ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。 作:tomozow
気絶したままのダイを抱きかかえ、レオナはその小さくも確かな温もりを感じながら、静かにその頬を撫でた。
(……この小さな体に、世界はどれだけの重荷を背負わせようとしているの……?)
竜の騎士の宿命、人間からの畏怖、そして実の父親との過酷な決戦。12歳の少年に背負わせるにはあまりにも残酷すぎる現実。
だが、ダイは「俺は勇者ダイだ」と言い切り、己の運命と戦うことを選んだ。
レオナの瞳に、揺るぎない覚悟の光が宿る。
(……悲しませない。もう二度と、ダイだけに全部を背負わせたりしない。私はパプニカの王女として、ううん……一人の仲間として、ダイの盾になり、支えになる!)
◇
一方、武闘家としての修業を終え、驚異的な成長とともに回復呪文の最高峰「ベホマ」を体得していたマァムもまた、自身の甘さを捨て去る決意を固めていた。
「今の私じゃ、まだダイたちの足手まといになる……!」
自らの力の至らなさを痛感した彼女は、さらなる強さを求め、拳聖ブロキーナ老師のもとへ再び師事を仰ぐべく、修練の道をひたすら突き進んでいた。仲間たちが命懸けで戦っている間、自分もまた「守るための力」を研ぎ澄ますために。
◇
神殿の境内。冷たい風が吹き抜ける中、メルルは少し離れた場所で話す二人の男――ポップと八幡の姿をそっと見つめていた。
「なあ八幡……さっきのさ、『ロト』のハッタリはマジでヒヤヒヤしたけどよ……お前、本気でダイを守る気なんだな」
ポップがどこか照れくさそうに、しかし真剣な目で八幡を見上げている。
「ハッ? なに寝ぼけたこと言ってんだポップ。俺はただ、自分の平穏なボッチ生活を脅かすチート親父に文句言っただけだ。熱血ドラマの脇役演じるつもりなんてサラサラねえよ」
八幡は面倒くさそうに鼻を鳴らし、ポケットの中で小銭をジャラつかせた。
「……でもよ、ダイが立ち上がれたのは八幡のおかげだ。俺、すげぇ感謝してるんだぜ」
「……けっ、口だけなら何とでも言えるっつーの。感謝する暇があったら、次の呪文の練習でもしてろ」
素直になれない八幡のひねくれた返答に、ポップは「へいへい、相変わらず可愛くねえ弟弟子だぜ」とニッと笑う。
そのやり取りを遠くから見つめながら、メルルは胸の奥が温かくなるのを感じていた。
圧倒的な絶望を前にしても、決して仲間を裏切らず、泥をかぶってでも少年を支え続ける異世界の青年。
(八幡さん……あなたは本当は、誰よりも温かい人なんですね……)
言葉とは裏腹な八幡の優しさと、それに信頼を寄せるポップ。メルルは水晶玉を静かに抱きしめながら、彼らの背中に静かな祈りを捧げるのだった。
静まり返った境内の隅、少し離れた場所で、八幡はぽつりと呟いた。
「……ダイは勇者だが。まだ12歳のガキなんだ」
その低い声には、いつもの冷めた響きの裏側に、妙に重い真実味が含まれていた。
ポップがハッとして八幡の方を見る。近くで控えていたクロコダインも、腕を組んだままじっとその言葉に耳を傾ける。
「あいつ一人に世界の命運を背負わせて、大人たちが後ろから見守ってるだけなんてのは、悪趣味な悪夢だろ」
八幡はポケットに突っ込んでいた手を引き抜き、やれやれと首を振る。
「ヒュンケル、ポップ、そして俺、クロコダイン……。全員で支えるんだ。……レオナがあのテントの中で、必死にやってるように、な」
一歩間違えれば命を落とす過酷な戦場。その最前線で傷ついた少年を庇い、王女としての立場をも投げ出して寄り添うレオナの背中を思い出しながら、八幡は吐き捨てるように言った。
「大人がガキの盾になるのは、この世界のルールだろ。……まあ、俺はあくまで巻き込まれただけの部外者だけどな」
照れ隠しのようにそっぽを向く八幡の言葉に、クロコダインはふっ、と豪快に鼻を鳴らして笑った。
「フッ……言うようになったではないか、八幡。だが、その通りだ。あの少年に全てを背負わせるほど、我らも落ちちゃいまいさ」
ヒュンケルも静かに目を閉じ、そして力強く頷いた。
ポップもまた、拳をグッと握り締め、相棒を見つめるようにダイの方へと視線を戻す。
(そうだ……俺たちがいる。ダイ一人に背負わせたりしねぇ……!)
