ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。 作:tomozow
意識が深い闇へと沈み込んだ先――八幡の目の前に広がっていたのは、見慣れた純白の精神空間だった。
「……またこの空間か」
八幡のだるそうな呟きに答えるように、空気が優しく揺れ、神の荘厳な声が響きわたる。
『久しいの、八幡』
「……神様よ。やっとわかった気がするよ。なんで俺が選ばれたのか」
『ほう? お前の答えを聞かせてくれ』
八幡は腕を組み、死んだ魚の目を神の気配へと向けながら、淡々と語り始めた。
「俺の同位体……マルチバースの俺がアレフガルドにいた。ここまではわかる。何故ロトの勇者がいないのかはわからない。が、あいつは竜王を倒しても殺さなかったのか? ……殺す理由が無かったんだろうな。それに、100年後もロトの勇者が現れる保証がなかった。だから自らが勇者になろうとした。しかし、人間は100年も生きないからな。寿命の長い竜王に願いを託した」
一息つき、八幡はふっと息を吐き出す。
「……だが、疑問は残る。王女はどうなったのか? スライムはゴメちゃんと似たゴールデンメタルスライムなのか? 生物でないはずのゴーレム、イージスは死んでしまったのか?」
八幡の考察をじっと聞いていた神は、満足そうに小さく笑った。
『……ふっ、及第点というところか』
神は静かに気配を深めると、八幡を見つめてこう言葉を継いだ。
『して、肝心の“なぜお前が選ばれたのか”の答えは……もはや言わなくてもわかるな』
八幡は何も言わず、ただ静かに、確信に満ちた笑みを浮かべて頷いたのだった。
「まあ仮にさ、最強の者を倒す、立ち向かうのが『勇者』になる絶対条件だっていうなら、竜王は強くなりすぎちまったんだよ。……ましてや、あいつは人間と敵対なんてしてない。むしろ陰からの守護者だぞ? そんなありがたい存在に敵対するなんて罰当たりな真似をする奴なんて、人間側にいるわけないだろ?」
八幡は呆れたように肩をすくめ、軽快に戯けてみせた。
「それにさ、万が一そんな身の程知らずな勇者様気取りが立ち向かったところで、瞬殺されるのがオチだ。あいつはマジでバトルジャンキーだからな。戦いとなれば相手が誰であろうと絶対に情けなんてかけやしない……」
そこで八幡は一瞬だけ言葉を切り、苦笑交じりに呟いた。
「……たった一人を除いて、な」
神はその言葉を聞き、深く重々しく頷いた。
「――その通りだ、八幡。龍神となった竜王が唯一『友』と認めたのは、アレフガルドの歴史に刻まれた『八幡』ただ一人。……その魂の面影を色濃く残すお前を殺すことなど、あの義理堅い竜王にできるはずもなかろう」
神の声には、因果の妙を楽しむような微かな響きが混じっていた。
「まあ、それを思えば……幸運だったのはクロコダインとラーハルトよな。神の領域にある龍神の試練を、実質ノーリスクで乗り越えることができたのだからな」
「違いない」
八幡は心底同感だというように深く同意した。
「本来なら骨も残らんような無謀な特訓だったってのに、あいつらが五体満足で帰ってこれたのは、あいつのおかげ……いや、アレフガルドの『八幡』の残光のおかげってわけだ。まったく、どこまでも手厚いアフターフォローだね」
深い精神の世界で、八幡は己に与えられた宿命と、異世界の龍神との奇妙な縁を改めて噛み締めていた。
「……これだけ聞いときたい」
八幡は少しだけ言葉を溜め、どこか躊躇うように静かに問いかけた。
「……王女は、幸せだったのか?」
神は八幡の問いを受け止め、深く温かな眼差しを向けた。
「……不幸、ではなかったはずだ。お前が――八幡がこの世を去った後、彼女は人間と竜王たちとの架け橋となって生きた。別段、操を立てていたわけではなかろうがな……お前以上の男など、そうはおらん。結果として独り身のまま、笑顔で老衰したよ」
「……っ」
八幡は顔を背け、小さく歯噛みした。
『笑顔で老衰した』という言葉の裏にある、生涯を一人で駆け抜けた彼女の途方もない孤独と決意。どれほどの想いを抱えて彼女が立ち続けたのかを想像し、やりきれなさに胸が強く締め付けられる。
そんな八幡の歪む表情を見て、神はニヤリといたずらっぽく笑った。
「――フッ、だがな。この話には続きがあってな」
「……あ?」
「彼女の生涯にわたる献身さと健気さを汲んだ神々がな、王女の魂を……八幡のいた『現実の世界』へと移したのだ」
八幡の目がわずかに見開かれる。
「赤ん坊として生まれ変わり、新たな生を受けた。そして成長するにつれ……彼女は前世の記憶を、徐々に思い出していったのだ」
「……八幡からすれば数ヶ月。王女からすれば今世でも15年か。高校生になった頃、2人は再会する」
神の言葉に、八幡の喉が乾いた音を立てた。
意識しないようにしていた心臓の鼓動が、急に不規則に跳ね上がるのを感じる。
「……それから?」
思わず身を乗り出すように尋ねた八幡に対し、神はニヤリと底意地の悪い笑みを深めた。
「クックック……こういう話のオチなど、どこも似たようなもんじゃ。記憶を取り戻し、再び恋に落ち……末永く幸せになりましたとさ」
呆気らかんと言い放つ神に、八幡は深く長い溜め息を吐き出し、天を仰いだ。
「……壮大な話だな」
「ロマンチックじゃろ?」
神が戯れるように肩をすくめる。八幡は頭をガシガシと掻きむしり、居心地悪そうに顔を背けた。
「……王女から見れば幸せになるまでめちゃくちゃ長いな。いや、俺じゃないけど俺なんだろ? なんか猛烈に全身が痒くなってくるんだが。……ていうかさ、高校生で再会ってことはだ。15、6歳……中学生くらいの年齢で世界救ってんのかよ、そいつは? 俺なら絶対無理だな。家から一歩も出ねえよ」
現実的かつ逃避的な八幡の言葉に、神は可笑しそうに声を上げて笑った。
「くくく……それは自画自賛にも聞こえるぞ、八幡? 『俺以外の俺なら世界を救える』と言っておるようなものだからな」
「自画自賛なわけねぇだろ。そいつは俺であって俺じゃないからな。こっちは助けてもらってやっと勇者だよ」
