ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。   作:tomozow

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バラン決着編 15

翌朝――。

八幡が姿を消した部屋のテーブルには、一枚の紙きれが置かれていた。

そこには八幡の殴り書きで、ただ一言。

『バランに会ってくる』

「な、なんだよこれ……!? あいつ一人でどうするつもりだよ!?」

手紙を握りしめたポップが、パニックを起こしたように声を張り上げる。

「バランの元へ単身乗り込むなど、死にに行くようなものだぞ……! あの男は一体何を考えておるのだ!」

クロコダインもまた、信じられないといった様子で太い眉をひそめ、重苦しい声を漏らした。

だが、決戦に向けて愛剣を握り直したヒュンケルは、静かに首を振った。

「いや……あいつは簡単に諦めるような男ではない。何か考えがあるのだろう。俺たちが思いもつかないような、な」

ヒュンケルの迷いのない言葉に、一瞬場が静まり返る。その静寂を破るように、レオナがふっと口元を緩め、頷いた。

「そうね。あの八幡くんだからね。私たちが想像もつかないようなズルい手か、泥臭い手を用意しているはずよ」

「……うん! 八幡なら、きっと大丈夫だよね!」

ダイもまた、力強く頷いた。

仲間たちの信頼と期待を残し、神殿の空気が引き締まる。

ヒュンケルは背を向け、静かに歩みを進めた。

「俺も行く。……ラーハルトとの決戦にな」

己の誇りと仲間たちの未来を背負い、ヒュンケルは決闘の地へと足を踏み出していくのだった。

 

 

メルルは少し目を丸くし、手の中の水晶玉をそっと握り直しながら呟いた。

「……なんだか、みんな、すごく強い絆で結ばれているんですね。八幡さんのこと、すごく頼りにしているんだって分かります」

ポップは苦笑しながら、頭の後ろで両手を組んで肩をすくめた。

「まあな。あいつ、普段はあんな調子だし、口を開けばひねくれた理屈ばっかりで腹が立つことこの上ないんだけどさ……」

ふっと、ポップの表情から軽口が消え、真剣な色を帯びる。

「……なんていうか、ただ頭がキレるってのとも違うんだよな。アイツならどんな絶望的な状況でも、絶対に土壇場で何かやらかして何とかしちまう。そう思わせる妙な説得力があるっていうか……周りに『こいつについていけば大丈夫だ』って錯覚させちまう、変な空気を纏ってるんだよ」

それは、何度も理不尽な現実に直面し、泥水をすすりながらも生き延びてきたポップだからこそ分かる、八幡という男の本質に対する直感だった。憎まれ口を叩きながらも、その背中を心から信頼している瞳で、ポップは手紙が置かれていたテーブルを見つめる。

「……フッ、言い得て妙だな。あのひねくれ者も、悪くない仲間を持ったということか」

クロコダインが豪快に腕を組み、満足そうに低く笑った。

本人はきっと「やめてくれ、勘違いだ」と死んだ魚のような目で顔を背けるだろう。だが、確実にその言葉と生き様は、ここにいる全員の心に深く根を下ろしていた。

仲間たちの絶対的な信頼と、現実世界で受け取った温かな想いをその背に背負い――八幡はただ一人、最強の竜の騎士・バランが待つ戦場へと足を踏み出していく。

 

荒涼とした大地が広がる一角。張り詰めた魔力が空間そのものを歪めるかのようなその場所に、冷厳な気配を纏った男が立っていた。竜の騎士――バラン。

「――やはり、この道を通るか」

待ち構えていたかのように現れたバランの姿を認めて、八幡はため息交じりに足を止めた。驚きも怯えもない、ただ「メンドクサイ仕事の担当者に鉢合わせたサラリーマン」のような、ひねくれた達観の眼差し。

バランは、単身で現れた目の前の無力な人間を一瞥し、眉一つ動かさずに冷徹な声を放った。

「一人で私に勝てると思うか。……舐められたものだな、人間」

殺気すら感じさせない圧倒的な威圧感と共に、バランは腰に差した超竜軍団最強の威容を誇る『神魔剛竜剣』の柄へと手をかけた。一瞬で命を刈り取るに十分すぎるその動作に、しかし八幡は少しも動じず、両手を軽く上げてヒラヒラと振ってみせる。

「まあ待てよ、バランさん」

八幡はコートのポケットから、ゴソゴソと携帯用の容器を取り出した。

「とりあえず、一杯どうだ。こっちだと珍しいかもしれないが……コーヒーだ」

「……なんだと?」

神魔剛竜剣の柄に手をかけたまま、バランの動きがピタリと止まる。

殺意を向けられている状況で、まさか単身乗り込んできた敵から温かい黒い液体を差し出されるなど、千変万化の戦場を駆け抜けてきた竜の騎士にとっても想定外の事態だった。

研ぎ澄まされた剣気と、漂い始めた香ばしい苦い匂いが、奇妙なコントラストを描いてその場に静まり返るのだった。

 

「毒でも入れたか?」

神魔剛竜剣の柄に手をかけたまま、バランは射ぬくような鋭い視線を八幡に投げかける。竜の騎士としての警戒心と、人間の企みに対する不信感がその言葉に凝縮されていた。

八幡は呆れたように肩をすくめると、手元の容器からコーヒーカップに黒い液体を注ぎ、自ら一口煽ってみせた。

「そんなの、アンタに効くわけねえだろ。龍の血を引く超生物に、その辺の毒薬が効くと思えるほど俺は楽天家じゃねえよ」

ゴクリと飲み干し、口元を拭って見せる八幡。そのあまりにも自然で無防備な態度に、バランはわずかに眼光を細めた。

「……フッ、いい度胸だ」

バランは神魔剛竜剣から静かに手を離すと、八幡の手から差し出されたカップを受け取った。立ち上る微かな湯気と、かつて経験したことのない香ばしくも苦い香り。

躊躇うことなく、バランはその黒い液体を一口口に含む。

「……苦いな。だが……この香り、悪くない。……美味いな」

「だろ? 缶コーヒーで鍛えられた俺の舌が選んだ絶品だ」

八幡はポケットから、小さな角砂糖のパックをいくつか取り出して見せた。

「甘党なら砂糖もあるぞ。男の哀愁には苦味が似合うが、疲れ切ったオッサンには糖分も必要だろ?」

世界の命運を賭けた戦場のただ中で、竜の騎士と一人の青年(中身は30歳)が、温かいコーヒーを挟んで奇妙な対話を始めようとしていた。

 

八幡はコーヒーをひとくち口に含み、遠くの空を見つめながら、ごく自然なトーンで言い放った。

「まあ、信じてくれないとは思うが……俺は未来を知っている。アンタの最期もな」

「――何だと?」

バランの手がピタリと止まる。カップを持つ指先に一瞬だけ力が入ったが、すぐにそれを殺し、冷徹な眼差しで八幡を射抜いた。

「未来を知る……だと? たわ言を。予言者の類か、それとも虚言で私の動揺を誘う愚かな策か」

にわかには信じられない。百戦錬磨の竜の騎士として、さまざまな策略や魔法を見てきたバランだったが、目の前にいる無力な男が発した言葉には、一切の揺らぎやブラフの気配を感じ取れなかった。

「動揺させる策にしちゃ地味すぎるだろ。虚言だと思うならそれでもいいさ。……だが、アンタが息子のために何を背負い、何を投げ出し、最後にどうやって死ぬか。俺はそれを知ってる」

八幡は自嘲気味に鼻で笑うと、死んだ魚のような目をバランへと向けた。

「アンタは最高に不器用で、最高に頑固な父親だよ。……だからこそ、俺はアンタの最期を聞いたとき、胸糞悪ぃなぁと思ったんだ」

静まり返る空間。バランの内に潜む「竜の騎士」としての冷酷さと、「父親」としての心が、八幡の静かな言葉によって激しく揺さぶられていた。

 

 

「ダイの本当の名前……『ディーノ』。意味は『強き竜』……だったかな」

八幡が何気ない様子でその名を口にした瞬間、バランの全身から血の気が引いた。

「――っ!?」

バランの鋭い眼光が凍りつき、その額から一筋の冷や汗が頬を伝って落ちる。

(な……何だと……!? なぜその名を知っている……!?)

