ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。   作:tomozow

5 / 13
神との邂逅編 いろは編 5

闇の玉座と、ジョーカーの正体

暗黒の宮殿、その深い幕の向こう側。

大魔王バーンは、静かに手元の水晶玉に映し出された映像を見つめていた。

映し出されていたのは、先ほどまで繰り広げられていた激闘の残滓。

不死騎団長であるヒュンケルが敗北し、勇者一行に加わるという信じがたい結末だった。

「……ヒュンケルが1対1で敗れるとはな」

バーンの老人のような細い声が、だだっ広い空間に静かに響く。

「魔法剣、それにサポートがあったとはいえ、あの場面で『ライデイン』を放つとは……。あれは本来、勇者の血統にしか扱えん技のはず……どこか、かつてのアバンを彷彿とさせる底の知れなさよ。なあ? ハドラーよ」

その場に膝まずいていた魔軍司令ハドラーは、冷や汗を流しながら歯を食いしばる。

クロコダインに続き、最強の棋駒(コマ)であるヒュンケルの離脱。魔王軍の優位が音を立てて崩れ去る現実を前に、ハドラーの身体が微かに震えていた。

「……次はないと思え。下がれ」

「はっ……!」

ハドラーが冷や汗を拭いながら退出していくと、空間の歪みから鎌を手にした不気味な男が姿を現した。

「まったく、なんという発想だ。まさか『ヒャド』を壁に撃ち込んで自分の足場にするなんてねぇ。とんだジョーカーだよ、あいつは」

クスクスと笑いながらキルバーンが軽口を叩き、その肩に乗った一つ目の使い魔・ピロロも同調するように首をかしげる。

「ほんとほんと、あんなの反則だよー!」

「……」

その傍らで、一切の表情を仮面の下に隠したミストバーンは、腕を組んだまま黙って水晶玉を見据えていた。

「ジョーカー、か……」

バーンは濁った瞳を細め、意味深につぶやく。

「やつが……いや。今のあやつに、そこまでの力はあるまい」

「おや、大魔王様にしては珍しく歯切れが悪いですね。意味深ですねぇ?」

キルバーンが鎌をクルクルと回しながらねっとりとした笑みを向ける。

「なに、我が計画の邪魔をする、か弱い存在のことを思い出した」

バーンは静かに水晶玉の光を消し、冷酷な闇のなかにその身を沈めるのだった。

 

 

狭間の対話と、神の正体

白銀の光が広がる虚空の中で、八幡は面倒くさそうに頭を掻きながら、赤いローブの老人を冷めた目で一瞥した。

「そろそろ、この不可思議な状況を教えてくれねえか? じいさん」

「ほほう、そう焦るな。――ふむ、まだわからんのか、八幡。ワシは神じゃよ」

その答えを聞いた瞬間、八幡は乾いた笑いを漏らした。

「はっ……。ありきたりな回答だな。ネット小説の転生特典か何かかしら知らねえが、俺は無宗教のリアリストだ。そんなファンタジーな肩書、信じねえよ」

「ふふ、そう言うと思ったぞ。だが、よく思い出してみるがいい。お前はすでにワシを知っておるはずじゃ」

老人の自信満々な態度に、八幡は眉をひそめ、自らの脳内に刻まれた膨大なデータベースを猛烈に逆引きしていく。

((((((((((((((((((神、地上を創りし者、人間を見捨てた、あるいは関与しない全能者……。この世界(ダイの冒険)のロジックにおいて、『神』という存在がどう扱われていたか……そうだ、あの老害――大魔王バーンが地上を滅ぼす理由(動機)の中で語っていたフレーズ……!))))))))))))))))

脳裏に甦ったのは、神についてのフレーズだ。

姿形なく、言葉(神託や伝承)のみが存在し、地上の人間たちに理不尽な運命を押し付けながらも、自らは決して姿を現さないという絶対的な存在。

八幡の三白眼が、わずかに鋭く見開かれる。

「……まさか。あんた……『言葉のみが存在する』っていう、あの神様かよ」

八幡の言葉を聞き、赤い老人は満足げに深く、ゆっくりと頷いた。

「ふむ、ようやくたどり着いたか。その通り、ワシはこの世界の摂理の端っこに座す者よ」

 

 

