ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。   作:tomozow

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ザムザ編 16

パシッ――!!

乾いた高い音が、静まり返った場に響き渡った。

「……え?」

不意を突かれた八幡は、叩かれた右頬を押さえながら目を丸くした。目の前に立っていたのは、いつになく激しい感情を露わにしたメルルだった。

「……メルル?」

メルルの華奢な肩が、激しく上下している。その大きな瞳からは、ボロボロと溢れ出す涙が止まらない。

「どうして……どうしてそんな命を賭けるような真似をするんですか……っ!?」

普段は控えめで、一歩引いてみんなを見守っているメルルが、声を張り上げて八幡に詰め寄る。

「『稽古』だとか『ベホマで回復できる』だとか……そんな理由で、ギガブレイクの前に立ち塞がるなんて……っ! 一歩間違えたら、本当に死んでいたんですよ!? あなたが死んでしまったら……残された私たちはどうすればよかったんですか!?」

「いや……だから俺は計算の上で……」

「計算なんて関係ありません! 自分の命をチップにして賽を投げているだけじゃないですか……っ!」

メルルの瞳に映る八幡は、冷徹な策士などではなかった。

自分の命すらも軽視し、誰かを守るため、全員を生かすためという大義名分の下で、平然と死の淵へ飛び込んでいく――まるで『ギャンブルに狂った人間』そのものに見えていたのだ。

自分の命を賭け金にして、土壇場で大穴を当ててみせる恐ろしい賭博師。

それが、メルルから見た比企谷八幡という男の、狂気的な真実だった。

「もう……二度と、こんな危険なギャンブルなんてしないでください……っ! お願いですから……!」

メルルは八幡のボロボロのコートの胸元にしがみつき、泣きじゃくりながら拳を何度も打ち付けた。

叩かれた頬に残る痛いほどの熱と、自分の胸を濡らす温かな涙の重み。

八幡は死んだ魚のような目をパチクリさせ、ぐうの音も出ないといった様子で、ただ気まずそうに天を仰ぐことしかできなかった。

「……へいへい。悪かったよ……。二度とやらねえから、そんな泣くなって……」

頭をボリボリと掻きながら呟く八幡の言葉は、いつになく苦々しく、そしてどこか申し訳なさそうに響いていたのだった。

 

「ギャンブルなんかじゃねえさ」

胸元にしがみつくメルルの頭に、八幡はそっと、不器用な手つきでぽんと手を置いた。

「本当のギャンブルってやつはな……大魔王バーンの時だけだよ」

その言葉に、ポップもヒュンケルも、そしてバランまでもが息を呑んだ。

八幡の死んだ魚のような瞳に、どこか冷徹で、けれど深遠な光が宿る。

「俺が何故バランと直接剣を交えたか……。まあ、自分の経験値を叩き上げるためってのもゼロじゃねえ。だがな……一番の理由は別だ」

八幡は叩かれた自分の頬を撫でながら、自嘲気味に息を吐き出した。

「結局のところ……命懸けで身体を張らねえ奴の口先だけの説得なんて、誰の心にも響かねえんだよ。綺麗事だけ並べて高みの見物決め込んでる奴の言葉なんか、傷ついて絶望してる奴(オッサン)からすりゃ、ただのノイズだろ」

メルルが顔を上げ、濡れた瞳で八幡を見つめる。

「それにさ……アバン先生が言っていたんだ」

八幡は遠くを見据えるように、静かに言葉を繋いだ。

「『正義なき力が無力であるのと同様に、力なき正義もまた無力である』……ってな。理屈や正しい心を伝えたいなら、それを相手に聞き入れさせるだけの『覚悟』と『力』の証明が要るんだよ。俺みたいな無能がバランの前に立つには、あの土壇場で命を張るしかなかったんだ」

その言葉を静かに聞いていたバランは、深く、深く頷いた。

「……その通りだ、八幡」

バランは重厚な声を響かせ、力強い眼差しを八幡に向けた。

「あの時、貴様がただの口先だけの男であったなら、私は貴様の言葉に耳を傾けることも、ましてや己の非を認めることもなかっただろう。貴様が自らの命と覚悟を賭けて立ち塞がったからこそ……私の頑なな心は破られたのだ」

言葉の重み、覚悟の重み。

単なる自己犠牲でも、無謀なギャンブルでもなく、すべては「対話」を成立させるための泥臭い戦略だったのだと知り、メルルは涙を拭いながら、八幡の胸元をぎゅっと抱きしめ直すのだった。

 

メルルは、胸に顔をうずめたまま、八幡のボロボロのコートの感触を噛み締めていた。

占い師であるメルルには、未来の断片が見えていた。

確定していない、けれど黒く不穏な未来の影――「誰かが命を落とす」か、「死の縁を彷徨うことになる」という残酷な予兆。

メルルは恐れていた。仲間の中の誰かが倒れ、二度と戻らないのではないかと。

だが、まさか八幡がただ一人でバランの元へ乗り込み、言葉と命を刃にして「竜の騎士」と真っ向から向き合うなど、誰が予想できただろうか。

死の縁を彷徨ったのは、確かに八幡自身だった。

しかし――その死闘の先に手に入れたのは、絶望的な未来などではなく、かつてないほど暖かく、希望に満ちあふれた「全員が無事で結ばれた結末」だったのだ。

(私の占いすらも裏切って、未来をねじ曲げてしまう……)

メルルにとって、八幡は完全に「規格外」の存在だった。

運命の筋書きすらも、己のひねくれた知恵と命懸けのエゴで書き換えてしまう男。

(この人は……本当に危険な人だ……)

放っておけば、きっとまた平然と己の身を賽の目に投げてしまうだろう。「これしかないから」「仕方がなかった」と死んだ魚のような目で笑いながら、傷だらけになってみせるのだ。

そして――何より危険なのは。

(私の心を……こんなにも狂わせてしまう……っ)

八幡の胸の温もりに触れているだけで、メルルの胸の奥で心臓が破裂しそうなほど激しく暴れ続けていた。怒り、安堵、そして言葉にできない愛おしさがぐちゃぐちゃに混ざり合い、どうしても収まってくれない。