『ディーノ』――それは、人間界の誰一人として知るはずのない名前。かつてアルキード王国で、愛する妻ソアラと共に我が子に授けた、世界でただ二人だけが共有していたはずの愛しき息子の真名。

絶対に知り得るはずのない真実を突きつけられ、バランの内にあった圧倒的な絶対優位性が根底から崩れ去る。

「……貴様、一体……何者だ……!?」

神魔剛竜剣の柄に再びかかったバランの手が、わずかに震えていた。威圧するためではなく、目の前の「未来を知る」と宣う不気味な男に対する、初めての動揺と困惑からだった。

八幡はそんなバランの極度の緊張を余所に、ふぅーっとコーヒーの湯気を吹き消しながら、死んだ魚の目でぽつりと言った。

「言っただろ、未来を知ってるって。アンタとソアラさんがどれだけあいつを愛していたかも、な」

一歩も引かず、淡々と語る八幡の言葉が、最強の竜の騎士の心を容赦なく揺さぶり始めていた。

 

「まあ、俺もあまり多くを語るつもりはない。知りすぎればそれだけで未来が狂って、起きるはずだった救いすら失われるかもしれないからな」

八幡は手元のカップをゆっくりと回しながら、どこか遠くを見るような目で言葉を続けた。

「……だから、アンタに『人間の味方をしてくれ』なんて言うつもりはない。アンタが人間を憎む理由は、受けた理不尽は、俺も知ってる」

そこまで言うと、八幡は視線を戻し、正面からバランの眼光を受け止めた。その死んだ魚のような瞳の中に、決して揺らぐことのない静かな熱を宿して。

「ただ……俺がアンタに頼みたいのは一つだけだ。……ただの『ダイの父親』であってくれ」

「――――」

バランは息を呑み、微動だにせず八幡の言葉に耳を傾けていた。

神魔剛竜剣を握る手から力が抜け、静寂が二人の間を支配する。かつてアルキードで奪われた愛と、孤独な憎悪の果てに捨て去ったはずの「父親」という響き。それを、この見知らぬ異界の男は、当たり前のように自分に突きつけてくる。

(この男は何者だ……。なぜそこまで私の心を、ソアラとの想いを知っている……?)

バランの鋭い瞳が、八幡の一挙手一投足に集中する。

威圧や殺気ではない。ただ純粋に、目の前にいる「不条理な未来を知る男」がこれから語る一言一言を、一字一句聞き漏らすまいとする強烈な注視だった。

八幡は小さくため息を吐くと、最後のコーヒーを喉に流し込み、静かに語り始めた。

 

 

「ハドラーの体内には『黒のコア(黒の核晶)』が埋め込まれている。……アンタとダイの戦いの極限状態、その土壇場で爆破される仕組みだ」

八幡の口から発せられたその悪魔的な単語に、バランの表情が凍りついた。

「なに……? 黒のコアだと……!?」

黒のコア――超魔生物たるハドラーの肉体を遥かに超える、一国どころか世界をも吹き飛ばしかねない大魔王バーンの極大兵器。

「ああ。で、アンタは土壇場で咄嗟にダイを庇い……その爆発に巻き込まれて命を落とす。息子の盾になってな。……とっさの判断だからこそ、防ぎきれずに死ぬんだよ」

八幡は淡々と、けれど重い現実をバランの突きつけた。

「だが、あらかじめ『そこに爆弾がある』と知ってさえいれば、アンタほどの男なら対策は取れるはずだ。ハドラーをどう処理するか、爆発の予兆をどう抑え込むか……事前に知っているかどうかで、未来はいくらでも変えられる」

「…………っ!」

バランの額から、だらりと冷や汗が流れ落ちた。

大魔王バーンがハドラーに何を施していたのか。なぜあれほどの捨て身の力を与えたのか。すべての異常な伏線が、八幡のたった一言で完璧に繋がってしまったのだ。

もしこの男の言葉を聞いていなければ――自分は知らぬままハドラーと相打ちになり、最愛の息子を残して命を落としていた。

神魔剛竜剣を握るバランの手が、今度は震えではなく、怒りと衝撃で固く握りしめられる。

「大魔王バーン……そこまで私とハドラーを利用していたというのか……!」

 

目の前で冷や汗を流し、大魔王への激しい憤怒と息子の未来への葛藤に揺れる最強の竜の騎士。

八幡はその姿を静かに見つめながら、コーヒーカップを置いた。

 

「……ま、教えられるのはここまでだ。あとはアンタが『ダイの父親』としてどう動くか、自分で決めな」

 

「それに……ダイを、いやディーノか。ディーノをアンタたちがどれだけ溺愛していたかも、俺は知ってる」

八幡は何でもないことのように言葉を重ねた。

「一度じっくり話をしてみたらどうだ? 案外、案外どころか……あいつなら話せばわかるかもしれないぜ」

「……それはできん」

バランは固く目を閉じ、静かに、だが断腸の思いを込めて首を振った。

「私はあまりにも多くの人間を殺してきた。魔王軍に身を投げ打ち、世界の破壊者としてその手に過分な血を塗ってきたのだ。……いまさら、どの面を下げて父親としてあの子の前に立てというのだ」

罪業の重さに苛まれるその横顔には、かつて人間を絶望の底に突き落とした冷酷な竜の騎士の面影はなく、ただ自らの過去の過ちに打ちひしがれる一人の傷ついた男の姿があった。

「いまさら綺麗事に縋るつもりはない。私の歩んできた道は、決して許されるものではないのだから……」

己の犯した罪から目を背けず、だからこそ息子への愛を胸に秘めたまま散ろうとするバラン。その不器用すぎる生き様に、八幡は深くため息をついた。

 

「なら、もっと多くの人間を救えばいい」

八幡は呆れたように肩をすくめ、吐き捨てるように言った。

「勘違いするなよ。別に『改心して人間の味方になりましょう』なんて綺麗事を言ってるんじゃねえ。……だいたい、アンタもうバーンのところに戻るつもりもないんだろ? 居場所なんて最初からどこにもねえんだ」

「…………」

「人間の罪が消えないのと一緒で、アンタが殺した人間の罪も消えねえよ。だったら、その重い過去を抱えたまま、これから死ぬはずだったそれ以上の人間を救ってプラマイゼロを目指せばいい。……それにさ」

八幡はポケットに両手を突っ込み、死んだ魚のような目で、だがまっすぐにバランを見据えた。

「この世界が今こうして存在してんのは……かつて命がけで冥竜王を倒した、アンタのおかげだろ? ――勇者バラン」

「――っ!?」

『勇者バラン』。

その響きに、バランの全身が激しく震えた。

かつて世界を救いながらも、人間に裏切られ、愛する妻ソアラを奪われ、憎悪の底へと叩き落とされた過去。自分自身ですらとっくに捨て去り、魔王軍の超竜軍団長として塗りつぶしたはずの、呪われた栄光の名。

それを、この目の前にいる若者は、あざ笑うでもなく、ただ当然の事実として突きつけてきたのだ。

「誰がなんと言おうと、アンタがかつて世界を救った勇者だって事実は消えねえよ。……だったらさ、最後の最後まで悪党のフリして勝手に死ぬなよ。不器用なら不器用なりに、足掻いてみせろよ、父親だろ」

立ち尽くすバランの目から、隠しきれない葛藤と熱いものが溢れ出そうになっていた。

神魔剛竜剣を握る手が、ゆっくりと、けれど確実に力を失っていく。

最強の竜の騎士の頑なな心が、一人の異界の青年の毒舌と歪んだ優しさによって、今完全に解きほぐされようとしていた。

 

「だが、私は……私はどうすれば……」

バランの声が、微かに震えていた。

積み上げてきた憎悪と絶望、犯した罪の重さ、そして心の底に封じ込めたはずのソアラへの愛と息子への想い。すべてが絡み合い、最強の竜の騎士をかつてないほどの激しい葛藤へと引きずり込んでいた。

