副提督が鎮守府に着任しました。これより、艦隊の指揮を執ります。 作:リター
海を見下ろす崖の上から、不知火とともに交戦海域の状況を見定めていた。
上空では、龍驤がいかに巧みに艦載機を操ろうとも、機体性能の差が徐々に戦況へ影響し始めていた。祥鳳の近代的な艦載機群の前に零式艦戦や九九式艦爆が徐々に押し込まれ、空中戦の主導権を奪われつつある。
さらに、艦載機の密なコントロールに全神経を注ぎ込み、身動きの取れない龍驤と、その盾となるよう龍驤の前に張り付いている如月のふたりを目掛け、敵の軽巡多摩が接近を開始していた。
「……機体の絶対的な世代差は埋めきれませんね。そして、手空きとなった多摩が動けない龍驤と如月へ向けて全速で航行中。このままでは、前方の衣笠と後方から迫る多摩に挟まれます。」
隣に立つ不知火が、風に髪をなびかせながらそう口にする。
その声には一切の焦りはなく、ただ正確な盤面分析だけが込められていた。
貴賓席の上層部たちからは無謀な運用だと嘲笑するような声が漏れ聞こえ始めていた。
相手方の提督も、すでに勝敗が決したとでも言いたげな笑みを浮かべていた。
――――無線機を口へと寄せた。
敵が重巡・衣笠を前面に押し出し、軽巡・多摩を龍驤の襲撃へと回したこの瞬間。
それこそが、相手が手加減と油断の末に作った、最大の戦術的な隙だった。
ドォォォォン――ッ!
衣笠の進路上で、突如として無数の水柱が吹き荒れた。
叫ぶ間もなく、真っ赤な演習用ペイントが重巡の巨砲を瞬く間に染め上げていく。
貴賓席の老人たちが、思わず立ち上がって目を剥いた。
相手方の提督が泡を食って叫ぶ。
「バ、バカな!一体どこから魚雷を撃たれた!? 敵駆逐艦はまだ魚雷の射程外のはずだぞ!」
――――種明かしは単純だ。
衣笠と相まみえる前――その段階から、北上は『長距離酸素魚雷』を海へと解き放っていたのだ。
夕張が演習ギリギリまで徹夜して作り上げた新兵器。
今頃、鎮守府で眠っている彼女も、これを見れば喜んだだろう。
朝潮たちへ意識を集中させた衣笠には、迫り来る魚雷を捉える余裕など残されていない。
全身を濃いペイントで塗り潰された衣笠は、何が起きたのかも理解できないまま戦闘不能となった。
敵艦隊の最大火力を担っていた重巡洋艦が、一瞬にして盤上から消え去った。
敵陣営に走る激しい動揺。
そして、龍驤へと迫っていた多摩の進撃が、主力の唐突すぎる脱落によってピタリと止まった。
崖の上で、不知火が手帳に一筆書き加えながら告げる。
「……相手の要を排除。副提督、反撃の準備完了いたしました」
◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆
衣笠の唐突な脱落によって一瞬生じた、多摩の小さな隙。
如月はその千載一遇の好機を見逃さなかった。
「龍驤ちゃんには、指一本触れさせないって言ったでしょう!」
龍驤を背に庇う位置から、如月は全速力で海面を滑り出した。駆逐艦ならではの爆発的な加速で多摩との距離を急速に詰めると、12.7cm連装砲が一斉に火を噴く。
しかし――相手は一筋縄ではいかない軽巡洋艦だった。
「甘いニャ!」
多摩は間一髪のところで急転舵を切り、至近に迫った砲弾の群れを鮮やかに回避した。
俊敏な反応と高い旋回性能。水柱が多摩の船体を白く包み込んだものの、決定打には至らない。
次の瞬間、体勢を立て直した多摩の主砲が、至近距離から如月を捉えた。
「駆逐艦一隻でこの多摩に勝てると思ってるのかニャ!?」
圧倒的な火力差。砲門の数でも装甲でも、駆逐艦である如月が単身で軽巡洋艦と対峙するのは自殺行為に等しい。水面を隔てて目線が交錯する。多摩の重々しい14cm主砲が、逃げ場のない如月へと狙いを定めていく。
「くっ……!」