それぞれの胸に熱い決意が灯る中、冷たい風の中にも確かな絆の温もりが広がっていくのだった。
テランの鍛冶屋(あるいはロン・ベルクや鍛冶師)の手によって鍛え上げられた一振りの剣が、八幡の手に渡った。
鞘から引き抜かれた刃は、澄んだ静かな光を放ち、鍛錬の極致を思わせる業物としての存在感を漂わせている。
「ほう……出来上がったか」
八幡は持ち上げた剣の重みを確かめるように軽く一振ると、どこか冷めた、けれど不敵な笑みを口元に浮かべた。
「……よし。今日からこの剣の名前は『王者の剣』だ」
「お、王者の剣ぇ……!? おいおい八幡、またそんな大層な名前つけやがって……!」
横で見ていたポップがギョッとしてツッコミを入れるが、八幡はやれやれと首を振って肩をすくめた。
「いいんだよ。俺はさっき『勇者ロトの子孫』って名乗っちゃったんだからな。どうせつくなら、とことんハッタリの効く名前にしといた方が便利だろ。ネーミングセンス? 知らんね。ブランド名ってのはな、名前が先走れば走るほど相手が勝手にビビってくれるもんなんだよ」
「相変わらず悪知恵だけはピカイチだな……」と呆れ返るポップを無視して、八幡は『王者の剣』を腰の鞘へと納めた。
(……まあ、ネーミングはどうあれ、仕上がりは上々だ。これならあのチート親父のドラゴニックオーラ相手でも、一方的に折られる心配はなさそうだな)
ロトのハッタリに続き、偽りの伝説『王者の剣』を携えた異世界の男。
バランとの決戦の刻が、着々と近づいていた。
テランの神殿を包む上空の空気が、突如として激しく渦巻き始めた。
雲を切り裂いて舞い降りてきたのは、バラン率いる超竜軍団が誇る最強の精鋭・竜騎衆の一角――空戦騎ガルダンディー。そして、その愛竜である巨体・スカイドラゴンだった。
「ひはははっ! 見つけたぞ、アバンの使徒ども! バラン様の邪魔をする羽虫どもを一掃してやるぜ!」
狂気に満ちた叫びとともに、上空から禍々しい殺気を撒き散らすガルダンディー。
その圧迫感にポップが息を呑み、呪文を唱えようと身構えたその時――八幡が隣で気だるげに言った。
「ポップ。蹴散らしてこい」
「……は? お前……えええっ!? い、1人でかよ!?」
ポップは目を丸くして八幡を二度見した。相手はあのバランの部下、竜騎衆の空戦騎だぞ、と。
だが、八幡は『王者の剣』の柄に手を置いたまま、死んだ魚のような目で至極あっさりと告げる。
「お前なら楽勝だ。……自分の成長に気づいてねえのはお前だけだよ。あの練習量をこなして、その上ここで逃げ出すようなタマじゃねえだろ」
根拠のある冷徹な分析。八幡のその言葉には、一切の疑いも入る余地がないほどの信頼がこもっていた。
「……っ!」
ポップの胸の奥で、何かがカチリと音を立てて嵌まった。
さっきまでの脚の震えが、嘘のようにピタリと止まる。
(そうだった……俺はもう、あの頃の泣き虫で逃げ腰な俺じゃねえ……!)
ポップは杖を強く握り締めると、ガルダンディーを見上げてニッと力強い不敵な笑みを浮かべた。
「――言われなくてもやってやるよ! 俺は……大魔導士の弟子、そしてアバンの使徒ポップ様だ! かましてやるぜ!!」
覚悟を決めた男の背中を見送りながら、八幡はポケットの中で小銭をジャラつかせ、低く呟くのだった。
「……頼んだぞ、相棒」
「これでもらっとけ……! 『メラララララッ!』」
ポップが放ったのは、ただの初級呪文『メラ』ではない。
無数の光弾に魔力を凝縮させ、一秒間に何発もの軌道を緻密に計算して撃ち出す、ポップの超高速連続弾幕だ。
バババババッ!! と空気を引き裂く爆音が響き渡り、逃げ場を失ったスカイドラゴンの頭部へと正確無比に叩き込まれる。
「ぐ、があぁぁぁっ……!?」
巨体を誇るスカイドラゴンは悲鳴を上げ、その頭部を凄まじい爆風と熱量で破壊されて真っ逆さまに墜落していった。
「バカな……俺のスカイドラゴンが……っ!?」
足場を失ったガルダンディーは宙に放り出され、怒りと屈辱で顔を真っ赤に染めて絶叫する。
「おのれぇぇぇっ! 虫けらがぁぁっ!!」
怒りに狂い、羽を羽ばたかせて宙で体勢を立て直そうとするガルダンディー。だが、ポップは浮かれるどころか、その冷徹なまでの冷静さで敵の次の動きを完全に看破していた。
(……落ちながら体勢を立て直し、得意の羽根のナイフで奇襲を狙ってくる。当然だ、あんなプライドの高い野郎がこのまま引き下がるわけがない)
かつての臆病で場当たり的な戦い方はそこにはない。
八幡という得体の知れない男が常に先を読み、冷徹に状況を支配していた背中をずっと間近で見続けてきたからこそ、ポップの脳裏には敵の思考の「先の先」までがクリアに描き出されていた。
クールかつクレバーに戦況を俯瞰するその瞳は、もはや一流の魔道士のそれだった。
地上でその姿を見上げる八幡は、フッと口元を緩め、ポケットの中で小銭をジャラつかせる。
(……へっ、上出来だ。これで翼を奪われた鳥頭がどう動くかまで読めてるなら、もう勝負はついてるようなもんだな)
「……さあ来いよ、ガルダンディー。次で終わりにしてやるぜ」
ポップは静かに手をかざし、すでに完璧なタイミングで次の呪文を練り上げていた。
「おのれえええっ、小童が調子に乗りやがって……! これでも食らえ!!」
地に這うガルダンディーが激昂し、背中から無数の鋭利な羽を突き立て、目にも留まらぬ速さで四方八方へと飛ばした。周囲の岩をも切り裂く凶悪な羽の弾幕が、ポップを蜂の巣にすべく襲い掛かる。
だが、ポップの表情は微塵も揺るがなかった。
「遅い!」
地面を蹴り、空中浮遊呪文『トベルーラ』で軽やかに舞い上がったポップは、その鋭い羽の軌道を完全に読み切り、紙一重の差ですべて優雅にかわしてみせた。
さらに空中から着地したポップは、地面に刺さったガルダンディーの羽をすばやく拾い上げると、不敵な笑みを浮かべてガルダンディーへ向けて勢いよく投げ返した。
「ほらよっ! お前の大好きな羽だ!!」
「なっ……!?」
自分の放った羽が突如として足元へ飛来し、ガルダンディーは「ぐわっ!」と悲鳴を上げながら必死に身をかわす。
(――今だ!)
