ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。 作:tomozow
大魔王バーンの座す玉座の間。その暗がりの片隅で、肉体を失い、ただの黒い気体のような実体のない姿へと戻ったミストが、静かに佇んでいた。
かつて最強の肉体(バーンの若い肉体)を預かり、それを返上した今、己にはもはや大魔王の役に立つ術はない――そう自嘲気味に思っていたミストに向かって、バーンは静かに、しかし重厚な声で語りかけた。
「……ミストよ」
「……はっ、バーン様」
「己の役目は終わったとでも思っているのか? ……笑わせるな。お前の役目は、まだ終わってなどおらん」
ミストが息を呑む気配を見せると、バーンは遠くを見つめるように目を細めた。
「ヴェルザーにキルバーン、果ては腹に一物を抱える配下ども……。皮肉なことに、この大魔王バーンに『真の忠誠』を捧げているのは、実体を持たぬお前だけなのだ、ミストよ」
「――ッ!!」
その言葉を受けた瞬間、ミストの黒い気体が歓喜と感動のあまり激しく震えた。
何千年の時を越え、ただ一人寄り添い続けた主からの、これ以上ない全幅の信頼と評価。言葉にならない震えを抑えながら、ミストは声を絞り出す。
「お言葉……感涙にむせびます、バーン様……! しかし……今の私には宿るべき身体がございません。これではバーン様のお手足としてお役に立つことが……」
「フッ……案ずるな。宿り木なら、じきに手に入る」
バーンは薄く口元を歪め、冷徹な笑みを浮かべた。
「……そろそろ、ザボエラが密かに進めている『超魔生物の研究』が完成する頃合いだ。奴自身の肉体など脆弱で見るに耐えんが、奴がモンスターの亡骸を集めて組み上げようとしているあの強力な実験体(超魔ゾンビ)の完成度合いは使える」
「ザボエラの超魔生物の実験体を……!」
「奴もまた、己の保身と欲望のためだけに動き、余に真の忠誠など誓ってはいない男。いずれ戦局の土壇場で、その完成した超魔生物の肉体を持ち出して手柄を立てようと企んでいることなど見抜いている。……奴が研究を完成させた瞬間、その最強の肉体を奪い取って乗っ取れ」
すべてを察知し、ザボエラの手柄欲しさの研究すら利用し尽くす大魔王の冷徹な知略。
ミストは深く頭を垂れ、その黒き気体をいっそう濃密に渦巻かせた。
「御意……! ザボエラが完成させる超魔生物の肉体を乗っ取り、再びバーン様の絶対なる盾、そして矛となって地上の虫ケラどもを蹴散らしてみせます……!!」
闇の奥底で、自らの成果を横取りされるとも知らず研究を急ぐザボエラの運命すら呑み込む、新たな陰謀が動き出していた。
緊迫した気配が流れていた作戦会議室で、冷ややかな声が落ちた。
「……気に食わんな」
腕を組んだまま壁にもたれかかっていたヒュンケルが、ハドラーや親衛騎団を射抜くような鋭い視線で見つめていた。
「大魔王バーンがどうあろうと関係ない。俺にとってハドラー……お前は、育ての親であるバルトスと、師であるアバン先生の仇だ。貴様らと背中を合わせ、挙げ句に訓練など……試しにやってみたがやはりダメだな。虫唾が走る」
「ヒ、ヒュンケル! お前、何を急に言い出すんだよ! 今はそんなこと言ってる場合じゃ……!」
ポップが慌てて間に割って入り、なだめようと両手を広げる。しかし、ヒュンケルの氷のように冷たい瞳はピクリとも動かず、ポップの言葉を聞き入れる気など微塵もないことを物語っていた。
重苦しい沈黙が広がりかける中――八幡が「やれやれ」と溜め息をつきながら歩み出てきた。
「まあ、そうなるか」
八幡の声に、全員の視線が集まる。八幡は両手をポケットに突っ込んだまま、静かにヒュンケルを見つめた。
「アバン先生のこともあるし、その上『育ての親の仇』だぞ? 共通の敵がいるからって割り切れねえよな」
「……八幡……」
ポップが絶句する。
八幡の身も蓋もない、けれどあまりにも正論すぎる言葉が、静まりかえった部屋に重く響き渡った。
教えを請おうとしていたヒムも、アルビナスたち親衛騎団も、ぐうの音も出ない。自分たちにとっての絶対の主であるハドラーを誇りに思うのと同様に、ヒュンケルにとってもバルトスやアバンは譲れない存在なのだ。「親の仇」という重すぎる言葉を突きつけられては、いかに愚直な親衛騎団といえど反論の言葉など見つからなかった。
ハドラー自身もまた、生身の拳を強く握りしめ、目を伏せて黙し込む。
気まずい静寂が場を支配する中、八幡はさらに言葉を続けた。
重苦しい沈黙を切り裂いたのは、八幡のどこか投げやりで、けれど身も蓋もない現実的な一言だった。
「だからまあ……ハドラーとヒュンケルが納得する決着を付けるしかねえんじゃねえか?」
「ええっ!? 八幡、お前何言って……!」
驚愕して声を裏返らせるポップを他所に、八幡は面倒くさそうに首の裏を掻きながら言葉を続ける。
「理屈じゃないんだろな。俺だってもしヒュンケルの立場なら、どれだけ世界がヤバかろうが我慢ならねぇだろう。腹の中に黒い泥溜め込んだまま前に進めるほど、人間できちゃいねぇしな……だったら、まあ、やるしかねえんじゃねえか」
「そんなのダメだよ八幡! 今ここで二人で戦うなんて、そんなの……!」
ダイが慌てて二人の間に割って入ろうと踏み出した、その時――
「――止めろ、ディーノ」
静かだが、世界の何よりも重い声が響いた。
制したのは、ダイの父である竜の騎士バランだった。
「父さん……!?」
振り返るダイを、バランは深遠な眼差しで見つめ、穏やかに、だが絶対の確信を込めて語りかける。
「ディーノ……もし、私が何者かの手によって命を奪われるようなことがあれば、お前は、そいつを赦し、黙っていられるか?」
「それは……っ」
詰まるダイに、バランはゆっくりと首を横に振った。
