ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。 作:tomozow
視界がゆっくりと現実の色を取り戻す。
目の前に広がっていたのは、焚き火の灰色の残り香でも、パブニカ王国の豪華な天幕でもなかった。見慣れた賃貸ワンルームの天井。そして、わずかに頭痛の残る前頭葉を軽く押さえながら、八幡は重い体を起こした。
「……ん……っ。いてぇ……」
布団の上であぐらをかきながら、二日酔いの頭を振る。昨日――いや、夢の中での出来事を思い返そうとして、八幡は盛大にため息をついた。
「……よく飲んだな、おい。最後の方はすっかり記憶が飛んでるぞ……。というか、最初のうちは『お前、未成年だろ』とか『肝臓のキャパが違う』とか言って、ポップのやつが酒を止めようとしてたはずなんだが……」
夢と現実の境界線を曖昧にするような記憶をたどりながら、八幡は自嘲気味に鼻で笑った。
「まあ、いっか。……そもそもあそこは『平成の少年ジャンプの黄金期』みたいな、理屈もカロリーも全部ノリで解決する世界線だったしな」
現実に戻ってきた証拠とばかりに、部屋の隅に置かれたスタンドハンガーに目をやる。そこには、昨夜の記憶のままにバッグへ押し込んだはずの、皺の寄った「戦闘服」――もとい、リクルートスーツが所在なげに掛かっていた。
「さっさと現実の日常に戻らねえと、こっちの精神が持っていかれるぞ……」
布団から這い出た八幡は、手際よくスーツをガーメントバッグにしまい込み、代わりに部屋の隅に立てかけてあったスポーツウェアへと着替えた。
玄関のドアを開けると、朝の湿り気を帯びた、どこか生ぬるい風が頬をなでる。
駐輪場に停めてあった愛車のクロスバイクに跨がり、ペダルに足をかけた瞬間、八幡は思わず「うっ」と顔をしかめた。
「……なんだこれ。違和感がやばいな」
漕ぎ出した瞬間、脚に伝わる負荷が、自分の感覚と妙に噛み合わない。それもそのはずだ。あちらの世界では、魔王軍の幹部とタイマンを張り、荒野を駆け抜け、連日の命がけの行軍で肉体を極限まで「鍛えまくって」いた。その感覚のまま、現代日本の舗装されたアスファルトをチャリで走ろうものだから、筋力と出力のバランスが完全にバグっている。
「向こうの世界じゃ、知恵と奇策だけで乗り切ってるつもりだったけど、ベースのフィジカル自体は知らず知らずのうちに魔王軍仕様にアップデートされてたってわけか……」
ペダルを軽く踏み込むだけで、車体が驚くほどの加速を見せる。無駄にキレの良すぎる筋肉の動きに冷や汗を流しながら、八幡は朝の通勤ロードへと漕ぎ出した。
「最近さぼりがちだった運動不足が気になってはいたが、まさか別の意味で不都合が生じるとはな……。まったく、どっちの世界にいても、気楽に生きさせてくれないクソッタレな日常だぜ」
ぼやきながらも、八幡はギアを一段重くし、朝の風を切って走り出すのだった。
午前中の得意先回り――もとい、最後の挨拶を兼ねた地獄の謝罪行脚を終え、八幡はため息をつきながら自社のデスクへと戻ってきた。
「お疲れ様です、比企谷さん。……で、どうでした? 先方は」
隣の席からひょっこり顔を出したのは、後輩の坂本だった。どこか頼りなさを残しつつも、最近は少しずつ仕事に慣れてきた若手社員だ。
「どうもこうもねえよ。『え、比企谷さん辞めちゃうんですか? うちの担当、これからどうすんですか困りますよ』って、一通りお決まりの文句をいただいてきた。……まぁ、菓子折り置いて平謝りしたら、なんとか納得してくれたけどな」
椅子にドサリと腰を下ろし、八幡はデスクの引き出しから引き継ぎ用のクリアファイルを取り出した。
「ほら、これが今回引き継ぐ分のクライアントごとの特記事項と、過去のトラブルシューティングのまとめだ。目を通しとけよ」
坂本は差し出されたぶ厚いファイルを受け取り、ページをめくるなり「うっ」と情けない声を漏らした。
「ひ、比企谷さん……これ、ただの営業の引き継ぎってレベル超えてません? クライアントの趣味嗜好から、先方の社内派閥の相関図、さらには過去の無理難題に対するウルトラCの解決策まで事細かに書いてあるじゃないですか……。俺、こんなの全部こなせる自信ないです……」
青い顔をする坂本を見て、八幡は遠い目をしながら頭をポリポリと掻いた。
「なにビビってんだ。いざとなれば根性と愛想笑いでどうにかなるさ。……そもそもだ、俺だってもともとは事務方で入ったはずなんだがなぁ」
ぽつりと零した本音に、坂本が首をかしげる。
「え? 比企谷さんって、入社以来ずっとバリバリの営業のエースって聞いてましたけど……?」
「誰だそんな大嘘流したやつは。俺の本職はあくまで社内の書類仕事と、先輩の尻拭いと、雑用全般だぞ。……いつの間にか、なぜか最前線でクライアントの機嫌を取る営業の真似事までさせられるようになってただけで」
淡々と自虐を述べる八幡だったが、坂本にはそれが冗談に聞こえたらしい。
「いやいや、比企谷さんほどマルチに何でもこなして、現場のトラブルを涼しい顔で全部片付ける『なんでも屋』みたいな先輩、ほかにいませんよ!」
――なんでも屋。