八幡は死んだ魚の目を神に向け、どこか不機嫌そうに、けれど胸の奥に灯った微かな温もりを隠すように吐き捨てたのだった。
「……でもさ」
八幡は顎に手を当て、ふと素朴な疑問を口にした。
「それなら、その世界の『八幡』本人を連れてくれば良かったんじゃないか? そっちの方が圧倒的にスペック高いだろ」
その問いに、神は静かに首を横に振った。
「奇跡はな……滅多に起きないからこそ『奇跡』と言うんじゃよ。幾重もの偶然と因果が絡み合った結果じゃ。そうそう都合よく同じものを引き寄せられるわけがなかろう」
「……ま、謎はいくつか残るけど、大体合点がいったよ」
八幡が肩の力を抜いて呟くと、神は深く頷いた。
「そうじゃの。……昔のことより、これからのことじゃ。八幡よ、実際に対峙してみて分かったと思うが……あのバーンは、お前の知る『原作』以上の強さじゃ。さらにはザボエラもキルバーンも未だ健在。ここから先、物語がどう転がるかは……ワシにすら分からん」
神の言葉は重かった。原作の知識というアドバンテージすら揺らぎかねない不確定要素。だが、八幡の死んだ魚の目には、恐れのの色は一切なかった。
「……それは、ダイたちも同じだろ」
八幡は淡々と、しかし確かな口調で言い返した。
「バランも生きている。ハドラーも親衛騎団も敵じゃない。全員が……原作以上の強さになってるんだよ。――そして」
八幡は自分の胸に軽く手を当てた。
「俺がいる」
神は一瞬目を見開き、次の瞬間、ふっと心底嬉しそうに微笑んだ。
「……ほう。お前がそんな風に言うとはの。……随分と『勇者』らしくなったのではないか?」
「……やめろよ、痒くなる。まあ、やれるだけやるさ」
八幡はそっぽを向きながら、ポツリと付け加えた。
「……イージスや、スラッシュの為にもな」
その名を聞いた瞬間、神の気配がピタリと止まった。神は驚きを隠せない様子で身を乗り出す。
「ほう……? お前……アレフガルドの八幡の記憶を引き継いでおるのか?」
「……さあな。何となくだよ」
八幡は鼻で笑い、それ以上は語ろうとしなかった。
朝の光が薄っすらとカーテンの隙間から差し込み、八幡は重い瞼を開けた。
「……ん……」
妙に静かな朝だった。カレンダーを見るまでもなく、身体の感覚が勝手に教えてくれる。――今日は祝日だ。学校も仕事もない、本来なら一日中布団に潜り込んで腐っていたい最高の日。
八幡はベッドの端に腰掛け、ぼんやりと天井を見上げた。
神との対話で明かされた、異世界の「八幡」と王女の物語。
そして、その王女が現実の世界へ転生したという話。
(……まあ、言うまでもなく『雪ノ下雪乃』だろうな)
何となく、感覚で分かっていた。
献身と孤独の末に生涯を終え、記憶を抱えて再び生まれ変わった少女。高校生になり、その「八幡」と巡り会って結ばれた存在。
「……まあ、あっちの八幡の話だからな」
八幡は小さく独りごちた。
あっちの自分は世界を救う旅の果てに王女と深い絆を結び、そして巡り巡って雪ノ下と結ばれた。なら、それは「向こうの二人」の物語だ。自分には自分の立ち位置があり、守るべき日常と戦うべき現実がある。余計な感傷に浸る必要も、自分を重ねて複雑な気になる必要もない。割り切るべきところは淡々と割り切るのが八幡の流儀だった。
ただ――
(……幸せなら、それでいいんじゃないの)
別世界の雪ノ下が、途方もない孤独の末に報われ、笑顔で隣にいる。その事実だけに、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じていた。
八幡はそっと口元を緩め、小さく微笑んだ。
キッチンへと向かい、慣れた手つきでマグカップを取り出す。湯を沸かし、ゆっくりと粉に注ぐと、香ばしいコーヒーの香りが部屋いっぱいに広がっていく。
「さて……」
湯気の立つマグカップを手に取り、八幡は静かに黒い液体を一口啜った。
「こっちはこっちで……目の前の『ラストボス』をなんとかすっとしますかね」
自分たちの世界の未来を掴み取るために。
八幡は死んだ魚の目を少しだけ引き締め、朝のコーヒーを静かに味わうのだった。
コーヒーの苦みが口内に広がるのを感じながら、八幡は深々と息を吐き出した。
(ザボエラもキルバーンも健在で、バーンは原作以上の領域に足を踏み入れている……。もう『知っている展開』にすがりつくプレイはできねぇな)
かつて頼りにしていた「ネタバレ」という最大の優位性は、完全に崩れ去っていた。これから起きるのは、攻略本もWikiも存在しない真の初見プレイだ。
だが――八幡の胸の底に、かつてのような冷めた諦観や恐怖は不思議となかった。
「……なんか、やれそうな気がするんだよな」
ぽつりと呟いた自分の声に、八幡自身が一番驚いていた。
「あいつらとなら……さ」
ダイの真っ直ぐな眩しさ、ポップの土壇場で見せる底力、バランやハドラーといったかつての宿敵たちが背中を預けてくる熱量。そして、神の領域の試練すら乗り越えて戻ってきたクロコダインやラーハルト。
原作の枠組みを超えて強くなったのは、敵だけではない。
自分たちが紡いできた泥臭い悪戦苦闘と絆もまた、原作の限界を遥かに突き破っていたのだ。
「……はぁ、ガラでもねぇこと考えてんな、俺も」
自嘲気味に頭をガシガシと掻く。
だが、死んだ魚の目の奥には、かつての「ひねくれ者のボッチ」には決して宿らなかった、静かで揺るぎない覚悟が灯っていた。
己の弱さを誰よりも知るからこそ、決して慢心せず、仲間の強さを素直に信頼する。
泥をすするような泥臭い立ち回りの中で、仲間を守り、勝ち目を手繰り寄せるその姿。
言葉とは裏腹に、マグカップを置く八幡の背中には、すでに『勇者』と呼ぶに相応しい確かな風格が滲み出始めていた。
マグカップを傾け、最後のぬるくなったコーヒーを飲み干しながら、八幡は自嘲気味に息を吐き捨てた。
「……まさか俺が勇者になるとはねぇ。人生、ほんとわからんもんだ」
奉仕部でぼっちをこじらせ、日陰でひっそり生きることだけを至上命題としていた男が、まさか異世界で『ロトの勇者』の威光を背負い、大魔王相手に命を張ることになるとは。
