ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。 作:tomozow
揺れる小舟の板目、胃酸の匂いと潮風が混ざる中で、八幡は青い顔をしながら分厚い「魔法の書」をめくっていた。
(……くっ、船酔いと文字の密度が相まってリソースが目減りしていく……。だが、薬草のインベントリ枠にも物理的限界はある。ここで回復役の選択肢(ホイミ)を自前で引いておけば、全滅ロストの確率は一気に下がる……!)
ページを指でたどり、横目で隣を見る。
「おい、ポップ。これ……『ホイミ』ってどうやったら発動できる?」
「ああ? ホイミなんて僧侶の専売特許だろ。おれは攻撃呪文(メラ系・ヒャド系)特化の魔法使いだから無理だよ。属性や系統の適性が――」
「いや。賢者とかの上位ロールなら、そのうち両方(回復と攻撃)回せるようになるだろ。……お前なら、いずれできるようになると思うけどな」
((((((いずれマトリフのもとを突っ切って、大魔導士として覚醒しやがるアツいカタルシス展開は、胸アツすぎてニヤニヤしそうになるから口が裂けても言わねえけど、フラグの予感しかしねえよマジで))))))
不意を突かれたポップは、ビクッと肩を震わせ、耳まで真っ赤にして顔をそむけた。
「なっ……! お前、買い被りすぎだろ……! 俺がそんな万能型になれるわけねえだろ、調子狂うわ!」
「いや、たった5日でヒャダイン飛ばしてマヒャドの出力領域まで到達した変態(天才)が、今さら回復の原理原則に届かない理由がどこにあんだよ。お前が勝手にセルフ・ナーフ(過小評価)してるだけだろ。……まあ、隣の化け物(ダイ)のせいでバグって見えにくいがな」
言われたダイは、船縁で潮風を受けながらポリポリと頭をかいて照れ笑いする。
「てへ……でも、オレも5日習っただけであの完成版アバンストラッシュ撃てちゃったのは、我ながらどうかしてるよな……なんだか夢見てるみたいだ」
現実味のない超高速成長の余韻に浸りつつも、八幡は再び魔法の書へ視線を戻す。
(生体エネルギーの治癒加速……メラの熱変換を逆位相にして、細胞再生のトリガーに……?)
「くそっ、薬草の消費期限とかかさばり具合を考えたら、やっぱここ自前でホイミ引くしかねえんだよ……!」
「お前、本当に執念深いな……!」
唸りながら瞑想の型に入る八幡の隣で、ポップもまた、キリッとした表情(ときどき照れ隠しで顔が歪む)で目を閉じ、体内の魔力回路を太く深く練り上げる。
その少し前方で、ダイが手製の簡易釣り糸を海に垂らす。
「あっ、なんか引いた……! とりゃあっ!」
ビチビチと跳ねる大ぶりの魚を釣り上げると、ポップがパッと目を開けて指先をチッと鳴らす。
「うおっ、ナイスダイ! 『メラ』!」
シュボッ、と精密に絞られた小火力(or手際の良い炙り)で皮目が香ばしく焼き上げられ、すかさず八幡がザックから取り出した塩とスパイスの小瓶を手際よく振る。
「……塩加減、悪くねえ。脂の乗りも上々だ」
「いただきますっ!」
波の音と、香ばしい魚の匂い。
ハイスペックなサバイバルと不条理な未来改変の合間に挟まる、やけに生活感のじみた自給自足の船旅が、ゆっくりと水平線の向こうへ進んでいった。
「マジで美味かったな、あの魚……。そろそろ、こう、陸(まともな肉)が食いてえ……」
八幡が小さくぼやきながら、船底の固い板目に背中を預ける。
「わかる! このビスケット代わりのロースト麦、香ばしくて魚にめっちゃ合うよな!」
ダイが元気よく頷き、ポップも「だな。炭水化物と塩分・脂質のローテが完璧すぎる」と、もぐもぐ口を動かしながら同調する。
(……街まであとどれくらいかかるか、ロジスティクスが読めねえな。長旅でビタミン欠乏・脚気ルート引いたら笑えねえぞ。いや、生魚でビタミンB群やアスコルビン酸を補給すりゃ一発なんだが……このファンタジー原住民のダイやポップがいきなり海鮮刺身(生)食って腹壊したら全滅の引き金になりかねん。加熱・備蓄のマネジメントが肝だな)
――ふと、高校の日本史の授業、バルチック艦隊迎撃や陸軍の脚気予防対策のプリントの記憶が脳裏をかすめる。
(学生の時、変なとこで日本史の近代史資料の読み込みとか無駄にやっておいて良かったわ……。生肉・内臓・果実・穀物のローテ配分、サバイバルの基本はいつの時代も物資管理だな)
思考の海から引き戻された瞬間、前方の水平線の霞が割れ、黒々とした大陸の海岸線がその輪郭を捉えた。
陸地へ到着する。
波が緩やかに白砂を叩く音。
小舟の底がガリッと浅瀬の砂利を噛み、3人の使徒を乗せた旅の第一幕が、いよいよ大陸の土へと着地した。
(――さて、この上陸地点の森でマアムと合流するはずだが。……ポップもザコメンタルだし大丈夫かよと思う反面、あんな直球の健康系美人を目の前にして、俺の陰キャ精神がフラットでいられるか? いや無理だろ)
ザックの重みを確かめながら、八幡の脳内で不毛かつ切実な自己防衛アラートが鳴り響く。
(所詮は――精神年齢(?)というか内面がこじらせたままの30歳相当(あるいは17歳肉体)のひねくれ者だ。恋愛経験? 高2のあのトラウマ・エチュードで完全に塩漬けだわ。恋愛レベル17、実質ピュア(処女・童貞)のハードモード。耐えられるか……?)
ザワザワと茂みが揺れ、凶暴な牙を剥いた森の魔物が飛び出してくる。
「――っ、囲まれたか! ダイ、ポップ、左の距離を詰めさせ――」
「そこまでっ!」
鮮やかなピンクの髪を揺らし、赤い服をまとった少女が木の上から舞い降りる。
構えられた銃口から放たれた閃光が、一瞬で魔物を沈黙させた。
「――魔弾銃(まだんがん)。……やっぱり、原作通りのピンク髪高密度造形(美人)だな」
思わず口からこぼれた低音の独り言。内心の解像度修正を全力でごまかす。
「へっ……?」
見知らぬ少年からいきなり「美人」と言撃されたマアムが、パチクリと目を瞬かせ、ピリッと頬を紅潮させる。
「なっ、なんだ急に……! こ、このあたりの森は危ないのよ!」
横でポップが、冷や汗を隠すように鼻を鳴らして強がる。
「おっ、おう……! ど、どうってことねえぜ、これくらいオレたちでも――!」
その横で、ダイが首をかしげている。
「……ん? なんだか赤くなってるけど、この人、そんなにすごいのか?」
(――いや、ダイは幼少期からパプニカの王女・レオナみたいな超絶美人しか女性のサンプルを知らんから、世間一般の「美人の基準値」がバグってるんだったなこいつ……)
不意打ちの遭遇戦、少女との邂逅(フラグ)が音もなく踏み切られた。
マアムの案内で辿り着いた集落。怯える子どもを庇い、騒ぎ立てるゴマちゃんを「ダイとポップ、八幡の友だちだ。害はない」と手際よく落ち着かせながら、一息つく間もなく――遠方から低く地を揺らす雄叫びが轟く。
(――……来たか。獣王クロコダイン)
八幡が即座に身構え、続くようにダイとポップが飛び出す。後を追おうとしたマアムの肩を、八幡がすっと片手で制した。
「……マアムはここで待っててくれ。俺たちに任せろ。これでも一応――アバンの使徒だ」
「えっ……?」
言葉を飲み込むマアムを背に、3人は森の深淵へ向けて駆け出した。
鬱蒼とした木立の抜け、重圧の気配のその先。
巨大な爬虫類の巨影――クロコダインが、不敵な笑みを浮かべて待ち構えていた。
「名乗れ、人間ども!」
「……八幡だ」
「オレはダイ! アバン先生の弟子だ!」
「……ポ、ポップだ……」
ガタガタと膝を震わせるポップの肩に、八幡がすっと手を置く。
「ビビるな。なんせお前は未来の大魔導士(フラグ確定枠)だからな」
(――あ、やべ、未来の二つ名っぽいメタ言っちまったが、まあいいか。ここを切り抜ける生存(サバイバル)が最優先だ)
その一言と背中の感触に、ポップの震えがピタリと止まる。
(((……やっぱりこの人、土壇場でクソほど安心させてくれる、俺の心のアニキだぜ……!)))