至近距離での睨み合い。跳ね上がる水しぶきのなかで、如月は思わず息を呑んだ。
後方では龍驤が全神経を空戦に注いでおり、回避行動すら取れない。
自分がここで倒れれば、そのまま龍驤も無防備になる。
じりりと肌を焼くような死線の中、しかし、如月の瞳に宿っていたのは絶望でも諦めでもない。
彼女の意識は最初から「多摩を倒すこと」など目指していなかった。
(いいの……これでいい……)
彼女の脳裏に蘇っていたのは、先日の戦いで満身創痍になりながらも、決して退かずに作戦を遂行した川内の姿。
――――自分は敵を倒す必要などない。
ただの囮でいい。龍驤を守るための一枚の防壁になれば、それで十分だった。
如月は避ける素振りすら見せず、むしろ多摩の射線を完全に遮るように、龍驤の前へ躍り出て、その身を盾にした。
――――いつもの柔和な表情は既にない。
「なっ……避けないのかニャ!?」
異様な気迫と、迷いなく盾となろうとする捨て身の行動に、多摩の目が見開かれる。
引き金を引く指が、ほんのわずかに鈍った。
その躊躇。それこそが、最大の隙。
「……あと少し……!」
最後の祥鳳機が零式艦戦の機銃掃射を受け、白いペイントを撒き散らしながら落下していく。
「如月ちゃん……! ええ度胸や!!」
背後で全神経を集中させていた龍驤の目が見開かれる。
上空の制圧を終えた艦載機隊が、多摩の真上へと急降下を開始していた。
「落ちろやぁぁぁッ!!」
切り裂くような叫びとともに、急降下した九九式艦爆隊が多摩の真上から塗料弾を叩きつけた。
頭上から降り注ぐ大量の朱いペイントが、多摩の艦橋と甲板を完全に包み込む。だが、多摩の射手も土壇場で執念の引き金を引いていた。放たれた14cm砲弾が至近距離で炸裂し、赤い演習用ペイントが如月の身体を一気に染め上げた。
ペイントに塗れた多摩がその場に崩れ落ちるのと同時に、如月もまた、膝をつくようにして海上に漂った。満身創痍の姿ではあったが、その顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
「ふふ……これで、お仕事完了ね……龍驤ちゃん……」
「如月ちゃん……! おおきに、よう守ってくれた……!」
如月が身を挺して稼いだ数秒が、旗艦である龍驤の命脈を完全に繋ぎ止めたのだ。
◆◆◆◆◆
衣笠と多摩を相次いで失った文月、長月、菊月の睦月型三隻は激しい動揺を隠せずにいた。
陣形は瓦解し、動きもばらばらになっていく。
「そんな……衣笠さんも多摩さんもやられたなんて……!」
「う、嘘でしょ……!? どうすればいいのかな……」
浮き足立つ三隻が、海上で立ち往生しかけた――その時だった。
ヒュオオォォォン――ッ!
大気を引き裂く甲高い滑空音が空から響き渡り、北上の眼前で巨大な水柱が数本立ち上った。水沫とともに強烈な衝撃波が襲いかかり、圧倒的な射程で追撃を狙っていた北上の進路を強引に遮る。
祥鳳からの、間一髪の全力を賭した艦爆隊によるピンポイントの対艦支援攻撃だった。
「邪魔が入っちゃったかー。流石にこの距離から無理やり突っ込むのはダルいねぇ」
直後、各艦の無線機から祥鳳の切迫した、しかし毅然とした叱責が響き渡った。
『――文月! 長月! 菊月! しっかりしなさい! たとえ重巡と軽巡を失おうと、私たちはまだ戦えるわ!』
『睦月型の機動力を活かし、単縦陣を組み直して朝潮型を牽制! 私は上空から全艦爆隊をもって足止めに専念します! 持ちこたえて!』
パニックを起こしかけていた駆逐三隻の瞳に正気が戻る。
「……祥鳳さんの言う通り! 浮き足立ってちゃダメ!」
「単縦陣に組み直し! 朝潮型三隻を引っ張り回すよ!」
祥鳳の迅速な戦術判断と上空からの護りによって、追い詰められていた敵駆逐隊は、土壇場で態勢を立て直し、再び統率を取り戻し始めた。