「……メルル? おい、本当に大丈夫か? 息絶えてねえか?」

頭の上から、八幡の気まずそうな、どこか情けない声が降ってくる。

「……大丈夫じゃありません……っ」

メルルは胸元に顔をうずめたまま、小さな声でぎゅっと八幡の服を強く握りしめた。

「八幡さんが……こんな無茶ばかりするから……全然、大丈夫じゃないんです……!」

その言葉の裏にある、占い師ではなく「一人の少女」としての感情に気づく者は、まだ誰もいなかった。当の八幡本人も含めて――。

 

 

「……ダイ、いや、ディーノを鍛えたい」

バランは自らの大きく重厚な掌を見つめ、静かに、だが強い決意を込めて語り出した。

「私がこの子に遺し、伝えることができるのは……この『力』と戦技のみだ。大魔王バーンとの戦いは、これまでにない壮絶なものとなる。……ディーノを死なせぬためにも、ソアラの為にも、私のすべてを授けたい」

父親としての不器用な情愛と、最強の戦士としての覚悟が滲むその言葉。

だが、横で聞いていた八幡は、死んだ魚のような目でぼそっと突っ込みを入れた。

「いや、力だけじゃねえだろ。ソアラさんの思い出話とか、昔どんなプロポーズしたとか、そういう人間らしい話も山ほどあるだろ。戦いばっかじゃなくて、親父としての会話を頑張れよな」

「っ……む、貴様は相変わらず容赦のない奴だな……」

八幡の身も蓋もない突っ込みに、バランは気まずそうに咳払いをして見せた。

そこへ、一歩前に進み出たのはヒュンケルだった。鎧を鳴らし、その眼光に静かな闘志を宿してバランを見据える。

「その修行……俺も付き合わせてもらおう」

「ヒュンケル……?」

「剣において、俺は誰にも負けるわけにはいかないのだ。……たとえ相手が、最強と謳われる『竜の騎士』であろうとな」

凄まじい気迫を放つヒュンケルに対し、バランは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに武人らしい不敵な笑みを口元に浮かべた。

「ふっ……いいだろう。元魔王軍軍団長ヒュンケル……お前の剣、受け止めてみせよう」

こうして、ダイとバラン、そしてヒュンケルによる「史上最強の特訓」が決定した。

一方、槍を背負い直したラーハルトは、八幡たちのほうへと歩み寄ってきた。

「私は……八幡殿たちと同行させてもらう。バラン様がダイ殿の修業に専念される間、貴方方の身の安全を守る警護役としてな」

「げっ……マジかよ。こんな物騒なイケメンボディガードが付いてくるとか、俺の影がさらに薄くなるだろ……」

八幡は心底嫌そうな顔をしてみせたが、ラーハルトの表情には八幡に対する深い尊敬の色が滲んでいた。

「フフ、謙遜されるな。八幡殿の『知恵』と『策謀』……この目でもっと学びたいのだ」

「学ばなくていいから! 俺のマネしたら人間として終わるからな!?」

頭を抱える八幡の周りで、ポップやレオナたちがドッと吹き出した。

激闘の果てに生まれた新しい絆と、大魔王バーン打倒へ向けた新たな一歩。それぞれの役割を胸に、一行は次なる決戦への準備へと動き出すのだった。

 

 

「――よし、俺たちはまずロモスへ向かう」

八幡はボロボロのコートの肩をすくめ、怠そうに方向を指し示した。

「……だが! その前にまずメシだ。全員で温かいもん食うぞ。マジで生きるか死ぬかの極限状態だったんだからな。俺のMP(メンタルポイント)もHPも完全にゼロだ。心身ともにヘトヘトなんだよ」

「賛成ーーっ!!」

真っ先に叫んだのはポップだった。

「言われてみれば腹ペコだし、胃袋が背中にくっつきそうだぜ! バランと八幡のあのド迫力のやり取り見てるだけでも、寿命が5年くらい縮んだからな!」

「ふふ、そうね。みんなで無事に帰ってこられたお祝いも兼ねて、美味しいものを食べましょう!」

レオナも笑顔で頷き、メルルやクロコダインも安堵の表情を浮かべた。

一行はパプニカの荒野を抜け、近くにある小さな村の酒場兼食堂へと立ち寄った。

木造の香ばしい匂いが漂う店内に、八幡、ポップ、レオナ、クロコダイン、メルル、そしてラーハルトという、端から見ればあまりにも奇妙で豪華な一行がなだれ込む。

「おやじ、一番デカい肉料理とパン、あとスープを人数分! あと俺には一番効く甘い飲み物な!」

八幡が手慣れた様子で店主に注文を叩きつけると、木製の丸テーブルに次々と湯気の立つ料理が運ばれてきた。

「うひょー! うまそう!」

ポップがガツガツと肉に食らいつき、ダイやバランたちが特訓に向かったことを思い出しながら、レオナがふっと息をつく。

「……それにしても、まさかバラン様とこんな風に和解できるなんて、夢みたいだわ」

「全部、この八幡殿の『常識外れの策』のおかげだな」

整った顔立ちで静かにパンをちぎりながら、ラーハルトが真面目な顔で八幡を見る。

「八幡殿。先ほどの『逃げる』という発想……実に感服した。我々竜騎衆はバラン様の誇りと使命ばかりを重んじ、バラン様個人の幸せなど考えもしなかった。貴殿の言葉は、まさに目から鱗だった」

「……頼むからその綺麗な顔で俺を崇めるような目で見ないでくれ。痒くなる」

八幡はスープをズルズルと啜りながら、心底嫌そうに顔を背けた。

「俺はただ、一番面倒くさくない方法を選んだだけだ。正面からバランと殺し合うなんて労力、考えただけで吐き気がするだろ。省エネだよ、省エネ」

「へっ、相変わらずひねくれてんなぁ」

ポップが呆れつつも嬉しそうに笑う。

「でもさ、八幡。お前がいてくれて本当に助かったよ。お前がいなきゃ、俺たち今頃全滅してたか、ダイとバランが殺し合ってたかのどっちかだ」

「……別に、感謝されるようなことじゃねえよ」

八幡はボソボソと呟き、肉料理を口に運んだ。

死線をくぐり抜けた後、温かい料理を囲んでくだらない雑談を交わす時間。

(……まあ、こういう無駄でくだらない時間のために、命懸けのハッタリかましたと思えば……悪くはないコストパフォーマンスだったのかもな)