隣で、ダイの瞳には揺るぎない勇者の光が宿っている。
「ほう……、こんな小粒の漢たちが3人もか。腕がなるわッ!」
咆哮と共に、クロコダインが巨大な真空の斧を振り下ろす。圧倒的な物理圧壊の軌道。
だが、八幡の氷結演算(リソース配分)はそれより早かった。
「――『ヒャド』!」
最大冷却でもアイスソードでもない、燃費重視の標準出力『ヒャド』。だがあらゆる熱量を奪う冷気の軸が、クロコダインの振り下ろした真空の斧の刃から腕部関節の深部へと直撃し、金属と生体を繋ぐ一帯を分厚い霜の牢獄で一気に氷結固定させる。
「ぬおっ……!? 腕が……! 斧ごと動きが……!」
機先を削がれた魔王軍の巨体に、容赦のない追撃の連鎖。
「もらったぁッ! 『メラゾーマ』!」
「『大地斬』ッ!」
ポップの放つ超高熱の太陽球が氷結した鎧の隙間を焼き、ダイの重い一刀が大地を抉る衝撃波とともに直撃を重ねる。
「グアァッ……!?」
巨体がわずかによろめき、百戦錬磨の獣王が初めて目に見えるダメージを刻まれる。
(ロール分担、足止め、最大火力の重ねがけ――悪くない。このままリソース有利を維持して削り切るぞ)
八幡の脳内で、勝利の最適ルートが静かに青く点滅していた。
バリリッ……! と、氷の束縛を魔闘気の膨張圧で粉砕し、クロコダインは手にした真空の斧を迷いなく投げ捨てる。その右腕が異様に肥大化し、禍々しい殺気が空気を歪ませる。
「すまんな。子どもと舐めていたようだ……。俺も本気を出そう!」
「ダイ、ポップ、避けろッ!」
八幡の怒号と同時に、放たれた獣王痛恨撃の拳圧が大地をえぐり、全方位をなぎ払う。ギリギリで横合いへ身を投げ出した3人は、直撃こそ免れたものの、迸る余波の爆風だけでHP(体力)をごっそり削り取られ、地面を転がった。
「ほう……あの零距離の痛恨撃を避け切るとはな。八幡とやら、中々の戦闘センスだ」
「……くそ、腕が痺れてやがる。……なぁ、クロコダイン」
「んだ?」
「『獣王痛恨撃』って、なんかこう……痛そうなだけじゃねえか。どうだ?『獣王会心撃』にでも改名しないか? 語感のキレが違うだろ」
「……わけのわからんことを」
「……やっぱダメか。商標権(ネーミング)のこだわり強そうだな、このトカゲ」
(いや待て、今そんなメタでふざけてる場合か。ここで消耗戦をやってもデカブツ一匹相手にリソースが枯れる。ならば――)
「なぁ、なんでこんな夜中にわざわざ暴れてるんだよ?」
「知れたことよ。ここで昼間から暴れてる3人組がいると聞いてな。どんな漢かと見にきたところよ……まさかこんな子どもとは思わんだ」
「どうだ、クロコダイン殿。こんな暗い夜中じゃ、お互いコンディションが万全じゃねえ。明後日の正午、この場で正々堂々と決着つけないか? アンタなら、こういう正面切ったタイマンのロジックが通じる武人だろ」
(((メタ的におめーら夜襲されるイベントより、昼間にコンディション整えて万全のバフ掛けてから叩いた方が勝率跳ね上がるんだよ! と言いたいが武人としてのプライドを刺激しとけ……!)))
クロコダインの目が深く据わり、不敵な笑みが浮かぶ。
「……俺の名前を知っていたか。ダイ、ポップ、そして八幡よ。……面白い! では明後日の正午、ここで再戦だ。逃げるなよ!」
「逃げるかよ! オレは勇者ダイだ!」
「おれは魔法使いのポップだ……。今は、な」
(――おっ、今の「今は、な」、すでに大魔導士の血脈と自負の片鱗が混じってやがる。成長曲線の勾配がバグってやがるぜ……)
八幡は少しだけ口角を上げ、どうのつるぎの柄に軽く手を置いて言い放つ。
「……俺は、魔法戦士の八幡だ。退屈させないことくらいは約束してやるぜ」
「ダイ、ポップ、八幡よ……また会おうぞ!」
巨体が振り返り、重い足音を響かせながら闇の中へと去っていく。
その背中を見送りながら、クロコダインは腹の底から豪快に笑っていた。
(――なんと強き子ども達だ。俺にこんな条件を突きつけてくるとは……! それに見合うだけの底が知れねえ実力もある。明後日の正午が、楽しみでならんわッ……!)
ザリッ、と足の力が抜けた八幡が、その場で盛大に尻餅をついた。
「……腰、抜けた……」
「一番ビビってのによくあんなハッタリかませたな!」とダイとポップが両側から慌てて脇を抱えて支え起こす。
「当たり前だろ……あんなデカいブロックの塊みたいなの、もうドラゴンと変わんねえよ……」
「違いない……」
よたよた歩く中、ダイが不思議そうに首をかしげる。
「ねえ八幡、『魔法戦士』ってなんだ?」
「……魔法も剣も、どっちも中途半端に回す器用貧乏、でも勇者じゃない。……そんなところか」
「なら、魔法戦士も勇者じゃないの?」
「そうだな……ライデイン(全属性の浪漫砲)が使えたら、ワンチャンその肩書も再考してやらなくもない」
クタクタになりながら辿り着いたマアムの拠点。
クロコダインの群れを一時とはいえ引かせてきた3人は、もはや村の子どもたちやマアムにとって「救国の英雄(バグった年下集団)」の目を向けられていた。
「ねえ、あなたたち……本当は、何者なの? アバンの使徒って……?」
驚愕と警戒が混ざるマアムの問いかけに、八幡はふっと息をつき、マアムの頭上にふいに大きな手を伸ばしてポンポンと軽く頭を叩く。
「……詳しいことは、また明日な。睡眠不足はリソース管理の最大の敵だ」
(――くっ、この不意のスキンシップ、背徳感と小町みがあって脳がバグる……! いや、相手はピンク髪の健康系美少女だぞ、セクハラで通報されかねん)
「わ、わっ……なんだ急に……!」と真っ赤になって固まるマアム。
ポップは冷めた目で八幡を見る。
「おい、お前……、もしかして、なかなかのナンパ師(あるいは天然タラシ)なのかよ?」
「寝言は寝て言え、体力ゲージが赤だ」
夜が、深く静かに、二日後の決戦へ向けて更けていく。
朝日が森の木立を抜け、昨夜の痛みがまだ微かに残る筋肉を照らし出す。
八幡は地面にあぐらをかき、両手の中に微細な生体エネルギーを循環させようと目を閉じていた。
(――ダメだ。熱(メラ)のベクトルを反転させて細胞治癒のトリガーを引く理屈は頭では分かっているのに、出力のピントが合わねえ。薬草の残量もじわじわ減ってきているし、ここを自前化できないと後々詰むんだが……)
「あなた……ホイミの練習、してるの?」
ふいにかけられた声に目を開けると、朝日で髪のピンクが鮮やかに映えるマアムが立っていた。
「ああ。……ちょっと自前でバフ・回復(サステイン)の引き出し増やしたくてな」
タンクトップ一枚の八幡の肩や腕には、昨夜の痛恨撃の余波による生傷や打ち身がまだ完全に塞がりきっていない。
「……無茶なんだから。じっとしてて、ベホイミ!」
マアムの手のひらから放たれた純白の聖光が、八幡の肉体を柔らかく包み込む。
シュワァッと深層の組織まで浸透していく温もり。
(――っ、なんだこれ。細胞のミトコンドリアが強制再起動するみたいな……身体の芯から生まれ変わるような感覚だ……! これが上位回復(ベホイミ)の解像度か)
一瞬でHPゲージがフルコンプリートされる。
「……ありがとうな。マジで助かった。お前、女神かよ」
「お、大袈裟ね……!」
マアムはすっと照れくさそうにパッと目を逸らし、頬を赤らめる。
「いやいや、薬草の成分じゃこうはならねえからな。生きた魔法の出力差、勉強になりすぎだわ」
八幡はふと気づき、ぐっと身を乗り出す。
「そうだ。マアム、俺にホイミのコツ――詠唱の重心とか、魔力の絞り方、教えてくれないか?」
「しょうがないわね……教えるだけなら――」
視線を正面に戻したマアムの瞳に、朝露を弾くような健康的な肉体――タンクトップの裾から覗く、不意の戦闘とサバイバルで引き締まった八幡の逞しい上半身が飛び込んでくる。
(――……え、待って、この人、なんか……)
額に滲んだ汗を、八幡が無造作にシャツの裾でぬぐい上げる。その瞬間、露わになった精悍な割れた腹筋のライン。
健康優良児のマアムの心拍数が、昨夜のクロコダイン戦より明らかに高いハイピッチで乱れ始める。
(な、なにこれ……! 筋肉の立体感が……実戦経験の重みが……!)