その一言に、昨夜のファンタジー世界でマトリフや仲間たちから言われた「大魔導士クラスの万能型仕掛け人」という評価が頭をよぎり、八幡は思わず盛大に頭を抱えた。
「……笑うな。こっちは自分の専門分野が何一つ分からないまま、社内の便利屋として使い潰されていただけの社畜だ」
「え、そんな自虐しないでくださいよ! じゃあ、次の転職先ではどんな職種狙ってるんですか? やっぱりまたバリバリの……」
「バカ言え。次こそは、誰とも喋らずに黙々とパソコンの画面だけを睨んでいられる、限りなく空気のような底辺事務職か、あるいは誰にも干渉されない隠居生活を希望したいところだね」
やれやれと肩をすくめる八幡の背中を、現実の冷徹なオフィスの空気が包み込む。
魔王軍との死闘も、パブニカの温かい夜も、すべてはあのくだらない夢の続きだったかのように、目の前にはいつもの終わらない日常――そして山積みの残務処理が、静かに口を開けて待っていたのだった。
コツン、コツンと、アスファルトを叩くクロスバイクのタイヤの音。
定時を過ぎたオフィスの喧騒を抜け出し、凝り固まった体をほぐすために、八幡はジムへ立ち寄ろうとペダルをこいでいた。
交差点の赤信号でブレーキを握り、ぼんやりと前を向いていたその時、横からひょいと声をかけられた。
「あれー? 比企谷じゃない?」
聞き覚えはあるが、現在の生活圏や会社ではまず耳にしない、やけに軽いトーンの声。八幡はわずかに眉をひそめ、声の主の方へ視線を向けた。
「……ん?」
数秒のタイムラグを経て、目の前に立っている女性の顔と記憶の中のデータが合致する。
――折本(おりもと)か。
「……折本か。へぇ、随分とまた珍しいところで会うな」
「うわ、なにその反応。失礼だなー。元気してたの、比企谷?」
相変わらずの調子で軽口を叩きながら、折本はフフンと鼻を鳴らす。
「まあね。見ての通り、心身ともにそれなりにサバイブしてるよ」
八幡が淡々とそう返したところで、ちょうどカチリと音がして、目の前の歩行者用信号が青へと変わった。
「お、青になったな。じゃあ、俺はこっちだから」
「あ、うん、お疲れー」
愛想笑いを浮かべるでもなく、さっさとペダルを踏み込もうとした八幡だったが、なぜか背後からトコトコと足音がついてくる。チラと横を向けば、見慣れたスニーカーが自分のクロスバイクのスピードに合わせて並走するように歩いていた。
次の交差点に差し掛かり、再び赤信号で足をつく。
八幡はジト目で隣の折本を睨みつけた。
「……なんだお前。さっきからずっとついてきてるけど、ストーカーかよ」
「は? なに自意識過剰になってるわけ? 別にストーカーじゃないし。たまたま帰りの方向が一緒なだけだし!」
折本は不服そうに頬を膨らませ、フイッとそっぽを向いてみせた。もちろん、その表情の奥には隠しきれない好奇心の光が宿っているのだが、面倒くさいことに巻き込まれたくない八幡は、深く突っ込むのをスルーすることにした。
「……はいはい、方向が一緒ね。勝手にしてくれ」
やれやれとため息をつきながら、八幡は再び青信号の変わるのを待つため、前方のディスプレイを見上げるのだった。
「てかさ、折角こうして久しぶりに会ったんだしさ。ちょっと喫茶店でも寄って話そうよ」
青信号を渡り終えたところで、折本はくるりと八幡の方を振り返り、悪戯っぽく笑いながら提案してきた。
「えー……」
あからさまに嫌そうな顔を隠さない八幡に、折本は「なんだその反応は!」と不満げに眉をひそめる。しかし、ジムで汗を流すのとはまた別の面倒臭さにぶつかった八幡は、まあここで変に言い争うよりは適当に付き合ってさっさと解散するかと頭の中で計算し、一つ小さく息をついた。
「……まあ、いいか。付き合うよ」
「やった。じゃあ、あそこの店にしよう!」
そう言って折本が指さした方向――に向かうかと思いきや、八幡がハンドルをそっと別方向へと向けた。
「いや、喫茶店じゃなくてこっちだ」
「え?」
2人がたどり着いたのは、お洒落なカフェでも純喫茶でもなく、見慣れた赤い看板のイタリアンワイン&カフェレストランだった。
「……って、サイゼじゃん!」
「なんだよ、文句あんのか」
「いや、喫茶店って言ったじゃん! ていうか、あんた本当サイゼ好きだねー!」
呆れたように呆気にとられる折本を尻目に、八幡は慣れた手つきでクロスバイクを駐輪場へ停め、涼しい顔で店内へと足を踏み入れた。
案内された席に座り、メニューを開くやいなや、八幡は迷うことなくドリンクバーといつもの定番メニューに狙いを定める。向かい側に座った折本は、メニューを見つめながらクスクスと笑った。
「喫茶店じゃないし、飲む物だって結局いつものお茶系だしさ」
「いいだろ。飲む物はどうせ大して変わらんし、ちょうど小腹も空いてたんだよ。安くて美味い、これに勝る正義はねえの」
八幡のそのブレない持論に、折本はふっと肩を揺らして笑った。
「あはは、なんか変わってないね、そういうところ。……でも、わかるー。一周回って、やっぱサイゼってありだよねー」
その言葉に、八幡は真顔でキリッと頷き、熱っぽく持論を返した。
「何を言ってる。何周回っても最高だよ、サイゼは。異世界だろうが現実だろうが、このコスパと安定感の前には平伏するしかないね」
「い、いきなり何の話? 異世界ってなに?」