八幡はそんなバランの姿を一瞥し、いつもの気だるげな調子でふっと息を吐いた。

「どうにも、完全にすんなりとは振り切れねえよな。人間って生き物はそんなに器用じゃねえし、アンタならなおさらだ」

そう言って、八幡はコートの裾を軽く払い、おもむろに身構えた。

「――とりあえず、俺とひと勝負やらないか?」

「……お前と?」

「あぁ。アンタみたいなレジェンドから学ぶことがあってさ。これでも一応、『勇者見習い』としてはよ」

その言葉を聞いた瞬間、バランの動きがピタリと止まった。

――ロトの血を引く者。かつて世界を救った勇者の系譜。

驚愕に目を見開いたバランの顔に、やがてこれまでの凍てつくような冷徹さが消え去り、代わりにどこか吹っ切れたような、静かな笑みが浮かんだ。

「……ふっ。いいだろう」

バランは神魔剛竜剣をゆっくりと引き抜き、その切っ先をわずかに地面へと向けた。その気配に殺気はない。だが、全宇宙を揺るがすほどの圧倒的な闘気と、父親としての、そしてかつての勇者としての重みが、その巨体に満ち満ちていく。

「生意気な口を利くものだ、地下世界の若造よ。――その甘ったれた覚悟、私が直接揉んでやるぞ」

大地が震え、周囲の魔力が一斉に波打つ。

竜の騎士と、知識と機転を武器にする一人の「勇者見習い」の、奇跡の戦いが今、静かに幕を開けた――。

 

「初手から全開でいくぞ……! 『セブンアイス』――ヒャヒャヒャヒャヒャド!!」

八幡は叫ぶと同時に、右手の人差し指を突き出した。

放たれたのは、基本氷系呪文である「ヒャド」の怒涛の7連発。連鎖的に放たれた蒼い氷の弾丸が、鋭い風切音を立ててバランの体へと一直線に押し寄せる。

「な……なに連発だと!?」

目を見張るバラン。本来、呪文というものは一発ずつ詠唱し、発動させるのが世界の理。それをまるで機関銃のように連続で叩き込んでくる異例の戦術に、百戦錬磨の竜の騎士とて一瞬の驚愕を禁じえなかった。

 

八幡の放った氷弾が、バランの全身に炸裂する。激しい煙と氷片が周囲に飛び散り、一瞬視界が白く染まった。

――だが。

「……ふむ」

煙の向こうから現れたバランは、傷ひとつ追っていなかった。竜の騎士が纏う強靭な魔力と肉体の前には、ヒャドの7連射程度ではかすり傷すらつかない。

「……一瞬で連続の呪文発動、見事な機転と技術だ。だが……いかに技が奇抜であろうと、元々の威力が伴わねばこのバランを揺らすことはできんぞ、勇者見習い」

バランは静かに神魔剛竜剣を構え直し、眼光を光らせた。

八幡は肩で息をしながら、死んだ魚の目で苦笑いを浮かべる。

「へっ……まあな。知ってたよ、アンタにこの程度は効かないよな」

 

「――『セブンソード』!!」

八幡が鋭く叫び、空間を裂くように手を振り下ろす。

次の瞬間、先ほどのヒャドとは明らかに密度と強度の異なる、研ぎ澄まされた7片の氷の剣がバランの隙を突いて飛来した。単なる魔力の弾丸ではなく、一筋の殺気を伴った鋭利な刃の群れ。

「むっ――!?」

バランが神魔剛竜剣で瞬時に迎撃しようとするが、複雑な軌道を描いて交差した一刃が、わずかにバランのガードをすり抜けた。

――チッ。

冷たい風が頬を切り裂く感触。

バランの浅黒い頬に一筋の赤い線が走り、一滴の血が静かに伝い落ちる。

世界最強の竜の騎士、その鉄壁の領域に、ひとりの「人間」の手が届いた瞬間だった。

「…………」

バランはゆっくりと指先で頬の血を拭うと、その赤を見つめ、静かに目を細めた。

先ほどまでのどこか余裕を含んだ雰囲気が一変し、圧倒的な威圧感がその場を支配する。神魔剛竜剣を握るバランの右腕に、メリメリと力強い筋が浮き出た。

「……見事だ、小僧」

低く重い声が、大気を震わせる。

「私に血を流させたその機転と執念……しかと受け取った。もはや貴様をただの若造とは扱わん。……来い、ロトの子孫!」

バランから放たれる本気の戦気が、八幡の肌をビリビリと刺す。

八幡は冷や汗を流しながらも、死んだ魚の目に不敵な光を宿し、固く構え直した。

 

「……全開でいくか」

八幡は体に残るすべての魔力を限界まで練り上げ、天に向けて掲げた剣へと一気に収束させる。雲を突き破り、降り注ぐ稲妻――雷系呪文『ライデイン』。

青白い電光を刃に纏わせ、八幡は大地を蹴った。

「ライデイン……ストラッシュ!!」

稲妻の軌跡を描いて振り下ろされる必殺の一撃。

対するバランは、一歩も退くことなく神魔剛竜剣を静かに構えた。その瞳には、八幡の覚悟を真っ向から受け止める武人としての敬意が宿っている。

「――『ギガブレイク』!!」

万雷の怒りを集束させた神魔剛竜剣が、八幡のライデインストラッシュを完璧に迎撃する。次元の違う圧倒的な魔力と破壊力。凄まじい衝撃波と光が二人の間を包み込んだ。

ドッ!!!

「ぅっ……!!」

八幡の身体が弾き飛ばされ、岩肌を激しく叩きつけられながら転がる。

「……終わったか」

静寂を取り戻した荒野で、バランは神魔剛竜剣をゆっくりと鞘へと納めた。直撃こそ避けるように手加減したものの、あの威力のギガブレイクの衝撃を至近距離で浴びて無事でいられる人間など存在しない。竜の騎士として、八幡の力を認め、回復魔法をかけようとしたその時――

ズサ……。

「……っは……、ゲホッ……!」

信じられない音が響いた。

土煙の向こうで、ボロボロになったコートを泥だらけにした八幡が、膝を震わせながらゆっくりと身体を起こし始めていた。

「な……なに……!?」

バランの目が見開かれる。

全身の骨が悲鳴を上げ、視界すら霞んでいるはずの八幡は、死んだ魚のような目に恐ろしいほどの生執着と冷めた光を宿したまま、ふらつきながらも両足でしっかりと大地に立ち上がった。

「ハッ……ハハ……。死ぬかと……思った…。けど…まだ立てる」

膝を突きそうになりながらも、八幡は不敵な薄笑いを浮かべ、まっすぐにバランを見据え返した。

 

 

 

バランは、目の前の光景が信じられず驚愕していた。

(何故だ……!? 何故立ち上がれる……!? 相殺したとはいえ、私のギガブレイクの直撃を食らって無事でいられる人間など、この世に存在するはずがない……!)

圧倒的な衝撃と動揺が、最強の竜の騎士の思考を一瞬だけフリーズさせる。

――そして、八幡という男がその絶好の「隙」を見逃すはずがなかった。

泥と血に塗れた八幡の瞳に、ギラリと鋭い冷徹な光が宿る。八幡は全身の悲鳴を力ずくでねじ伏せると、地面を低く滑るように踏み込み、闘気を剣身に注ぎ込んだ。

ライデインストラッシュの余韻で冷え切った空気に、ヒャド系の極寒の魔力が混ざり合う。絶対零度の冷気を纏った刃が、研ぎ澄まされた閃光となってバランの懐へと肉薄した。

「『氷結海破斬』!!」

「――っ!?」

バランがハッと正気に戻り、咄嗟に神魔剛竜剣を交差させてガードしようとするが、間一髪、八幡の執念の一撃がバランの鎧の隙間を苛烈に切り裂いた。

「ぬうっ……!?」

激しい冷気と衝撃波が弾け飛ぶ。

完璧な構えを崩されたバランの身体が、わずかに後方へと押し戻された。胸元の装甲が凍りつき、薄い亀裂が入ると同時に、バランの口元から一筋の血がツッと垂れ落ちる。

「……ハッ……ハッ……。少しは……効いたか…?」

剣を地面に突き立て、かろうじて立ち姿勢を保ちながら、八幡は死んだ魚のような目で、ニヤリと笑みを浮かべた。

不意を突く超高速の連続呪文、命懸けのカウンター誘発、そして動揺した一瞬を逃さない超実戦的な追い打ち。竜の騎士という「規格外の強者」を相手に、己の弱さを知り尽くした男が繰り出した、泥臭くも完璧な奇襲だった。

 

「……本気を、出そうか」

バランの口から漏れた言葉は、静かだが地獄の底から響くような重圧を孕んでいた。

口元の血を親指でそっと拭うと、バランの額に眩い光が宿る。竜の紋章――その圧倒的な輝きと共に、周囲の大気が激しく歪み、大地が悲鳴を上げて砕け散っていく。

「ぬううう……ッ!!」

バランが右手を八幡へとかざした。瞬間、解き放たれる極大の衝撃波――『紋章閃』。

ドガァァァァ!!!