相手が羽を避けて体勢を崩す、その「先の先」の瞬間を、ポップの頭脳は完全に予測しきっていた。
八幡の背中を見て磨き上げられたクールな戦術眼が、敵の死角を正確にとらえている。
「逃がさねえよ……! 『ファイブフレア』!!」
両手の指先から放たれた五条の凄まじい炎が一極集中し、バランスを崩して隙だらけになったガルダンディーを直撃した。
「が、がぁぁぁっ……! あ、熱い、燃え尽きる……っ!!」
全身を業火に包まれ、ファイブフレアの凄まじい熱量でまさに燃えつきようと悲鳴を上げるガルダンディー。
だが、ポップはそこで終わらせない。
「……燃え尽きちまう前に、冷ましてやるよ」
冷徹な瞳で一歩踏み出し、ポップは瞬時に氷の呪文を発動させた。
「『マヒャド』!!」
極寒の吹雪が瞬間的に吹き荒れ、燃え盛っていたガルダンディーの巨体を一瞬にして氷漬けにする。
激しい熱から急激な冷却へと叩き込まれたショックと凍結により、ガルダンディーは身動き一つできなくなり、そのままカチコチに凍りついたまま地面へとガクリと崩れ落ちたのだった。
カチコチに凍りついたガルダンディーが地面に崩れ落ち、周囲の空気が徐々に静まり返っていく。
八幡はポケットの中で小銭をジャラつかせながら、大股でポップのそばまで歩み寄ると、心底だるそうに呟いた。
「……へっ、一撃も喰らわなかったな」
「まあな! 八幡の背中見て戦術磨いてきたんだ、これくらい当然だろ!」
ポップは不敵に鼻を鳴らし、杖を担ぎ直す。
その光景を静かに見つめていたヒュンケルは、胸の中で深い感嘆の息を漏らしていた。
(……見事だ、ポップ。怯え、逃げ回っていたあの頃の面影はどこにもない。敵の心理を読み、一歩先を制するそのクレバーな戦いぶり……)
ヒュンケルは力強く拳を握り締める。
(ポップはいずれ魔道の頂点に立つ。……ならば、俺はどうだ?)
自らの愛剣の柄にそっと手を置き、己の内なる武の境地を見つめ直す。
(俺は――剣を極める。誰よりも強く、誰よりも鋭い、仲間を守るための刃となるために)
ポップの覚悟と飛躍が、ヒュンケルの剣士としての矜持にもさらなる火をともしていた。
凍りついたガルダンディーの姿を尻目に、神殿の周囲にどっしりとした重い地鳴りが響き渡る。
「フハハハハ……! 空の次は、海の番というわけか!」
地響きとともに現れたのは、竜騎衆が誇る巨漢――海戦騎ボラホーンだった。圧倒的な巨体と水圧を纏うかのような豪腕を見せつけ、不敵に笑う。
「ガルダンディーの奴め、調子に乗りやがって無様な真似を……だが、このボラホーン様がまとめて捻り潰してやるわ!」
ボラホーンが巨大な錨を掲げ、突進の構えをとったその瞬間、一筋の閃光のような巨躯が前に立ち塞がった。
「お前の相手は俺だ、海戦騎ボラホーン!」
叫んだのはクロコダインだった。熟練の闘気を全身全霊で右腕に極限まで集中させ、荒々しく踏み込む。
「受けてみろ……! 『獣王会心撃』ッ!!」
凄まじい風圧と闘気の一撃が、ボラホーンの右腕へと真っ向から直撃する。
ズドォォォンッ!!