虚構の階層と、三十路のアイデンティティ

白銀に揺らぐ狭間の世界で、赤い老人は優雅に髭を撫でながら、八幡の混乱をどこか面白がるように見据えた。

「ワシがお前に干渉できているのは、曲がりなりにも神と呼ばれる存在だからじゃよ。この世界を構築するフレーミングの端に、かろうじて触れることができる程度のな」

「いや、まだわからないな……」

八幡は頭を押さえ、思考のバグを必死に修正しようとする。

「確かに、こうして超常的な空間にいるし、アンタが『神』って名乗るのも認めよう。だが、ダイたちの世界はそもそも漫画の世界だろ? 二次元だ。俺の現実から見れば、俺の世界は四次元の世界のはずだぞ……?」

老人は含みのある笑みを浮かべ、静かに問い返す。

「本当にそうかの? お前は本当に、そっちの世界の四次元の人間なのか?」

「は……?」

「この世界の住人であるダイたちは、自分たちの世界を現実だと思い込み、自分が二次元や三次元のキャラクターなどとは微塵も認識しておらず、一人の人間として生きている。……それは、お前も『原作』の知識としてよく知っておるはずじゃろう?」

その言葉を聞いた瞬間、八幡は雷に打たれたようにハッと息を呑んだ。

((((((((((((((((((ダイたちはあの世界で本気で生き、泣き、戦っている。……じゃあ、俺は自分が「四次元の現実から来た人間」だと思い込んでいるだけで、実はこの構造のどこかに組み込まれた、ただの「別の次元の住人(あるいはキャラクター)」に過ぎねえってのか……?))))))))))))))))

「……じゃあ、俺は自分が四次元の人間だと勘違いしているだけの、単なる二次元の人間なのか……?」

あまりにメタ的で、自身の存在基盤を根底から揺るがす事実に行き当たり、八幡は呆然とその場に立ち尽くした。

「ま、思いつめるな。所詮ワシも、この創作の体系(システム)の中でギリギリ意思を持ち、この世界に干渉できる程度の『神』にすぎん。正直、ワシ自身もこの世界がどういう仕組みで動いているのか、完全には理解しとらんよ」

老人はティーカップをソーサーに置き、穏やかな声で続ける。

「だがな、八幡よ。よく考えてみるがいい。映画には俳優がおり、スクリーンのなかに物語がある。二次元の世界だ。――だが、映画の中の主人公が、自らを『自分たちはただの俳優が演じる映像だ』などと言うかね?」

その例えを聞いた瞬間、八幡の脳内でバラバラだったパズルのピースが音を立てて噛み合った。

「……俳優、かよ」

「そうだ。どうであれ、お主はその世界で生きておる。息をし、痛みを感じ、仲間と笑い、剣を振るっておる。ダイたちも、ワシも、そしてお前もな――ここにいる限り、それは紛れもない現実(リアル)じゃよ」

理屈を超えたその言葉に、八幡はどこか腑に落ちたような、肩の力が抜けるような心地を覚えるのだった。

 

幾千の敗北と、三十路のイレギュラー

「それはわかったよ」

八幡は頭を掻きながら、目の前の赤い老人に視線を戻す。

「なら、本題を聞こうか。俺をわざわざこの世界に引き入れて、こんなリソースを割いてまで介入させる理由はなんだ? 観客(傍観者)じゃ物足りねえってか」

老人はふっと苦笑いを浮かべ、カップをテーブルに置いた。

「お前、ダイたちの物語の結末……特に終盤の展開をどう思う?」

「終盤、かよ……」

八幡の脳裏に、記憶の引き出しから原作の数々の名場面が鮮明に蘇る。

((((((((((((((((((ポップが仲間をかばって死の淵から賢者として奇跡の復活を遂げ、アバン先生が絶妙なタイミングで生死の谷間から帰還し、追い詰められたダイが土壇場で竜魔人化(レギュラー外のチート覚醒)を果たす……。まぁ、客観的に見れば奇跡の連続、悪く言えば見事なまでのご都合主義のハッピーエンドだ。――だが、それをバーンやハドラーみたいな魔王軍の視点から見たら、たまったもんじゃねえな。いくら何でも、相手の引きが強すぎて運が悪いなんてもんじゃねえよ))))))))))))))))

「……まあ、奇跡の連続というか、都合よくピースがハマりすぎてるって印象だな。敵からすりゃ、やってられないバグゲーだろ」

その答えに、老人は深く、重いため息をついた。

「そうじゃ。あれはな、数ある無数の世界線の中で、たった一つだけダイたちが勝利を掴み取った『奇跡の道筋』にすぎんのじゃよ。奇跡なんてものは本来そう何度も起きるものではないが……あの結末に至るまでに、どれほどの犠牲と、どれほどの敗北があったと思う?」

老人の表情に、言い知れぬ疲労と重圧が影を落とす。

「他は、全敗よ」

「……どういう意味だ?」

「『トランクス』と言えば、お前ならわかるかね?」

その名前が出た瞬間、八幡の脳裏で一筋の雷光が走った。

((((((((((((((((((原作の未来からタイムマシンで過去にやってきた少年。本来の正史では孫悟空は心臓病で死亡し、人造人間に世界を滅ぼされる。しかし、それでは物語(あるいは世界)が成り立たないから、過去を改変して別の未来を勝ち取る……そうか、ダイたちの世界でも同じことが起きているのか……?))))))))))))))))