突然のワードに折本が目を丸くするのを華麗にスルーしながら、八幡は注文のベルを鳴らし、お冷やを一口ごくんと飲むのだった。
「すまん。オタクなもんでな。最近の流行りはそういう、こう……異世界転移してチート無双する系のトレンドなんだよ」
適当に口から出まかせを並べる八幡に、折本は呆れたような、でもどこか懐かしむような目を向けた。
「ふーん……。まあ、昔から変なとこ拗らせてるところは、あんま変わんないねー」
「そうだな、あんまり変わんないな。……ま、このサイゼのメニューの安定感と同じで、変わらないってのもそれはそれで一つの正義だろ」
そんなやり取りをしながら、ふと八幡は向かい側に座る折本を真正面から見据えた。昔の面影を残しつつも、学生時代とはまた違った大人の洗練された雰囲気をまとっている。思わず、言葉が途中で引っかかった。
「……お前は、なんか……その……」
言葉を濁した八幡を見て、折本はクスリと悪戯っぽく微笑み、先回りするように小首をかしげた。
「なに? もしかして、『可愛くなった?』って言いたいの?」
急に直球の選択肢を投げ込まれ、八幡は内心でひやりとしつつも、鼻でふんと息を吐いてから淡々と言い返した。
「はっ、自意識過剰だな。今さら幼馴染の顔面を褒めるほど余裕はねえよ。――つーか、もうそういう歳でもねえだろ。……まあ、強いて言うなら、美人になったんじゃねえの」
まさかストレートに「美人」と言われるとは思っていなかったのか、折本は「っ……!」と息を呑み、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げた。急に視線を泳がせながら、慌てたようにテーブルの上のメニューへ目を逃がす。
「な、なに急に! 別に嬉しくないし……! からかわないでよ!」
赤面しながら照れ隠しに早口で捲し立てる折本を横目に、八幡は心の中で「やべ、変なこと言ったか」と冷や汗を拭う。
その瞬間――脳裏のどこかで、まるでRPGのレベルアップでもしたかのような、澄んだ電子音が「パーン!」と軽やかに響き渡った気がしたが、八幡は全力でその幻聴を無視することにした。
湯気の立つドリンクバーのコーヒーカップを手に取り、一口飲んでから、八幡はふとテーブルの向こうを見据えた。
外の喧騒を遠くに聞きながら、何の気なしにぽつりと呟く。
「……なぁ、折本。お前、今……幸せか?」
急に真面目なトーンで投げかけられた直球の質問に、折本はわずかに目を丸くした。しかし、すぐに柔らかく、嘘偽りのない笑みを浮かべて小さくうなずいた。
「うん。……すごく、幸せだよ」
その答えを聞いた八幡は、ふっと肩の力を抜き、どこか満足したような、あるいは肩の荷が下りたような顔をした。
「そうか。……なら、良かった」
「なんなの、急に。お父さんみたいなこと言って」
照れ隠しのようにクスリと笑った折本に対し、八幡は平然とした顔でコーヒーカップを傾けたまま返す。
「昔、ちょっとばかり好きだった女はな、ちゃんと幸せになっていてもらわねえと、こっちの思い出の収支が合わなくなるんだよ」
「――っ……!」
サラリと言ってのけられたその言葉に、折本は心臓を撃ち抜かれたように息を呑んだ。先ほど以上の勢いで、今度は顔全体がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。動揺を隠そうとグラスの水に手を伸ばすが、手がわずかに震えていた。
「な、なにサラッと恥ずかしいこと言って……! からかわないでって言ったじゃん……!」
顔を真っ赤にして抗議する折本を横目に、八幡はどこ吹く風といった様子でコーヒーを飲み干す。
そんな八幡の姿をじっと見つめながら、折本はふっと息を鎮め、やわらかく、どこか愛おしそうな目を向けた。
「……大人になったね、八幡」
「そうか? こっちはただ、いつの間にか無駄に歳をとっちまっただけだがね。中身なんて昔から大して変わってねえよ」
やれやれと首を横に振る八幡に、折本は首を小さく縦に振って微笑んだ。
「ううん。……大人になったよ。見てれば、ちゃんとわかる」
そのまっすぐな視線から逃げるように、八幡は視線をメニューの端へと逸らし、ただ短く「そうか」とだけ呟いた。
赤い看板のファミレスの片隅。
ファンタジーの世界の喧騒から遠く離れた現実の夜の中で、二人の間に流れる空気は、かつての学生時代よりもほんの少しだけ、穏やかで温かかった。
「って、いつの間にか『八幡』って呼び捨てになってるし。お前、俺の名前は比企谷だろ」
ツッコミを入れるように八幡が呆れた顔をすると、折本はふふんと勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「いいじゃん、別に。……それにさ、もしあの時が違ってたら、もしかしたら私たち、恋人になってた世界線もあったかもしれないでしょ?」
さらりと飛び出したその仮定の言葉に、八幡は心の中で「おいおい、またマルチバースかよ」と盛大にツッコミを入れる。
(こいつ、意外とそういうロマンチックというか、タラレバを口にするタイプだったか……? いや、もしかして俺の知らないところで、この世界線でもそういうフラグが回収されるルートがあったわけか……?)