「言わずとも分かっている。そして……私もまったく同じだ。……ディーノの命を奪う者がいるならば、例え相手が魔王であろうと、神々であろうと、容赦はせん。親子の情、そして受け継いだ絆とはそういうものだ。ヒュンケルの怒りと葛藤は、決して他者が『大義』の名の下に踏みにじっていいものではない」
父の言葉の重みに、ダイは言葉を失い、ぎゅっと唇を噛みしめて引き下がった。
「そういうことだ」
静まり返る空間で、生身の魔王ハドラーはゆっくりと息を吐き出すと、鋭い眼光をヒュンケルに向け、堂々と一歩を踏み出した。
「断る理由など……無い。バルトス、そしてアバン……すべては俺の業よ。ヒュンケルよ、お前の怒り、その刃で我が胸に叩き込んでみるがいい!!」
ヒュンケルもまた、無言のまま破邪の剣の束を握りしめた。
仲間たちの熱量と因縁が極限まで高まる中、二人の戦いが始まろうとしていた。
バランの重く、静かな独白が、中庭から会議室へと続く静寂の中に落ちた。
「……私は、かつて妻を殺された時、怒りと絶望のままにアルキード王国を跡形もなく滅ぼした」
バランは自らの過去の過ちを噛みしめるように、ゆっくりと目を閉じた。
「だが……それは間違いだった。私を打ち払おうとした者達は、ただ王の命令に従っただけであり、王自身もソアラを殺そうとしたわけではない。国を、娘を守ろうとしたに過ぎん。そしてソアラもまた……私を守るために自ら身代わりとなったのだ」
ダイが息を呑み、父の横顔を見つめる。
「私の怒りは……せめてあの場にいた、愚かな裁決を下した者たちだけにぶつければよかった。国そのものにも、関わりのない者達には何の罪もなかったのだ。……すべては、私の未熟さゆえ。八幡の言う通り、あの時ソアラとディーノを連れ、地の果てまで逃げ延びていればよかったものを……」
かつて世界を絶望に陥れた男が、かつての己の愚行と哀しみを素直に認める姿。
八幡は壁にもたれかかったまま、静かにバランの言葉を受け止めていた。
(……過去の悲劇を『自分の過ち』を受け入れて、息子に語れる父親か。大したもんだよ)
八幡は小さく息を吐くと、ヒュンケルとハドラーの二人へ視線を向けた。
「……誰も巻き込まず、己の意地と過去の決着としてやり合うんなら、もう何も言わねえよ」
過去の悲劇を越えて前を進もうとするバランの言葉が、二人にとっても「決着」の重みをより確かなものにしていた。
ハドラーの絞り出すような声が、静まり返る空間に重く響き渡った。
「そうか……。俺の敗北は、すべて俺自身のものだったのだな……」
ハドラーは自らの生身の手を見つめ、苦痛と後悔にその指先を震わせた。
「それを俺は……己の弱さから目を背け、部下のせいにした。あげく、幼かったお前の父であるバルトスを殺した……。すべては俺の器が、強さも、精神も至らぬせいだ」
ハドラーはさらに深く己の業を掘り下げていく。
「俺を信じ、命を懸けてついてきてくれた者に当たり散らすなど……俺は一体、何様だったのか?。神にでもなったつもりでいたのか……愚かだ……そんな矮小な器だっから、…アバンに勝てなかったのだ……ッ!」
ギリ、と強く握り締められたハドラーの拳。
生身の皮膚が爪によって引き裂かれ、爪先から赤黒い血がポタリと床へ滲み落ちた。
その背中を、ヒムも、アルビナスも、親衛騎団の面々が切なさと痛切な忠誠の入り混じった眼差しで見つめている。
かつて敗北の恐怖に怯え、部下に当たり散らし、保身のために超魔生物へと成り下がろうとしていた「かつての魔王」。
しかし今、八幡たちの介入によって生身のまま踏みとどまり、己の過去を直視したハドラーの背中には、どんな魔王の威厳よりも重い「一人の男としての覚悟」が滲み出ていた。
八幡は壁にもたれたまま、血を流すハドラーの手に一瞬だけ目をやり、そして黙ってヒュンケルに視線を送った。
今初めて過去の罪を真っ直ぐに背負おうとしている。
それを受けたヒュンケルが、次にどんな言葉を突きつけるのか――会議室の全員が息を殺して見守っていた。
ヒュンケルは手にした破邪の剣をゆっくりと静かに下げ、だがその眼光だけはハドラーの胸元を正確に貫いていた。
「……バランとハドラーの後悔はわかった。だが――だからといって、俺の恨みが消えるわけではない」
ヒュンケルの低く抑えられた声には、何年もの間、胸の奥底で燃やし続けてきた黒い炎の熱量がそのまま宿っていた。
「だが、このままこの感情を引きずっていては、俺も前に進めん。……今の貴様を殺そうとすれば、そこの部下どもが命懸けで立ち塞がり、果てのない憎しみの連鎖が生まれるだけだ。……だがな、ハドラー。この感情は、せめて一度全力でぶつけねば、未来永劫消えはしないのだ」
そこまで言うと、ヒュンケルは鋭い視線を向けた。
「俺の勝負……受けるか?」
過去の呪縛と絶望を切り捨てる。今までの自分と完全に決別しなければ、ヒュンケル自身が一歩も前に進むことはできない。
そして――それはハドラーとてまったく同じだった。
アバンを倒し、部下に当たり散らし、保身とプライドに醜く執着していたかつての自分。そんな過去の自分を残したまま、仲間たちの前に誇り高く立つことなど、今のハドラーにとっては「おこがましい」以外の何物でもなかった。
ハドラーは、握りしめた拳から血を流したまま、力強く、静かに、深く頷いた。
「……望むところだ、ヒュンケル。もう言葉はいらん。」
ヒュンケルもハドラーも無言のまま同意の視線を交わした。
決戦前夜の静やかな時間が流れる中、別室では八幡、ラーハルト、そしてヒュンケルの三人が静かに茶を汲み交わしていた。
八幡がふとヒュンケルに視線を向ける。
「……そんなにハドラーを恨んでるのか?」
八幡の問いに、ヒュンケルは静かに首を振った。