「……まさか。ダイたちが全滅し、世界が闇に沈む未来(バッドエンド)のルートが無数に存在するってことか? しかし、そんな世界線は俺が知る原作には描かれていなかったぞ」

老人は静かに首を横に振る。

「描かれておらぬのは、お前のいる世界の『物語』が勝者の歴史だからじゃよ。だが、敗北した世界はいくらでもある。誰も語ることのない、全滅の未来がな。……いわゆる、マルチバース(多元宇宙)の並行世界というやつじゃよ」

「マルチバース……。おいおい、スケールがデカすぎて頭が痛くなるんだが」

「つまりな、八幡よ」

老人は椅子から立ち上がり、なんと深々と八幡に向けて頭を下げた。

「お前に、今のダイたちの世界を救ってほしいのじゃ。……頼む。あいつらは、お前から見れば滑稽かもしれんが、この世界で生きておるんじゃよ」

突然の神からの懇願に、八幡は激しく戸惑い、思わず一歩後ろへ身を引いた。

((((((((((((((((((神様が頭を下げてまで頼むことかよ……。俺はただの、現実のしがない三十路のモブ(魔法剣士ビルド)だぞ。なんでそんな重大な役割を、俺みたいなひねくれた人間に押し付けるんだよ……ッ!!))))))))))))))))

白銀の空間で、八幡は言葉を失ったまま、目の前で頭を下げる老人の背中を見つめ続けるのだった。

 

覚醒と、三十路の背負うマルチバース

白銀の空間で、八幡は不満げに腕を組み、目の前の老人に鋭い視線を向けた。

「じいさん。そもそもアンタが全知全能の神なら、アンタ自身がどうにかすればいいんじゃないのか? ガチャの仕様をいじるとか、裏技で魔王軍をデリートするとかさ」

老人は苦笑いを浮かべ、やれやれと首を横に振る。

「甘いな、八幡。神とて、あの世界において万能ではないのじゃよ。魔族には魔族なりの、人間には人間なりの、竜族には竜族なりの営みと主張がある。生活があり、それぞれの正義(ロジック)がある。それを、どちらか一方の都合だけで一方的に神がねじ曲げることなどできんよ。……まあ、これでも腐っても神のはしくれだからな、不介入の美学というやつもある」

老人は少し表情を曇らせ、遠くを見るような目をす る。

「ただ、あまりにも今回の魔族側の出力(戦力)が強すぎての。竜族は相変わらず我関せずじゃしな。……お前の知る言葉を借りるなら、このままではバッドエンドの確率が跳ね上がりすぎる。もっと違った、希望のある未来があってもいいのではないか、ということじゃよ。人間が救われた世界が、ただの一つだけというのは、の」

「……」

理屈は分からなくもないが、納得がいかない顔をする八幡に、老人はふと思い出したように付け加える。

「あぁ、そうそう。ゴメちゃんのことじゃが……あいつの起こす奇跡、つまり『神の涙』をもっと使わせればいいと思うじゃろ?」

「あ……」

八幡がハッとした顔をする。確かに、原作の終盤でゴメちゃんは最大の奇跡を引き起こすキーアイテムだ。

しかし、老人は小さくかぶりを振った。

「あれはワシの力でも発動にはなかなかの制限があってな。あの一つの世界線、あの奇跡のタイミングのみでしか許されなかった特異点じゃ。他のマルチバースにおいて、お前の知るゴメちゃんは……ただの金色のスライムにすぎんよ」