八幡は死んだ魚のような目を少しだけ和らげ、賑やかなテーブルの隅で、静かにパンをかじり続けるのだった。

 

 

「ぴぴーっ!」

賑やかなテーブルの空中に、パタパタと翼を羽ばたかせながら、黄金色に輝く奇跡の生命体が飛んできた。

「お、ゴメちゃん! お前も来たか」

八幡はスープの匙を止め、丸っこい体を浮かせるゴメちゃんを見上げた。ゴメちゃんは嬉しそうに八幡の周りをくるくると一回りすると、ポンと八幡の頭の上に突撃してちょこんと乗っかった。

「……にしても、なんで『ゴールデンメタルスライム』なんだろうな」

八幡は頭上の黄金の固まり(?)を軽くツンツンと突きながら、死んだ魚のような目で首をかしげた。

「メタルって感じの硬質さでもねえし、そもそもスライムというより羽の生えた球体だろ。メタル系特有の『即逃げ出すすばやさ』もねえしな。知ってるか? ダイ」

「えっ? うーん……俺もよく分からないや。デルムリン島にいた時から、ゴメちゃんはずっとゴメちゃんだったし……」

遠くで特訓の準備を始めていたダイが、不思議そうに首をひねりながら答えた。

「そうか。まあ、正体が何だろうが関係ねえか。ゴメちゃんも立派な俺たちの『仲間』だからな」

八幡は頭からゴメちゃんをそっと手の上に乗せると、その丸い体を優しく撫でてやった。

「よし、ゴメちゃん。お前もダイ達と一緒に特訓行ってこいよ。ダイのメンタルケア担当としてな。あいつ、バランとヒュンケルのスパルタ地獄でメンタルやられるかもしれないから頼んだぞ」

「ぴぴっ! ぴぴーっ!」

ゴメちゃんは八幡の言葉をちゃんと理解したように、力強くコクコクと頷いた。そして翼を大きく羽ばたかせると、ダイの元へと元気に飛んでいったのだった。

「……ふっ、あの小さな奇跡のスライムも、八幡殿にはすっかり懐いているのだな」

ラーハルトが感心したように呟く。

「いや、単に俺が動かないから都合のいい止まり木だと思われてるだけだろ……。さて、腹も膨らんだし、俺たちロモス組もそろそろ移動の準備をするか」

八幡はやれやれと重い腰を上げ、ボロボロのコートを羽織り直すのだった。

 

 

その頃――ロモスへと続く街道を、武闘家としての修業を終えたマァムと、彼女を慕う空手ネズミのチウが歩を進めていた。

「ねえねえ、マァムさん!」

小さな体で一生懸命にマァムの後に続きながら、チウが興奮気味に耳をぴくぴくと揺らす。

「これから合流するっていう、その『ダイくん』たちというのは、一体どのような人たちなのですか? このチウ、事前に把握しておきたいのです!」

「ふふ、そうね……」

マァムは歩みを緩め、愛おしそうに遠い空を見上げた。過酷な死闘をともに潜り抜けてきた大切な仲間たちの顔が、ひとつひとつ脳裏に浮かぶ。

「ダイはね、本当に真っ直ぐで純粋な男の子よ。どんなに強い敵が相手でも、諦めずに立ち向かう本当の勇気を持っているわ」

「ほうほう! さすがは勇者ダイ殿!」

チウが大きく頷く。

「ポップはね……最初はちょっぴり臆病で逃げ腰だったけれど、いまじゃ誰よりも頼りになる魔法使いよ。大切な人のためなら、どんな恐怖だって乗り越えられる……本当の『勇気』を知っている子なの」

「なるほど! 成長する男、ポップ殿ですね!」

チウが感心したように目を輝かせる。

「そして……八幡は」

マァムはそこでふと言葉を止め、少しだけ困ったような、けれどとても愛おしそうな苦笑いを浮かべた。

「八幡は……そうね、一言ではとても言えないわね」

「一言では言えない……? 一体どんな怪物なのですか!?」

「ううん、怪物なんかじゃないわ。……死んだ魚みたいな目をしていて、口を開けば愚痴と屁理屈ばかり。自分はひねくれてて嫌われ者だって言い張ってるけれど……」

マァムは優しく目を細め、言葉を紡ぐ。

「……本当は、誰よりも優しいんじゃないかと私は思うの」

「えっ……誰よりも……?」

「ええ。自分が傷つくのも、悪役を買って出るのも全く厭わないで……自分以外の誰も傷つかない方法を、泥だらけになりながら必死で探すような人だから。……みんな、表現の仕方は全然違うけれどね」

マァムは胸の前でそっと拳を握りしめ、力強くチウに向かって微笑んだ。

「全員、間違いなく最高の『勇者の精神』を持っているわ!」

「おおおっ……! ダイ殿、ポップ殿、そして八幡殿……! 早くお会いしたくなりましたぞ、マァムさん!」

チウが鼻息荒く拳を突き上げる。

マァムたちの足取りは自然と軽くなり、仲間たちが待つロモスの地へと急ぐのだった。

 

 

ロモスの王城へと続く道並みを歩きながら、八幡はだるそうに首を回していた。

(……まあ、ぶっちゃけロモスにあんまり来る必要はないんだよな。破邪の剣が置いてあるわけでもねえし。……まあでも、修行を終えたマァムと再会できるなら、移動した甲斐はあったか)

そんな八幡の物思いを破るように、横を歩くラーハルトが静かな声で問いかけてきた。

「……八幡殿。ひとつ尋ねてもよろしいか」

「ん? なんだよ」

「……八幡殿にとって、『戦い』とは何だ?」

不意に投げかけられた重厚な問いに、八幡はやれやれと頭をボリボリ掻いた。

「なんだよ急に。禅問答か? そういう哲学的で小難しいのはヒュンケルにでも聞いてくれよ」

「いや……貴殿の戦い方は、我々武人や魔族のそれとは根本から異なっている。ゆえに知りたいのだ。戦いに対する貴殿の思索を」

真面目な顔でまっすぐ見つめてくるラーハルトの綺麗な瞳に根負けし、八幡は死んだ魚のような目を少し細めながら、ぽつりと語り出した。

「……『戦い』ねぇ。俺にとっての優先順位は至極シンプルだ。第一に……『できるだけ避ける』」

「避ける……?」

「おう。無駄な摩擦を起こすな、関わるな、スルーしろ。それが一番コスパがいい。で、どうしても避けられなくなったら……第二に『逃げる』」

八幡は平然と指を折りながら続ける。

「プライドもなにも投げ捨てて脱兎のごとく全速力で逃げる。生き残ることが最優先だからな。……そして、どうしても逃げ道も塞がれて、腹を括るしかない時……そこで初めて『戦う』んだよ」