「ぐあぁぁぁっ……!!」

防御すら許されない光の波が、八幡の体を容赦なく飲み込んだ。凄まじい衝撃とともに身体が弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられて盛大な土煙が舞い上がる。

完全に静まり返る戦場。

直撃どころか、掠めただけでも通常の人間なら肉体が粉々になるほどの竜の魔力。もはや動くことすら不可能なはずだった。バランは静かに息を吐き、収束させた紋章の光を落とす。

「……流石にもう立てまい」

そう呟き、背を向けようとしたその時――。

ズサ……ズ……。

岩屑が崩れ落ちる音が響いた。

「……っぐ……ハッ……、ゲホッ……!!」

煙の奥から、ぼろきれのようになったコートを纏った八幡が、血を吐き出しながら這い出てくる。

腕は歪な角度で震え、全身傷だらけで、いつ意識を失ってもおかしくない状態。にもかかわらず、八幡は地面に指を食い込ませ、じりじりと……だが確実に、己の足で立ち上がった。

「ふーっ……ふーっ……。ったく……相変わらず容赦ねえな、勇者様よ……」

死んだ魚のような目に、決して消えることのない泥臭い執念の火を宿したまま、八幡は不敵に笑ってみせる。

「……な……」

バランは絶句した。

言葉が出ない。

驚愕や苛立ちを超越した何かが、バランの胸を激しく突き上げていた。相殺したギガブレイクに続き、本気の紋章閃を受けてなお、なぜこの男は立ち上がることができるのか。

目の前にいるのは、決して強くはない、ただの人間だ。だがその背中には、折れることのない異常なまでの「生の執念」と、何かを守り抜こうとする強靭な意思が宿っていた。

八幡は膝をガクガクと震わせながらも、バランをまっすぐに見据える。

「もう少し……いけそうだな」

 

バランは深く息を吸い込み、限界まで練り上げた絶大な竜の闘気を神魔剛竜剣に集束させた。額の紋章が苛烈に輝き、天空から降り注ぐ極大の雷光が剣身に宿る。

これが、竜の騎士の真の全力――『ギガブレイク』。

「……ロトの子孫よ、その執念に報いよう!」

八幡は視界が赤く染まる中で歯を食いしばり、折れかけた体に鞭打って残されたすべての魔力を振り絞った。

「……ライデイン……ストラッシュ!!」

激突。

ドゴォォォォォンッ!!!

天地を揺るがす凄まじい大爆発が巻き起こり、荒野の地形そのものが削れ飛んだ。あまりの衝撃波に土星のような光輪が広がり、八幡の掲げた王者の剣は耐えきれずに「極限の金属音」を立てて木っ端微塵に砕け散る。

吹っ飛ばされる八幡の体。幾重にも岩肌を突き破り、そのまま地面を転がってピクリとも動かなくなった。

「……くっ……!?」

バランは神魔剛竜剣を納めると同時に、珍しく焦りの色を浮かべて八幡の元へと駆け寄った。

(しまった……熱くなりすぎた! これでは……これでは殺してしまう……!!)

人間への憎悪を捨てきれずにいたはずのバランが、今や異界の青年の死を本気で恐れていた。未来を示し、ソアラの想いを突きつけ、自分に父親になれと言ってくれたこの青年の命を、自らの手で奪ってしまったのかと胸を刺すような後悔が襲う。

「おい! しっかりしろ、小僧……!」

バランが手を差し伸べようとした、その時だった。

「……っ……があ……っ!」

瓦礫の下から、血塗れの手が伸びた。

ズザザ……ッ。

折れた剣の柄を握りしめたまま、八幡は血を吐き出し、ぼろ雑巾のようになった体を泥臭く起こした。全身の骨が悲鳴を上げ、意識などとっくに途切れていておかしくないはずなのに、死んだ魚のような瞳にはなおも「生」への執念がギラギラと宿っている。

「ふーっ……ふーっ……。へっ……あぶねぇ……。完全に……死にかけた……」

八幡はガタガタと震える足で、奇跡的に再び己の二本足で大地に立ち上がった。

それを見たバランは、あまりの異常さに一歩後退り、息を呑んだ。もはや驚愕という言葉すら生ぬるい。ギガブレイクの真の直撃を食らい、剣を砕かれながらも立ち上がる人間など、全土を探しても絶対に存在するはずがないのだ。

「き、貴様……本当に人間なのか……!? それとも……悪魔の類いか……!?」

動揺を隠しきれず、引きつった声で叫ぶバラン。

八幡は腫れ上がった瞼を持ち上げ、血の混じった唾を吐き捨てると、死んだ魚の目で自嘲気味にニヤリと笑った。

「悪魔だと……? ただの人間だよ……」

 

「……ふぅ。まあ、そろそろ種明かしといこうか」

八幡はボロボロのコートの内ポケットに手を伸ばすと、ずっしりと重い武骨な拳銃――魔弾銃を取り出した。

「な……なんだ、その妙なからくりは……!?」

バランが警戒して構え直すよりも早く、八幡はその銃口を躊躇なく自分の胸元へと向けた。

パンッ!低く乾いた音が鳴る。

「おい、何を――!?」

バランの制止の声が重なる瞬間、弾丸の着弾点から溢れ出したのは、闇を払うような圧倒的かつ聖なる温かな光――極大回復呪文『ベホマ』の輝きだった。

神々しい光が八幡の全身を包み込む。

ズタズタに引き裂かれていた皮膚が瞬く間に塞がり、砕け散る寸前だった骨が軋みながら接合され、死に瀕していた生命力が一気に底から湧き上がっていく。

「ふはぁっ……!! 助かった……マジで命のカウントダウンが見えてたぜ……」

八幡は光の中で深く息を吐き出すと、すっかり元の調子を取り戻した様子で腕をグルグルと回してみせた。

「種明かしをするとだな。仲間に詰めてもらった魔法の弾丸だ。……音も響かないようにしてる」

八幡は煙を吹く魔弾銃をくるりと指で回しながら、自嘲気味に息を吐く。

「本来ならギガブレイク一発でほぼ即死なんだろうが、一応稽古だからな。急所を外してくれて助かったぜ」

バランは神魔剛竜剣を握ったまま、完全に言葉を失っていた。

相殺でも防ぎきったわけでもない。

竜の騎士の最大奥義の威力を極限まで計算し、自らの命を「死の直前」まで投げ出すことで生じた一瞬の隙と油断。そこへ回復の仕掛けを合わせるという、泥臭くも常軌を逸した狂気の生存戦略。

(己の命すらも盤上の駒として扱い、私の全力を受け切ってみせたというのか……! この若者は……!!)