「まあ……その可能性(スペック)すらハナから持たねぇ奴なら、そもそもこんな無茶振りで異世界に呼ばれたりしねぇか」
だが、ふと頭をよぎる懸念があった。
(……しかし、仮に勝てたとして……)
元の世界へ戻れるのか。戻れたとして、向こうの日常はどうなっているのか。あるいは、自分はこの地に残るのか――。
「――ッ」
八幡はそこで思考をピタリと止めた。頭を軽く振り、余計な雑念を脳裏から力ずくで追い出す。
(……やめだ、やめ。皮算用なんざ後回しだ。今は勝つ道筋を、一筋でも多く手繰り寄せる……それだけ考えりゃいい)
マグカップを置いた八幡の「死んだ魚の目」が、静かに、しかし超高速で光を宿し始める。脳内で展開されるのは、膨大なパターンのシミュレーションだ。
真・バーンの圧倒的な攻撃性能、未だ見せぬ『天地魔闘の構え』、大魔宮のトラップや『ピラァ・オブ・バーン』、そして未だ健在のキルバーンとザボエラという不気味な不確定要素。
それらに対し、ダイの竜の騎士としての爆発力、ポップの真の魔法使いとしての起点、バランや超魔ハドラーという圧倒的戦力、そして神の領域の試練を越えてきた仲間たちをどう配置し、どう噛み合わせるか――。
いく通りもの敗北の可能性を脳内で切り捨て、勝利への唯一の細糸を紡ぎ出していく。
(……死ぬつもりは毛頭ねぇ。あいつらも……当然、俺もな)
「全員生存」という一番図々しく、一番困難で、けれど一番美しい結末を掴み取るために。戦略を練り、戦術のシミュレーションを繰り返す八幡であった。
澄んだ風が吹き抜ける通りを、八幡は両手をポケットに突っ込みながらぶらぶらと歩く。
(この戦いが終わったら……俺は元の世界に帰れるのかねぇ。それ以前に、あの真・バーン相手に勝てるかどうかも分からんっていうのに)
脳内で幾重ものシミュレーションを回しながらも、どこか客観的な視点を捨てきれずに街並みを眺めていた、その時だった。
「……あ」
人混みの向こうから、見覚えのあるスラリとした長身の影が歩いてくるのが見えた。
「よう。……こんなところで会うなんて、偶然だな」
声をかける八幡に対し、足を止めた川崎沙希は、一瞬目を見開いたあと――分かりやすいくらいに顔を朱に染めた。
視線を明後日の方向へと泳がせ、ぎこちなく髪を耳にかけながら、蚊の鳴くような、けれど怒ったような声で呟く。
「……ぐ、偶然じゃない……っ」
「ん?」
「偶然なんかじゃないわよ……! あんたが……あんたに会えないかって、ずっと探してたんだから……っ!」
「……っ」
思いがけない言葉と、真っ赤な顔で自分を見つめてくる川崎の強い眼差しに、八幡は思わず言葉を詰まらせ、素で少しだけ驚愕の表情を浮かべていた。
「……ちょっと、少し話すか」
頭の後ろを手で掻きながら八幡がそう提案すると、川崎はフンと鼻を鳴らし、真っ赤になった顔のままキッと八幡を睨み返してきた。
「……少しじゃ足りないわよ」
「へいへい……」
二人は賑やかな大通りを少し外れ、静かな川沿いの堤防へと移動した。吹き抜ける風が、川崎の長い髪をふわりと揺らす。
川崎はしばらく黙って歩いていたが、ふと立ち止まると、八幡の横顔をじっと覗き込んできた。
「……ねえ。あんた、なんか顔つき変わった?」
「あ?」
「顔つきっていうか……雰囲気というか。なんというかさ……」
川崎は少し照れくさそうに視線を泳がせながらも、意を決したようにハッキリと言い放った。
「……男らしくなったわよ。前よりずっと」
真・バーンとの死闘を潜り抜け、世界の命運と仲間たちの生還を背負う覚悟を決めた八幡の佇まい。かつての歪んだ死んだ魚の目の奥に宿る、静かな強さを川崎は敏感に感じ取っていた。
だが、八幡は柄にもなく褒められた居心地悪さを誤魔化すように、フッと自嘲気味な鼻笑いを漏らした。
「そりゃどうも。まあ俺も三十路だからな。渋みが出てきたんだろ」
「……バカ」
間髪入れずに返ってきた呆れ声。川崎は小さく吹き出し、どこか愛おしそうな、それでいて少し切ない眼差しで八幡を見つめたのだった。
「てかさ、前に電話番号教えただろ? 探す手間かけるくらいなら、普通に電話してくれりゃ良かったのに」
八幡がポケットに手を突っ込んだまま呆れたように言うと、川崎はピタリと足を止め、信じられないものを見るような目で八幡を睨みつけた。
「……あんた、本当に女心ってものを分かってないわね」
呆れ果てた溜め息とともに繰り出された一言に、八幡は思わず口をつぐんだ。
(……ぐ、ぐうの音も出ねぇ。なんだその『直接探すことに意味があるのに空気が読めない男子代表』みたいなカウンターは……)
内心で冷や汗を流しながら、八幡はゴホンと咳払いをして誤魔化すように空を見上げた。
「……まあ、街には出てみたものの、別に大した予定があるわけでもないんだよな」
「……私も。今日は何も予定ないわよ」
川崎がそっぽを向きながらつぶやく。川沿いの静かな時間に、どことなく甘やかで気まずい空気が漂う。
八幡はふと、前々から頭の片隅にあったことを思い出して口にした。
「そういえばさ……お前の作った料理、一回食ってみたかったんだよな。いつも弟たちのために美味いもん作ってるって言ってたろ」
「……っ!?」
八幡の何気ない独り言のような呟きに、川崎の肩が跳ねた。
一瞬で耳の先まで真っ赤に染め上げた川崎は、激しく狼狽しながらも、意を決したように八幡の服の袖をキュッと掴んだ。
「な、なら……今から、作る……っ! あんたの分も、部屋で……!」
真っ赤な顔で必死に訴えかけてくる川崎の勢いに、八幡は思わず「おお……」と圧倒されてしまうのだった。
川崎の部屋へ向かう途中、二人は食材を買い込むために近くの市場へ立ち寄った。
「あんた肉と魚、どっちがいいわけ?」
「んー、どっちでもいいけど……強いて言えば肉かね。あ、野菜も一応買っとけよ。バランス大事だし」
「分かってるわよ。小姑みたいにうるさいわね……」
なんだかんだと言い合いながら並んで歩く道中、八幡はふと胸の奥に妙なむず痒さを覚えた。
(……なんかこれ、端から見たら完全に買い物中の新婚夫婦みたいだな……)