「ぐ、ぐあああああぁぁぁっ……!? 俺の……俺の腕がぁぁっ!!」
凄まじい衝撃波がボラホーンの右腕を粉砕し、激痛に顔を歪めたボラホーンは大地に膝をついた。
巨体を震わせ、右腕を押さえながら血走った目でクロコダインを睨みつけるボラホーンに対し、クロコダインは斧を構えたまま冷たく言い放つ。
「お前如きでは相手にならん。……ガルダンディーを連れ帰れ。まだ死んではいない」
「くっ……お、おのれぇ……ッ!!」
完全に右腕を破壊され、圧倒的な力の差を見せつけられたボラホーンは、屈辱と恥辱に身をよじる。
これ以上の戦闘は不可能と悟り、カチコチに凍りついたガルダンディーを左腕で担ぎ上げると、惨めな敗北感を噛み締めながらその場から逃げ去るのだった。
「……瞬殺かよ。オッさんも鍛えてたんだな」
あまりにあっけない決着に、八幡は心底呆れたように肩をすくめ、ポケットの中で小銭をジャラつかせた。
その言葉を聞いたクロコダインは、豪快に胸を張り、ニッと鋭い牙を覗かせて笑った。
「ハッハッハ! 当たり前だろ? 仮にも元・百獣魔団長『獣王』クロコダインだぞ? 負けっぱなしでいられるか!」
かつての敗北を糧に、陰で弛まぬ修練を積み重ねてきた武人の誇りが、その言葉には満ちあふれていた。
一方、そのやり取りを後ろで見守っていたメルルやポップたちは、口をぐうの音も出ないほどぐうの音も出ないほど開けて固まっていた。
「す、すごすぎる……あんなに大きくて凶暴そうな竜騎衆を、たった一撃で退けるなんて……!」
「あんなの……完全にバケモノじゃん……」
あまりの圧倒的な強さと底知れぬ頼もしさに、メルルたちはただただ呆気に取られるばかりだった。
遠く離れた高台の影から、その様子を静かに見つめる一人の男がいた。
陸戦騎ラーハルト――竜騎衆最強の戦士。
一瞬にして立ち込めた冷徹で強烈な殺気に、ヒュンケルは鋭く反応し、その視線の方向へとゆっくりと首を向けた。
視線と視線が交差する。言葉を交わさずとも、互いに理解していた。
(……強い。今まで出会ったどの敵とも違う……!)
ラーハルトもまた、ヒュンケルの佇まいからただならぬ剣気を感じ取り、胸中で警戒を深めていた。
静寂を破り、ラーハルトが静かに口を開く。
「……明日の朝、お前一人と戦いたい。受けるか?」
その問いに対し、ヒュンケルは一切の躊躇なく愛剣を抜き放つと、鋭い闘気を刃に集束させた。
「俺に勝てると思うか……?」
瞬間、凄まじい一閃の闘気波が空気を引き裂き、ラーハルトの足元の大地を深く抉り取った。アバンストラッシュを模した圧倒的な威嚇の一撃。
だが、ラーハルトはその一閃を前にしても眉一つ動かさず、静かにヒュンケルを見つめ返している。
ヒュンケルは剣を収めると、不敵かつ冷徹な眼光で静かに告げた。
「……挑戦は受け取った。万全の態勢で来い」
闇の中へと姿を消していくラーハルトの背中を見送りながら、ポップは呆れたように肩をすくめて口を開いた。
「ハッ、言ったねぇヒュンケル! 万全の態勢で来い、だっけ? 相変わらず自信満々じゃねーか!」
「……いや、良くて五分五分だろうな」
ヒュンケルは冷ややかに、だが一切の偽りなく言い放った。あまりにあっけらかんとしたその返答に、ポップだけでなく八幡やクロコダインまでもが目を丸くする。
「……は? 五分五分!? じゃあさっきの大見得は何だったんだよ!?」
驚いて猛ツッコミを入れるポップに対し、ヒュンケルは表情ひとつ変えずに、ふっと小さく息を吐いた。
「八幡の真似をしただけだ。ブラフをかけて相手の精神的優位を奪う……あいつがよくやっているだろう」
「……おいおい」
八幡は思わず眉をひそめ、己の頭をガリガリとかいた。
「俺の悪知恵をそんな堂々と真似すんじゃねぇよ。爽やか顔が不敵なツラして虚勢張るとか、一番タチが悪いだろ……」
呆れる八幡とポップの横で、ヒュンケルは静かに愛剣の柄へと手を添えた。ハッタリをかましたのは事実だが、その瞳に宿る戦士としての真剣な光だけは本物だった。
決戦前夜――。
静まり返った神殿の回廊で、ヒュンケルは静かに愛剣を研ぎ澄まし、明日の戦いに向け万全の態勢を整えていた。張り詰めた空気の中、彼の全身からは研ぎ澄まされた静謐な闘気が漂っている。
そんな彼の背中に、マリンがそっと歩み寄った。
「……ヒュンケル。負けないで……絶対に、無事で戻ってください……」
不安に声を震わせ、祈るように寄り添うマリン。
ヒュンケルは手元を止め、静かに立ち上がると、夜空に浮かぶ月を見上げた。その眼光には微塵の迷いもない。
「……俺は、バルトス父さんと、アバン先生の弟子だ」
己を育ててくれた地獄の騎士バルトス、そして正義を教えてくれたアバン――二人の偉大な父と師の姿を胸に抱き、ヒュンケルは力強く言葉を紡ぐ。
「二人の誇りにかけて……負けるわけにはいかない」
ドッと溢れ出すような凄まじい闘気が、夜の静寂を切り裂いてヒュンケルの全身からみなぎり立ち昇る。
圧倒的な武の気迫と、亡き父たちの誇りを背負ったその神々しいまでの横顔を目の当たりにし、マリンは胸が強く締め付けられ、ドクンと心臓が跳ね上がるのを止められなかった。