「……ああは言ったがな」
ヒュンケルはどこか遠くを見る目になり、ぽつりと呟く。
「ハドラーもまた、己の弱さに苦しみ、足掻き、変わろうとしている……それは分かっている。だが、だからと言ってすべてを綺麗さっぱり忘れられるほど、過去の傷は浅くない。わだかまりはどうしても残る。……それはダイやポップ、マアム、そして八幡……お前も同じだろう?」
そう言われて、八幡は言葉を詰まらせた。
(……違いないな)
もしもアバン先生が本当に命を落としていたとしたら。
八幡だって、どれだけ大義名分を並べ立てられたところで、ハドラーをすんなり受け入れることなんて到底できなかったはずだ。理屈では分かっていても、感情がそれを拒絶する。
八幡にできたのは、無言で深く頷くことだけだった。
「だからこそだ」
ヒュンケルは静かに茶碗を置くと、力強い眼光を二人に向ける。
「誰かがハドラーに挑み、あの男の覚悟を受け止め、アバンの使徒たちの胸にある『わだかまり』の代弁者として決着をつけねばならん。わだかまりを清算し、本当の意味で一つになるために……過去にハドラーの配下であり、アバン先生の弟子であり、父親を殺された俺が、最もそれにふさわしい」
ヒュンケルの言葉に、傍らで黙って話を聞いていたラーハルトがフッと小さく笑った。
「不器用な男だな、相変わらず。……」
八幡もまた、ため息を混じえつつ口元を緩めた。
「ったく……どこまでも一人で損な役回りを背負おうとするねぇ。……ま、もう何も言わねえよ」
「ああ……感謝する」
決意を固めたヒュンケルの横顔に、もはや迷いはなかった。静かな夜が更けていき、いよいよ明朝の「誓いの決闘」の時が近づいていた。
八幡たちが部屋を去り、静けさを取り戻したヒュンケルの部屋。
残された茶の湯気が静かに消えていく中、コンコンと控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
ヒュンケルが声をかけると、ドアがそっと開き、入ってきたのはエイミだった。
「こんな時間に……どうした?」
不審そうに尋ねるヒュンケルに対し、エイミは何も言わずにすたすたと歩み寄り、至近距離まで迫った。
「エイミ……?」
疑問の声を上げる暇もなく、エイミは両手でヒュンケルの頬を包み込み、そのまま背伸びをして――いきなり彼の唇を奪った。
「なっ……!?」
一瞬、思考が完全に停止するヒュンケル。
すぐさま身を引いて唇を突き放し、戸惑いと衝撃の交ざった表情でエイミを見つめた。
「何をする……」
拒絶するような口調とは裏腹に、ヒュンケルの胸の奥では、予想だにしなかった急展開に動悸が激しく打ち打ち、心がにわかに浮き立つ。今まで戦いと憎しみの中にしか身を置いたことのなかった男にとって、それはあまりにも毒気が強く、甘やかな衝動だった。
対するエイミは、真っ赤になった顔を隠そうともせず、強がるようにフンと胸を張ってみせる。
「『何をする』とは失礼ね! ……勝利を願う、女神の口付けよ」
耳まで赤くしながらも、必死に真っ直ぐな瞳で自分を見つめてくるエイミ。
その健気な姿に、ヒュンケルは思わず呆れたような、けれど愛おしさを込めた溜め息をひとつ吐いた。
「……心配するな。明日のハドラーとの勝負……『決闘』とは言っても、互いに命を取り合うわけじゃない」
ヒュンケルは優しく声のトーンを落とし、エイミの不安を解きほぐすように言った。
「俺たちは過去の呪縛を断ち切り、前へ進むために戦うんだ。……お前のその願い、無駄にはしない」
エイミは真っ赤な顔のまま、少しだけ視線を落として照れ隠しするように小さく唇を噛んだ。
「……まあ、言い訳ね。明日になれば、あなたが無茶をしないなんて保証はないし……万が一あなたに何かあったらと思うと、居ても立っても居られなくて来ちゃったの」
素直で真っ直ぐな言葉に、ヒュンケルは胸の奥が温かい感情で満たされるのを感じた。
「……そうか」
ヒュンケルは視線をそっと落とし、深く静かな息を吐く。
「お前のその気持ちは……嬉しい。だがな。俺は誰かを幸せにできるような男ではない。そのような夢想もすることはあった。しかし魔王軍に身を置き、無数の罪を重ねてきた。そんな暗闇の過去を抱えた男に、自分を、まして誰かを幸せにする資格も力もない」
自らを責めるように語るヒュンケルの言葉を、エイミはきっぱりと遮った。
「私の幸せは、私が決めるわ」
迷いのない声だった。その瞳には、どんな運命をも受け入れるような強く温かい覚悟の光が宿っていた。誰かの与える幸せではなく、ヒュンケルの隣にいることこそが自分の選んだ幸せなのだと、言葉以上の力で訴えかけてくる。
その澄んだ決意の瞳に見つめられ、ヒュンケルは降参したようにふっと口元を緩めた。
「……物好きだな」
呟くと同時に、ヒュンケルはエイミの華奢な身体をそっと引き寄せ、優しく抱きしめた。
今まで戦いと憎しみ、そして罪悪感にのみ縛られ続けてきたヒュンケルの腕が、温もりを与えるために動く。エイミもまた、その力強い胸に回した腕にギュッと力を込め、ヒュンケルの背中を固く抱きしめ返すのだった。
夜の静寂の中、二人の心は明日への不安を越えて、確かな絆で結ばれていた。
決戦前夜の静寂の中、ハドラーは静かに目を閉じ、座禅を組んで瞑想に没頭していた。
脳裏をめぐるのは、自らの歩んできた足跡だった。
かつての宿敵アバンのこと。己の欲望の落とし子であったフレイザードのこと。散っていったかつての部下たち、そして今も己を「主」と仰ぎ、命を賭して従うヒムやアルビナスたちのこと。
そして――かつて己の保身のために手にかかけ、その息子であるヒュンケルに深い呪縛を植え付けてしまった魔剣士バルトスのこと。
(なぜ、俺は戦う……? 何のために、この命を燃やす……?)