そんな柄にもない思考を慌てて打ち消そうと横目で見ると、川崎も買い出し袋を抱えたまま、どこか意識したように頬を朱に染めて俯いていた。どうやら、向こうも全く同じことを考えていたらしい。視線がバチッと合ってしまい、お互いに慌てて明後日の方向を向く。
「あ、そうだ」
気まずい空気を誤魔化すように、八幡は棚から黄色い缶を手に取り、カゴへ放り込んだ。千葉県民のソウルフード、マックスコーヒーだ。
「あんた、相変わらずそんな甘ったるいもん飲んでんの……」
呆れ顔の川崎だったが、酒コーナーを通りかかった途端、躊躇なく缶ビールと缶チューハイのパックをカゴに叩き込んだ。
それを見た八幡は、思わず眉をひそめてツッコミを入れる。
「おい……まさか昼間から飲むつもりか?」
「なによ。今日は休みなんだから、いいじゃない」
ふんと胸を張って言い返す川崎に、八幡は呆れつつもどこか親近感を覚えてフッと口元を緩めた。
「……まあな。たまには昼間から飲むのも乙なもんだ」
他愛もない生活感あふれる買い物。真・バーンとの決戦という重苦しい現実を束の間忘れさせてくれるような、あたたかく穏やかな時間が二人の間に流れていた。
買い出しを終えて川崎の部屋へ戻ると、彼女は手際よくエプロンを身につけ、台所に立った。
トントンとリズム良く包丁の音が響き、しばらくすると出汁と醤油の香ばしく優しい香りが部屋いっぱいに広がっていく。テーブルの上に並べられたのは、出汁の染み込んだ肉じゃがや、ツヤツヤと光る里芋の煮っ転がし、そして小鉢の数々。
「はい、できたわよ。冷めないうちに食べなさい」
少し得意げに、けれどどこか緊張した面持ちで料理を差し出す川崎。八幡は箸を伸ばし、肉じゃがを一口口に運んだ。
「……美味い」
飾らない、けれど心のこもった温かい味。噛みしめるように呟いた八幡の言葉に、川崎はほっとしたように胸を撫で下ろした。だが、缶チューハイを少し口に含んだ後、彼女の表情がどこか影を帯びていく。
ぽつり、ぽつりと、川崎は自分のグラスを見つめたまま言葉を零し始めた。
「……ねえ」
「ん?」
「もう……遅いかな」
「……あ?」
八幡が箸を止めると、川崎は寂しげな、けれど切ない笑顔を浮かべた。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「私とアンタって……高校の時だって、別に取り立てて友達だったってわけじゃないじゃない。卒業してからも、たまにこうやって偶然会うくらいでさ……」
膝の上でぎゅっと拳を握りしめる川崎。
「もう……お互いこんな歳だしさ。アンタにだって、もっと良い相手とか……いるんだろうけどさ……。私……もう、遅いのかな……っ」
抑えきれなくなった感情とともに、川崎の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
ずっと胸の奥に押し込めていた想い。世界の命運を背負い、どこか遠くへ行ってしまいそうな八幡の背中を見て、いてもたってもいられなくなっていた一途な焦燥と愛しさ。
八幡は何も言わなかった。
言葉で飾ることも、斜に構えて誤魔化すこともせず――
静かに立ち上がると、泣きじゃくる川崎の体を、そっと力強く抱きしめた。
八幡の胸の中で、川崎の肩が微かに震えていた。
包み込むような温もりの中で、八幡は彼女の頭にそっと手を添え、優しく、けれど確かな力強さを込めて言葉を紡ぐ。
「……遅い、か。確かに、そう思う気持ちもわかる」
八幡は腕の中の川崎を感じながら、静かに息を吐いた。
「でもよ、川崎。人生に……遅くても『遅すぎる』なんてことはないんだよ。いつだってな」
自分たちがどれほど遠回りを重ねてきたとしても、どんな過去や運命を背負っていたとしても。今、こうして互いの柔らかい温もりに触れているこの瞬間に、遅すぎることなんて何一つない。
八幡の言葉を聞いた川崎は、溢れる涙を濡れた頬に伝わせたまま、そっと瞼を閉じた。
言葉はいらなかった。
八幡は川崎の顎に静かに手を添えると、そのままゆっくりと顔を近づけ、彼女の柔らかい唇に自身の唇を重ねた。
一瞬、川崎の身体が驚きで強張ったものの、すぐにその緊張は解けていった。彼女は八幡の背中にそっと手を回すと、溢れ出す愛しさと切なさをすべて委ねるように、静かにそのキスを受け入れた。
部屋の中に、二人だけの穏やかで深い時間が流れていた。
ゆっくりと唇が離れると、川崎は一気に顔を耳の先まで真っ赤に染め上げ、信じられないものを見るような目で見つめてきた。
「あ、あんた……っ! いきなりな、なになに……っ!?」
狼狽して言葉を詰まらせる川崎に、八幡は照れくささを隠すように少しだけ視線を泳がせ、頭の後ろを掻いた。
「……泣いてる女を放っとけるほど、俺も冷たくねぇよ」
どこか不器用で、けれど真っ直ぐな八幡の言葉。
それを聞いた川崎は、一瞬呆けたように目を見開いたあと、目尻に残った涙をキュッと拭って小さく呟いた。
「……ずるい」
心底弱り果てたような、けれど愛おしさに満ちた声だった。
「あんた……ほんと、ずるいわよ……」
川崎はもう一度八幡の胸元に顔をうずめると、今度は逃がさないと言わんばかりに力強くその背中に腕を回した。
八幡の服から伝わってくる温かさと、トクトクと不規則に刻まれる心臓の鼓動。
どこか遠くへ行ってしまいそうだった彼が、今確実に自分の腕の中にいるという確信。
川崎はそっと目を閉じ、溢れる感情を満たすように、その温もりを心ゆくまで噛み締めていた。
夕闇が静かに街を包み込み始める頃、八幡は川崎の部屋を後にしようと玄関に立っていた。
扉を開ける間際、川崎が八幡のシャツの裾をちょんと引っ張り、上目遣いでまっすぐ見つめてきた。
「……私、諦めないよ?」
少しだけ震える、けれど揺るぎない決意がこもった声。
八幡は一瞬驚いたように目を見開いたあと、ふっと柔らかく口元を緩めた。
「俺もだ。……というか、お前って元々諦めが悪い女じゃなかったか? 高校の時からさ」
「……あ」
八幡の軽口に、川崎はぽかんとした後、心底嬉しそうに「そうだったね」と満面の笑顔を咲かせた。