「あ、すまん。……こういうの、近距離だとセクハラか?」
八幡がハッと気付いて、少し距離を取りながら苦笑する。
「……せくはら? なにそれ?」
首を傾げるマアム。ファンタジー世界の住人に平成・令和の陰キャ概念が通じるはずもない。
「いや……なんでもない。忘れてくれ」
遠ざかる赤面と、妙に気まずい空気のなか、ホイミの個人レッスン(補習)が静かに始まろうとしていた。
胸の内の高鳴りを無理やり「師匠としての矜持」という名の安全バルブで押し込めながら、マアムは指先を揃える。
「そ、そう……魔力をそこに集中させて……癒やしの脈動をイメージするのよ」
言われるままに、八幡はすっと目を閉じる。
(――熱の逆位相、細胞再生のトリガー。メラの演算をマイナスへ反転。……いける)
真面目な面持ちで集中するその横顔の輪郭は、ひねくれた普段のダウナーな空気感を完璧に消し去り、妙に端正な――マアムから見ても、不覚にも「イケメン」と形容せざるを得ない鋭い静けさを纏っていた。
(……っ、なに、この人……! 真面目にやると、急に絵面が主人公っぽく……! 心臓がうるさすぎるでしょ私!)
「……ホイミ」
八幡の低い呟きとともに、その掌の上で、かろうじて消えないわずかな聖光の粒子が明滅する。
「そ、そう、それよ……! 今の感覚、その出力のピントを忘れないで……!」
「すげえ! すげえよマアム! やっぱあんた女神だわ!」
感動のあまり、八幡は――無警戒に、マアムの小さな両手をガシリと両手でしっかり握り締めた。
(――っ!? て、手が……近い……! 目が合って――いや、目閉じてるけど距離感がゼロ……!)
顔がトマトのように真っ赤に沸騰し、マアムは文字通り言葉を失ったまま、俯いた視線を地面の芝生へ釘付けにする。
「ど、大袈裟ね……。早くその感覚を定着させなさいよ……」
(((……おいおい、高校時代の「空気が読めない(ついでにこじらせた)陰キャ自虐」から、実戦のテンションと命のやり取りで物理的・精神的距離感のブレーキが完全にバグってるぞ、この男……!)))
無意識のうちに、女子の生存圏(パーソナルスペース)を最速で踏み抜くその手練れ(?)の無自覚ムーブ。
八幡の――恋愛レベル19への不穏なレベルアップの瞬間であった。
手のひらの聖光がわずかな形を成すようになってから数刻。八幡は息を整え、額の汗を拭った。
「……よし。出力はまだ低くてMP燃費も悪いが、少なくとも応急手当(薬草)のロット差は超えたな」
「――まだやってたの? もうお昼よ、みんなで食べましょう」
小屋のドアを開けて顔を出したマアムに声をかけられ、八幡はふうと大きく息を吐き出して立ち上がる。
マアムの家に招かれ、食卓へ着こうとしたところで、マアムの母・レイラが穏やかな笑みで迎えた。
「遅かったわね。……ほんとに、八幡くんたらほっとくといつまでも根を詰めてやってるんだから」
「まあ、明日クロコダインの再戦でホイミが自前で回せるかどうかで、全滅率(生存コスト)が全然変わってきますからね。こっちも必死ですよ」
食卓の席に着いた八幡の言葉を聞き、隣のポップが目を丸くする。
「……おい、マジでホイミ習得したのかよ?」
「まあ、どうにか形になったところだ」
((((((いや、マジでMP消費と発動タイミングのシビアさやばいなこれ……死ねる))))))
ポップはあらためて冷や汗を拭いながら、圧倒的な執念に(やっぱこいつ只者じゃねえ……)と目を見開く。
「……俺も、そのうちホイミの練習でもしようかな」
「いや、お前はまず呪文の系統・器の契約からだろ。クロコダインとの件が落ち着いたら、基礎回路の組み方から付き合ってやるよ」
すでにガツガツと豪快に食事を進めていたダイが、モグモグしながら手を挙げる。「うん、うまいぞ!」
レイラが温かい料理の皿を並べながら、ふいに感心したような目を八幡に向けた。
「ありがとうレイラさん……って、いや、まさか半日でホイミの理屈を掴んで光らせるなんてね。あなた、もしかして魔法の天才?」
「いやいや、そんな大層なもんじゃねえすよ。船の上から地味に指先いじってシミュレーション繰り返してただけで、もう無理かと思ってましたし」
その言葉の裏側を、レイラは穏やかな眼差しで静かに見抜く。
(――ふふ。……口ではそう言いながら、船の上(極限の環境・魔力枯渇の不快感)からずっと、めげずに微分・積分の要領で回路を焼き付けていたのね)
レイラは心の中で微笑む。
(((……派手な才能じゃない。『努力の天才』ね。魔力切れの不快な船酔いやエラーの反復を耐え抜きながら、地味に最適解を掘り進む……それができる者が、いつか本当に高い高みへ昇るのよ)))
「……っ」
見抜かれたような母の眼差しに、八幡は珍しく居心地悪そうに首をすくめて照れ臭そうに視線を落とす。
その向かいと隣で、ポップ、ダイ、そしてマアムも深く、誇らしそうに頷いていた。
――理屈とひねくれを武装した少年は、知らず知らずのうちに、確かな居場所と信頼の厚みをその足元に固めていた。
「――おう、俺も最近(八幡の動き見て)覚えてぜ!」
自慢げにそう言うと、ポップは庭先の古びた木の板へ向け、シュッ、シュッ、シュッ!とほぼ同時に3発の『メラ』を連続で叩き込んだ。
焦げた丸い穴が三つ並び、パチパチと燻る。
「……おう、すげえじゃねえか。八幡の『ヒャヒャヒャド(仮・連続冷却)』の出力テンポをそのまま炎にコンバートしたってか?」
「だろ? ……まあ、メラみたいな小粒だと一極集中(単体)でブチ込む意味があんまりねえな。数が多い雑魚の群れを散らすくらいか」
「俺はヒャド(とホイミ劣化版)しか使えねえからな。――けど、お前ならそのうち『メラゾーマの3連発(簡易版)』とかできるようになるんじゃないか?」
ふと零したその言葉に、ポップがハッとして頷く。
「……そうか。属性の出力スケールを上げても、リズムと残像の回路が繋がれば……!」
(((バルジの島で見せたマトリフ直伝の最終奥義――『五指爆炎弾(フィンガーフレアボムズ)』は生身の負荷がバグってるけど、この段階で個別の高火力弾をタイムラグなしで連続射撃するマルチロック戦術なら、身体の破壊リスクを抑えつつDPS(秒間ダメージ)を跳ね上げられるはず……。リソース配分の正解ルート、また一歩進んだな)))
思考の裏で、目の前の光景にマアムとレイラがポカンと口を開けて固まっていた。
「え……? いま、呪文の詠唱とタイムラグなしで、三発も同時に……?」
レイラがわずかに目を細めて息を呑む。
「あなた、本当になんなの……? ポップくんも、もしかして隠れ天才なの?」
「な、そんなわけねえだろ! まぐれだよ、たまたま――」
耳まで真っ赤にしてブンブンと手を振るポップ。
すかさず、ダイがキョトンとした顔で首をかしげる。
「え? ポップは天才だよ?」
「だな。過小評価(セルフ・ナーフ)の周回遅れだ、お前は」
八幡も淡々と深く頷く。
「お前らまで――!」
照れ臭さと気恥ずかしさで顔をわしゃわしゃとかきむしりながら、ポップは照れ隠しにボソッと言い訳を漏らした。
「……ちがうねえよ! 八幡がヒャドで似たようなことやってるの見て、理屈だけ真似しただけだよ!」
その背中、無意識に放たれる器の広がりと不敵な回路の組み方に、八幡は心の中で静かに呟く。
(((――やっぱ来てるな。大魔導士ポップへの初期ブースト、順調すぎるほどに加速中、と)))
昼下がりの穏やかな日差しの中、決戦前夜のピースフルな狂騒は、確実に未来の英雄たちの血肉へと刻まれていった。
「――ねえ……アバン先生、今どうしてるのかしら。なんだか、すごく……会いたくなっちゃったな」
食後の穏やかな空気の中、窓の外を眺めながらマアムがふと、愛おしさと少しの寂しさが混ざったような声を零す。
その瞬間、ダイが「あっ、そうだ。先生は――」と口を開きかけ、ポップが慌ててダイの口をガシリと手で塞ぐ。
(((ばか! そこで生存(裏切り)のフラグ折るな! アバン先生の「死んだことにしておけ」指令の重みを思い出せ……!)))