自問自答を繰り返すハドラーの元に、静かな足音が近づいてきた。
「……ハドラー様」
振り返ると、そこには湯気の立つ温かいお茶を手にしたアルビナスの姿があった。そっとお茶を差し出し、アルビナスは祈るような、それでいて強い誓いを込めた瞳でハドラーを見つめる。
「……勝ってください、ハドラー様。明日の一戦も……そして、その先にある決戦も」
「勝つ……か」
ハドラーはお茶を受け取り、湯気越しに遠くを見つめるように目を細めた。
「思えば……俺はアバンに『勝った』と、言えるのだろうか」
「ハドラー様……?」
予期せぬハドラーの言葉に、アルビナスが息を呑む。ハドラーは自嘲気味に、どこか哀愁を帯びた声でかつての宿敵を語り始めた。
「バーンに命をもらい、若い肉体をもらい……全盛期を過ぎたアバンの元へ乗り込み、不意打ちのような勝負を仕掛けた。そして今、蓋を開けてみれば……あの男の意志を継いだ使徒たちは誰一人として死んでおらず、こうして世界を動かしている」
ハドラーは静かに首を横に振った。
「命を賭して弟子たちを守り抜いたアバンの精神は勝ち続け、保身のために惨めに足掻いた俺は……何一つ残せなかった。どうして、俺がアバンに勝てたと言えようか」
主の口から溢れ出る、かつての宿敵への真の敬意と自省。
アルビナスは言葉を失いながらも、その姿に一切の醜さはなく、むしろ一人の「真の漢」としての気高さを感じていた。
「ハドラー様……」
「だが、だからこそだ、アルビナス」
ハドラーは茶を口に含むと、力強く眼光を輝かせた。
「明日の勝負……アバンが遺した最高の弟子の一人であるあの男と正面から向き合う。……それが、俺の戦う理由だ」
背後から差し出された手が、ハドラーの胸元をぎゅっと固く包み込んだ。
アルビナスが、ハドラーの背中に静かに顔を埋め、その華奢な体を細かく震わせている。
「申し訳……ありません、ハドラー様……。冷たいでしょう……? でも、もう少しだけ……このままで……」
金属の冷徹な質感の中に滲む、切ないほどの温もりと熱。
その背中に押し当てられた顔から、ぽろぽろと零れ落ちる涙が、ハドラーの背中を濡らしていく。
過去を知ろうと、変わらずに寄り添い、自らのすべてを捧げてくれた存在。
ハドラーは何も言わず、ただ静かに己の手に残る熱を感じ取っていた。
そして、背中の震えをそっと受け止めるように、力強く、けれどどこか穏やかに呟く。
「……冷たくなどない」
ハドラーの口元に、薄く優しい笑みが浮かんだ。
「お前は……優しいな、アルビナス」
「ッ……ハドラー様……」
己の主が向けた、かつてないほど温かく、一人の男としての慈愛に満ちた言葉。
アルビナスは胸がいっぱいになり、それ以上は声すら出せなくなった。ただ溢れ出る涙を止められぬまま、ハドラーの背中をさらに強く、強く抱きしめ続けるのだった。
決戦前夜の静けさの中、二人の心は言葉を超えて固く結ばれていた。
朝日が静かに差し込む中庭。
早朝の冷ややかな空気が張り詰める中、ヒュンケルとハドラーは一定の距離を保って対峙していた。
周りで見守るのは八幡、ダイ、ポップ、バラン、ラーハルト、そして親衛騎団の面々。誰一人として声を発する者はなく、ただ静寂だけが場を支配している。
ヒュンケルが破邪の剣を構え、じっとハドラーの手元に視線を落とした。その口から、低く硬い声が漏れる。
「……ハドラー。その剣で俺に勝つつもりか?」
ハドラーが手にしていたのは、先の大魔王バーンとの直接対決の折、その圧倒的な力によって歪み、半ばひしゃげてしまったオリハルコンの剣だった。いくらハドラーの魔力や気が込められようと、本来の威力を発揮できる状態ではないことは火を見るより明らかだった。
ハドラーは苦笑を浮かべ、ひしゃげた剣を見つめる。
「フッ……情けない姿を見せるな。だが、今の俺にはこれしか――」
「――これを使え」
重厚な声とともに、一筋の閃光がハドラーの足元へ突き刺さった。
地面に深く柄まで突き立てられたのは、竜の騎士のみが持つことを許された神造の魔剣――真魔剛竜剣。
ハドラーは目を見張り、剣の持ち主であるバランへと視線を向けた。
「バ……バラン……!? お前、これは……」
「我が愛刀だ」
バランは腕を組んだまま、静かに、しかし絶対の敬意を込めた眼差しでハドラーを見据えていた。
「かつての魔王ハドラーよ。過去の過ちを誤魔化さず、自らの罪を背負って立つお前の覚悟……見事だ。武人として過去の決着をつけんとする者に、折れかけた剣など相応しくない。その剣をお前に預ける」
「バラン……っ」
かつては部下、敵からのあまりにも破格の信頼と漢気(おとこぎ)。
ハドラーの胸に熱いものが込み上げ、その鋭い瞳が揺れる。
「……感謝する、バラン……!!」
ハドラーは目を閉じる。真魔剛竜剣の柄へと力強く手を伸ばした。
引き抜かれた刃が、朝日を浴びて神々しいまでの銀色の輝きを放つ。剣とハドラーの滾る闘気が共鳴し、剣全体から凄まじい圧気が渦を巻いて立ち昇った。
それを見届けたヒュンケルもまた、一切の容赦を捨てた凄絶な闘気を身体全体から溢れさせる。
「……いくぞ、ハドラー」
「来い……!!」
二人の視線が激突し、中庭の空気が目に見えて歪んだ。
過去の呪縛を断ち切るため、――今、誇りを懸けた一撃が放たれる。
ハドラーの手から、凄まじい密度の魔力が溢れ出す。
「――イオラッ! ラララララッ!!」
ハドラーの咆哮とともに、爆炎の弾丸が凄まじい連撃となって連続して叩きつけられた。
ドカンッ、ドカンッ、ドドドドンッ!と中庭の地面が激しく爆ぜ、濃密な白煙と爆炎が視界を完全に遮っていく。
爆風と煙のただ中、ヒュンケルは脚を深く踏み締め、爆炎を物ともせずに破邪の剣を構え直す。
(……鎧化(アムド)したこの姿に、中級呪文の連発など傷一つつけられん。……撹乱か!)