あまりの衝撃と、目の前の男が示した凄まじい胆力に、

 

バランの額から再びたらりと冷や汗が流れ落ちたのだった。

 

「種を知ってしまえばどうということはない……。だが、お前は最後まで私に気づかせなかった。……もしこれが実戦なら、私はその一瞬の慢心と隙を刺され、命を落としていたかもしれん」

バランは神魔剛竜剣をゆっくりと鞘へと収めると、深い息とともに八幡を見据えた。その瞳には、もはや警戒や困惑ではなく、一人の武人としての真摯な敬意が宿っている。

「やはり貴様……ただの人間ではないな」

「いやあ、ただの手品みたいなもんだよ」

八幡は頭の後ろで両手を組み、いつもの気だるげな調子でひらひらと手を振った。

「普通にギガブレイク一発で終わりだよ」

自らの命を張った奇策をあっさりと「手品」と言い切る八幡。その徹底した自己評価の低さと、泥臭いまでの現実主義。

バランは呆れたように小さく息を吐くと、その口元にわずかな笑みを浮かべた

「ふっ……謙虚なのか分からん男だな。……だが、その減らず口も含めて、恐ろしい男だよ、貴様は」

 

「それに……アンタは『本気を出す』と言いつつ、結局『竜魔人』にはならなかっただろ?」

八幡は壊れた剣の柄を足元に放り投げ、ポケットに両手を突っ込みながら軽口を叩いた。

「まあ『揉んでくれ』って頼んだ手前、アンタが竜魔人になって一瞬で俺を灰に変えちまったら、指導もクソもなく試合終了だからな。アンタの理性が残ってて助かったよ」

(……竜魔人のことまで知っているのか、この男は……!)

バランは胸の内で激しい衝撃に打たれていた。

『竜魔人』――竜の騎士がその理性を捨て、竜の力と魔力、そして人間の心を極限まで融合させる究極の戦闘形態。自らの命を削る諸刃の剣であり、この世の如何なる存在も立ち打ちできない絶対的な破壊の権化。

バラン自身、二度と使わぬと心に誓っていたその秘術の名まで、八幡は当然のように知っていたのだ。

(いや……違うな)

バランは静かに八幡の死んだ魚のような瞳を見つめ返した。

(たとえ私が竜魔人となり、圧倒的な暴力で捻り潰そうとしたところで……この男なら、その絶望すらも盤上に組み込み、死の淵から泥に塗れて一矢報いてみせたに違いない)

もはや「未来を知っている」から強いのではない。

どんな格上の存在に対しても怯まず、己の弱さを武器に変えて泥臭く勝ち筋を拾い上げる――その恐るべき「生存の執念」と「戦術眼」こそが、この比企谷八幡という男の本質なのだとバランは悟っていた。

バランは深々と息を吐き出し、静かな声で問いかけた。

「……竜魔人のことまで熟知しているとはな。どこまで私の未来を見通しているのだ、貴様は」

 

一方、その壮絶な戦いを遠くの岩陰から見守っていたダイ、ポップ、クロコダイン、レオナの4人は、ただただ圧倒され、開いた口が塞がらないでいた。

「な……なあ……嘘だろ……?」

ポップがガタガタと膝を震わせ、引きつった声で呟く。

「あのバラン相手に……八幡のやつ、対等以上にやり合ってただろ……!? ギガブレイクだぞ!? 紋章閃だぞ!? なんで生きてんだよあいつ!!」

「むぅぅ……」

クロコダインもまた、信じられないものを見たように大きな眼を限界まで見開いていた。

「あの竜の騎士バランの猛攻を正面から受けて立ち上がり、あまつさえ傷まで負わせるとは……! 八幡という男、ただの知者ではなかったというのか……!」

王女であるレオナも、綺麗に手入れされた指を口元に当て、驚愕に目を見張っている。

「信じられない……。八幡が言っていた『手品』や『奇策』の域を超えているわ。あの圧倒的な力の差を、あんな泥臭い戦術と仕掛けだけで埋めてしまうなんて……!」

そして、誰よりもその光景に心を揺さぶられていたのは、ダイだった。

「八幡……」

ダイは、ボロボロになりながらもバランの前に立ち続け、言葉を交わす八幡の背中を、言葉を失って見つめていた。

自分たちを絶望の底に突き落とし、圧倒的な武力を持った「バラン」という存在。そのバランが、本気で驚愕し、冷や汗を流し、そして最後には一人の人間として誇り高く八幡と向き合っている。

「八幡……戦ってたんだ。力じゃなくて……俺たちのために、あのバランと……」

ダイの拳が、ぎゅっと固く握りしめられる。

一見すれば気だるげで、ひねくれていて、死んだ魚のような目をしている異界の男。だが、彼が命を賭して繰り広げた「手品のような死闘」は、見る者すべての概念を根本から覆していたのだった。

 

八幡は遠くの岩陰――ダイたちの気配に気づくと、面倒臭そうに片手をひらひらと振って合図を送った。そして、ボロボロになったコートの裾を払いながらバランに振り返り、それから再びダイたちのほうへと視線を向ける。

「おい、いつまでそこで覗き見してんだよ。用が済んだならこっちに来いっての」

岩陰から、ダイ、ポップ、クロコダイン、そしてレオナが恐る恐る足を踏み出してきた。誰もが言葉を失い、信じられないものを見るような目を八幡とバランに向けたままだ。

ダイが息を呑み、震える足で八幡の近くまで歩み寄る。その小さな瞳には、涙と動揺、そして言いようのない複雑な感情が入り混じっていた。

八幡はそんなダイの頭に、ぽんと乱暴に手を置いた。

「……心配すんな。見てただろ、このオッサン、意外と話の分かる人だからよ」

そして、信じられないものを見るように立ち尽くすダイの肩を軽く叩き、低く、しかしはっきりと告げた。

「ほら……『バラン』じゃねえだろ。……『父さん』だろ?」

「――っ!?」

ダイの息が止まった。

頭が真っ白になり、心臓の音がうるさいほどに胸を打つ。目の前にいるのは、敵対していた男。けれど、この命がけの戦いの果てに八幡が差し出したその言葉は、ダイの感情を劇的に動かした。

ダイは震える唇で、目の前に佇む男を見上げる。

バランは――何も言えなかった。

ただ大きく目を見張り、自らの血を引く息子の瞳を見つめ返す。その胸の奥底で、かつてアルキードで砕け散ったはずの温かな光が、音を立てて蘇っていくのが自分でも分かった。拒絶し、孤独に生きるはずだった男の頬を、熱いものが伝う。

張り詰めた沈黙の中、八幡はボキボキと全身の骨を鳴らしながら、ふっとやれやれといった風に息を吐き出した。

「ま、固い話はあとだ。……座っていいか。目がチカチカする」

死んだ魚のような目でそうぼやく八幡の背後で、夕暮れの空が、少しだけ温かく世界を包み込み始めていた。

 

 

「ま、俺にできるのはここまでかな。少なくとも戦闘においては。ここらが限界だと思うんだよな」

ボキボキと全身の関節を鳴らしながら、八幡はどこか投げやりな、しかし妙に晴れやかな声でそう呟いた。

その言葉を聞いた瞬間、背後で息を呑む気配がした。

「は、はぁっ!? なにいってんだよお前!!」

耐えきれず、ポップが叫びながら飛び出してきた。その顔には信じられないという絶望と焦りが張り付いている。

「さっきバランを相手にあんな化け物みたいな勝負してただろ!? ギガブレイク受け止めて、反撃して、あまつさえ生きてるんだぞ!? お前が戦えば、このまま……!」

「バカかお前は。さっきのは奇跡的な手品と、オッサンの気まぐれと、俺の運が奇跡的に噛み合っただけの綱渡りだ」

ポップの言葉を、八幡は死んだ魚のような目で即座に遮った。

「二度目なんかあるわけねえだろ。あんなもん、次やったら一秒で灰になってるわ。俺の戦闘力なんて、ハッキリ言ってこの場の誰より下だ。これ以上は足手まといになるだけだからな。あとは頼んだぜ、勇者様」

ひらひらと手を振る八幡の姿は、命懸けの大立ち回りを演じた男のものとは思えないほど、いつもの「いつものひねくれた八幡」に戻っていた。

 

「何でなの……? 八幡、そんなに強いのに……何でなの!?」

ダイは納得がいかない様子で、すがるように八幡のコートの裾を掴んだ。

「うーん……。バランの手前、言うのも何なんだが……」

八幡は気まずそうに頭を掻きながら、バランからすこし視線を外してボソッと言い放った。

「俺は別に、ロトの子孫でも何でもないからな」

「――な、何だと……!?」

バランが本日何度目になるか分からない驚愕の声をあげ、目を丸くした。

「バ、バカな……! 貴様はたしかにロトの血を引く勇者見習いと……! そもそも、ただの人間が『ライデイン』などという極大の雷系呪文を放てるはずがない! それに……! いかに事前に回復手段(ベホマ)を用意していたとはいえ、あのギガブレイクの直撃に自ら立ち向かい、耐え抜ける者などこの世にどれほどいるというのだ……!?」

バランの問いかけに、横で聞いていたクロコダインもまた「ひえっ」と重い冷や汗を流していた。

(た、確かに……! ロトの血を引いていようがいまいが、あのバランのギガブレイクに生身で突っ込むなど狂気の沙汰……! どんな神経をしておるのだ、この青年は……!)