少しだけ呆れながらも、どこか懐かしい響きを噛みしめるように、八幡はふっと息を漏らした。
「……そうだな、かおり」
普段めったに呼ばない下の名前をサラッと言葉に乗せられた瞬間、折本は「っ……!」と息を呑み、再び耳まで真っ赤にして俯いた。
そんな彼女の様子を横目で見ながら、八幡はテーブルの上に置いていたレシートを手に取り、立ち上がる。
サイゼの会計を済ませ、店の外へ出ると、夜の沖縄の風がほてった肌に心地よく吹き抜けた。
別れ際の交差点の近くで、折本は名残惜しそうに足を止めると、まっすぐ八幡の目を見つめて言った。
「ねえ。……やっぱり、アリだよ、八幡」
その不意打ちの直球に、八幡はわずかに目を丸くしたあと、苦笑交じりに遠い目をしながら頭を軽く掻いた。
「……そりゃどうも。――できれば、そのセリフはもう何年か前、せめて高校生の時に聞いてみたかったもんだな、かおり」
少しだけ皮肉めいて、しかしどこか優しさを帯びたその返答に、折本は驚いたように目を見張ったあと、ふっと柔らかく、これ以上ないほど晴れやかな笑顔を咲かせた。
「……だよね。じゃ、またね、比企谷くん」
「あぁ。気をつけて帰れよ」
それぞれの帰路へと分かれる別れ際。
振り返ることはせず、互いに軽く手を挙げながら、二人はそれぞれの日常へと歩き出すのだった。
折本と別れ、ペダルを軽く踏み返しながら、八幡はふうっと大きく息を吐き出した。
どこか気恥ずかしく、しかし長い間心の隅に引っかかっていた澱のようなものが、驚くほどきれいに洗い流されているのを感じる。過去の選択や、うまくいかなかった青春の残骸に、ようやくちゃんとした「区切り」がついたような感覚だった。
「……なんか、胸のつかえが取れたな」
独りごちながらクロスバイクをジムの駐輪場へ滑り込ませ、手際よく着替えてフロアへ向かう。
頭を冷やすために選んだのは、ウォーキングでもランニングでもなく、ひたすら無心で汗を流せるボクシングエリアだった。
防音の効いた空間に、乾いた打撃音が小気味よく響く。
ガードを固め、重心を落とし、淡々とサンドバッグへ拳を叩き込む。
(ふっ……! くっ……!)
踏み込むたびに、異世界で培われた肉体のキレと、現実世界のフィジカルのズレが綺麗にかみ合っていく。余計な思考をすべて削ぎ落とし、ただ目の前の革の塊に意識を集中させていたその時だった。
「おい、比企谷。いいタイミングで来たな」
背後から声をかけてきたのは、このジムで顔見知りになった、プロ志望の若いトレーニーだった。鍛え上げられた分厚い胸板と、挑戦的な笑みを浮かべた顔が目の前に立つ。
「ちょうどいいミット打ちの相手を探してたんだよ。どうだ、軽く身体動かしていかねえか?」
いつもなら「いや、今日は家で録画したアニメでも見るんで」と適当な理由をつけて断るところだが――今の八幡の身体は、異世界の修羅場で研ぎ澄まされた戦闘勘と、モヤモヤを振り払いたい鬱屈したエネルギーで満ちていた。
「……いいよ。付き合ってやるよ」
短くそう応じると、八幡は自分のロッカーへ戻り、分厚いバンテージをしっかりと巻き直す。
手渡されたのは、普段の軽いミット打ち用ではない、本格的なヘビーオンスのボクシンググローブ。そして顔面を保護するための堅牢なヘッドギアだった。
装着した視界の端で、相手がグローブを合わせる音がカツリと響く。
――レフェリーの合図すらない、ただのガチの「マス」ではないスパーリングの空気が、じわりとジムの隅に満ちていくのだった。
ガツッ、と重たい衝撃がリングの空気を切り裂く。
スパーリングが始まって数秒――相手の放った鋭いワンツーを、八幡は紙一重のステップで軽々と見切った。ただ避けるだけではない。頭の位置、重心の移動、相手の肩の微かな予備動作。そのすべてが、かつてファンタジー世界の死闘を潜り抜けてきた身体の感覚と、奇妙なまでにリンクしている。
(……見える)
あちらの世界で魔王軍の猛者たちや戦士と渡り合ってきた経験は、伊達ではなかった。現実世界のスポーツジムのリングの上で、その戦闘勘が異常なほどの冴えを見せる。相手のパンチはまるでスローモーションのように軌道が透けて見え、八幡の体にクリーンヒットすることは絶対にない。
「くっ……! 速え……っ!」
相手の青年が焦りの色を滲ませ、踏み込みを深くして連打を浴びせてくる。しかし、八幡の足さばきはその嵐をまるで暖簾に腕押しのようにいなしていく。
自分の頭の中にあるイメージと、実際の肉体の出力が、カチリ、カチリと音を立てて完璧に噛み合っていくのが分かった。
――ギアが、完全にトップに入った。
(……そろそろ、終わらせるか)
相手が大きめのフックを振るってきたその瞬間、八幡の身体が本能的に、しかし圧倒的な効率で動いた。
最小限のダッキングで軌道をかわし、ガラ空きになった相手の脇腹へと、体重の乗った重いジャブを突き刺す。さらに、相手の意識が下を向いたその隙を逃さず、死角から正確無比なストレートをアゴの芯へと合わせに行った。