「……マジかよ」

思わぬ事実を聞かされ、八幡は愕然として言葉を失う。頼みの綱のチートアイテムすら、世界線次第ではただのスライムだというのか。

「おっと、話が長くなりすぎたな。現実(むこう)の恋人(いろは)も、そろそろお前の寝顔を見すぎて不安になっとる頃じゃ。……続きはまた今度じゃよ」

「......ただの後輩だよ」

老人が軽く手を振った瞬間、足元の光の床がフワリと消え去り、意識が急降下していく。

深く長い溜息をつきながら、八幡の瞼がゆっくりと持ち上がった。

現実の部屋の天井が視界に戻る。

ぼんやりとする頭を抱えながら、八幡は自分のベッドの上で上半身を起こした。

「……夢、にしてはやけに現実味のあるデバッグ作業だったな……」

呟いた八幡の耳に、聞き慣れた心配そうな少女の声が飛び込んでくる。

「……って、センパイ!? やっと起きました!? もう、息してるか心配で何度顔を覗き込んだことか……って、なんでそんなにやつれてるんですか!?」

スマホを片手に慌てふためくいろはの姿をぼんやりと眺めながら、八幡は心の中で深く、深く頭を抱えるのだった。

――三十路のモブに、マルチバースの命運を背負わせるなよ、まったく。

 

 

ぬるいコーヒーと、日曜日の現実

「……っ」

現実のベッドの上で、八幡はガバッと上半身を起こした。

夢の中の白銀の空間と神との対話、そしてマルチバースという途方もない重荷の記憶が、頭の中でまだかすかに反響している。

いろはは一旦部屋を出ている。

ふと、視線の先に目をやると、いつの間に淹れられたのか、小さなマグカップがちょこんと置かれていた。

カップに近づき、湯気の立たない表面をじっと見つめながら、八幡はボソリと呟く。

「……ファイブアイス」

カチリ、と小さな音がした。

マグカップの底、あるいはカップのふちから、ありえないことにひとつだけ小さな氷の結晶がポトリと落ち、コーヒーの中に沈んでスーッと溶けていく。

「……夢じゃねえ、のかよ」

現実とゲーム(マルチバース)の境界が曖昧模糊とした感覚に頭を抱えかけていたその時、ガチャリと部屋のドアが勢いよく開いた。

「いつまで寝てるんですか、先輩! もう昼近くですよ!」

腕を組んでぷんぷんと頬を膨らませた小悪魔系後輩――いろはが、呆れ顔でズカズカと部屋に入ってきた。

八幡は現実の日常に引き戻され、やれやれと頭を掻きむしる。

「お前な、もう朝……ってか昼だぞ。いつまで俺の部屋に居座る気だ。さっさと自分の家に帰れよ」

「えー、ひどい! 先輩の看病をしてあげてたのにそんな言い方あります? かわいい後輩が部屋にいる価値がわからないんですかねー?」

いろははジト目を向けながら、ため息をついた。

「ほら、そのコーヒーもうすっかりぬるいですよ。新しく淹れましょうか?」

「いや、いい」

八幡は、グラスの中で先ほど溶け切った氷の名残を見つめながら、マグカップを手に取った。

「……これでちょうどいい。ぬるいくらいが、今の頭にはちょうどいいさ」

一気にコーヒーを飲み干しながら、八幡は今日が何曜日だったかをぼんやりと思い出す。

――そうか、今日は日曜日だったか。

マルチバースの救世主なんて大層な役回りはさておき、三十路のモブの休日が、こうして静かに(しかし面倒くさく)幕を開けるのだった。

 

 

マグカップをテーブルに置き、八幡は天井の一点を見つめながらぼそっと呟いた。

「……仕事、辞めるか」

「ええーっ!? いきなり何言ってるんですか! 無職になる気ですか? そんなことしたら一気に引きこもりまっしぐらじゃないですか!」

いろはが目を丸くして抗議の声をあげる。

「俺はもともとインドア派だし、引きこもりがちだが。まあ、昨日はジムでアウトボクサーの真似事をしてきたがな」

「そういう意味で言ってるんじゃないです! 仕事を辞めてどうやって生活するつもりなんですか? 貯金だって無限じゃないでしょ?」

いろはのまっとうな心配に対し、八幡はどこ吹く風とばかりに肩をすくめる。

「貯金なら、社畜生活のせいで使う暇がなかったから、それなりにたまってるよ。それに、退職すれば失業保険だって降りる。……ちょっと訳あってな。少しまとまった時間が必要なんだよ」