明日の決戦を控え、神殿内が静まり返っていく中、八幡は柱にもたれかかり、静かに目を閉じた。
(……ヒュンケルならラーハルトには勝つ。ハタリで揺さぶりをかけるくらいの余裕と覚悟がありゃ、土壇場で負ける奴じゃねえよ)
問題は、その先だ。
陸戦騎を退けたとして、次に控えているのは竜の騎士バラン本人。圧倒的な力と絶望的な破壊力を持つあの化け物を相手に、どう詰将棋を組み立てるか。
(ダイの記憶の問題、ヒュンケルの体力の限界、ポップの魔法の切りどころ……最悪の手、次善の手、全滅を免れるギリギリの回避策……)
頭の中で無数の選択肢と幾通りもの戦局の可能性をシミュレートし、一手先、一手先へと冷徹に思考を巡らせる。
「……たく、休ませてくれねえなぁ……」
暗闇の中で誰にも気づかれぬよう小さな溜め息をつくと、八幡は思考の渦を抱えたまま、静かに眠りにつくのだった。
静まり返る部屋の中に、アラームの電子音が冷たく響き渡る。
八幡は重い瞼を開けると、スマホの画面を一瞥し、そして迷うことなく画面をスワイプしてオフにした。
有給か、それとも「急な体調不良」という名の社会通念上の正当な逃避か。理由なんてどうでもいい。竜の騎士バランという理不尽な天災が迫っているこの状況で、満員電車に揺られている余裕など一ミリも存在しない。
「……はぁ。やってられねぇな」
布団の中で小さく息を吐き捨てると、八幡はデスクの引き出しから取り出した文庫本、あるいはスマホの電子書籍画面――『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』のページを開いた。
バラン戦、そしてその前後に待ち受ける絶望的な局面。あのバケモノを相手取るにあたって、原作の展開やキャラクターたちの行動の中に、何か突破口となるヒントはないか。思考のシミュレーションの精度を上げるため、八幡は冷徹な眼光で物語の文字を追い始めた。
画面から顔を上げ、八幡は天井の壁紙の染みをぼんやりと見つめながら、乾いた笑いを漏らした。
「……詰み、かよ」
どれだけ思考の網の目を細かくしても、手駒をどう動かしても、正規のルートのままでは破綻しか見えない。
圧倒的な武力を誇る竜の騎士バラン。父と子の殺し合いという地獄のような絵面。ポップが背負うリスクに、自分自身の生存確率。どちらかが勝ち、どちらかが負けるという単純なゼロサムゲームの枠組みで考えているうちは、どう転んでも最悪のバッドエンドしか導き出せない。
勝つか負けるか、ではない。
この不条理なゲーム盤そのものの「方向性」をひっくり返す手立てがなければ、全員まとめてすり潰される。
「……まあ、今回は本気でヤバいかもな」
自分一人が上手く立ち回ってフェードアウトすればいい、というこれまでのスタンスが通用しない。命のやり取りの最前線に引きずり出されている以上、自分の生存フラグすら危うい。
だが、ここで思考を放棄したらそれこそ終わりだ。
八幡は冷めきった瞳の奥にわずかな光を灯し、再び原作のページと、目の前の現実の配置を見据え直した。
「……まあ、いっそのこと諦めるか。なんとかなるかもしれん」
ベッドの上で深く息を吐き出すと、八幡は自嘲ぎみに口元を歪めた。
どれだけ完璧な戦略を組み立てようが、土壇場で不確定要素なんていくらでも湧いてくる。最後は土壇場で腹をくくれるかどうか――理不尽なトラブルや無茶振りに直面した時、腹を括って正面からぶん殴られに行く覚悟があるかどうかだ。
「……ハッ、サラリーマンでの仕事の心構えは戦闘にも活きるな」
自分でも呆れるような軽口を叩きながら、八幡はゆっくりと身を起こした。
会社で納期直前の炎上案件に叩き込まれた時と同じだ。どん底まで開き直った人間は強い。勝算が薄かろうが、盤面が詰んでいようが、泥をすすってでも泥臭く生存ルートをこじ開けるしかない。
冷めた瞳の奥に覚悟を宿し、八幡は静かに決戦の朝を迎える準備を始めた。
「……最後かもしれんからな」
不意に口をついて出たその独り言に、八幡は自嘲気味に息を吐いた。
二次元の戦場に巻き込まれ、理不尽な死の気配をリアルに感じているからこそ、現実世界の日常が妙に遠く、そして色褪せて感じられる。いつもの見慣れた天井、いつものスマホ。ここで消息を絶ったら、それはそれで誰も気付かないまま日常が過ぎ去っていくのかもしれない。
画面を開き、連絡先の一覧をスクロールする。指が止まったのは、見慣れた二つの名前の上だった。
しばし迷った後、八幡は画面を叩くようにして、雪ノ下と由比ヶ浜の二人へとメッセージを打ち込んだ。
――『今日の夜、みんなでメシでも食わないか』
理由は適当に濁した。どこかの店を予約するわけでもない、ただの思いつきのような誘い文句。それでも、もしこれがこの世界の終わりに近づく最後の足掻きなのだとしたら、最後にあの日常の延長線上に触れておきたかったのかもしれない。
メッセージの送信ボタンを押すと、画面の向こうからの返信を待つ間もなく、八幡は重いコートを羽織るのだった。