ドスッ……! と、肉と肉がぶつかる鈍い音が響く。
「がはっ……!」
手応えは十分すぎた。プロ志望の屈強な青年は、目を見開いたままその場に崩れ落ちるようにマットへと沈み、そのまま動かなくなった。
シーンと静まり返ったジムの隅で、荒い息を吐きながら八幡は自分のグローブを見下ろした。
静寂の中、頭の中で再びあの澄んだ電子音が心地よく鳴り響く。
「……おいおい」
八幡はヘッドギアの隙間から天井を仰ぎ見て、乾いた笑いを零した。
「これじゃあ、どっちがモンスターだか分かんねえな……」
マットの上に沈んだ相手がゆっくりと意識を取り戻し、周囲の会員たちが「いまのワンツー、やばくなかったか……?」とざわめき始める中、八幡はヘッドギアを外し、汗を拭いながら深呼吸をした。
「ふう……。わりい、ちょっと熱くなりすぎたか」
差し出されたタオルで汗をぬぐい、リングのロープをくぐって降りようとしたその時、フロアの隅でその一部始終をじっと見つめていた人物と視線がぶつかった。
――一色いろは。
スポーティなパーカー姿だったが、見間違えるはずもない。彼女は大きく見開いた目をさらにパチパチと瞬かせ、呆然としたような、それでいてどこか熱を帯びた瞳で八幡のほうを見つめていた。
(……は? なんでここにいろはすがいんだよ。よりによって、このジムに……?)
思考を巡らせる間にも、いろははスルスルとリングの近くまで歩み寄ってくると、ぽかんと開いていた口を閉じ、じっと八幡の顔から鍛え上げられた上半身へと視線を這わせた。そして、少しだけ頬を朱に染めながら、漏れ出るような声をあげる。
「……先輩、今の……めちゃくちゃ、かっこよかったです……」
普段のあの含みのある小悪魔的な笑顔でも、面倒くさそうに先輩をディスる時の冷ややかな目でもない。不意を突かれたような、純粋に見惚れてしまった少女の顔だった。
予期せぬ遭遇と、相手の反応に気恥ずかしさを覚えた八幡は、視線をそっと逸らしながら、いつもの調子でぶっきらぼうに声をかけた。
「……お、またあったな、一色。相変わらず奇遇と言うか、なんと言うか……。お前、こんな男臭いジムで何やってんだよ」
いろははふっと息を整えると、悪戯っぽく片方の口角を上げ、いつもの調子を取り戻したように笑ってみせた。
「なにって、見て分からないですか? 私だって、たまには汗を流してリフレッシュくらいしますよ。……ここで、アルバイトも兼ねて受付とか雑務のお手伝いもしてますしね」
「へぇ、ここで……って、おい」
八幡が呆れたようにため息をつくのを見て、いろははクスクスと嬉しそうな笑い声を零すのだった。
「前も思いましたけど、スポーツジムにいるセンパイって、なんかこう……違和感ありまくりですよね」
手渡されたミネラルウォーターのボトルを受け取りながら、いろははクスクスと楽しそうに目を細めて言った。
「自分でもそう思うけどよ、こっちの身体がなまってると、どうも感覚がバグって気持ち悪くてな。動かしておかないと落ち着かないんだよ」
八幡はタオルで首筋の汗を拭いながら、どこか遠い目をしつつぶっきらぼうに返す。
しかし、いろははその言葉の裏にある、モブのサラリーマンとは到底思えない異様なキレと、先ほどリングで見せた鋭い殺気を思い出していた。
鍛え上げられた肉体から滴る汗、引き締まった胸板、そしてどこか影のある精悍な表情。それはただの運動不足解消に勤しむ一般人のそれではなく、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた「闘う男」の本物の気配だった。
(……なんか、今日の先輩、いつもよりずっとかっこよく見えちゃうんですけど……)
普段なら軽口でスルーするところなのに、なぜか胸の奥がトクトクと早く脈打つ。顔に出さないよう必死に澄ました顔を作ろうとするが、頬がわずかに熱を帯びるのを止められない。
高鳴る鼓動をごまかすように、いろははわざとらしくフンと息を鼻から抜いて見せた。
「ふーん……。まあ、バイト中の私をいきなりからかう余裕があるくらいなら、まだまだ元気みたいですね、格闘家(・)さ・ん・?」
「ふん、格闘家ねぇ……。できれば、こんな素手での殴り合いより、本当は愛用の剣(ブレード)でも振り回して剣術とかしたいところなんだけどな」
八幡がぼそっと呟いたその言葉に、いろはは「はにゃ?」とばかりに首をかしげた。
「……けんじゅつ? 先輩、いつの時代の武士なんですか。そんなの今の時代、そこらの道場に通うか、あるいはチャンバラの趣味でもないとできませんよ」
「まぁ、そうだな」
苦笑しながら受け流す八幡だったが、内心では少しだけ真面目に思考を巡らせていた。
(待てよ。向こうの世界じゃどうしても剣や魔法、ドラゴンキラーの類に頼りがちだったけど、よく考えると丸腰――つまり武器を持たない肉体そのもののほうが、ベースのスペックとして徹底的に鍛え上げるべきなんじゃないか?)