そして、八幡が靴を履き終えたその時――川崎は意を決したように、ボソッと悪戯っぽく呟いた。
「……ねえ。次、あんたがここに来る時は……お泊まりセットも、いるかな?」
言い終わるやいなや、川崎の顔は爆発したみたいに真っ赤に染まった。
「――ッ! 気が早えよバカ!」
八幡もまた、耳の先までリンゴみたいに真っ赤にしながら叫ぶようにツッコミを入れた。
「ふふ、じゃあね、八幡。絶対……また来なさいよ」
「……ああ。またな、沙希」
静かに閉まるドアの向こうから聞こえた満足そうな溜め息を感じながら、八幡は熱を持った頬を夜風に晒した。
守るべきものが、また一つ増えた。
「……よし」
死んだ魚の目に、圧倒的な強者の光が宿る。
八幡はポケットに両手を突っ込むと、生き残らねえとな、とつぶやきながらアパートへと向かった。
八幡が目覚めると、中庭からは激しい拳と拳がぶつかり合う重低音が響いていた。
そこでは、オリハルコンの身体を誇るヒムと、マアムが白熱した組み手を行っていた。
「オリャアッ!!」
剛拳を繰り出すヒムの動きは速く、重く、一見すれば互角の死闘を繰り広げているように見える。ギャラリーのポップたちがゴクリと息をのむほどの一進一退。
――だが、八幡の目には、そして腕を組んで見守るロン・ベルクの目には、その勝負の真実がはっきりと見えていた。
(……マアムの奴、完全に合わせに行ってんな)
ロン・ベルクから授かった最強の防具にして武器『魔甲拳』。そして武神ブロキーナ老師から叩き込まれた「無手にて敵の力を流し、隙を突く」極意。
真の武闘家として覚醒したマアムからしてみれば、今のヒムの直線的な踏み込みは隙だらけだった。あの『蒙古破砕拳』のような必殺の一撃を繰り出すまでもなく、勝負の決着など最初からついている。
「そこだ――っ!」
ヒムが放った渾身の右ストレート。
マアムはその拳が鼻先をかすめる瞬間に最小限の動きでかわすと、吸い込まれるようにヒムの懐深くへと潜り込んだ。
ヒムの無防備な胸元へ、吸い付くように伸びるマアムの拳。
――ビシッ!!
強烈な衝撃波がヒムの背後に突き抜けたが、マアムの拳はヒムの胸板の数ミリ手前でピタリと止まっていた。寸止めである。
「……あ……?」
目を見開いたまま動けなくなるヒム。額から冷や汗がポロリとこぼれ落ちる。
「……そこまで! 私の勝ちね、ヒム」
マアムがスッと拳を引き、ニッコリと微笑む。
「ぐっ……ま、参った……! 隙をついたと思ったのに、まるで手のひらの上で踊らされてた気分だぜ……」
頭をガシガシと掻くヒムに、ロン・ベルクが口元を緩めながら声をかけた。
「フン、当たり前だ。今のマアムの動きの見切りと魔甲拳の扱い……技術に関しては、もはや熟練の武術家すら凌駕しているからな」
「へっ、さすが俺たちの女神様だな!」
ポップが誇らしげに鼻を鳴らす中、八幡も壁に背をもたれかけながら、頼もしそうにマアムを見つめたのだった。
寸止めされた拳の威圧感に打ち震えていたヒムは、ガバッと勢いよく頭を下げ、マアムに向かって叫んだ。
「マアム、いや……マアム師匠! 俺をアンタの弟子にしてくれ!!」
「えっ!? し、師匠!?」
突然の申し出にマアムが目を丸くして驚く中、ヒムはさらに熱い眼差しで必死に言葉を続ける。
「アンタに一撃すら入れられないようじゃ、ハドラー様の手伝いなんかできねぇ! どんな厳しい修行でも耐えてみせる……頼むっ!!」
土下座勢いで頼み込むヒムの横から、静かに歩み出てくる存在があった。
超魔ハドラー――その威風堂々とした巨躯から漂う気迫に、周囲の仲間たちが息を呑む。
「……お前たちの師であるアバンの仇であるこの俺が、このような頼みをするのもおかしな話だが……」
ハドラーはマアムを力強い眼差しで見つめ、深々と頭を下げた。
「頼む。……俺たちは決して傷をなめ合う仲間などではない。だが、大魔王バーンという絶対の共通の敵を打倒するため……ヒムに、そして我ら親衛騎団に、更なる力を貸してはくれまいか。頼む」
そのハドラーの背後に追従し、アルビナス、シグマ、フェンブレン、ブロックたち親衛騎団の面々も一斉に深く頭を下げた。かつての世界を脅かした魔王とその親衛騎団が、一人の少女武闘家に頭を下げて教えを乞う姿――それは圧巻であり、何よりも本気の覚悟の現れだった。
「ハドラー……みんな……」
マアムは差し出された覚悟の重みを受け止めるように、しっかりと胸に手を当てた。
かつての宿敵同士。けれど今、同じ未来を見据えて闘おうとする彼らの熱意に偽りがないことを、マアムは直感で理解していた。
「――分かったわ」
マアムは力強く頷き、まっすぐにヒムたちを見つめ返した。
「私で教えられることなら、いくらでも教えるわ。でも……私の修行、ブロキーナ老師直伝だから本当に厳しいわよ? 覚悟しておいてね、ヒム!」
「おうっ!! 望むところだ、マアム師匠!!」
ヒムは歓喜の声を上げ、ハドラーたちも静かに拳を握りしめた。
その光景を遠巻きに見ていた八幡は、壁に背をあずけたまま、フッと口元を緩めた。
八幡の脳内では、彼らの新たなる力をも組み込んだ「真・バーン討伐」の戦術シミュレーションが、さらに精度を増していた。
中庭の空気は、さらに熱気を帯びていった。
マアムとヒムの組み手が始まった横で、今度は騎士シグマがポップに向かって静かに歩み寄る。
「手合わせ願おうか、ポップ殿」
「ゲッ……! いやいや、勘弁してくれよ! あんたのその『シャハルの鏡』、魔法を全部跳ね返すんだろ? 怖くて魔法なんか撃てるかよ!」
ポップは大げさに頭を抱えて嫌がってみせるが、シグマは至って真面目な顔で首を振った。
「だからこそ訓練の意味があるのではないか? 実戦で予期せぬ跳ね返しにどう対処するか……それを研ぎ澄ます絶好の機会だ」
「うぐっ……正論すぎて言い返せねぇ……! よーし分かった、付き合ってやるよ!」
腹を括ったポップとシグマの間で、早くも高度な間合いの詰め合いと呪文の応酬が始まってしまった。