八幡はあえて何もせず、冷めたお茶をすっとすするだけでその場をスルーする。
「な、なんだよ急に! あ、あのおっさんはほら、相変わらず気ままにあちこち旅してんじゃねえかな! なあ!」
ごまかすようにポップが空咳をつく。ダイも口を塞がれたまま「んー!」と頷き、マアムは不審そうに目を細める。
「――ねえ、ちょっと怪しくない? アバン先生と、どこで出会ったの? なんで弟子になったの?」
矢継ぎ早に繰り出されるマアムの好奇心満載の追及。
((((((ここでハドラー襲撃からのメガンテ全損・行方不明ルートの重い空気をドロップしたら、マアムの精神衛生と加入モチベにデバフが入る。リソース管理の観点から最適解は――「愉快な冒険譚(盛大に盛ったエピソード)」の提供だな))))))
ダイが「うーん、そうだな!」と頬を掻き、ポップが胸を張る。
「いや、あれはもう波乱万丈でさ。最初に会った時なんて――」
ハドラーの魔力障壁も、絶望のメガンテの閃光も、冷酷な生死の境界線もあえて綺麗にすっ飛ばし。
デルムリン島でのドタバタ、アバンの妙なスパルタ、ちょっとおかしかった奇行や特訓のワンシーンを、ダイ、ポップ、そしてたまにボソッと余計なツッコミを挟む八幡が、面白おかしくスラップスティック風に語り立てる。
「……な、なんだそれ! アバン先生相変わらず変なことやってるじゃないの!」
腹を抱えてケラケラと笑うマアム。
昨夜の緊張と殺伐さが嘘のように、午後の日差しのなかで、4人の笑い声がレイラの家の庭に弾けた。
(((……ま、こういう「余白のノイズ」こそが、全滅回避の最高の精神安定剤(メンタル・バフ)か。明後日のトカゲしばきが本番だ、英気を養っとくか)))
笑い声のなか、八幡は心の中で小さくため息をつきつつ、次の日のリソース計算を静かに再開していた。
容赦のない正午の太陽が、決戦の森を白々しく照らし出す。その一時間前。
((((((ここでポップが「ビビって足がすくむ/自己嫌悪で逃げ出す」原作の心理的デバフ・離脱ルートに入るのは既定路線。だが、生煮えのまま突っ込んでクロコダインのプレッシャーに折れられるより、一度ヘイトと怒りのリソースでアドレナリンを強制ブーストして「帰るべき場所(前線)」へ自発的リターンさせる方が、生存確率のExpectation(期待値)が跳ね上がる。……あー、クソ、我ながら悪趣味なタムロ・ヒール役(ヒキガヤ・セオリー)だな))))))
あえて突き放す冷徹な仮面の下で、八幡は心拍数を測るように息を吐き出す。
「なんだ、ビビってんのか。……なら消えろよ、足手まとい(迷惑)だ」
「な、んだよ……ここまできて……! おれが臆病者だって、本気でそう言いたいのかよ!」
血走った眼で睨みつけるポップに、八幡はあえて一言も返さず、冷ややかな沈黙だけで貫いた。
「……そうかよ!」
怒りと涙の混ざった絶叫を残し、ポップは森の奥へ向かって全速力で駆け出す。
「あんた……最低よ!」
パシッ、と乾いた音が響く。マアムの鋭い平手打ちが八幡の頬をかすめ、彼女もまた「ポップ!」と名前を呼びながら後を追うように飛び出した。
取り残された空間。頬の微かなヒリつきを感じながら、ダイが険しい顔で詰め寄る。
「……八幡。どうして、あんな酷いことを……」
八幡はふっと息をつき、わざとらしく額を片手で押さえる芝居を入れた。
「……すまん、ダイ。俺も……あのトカゲ(クロコダイン)のプレッシャーに当てられて、ちょっとテンパっちまってさ。口が滑った。後でちゃんと謝っとくよ」
視線を遠くの木立へ投げる。
「――だが、まだ時間(リミット)はある。あいつなら、戻ってくるさ」
「……だといいけどさ」
不満げに眉をひそめつつも、ダイはそれ以上追及しなかった。
((((八幡が、あんな無神経で不自然な突き放し方をするわけがない。……きっと、何か理由(ワケ)があるんだ。でも、今それを無理に問いただすタイミングじゃない。……こいつはいつだって、一番面倒で正しい方向を指差してる))))
ダイの胸の中でも、冷めた理屈の裏側で、八幡という存在はすでに「迷った時に背中を預けられるアニキ分」として確固たる根を張っていた。
――タイムリミットまで、あと50分。潮目が変わる音を、八幡は静かに待機した。
ザラついた樹皮を、ポップが拳で殴りつける。
「くそっ……! 八幡(アニキ)に見放されたのかよ……!」
自責と悔しさに奥歯を噛み締めるポップの背中に、息を切らせたマアムが追いつく。
「ポップ! 八幡に……怒ってるの?」
「……そうじゃねえよ。自分に怒ってんだ」
ポロポロと零れる涙を乱暴に拭い、ポップは声を震わせた。
「俺は……アバン先生の弟子だ。なのに、こんな土壇場でブルっちまって……情けねえ……!」
その悔恨の涙を見つめ、マアムはふっと柔らかく微笑む。
「なんだよ、おかしいかよ!」
「ううん……。羨ましくて」
マアムはまっすぐにポップを見据えた。
「あなたたちは、何か理由があって旅をしてるんでしょ? 逃げようと思えば逃げられるのに、踏みとどまってる。あの獣王クロコダインを相手に、本気で立ち向かおうとしてる。……私に、そんな真似ができるかなって」
震えるポップの肩にそっと視線を落とし、マアムは続ける。
「その震えはね……怯えじゃない。強大な敵に立ち向かおうとする、武者震いってやつよ。だって、勝つ見込みが全くないなら、緊張より諦めが先にくる。……あなたは、あなた達は勝とうとしてる。戦おうとしてる。でも怖い。だから震えるのよ」
「あなたは、自分より強い相手に立ち向かおうとしてる。その必要がなくてもね。この村を守るために……。そんな人をなんて言うか知ってる?」
マアムは一歩踏み出し、優しくポップの頬に口付ける。
「――勇者、って言うのよ」
鼓動が跳ねるポップの眼前で、マアムは穏やかに微笑んだ。
「たぶん八幡も、あなたが戻ってくるって信じてる。ダイも、私も。……後で八幡に謝っておくわ」
「……必要ねえよ。俺が、代わり(のケジメ)に直接言ってくるよ」
ポップの顔から、迷いが綺麗に削ぎ落とされていく。
「ビビってたのは本当だからな。……まだ少しだけ震えが止まらねえ。だから、マアム。俺に一発、八幡(あいつ)と同じのをくれよ」
「……わかった!」
迷いなく振り抜かれたマアムの平手打ちが、ポップの頬を快音とともに叩き据える。
「いてぇーっ!」
びりびりと痺れる頬を抑えながらも、ポップはニカッと不敵に笑った。
「女神のキスとビンタを両方とももらったのは、世界で俺くらいだな!」
完全に吹っ切れた足取りで、ポップは決戦の場(前線)へ向けて一気に駆け出す。その背中から、恐怖の震えは綺麗に消え去っていた。
「……みんな、私を女神扱いしすぎなんじゃない」
赤くなった頬を押さえ、呆れたように、しかし温かい眼差しでその背中を見送るマアム。
ガチャリと、手にした魔弾銃のシリンダーを確かな手つきで点検する。
「……さて。あのひねくれ者(八幡)の予想通り、もう少しだけ直球のサポートが必要になるかもね」
決戦の正午まで、あとわずか。
走る少年の後を追うように、ピンク髪の少女の足音もまた、確実なリズムを刻んで前線へ踏み出した。
合流したポップが、すっとダイの隣へ並ぶ。遅れて到着したマアムは、少し離れた木陰の死角から魔弾銃を構えて戦況をロックしている。
ふと視線をやり、八幡が柔らかく微笑みながら小さくうなずくと、マアムは「ごめん……(余計なお世話だったかも)」とジェスチャーで謝罪し、八幡も軽やかに手を振って応じた。
ドス、ドス、ドスと、大地を鳴らしてクロコダインが現れる。
巨体が止まり、赤熱したような眼がわずかに後方を捉えた。
「――ほう。後ろのピンク髪の女はなんだ?」
「見学だよ。……にしても、古の冒険譚の定番だろ? 勝者(サバイバー)にはお姫様のキスが付きものだってな」
すかさずかましたそのメタくさいハッタリに、隣でポップが「ぶふっ、てめっ、何言ってんだよ!」と耳まで真っ赤にして悶絶する。遠くの木陰で「え、なんか言った……?」と首をかしげるマアム。
(((((((くっ……ポップのやつ、あのあとマアムとどんなイベント踏んできたんだよ……先にフラグの旨味吸いやがってクソが……羨ましいな畜生!!))))))