ラーハルトは八幡の言葉を噛みしめるように耳を傾けている。八幡はふっと自嘲気味な笑みを浮かべ、最後に付け加えた。

「ただし……その最後の『戦う』段階に入った時にはな」

「……入った時には?」

「その時にはすでに、俺の脳内(あたま)の中で……『戦闘は終わってなければならない』、かな」

「ッ……!?」

ラーハルトの息が止まった。

「相手の性格、弱点、狙い、プライド、逃げ道、全滅を回避するためのあらゆるブラフや心理誘導……。それらを全て計算し尽くし、盤面を完成させてからしか俺は戦場に立たない。実際に刃を交えるなんてのは、ただの答え合わせで消化試合に過ぎねえんだよ。……正面衝突の力勝負なんて、ギャンブル以下の愚行だろ」

整ったラーハルトの顔が、驚愕と戦慄で大きく引き攣った。

目の前にいる男は、剣の技術も、膨大な魔力も持たない。

だが――刃を交える以前に相手の精神を解剖し、戦う前に勝利(あるいは和解という最適解)を確定させてから盤上に現れる。

(なんという……なんという恐ろしい男だ……! 己の無力さを完璧に把握しているからこそ辿り着いた、究極の『不敗の戦術』……!)

ラーハルトの背中に冷や汗が伝わる。武人としてのプライドや力に頼る己の青さを突きつけられたような衝撃に、彼はただただ圧倒されるのだった。

「……おい、なんでそんな顔してんだよ。だから言ったろ、俺のマネなんてするもんじゃないってな」

八幡はやれやれと肩をすくめ、ロモスの街並みへと歩みを進めるのだった。

 

 

ロモスの城門前で待っていた八幡たちの視界に、街道から歩いてくる懐かしい人影が飛び込んできた。

修行を終え、凛とした佇まいを纏ったマァムと、その後に一途についてくる小さな空手ネズミのチウだ。

「マァム……!」

「みんな……っ!」

駆け寄ってきたマァムは、弾んだ声で再会を喜んだ。そして、真っ先に目の前に立ったポップの顔をじっと見つめると、パッと表情を輝かせた。

(……ポップ、顔つきが変わったわ。迷いが消えて……なんだかすごく男らしくなった……!)

マァムのその視線に気づいたポップは、気恥ずかしそうに鼻の頭をかきながら、へへっと口元を緩めた。

「よお、マァム! お前こそ……いっぱしの武闘家らしくなったじゃねえか。その道着、めちゃくちゃ似合うじゃねえか!」

「ふふ、ありがとうポップ!」

お互いの成長を感じ取り、笑顔を交わし合う二人。

そこへ、マァムの足元から一歩前に躍り出たチウが、小さな胸をぐっと張って八幡たちを見上げた。

「ハッ! はじめまして、みなさん! 僕の名前はチウ! マァムさんの弟子にして、武闘家として修行中の身にありますぞ!」

ぴんっと短い尾を立てて礼儀正しくお辞儀をするチウ。

その姿を、八幡はしゃがみ込んで死んだ魚のような目で見つめた。

「チウ、か……」

八幡はボリボリと頭を掻きながら、ふっと口元を歪めた。

「……ほう。小さい体に似合わず、いい目をしやがる。お前……そのうち『獣王』にでもなる器なんじゃねえの?」

「なっ……! じゅ、獣王……!?」

思いがけない大絶賛(?)に、チウは耳をピクピクと激しく揺らし、一瞬で顔を真っ赤にした。

「お、お目が高いですぞ、八幡殿……! このチウ、まだ未熟ものではありますが……まさか初対面で僕の内に秘めた『王の資質』を見抜くとは……! えへ、えへへへ……!」

照れ隠しに両手で顔を覆いながらモジモジと身をよじるチウを見て、ポップが呆れ顔で突っ込みを入れる。

「おいおい八幡、適当なこと言って調子乗らせんなよ……!」

「適当じゃねえよ。根拠のない自信と無駄な行動力を持ってる奴が、一番組織のトップに向いてたりするんだよ。……まあ、下で働く奴は胃に穴が空くけどな」

八幡はやれやれと肩をすくめつつ、修行を経てたくましくなったマァムと、どこか誇らしげなチウの姿に、心の中でそっと安堵の息を漏らすのだった。

 

ロモス王国で開催される武術大会。熱気に包まれた会場には、世界中から集まった猛者たちと、それを一目見ようと詰めかけた観客たちの歓声が地鳴りのように響き渡っていた。

観覧席の隅、日陰になった壁に背を預けながら、八幡はボロボロのコートの襟を立てていた。死んだ魚のような目を薄く開け、賑わう会場全体の空気や観客の表情、出場者たちの視線や立ち振る舞いを静かに観察する。

(……チウの奴、張り切って出場登録しに行きやがったな。まあ賑やかしにはちょうどいいが……問題はそこじゃねえ)

八幡は群衆のざわめきに紛れるように、ふっと視線を斜め上――VIP席や裏方の出入り口付近へと滑らせた。特定の人物と直接目を合わせないよう、焦点孔を外したまま意識の網だけを鋭く広げる。

(……そこにいたか、ザムザ)

妖気の混じった妙な違和感。大会の裏で蠢く、魔王軍の影。

超魔生物の研究者であり、妖魔学士ザムザ――八幡はその正体と狙いを最初から織り込み済みだった。

(視線を直接合わせたら察知される。奴の狙いは武闘家たちの肉体データとサンプルの回収……。まあ、いかにも研究者気取りのトカゲ野郎が考えそうなことだ)