「訳ってなんですか……。だいたい、先輩はまだ30歳ですけど、無職になって次が見つかる保証なんて――」

「バカ言うな。今の時代、30歳なんてまだまだ若手の即戦力枠だ。今のほぼブラック企業と違って、選び放題とは言わねえが、まともな職場くらい選べるさ」

「ほんとにもう……。彼氏が無職のヒモ一歩手前なんて、私、将来が不安すぎるんですけど!」

いろはが不満そうにほっぺたを膨らませるが、どこか呆れたような、見放しきれない響きが含まれていた。

八幡はふっと息を抜き、窓の外の青空に目をやる。

「まあ、急に明日からバックレるわけにはいかないからさ、ちゃんと有給消化しつつ引き継ぎくらいはするよ。……日付が変わるまで残業して、休日もチャットに追われるような生活をずっと繰り返してたんだ。いずれ心身ともに限界が来るのは目に見えてたしな。ある意味、いいタイミングのデバッグ(人生の軌道修正)だよ」

その笑みには、社会のレールから外れることへの焦りや恐怖は微塵も感じられなかった。

神と直接面会し、多元宇宙の存亡を背負うという規格外の理不尽を突きつけられた直後だ。現実の生活費や会社の去就など、今の八幡にとっては数あるクエストの一つをクリアする程度の難易度にしか感じられなかった。

実際、魔法剣士としてのチート級のスキルや、異世界を渡り歩けるほどのスペックを手に入れた今の彼なら、仮に日本の会社社会をドロップアウトしたとしても、どこでだって生きていけるだけの底力が備わっていた。

「……まあ、せいぜい有給は綺麗に消化して、すっきり辞めてやるさ」

「はあ……。先輩がそこまで言うなら止めませんけど、本当に後悔しませんね?」

いろははやれやれといった様子でため息をつきつつも、マグカップを片付けようとキッチンへ向かうのだった。

 

 

 

ふと、八幡の脳内に先ほどのやり取りのフレーズが引っかかった。

「……てか、今しれっと『彼氏が』って言ったか? 俺、お前の彼氏になった覚えは一切ないんだが」

その指摘に、キッチンから戻ってきたばかりのいろはの動きがピタッと止まる。みるみるうちに彼女の頬が朱色に染まり、しかし臆することなく、彼女は得意げに胸を張ってみせた。

「だ、だってセンパイ、長年彼女いないって言ったじゃないですか! おまけに高校の時、私のことめちゃくちゃ大好きだったくせに。こうして接点があるんだから、いつの間にか彼氏彼女の関係になっててもおかしくないじゃないですかー!」

「いや、好意のベクトルを勝手に最大出力でねじ曲げるな。あと高校の時はただの変な影の薄いモブ先輩だろ、俺は」

ツッコミを入れる八幡の隙を突くように、いろははフワリと距離を詰め、そのつま先立ちのまま――。

「だ・か・ら」

チュッ、と、八幡の左頬に柔らかい感触が残る軽いキスを落とした。

「……は?」

思考の処理能力が完全にオーバーロードを起こし、八幡の動きが完全にフリーズする。心拍数が急上昇し、顔から一気に血の気が引いていくのが自分でも分かった。

「……っ!? おまっ、急になにして――」

「ではではー! 私、そろそろお暇しますね!」

赤くなった顔を隠すように、いろははバタバタと玄関へ走り、鍵を開けてドアに手をかける。

思考が停止したまま固まる八幡を背に、玄関のドアノブを握ったいろはの心臓もまた、ドッドッと激しく鳴り響いていた。

((((((((((((((((((あ、やっちゃった……自分でもびっくりするくらい大胆なことしちゃった……!))))))))))))))))

顔を真っ赤に染めながら振り返ったいろはに対し、八幡は必死にバグりかけた脳みそを再起動させ、いつもの三白眼のまま、ふっと肩の力を抜いて声をかけた。

「……おい。あの、お前につきまとってたストーカーの件だけどよ」

「え……?」

「一度警察のお世話になったから大丈夫だとは思うけどさ。……なんか変なことあったら、すぐ俺に電話しろ。お前は、俺の大事な……かわいい後輩だからな」

どこか保護者のような、しかし真っ直ぐな声音を含んだその言葉に、いろははハッと目を見開く。

直後、彼女は悪戯っぽく、しかしどこか切なさと確信に満ちた笑みを浮かべて言い返した。

「――『かわいい彼女候補』、ですよセンパイ?」

ガチャリ、とドアが開き、いろははそれ以上返事をさせないようにパッと姿を消した。

静まり返ったリビング。

一人残された八幡は、しばらく天井を見つめたまま固まっていたが、やがてやれやれと頭をかきむしった。

「……なに言ってんだか、あいつは」

冷めかけたマグカップに残っていたコーヒーを飲み干しながら、八幡の頬には、まだ消えない微かな熱が残っているのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。