さらに、その様子を鋭い視線で見つめていたフェンブレンが、腕を組んで佇むヒュンケルの前へと歩み出る。体の至るところに刃を持つその異形の騎士は、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
「おい、ヒュンケル。手持ち無沙汰なら俺とやらないか? あんたの持つ剣も、俺たちと同じオリハルコンで出来ているんだろう? どちらの刃が上か、試してみようぜ」
仕掛けられた勝負。だが、ヒュンケルはぴくりとも眉を動かさず、静かに腰の『鎧の魔剣(あるいは破邪の剣)』に手をかけた。その瞳には、一切の揺らぎもない。
「断る理由もないが……勘違いするなよ、フェンブレン」
ヒュンケルは静かに剣を抜き放ち、その刃をすっと構えた。
「同じオリハルコンであろうと、腕が違う。……最強の剣とは、この破邪の剣と、この俺だ」
静かながらも圧倒的な圧力を放つヒュンケルの言葉に、フェンブレンの全身の刃がぞくぞくと歓喜に震える。
(……違いないな)
壁に背をもたれかけながらその光景を見ていた八幡は、内心で静かに同意していた。
ダイやバランには「竜の騎士」としての規格外の力があり、八幡自身には「イージスの鎧」と異世界の知識、そして泥臭い戦略がある。
しかし――純粋な『剣の腕』、技術と見切り、そして死線を潜り抜けて磨き上げられた剣術の精度という点においてのみ言えば、バランもダイも、そして八幡すらもヒュンケルには及ばない。
「全く……どいつもこいつも、戦闘狂(バトルマニア)ばっかりかよ」
八幡は小さく呆れたような溜め息をつきつつも、互いの得意分野をぶつけ合い、極限まで高め合っていく仲間たちの姿を頼もしく思うのだった。
戦場の熱気が高まる中、ひときわ頑丈な巨体を誇るブロックが、無言のままドンと自分の胸を親指で叩いた。その巨岩のような姿で、武闘派のクロコダインをまっすぐに見据え、手合わせを挑む。
「……ほう。俺を誘うか」
クロコダインは豪快に牙を剥いて笑い、低く唸るような声を響かせた。
「前の俺なら、その堅さに手こずったかもしれんが……! 今の俺に『力比べ』で勝てる者がいるのか、試してみるか、デカいの!」
「グオオッ!」と気合の入ったうなり声を上げるブロック。武人として誇りを取り戻したハドラーの背を支えるため、親衛騎団の壁としてさらに強くなろうとするその気迫は本物だった。
二人の怪物が激突しようとするその光景を、八幡は少し離れた場所から腕を組んで眺めていた。
(……ブロック、ね)
その頑強な巨体と、無骨でありながら主や仲間のために体を張る姿を見ていると、八幡の胸の奥に、ふっと不思議な懐かしさが湧き上がってきた。
(どことなく……あいつに似てやがるな)
脳裏によぎるのは、神の対話で示されたもう一つの世界――凍てついた「アレッフガルド」の記憶。
かつて、もう一人の自分が過酷な旅路を共にした、無言のゴーレム『イージス』。
感情を持たず、ただひたすらに守りの盾として戦い、砕け散った巨像の面影。
そして、その砕けたコアこそが、今やこの世界の自分の体を守る「イージスの鎧」として宿っている。
(……イージス、か)
無意識のうちに胸元に手をやり、宿る防具の確かな温もりを感じながら、八幡は小さく息をついた。
あっちの八幡が背負った別れの記憶と、こっちの俺が今背負っている仲間たちとの絆。形は違えど、誰かを守るために立ち上がる意思の重さは変わらない。
「おい、クロコダイン! あんまり力任せにやりすぎて、地面えぐり過ぎるなよ!」
ポップのそんな野次が飛ぶ中、クロコダインの巨拳とブロックの剛腕がガチンと激突し、凄まじい衝撃波が周囲の空気を震わせた。
強者たちが己を高め合うその熱狂の中心で、八幡は静かに目を細め、最後の決戦に向けた頭のなかのピースをしっかりと噛み合わせていくのだった。
中庭で仲間たちがそれぞれ激しい手合わせを繰り広げる中、八幡が壁にもたれてその様子を眺めていると、トコトコと落ち着かない足音が近づいてきた。
視線を落とすと、そこにはいつになくもじもじとした様子で指を絡ませるダイの姿があった。
「あのさ、八幡……」
「ん? どうしたダイ。水でも飲みに来たか?」
八幡がいつもの調子で軽口を叩くと、ダイはブンブンと首を横に振った。そして、真っ直ぐで嘘偽りのない瞳を八幡に向け、どこか気恥ずかしそうに、けれどハッキリと言った。
「ううん、そうじゃなくて……。俺、さっきから見てて思ったんだ」
「なにをだ?」
「八幡のこと……その、すっげえなって。今の八幡って、俺が昔から絵本とかで思い描いていた……まさに『勇者』そのものなんだって」
「は?」
予想外すぎるダイの直球な称賛に、八幡は思わず動きを止めた。
驚いて目を丸くする八幡の背後から、いつの間にか歩み寄ってきたバランが静かに腕を組み、深々と頷く。
「ダイ殿の言う通りだ。圧倒的な知略で戦況を支配し、己の弱さを隠さず、それでいて仲間を守るために一歩も引かない。貴殿の佇まいは、まさに真の勇者のそれだ」
さらに、その横で愛用の槍を肩に担いだラーハルトも、フッと不敵な笑みを浮かべて同調する。
「同感だな。人間でありながら、魔王軍の残党や俺たち竜の騎士の一族ですら自然と背中を預けたくなる……不思議なカリスマがある」
ダイ、バラン、ラーハルトという、世界最強クラスの面々から真っ直ぐ向けられる全幅の信頼と絶賛。
流石の八幡も気恥ずかしさを隠し切れず、ボリボリと頭を掻きながら目を泳がせた。
「おいおい、やめてくれよ……。おだてても何も出ねぇぞ。第一、俺はただの一般人だったし、チートな技の数々も純粋に俺自身の力ってわけじゃないからな」
口ではそう言って照れ隠しをする八幡だったが、脳裏にはふと、神との対話や別世界の「もう一人の八幡」の記憶がよぎる。
(……とはいえだ)
別世界の八幡が命を懸けて戦い、過酷な旅の果てに遺した「イージスの鎧」や因果のつながりが、巡り巡って今の自分を支えているのは事実だ。
(あっちの八幡も、まぎれもなく『俺』なんだよな。……なら、あの世界の功績とこっちの俺の頑張りを合わせれば、実質俺の功績ってことでいいのか……?)