八幡の心の中の陰キャ・エディターが嫉妬で黒いノイズを吐き出すが、顔の解像度は冷静な前線指揮官のまま固定されている。
正午の太陽が真上から照りつける。
「では、尋常に……勝負ッ!!」
ダイとクロコダインの同時咆哮が、闘技場代わりの開けた森を切り裂く。
超高速のフットワーク。残像すら纏うダイの機動力に、クロコダインは視覚のトレースを早々に切り捨て、音の軌道と空気の圧縮波へと全神経を集中させる。
「そこだァッ!」
重圧の拳がダイの側面をかすめ、衝撃で吹き飛んだダイが地面を転がる。
――が、致命傷には程遠い。一瞬で飛び起きたダイの傍らに、八幡がすっと薬草の束を足元へ滑らせる(自動リソース補給)。
「甘いわ小僧――ッ!『焼けつく息』!」
毒と麻痺の熱風が扇状に広がる。
だが、その視界を焼き焦がすように、正面から突撃の軌道を描いたポップの掌から放たれる。
「――『メラゾーマ』ッ!」
直撃のコースを、クロコダインの吐き出す『焼けつく息』が文字通り激突・相殺して爆ぜる。
だが、その超高熱の収束点から溢れ出した爆風の余波(スプラッシュ・ダメージ)が、厚い鱗の装甲ごとクロコダインの全身を容赦なく包み込んだ。
「グアッ……!? 馬鹿な、この小僧がここまで強力なメラゾーマを連撃気味に……? 底知れない魔力量と出力効率だと……ッ!」
巨体がよろめいたそのコンマ1秒の隙。
待っていましたとばかりに、八幡のどうのつるぎの先端が鋭い冷気を纏う。
「――『ファイブアイス(ヒャヒャヒャヒャド)』!」
5連撃の氷結針が、クロコダインの硬質な皮膚の継ぎ目、わずかな装甲の甘い角を正確にタッピングする。
バリリ、と冷気が皮下組織の水分を凍結破砕し、巨体の肩口から赤い線が細く走り、薄く血が滲む。
「――くっ、浅いか。だが、ターン優位は譲らねえ!」
八幡が冷や汗を拭いながら剣を構え直す。ダイとポップの息も完璧にシンクロしている。
リソースとポジションの優位を握った3人の使徒の前に、獣王の眉間が初めて深く険しく歪んだ。
「――『海破斬』ッ!!」
ダイの剣閃が、水面を裂く奔流のような真空刃となってクロコダインへ疾駆する。
「甘いわ……ッ!『真空の斧』!」
クロコダインが巨体をひるがえし、迎撃の斧撃でダイの海破斬を正面から相殺・粉砕する。
(――予測通り。物理の重さと軌道誘導のベクトルはあいつの斧が完全に上回る。だからこそ……!)
「――こっちの軌道(死角)はどうだ? 『海破斬』!」
交錯した直後のコンマ数秒、真空の斧が戻り切らない空転の硬直(ラグ)へ、八幡のどうのつるぎがダイのそれと酷似した水流の軌道を描いて突き刺さる。
キイイイッ! と金属質の音が鳴り響き、クロコダインの硬い腕甲の隙間を裂いて、またしても浅く、しかし確かな鮮血が滲む。
「なっ……!? このガキまでもが、アバンの流派の剣技を……!」
どよめく巨体の重心がわずかに崩れたその瞬間。
「逃がさねえよ、トカゲのオッサン! 『ヒャダルコ』ッ!」
ポップの掌から放たれた極寒の呪文が、クロコダインの足元と露出した下半身の関節周りを一気に冷凍・固着させる。
冷気の結晶が装甲の隙間に食い込み、体温と機動力を奪う持続ダメージが確実に通る。
「グアァッ……!? 足が……、血流が……ッ!」
踏ん張りが利かなくなった巨体が、ドゴンッ!と地響きを立てて片膝をついた。
(よし……! 物理耐性・硬度バフの隙間を、ダイの面制圧、俺の二次角狙撃、ポップの温度低下デバフ(ヒャダルコ)のローテで完全にハメ勝ってる……! 理想通りのDPS(秒間削り)だ!)
八幡が息を荒げながら距離を測り、次の追撃(ベホイミやトドメのコンボ)の計算を弾く。
戦場の空気が、完全に使徒側へと傾いていた。
「――オラァッ!!」
片膝をついたまま、クロコダインは巨大な拳を足元の地面へ直接叩きつける。獣王痛恨撃の全方位衝撃波。
セルフダメージを伴う荒療治だが、地面を埋め尽くしていた氷結の基底を一瞬で粉砕し、弾き飛ばされた鋭利な岩片(石つぶて)が嵐のように降り注ぐ。
「っ、直撃は免れたが――装甲の破片(ガーベージ)が!」
避けきれなかったダイ、八幡、ポップの肉体に小刻みな裂傷が走る。
バックパックに手を伸ばした八幡の指先が、ガサリと空疎な感触を捉えた。
((((((((((薬草のインベントリ、ついに枯渇(0枚)――!!))))))))))
ざわりと冷や汗が背中を伝う。八幡は両手を胸の前に構え、生体エネルギーの位相を固定――いつでも『ホイミ』を串刺し詠唱できるよう、神経の全リソースを一点に収束させる。
砂埃の向こうから、ゆらりと巨体が立ち上がる。
血だらけの鱗、鬼神の如き形相。
「ここまで俺を追い込むとはな……。認めよう。お前らは、勇者とその仲間だと」
遠くの木陰から、マアムが声の限り叫び返す。
「――違うわ! こいつらは、全員勇者よッ!」
その言葉を受け、クロコダインはどこか清々しく目を細めて頷いた。
「そうか……勇者たちか。では勇者たちよ、そろそろ終わらせるか」
限界を超えて異様に膨れ上がるクロコダインの右腕。
対するダイは、静かに一歩を引き、両手いっぱいに闘気を集約させる。
――『アバンストラッシュ』!
――『獣王痛恨撃』!
閃光と爆撃の奔流が正面衝突し、視界を白亜の煙が呑み込む。
相殺の爆風が吹き抜けた瞬間、煙を裂いてダイの追撃――『アバンストラッシュブレイク』の軌道が閃く。
ガキイイイッ!と空気を切り裂く音の直後、クロコダインの最後の一撃である斧のカウンターがダイの肩を掠め、両者ともに文字通りの相打ち。だが、蓄積ダメージの差か、クロコダインの方が圧倒的に深い致命の深手を負う。
「ダイッ!」
焦るポップの声を縫って、マアムの構える魔弾銃から純白の光線が放たれ、ダイの傷口を瞬時に癒やす。
「……大丈夫だ、あいつのHPゲージはこっちのベホイミ・サポートでまだリカバリー効く」
バタリ、と巨体が大地に崩れ落ちる。
クロコダインは仰向けになりながら、微かに口角を上げた。
「……良い勝負だった。勇者たちよ……強くあれ。強く……ッ!」
最後の意識が途切れ、巨体が静まり返る。
シュウッ……。
八幡は歩み寄り、その胸元にそっと手のひらを当てた。
――『ホイミ』。
微弱な聖光の粒子が、消えかけの生命の灯火を辛うじてつなぎ止める。
「……なんで? とどめを刺すわけじゃねえのかよ、八幡?」
ダイとポップが目を丸くして尋ねる。
「なんでって……死ぬ必要はねえさ。敵でなければ、な」
八幡はふっと自嘲気味に、しかしどこか名残惜しそうに笑ってみせる。
「――俺はこのオッさんに惚れちまったよ。勇者3人相手に、タイマンからのこのギリギリの消耗戦だぜ? 実質……あのオッさんの勝ちだろ、これ」
物陰から駆け寄ってきたマアムが、その不器用な優しさに触れて、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……やっぱり、優しいのね、あなた」
どくん、と――恋愛レベル19の不整脈が、また一段階厄介な跳ね方をする。
赤くなった頬を隠すように、八幡は鼻をこすりながら返す。
「……あー、その、女神のキス(物理)はもらえなかったが、女神の微笑みはいただけたな、ラッキーかよ」
「ちょっと、あんた達はあたしを女神扱いしすぎよ!」
真っ赤になって照れるマアムの横で、ダイとポップが顔を見合わせ、つられて腹の底からドッと笑い声を上げた。
決戦の荒野に、青年の不器用な温もりと、確かな明日への手応えが静かに満ちていく。
重い瞼をこじ開けたクロコダインの視界に、青空と、やたら顔の距離が近いポップのニヤケ面が飛び込んできた。
「……ん、なんで俺は……生きている?」
「――おいおい、起きたかオッサン。八幡があんたにホイミかけたんだよ。俺は一瞬『正気かよ』って止めようとしたんだけどさ、『敵でなければいいだろ、もったいねえ巨体だ』とか何とか言ってさー」
((((((おまっ、勝手に俺の好感度爆上げするようなセリフ代弁すんなや……! 恥ずか死ぬわ!))))))