しかし、八幡は至って平然とした顔で、死んだ魚の目をパチクリとさせた。

「いや、実戦だったら絶対やってねえよ。今回のはあくまで『形は稽古』だったからな」

「け、稽古……!?」

「おう。アンタみたいな武人っぽいオッサンなら、手加減というか……手加減しつつも『揉んでやる』って言った手前、いきなり俺を跡形もなく爆殺するような真似はしねえだろ? 『即死だけはしない絶妙なライン』で殴ってくれると信じてたんだよ。即死さえしなきゃ、さっきのベホマ弾でフル回復できる計算だからな」

八幡のあまりにも歪んだ「他者への信頼(という名の心理分析)」と、命をかけた狂気の計算高さに、バランは完全に開いた口が塞がらなくなった。

「き……貴様という男は……!!」

己の武人としての性格すらも完全に読まれ、完璧な『稽古』の枠組みの中で命を転がされていたことに気づき、バランは怒りを通り越して脱力したように、はぁぁぁ……と深く、長くため息を吐くのだった。

 

 

空間を切り裂くような金属音が、荒野とは違う険しい一帯に鳴り響いていた。

その頃――。

バランと八幡の戦いから少し離れた死闘の場で、ヒュンケルとラーハルトは互いの命を削り合うようなギリギリの攻防戦を繰り広げていていた。

閃光の如きスピードを誇るラーハルトの槍捌きが、幾重もの残像を描きながらヒュンケルを襲う。鎧の隙間を抉り、闘気が皮膚を切り裂くたびに、ヒュンケルの体は着実に削られていった。血が飛び散り、呼吸は荒く、肉体的なダメージは確実に蓄積されている。

だが――それでも致命傷には至らない。

ラーハルトの圧倒的なスピードと技量を前にしながらも、ヒュンケルはその全身全霊を研ぎ澄ませていた。

ただ敵の動きを目で追い、気配を捉えるだけではない。ヒュンケルは、槍を繰り出すラーハルトの筋肉の微動、重心の傾き、そしてその背負った過去や怒り、憎悪といった『心理』の機微までもが、まるで自分の内側にあるかのように深く覗き込んでいた。

(……来る……! ここだ……!!)

ラーハルトのわずかなためらい、復讐の炎の揺らぎ――その心の隙間を、ヒュンケルの闘気が正確に見抜く。

ガキンッ!! と、血路を開くような凄まじい火花が散り、ヒュンケルは紙一重で致命の一撃をいなしながら、逆にラーハルトの懐へと一歩踏み込んでいた。

 

「何故だ……! 何故、私の槍がまともに当たらない……ッ!!」

怒涛の連撃をことごとく紙一重でかわされ、あるいは致命傷を外され続けたラーハルトは、ついに焦燥と困惑の色を滲ませて叫んだ。その美しい顔に冷や汗が浮かび、繰り出す槍の軌道にわずかな乱れが生じる。

――そこが、ヒュンケルの見据えた「終わり」だった。

「お前の技は速い。怒りも、復讐に燃える執念も本物だ……だがな、ラーハルト」

ヒュンケルは静かに、しかし有無を言わせぬ重みのある声で呟いた。その双眸には、敵の技量だけでなく、その背負った哀しみまでもすべて受け止めた者だけが持つ達観の光が宿っていた。

「お前は、心のどこかで迷っている。……本当に殺すべき相手は誰なのか、とな」

「なに……!?」

「終わりだ!」

ヒュンケルが大地を蹴り、全身に残された闘気を極限まで解き放つ。掲げた剣に光と闇の十字が結晶化する。

「くらえ……! 『グランドクルス』!!」

轟音とともに放たれた闘気の十字架が、ラーハルトを直撃した。

ドゴォォォォンッ!!!

凄まじい衝撃波が周囲を薙ぎ払い、砂塵が晴れたとき、ラーハルトの鎧は砕け散り、彼は血を流して地面に倒れ伏していた。ピクリとも動かない、完全な戦闘不能状態。

「……はぁ……はぁ……」

ヒュンケルもまた膝をつき、荒い息を整えながら、倒れたラーハルトのそばへと歩み寄る。そして、ふところから水筒と薬草を取り出すと、ぐったりとしているラーハルトの上半身を静かに起こした。

「おい、しっかりしろ……。死なすわけにはいかないんだ」

荒荒しく傷口を塞ぐように薬草をあてがい、乾いた喉にそっと水を流し込む。

冷たい水が通ったことで、ラーハルトはわずかに目を見張り、苦しげに咳き込んだ。

「ごほっ……! なぜだ……なぜ私を……殺さない……?」

力なく問うラーハルトに対し、ヒュンケルは静かに目を伏せ、かつての己の過ちと重ね合わせるように、小さく首を横に振るのだった。

 

 

「さあな。殺すには惜しい男だ」

ヒュンケルは静かに水筒の栓を締めると、遠くの戦場――八幡たちがいる方角の空を見上げた。

「それに……八幡のことだ。たとえ相手がバランであろうと、易々と死にはしないだろう。俺がお前を殺す理由もあるまい?」

その言葉には、かつて闇に落ち、そして仲間の絆と勇者の心を取り戻したヒュンケルだからこそ醸し出せる、圧倒的な孤独の深みと慈愛が満ちていた。

「……っ……」

ラーハルトは息を呑み、力なく横たわったままヒュンケルを見上げた。

目の前にいる男は、自分以上の槍術と闘気を持った剣士というだけではない。己の怒りも、復讐の炎も、バラン様への忠義のあり方すらもすべて見抜き、その上で命を救って見せたのだ。

武力での敗北――それ以上に、男としての「器の大きさ」と「心の深さ」において、自分は完全に打ち負かされたのだとラーハルトは悟った。

「……ふっ……ハハ……」

ラーハルトの唇から、自嘲気味な、しかしどこかすがすがしい笑みが漏れた。

「……見事だ、ヒュンケル。武術だけでなく……心までも、私はお前に及ばなかった……。バラン様が……お前に目をかけていた理由が、今なら分かる気がする……」

ラーハルトは天を仰ぎ、静かに目を閉じた。かつてバランを守るためだけに滾らせていた刃の冷たさが、ヒュンケルから与えられた温かな水と薬草の熱によって、ゆっくりと溶けていくのを感じながら――。

 

少し離れた高台で、意識を取り戻したラーハルトは、遠くで繰り広げられていた八幡とバランの死闘を目撃し、絶句していた。

「あ……ありえない……! バラン様に何度も攻撃を受け、あの『ギガブレイク』や『紋章閃』の直撃を喰らってなお立ち上がる者がいるなど……! 一体あの男はなんなのだ……!?」

最強の主君であるバランの圧倒的な絶対性を信じて疑わなかったラーハルトにとって、泥塗れになりながら何度も立ち上がる八幡の姿は、理解の許容範囲を完全に超えていた。驚愕と混乱で身を乗り出すラーハルト。