いや待て、それって自己同一性の拡張というか、もう1人の自分にタダ乗りしてるみたいで若干ややこしくないか? と、八幡のひねくれた思考回路が高速でぐるぐると回り始める。
「……ま、いっか。理屈はともかく、結果として今ここに立ってて、やるべきことが決まってりゃそれで十分だろ」
頭を軽く振って雑念を追い払った八幡は、期待に満ちた目を向けてくるダイに向けて、いつもの死んだ魚の目を少しだけ細め、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「……ダイ」
八幡は首を小さく鳴らすと、まっすぐにダイを見つめた。
「今の俺の力……一度、試させてくれないか」
「えっ……八幡が、俺と手合わせを!?」
驚きで目を輝かせるダイに、八幡はさらに不敵な笑みを重ねる。
「ああ。それとな……お前の『本気(フルパワー)』も見ておきたい。真・バーンとやる前に、俺たちがどこまで互いの力をぶつけ合えるか……それを知っておく必要がある」
八幡の言葉に宿る圧倒的な覚悟を感じ取ったダイは、一瞬で表情を引き締めた。その瞳に、燃えるような闘志が灯る。
「……分かった。八幡が相手なら、俺も容赦しないよ!」
ダイが力強く頷き、二人は静かに中庭の中央へと歩み出た。
「おいおいおいマジかよ!? 八幡とダイがやるのか!?」
「離れろ皆! ただの手合わせで済む規模ではないぞ!」
ポップの悲鳴とバランの鋭い警告が飛び、ギャラリーが一斉に大きく距離を取る。
二人が間合いを詰めた瞬間、大気が激しく震え始めた。
――ゴゴゴゴゴ……!!
八幡の身体を包み込む「イージスの鎧」が、別世界の英雄の記憶と呼応するように青白く絶大な光を放つ。その背後に立ち昇る気迫は、もはや一人の人間のものではなく、世界の理を書き換える『勇者』そのものの威容であった。
対するダイもまた、額に『竜の紋章』を眩いばかりに輝かせる。
全身から溢れ出る青き竜の闘気(ドラゴニックオーラ)が爆発的に高まり、あまりの密度の高さに大気が軋み、地面の石畳が次々と浮遊し、砕け散っていく。
神話の時代に世界の半分を崩壊させたという――『真竜の戦い』。
その伝説の死闘を思わせる凄まじい衝撃波と圧力が、二人の中心から渦を巻いて吹き荒れた。
「行くぞ、八幡――っ!!」
「来い、ダイ」
咆哮とともに、イージスの輝きと竜の闘気が真っ正面から激突した。
全身を包み込むイージスの鎧が熱を帯び、凄まじいエネルギーが八幡の肉体と精神を駆け巡る。
(……これが、戦いの高揚感か)
全身の毛穴という毛穴が開き、アドレナリンが猛烈な勢いで分泌されていくのがわかる。日常の退廃やひねくれた思考などはすでに脳の隅っこまで吹き飛んでおり、そこにあるのは純粋な戦闘への没頭だけだった。大魔王バーンへの脅威も、世界を救うという重責も、今の八幡の思考には微塵もない。
ただ目の前のダイと全力でぶつかり合い、高め合う――それだけが世界のすべてだった。
その圧倒的な気迫は、まさに神話の時代に描かれた神々の戦いを彷彿とさせるものだった。
「……見事だ」
ギャラリーの一角で、バランが深く頷きながらその圧倒的な激突を見据える。
ポップはあまりの凄まじさに目を剥き、言葉を失って震えていた。メルルは水晶玉を握りしめたまま息を呑み、レオナも固唾を飲んで二人の攻防に釘付けになっている。
「はあああぁぁぁ――っ!!」
ダイが放つ闘気が限界を超え、究極の必殺技へと収束していく。
八幡もまた、手にした剣を構え、その一撃にすべてを乗せようとした――だが。
(待て、この威力を乗せたら……俺の持ってる剣が、この衝撃に耐え切れずに砕けるか……!?)