夕暮れ時の待ち合わせ場所。見慣れた街並みの一角に、二人分の影が立っているのが見えた。
「――お待たせ」
コートのポケットに両手をつっこんだまま、八幡は気怠げに声をかける。
そこに立っていたのは、こないだ振りで相変わらず凛とした知性を漂わせる雪ノ下雪乃と、少し離れたところでこちらに気づいてパッと花が咲いたように笑う由比ヶ浜結衣だった。
「比企谷くん……会社をずる休みしたと思ったら、急に連絡してきてどういう風の吹き回し? 連絡の一本くらい寄越しなさいな」
「ハロー、ヒッキー! なんか急にメシとか言い出すからびっくりしたじゃん。仕事大丈夫だったの?」
文句を言いつつもどこか心配そうな雪ノ下と、変わらず明るく声をかけてくる由比ヶ浜。二人の姿を目の当たりにした瞬間、八幡はぼんやりと日常の景色に目を細めた。
十代の頃の青臭さは遠い昔になり、互いに三十路を迎えた今となっては、それぞれの道で社会にもまれ、成熟した大人の女性としての佇まいが自然と板についている。
ふと――二人の整った顔立ちをまじまじと見つめ、八幡は心の底からごく自然に呟いた。
「……なんか、こう、美人になったな」
「っ……な、何よ急に。不吉なこと言わないでくれる? 脳の検査でも受けてきたらどうかしら」
「えっ、ええっ!? ひ、ヒッキーがそんなこと言うなんて……どうしたの!? 会社で変な壺でも買わされた!?」
静まり返った異世界の死地から戻ってきたばかりの脳裏には、二人のその洗練された大人びた表情が、やけに眩しく、生々しい現実として映っていた。
照れ隠しに冷たい視線を送ってくる雪ノ下と、驚きすぎて目を白黒させる由比ヶ浜を前に、八幡は「悪かったよ」と小さく肩をすくめて苦笑するのだった。
ちょっとおしゃれな居酒屋の個室。テーブルに置かれたグラスを軽く掲げ、八幡は一口喉を鳴らした。
「まあ、飲もうぜ」
「まったく……仕事中に呼び出されたかと思えば、急に乾杯だなんて。社会人としての常識を疑うわ」
呆れたように言いながらも、雪ノ下は綺麗に手入れされた指先でグラスを傾ける。
「でもさー、ヒッキーから誘ってくるなんて珍しいよね! なんか特別な日だっけ?」
結衣が嬉しそうに目元を緩め、唐揚げを口に運ぶ。
酒が進むにつれて、話題は自然と昔のことへと移っていった。奉仕部のくだらない依頼、文化祭のドタバタ、修学旅行の気まずい空気、そしてあの寒い部室で過ごした時間――。三十路を迎えた今だからこそ笑って話せる青臭い記憶が、酒の肴のように次々と引っ張り出されていく。
ひとしきり笑い転げたあと、グラスの氷がカランと音を立てた。
八幡は手元のグラスを見つめたまま、ふっと息を漏らすように呟いた。
「……お前らがいたから、高校時代は楽しかったよ」
いつもの皮肉でも、照れ隠しの毒舌でもない。明日へ向かう死地を目前にした、ただの本音。
「……っ」
「〜〜〜っ!?」
一瞬で、個室の空気がピタッと止まった。
雪ノ下は手に持っていたグラスをピクッと震わせ、白くしなやかな首筋まで一気に朱に染めた。視線を露骨に横へ逸らし、咳払いをひとつ打つ。
「……な、何よ急に。お酒が回ったのかしら。そんな歯の浮くようなセリフ、あなたらしくないわ……」
一方の結衣は、両手で真っ赤になった頬を包み込みながら、目を見開いてワタワタと手を振っている。
「へっ!? ひ、ヒッキー……!? ちょっと、そういうの急に言うのずるいよぉ……! なんか……なんか調子狂うじゃん……っ」
二人のわかりやすすぎる反応に、八幡は苦笑しながら、もう一度小さくグラスを傾けた。この温かい現実の光景を、しっかりと脳裏に焼き付けるように。
(まあ、言いたいことは言えたか……)
心の中でひとつ小さく息を吐きながら、八幡は空になったグラスの氷をカランと鳴らした。明日の地獄に飛び込む前に、どうしても残しておきたかった言葉。未練といえば未練だが、言わずに後悔するよりは幾分マシだ。
どうせこれが最後になるかもしれないのだ。普段なら絶対に口にしないような恥ずかしい台詞だって、今の八幡には吐き捨てるだけの開き直りがあった。
「……本当はさ」
ぽつりと、何気ないトーンで八幡は言葉を継ぎ足した。
「お前らのどっちかに告白できれば良かったんだけどな。……ヘタレだったからさ」
「―――――ッ!?」
個室の中の温度が一瞬で跳ね上がった。
雪ノ下は目を見開いたまま完全にフリーズし、持っていたグラスを取り落としそうになるのを間一髪で支えた。そのまま顔どころか耳の先端、首筋まで見る見るうちに真っ赤に染まり、整った唇をわななかせている。
「な、ななな……何を、何を言っているのあなたは……!? お酒の勢いにしても限度というものが……っ!」
一方の結衣は、一瞬で顔面が熟しきったトマトのように真っ赤になり、手で顔を覆い隠しながら「あうぅ……」と小さな悲鳴を上げた。
「ひ、ヒッキー……! それ、本気……? 冗談じゃなくて……? ちょっと待って、心の準備が……っ!」
焦り、動揺し、赤面する二人。そんな二人の反応を、八幡はどこか遠い目をして、けれど少しだけ愛おしそうに見つめていた。