武器という補助輪を外した状態でも魔王軍の幹部を圧倒できるほどのフィジカルがあれば、どんな状況でも対応できる万能の「なんでも屋」に近づけるはずだ。
「……よし、今度はボクシングだけじゃなくて、キックボクシングとかもちょっと齧ってみるか」
素手での打撃に飽き足らず、足技や全身の連動性を取り入れた格闘技にまで思考を伸ばす八幡の姿に、いろはは「……先輩、なんだか最近、変な方向に向かってマルチにハイスペック化してません?」と、呆れたような、それでいてどこか面白がるような視線を向けるのだった。
少し離れたフロアの隅、有酸素運動用のランニングマシンの並び。
その一番端っこで、タオルを首にかけた女性が、まるで動きを忘れたかのように佇んでいた。
雪ノ下陽乃。
彼女は、八幡がこのジムに出入りしているという情報をどこからか嗅ぎつけ、「偶然を装えば、どんな面白い反応をするかな」という好奇心半分、冷やかし半分でこの場所にやってきていた。
最初は、元社畜の地味な男子が汗を流しているのを遠くから面白半分で観察するつもりだった。
――だが、先ほどのスパーリングを見て、その余裕は完全に吹き飛んでいた。
(……嘘、でしょ……?)
プロ志望の屈強な男を、紙一重のステップと一撃で沈めたあの身のこなし。
ただの運動不足の気晴らしなどというレベルではない。圧倒的な殺気と、極限まで研ぎ澄まされた戦闘勘。そして、滴る汗に濡れた引き締まった上半身から漂う、むき出しのセクシーさと危ういまでの色気。
いつもはどこか気だるげで、ひねくれた視線を向けてくるあの後輩の男が、今の瞬間だけは、まるで物語の修羅場をくぐり抜けてきた本物の「強者」に見えた。
陽乃はゴクリと喉を鳴らし、普段の余裕綽々な笑みを完全に消し去ったまま、その場で文字通り「絶句」して立ち尽くすしかなかったのだった。
「――おや? ひょっとして、比企谷くんじゃない」
不意に背後からかけられた、よく通る、しかしどこか妖艶な響きを含んだ声。
八幡がわずかに眉をひそめて振り返ると、そこにはいつもの完璧な笑みを浮かべた――しかし、どこか先ほどまでの動揺を隠しきれていない様子の雪ノ下陽乃が立っていた。
「……って、陽乃さん?」
八幡は目を丸くし、汗を拭いながら怪訝な視線を向ける。
「なんでこんなところにいるんですか。それに、もう身体の方は……もう大丈夫なんですか?」
かつて彼女が抱えていた複雑な事情や、これまでのいざこざを思い出し、八幡が無意識に気遣うような目を向けると、陽乃はふっと息を呑んだ。
先ほど目の当たりにした野性味あふれる圧倒的な強さと、この期に及んで自分を気遣ってくるその不器用な優しさが混ざり合い、陽乃は普段の余裕を完全に崩されてしまう。
「……っ。うん、おかげさまでね。すっかり、すっかり元気になったよ」
珍しく言葉を詰まらせながら、陽乃はわずかに頬を赤らめ、気まずそうに視線を泳がせた。あの陽乃が気恥ずかしそうにしている姿など、これまでの関係性ではまずお目にかかれないレアケースだった。
そのやり取りを少し離れた場所から目の当たりにしていた一色いろはは、ジト目と呆れが入り混じった複雑な表情で八幡の背中を凝視する。
(……はぁ。先輩、本当に何なんですか一体。ただジムで汗流してただけなのに、いつの間にこんな年上の美人さんまでフラグ回収しちゃってるんですか……。まったく、油断も隙もあったもんじゃないですね)
呆れと、ほんの少しのジェラシーを混ぜ合わせながら、いろははフンと小さく鼻を鳴らして、呆れたようにため息をつくのだった。
「ねえ、比企谷くん。ちょっと……今、お話いいかな?」
陽乃がふっと柔らかく、しかしどこか真剣な含みを持たせた瞳で八幡を見つめる。
その空気を察知してか、すかさずいろはが一歩前に出て、少し尖った声で割って入った。
「あの、雪ノ下先輩。私という存在を盛大にスルーしてますけど、一応ここに後輩の私(わたし)もいますからね? 秘密の密談なら他所でやってもらえます?」
「あら、いろはちゃんも一緒だったんだ。ごめんごめん、あまりに比企谷くんの動きに見とれちゃってさ」
悪びれもせず微笑む陽乃に、いろはは「うっ……」と言葉を詰まらせる。先ほどのスパーリングの衝撃は、どうやら陽乃も同じように食らっていたらしい。
そんな二人のやり取りを横目に、八幡は軽いめまいを覚えながらも額の汗を拭った。
「……まあ、ここで突っ立っててもあれだし、シャワー浴びてくるから待ってろ」
◇ ◇ ◇
それから少しして、シャワーを浴びてさっぱりした身なりに戻った八幡は、ジムの休憩スペースにあるベンチに腰を下ろしていた。
手には冷えたスポーツドリンクのボトル。
その両脇には、なぜか綺麗に並んで腰掛ける雪ノ下陽乃と一色いろはの姿がある。男臭いボクシングジムの休憩エリアとは思えない、妙に華やかで、かつピリついたアウェー感が八幡の背筋をじっとりと濡らした。
「……で。わざわざこんな男臭いところまで来て、俺になんの用だ、陽乃さん」
八幡がスポーツドリンクを一口飲み、面倒くさそうに本題を促すと、陽乃はしばらく沈黙したあと、ふっとその美しい唇の端を持ち上げた。