八幡が数歩後ろで不本意そうに顔をそむける。
クロコダインは胸の重みを確認するように大きな手を当て、やがてふっと視線を落とした。
「……そうか。完全に、俺の負けだな」
「いや、だから実質オッさんの勝ちだろ、あれ」
ひょいと視界に割り込んできた八幡が、呆れたように肩をすくめる。
「3体1の非対称PvP(レイイド)だぜ? こっちは薬草枯渇スレスレの総力戦で、そっちはノーセーブ・ノーヒール。純粋なタイマンでまともに噛み合ってたのはダイのバケモノ剣技くらいだ。総合評価でどう見てもオッさんのキャリー(キャパ超え圧勝)だろ、論理的敗北だよこっちは」
「……いや、八幡。お前、謙遜しすぎだ」
クロコダインは起き上がりながら、唸るように言った。
「確かにダイは飛び抜けて強かった……。あの額に光る謎の竜の紋章も気になったが、何よりあの必殺技(アバンストラッシュブレイク)を間髪入れず繋いずる連携、そしてお前らのあの冷徹かつ嫌らしいほど正確なリソース管理とフェイント。――凄まじい戦闘センスだ」
巨体が、どすんと胡坐をかく。
「……よし、わかった。俺は魔王軍を抜ける!」
「えっ……!?」
ダイとポップが同時に声を揃えて仰け反る。
「い、いいのかよ!? 魔王軍の幹部(百獣魔団長)だろ、おい!」
「構わん。俺は一度死んだ。そして八幡に、お前らに命を救われた」
クロコダインは歯をむき出して、不敵に、けれどどこまでも晴れやかに笑い飛ばす。
「……俺は人間が気に入ったぞ。実に気持ちの良い奴らだ、お前らは!」
(((いや、こっちは陰キャ特有の損得勘定とリソース防衛の延長で生かしただけなんだが、なんか美談のトーンに綺麗にパッケージングされてるな……まあ、結果オーライの仲間フラグか)))
内心のツッコミを置き去りに、八幡もふっと口元を緩めて肩を叩いた。
「……まあ、ウェルカムだな。宿屋の宿泊費(パーティ枠)が空いてて助かるぜ」
その一言に、緊張の糸が完全にほどけたダイが、パァッと顔を輝かせて笑い出す。
「やった……! クロコダインの兄貴、よろしくな!」
「あ、おいダイ、馴れ馴れしいだろ!」と焦るポップも、隠しきれない笑顔で頬をポリポリかく。
マアムも木陰から銃を下ろし、安堵の混じった優しい笑顔でこちらを見つめている。
吹き抜ける森の風の中に、少しだけ不器用で、しかし最高に頼もしい新戦力の笑い声が、青空高く溶けていった。
「いや、俺は旅に出ようと思う」
立ち上がったクロコダインは、遠くの空を見据えて腕を組んだ。
「お前ら3人相手にも――今度こそ余裕で勝てるくらいにな。己を鍛え直すさ」
すっと差し出された手のひらに、ずしりと重みのある黒い丸玉が載っていた。
「なに、俺の力が必要になったらこれを使え。火をつけて上に投げろ。……信号弾(フレア)だ。ガルーダを伴って、どこへでも駆けつけてやる」
(((((((((召喚系ゲスト枠(いつでも呼べる救援アビリティ・オーブ)の獲得キターーーーー!! リソース危機の究極の安全弁、実質ガチャの天井突破だこれ……!))))))))
八幡の内心のテンションが最高潮(マックス)に跳ね上がるのを完璧な仏頂面(ポーカーフェイス)で隠し、その丸玉をひょいと受け取る。
「……おう、サンキュー。オーバースペックな保険(バフ)だな。いざという時は容赦なく使わせてもらうぜ」
ダイもポップも、そして少し離れたところから歩み寄ってきたマアムも、まっすぐな尊敬の眼差しでクロコダインを見上げて力強く頷く。
「うん! クロコダインの兄貴、強くなってまた会おう!」
「おう! 次は負けねえからな!」
巨体が大きく振り返り、背中を向けながら片手を軽く挙げる。
「――またな!」
「「「おおうッ!」」」
風が木々を揺らし、光と影の交錯する森の中で、最強の元魔王軍幹部は高らかな笑い声を残して、新たな己の道へと歩き出した。
(――さて。トカゲの離脱で前線アグリゲーターの枠は空いたが、こっちは生存確率(サバイバル・マージン)が数段跳ね上がった。……次なるルート、パプニカ王国へのロードマップを再計算するか)
青空の下、若き使徒たちの足取りは、確かな手応えを胸に次の一歩へと踏み出されていた。
「……んー……」
まどろみの底から浮上した視界に、見慣れた天井の染みが飛び込んでくる。
八幡はガバと起き上がり、寝癖のついた頭を乱暴にかきむしった。
「……夢かよ」
窓の外から差し込む土曜特有の気怠い午前中の光。
荒野の砂塵も、ヒャヒャヒャヒャドの冷感も、ピンク髪の女神の微笑みも、全部脳みそが勝手に生成したオーバークロックの残響。
「……ま、悪くねえ夢(メタ・クロスオーバー)だったな」
すうっと大きく伸びをしてベッドから抜け出すと、足早にキッチンへ向かう。
ケトルの湯が沸く静寂の音。ドリッパーに粉を落とし、ゆっくりと湯を注ぐ。立ち昇る苦い香り。
カップを手にベランダの網戸を開けると、少し肌寒い土曜日の風が頬を撫でた。
部屋に戻り、棚の奥から埃を払ったジャズのレコードをそっとターンテーブルに載せる。針落としのノイズのあと、乾いたウッドベースの低音が心地よく空間を浸食していった。
マグカップのコーヒーをひと口。
(((いやしかし、あのトカゲの召喚玉、リアルであのインベントリに欲しかったな……あと、恋愛レベル19のまま現実に戻ってきたら、明日からの学校の空気が全方位ハードモードで詰む未来しか見えねえわ)))
苦笑いしながら、ソファに深く身体を沈める。
トカゲをしばき、未来の大魔導士と勇者をバグらせ、ピンク髪を翻弄した(気になっていただけの)週末の朝。
ご機嫌なレトロの旋律に揺られながら、比企谷八幡の、ごく平和でどうしようもなくダウナーな土曜日が始まろうとしていた。
30歳のクロスロード
すっきり整った髪を撫でながら、八幡は街の喧騒を歩いていた。
(……そういえば、今日で30か。我ながら、見事にモラトリアムの残骸みたいな大人になったもんだ)
帰りがけ、近所のリカーショップで、ちょっと背伸びをした日本製のシングルモルトを一本カゴに入れる。帰宅後、バカラのロックグラスに自作の丸い氷をカツンと落とし、琥珀色の液体を注いだ。
キンと冷えたグラスを傾け、静かに呟く。
「……誕生日おめでとう、俺」
独りの乾杯の余韻に浸りかけたその時、無機質な電子音が部屋の静寂を切り裂いた。
ディスプレイに表示されているのは、見知らぬ番号。
(……ワン切り詐欺か? いや、このご時世に……)
一度目は華麗にスルー。しかし、容赦なく二度目のコールが鳴り響く。
「……しつこいな」
しかたなく通話ボタンを押す。
「なんですぐ出ないのよ」
「いや……知らない番号だったんで。……あんた、だれ?」
数秒の沈黙。耳朶を打つわずかな息遣い。
――切るか、と指が動いた瞬間、クリアで、けれどどこか熱を帯びた声が落ちてきた。
「……雪ノ下雪乃よ。久しぶりね、ヒキガヤくん」
心臓のゲージが、一瞬でレッドゾーンに突き抜ける。
(((((((((……は? 雪ノ下……? なんで今更……いや、どこでこの番号を――))))))))
「今、近くの駅にいるの。……来れるかしら?」
「いや……今から酒飲んでるから無理だろ、常識的に考えて」
「タクシーがあるでしょう? それとも、30歳になってもそんなにお金が無いわけ?」
相変わらずの切れ味。けれど、その響きはどこか焦燥と緊張に満ちていた。
「いや、普段使わんから選択肢に無かっただけだ。……行くよ。駅前でいいか?」
「……ええ。待っているわ」
プツ、と通話が切れる。
駅前のロータリー、冷ややかな夜風の中に立つ雪乃は、軽く息を白く染めながらスマホを握りしめていた。
((((由比ヶ浜経由で小町に頼み込んで、やっと聞き出した番号……。今日が彼の誕生日だって、知ってて来てやったのに……。この鈍感、本当に意味がわかっているのかしら……!))))
内心のツンデレと緊張のバグで心拍数が跳ね上がりながらも、すまし顔のまま視線を遠くへ走らせる。
自室に戻った八幡は、空になったグラスを置き、ハッと鏡に映る自分を見る。
「……やべえ。今日散髪しといて心底よかった……!」
ボサボサのままだったら、30歳の初日は全方位で詰んでいた。
コートを引っ掴み、八幡は夜の街へ走り出した。ロジックの通じない、最高に厄介で懐かしい非日常(イベント)の予感を引き連れて。
再会のシンクロニシティ
タクシーがロータリーの縁石に滑り込み、ドアが開く。
降り立った八幡の姿を、少し離れた街路樹の陰から雪乃の瞳が捉えた。
(――っ)
心臓が、リミッターを外したように跳ねる。
すっきりとまとまった髪型、整ったシルエット、モノトーンを基調にしたシックなコートの着こなし。そして何より、社会の荒波と、脳内で勝手にトカゲや魔王軍と死闘を繰り広げた謎の修羅場耐性(オーラ)を纏った、あの――かつてよりさらに陰影を増した鋭い三白眼。
(なんて……セクシーなの、この人……)
高校時代の「ひねくれた毒舌男子」の面影を残しながら、確実に「大人の男」としての重みと危うさを身につけていた八幡の姿に、雪乃の理性がわずかに揺らぐ。
小走りで歩み寄った八幡が、軽く息を弾ませて口を開く。
「……すまん、ちょっと遅れたか? これでも、呼んでから秒速でタクシー捕まえて急いできたんだが……」
言葉が、途中でぴたりと止まった。
夜風に揺れる黒髪。ハッとするほど澄んだ琥珀色の瞳。奉仕部の部室で初めて見たあの日の衝撃を、30歳の洗練と大人の透明感が軽々と凌駕して、目の前に立ち塞がっていた。
絶世の美女。
そして、あの頃から変わらない、どこか悪戯っぽくて、けれど温度のある薄い微笑み。
――雪ノ下雪乃。
2度目の一目惚れ、か?