ヒュンケルの直感が警鐘を鳴らした瞬間、背後の爆煙を切り裂いてハドラーが肉薄していた。真魔剛竜剣の一撃が、空間ごとヒュンケルの背中を切り裂かんと走り抜ける!
ガカッ――!!
凄まじい衝撃音が響く。背後からの急襲に対し、ヒュンケルは振り返る間すら惜しみ、絶妙な体捌きと研ぎ澄まされた気配察知だけで背後へ力強い裏拳を繰り出していた。
鎧を纏ったヒュンケルの裏拳が、肉薄したハドラーの顔面を正確に捉え、その頬を強烈に打ち抜く!
「ぐはっ……!?」
顔面をぶち抜かれたハドラーの頭部が大きく跳ね上がり、体勢が一瞬大きく崩れる。すかさずヒュンケルは反転し、追撃の突きを繰り出そうと踏み込んだ――が、痛撃に顔を歪めながらも、ハドラーの身のこなしは鈍っていなかった。すでにそこにはハドラーの姿はない。
(速い……! 痛みを強引に殺し、即座に死角へ回り込んだか!)
「甘いっ!!」
側面に生じた僅かな隙。死角から旋風を巻き起こしながら繰り出されたハドラーの強烈な横蹴りが、ヒュンケルの脇腹へクリーンヒットした。
ズドォォンッ!!
「グッ……!」
魔法効果を無効化する鎧の上からでも、肉体そのものを打ち砕かんとするハドラーの武人としての純粋な脚力がヒュンケルの巨躯を弾き飛ばす。地面を削りながら滑行するヒュンケルだったが、倒れることなく即座に受身を取り、油断のない瞳でハドラーを見据え返した。
「……フッ。顔面への一撃に怯まず、即座に死角をとるとはな」
「ククッ……吐いた血の分だけ目が冴えるわ! 今の俺はただの漢…お前という漢を越えるための足掻きよ!!」
ハドラーが頬の血を拭い、真魔剛竜剣を青白く輝かせて再び低く身構える。爆煙が晴れていく中庭で、一瞬の隙も許されない息詰まる攻防が続いていた。
「――大地斬!!」
ヒュンケルが剣を地へと叩きつけると、中庭の石畳が凄まじい衝撃で破砕され、無数の石つぶてが弾丸のごとくハドラーへ向かって降り注いだ。
ハドラーが真魔剛竜剣を振り払い、襲いかかる石の群れを叩き落とした瞬間――その散り散りになる石の隙間から、青白い強烈な電光が迸った。
「――ライデインストラッシュッッ!!」
「なにッ!?」
ヒュンケルが解き放ったのは、雷光をまとったアバン流刀殺法の真髄。眩いばかりの雷撃が、一直線にハドラーの胸元を襲う!
間一髪、真魔剛竜剣の身で受け止めたハドラーだったが、凄まじい衝撃と雷光に吹き飛ばされ、激しく地面を削りながら後退した。
周りで見守っていたポップたちが、目玉が飛び出さんばかりに驚愕の声を上げる。
「な、なんだってー!? ヒュンケルが魔法を……ライデインを使ったのか!?」
「バ、バカな……! ヒュンケルは呪文が使えないはずだぞ!?」
あまりの光景に場が騒然とする中、ヒュンケルは静かに剣を構え直し、呆れたように低く呟いた。
「……そんなわけがないだろう」
ヒュンケルは腰に差した鞘へと視線を送る。
「この破邪の剣には、もともと雷の力を放つ特性がある。そして――このロン・ベルク製の手による鞘だ。あの男は、鞘そのものに雷のエネルギーを貯蔵し、極限まで増幅させる機構を組み込んでいた。これならば、俺に呪文の素養がなくとも『ライデイン』と遜色ない電撃を撃ち出すことができる」
見守っていた八幡も、これには思わず「マジかよ……」と舌を巻いた。
(確かにダイのつるぎの鞘には、超高出力の威力を抑え込んで蓄熱・増幅するイカれた機能がついてたが……まさかヒュンケルの鞘にまで、そんな変態的な仕込みをしてやがったのかよ、あの頑固親父……!)
「アバンの技に、ロン・ベルクの叡智、そしてヒュンケル自身の闘志……か」
ハドラーは真魔剛竜剣を支えに立ち上がると、痺れる腕を庇うことなく、むしろ愉悦に満ちた猛烈な笑みを浮かべた。
「素晴らしいぞ……! さすがアバンの使徒よ!!」
「ぬおおおおおッッ!!」
ハドラーの体から、常軌を逸した漆黒と灼熱の闘気が噴出する。生身の限界を超え、全身の全細胞を燃やし尽くすかのような高熱が中庭の空気を歪め、地面の石畳が次々と赤熱して溶け落ちていく。
「見せてやる…… ――超魔爆炎覇ッッ!!」
真魔剛竜剣を頭上高く掲げ、極限まで高められた闘気の炎を纏ったハドラーが、彗星のごとき猛進でヒュンケルへ飛びかかった。
対するヒュンケルは、迫り来る圧倒的な熱量に対し、一切の動揺を見せない。
「……ハドラーッ!!」
ヒュンケルは槍から剣へと引き継いだ己の闘気を下半身へ集中させ、十字の架け橋を構える。広範囲を吹き飛ばす全開の威力ではなく、すべての破壊力をハドラー一点のみに集約させた――抑えた「グランドクルス」。
ドドズズズズンッ――!!