だが、逃げ場を失った二人は視線を交わすと、何か意を決したように互いの顔を見合わせ――そして、真っ赤な顔のまま、ほぼ同時に八幡へと向き直った。
「っ……わたしだって……!」
「……私だって、ずっと……!」
重なる二人の声。照れと、戸惑いと、ずっと抱え込んできた想いが入り混じった切実な声が、狭い個室の中に強く響き渡った。
八幡は一瞬だけ目を見開き、それから「……マジかよ」と頭をかきながら、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……まあ、過ぎた話だな。青春ってのは過ぎてから気付くのかね」
二人の切実な反応を正面から受け止めきれず、八幡は自嘲気味に息を吐いてグラスの縁を指でなぞった。いまさら過去を巻き戻せるわけでもない。 アラサーと言う現実と、明日に控えた理不尽な決戦。すべては手遅れのノスタルジーだと、自分に言い聞かせるように。
だが、その言葉に真っ先に噛みついたのは雪ノ下だった。
「勝手に過去にしないでちょうだい」
冷たさと同時に、どこか強い熱を孕んだ瞳が八幡を真っ直ぐに見据える。真っ赤になった耳元を隠そうともせず、彼女はきっぱりと言い放った。
「……まだ、終わってないわよ。私たちがここにいて、あなたもここにいる。過去形にするには早すぎるわ」
「そうだよ、ヒッキー!」
結衣も身を乗り出し、頬を赤くしたまま必死の形相で言葉を重ねる。
「勝手に一人で完結させないでよ! わたしだって……わたしだって、今でも彼氏なんていないんだからね!」
絶叫に近いその宣言に、居酒屋の個室が一瞬静まり返る。
「……そうだな」
八幡は二人の気迫に押されるように、ぽつりと呟いた。
(……せめて、一年前に気づいていればよかったんだけどな)
心の奥底で、ポツリとそんな思いが落とし穴のように落ちていく。
もしもっと早く自分の気持ちに折り合いをつけて、この二人と向き合う覚悟を決めていれば。こんな「最後の晩餐」みたいな口実を作ることもなく、まともな未来を選べていたのかもしれなかった。
だが、後悔を口にする時間はもう残されていない。八幡は小さく息を吸い込むと、赤くなった二人からそっと視線を外し、手元の酒を喉へと流し込んだ。
八幡は手元のグラスをそっとテーブルに置くと、照れ隠しの苦笑いも、いつもの捻くれた毒舌も全て捨て去り、ただ静かに二人を見つめた。
「俺は、お前らが大好きだ。人として。男として……それだけ、伝えたかったんだ」
飾り気のない、けれど一切の誤魔化しもないストレートな言葉。
その一言が個室の空気を優しく、そして切なく揺らした。
「……ッ」
雪ノ下は息を呑み、白く繊細な手で固く口元を覆った。強い意志を湛えていた大きな瞳に一気に涙が溜まり、ポロポロと頬をこぼれ落ちていく。あれほど理知的で、感情を滅多に表に出さなかった彼女が、声を殺して涙を流していた。
「……ずるいわ、あなた……。そんなの、反論も否定も……何もできないじゃないの……っ」
「ヒッキー……っ……うう……っ」
一方の結衣は、堪えきれずに大きな瞳からボロボロと涙を溢れさせ、ポロポロと涙をこぼしながら八幡の袖をぎゅっと掴んだ。
「なによそれ……っ! まるでどこか遠くに行っちゃうみたいじゃん……! 大好きなんて、そんなの……ずるいよぉ……っ!」
大人になり、社会に出て、お互いに様々なものを背負うようになった三十路の今だからこそ。
十代の泥臭い青春の答え合わせのようなその言葉は、二人の胸の奥深くに一番綺麗な形で届いていた。
涙ぐむ二人を前に、八幡は優しく、どこか遠い目をして目を細めた。
(……ああ、これでいい。これで未練は全部、置いていける)
二人の温かい涙と想いをその目に焼き付けながら、八幡は心の底で静かに腹をくくるのだった。
「じゃあな」
会計を済ませ、店を出た夜の路上。八幡は軽く手を振り、いつものように背を向けて立ち去ろうとした。
――その瞬間。
「っ……逃がさないわよ」
腕を強く引っ張られ、八幡の体がぐらりと傾く。驚いて振り返る隙すら与えられず、視界がいっぱいの雪乃の顔で埋め尽くされた。柔らかい感触と、ほんのりと香る甘い酒の匂い。雪乃が八幡の服を強く握りしめたまま、強引に唇を重ねていた。
「っ……ふ……」
息が止まる八幡。離れ際に、ゆきのんの顔は耳の裏まで真っ赤に染まっていたが、その瞳だけは固い意志で八幡を射抜いていた。
「な、ななな……ゆきのんずるい! わたしだって……っ!」
パニックになりかけた結衣だったが、半ばやけくそ気味に八幡の胸元に飛び込むと、背伸びをして八幡の唇に思い切りキスをした。
「……っ! ヒッキーのばか!」
「〜〜〜〜〜っ!?」
顔面が爆発したかのように真っ赤になる八幡。まさかの連続攻撃に、思考回路が完全にショートする。大人になって落ち着いたはずの三十路の男が、十代の頃以上に情けなく顔を真っ赤にして立ち尽くすしかなかった。
目の前には、顔を熟したトマトのように赤くしながらも、絶対に退かないという強い眼差しを向ける二人の女性。
ゆきのんは息を整えながら、震える声で、けれどはっきりと告げた。
「……必ず、また会うわよ。いいわね?」