「……どうしたの、そんなに固まって。30歳の老眼(ロジックエラー)でも起こしたかしら?」
からかうような、けれど微かに震えている声に、八幡の脳内でカツンと音が鳴る。
((((((いやこれ、初見の衝撃値(スプラッシュダメージ)がバグってんだよ。高校生の時の「容姿端麗なアイスドール」補正じゃなくて、10年分の空白と、今日この日の「誕生日・不意打ち・スーツ(コート)の不法侵入」コンボが重なって、HPとMPが同時に消し飛んでる。――これ、完全に2度目の墜落(ストライク)だ))))))
「……いや。……綺麗すぎて、セキュリティーホール(語彙力)が塞がった」
不器用すぎる本音が、夜風に零れ落ちる。
雪乃の頬が、夜の寒さとは違う色でふっと染まった。
「……ばかね。相変わらず、そんな台詞を平気で……」
視線を外そうとして、しかし逸らせない。
17歳の夏に始まった長い迷路の続きで、30歳の男は再び、その冷たくて優しい光の中に足を踏み入れていた。
次の一手、あるいはこの後の行き先――どうする、八幡?
30歳のテーブルマナー(迷走中)
「近くのレストランを予約してあるの。……行きましょう」
雪乃のスマートなリードに、八幡は「はい……」と完全に保護者(あるいは連行される容疑者)めいた素直さで背中をついていく。案内されたのは、程よく照明を落とした隠れ家風のイタリアン。
グラスに注がれた赤ワインで、カツン、と控えめな乾杯。
「……で、あなたはこんな時間(夜の始まり)から、お部屋でお酒を飲んでいたの?」
「いや、普段はそんな飲まねえよ。たまたま……ちょっといい日本製のシングルモルト手に入ったから、一人で乾杯してたんだよ。――今日、誕生日なんだよな、俺」
「……知ってるわよ」
すまし顔で、雪乃はスッとグラスを傾けた。
「……なんで知ってんの?」
「小町さんから聞いてたわ。『うちの兄が30の誕生日なのに一人で寂しく酒飲んでると思うんで、誰か拾ってやってください』ってね」
「あいつ……余計なデバッグ・コードを外部(雪乃ルート)にリークしやがって……」
「そうか……。ま、せっかくだから、こうして付き合ってくれて助かるよ」
ふわっと零れた八幡の苦笑と、その眼差しにある大人の余裕。
(――っ)
胸の奥が、熱く跳ねる。
18歳の夏の終わり、お互いに不器用で、言葉足らずで、境界線の内側を行ったり来たりしていたあの頃のままの記憶で止まっていたはずなのに。
目の前の男は、時折見せる妙な色気と、どこか削ぎ落とされた静けさを纏って――「大人」としてそこに座っている。
(……この人、いつの間にこんな、ずるい笑い方をするようになったのかしら)
追いつかない。
18歳の雪乃から見た「比企谷八幡」の解像度と、30歳の現物が一致しない。
それは、八幡にとっても全く同じだった。
(((((((((いや、待て。あのツンデレ氷の女王だった雪ノ下が、予約して、ワインでスマートに迎えて、小町経由のフラグ回収とかいう高度な外堀埋めプレイングかましてるんだが……? 18歳の時の「めんどくさい哲学少女」のイメージからアップデートできなくて、こっちのCPUも処理落ち気味なんだが……!!))))))))
ズレる共振(サイレント・ラグ)
前菜のカルパッチョをつつきながら、会話のテンポがどこか探り合いのそれになる。
「……髪、切ったのね」
「ああ。ずっと放置してたからな。社会生活の最低ライン維持(身だしなみバフ)」
「似合っているわよ。……その、悪くなくて、驚いたくらいだし」
「……お前も、相変わらず映えすぎてて直視すると視力が溶けるんだが」
毒にも薬にもならない、けれど確実に12年分の空白を埋めようとする言葉のキャッチボール。
お互い、相手が「大人」として洗練されているからこそ、ふとした瞬間に18歳の幻影が重なって、どうにも気恥ずかしい。
((((ギャップ萌えの連続コンボで、肝心の腹が減ってるんだか減ってないんだか分からん……!))))
キャンドルの揺らぐ微光の中、30歳になった二人の「最初の一歩」は、不器用なほど甘く、そして最高に面倒くさい調律を続けていた。
メインディッシュが届く頃、どちらが先に「あの頃」の続きを口にするのか――?
30歳のカウンター・アタック
キャンドルの炎がわずかに揺らぐ。
カルパッチョの皿が下げられ、メインがテーブルに置かれる前の、静寂の隙間。
八幡は、グラスの赤を回すでもなく、ただ真っ直ぐに雪乃を見据えた。
自嘲でもなく、ひねくれた防衛線でもなく――ただ、12年分の重みを乗せて。
「……俺は、お前に昔から憧れてた。けど……言えなかった。なんでかな」
「……比企ヶ谷くん」
「けど、ずっと後悔して、なんで『好きだ』の一言が言えなかったんだって、フラれてもいいから言えばよかったって……昨日の夜、やっと気づいた。……バカだろ。今更気づくなんてな」
(((((((((やべえ、30になってからの直球(ストレート・パンチ)の威力、自己デバフ込みでもライフ削り切るレベルで直撃してんだけど、心臓の鼓動うるさすぎて隣のテーブルに聞こえないかこれ……!!))))))))
「そうね……。でも、そんな仮定は無意味よ」
一瞬の沈黙。息を呑む八幡へ、雪乃はわずかに視線を泳がせながら、――トドメの追加数値を叩き込んだ。
「それに、あなたはフラれなかったわよ。……告白しても」
ビクリ、と八幡の肩が跳ねる。
顔を上げた八幡の瞳に、うっすらと赤みを帯びた雪乃の顔が映る。
「わたしも、あなたのことを……好ましく思っていたわ。ええ、不本意ながらね……!」
(((((((((……は? 不本意って何だその可愛いパニック・エラーの言い訳は――!!!!))))))))
言わなくていい「不本意ながら」の安全装置まで外して自己申告してしまった雪乃は、自分の発言の爆発力に今さら気づき、文字通りトマトのように顔を真っ赤にしてカップ(グラス)に逃げ込んだ。
対する八幡も、ライフ残量が完全にレッドゾーンを突破し、言葉を失ったまま手元の赤ワインを煽るように口に運ぶ。
「……さっき家で飲んでたから、なんか……酔いのまわりが早いな、これ」
「……わたしも、アルコールに、その……弱くて……」
18歳の時に置いてきたはずの青臭い攻防戦(ロジックの崩壊)が、30歳の洗練されたスーツとドレスの隙間で、最高に不器用な熱を持って再燃していた。
初々しすぎる30歳の同期エラーに、フロアのキャンドルも少しだけ困ったように揺れている。さあ、この後のセカンド・ターン――どっちが先に息を継ぐ?
30歳のパッチ適用(現実崩壊パニック)
赤らんだ頬を誤魔化すようにグラスを置いたが、頭の奥でリアルとメタの境界線が不穏にノイズを立てる。
((((((((((待て、昨夜遅くまで仕事して、帰って、ダイとかトカゲと戦う夢見て、起きて、散髪して……あれ、俺の脳内リソースのレンダリング、どこからが実メモリでどこからがキャッシュ領域だ……? 酒の回り方、変すぎだろ))))))))))
半ばやけくそで、八幡は口先だけで小さく――「……キアリー」と呟いた。
――瞬間。
脳髄をキリキリと抉っていたアルコールの熱が、スーッと蒸発するように霧散し、一瞬でシャープな覚醒が戻ってくる。
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
「どうかしたの? グラスが空いたなら、メインの前に――」
「いや……このワイン、うまいな、と思って……」
ごまかしに赤ワインを口に含む。
「そんなに高級じゃないけどね。……ワインは値段と味が必ずしも正比例しないものよ?」
悪戯っぽく、しかしどこか蕩けるような笑みを浮かべる雪乃。
「……そうなのか?」
((((((いや、待てよ。ダイの冒険は夢のはずだ。なのに、俺はいま『キアリー(解毒)』の概念をシミュレートして体内のアルコール数値を強制デバッグしたぞ……? 俺はまだ実戦でキアリー唱えたことないはずなのに、なぜかコードの契約(イメージ)だけが通った。……いや、そもそも昨日(夢のなか)のロジックが現実の肉体に干渉してる――? クソ、バグってんな世界線が!!))))))