だが――。

八幡がどれだけ気配を殺し、あえて視線を外して思考を巡らせていようとも。

高台の陰から会場を見下ろしていたザムザの蛇のような眼光は、まっ振りに八幡の佇む日陰へと注がれていた。

ギロリ、と。

殺意と、それ以上に「底知れぬ気味悪さ」を覚えたかのような粘着質な眼光が、八幡を射抜いている。

(……ちっ、マジかよ。なんで俺のこと睨んでんだよあのトカゲ)

八幡は心の中で盛大に毒づいた。

(俺はただの無力な一般人だぞ? バランの件で魔王軍の連絡網に『危険な目をした男』として変な手配書でも回ってんのか? 勘弁してくれよ……俺は観客席でポテチ食いながらチウがボコられるのを生温かく見守りたいだけなんだよ……)

冷や汗をひとつ垂らしながらも、八幡は顔色一つ変えず、あくびを噛み殺すフリをして視線を明後日の方向へと逸らした。

既に盤上のコマは配置され始めている。

ザムザの企みをどう叩き潰し、誰一人死なさずにこの大会を乗り切るか――八幡の脳内(あたま)の中で、早くも静かな「答え合わせ」の計算が始まりつつあった。

 

観客たちの割れんばかりの歓声が、ロモスの武闘大会会場に響き渡る。

マァムは武闘家としての圧倒的な身こなしと連撃で、並み居る猛者たちを相手に順調に勝ち進んでいた。その鮮やかな戦いぶりに、ポップやレオナたちも大興奮で歓声を送っている。

だが――予選が進み、会場の熱気が最高潮に達したその瞬間。

突如として空気が凍りつき、会場の中央に禍々しい邪気が爆発的に広がった。空間が歪み、異形の手足と醜悪な異形を纏った男――妖魔学士ザムザが姿を現す。

「ヒヒヒ……! 大勢の武闘家どもが集まってくれたおかげで、最高の実験材料が揃ったぞ……!」

観客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、ザムザが邪悪な笑みを浮かべた次の瞬間には――

「動くなよ、トカゲ野郎」

すでに八幡、ポップ、そしてラーハルトの三人が、完璧な連携でザムザの退路を断つように立ちふさがっていた。

いち早く異常を察知して動いた八幡の手際と、間髪入れずに踏み込んだポップとラーハルトの速度。予想以上の反応の早さに、ザムザは一瞬目を剥いたが、すぐにニチャリと歪んだ笑みを深めた。

「ヒヒッ……来たか、比企谷八幡……! バラン様を懐柔し、魔王軍の計画を幾度となく邪魔した悪名高き策士……!」

ザムザの蛇のような眼光が、八幡を蛇蝎のごとく睨みつける。

「フレイザードの敵(かたき)、ここで取らせてもらうぞ……!!」

その言葉を聞いた八幡は、ボロボロのコートのポケットに手を突っ込んだまま、死んだ魚のような目をだるそうに向けた。

「ああ? フレイザードの敵ぃ……? なんだお前、あいつの友達か?」

「友達ぃ!? 馬鹿を言うな!!」

ザムザは吐き捨てるように嘲笑し、己の爪をギチギチと鳴らした。

「魔族や百獣の魔物どもを見下し、己の欲望と成果のためだけにすべてを利用する……! フレイザードと私に『友情』などという生ぬるいものがあるわけがなかろう! 強いて言うなら……『同類』よ!!」

その歪んだ自己主張と選民思想を平然と言い放つザムザ。

「なるほどねぇ……」

八幡はやれやれと首を振り、隣のポップとラーハルトに目配せしながら、冷めた声で呟いた。

「同類ねぇ。……自分の成果のために周囲を駒としか思ってねえって意味じゃ、確かに似たもの同士だ。だがな、同類を気取るなら……あいつがどうやって滅びたかくらい、ちゃんと学習しとくべきだったな」

 

「知っているさ。消滅呪文を使い、お前がそれを跳ね返したのだろう?……フフフ、あいつが最後にその呪文を使えるように手を貸してやったのは、この私だ!」

ザムザは己の知識と工作を誇るように、邪悪な笑みを浮かべて言い放った。

八幡はその言葉を聞き、ボリボリと首筋を掻きながら、小さく息を吐き出した。

「……そうか」

死んだ魚のような目が、少しだけ沈み込む。

「そこまでの覚悟だったか……フレイザード」

己の身を焼き尽くすリスクすら飲み込んで、最期まで意地と勝利に執着した氷炎将軍の姿が脳裏をよぎる。八幡はゆっくりと視線を上げ、ザムザを冷たく見据えた。

「なら……確かに、あいつの仇は俺だな」

ポケットから片手を出し、挑むようにザムザへと向けた。

「来いよ、トカゲ野郎」

「フン……! 魔法も使えぬ人間風情が、増長するなよ!!」

ザムザは激昂し、異形の爪を振りかざして八幡へと襲いかかってきた。

 

 

襲いかかってきたザムザに対し、八幡は避ける素振りすら見せず、死んだ魚のような目のまま即座に呪文を詠唱した。

「――『セブンアイス』」

「な……ッ!?」

八幡の指先から放たれたのは、連続して繰り出される氷の弾丸――【ヒャド】の怒涛の7連発!

ドガガガガガッ!!

「ぐあぁっ……!? が、顔面ばかりを……ッ!?」

容赦なく顔面に直撃した猛烈な氷の連撃に、ザムザは悲鳴を上げて後退した。魔法など使えないはずのただの人間が、間髪入れずに低階級呪文を高速連打してきたという異常な戦術に、ザムザの顔面は氷づけになりながらも驚愕に歪む。

「……ッ、ほう……ッ! 魔法を使えぬハッタリ野郎かと思えば、そんな奇怪な呪文の扱い方をするとは……! ククク……面白い、実によいデータが取れそうだ……ッ!」

凍りついた顔をバリバリと削り落としながら、ザムザは邪悪な研究者としての本性を露わにし、ニヤリと粘着質な笑みを浮かべた。

それに対し、八幡はボロボロのコートのポケットに手を突っ込み直し、やれやれと首を振って戯けてみせた。

「いやぁ、俺のデータなんて取っても何の参考にもならんと思うぞ? 俺の戦い方はただの省エネだからな」

「ふん、強がりを……! その屁理屈ごと、私の実験体にしてくれるわ!」

八幡の飄々とした態度に再び苛立ちを募らせるザムザ。だが、その裏で八幡の瞳は冷たく冴え渡り、ポップやラーハルト、そして駆けつけてくるマァムたちとの連携のタイミングを、寸分狂わず見極め始めていた。

 

八幡は静かに腰の鞘へと剣を納めると、ボロボロのコートの袖をゆっくりと捲り上げた。

そして、武器を完全に手放した状態で、すっと拳を構える。

「……おいおいおい!? なんで剣を使わないんだよ八幡ッ!?」

後ろで見守るポップが目玉を飛び出さんばかりにして叫んだ。ただでさえ体力的にも攻撃力的にも圧倒的に不利な人間が、異形の皮膚を持つザムザ相手に生身の拳で挑むなど狂気の沙汰だ。

「フハハハッ! 愚か者が! 武器を捨てるなど自殺行為だぞ!!」

ザムザは嘲笑いながら、鋭い爪を振るって拳を打ち込んできた。

ドカッ!!