「ううん、ただね……あのリングの上での比企谷くんを見てたら、なんだか少し、聞きたいことができちゃってさ」
隣に座るいろはも、ちらりと八幡の横顔を盗み見ながら、興味津々な視線を隠そうともしなかった。
ベンチに落ちる静寂を切り裂くように、陽乃はまっすぐな瞳を八幡に向けた。その表情には、いつもの底意地の悪い探りを入れるような余裕はなく、ただ純粋な疑問と、隠しきれない切実さが混ざっていた。
「ねえ、比企谷くん……。教えてよ。その圧倒的な身のこなしも、あの時、私の体に起きたことも……。一体、あなたは何者なの?」
(……やっぱり、この流れか)
八幡はスポーツドリンクのボトルを握り直したまま、内心で小さくため息をついた。
陽乃がおそらく聞いてきているのは、以前彼女が窮地に陥った際、自分が使ってしまった回復魔法――「ホイミ」の一件に違いない。現実の科学や常識では説明のつかない奇跡。それを目の当たりにし、さらに今日の戦闘センスまで見せつけられれば、ただの「ひねくれた元社畜」という枠には到底収まらなくなっていることなど容易に想像がついた。
(……だが、ここで「実は俺、ドラクエの世界で勇者一味と冒険してました」なんて真顔で言えるわけがねえよな。頭がおかしくなったと思われるか、あるいは変な宗教の勧誘だと思われるのがオチだ)
何より、自分の中に眠るファンタジーの記憶や、裏で動き出しているダイとバランの気配といった秘密は、簡単に他人にぺらぺらと喋っていい性質のものではない。
(話せることなんて、一つもねえな……)
隣では、いろはが「……何かあったんですか?」とでも言いたげに、首をかしげながら二人を交互に見つめている。
八幡は冷えたペットボトルを額に軽く当て、フッと息を吐き出すと、どこまでも面倒くさそうな、いつもの「比企谷八幡」の目を陽乃に向けた。
「……何者って言われてもな。見てのとおり、ただの無職予備軍の社畜で、最近ちょっと身体を動かしすぎて筋肉痛がヤバいってところだが?」
「はぐらかさないで。あの時、私……確かに感じたんだから。あなたが何を背負ってるのか……教えてよ、比企谷くん」
追撃するように迫る陽乃の視線から、八幡はすっと目を逸らし、さらに冷たく言い放った。
「悪いな。生憎と、アンタが期待するような大層な秘密も、ドラマチックな正体も持ち合わせてないんでね。……話せるようなことなんて、何もねえよ」
ピタリと止まる空気の中、八幡はペットボトルをベンチの脇に置き、じっと前を見据えた。
八幡は冷えたペットボトルをベンチの脇に置くと、少しだけ視線を天井へと向け、どこか遠い目をしながら淡々と呟いた。
「まあ……生きてりゃ、今までの常識が音を立てて壊れるようなことだってあるだろ。俺も最近、それを身をもって経験したってとこですかね」
(……神様と会ったとか、魔王軍と戦ってるとか、ましてや呪文の名前がどうこうなんて、絶対に話せるわけねえからな)
心の中で必死に突っ込みながら、八幡はあくまで「最近ちょっと人生観が変わるようなショックな出来事があった一般人」という体裁を貫き通す。
陽乃は、八幡のそのどこか投げやりでありながら妙に実感を伴った言葉をじっと聞き逃さなかった。彼の横顔に浮かぶ、年相応にしてはすり減りすぎていて、それでいてどこか別の修羅場を潜ってきたような独特の影。
「……常識が、壊れる、か」
陽乃は小さく呟くと、それ以上踏み込むのは野暮だと察したのか、ふっと力を抜いて柔らかく微笑んだ。
「そっか。……なんだか、今の比企谷くんは、私なんかよりずっと遠くに行っちゃったみたいだね」
その少し寂しげで、しかしどこか見守るような陽乃のトーンに、八幡は気恥ずかしさを覚えてあさっての方向を向く。
そんな二人のやり取りの隙間を縫うように、それまで黙って話を聴いていたいろはが、すっと身を乗り出して八幡の袖を軽く引っ張った。
「あのさ、先輩。さっきから聞いてれば『常識が壊れる』って、なんか中二病全開のポエムっぽいですけど……私にも納得いく説明、あとでちゃんとしてもらえますよね? ね?」
ぐいぐいと迫ってくるいろはの追撃に、八幡は「はいはい、解散解散」と両手を軽く振って、頭を抱えたくなるのだった。
八幡のどこか突き放すような、それでいて深い底を見せない返答を聞いても、陽乃は怯むどころか、かえってその瞳に真っ直ぐな光を宿した。
彼女はふっと力を抜いて優しく微笑むと、八幡の目をまっすぐに見据えて静かに言った。
「……ううん、いいの。あなたが何者であっても、もう構わない」
「は……?」
「あなたがどんな秘密を抱えていて、何をやっていても……どうでもいいの。ただ――私は、あなたの隣にいたい。これからも、ずっとね」
それはかつてのような底意地の悪い探りや、場を引っかき回すための戯れ言などではなかった。紛れもなく、彼女自身の言葉で紡がれた、あまりにもまっすぐで遠回しな告白だった。
ベンチの空気が一瞬でピタリと凍りつく。
隣で聞いていたいろはは、目を見開いたまま「え……っ?」と固まり、慌てて陽乃と八幡の顔を交互に見比べた。
(……は? 雪ノ下先輩、今さりげなく重いこと言いませんでした!? ちょっと待って、私まだそんな覚悟できてないんですけど……!)