深く、深く息を吐き出す。
心拍数のゲージを強制リブート。
(……クールになれ。俺は魔法使いだ。……あー、そういや30歳童貞だったわ、自明の理(セルフ・ディス)だったな)
自虐のパッチを当てて、八幡はすっと腰を浮かせる。
「……そろそろ、お開きにするか?」
「ええ、そうね」
ふわりと立ち上がった雪乃が、夜気を含んだ黒髪を揺らしながら、悪戯っぽい瞳でトドメの一撃を放った。
「――続きは、あなたの部屋にしましょうか」
ガキンッ、と、八幡の全CPU(理性のファイアウォール)が盛大にフリーズした。
((((((((((……は? 何を言ってるんだこの元氷の女王、氷点下から一気に高気圧熱帯低気圧直撃の不意打ちコンボ決めてきやがって、脳内の安全装置(童貞・防衛本能・三十路のプライド)が全方位でエラーコード吐き出してんだけど――!!!!))))))))))
言葉を失い、完全に固まったまま、すまし顔のまま微笑む雪乃を見つめる。
その、18歳の頃には絶対に見せなかった――けれど、どうしようもなく艶やかで眩しい笑顔から、八幡の目は一秒たりとも逸らせなくなっていた。
キャンドルの火が揺れるテーブルの向こう、30歳の童貞魔法使いは、人生最大のセーブポイントを前に――セーブするか、ロードし直すか、全裸待機(物理)するかを選ぶしかなかった。
ジビエやローストの香り高いメインディッシュがテーブルに置かれ、ナイフとフォークが重なる音だけが静かに響く。
「……うまいな、これ」
「でしょう? 結衣と、たまに来るのよ、ここ」
「へえ……。今でも付き合いあるんだな、由比ヶ浜と」
「ええ。わたしの親友、そして――ライバルだったから。恋の」
すっと伏せられたまつ毛の影と、どこか自嘲が混ざったような、けれど隠しきれない優しさを含んだ声。
その言葉の裏にある重みと因果の図式を、比企谷八幡の脳内プロセッサが即座に逆算する。
((((((((((「恋のライバル」宣言の直後に、由比ヶ浜の近況カードがオープン……? しかも「もう我慢しないでいい」って、お前、長年ブロックしていた感情のダム決壊ルートを友人に背中押されて開放しにきたってことかよこの元・氷の女王、火力高すぎて装甲が蒸発するわ!))))))))))
「由比ヶ浜も、もうずっと会ってないな。どうしてるんだ? 今」
「県外に転勤になったわ。……先月のことよ」
「そうか」
「もう我慢しないでいいって言われたわ。別にそんなつもりはないけれど、気を使わせてしまってたのかしらね。……結衣こそ、わたしに気を使わなくてよかったのに、とこぼす」
「そうか」
フォークを動かす手が止まり、雪乃がわずかに不満げな眼差しでこちらを射抜く。
「……あなた、さっきから『そうか』しか言ってないわよ。話、聞いてる?」
「聞いてるよ。――展開が早すぎて、パッチの当たり所が追いついてないだけで。……とりあえず、肉が冷めないうちに食おうぜ、これ」
どこか現実逃避じみたトーンで皿を指差す八幡。
「まったく……この男は」
小さく吐き捨てるように、けれどどこか嬉しそうに、雪乃も小さく首を横に振ってナイフを動かす。
そして――絶妙なタイミングで、黒服のウェイターが甘美な香りを纏ったデザートの皿を運んできた。
フォンダンショコラとバニラジェラートの対比、艶やかなベリーの赤。
人生の不意打ちエラー(セカンド・インパクト)は、まだデザートの苦甘い温度の中に沈み込んでいた。
フォンダンショコラの濃厚な甘さが口の中に広がるのを見届け、八幡は「さて、ちょっとトイレに行ってくる」と席を立った。
(((((((((((レジでさりげなくスマートに先払いキメるこれぞ大人のルーティン、レシートは直視しない、HP(財布)の残り香だけがほろ苦い))))))))))
洗面台で冷水を浴びて冷却に成功し、戻ってきた八幡は、席に戻りかけた雪乃が財布を取り出そうとするのをスッと制した。
「そろそろ、出ましょうか……」
「待て。……今日くらい、カッコつけさせてくれ」
「……あなた、誕生日でしょう?」
少しだけ目を細め、やれやれといった風情で、しかしどこか名残惜しそうに――雪乃は小さく息をついて小さな箱の包みを差し出した。
「……仕方ないわね。これ」
「これは?」
「誕生日プレゼントよ。その……ネクタイ、なんだけど……」
耳までほんのりと染め上げ、視線をわずかに逸らす雪乃。
(((((((((((は、はあ!? 30歳のサプライズ・プレゼントでネクタイ選んでくるこの圧倒的正ヒロイン力、直視したら網膜が焼けるが――くっ、すげえ上質なシルクの肌触りだ……!))))))))))
「……ありがとう。大事に使うよ」
30歳の男としての矜持で、八幡は最大限スマートに受け取ってみせる。
――だが、八幡は知らなかった。
「ネクタイ=あなたに首ったけ」という、古めかしくも重篤なメッセージコードがそこに内包されていることなど、陰キャの脳内パッチノートには記載がない。
(((((((((((うぅ、やっぱり遠回しすぎたかしら……こんなの、ただの社会的身だしなみ補助具(実用的プレゼント)にしか見えてないわよね、この鈍感男……!))))))))))
心の中で小さく頭を抱え、けれど。
いまの自分が差し出せる限界の温度と、精いっぱいの不器用な気恥ずかしさを飲み込み、雪乃はふわりと目を伏せた。
外の夜気は冷たい。
けれど、ポケットの中の小さな包みと、並んで歩くコートの袖越しの距離は、12年前よりもずっと近くに感じられた。
店を出て、ひんやりとした夜空の下。
タクシーを拾おうと雪乃がスッと片手を挙げた、その瞬間。
段差の影を踏み外し、足元が小さく傾く。
「っ……!」
重心が崩れかけた身体を、迷いのない速度で――八幡の両腕がガシリと抱き留めた。
「おいおい、足元くらい気をつけろよ」
(((((((((((は、重力加速度の計算ミスか!? 30歳の背筋と体幹、いつの間にこんなガタイ(フィジカル・キャパ)仕上がってんだ俺……!))))))))))
不意に包み込まれた力強い腕の温もりと、低く響く声の距離感。
(――っ、なにこの……オスの色気……、って、ばか、何を考えているのよわたしは……ッ!)
急激に高鳴った心臓の音を隠すように顔を背けようとしたが、カクン、と小気気味の悪い音を立てて、黒いヒールのピンが根元から折れた。
もはや、独歩での帰還は不可能(物理・ロジックのダブルエラー)。
「……これじゃ、歩けないわね」
「だな。……観念しろ、お前の部屋が遠いなら、うち(近場)のほうが早い」
かくして、足首を少し捻った雪乃を連れて、再びタクシーのシートが夜の街を滑る。
八幡の部屋のドアが開く。
足を引きずるように入ってきた雪乃を見るなり、八幡は迷うことなく言い放った。
「――お前、シャワー浴びてこいよ」
「…………は?」
声が出ない。
――いきなり、この男は何を言い出すのよ……ッ!?(怒りと動揺のマルチプル・エラー)
「さっき転びそうになって、足元(裾や足首周り)けっこう汚れてるだろ。昼間、雨も降ってたし。……風呂で流してこい。変なバイ菌入ったら面倒だぞ」
――圧倒的、純度100%の衛生管理(親切)と下心ゼロの善意。
(((((((((((いや、この状況で衛生面と感染症リスク気にしてシャワー勧める30歳児、ロジックとして正解すぎて逆に人間関係の機微がマイナスにバグってんだけど――!!))))))))))
「……! あなたねぇ……っ、相変わらずそういう、肝心なところで情緒の欠片もない……!」
昔からそうだった。
このひねくれた男は、わたしの命(やメンタル)を不器用に救うくせに、最高に、わたしの心をかき乱すのが上手い。
「……ふん。お言葉に甘えるわ」
不満げに、けれど抗えずに、雪乃はバスルームへと消えた。
脱衣所の扉の向こうから、シャワーの流水音が微かに響く。
洗面台の端に、真っ白な大判タオルと、替えの用意(生活感のある不器用な気遣い)をそっと置く八幡の手つきが、ほんのわずかに――コンマ数秒、硬直した。
(((((((((((待て、うちの風呂場に雪ノ下雪乃が存在しているというこの非現実的テクスチャ、RAM容量の限界突破してないか……!? 落ち着け、俺はリビングでモルトの残骸片付けてるモブおじさんだ、冷静になれ30歳童貞……!))))))))))
水音の向こう側。
濡れそぼつ黒髪の艶や、言葉にしがたい気配を想像してしまい、八幡の喉仏が小さく上下する。
そして――バスルームの曇りガラスの向こう、湯気に包まれた雪乃の心臓もまた。
(……どうして、あんなに平然と……わたしに……)
タオルに触れた指先が微かに震え、18歳の頃から変わらないままの、不器用でどうしようもない緊張感だけが、湯気のなかに静かに溶けていくのだった。