真魔剛竜剣の爆炎と、ヒュンケルの放った闘気の十字光が正面から激突した。
周囲の見守る者たちが吹き飛ばされそうになるほどの衝撃波が吹き荒れる。抑え込まれたとはいえ、グランドクルスの聖なる闘気波がハドラーの肉体を容赦なく引き裂き、その全身から鮮血が噴き出した。
だが――!
「うおおおおッ! まだだ……まだ止まらんぞッ!!」
血煙を上げ、全身の肉が切り刻まれながらも、ハドラーの足は止まらない。グランドクルスの衝撃を強靭な肉体と執念だけで強行突破し、鬼神のごとき相貌で直進してくる!
ヒュンケルの目が見開かれる。
(グランドクルスを受けてなお、構わず向かってくるらとは無い……!!)
ハドラーの真魔剛竜剣が、ヒュンケルの頭上へと振り下ろされんとしたまさにその一瞬。
ヒュンケルは電光石火の動作で、腰のロン・ベルク製の鞘へ納めていた破邪の剣を瞬く間に引き抜いた。
バチバチバチッッ――!!
鞘内部で極限まで増幅された「ライデイン」級の青白い電光が、破邪の剣の刃全体に激しく駆け巡る。
ヒュンケルは体を極限まで捻り、全身のバネと雷撃のエネルギーを、必殺の突きを繰り出した。
「――ラグナスクライドッッ!!」
雷光を纏い、高速回転する破邪の刃。
突き進むハドラーの真魔剛竜剣と、ヒュンケルの雷撃を帯びた螺旋の突きが、正面から真っ直ぐに交差した!
ドカァァァンッッ――!!
中庭を揺るがす凄まじい衝撃波と雷光が弾け飛び、凄惨な煙が立ち込めた。
煙がゆっくりと晴れていく。
そこには、全身から血を流し、倒れ伏す二人の男の姿があった。
「……ハッ……ハッ……」
静寂の中、先に指先を動かしたのはヒュンケルだった。
膝を激しく震わせ、鎧の一部を砕かれながらも、破邪の剣を支えにして泥臭く体を起こす。血に染まった髪を上げたヒュンケルは、荒い息を吐きながら、まだ地に伏しているハドラーへと歩み寄った。
ヒュンケルが先だった。
ハドラーの胸元へ立ち、破邪の剣を両手で真っ直ぐに突き立てる体勢をとる。
「……さらばだ。ハドラー」
ハドラーは全身の傷から血を流しながら、薄く開けた視界で自分を見下ろすヒュンケルを映した。そして、何も言わず、諦めでも憤怒でもない、すべてを受け入れた穏やかな表情でゆっくりと目を閉じた。
(……これで……いい……)
ヒュンケルの腕に力がこもり、剣が振り下ろされかけたその瞬間――!
「おやめくださいッッ!!」
鋭い叫び声とともに、一筋の影が二人の間に割り込んだ。
アルビナスだった。彼女は一切の躊躇もなくハドラーの体に深く覆い被さり、自らの背中でヒュンケルの刃を受け止めようと立ちはだかった。
「おやめください……ッ! ハドラー様は……ハドラー様は、かつての愚かなご自分を…悔いていらっしゃるのです……ッ!!」
アルビナスの瞳から大粒の涙が溢れ出し、ハドラーの胸元へぽろぽろと零れ落ちる。
「お願いです……どうか、ハドラー様を……!!」
ハドラーは目を開け、驚愕に目を見開いた。「アルビナス、退け……!」と言いかけたが、ヒュンケルの眼光は一切揺らいでいなかった。
「……関係ないな」
ヒュンケルは冷徹な声で言い放つと、迷いなく破邪の剣を振り下ろした。
ズドォォンッ!!
凄まじい衝撃音とともに、地面の石畳が爆ぜた。
アルビナスはぎゅっと目を閉じ、ハドラーを力いっぱい抱きしめた。
しかし――痛みに耐える二人の耳に届いたのは、肉を断つ音ではなく、冷たい石が砕ける音だった。
ゆっくりと目を開けたハドラーの視界に入ってきたのは、己の頬のすぐ真横、地面に深く突き刺さった破邪の剣の刃だった。
ハドラーは固まり、絞り出すような声で問うた。
「……なぜ……殺さない……? ヒュンケル……」
ヒュンケルは柄から手を離さぬまま、ハドラーを静かに見下ろしていた。その瞳には、かつて彼を苛んでいた暗く燃える黒い炎は、もう影も形もなかった。
「……殺したさ」
ヒュンケルは低く、だがどこか突き抜けたような声でつぶやいた。
「……今までのお前を。そして……恨みに囚われ続けていた、俺自身をな」
「ッ……!?」
「過去の恨みに縛られて生きるのは、今日で終わりだ。……お前も、俺も、この先へ進むためにな」
ヒュンケルは静かに剣を引き抜くと、背を向けた。
その背中には、過去の呪縛を完全に断ち切り、ただ「仲間」を守るために前を向く武人の誇りが満ち満ちていた。
ハドラーは仰向けになったまま、空を見上げた。
溢れ出る涙が頬を伝い、血と土にまみれた顔を濡らしていく。
「…お前という男は……ッ……!!」
声にならない慟哭とともに、ハドラーは腕で顔を覆った。
かつて保身と欲望の魔王だった男が、今、真の意味で生まれ変わり、過ちを乗り越えた瞬間だった。
それを見届けた八幡は、壁にもたれかかったまま、小さく息を吐いて口元を緩めた。
朝日が中庭を照らし出し、決戦を控えた連合軍の絆は、誰にも引き裂けないほど強固なものとなっていた。
中庭の泥と血の中で横たわるハドラーの傍らで、ヒムは拳を音が鳴るほど固く握りしめていた。
「あの野郎……ッ!」
立ち去ろうとするヒュンケルの背中を、ヒムは殺気立った眼光で強く睨みつける。
主であるハドラー様をここまで打ちのめし、血反吐を吐かせた男。激しい怒りが胸の底から湧き上がる。……だが、同時にヒムの脳裏をよぎるのは、土壇場で剣を死角へ打ち込み、ハドラーを殺さずに『過去の因縁』だけを切り捨てて見せたヒュンケルの姿だった。
(……トドメを刺さなかったのも、あの男だ……)
今の一戦でハドラー様が見せた、全身全霊を賭した壮絶な覚悟。
そして、それを受け止め、己の過去の恨みごと一切を呑み込んで乗り越えたヒュンケルの圧倒的な強さと器。
二人の死闘を見せつけられたヒムの胸に突き刺さったのは、――やり場のない「自分への怒り」だった。
(ちくしょう……! なんだよ、あの領域は……! 俺はハドラー様を守る親衛騎団の『兵士』のはずじゃねえのかよ……!?)