八幡の泥臭い突きの拳と、ザムザの異形の拳が正面から激突する。互いの拳が皮肉な重音を響かせ、八幡の拳からは血が滲み、ザムザの顔面にも鈍い衝撃が走った。

「ぐっ……!? 貴様……ッ!」

殴り返されたザムザが顔を歪めて後退する。八幡も拳の激痛に顔をしかめながら、死んだ魚のような目でザムザをまっすぐに見据えた。

「……そうだよな。友達の……『同類』の仇ってのはさ」

八幡は血の滲む拳を握り直し、ボソッと呟いた。

「小賢しい刃物や魔法なんかじゃなくて……やっぱり自分の『手』で直接殴りてえもんだよな」

「っ……!?」

ザムザの息が止まった。

己をただの実験体や異形としてではなく、フレイザードという「同類」の仇を討ちにきた一人の存在として真っ向から受け止め、その痛みを生身の拳で刻み込もうとしている。

(こいつ……わざわざ己を危険に晒してまで……そのために剣を納めたというのか……!?)

八幡の内に秘められた、ひねくれつつもどこまでも泥臭い「覚悟」と「流儀」。

ザムザはその底知れぬ狂気と優しさに、背筋が凍りつくような戦慄を覚えるのだった。

 

「貴様……ッ! 舐めた真似を……ッ!!」

生身の拳で叩き込まれた痛撃と、己のプライドを揺さぶる言葉に、ザムザは顔を真っ赤にして激昂した。異形の爪を研ぎ澄まし、殺意をむき出しにして八幡へ飛びかかる。

「いや……そうでもねえよ」

八幡は冷ややかに言い放つと、素早く後ろへ跳んだ。

「殴らせてやるのはここまでだ。俺は痛いのが大嫌いなんでね」

言葉が終わるか終わらないかの瞬間――。

「『ヒャド』!」

足元へ放たれた氷の呪文が、ザムザの踏み込みをわずかに滑らせて体勢を崩す。間髪入れずに八幡は低く身を沈め、納めていた剣を一気に抜き放った!

「――『大地斬』!!」

剛剣の閃光が、撹乱されたザムザの顔面スレスレを駆け抜ける。

ジャキンッ!!

鋭い打撃音とともに弾け飛んだのは、ザムザの頭部ではなく――彼の額に埋め込まれていた怪しい宝石状の飾りだった。

「ぐああぁっ……!? 額の宝石が……ッ!?」

後方へ激しく転がり、額を押さえるザムザ。八幡は剣についた微かな血と砕けた飾りの破片を死んだ魚のような目で見下ろし、だるそうに剣を鞘へと戻した。

「ふう……これで、ザボエラに研究は渡らねえだろう」

八幡がボソリと呟いたその一言に、ザムザの全身が凍りついた。

「き、貴様……っ!! 何故……何故それを……ッ!?」

ザムザの目が驚愕と恐怖で見開かれる。

額の飾りは、この戦闘で得られた武闘家たちの肉体データや八幡たちの戦闘記録を、影から遠隔で観測している実父・妖魔司教ザボエラへとリアルタイム送信するための重要デバイスだった。誰にも明かしていないはずのその仕掛けを、この男は最初から見抜いていたのだ。

「何故って……お前みたいな研究者タイプの出たがりが、わざわざ現場にノコノコ出てきてデータを取るわけねえだろ」

八幡はボリボリと頭を掻きながら、心底呆れたように鼻で笑った。

「後ろにいる性格の悪い『老害親父』に成果をアピールして認めてもらいたい……けど、直接手柄を横取りされるのはムカつくから遠隔送信で証拠を残す。……受験生や就活生がやりそうな分かりやすい承認欲求の現れだよ。お前の行動パターンなんて、最初から透けて見えてんだよ」

「っ……!!」

己の深層心理と隠し手札を完璧に暴かれ、ザムザはぐうの音も出ず、屈辱に震えあがるのだった。

ザボエラへのデータ送信を阻止し、ザムザの精神的な優位を完全に打ち砕いた八幡。追い詰められるザムザ。

 

「……お前、間違いなく死ぬぞ?」

八幡はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、死んだ魚のような目で冷たくザムザを見下ろした。

「まあ、それでも向かってくるならこっちだって手は抜かねえけどな。……だが、果たして命をかけるほどの価値があるのか? あの『父親』に」

「ッ……!!」

八幡の静かで、しかし核心を抉るような問いかけに、ザムザの全身が激しく跳ね上がった。

「ザボエラみたいな奴が、息子の成果を素直に喜んで褒めてくれるとでも思ってんのか? 失敗すればあっさり捨て駒にし、成功すれば手柄を自分のものにする。……そんな親父の評価のために命を投げ出すなんて、コスパが悪すぎるだろ」

「黙れ……黙れ黙れ黙れぇぇッ!!」

ザムザは顔を真っ赤にし、額から血を流しながら狂わんばかりに叫んだ。

「親父のことは……アイツのことは口にするなあああッ!!」

八幡の洞察は、ザムザがもっとも触れられたくなかった劣等感とトラウマを容赦なく暴き立てていた。父親に認められたいという歪んだ承認欲求と、裏切られるかもしれないという恐怖。その内面をすべて見抜かれたザムザは、怒りと屈辱で正気を失いかけていた。

「クックック……ハハハハッ! 良い気になるなよ人間どもがぁッ!」

ザムザの体から、禍々しい邪気と肉体の変異が爆発的に溢れ出す。

「データを送れぬのなら、ここで貴様ら全員を喰らい、この肉体に取り込んでしまえば済むこと……! 我が最高傑作の姿……『超魔生物』の糧となれぇぇッ!!」

異形の肉体が膨れ上がり、武闘大会の会場を恐怖で包み込んでいく――!