だが、隣に立つヒュンケルは、静かに腕を組みながらその戦いを黙って見つめていた。その瞳には微かな信頼と、諦めに似た深い感嘆が宿っている。

「……無理もない。だがラーハルト、あの男はそういう奴なんだ」

ヒュンケルは低く落ちついた声で呟いた。

「俺はあいつほど、泥臭く『生』に執着し、渇望する人間を知らない。死にたくない、傷つきたくない……その一見すれば後ろ暗いような執念こそが、あいつの強さの源なんだ」

「生の……渇望……?」

「そうだ。だからこそ……ならばこの戦い、すでにいくつもの策が練られているはずだ」

ヒュンケルは八幡の一挙手一投足、その視線の誘導や身体の傾き、間合いの取り方までを冷徹に見極めていた。

「見ろ。一見すれば無謀な突撃や無駄な呪文の連発に見えるが……あいつの動きに何一つとして無意味なものはない。自分の『弱さ』と『相手の心理』を極限まで計算し、バランの意識を完全に誘導している。あいつにとって、この場に立つこと自体がすでに詰みの盤面を作った後なのだ……」

ヒュンケルの言葉を聞き、ラーハルトはハッと息を呑んだ。

遠くで見せる八幡の死んだ魚のような目。そこにあるのは無謀な蛮勇ではなく、己の命すら懸け件に組み込んだ、狂気的とも言える冷徹な戦術眼。

「……ただの力ではない……『知恵』と『生への執念』でバラン様に挑んでいるというのか……」

ラーハルトは全身に鳥肌が立つのを感じながら、ただただ異界の策士が織りなす「不可解な死闘」を喰い入るように見つめ続けるしかなかった。

 

そこへ、足音とともにヒュンケルとラーハルトの二人がゆっくりと姿を現した。

ラーハルトの鎧はボロボロで傷跡が痛々しいが、ヒュンケルに与えられた応急処置のおかげでしっかりと自足で歩いている。その表情には、激闘を終えた清々しさと、ヒュンケルに対する深い敬意が滲み出ていた。

二人を迎えた八幡は、死んだ魚のような目でじっとヒュンケルを見つめると、やれやれと肩をすくめた。

(……やっぱり殺さなかったか)

八幡は心の中で小さく笑った。

(相変わらず甘くて不器用な男だねぇ、元・魔王軍軍団長様は。……まあ、だからこそ信用できるんだがな)

八幡はポケットに突っ込んでいた手を片方だけ出し、ひらひらと振ってみせた。

「よお、ヒュンケル。そっちも無事ってわけか。……まあ、お前がその男(ラーハルト)を連れて戻ってくるあたり、だいたいの展開は予想ついてたけどな」

「八幡か……」

ヒュンケルは呆れたような、だがどこか安堵したような表情で八幡を見下ろした。

「無茶をしおって。……お前のことだ、どうせ生き残るためのカラクリを幾重にも仕込んでいたのだろうが、バラン相手にその身を晒すなど正気の沙汰ではないぞ」

「へいへい、お説教なら後にしてくれよ。こっちは今すぐフカフカの布団で3日くらい寝たいんだからな」

八幡がいつもの調子で不貞腐れてみせると、その背後でラーハルトが驚愕の面持ちで八幡を見つめた。先ほど遠くから目撃した「ギガブレイクを受けてなお立ち上がった狂気」と、いま目前で愚痴をこぼしている「冴えない青年」のギャップに、ラーハルトは頭を抱えたくなっていた。

「……信じられん。本当に……この男がバラン様と渡り合ったというのか……」

「ラーハルト。あいつはそういう奴なんだ」

ヒュンケルは誇らしげに、しかし苦笑いを浮かべながらそう呟くのだった。

 

 

「そもそも、俺はバランと『戦闘』なんてしてねえよ」

八幡はあくびを噛み殺しながら、呆れたように手首をブラブラと振った。

「俺がやったのは『情報提供』と『話し合いの場作り』だ。さっきのは、ちょっと気難しそうな頑固親父と腹を割って話すための、ちょっと激しい『稽古』だよ稽古」

「稽古……だと?」

バランは神魔剛竜剣の柄に手を置いたまま、どこか妙な面持ちで八幡を見つめ返した。そして、ふと試すような鋭い視線を投げかける。

「……では、もし私が貴様の言い分に耳を貸さず、初手から一切の容赦なく殺意をもって切りかかっていたらどうするつもりだったのだ?」

最強の竜の騎士からの重苦しい問いかけ。

周囲のポップやダイたちが息を呑む中、八幡は一切の躊躇もなく、死んだ魚のような目で即答した。

「一目散に逃げ出すさ。背中見せて脱兎のごとく全速力でな」

「……なっ!?」

あまりにも堂々とした前言撤回にポップがズッコケそうになる中、八幡はニヤリと不敵で歪んだ笑みを浮かべた。

「だってそうだろ? アンタみたいなプライドの高い武人がさ、背中見せて逃げ出すヤツを、後ろから斬りつけるような男じゃないってことくらい、一目見りゃ分かる」

「っ……!!」

バランは一瞬言葉を詰まらせ、それからハッと息を漏らした。

己のプライド、武人としての美学、そして暗黙の行動心理――そのすべてが、出会った瞬間からこの異界の青年に完全に把握され、盤上で弄ばれていたのだ。

「……フッ……クハハハハ……!!」

沈黙の後、バランの口から重厚な爆笑が溢れ出した。

「恐ろしい男だ……! 己の弱さすらも最大の武器とし、相手の理性と誇りすらも逃げ道に組み込むとは……! 竜の騎士たるこの私を、ここまで手のひら上で転がした人間は、後にも先にも貴様だけだ……八幡!」

バランの笑い声に、荒野を包んでいた緊迫した空気は完全に瓦解し、温かな陽光のような穏やかさが広がり始めていた。

 

「何故……一人で向かったの? 一歩間違えたら、八幡さん本当に死んでいたかもしれないのに……!」

ダイが瞳に涙を溜め、震える声で問いかけた。その表情には、助けられたことへの感謝と、大好きな仲間を失いかけたことへの強い恐怖が入り混じっていた。

八幡は頭の後ろで腕を組み、空を見上げながら、面倒くさそうに吐き捨てるように語り始めた。

「……ハッ、決まってんだろ。俺は考えに考え抜いたんだよ」

死んだ魚のような瞳が、どこか遠くを見つめる。

「バランという理不尽なまでの暴力を前にして……俺たち『全員』が、誰一人として死なずに乗り切る方法があるかをな。……だが、どれだけ頭を捻っても、どんな汚い手を使おうとしても、正面からやり合って全員が無事で済む未来なんて……1ミリも思い浮かばなかった」

ポップも、クロコダインも、レオナも息を呑んで八幡の言葉に耳を傾ける。

「戦えば、間違いなく誰かが死ぬ。ダイ、お前かもしれねえし、ポップやクロコダインのおっさんかもしれねえ。……当然、俺だって真っ先に肉塊にされる。だから俺は、途中で考えるのを諦めたんだよ」

「え……諦めた……?」

呆然とするダイに、八幡はフッと自嘲気味な笑みを向けた。

「そうだよ、諦めたんだ。で、諦めたついでに発想を変えて思ったんだよ。……『そもそも、戦う必要なんて本当にあるのか?』ってな」

「戦う……必要がない……?」

「おう。バランの目的はお前を連れ戻すこと、そして人間への復讐だ。なら、その根本にある『誤解』と『絶望』を直接解きほぐしちまえば、最初から殺し合う必要なんてなくなる。命を懸けて殴り合うより、言葉とブラフと心理戦で和解するほうが、全員が生きて帰れる確率は遥かに高かった……ただそれだけのことだ」

八幡は自分の懐を叩き、ボロボロになったコートの裾を払う。

「『誰も傷つかない世界』なんておめでたい幻想は信じちゃいねえ。だがな……『俺の身内が誰も死なない結果』くらいなら、泥に塗れてでも手繰り寄せてやるさ。……それが、俺のやり方だ」

そのあまりにもひねくれていて、けれど誰よりも優しい「自分を犠牲にしかけたエゴ」に、ダイたちは言葉を失い、ただ胸を熱くするのだった。

 