いくら八幡自身の身体がイージスの鎧によって強化されていようとも、手にしている武器自体が神技の激突に耐えられる保証はない。ロン・ベルクの傑作であっても、限界はある。
その瞬間、八幡の意思を察知したかのように、全身を覆うイージスの鎧の片肩がまるで意思を持つかのように溶け出した。
「なっ……!?」
ドロリと液状化したブルーメタルが、八幡の剣の柄から切っ先へと一気に流れ込み、瞬く間に刀身を隙間なくコーティングしていく。
オリハルコンほどの絶対的な硬度には至らないものの、それは遥か昔のアレフガルドの神話において英雄たちを支え続けた、伝説のレアメタル――ブルーメタル。
剣の耐久力は飛躍的に跳ね上がり、ダイの闘気を受け止めるに十分すぎる神刀へと変貌を遂げた。
「これなら……いけるっ!!」
イージスの輝きをまとったブルーメタルの剣を掲げ、八幡は踏み込み、全力全開のギガスラッシュを放った。
「――ギガスラッシュ!!」
光の奔流が空間を引き裂き、あらゆるものを飲み込んでダイへと直進する。
対するダイもまた、双眸をカッと見開き、全身全霊の闘気を剣に込めた。
「――ギガストラッシュ!!」
放たれた閃光と暗黒の入り混じる究極の剣閃――ギガストラッシュが、正面からギガスラッシュと激突した。
世界が割れるかのような轟音と眩い光が、中庭の中心から全方位へと爆発的に弾け飛ぶのだった。
凄まじい閃光と爆風が中庭を呑み込み、二人はその衝撃で互いに大きく弾き飛ばされた。
石畳が粉々に砕け散り、舞い上がった砂煙がゆっくりと晴れていく中、先に膝をついていた状態からふらりと立ち上がったのはダイだった。ゼェハァと荒い息を吐きながらも、ダイはその場に踏みとどまっている。
少し遅れて、八幡も地面に片手をつきながら起き上がった。コーティングしていたブルーメタルは元の形状に戻りつつあるが、全身の筋肉は悲鳴を上げている。
「……はぁ、はぁ……ちっ、見事だな」
八幡は苦笑を浮かべながら、地面に転がった剣を拾い上げ、ふっと息をついた。
「……負けた、か」
その言葉に、ギャラリーで見守っていた一同はどよめいた。
ポップはガクガクと膝を震わせながら、「う、嘘だろ……あのダイと、あそこまで真っ向からやり合える人間がこの世にいるのかよ……」と呆然としている。
ヒュンケルは腕を組み、鋭い眼光のまま低く唸った。「剣の技量や純粋な出力ではダイが上だったか。だが……」
バランもまた、我が子の成長に目を細めつつ、同時に八幡という異質の存在に対して深く感心したように頷いていた。ラーハルトも「なんという漢だ……」と不敵な笑みを漏らしている。
確かに、今回の「純粋な武力と力のぶつかり合い」というルールの勝負において、勝者はダイだった。
しかし――この場にいる強者たちは、誰もが心の底で理解していた。
これがもしルール無用の「実戦」であったなら、話は全く別だと。
(間違いなく、八幡は今の数倍の罠と、二の手三の手の策を用意していただろう……)
戦略、心理誘導、奇策、そしてあらゆる状況を逆手に取る冷徹な判断力。
それらを一切封じた「正面からの力勝負」であっても、ダイを相手にここまで互角の領域まで行き着いてみせた。ただの人間だったはずの男が、竜の騎士や怪物たちと並び立ち、互角以上の怪物を演じてみせたその事実自体が、周囲の者たちに底知れぬ驚愕と信頼を与えていた。
「すごいよ、八幡……! 最後、本当に負けるかと思った……!」
ダイが汗を拭いながら満面の笑みで歩み寄り、パッと手を差し伸べる。
八幡はその手を取って立ち上がると、やれやれと言った様子で頭を掻いた。
「やめろ、これ以上持ち上げるな。……で、どうだダイ。お前のその『本気』の感触、しっかり体に刻み込めたか?」
「うん! バッチリだよ!」
ダイの力強い返事を聞き、八幡はふっと口元を緩めた。
最強の剣士と、異世界の知識とイージスの鎧を纏った戦略家。最高潮に達した仲間たちの絆と仕上がった戦力を背に、いよいよ決戦の時は間近に迫っていた。
真・バーンの玉座、あるいは居城の深部。
冷徹な静寂が支配する空間で、大魔王バーンはゆっくりと振り返り、不気味に佇む死神の使い――キルバーンを見据えた。
その赤い瞳が捉えているのは、巨大な鎌を携えた黒い衣の男……ではなく、その隣で不敵に浮遊する使い魔の小悪魔、ピロロの方だった。
「……私を笑うか? キルバーン。いや、そこの使い魔ピロロよ。……いや、お前こそキルバーンと呼ぶべきか」
バーンの低く這うような声に、ピロロの表情が一瞬で固まり、キルバーン(人形)の背後に隠れるように身を縮めた。そして、キルバーン本体の喉から、どこか諦めたような、だが不気味な笑い声が漏れ出す。
「ククク……驚きましたねぇ。さすがは大魔王様……いつからお気づきで?」
「最初からだ。高笑いするがいい。ヴェルザーの使いそうな手だ……人形を前線に立たせ、私を出し抜こうという浅知恵などな」
バーンは冷ややかに、キルバーンが被る仮面(顔面)をまっすぐ指さした。
「……そして、その人形の『顔(頭部)』にこそ、『黒のコア』が仕込まれていることもな」
一歩間違えれば城ごと消し飛ぶ死の起爆装置をその頭部に秘めた人形を前にしながら、バーンは微塵も怯むことなく言葉を続ける。
「だが、今はそんな化かしあいをしている場合ではない。……聞こえているのであろう? ヴェルザー」
バーンの視線の先、空間そのものがねじれ、黒き魔力の波動がゆらめき始める。
「今や地上の人間どもは、あの竜の騎士の血を引く小僧に、異世界の厄介な武装をまとった策士、そしてかつての魔王ハドラーまで巻き込んで一つの大軍勢を形作っている。さすがの余も、多勢に無勢よ」
ふっ、とバーンは鼻で笑った。
「お前のその『身体』を奪われ、封じられた状態では手も足も出まい。だが――余とお前が組めば話は別だ。この世界の覇権を争うのは後でもできる。まずはあの不遜な雑魚どもを根絶やしにするぞ」
そこでバーンは言葉をピタリと止め、答えを待つように沈黙した。
重い沈黙が数秒ほど続いた後――空間を切り裂くような、冷たく傲慢な、それでいてどこか愉悦に満ちた声が、どこからともなく響き渡ってきた。
『……クククク……ハハハハハッ! さすがだな、老いぼれ大魔王。我が手の内をすべて見透かした上で、手を組めと持ちかけるか』
空間の歪みの中から、竜の神をも恐れさせる魔炎の気配が立ち込める。
『良かろう、バーン。手を取り合ってやろうじゃないか』
ヴェルザーの声には、かつてのプライドと、それを遥かに上回るドス黒い殺意が渦巻いていた。
『……それに、あの忌々しい竜の騎士の血を引くバランめには、私自身もかつて煮え湯を飲まされた。この手で、徹底的な制裁を加えてやりたいと思っていたところよ…… !』
闇の底から響くようなヴェルザーの笑い声と、大魔王バーンの冷徹な笑みが重なり合う。
真・バーン、キルバーン(黒のコア内蔵)、そして冥竜王ヴェルザーという最悪の闇の連合が、ついに水面下で完成したのだった。