 

 

「――させねえよ」

変異を起こそうと膨れ上がるザムザの動きを予測し、八幡は素早く魔力を練り上げ指を掲げた。

「『ライデイン』!」

轟音とともに天空から奔流のような電撃が迸り、変貌の兆しを見せていたザムザの直撃を貫く。

「が、がぁっ……!?」

魔導の直撃を受けたザムザは、凄まじい痺れと衝撃に白目を剥き、そのまま糸の切れた人形のようにガクンと崩れ落ちて地面に沈んだ。変異は未然に防がれ、静寂が戻る。

周囲の観客やポップたちが呆然と見つめる中、八幡はやれやれと息を吐き、すぐ傍で控えていたラーハルトの方へと振り返った。

「……ラーハルト」

「なんだ、八幡殿」

「少し……あいつと話をさせてくれないか。もちろん、俺一人じゃなくて、お前の同席が必要だ」

八幡のその言葉に、ラーハルトはわずかに眉をひそめた。

「私を?……なぜだ」

「あいつに必要なのは、親父の呪縛から逃れるための視点だ。……だが、人間だけの言葉じゃ、あいつの歪んだプライドは一生意地を張り続けるだろうしさ」

八幡は気だるそうに、しかしどこか真摯な目でラーハルトを見据えた。

「人間でもあり、魔族でもある……お前のその境遇と、バランの背中を見てきたお前だからこそ言える言葉があるはずだ。……頼むわ、ボディガード殿」

ラーハルトはしばらくの間、静かに八幡の顔を見つめていたが、やがてふっと穏やかな笑みを浮かべ、深く頷いた。

「……いいだろう。貴殿の頼みだ。泥を被る役目、喜んでお供しよう」

二人は気絶したザムザの傍らへと歩み寄り、歪んだ親子関係に囚われた男の「本当の戦い」を終わらせるための対話へと向かうのだった。

 

静かなロモス城の一室。縛り上げられた状態でゆっくりと意識を取り戻したザムザは、頭痛に顔を歪めながら薄目を開けた。

その目の前には、椅子に深々と腰掛け、だるそうに死んだ魚のような目を向ける八幡と、その傍らで腕を組み静かに佇むラーハルトの姿があった。

「……気がついたか」

八幡はボリボリと首筋を掻きながら、冷淡とも思える平然としたトーンで切り出した。

「まあ、そういうことだ。……お前がここで捕まっても、あの親父(ザボエラ)は助けに来ねえだろ? 額の通信器も壊したし、実験データも取れなかった役立たずとして、とっくに見放されたんだよ」

「つ……っ! 黙れ……! ザボエラ様がこの私を……見捨てるはずが……ッ!」

苦々しく歯を剥き出すザムザだったが、その声には自分でも拭いきれない不安が滲んでいた。八幡は容赦なく、客観的な事実を突きつける。

「強がるなよ。自分が一番よく分かってんだろ。お前が手ぶらで帰ったところで、あの魔王軍に居場所なんてねえんだよ。……成果を出せなかった息子なんて、あいつにとってはただの『ゴミ』だ」

「ぐっ……!!」

図星を突かれ、ザムザが悔しさに全身を震わせたその時――。

それまで黙って聞いていたラーハルトが、一歩前に踏み出してきた。彼の透き通るような瞳が、静かにザムザを見据える。

「……ザムザよ。私には、実の父親はいない」

「……何……?」

「幼い頃に両親を亡くした私にとって、世界のすべては絶望だった。だが……私にはバラン様がおられた。血の繋がりなどないが、私はバラン様を実の親以上に尊敬し、その背中を追い続けてきた」

ラーハルトの言葉には、揺るぎない覚悟と誇りが宿っていた。

「お前には……いないのか? 血の繋がった父親以外の者が」

「……ッ!?」

「親の評価や承認のためだけに命を刻む戦いなど、虚しいとは思わんか。真に心から尽くすべき者、己の意志で尊敬できる存在……血の呪縛を超えた恩師や友が、お前の心には一人もいないのか」

ラーハルトの問いかけは、魔族でありながら心に誇りを持つ者としての、何よりも重い言葉だった。

血縁という呪縛、そしてザボエラという毒親の影に怯え続けてきたザムザは、ラーハルトの静かな問いに激しく胸を突かれ、言葉を失って絶句するのだった。

 

 

「……フレイザード」

縛られたまま床に伏すザムザの口から、ぽつりとその名が漏れた。

絞り出すようなその声には、先ほどまでの激昂も虚勢もなく、ただどこか寂しげな響きが混じっていた。

「あいつとの時間は……決して悪くなかった」

ザムザは遠い目をして、誰もいない虚空を見つめる。

「あいつだって……ハドラー様に生み出され、手柄を立てることだけを存在理由として叩き込まれた。望んであんな怪物として生まれたわけじゃない……! あいつの焦りも、手段を選ばぬ執念も……私には他人事とは思えなかったんだ……」

自分の野心のためだけに生み出され、利用され、最後には切り捨てられる命。

親の所有物としてしか扱われない苦しみを知るザムザにとって、フレイザードは唯一、己の境遇と孤独を重ね合わせられる存在だったのだ。

「それを……お前が……っ!!」

ザムザの蛇のような瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。悔しさと、悲痛な叫びが狭い室内を満たした。

「……」

八幡は、何も言えなかった。

いつもの皮肉めいた屁理屈も、冷めた正論も、喉の奥に引っかかって出てこない。

フレイザードが放った「勝利も栄光もいらない。命を賭けても誰にも負けたくない」という狂気とプライド。その根底にあった絶望的な歪みを、自分自身の手で介錯した記憶が脳裏をよぎる。

己の存在価値を己に証明するためだけに必死に生きて、必死にもがいて、最後には破滅していった奴ら。

そいつらの不器用すぎる生き様を「愚かだ」と一蹴することなんて、八幡にはどうしてもできなかった。

コートのポケットの中で握りしめた八幡の拳に、静かに力が入る。

息の詰まるような沈黙が、三人だけの部屋に重く垂れこめていた。

 

 

重い沈黙を破ったのは、八幡の低く、静かな声だった。

「……あいつを殺したのは、俺だ」

八幡はボロボロのコートのポケットから手を出し、死んだ魚のような目を真っ直ぐザムザに向けた。

「だから……お前が俺を憎むのは筋が通ってる。……だがな、あいつは最後まで逃げなかった。望んで生まれたわけでもない、理不尽な生だろうと……必死に足掻いて、もがいて、己の存在を自分自身に証明しようと生き抜いた。……格好良かったぜ。最後まで己を貫いたんだからな」

フレイザードを「惨めな敗北者」としてではなく、一人の命として、その誇りを認める言葉。

「ッ……」

今度は、ザムザが言葉を失った。

(己を……貫いた……?)