バランは神魔剛竜剣を強く握りしめ、かつて自らが犯した過ちと、拭えなかった絶望の記憶に引き戻されるように、俯きがちに呟いた。

「……八幡よ。ひとつ聞かせてくれ」

「ん? なんだよ、説教ならさっき聞いたばっかりだぞ」

「……私は、どうすればよかったのだ」

その問いは、竜の騎士として最強の力を持ちながら、愛する者を守れず、すべてを憎悪に染めてしまった男の、あまりにも深く、痛切な後悔の響きを帯びていた。魔界と地上の狭間で引き裂かれ、アルキード王国の悲劇に絶望したあの夜、自分はどうすべきだったのか――。

八幡はジト目でバランを見上げると、やれやれといった風に深いため息をついた。

「……それを俺に聞くのかよ、オッサン」

「ああ。お前だからこそ……この世界の常識に縛られない、お前だからこそ聞きたい」

まっすぐに向かってくるバランの真摯な眼差しを受け止め、八幡はボリボリと頭を掻きながら、フッと自嘲気味に笑った。

「――逃げればよかったんだよ。地の果てまでな」

「……逃げる……?」

「ああ。ソアラとダイを連れて、世界中のどこにも見つからないような、誰もいない場所に高跳びでもすりゃよかったんだよ。例えば……そうだな、『デルムリン島』とかにな」

その言葉に、ダイが「えっ……」と小さく声を漏らし、バランの目と見開かれた。

「人間がどうとか、魔王がどうとか、竜の騎士の使命がどうとか、そんなクソみたいな責任は全部放り投げちまえばよかったんだ。アンタほどの力があれば、二人を守りながら逃げ切るくらい、できただろ」

八幡は冷めた声の裏に、確かな真理を乗せて言い放つ。

「守るべきものが目の前にあるのに、世間の目とか、王国の掟とか、そういうくだらねえしがらみに縛られて身動きできなくなった結果が、あの悲劇だ。……アンタには、すべてを捨てて逃げるだけの力が最初からあったはずだぜ」

すべてを背負い込みすぎた最強の戦士へ向けられた、あまりにも勝手で、しかしどこまでも現実的で温かい「逃走」の勧め。

バランはその言葉を胸の奥で反芻するように、じっと自分の手のひらを見つめた。

もし、あの時――すべてを捨てて、ソアラの手を取り、誰も知らない果てへと逃げ出していたなら。孤独な復鬼ではなく、ただの父親として生きる未来があったのだろうか。

胸のつかえがスッと降りていくような感覚の中、バランは微かに苦笑し、そして深い安堵に満ちた表情でうなずくのだった。

 

 

「……そうか」

バランはぽつりと呟いた。その声からは、長年彼を縛りつけ、心を苛み続けていた憎悪の刺がすっかり消え去っていた。

バランは重い鎧の音を響かせながら、ゆっくりと膝をつく。そして、ダイの目線と同じ高さまで腰を落とした。

「ダイ……。いや……ディーノ」

最強の竜の騎士としてではなく、ただの一人の人間として、バランは震える手を差し伸べた。その眼差しには、愛おしさと切なさが満ちあふれている。

「顔を……よく見せてくれ。……私には、いまさら父親を名乗る資格などないかもしれん。だが……私はお前の父親だ」

「バラン……さん……」

目の前に差し出されたゴツゴツとした大きな手と、自分に向けられる温かな眼差し。

ダイは胸が締め付けられるような感覚に包まれ、どうすればいいのか分からず、戸惑いながら八幡のほうを振り返った。

八幡は、ボロボロのコートのポケットに手を突っ込んだまま、どこか照れくさそうに明後日の方向を向き、ぼそっと告げた。

「……何迷ってんだよ。そうだ……かつて世界を救った、勇者バランがお前の父親だ」

その言葉が、ダイの背中を優しく押し込んだ。

「とう……さん……っ!」

ダイの目から、ぽろぽろと大きな涙が溢れ出す。

バランは限界まで溢れ出る愛しさを抑えきれず、ダイの小さな体をその逞しい腕で力いっぱい抱きしめた。

「ディーノ……! ……ディーノ……っ!!」

かつて守れなかった最愛の妻・ソアラとの誓い。奪われた時間。それらすべてを取り戻すかのように、バランは声を上げて泣きながら、自らの血を引く我が子を強く、強く抱きしめ続けた。

荒野を渡る風が、止まっていた親子の時間をそっと包み込んでいく。

その光景を横目で見ながら

「……よかったな、ダイ…」

そう呟く八幡の横顔もまた、どこか晴れやかな温かさに満ちていた。

 

バランが愛しい我が子を胸に抱きしめ、長年凍りついていた時間がようやく溶け出すその光景を、少し離れた場所から見つめる仲間たちの表情は、みな温かな涙に濡れていた。

「……よかった……本当によかった……!」

レオナはきゅっと両手を胸の前で組み、あふれる涙を拭おうともせず、美しい瞳を潤わせている。

ポップは鼻をグズグズと鳴らしながら、自分の袖で豪快に目元をこすっていた。

「くっ……なんだよこれ……! ずりぃよ、あんなの……! 反則だろ……っ!」

クロコダインもまた、ごつい腕で目頭を力強く押さえ、戦士の誇るべき巨体を震わせながら太い涙をこぼしている。

ヒュンケルは腕を組み、静かに目を閉じてその和解の重みを受け止めていた。その隣でラーハルトもまた、主君が長い苦しみから解放された安堵に、静かに濡れた瞳を伏せている。

(……本当にな。面倒くさい話だったが……結果オーライってやつか)

少し離れた木陰の陰に立ち、ボロボロのコートの襟を立ててその様子を見ていた八幡は、誰にも気付かれないようにそっと視線を横へと逸らした。

(やれやれ……。他人の家族の感動の再会なんて見てるこっちまで胃が痛くなる……。俺はただ、誰も死なずに済む最適解を弾き出しただけだっていうのに……)

そう心の中で軽口を叩きながら、八幡は荒れた袖で自分の目元を乱暴に擦った。

だが――その指先が触れた頬には、いつの間にか、熱いものが一筋伝っていた。

どれだけひねくれてみせても、どれだけ冷徹な策士を気取っても、命を賭して守り抜いた結末がこの温かな涙であるなら。

引き攣ったような自嘲の笑みを浮かべたまま、八幡は誰にも見られないようにぐっと歯を食いしばり、こぼれ落ちる熱をそっと拭うのだった。

 

バランの背後で、その一始終を見届けていたラーハルトがゆっくりと歩み出た。

彼は膝を突き、深々と頭を垂れる。

「……ディーノ様。いや、ダイ殿。バラン様が心を開かれた以上、私の槍とこの命……これからは貴方様のために捧げましょう」

竜騎衆トップとしての気品と覚悟を込めたラーハルトの誓い。しかし、急にそんな重い忠誠を捧げられたダイは、頭を掻きながら一気に赤面した。

「え、ええっ!? 『ディーノ様』とか『忠誠』とか……そんなのやめてよ! 照れるよ……!」

ダイは困り果てたように眉を下げると、跪くラーハルトの手を照れくさそうに引っ張った。

「あのさ……そういうのじゃなくて、友達になってよ! ラーハルト!」

「……と、友達……!?」

ラーハルトは息を呑み、絶句した。

人間から疎まれ、魔族として虐げられ、バランの孤独と復讐だけを支えに生きてきた自分。そんな自分に対して、相手はあまりにも真っ直ぐな瞳で「友達」と言い切ってみせたのだ。

(このお方は……魔族であり、かつて敵であった私を……なんの躊躇もなく『友達』と呼ぶのか……)

ラーハルトの胸に、かつてない激震が走る。

(これが……これが、人々から『勇者』と慕われる者の器なのか……! バラン様が全幅の信頼を置くのも頷ける……)

その光景を離れた場所で見ていた八幡は、やれやれと首を振りながら、心の内で呟いた。

(……流石に大物すぎるだろ、あのチビっこ勇者。元敵の幹部相手にノータイムで『友達になろうぜ』は無敵すぎるわ。根っからの人たらしだな)

八幡は、死んだ魚のような目に少しだけ感心の色を浮かべながら、歪んだ笑みを零すのだった。

 

 

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