「そうだよ、ヒッキー! 勝手にいなくなったりしたら絶対に許さないんだからね!」
結衣も涙目になりながら、力強く頷く。
二人の圧倒的な熱量と、胸を突くような切実な言葉。
死地へ向かうための「最後の別れ」のつもりだった八幡の決意は、二人の強引で温かい愛によって、鮮やかに塗り替えられてしまった。
(……参ったな。生きて帰る理由が、できちまったじゃねえか……)
八幡は顔を真っ赤にしたまま、片手で顔を覆い、絞り出すように言葉を返した。
「……ああ。約束する」
夜風が吹き抜ける街角で、三人は赤くなった顔を見合わせ、気まずさと愛おしさが入り混じった静かな夜を噛み締めるのだった。
夜風が心地よく、火照った頬を撫でていく。
居酒屋を出て、一人アパートへの道を歩く八幡の足取りは、どこか頼りなく覚束なかった。頭の中が思考停止したままで、まるで雲の上を歩いているかのような感覚――フワフワとした現実感のなさに包まれていた。
唇に残る、わずかな柔らかさと熱。
二人から受け取った、あまりにも強烈で、真っ直ぐな感情の残香。
(……マジかよ。なんだよ、今の)
手で顔を覆い、思わず天を仰ぐ。
10年前の自分に見せてやりたいような、あるいは絶対に信じないような、奇跡みたいな出来事。あんなに卑屈で、人間関係の裏ばかり勘ぐって、自分の殼に閉じこもっていた自分が、30歳になってこんな場面を迎えるなんて誰が予想できただろうか。
「……ハッ、こんな未来が待ってたなんてな」
暗い夜道で、八幡はぽつりと呟き、ひとり苦笑した。
ただ「終わり」を受け入れるつもりでセットしたはずの最後の晩餐。それが、まさかこれ以上ないほど強固な「生き着くための理由」に化けてしまうとは。
アパートの階段を上りながら、八幡の冷めきっていた瞳には、確かな熱と覚悟が宿り直していた。
(……死ねねぇな、絶対に。どんな泥仕合になろうが、あのバケモノ相手に生存ルートこじ開けてやるよ)
重いドアノブに手を掛け、八幡は決意を胸に、静かに部屋へと足を踏み入れた。
部屋の鍵を開け、コートを脱ぎ捨てるより先に、八幡はスマホを手に取っていた。
画面の連絡先をスクロールし、親愛なる妹の名前に指を伸ばす。少し迷ったが、コールボタンを押した。
電波の向こうで数回呼び出し音が鳴った後、すぐにガチャリと受話器が取られる音がする。
『――お兄ちゃん? こんな時間に珍しいじゃん。どうしたの、仕事の愚痴? それとも何か美味しいものでも奢ってくれるわけ?』
相変わらずの、少し呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな小町のリズミカルな声が耳に飛び込んできた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥にあった緊張の糸がふっと緩むのを感じる。
「いや……」
八幡は片手で首筋を掻きながら、柄にもなく掠れた声でぽつりと言った。
「特に用は無いんだけどさ。……ちょっと、声が聞きたくなって」
『……は?』
電話の向こうが、一瞬で不気味なほど静まり返った。
数秒の沈黙の後、信じられないものを見るような、怯えるようなトーンで小町的声音が返ってくる。
『ちょ、ちょっと待ってお兄ちゃん!? 熱でもあんの!? それとも会社で何かやらかして精神的に追い詰められてるとか……! こまっちゃん怖んだけど! 急にそんなこと言うのやめてよ!』
「お前な……。兄貴が素直に妹を心配して電話したくらいで、なんだその態度は」
『心配じゃなくて気持ち悪いんだよ! いつもの死んだ魚の目で適当にあしらってよ! あ、もしかして、フラれたとか!?』
「――まあ、色々あったんだよ」
呆れたようにため息をつく小町に、八幡は苦笑しながら窓の外の夜空を見上げた。
明日には、またあの理不尽で血なまぐさい異世界の戦場に引き戻される。バランとの死闘が待っている。自分がどうなるかなんて誰にも分からない。
だからこそ、この世界に繋がる血の繋がったたった一人の家族の、その日常の延長線上にある声が、どうしようもなく愛おしかった。
「……元気でやってるなら、それでいい。じゃあな、切るぞ」
『ちょ、ちょっと、お兄ちゃん! ちょっと待っ――』
「はいはい、仕事戻るわ」
ガチャリ、と冷淡に切断ボタンを押す。
スマホの画面を暗くしてポケットにしまうと、八幡はフッと息を吐き、改めて己の腹をくくり直した。
スマホの画面を暗くしてベッドに潜り込むと、張りつめていた神経の糸がふっとほどけていく。
――雪乃と結衣の不器用で真っ直ぐな想い。
――小町の呆れ混じりの、いつもの聴き慣れた声。
明日待ち受けているのは、世界最強の竜の騎士バランという理不尽な絶望だ。どう足掻いても詰みにしか見えない圧倒的な戦力差を前に、勝算など数えるだけ無駄かもしれない。
だが、あの夜の街角で二人が突きつけた熱を思い出すと、不思議と恐怖は消え失せていた。
「……ま、試してみるか」
呟いた声は、静かな部屋の中にすぐに溶けて消えた。
八幡は力を抜き、すべてを委ねるように深い、底知れぬ睡眠の底へと落ちていった。