ハドラー様が過去の自分と決別するために命を燃やしていた時、自分はただ外側で戦況をオロオロと見守ることしかできなかった。
もし、自分にヒュンケルと互角以上に渡り合えるだけの圧倒的な力があったなら。ハドラー様に代わってあの男を打ち破り、主の背負う重荷を半分でも肩代わりしてやれたかもしれないのに。
胸を焼くような不快な熱。その正体が、ヒュンケルへの憎しみではなく「己の不甲斐なさ」に対する怒りであることに、ヒムは嫌というほど気づかされていた。
「ハドラー様……」
ヒムは倒れるハドラーの元へ駆け寄り、その身体を抱え起こしながらも、去っていくヒュンケルの背中から目を逸らすことができなかった。
(ヒュンケル……! 今の俺じゃ、お前には届かねぇ……。だけどな、俺はハドラー様の『親衛騎団』なんだよ……! いつか必ずお前を超えてやる……ハドラー様の盾としても、一人の漢としてもだ!!)
憎悪や復讐心ではなく、己の弱さを知ったからこそ生まれた猛烈な渇望。
ヒムにとってヒュンケルという存在は、この瞬間――生涯をかけて追い求め、いつか乗り越えなければならない「圧倒的な高み」として、その魂に深く刻み込まれたのだった。
血と泥にまみれたヒュンケルが、おぼつかない足取りで歩み寄ってくる。
その途上にすっと立ち塞がり、肩を貸すように横に並んだのはラーハルトだった。
ラーハルトは呆れたような、けれどどこか嬉しそうな薄い笑みを浮かべてヒュンケルを見つめる。
「……見事だ。思い返せばお前は……結局俺を殺さなかったな。案外、優しいな。お前は」
普段なら「余計な口を叩くな」と突き放すところだろう。だが、今のヒュンケルにはそんな軽口を言い返すだけの体力すら残っていなかった。荒い息を吐きながら、ただ苦笑いを浮かべるのが精一杯だ。
「ヒュンケル……っ!」
そこへ、悲鳴のような声を上げて駆けつけてきたのはエイミだった。
エイミは躊躇なくヒュンケルの巨躯を抱きかかえるように支えると、震える手で呪文を詠唱し始めた。
「――ベホマッ!!」
温かく力強い回復の光がヒュンケルの全身を包み込み、引き裂かれた傷口をみるみる塞いでいく。
急激に体力が回復していくのを感じながら、ヒュンケルは気まずそうに視線を泳がせた。
エイミは額の汗を拭うと、ラーハルトや見守る仲間たちに向かって、誇らしげに胸を張ってみせた。
「ラーハルトさん、聞き捨てならないわね。ヒュンケルはただ優しいだけの男じゃないわ。……自分の悲しみも憎しみも全部呑み込んで、他人の過去まで背負って前に進もうとする……大きな人なんです!」
照れ隠しもなくきっぱりと言い切るエイミの言葉に、周囲の空気は一気に温かいものへと変わった。
「……ふっ、違いないな」
ラーハルトが納得したように頷き、ダイやポップ、マアム、そしてバランまでもが、静かに、だが深く首を縦に振った。ハドラーやアルビナス、親衛騎団の面々すらも、その言葉の正しさを認めざるを得なかった。
そんな輪の少し後ろで、壁にもたれかかった八幡は、やれやれと肩をすくめながら胸の中で独りごちていた。
(……おいおい、マジかよ。過去の怨念を力技で清算した挙句、敵のボスと部下の心理的ケアまで完了させるとか、どんな超人カウンセラーだよ……)
とはいえ、ハドラーとの確執という最大の懸念事項は払拭された。
八幡は小さく息を吐き出すと、少しだけ誇らしげな顔をしているヒュンケルと、彼を甲斐甲斐しく支えるエイミの背中を、静かに見つめるのだった。
薄暗く気味の悪い緑色の光が蠢く、ザボエラの秘密実験室(ラボ)。
研究用の薬液が波打つ中、先ほどまでそこにあったはずの「超魔ゾンビ」の巨大な躯体が消え去り、壁には激しく破壊された痕跡だけが残されていた。
「まったく……」
ザボエラは忌々しそうに、けれどどこか呆れたような溜め息を吐きながら、杖をコンコンと床に打ちつけた。
「一応、こちらもバーン様の部下なのだからな。黙って奪っていかずとも『持っていく』と言われれば、このワシとて大人しく譲ってやったというのに……。どうにも、こっちの魔王軍陣営という奴らは、議論やら相談やらという手順を踏むのを嫌うのう」
ミストバーンが無言で超魔ゾンビを奪い去っていった壁の穴を睨みつけ、ザボエラは小さく吐き捨てた。
「ハドラーといい、あのミストといい……どいつもこいつも、ワシのような『知恵者』とじっくり言葉を交わそうとせん。……そうは思わんか? ザムザ」
ザボエラが視線を向けた先――そこには、巨大な円筒形の試験管が置かれていた。
緑色の怪しい培養液で満たされたその試験管の中には、かつてダイたちと戦い、さらには父親であるザボエラに刃向かって打ち倒された息子・ザムザの姿があった。
ザボエラに立ち向かったザムザだったが、老獪で執念深い父の手により即座に返り討ちに遭い、倒された後はこうして実験体として捕らえられ、浮遊させられているのだ。
試験管のガラス越しに、口内に泡を溜めながら恨めしげな瞳で父を見下ろすザムザ。
その姿を見上げながら、ザボエラは口元を歪め、卑劣で邪悪な笑みを浮かべた。
「……クックック。実の父親たるこのワシに逆らうとはな。お前も死に瀕して、なかなか面白い男になってきたではないか……」
試験管の中で気泡がポツリと弾ける。
ミストバーンに超魔ゾンビを強奪されながらも、ザボエラはすでに次なる陰謀と実験の構想を練るように、暗い眼光を怪しく光らせるのであった。