心の中で盛大に絶叫していろはが硬直する中、告白を突きつけられた当事者である八幡は、冷や汗を流しながらも、頭を抱えたい衝動に駆られていた。
(いやいやいや、待て待て待て。なんでこうなるんだよ。俺はただ、無職から一念発起して筋トレしてるだけの社畜だぞ? なんで次から次へと人生の難易度を跳ね上げるような爆弾を投下してくるんだ……!)
ファンタジー世界の魔王軍よりよっぽど厄介な女性の好意という特大のプレッシャーを前に、八幡は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
彼は冷えたペットボトルを固い握りしめ、目を泳がせながら、精一杯の自虐でその場をやり過ごそうと口を開く。
「……あのですね、陽乃さん。ありがたいのか何なのかよく分かりませんけど、よくよく思い出してください。俺、今や無職になりそうなうえにこれからどうやって食っていくかも怪しい、先行き不安な無職街道まっしぐらの男なんですけど……?」
「ふふ、知ってるよ。でも、お金や肩書なんてどうでもいいの。私を退屈させない、こんな面白い男の隣なら……きっと、悪くないから」
まるで冗談めかしているようで、その実、絶対に引く気のない瞳をした陽乃の微笑みに、八幡は降参とばかりに大きく息を吐き出すのだった。
ジムの重い扉を押し開けて外に出ると、夜風が火照った肌に心地よく吹き抜けた。
追いすがるようないろはの呆れたような視線と、どこか核心を突いたような陽乃のまっすぐな微笑みを背中に受けながら、八幡は一人でクロスバイクのペダルにまたがった。夜道を走り出しながら、カチャカチャと鳴るチェーンの音をBGMに、自然と口から小さなどんよりとした呟きが漏れる。
「……買い被りすぎだろ、まったく」
元社畜のひねくれた諦観と、ファンタジー世界のチートな戦闘力が混ざり合った、自分でもよく分からない怪物のような存在。そんなものに好意や執着を向けられる理由が、どうしても八幡には分からなかった。
ただのモブとして、どこかの片隅でひっそり生きられればそれでよかったはずなのに、いつの間にか周囲の人間関係はやけに濃密で、面倒くさい方向に転がり始めている。
けれど――。
夜の静かな道路をスルスルと進みながら、八幡はヘルメットの顎紐を直しつつ、さっき脳裏をかすめた陽乃の言葉や、折本と交わした笑顔を思い出して、ふっと口元を緩ませた。
「……まあ、悪い気はしない、か」
信号待ちで足を地面につき、夜空を仰ぎ見る。
自分の心に巣食っていた澱のようなものは綺麗に洗い流され、代わりに胸の奥には、妙に温かい熱のようなものが残っていた。
「……いや、正直に言えば、普通に嬉しかったけどな」
誰にも聞こえない声で照れくさそうに呟くと、八幡は再びペダルに力を込め、自分の帰るべき場所へと自転車を走らせた。
夜風を受けながらペダルを漕ぐ八幡の脳裏に、ふと、さっきの陽乃の真剣な眼差しがよぎった。
(……まあ、あそこまで思い詰めた顔をされてたのは、結局のところ顔の傷の件とか、あの時の不自然な動きのせいだろうな)
異世界で魔王軍の猛者たちと渡り合ってきた名残り――普通の人間では到底ありえない戦う者の雰囲気、回復魔法の痕跡。いくらごまかそうとしても、鋭い人間には「何か普通ではないものに巻き込まれている」と勘付かれて当然だった。
(あの人なら、頭の回転が良すぎるぶん、俺が普通じゃないってことにすぐ思い至るだろうしな。……まあ、少し時間が経って頭が冷えれば、あんな突拍子もないセリフも、冷静になって「買い被りすぎだった」って引いてくれると思うが……)
そう考えて、八幡はふうっと息を吐き出す。
自分のようなひねくれた人間と、雪ノ下陽乃のような眩しい人間とでは、どう考えても住む世界が違いすぎる。ファンタジーと現実という物理的な乖離だけでなく、人間としての格や生きるステージそのものが異なるのだと、八幡はどこか冷ややかに線を引いていた。
(住む世界が、違うだろ……。俺はただの、日常と非日常の狭間を漂うはぐれ者だ)
しかし――。
もし、それでもなお。
冷静な理性が追いついた後でも、彼女が同じ言葉を口にするのなら。その時は、もう逃げも隠れもしない。
「……そん時は、ちゃんと向き合わないとな」
信号の変わった横断歩道を渡りながら、八幡は小さく、しかし決意を込めたように呟いた。
胸の奥で燻っていた澱が完全に消え去った今、彼の足取りは、かつてないほど真っ直ぐに明日へと向かっていた。