘘でも絶対って言わないと」
「ごめん」
「ううん。そういう現実的なところ、好きだよ」
「えっ、好き?」
「うん」
SAIの手が私の肩をつかんで、体を遠ざけた。幾度となく私が彼を拒否した時のような乱雑さはないが、しかし性急な動きだった。彼の長い前髪の奥の黒い瞳は、慈しむように細めた形ではなく、驚きで丸い形になっていた。しかし、次にはゆるく結ばれた。目尻に水分が光っていた。
「へへ、僕も。大好き」
時折強く吹く浜風で前髪が押し流される。彼の額があらわになると、少し幼げに見えた。初恋の人の面影が見えた。積層する時間と揺り戻される過去が浜辺を行き来する波間に洗われていた。もう、私の目にさえハシゴは入らず、今一度、寄り添った、SAIの心音だけが聞こえていた。
そこへ、草をかき分けるようなガサゴソという音が聞こえてきた。今度は私がSAIの体を引き剥がす。ヘビでも出ただろうか。浜辺と村をつなぐために、整備された道のあたりに目を凝らす。
「す、すまない! 立ち聞きするつもりはなかったのだ! SAIの声が聞こえたので、気になってやって来たところで……!」
現れたのは龍水さんだった。この近くで、夜間の射撃訓練を行ってきた帰りだという。兄の声が聞こえ、ただ喜び勇んで近づいてきたらしい。兄のことが大好きなのだろう。かわいい弟だ。しかし、せっかくの逢瀬を邪魔された兄の方は、お怒りのご様子である。兄弟で似ている眉を八の字に曲げて震わせている。
「龍水様、ここは何を言っても、もはや野暮というものです」
大変失礼いたしました。と、フランソワさんが龍水さんの腕を引いて村の方へ引っ張って行くのを見送ってから、私たちは顔を見合わせ、少し笑った。やはり、この村には会合用の個室が必要と思われる。この浜辺で次の進言をするなら、そんなところだろう。
<終>
プログラミング等なにもわかってない人間が書いています。おかしいところありましたらご容赦ください。