ハドラーたちとの決着がつき、中庭には互いの過去を乗り越えた清々しくも引き締まった空気が漂っていた。
完全な一致とまではいかずとも、大魔王バーンという絶対的な巨悪を倒すための「確かな協力体制」が整った一行は、作戦の再確認と装備の最終調整へと移行する。
そこで真っ先に議題に上ったのは、八幡が携える剣と、その刀を打ち上げたロン・ベルクを巡る技術的な課題だった。
「……八幡の剣だが」
バランが静かに口を開き、八幡の腰にある刀へと視線を落とした。
「あの剣は名工ロン・ベルクが打ち上げた逸品……確かに凄まじい業物だが、バーンの真の力や『カイザーフェニックス』といった攻撃を前にした時、どこまで耐えられるかという問題がある」
その言葉を引き継ぐように、ハドラーも重々しく頷く。
「うむ。ロン・ベルクが打ったとはいえ、材質そのものがオリハルコン級でなければ、バーンの圧倒的な闘気の前では耐えきれず破壊される恐れがある。……八幡、ロン・ベルク本人は何と言っているのだ?」
八幡は頭をガリガリと掻きながら、渋い顔で答えた。
「ああ……あの頑固親父に一応確認したんだよ。ロンの野郎が言うには、『ブルーメタルで表面をコーティングすれば、一時的に熱耐性と魔法耐性を極限まで引き上げることはできる』ってな」
「ブルーメタルでコーティング……!?」
ポップが身を乗り出す。
「それなら解決じゃねえか! あの超激レアな金属だろ!? バーンの炎にも耐えられるんならバッチリじゃんか!」
「甘いぞ、ポップ」
静かに制したのはラーハルトだった。武具の特性に精通している彼が、鋭い眼光で問題を指摘する。
「刀身の表面にブルーメタルをコーティングして被覆させるということは、装甲が薄くなると言うことだ。刀剣のバランスも悪くなる。バーン以外なら問題無かろうが、相手はまさしくそのバーンなのだからな」
「なっ……!?」
八幡は苦笑いを浮かべながら、ラーハルトの言葉に頷いた。
「そういうことだ。大魔王バーンを相手に、剣のバランスや装甲を犠牲にするなんてのは……ただの自殺行為だ」
「……打つ手なしか」
ヒュンケルが腕を組み、眉根を寄せる。
バーンとの決戦を前にして突きつけられた、装備の『強度と耐性』という究極の二者択一。
ロン・ベルクが打ち上げた至高の剣でありながら、大魔王の威圧を前にどう補強すべきか――新たな課題を前に、一行の間に再びピリッとした緊張感が走るのだった。
中庭に立ち込める緊迫した空気のなか、突如としてその声は響き渡った。
「――おやおや、八幡もそんなレベルになりましたか。やはりアレフガルドに行かせたのは正解でしたね」
穏やかで、どこか飄々とした、しかし聞き間違えようのない気品に満ちた声。
その場にいた全員の動きが、一瞬にして凍りついたようにピタリと止まる。
声のした方向へ、一斉に視線が集まる。
そこに立っていたのは、かつて死んだはずの――しかし、紛れもない、あの懐かしい装束をまとった男だった。
「……アバン……先生……?」
ポップが、文字通り目玉を飛び出させ、自分の頬をペシペシと叩いて現実逃避を試みる。ダイやマアムも、言葉を失ったまま震える目でその人物を見つめていた。
そんな驚愕の渦の中心で、八幡はごく自然に、いつもの調子で片手を軽く挙げて声を返した。
「――アバン先生、久しぶりですね」
「なっ……!?」
場が再び絶句する。生死を分けた激戦を潜り抜けてきた勇者たちですら処理しきれないその軽妙なやり取りに、ついにハドラーが耐えきれなくなったようにガタガタと全身を震わせた。
「ば、馬鹿な……っ……!!」
ハドラーは目を剥き、まるで化け物でも見るかのようにアバンと八幡を交互に指差した。
「き、貴様……アバン……!? ば、馬鹿な、死んだはずだ……!!」
かつての宿敵のあまりの生還劇に、元・魔王であるハドラーも狼狽えていた。
ざわめき立つ中庭の真ん中で、アバンはふわりと穏やかな笑みを浮かべ、涼しい顔で首を横に振った。
「おや、みなさんそんなに驚くようなことですか。私はそもそも、最初から死んでいませんよ」
さらりと言ってのけたアバンは、ふっと視線を斜め後ろの八幡へと向け、悪戯っぽくウインクしてみせる。
「ねえ、八幡?」
不意打ちのように話を振られた八幡は、頭の後ろをポリポリと掻きながら、心底めんどくさそうな、けれどどこか呆れたような顔で短く返した。
「……ええ、そうですね」
「いや、そこはもっとこう、『生きてたんですか!?』とかリアクションあるだろ!!」
耐え切れなくなったポップが、ついに常軌を逸した絶叫をあげる。
だが、そのポップのツッコミも、隣に立つマアムやヒュンケルの耳には届いていなかった。マアムは両手で口を覆ったままポロポロと涙を零し、ダイも動けずにいた。ヒュンケルはかつての恩師の姿を真っ直ぐに見据えたまま、ただただ言葉を失って微動だにしない。蘇生の奇跡や理屈を超えた存在の重みに、その場の全員が圧倒されていた。
そんな圧倒的な静寂と混乱のなか、八幡はため息をつきながら、やれやれといった調子でアバンに苦言を呈す。
「まったく……。来るなら来るって言ってくださいよ、先生。心の準備ってもんがあるでしょ」
「はっはっは、サプライズというのは驚いてこそ成功するものですからね。道中、少しばかり面白いものを見つけて遅れてしまったのですよ」
相変わらずのマイペースぶりを発揮するアバンを見て、八幡は深く肩を落とすのだった。