八幡の言葉が、ザムザの胸の奥深くに楔のように突き刺さる。

(俺はどうだ……? 己を貫いていると言えるのか……? 父親の成果のために動き、機嫌を伺い、見放される恐怖に怯えるだけ……。ただの操り人形のままで、俺は『生きている』と言えるのか……!?)

激しい自問自答が、ザムザの脳内を駆け巡る。

己の生き様があまりにも不甲斐なく、情けなく思えて仕方がなかった。父親への恐怖と執着で塗り固められた自分の人生が、最期まで己の欲望とプライドを貫き通したフレイザードの生き様から遠くかけ離れていることに気づかされてしまう。

(こんな……こんな無様で、他人の顔色ばかり伺う空っぽな姿で……あの世でフレイザードに会った時、俺は一体なんと言えばいいのだ……!?)

涙で視界が滲む。

ザムザは固く唇を噛み締め、悔しさと痛恨の念に打ち震えながら、ただじっと床を見つめ続けるのだった。

 

「良いぜ。逃げな」

八幡はボリボリと首筋を掻きながら、あっさりとそう言った。

「俺は追わねえ。……人間を食い物にしないって誓うならな」

「ッ……!?」

その言葉に、ザムザだけでなく、傍らに立っていたラーハルトまでもが目を見開いて絶句した。

魔王軍の幹部の息子であり、武闘大会を混乱に陥れた敵を野に放つ――常識では考えられない八幡の判断に、ザムザは信じられないといった様子で固まる。

「考えろよ、ザムザ。お前自身がどうしたいのか、これからどう生きたいのか……親父の顔色じゃなく、お前自身の頭でな」

八幡はコートのポケットに両手を突っ込み直し、死んだ魚のような目を少しだけ和らげて続けた。

「……で、いろいろ考えた結果、やっぱり俺のことが憎くてたまらねえってんなら、また来いよ。……今度は手加減抜きで、正面から勝負してやる」

八幡の覚悟と、どこまでも泥臭い不器用な優しさ。

それを浴びせられたザムザは、縛りを解かれると、呆然としたままゆっくりと立ち上がった。

「……ふっ」

ザムザの口元から、自嘲と、ほんのわずかな救いが混ざったような薄い笑みがこぼれる。

「……後悔させてやるぞ、比企谷八幡……ッ」

傷つき、ふらつく足取りで、ザムザは一度も振り返ることなく部屋を、そしてロモスの街を去っていった。その背中には、もう親父の影に怯える操り人形の惨めさはなかった。

静まり返った部屋の中で、ラーハルトは去っていくザムザの背中から、ゆっくりと八幡へと視線を戻した。

(……こんな人間が、この世にいるというのか……)

ラーハルトの胸に、底知れぬ衝撃と敬意が湧き上がる。

純粋な心と圧倒的な強さで人々を惹きつける勇者ダイ。それとは全く異なる――己の弱さを知破し、泥をかぶり、敵の苦しみや孤独の深層にまで寄り添って救い上げてしまう男。

(ダイ殿が『光』なら、この八幡殿は『影』……だが、そのスケールの大きさは決してダイ殿に劣るものではない。……バラン様がこの男に惹かれた理由が、いま真に理解できた気がする)

「……おいラーハルト、なんか変な目で見んなよ。俺はただ、面倒な後処理を減らしたかっただけだからな」

八幡が気まずそうに目を逸らして呟くのを見て、ラーハルトは口元を緩め、静かに深々と頷くのだった。

 

部屋の隅、ザムザが立ち去ったあとの床に、一本の刀剣が静かに取り残されていた。

柄や鞘には魔界の装飾とは異なる、どこか神聖で気品ある意匠が施されている。

立ち去り際、ザムザが最後に残した低く絞り出すような声が、八幡の耳に蘇る。

『……剣は置いていく。命を拾われてしまったからには、手ぶらで去るわけにもいくまい。……くれてやる』

八幡はボリボリと頭を掻きながら、その剣に歩み寄り、しゃがみ込んでひょいと持ち上げた。

鞘から少しだけ刃を滑らせると、白銀の刀身から清冽な聖なる光が仄かに立ち上る。魔を祓う、力強い気配――。

「……まじかよ」

八幡は思わず死んだ魚のような目を丸くした。

「おいおいおい……『破邪の剣』じゃねえか、これ……ッ! どこで入手してやがったんだあのトカゲ……!」

ロモスに来た本来の目的(?)はすでに達成した気でいた八幡だったが、まさかザムザからの想定外すぎる「お礼」という形で本物が転がり込んでくるとは思ってもみなかった。

傍らで見ていたラーハルトも、その剣の秘めたる力に気づき、静かに目を細める。

「強い聖気が宿っているな。……八幡殿のあの対話が、巡り巡って最大の成果をもたらしたということか」

「いやいや、成果っていうか……重い、重すぎるだろこの展開! 拾った命のお返しが超重要キーアイテムって、あいつ根はクソ真面目かよ……!」

八幡は額を押さえて深々と溜息をついたが、手元にある刀身のズシリとした重みを感じ、ふっと口元を歪めた。

「まあ……もらっちまったもんはしょうがねえ。ありがたく使わせてもらうか」

【破邪の剣】を手に入れた!

こうして、力づくの奪い合いでも命のやり取りでもなく、歪んだ魂の対話の末に、一行は魔王軍との戦いを大きく変える一振りを手にすることとなったのだった。

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