ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。   作:tomozow

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陽乃編 6

路地裏のファイブアイスと、三十路の現実

いろはが去って静けさを取り戻した日曜日。

八幡はジャケットを羽織ると外へ出かけ、周囲に誰もいない人気のない路地裏へと足を踏み入れた。

薄暗いコンクリートの壁に向かい、人差し指を向ける。八幡はあの異世界(ダイの世界)で使っていた呪文を唱える。

「……ふっ」

魔力を練り上げ、指先へとエネルギーを集中させる。

あちらの世界であれば、五つの凍てつく氷の弾丸が鋭く奔るはずの軌道――。

「――ヒャヒャヒャヒャヒャドッ!」

気合の入った掛け声とは裏腹に、パキパキと乾いた音を立てて生み出されたのは、本来のものより一回り小さく、数もわずかに2個。しかも勢いよく飛ぶどころか、トボトボと頼りなく壁に当たってポトリと地面に落ちるだけだった。

「…………」

数秒間の沈黙の後、八幡は冷め切った目で自分の掌を見つめる。

遠くからこの光景を見られたら、ただ壁に向かって氷の塊でキャッチボールをして遊んでいる、痛い中二病の大人にしか見えないだろう。職務質問されたら一発でアウトな絵面だ。

「……やっぱりな」

八幡は小さく息を吐き、頭を掻いた。

「こっちの世界の肉体がただのオッさん(運動不足の30代)だからか、それとも現代の環境に魔法の出力(リソース)が適応してねえからか……。どちらにしても、この地球じゃあんな派手な魔法はまともに使えねえのが普通ってわけだ」

もし万が一、この現代日本で魔法の力を隠し芸として使い、手品師(マジシャン)でも目指して生きていこうものなら、この出力ではインパクトが弱すぎて大道芸の隅っこでも食っていけないレベルである。

「まあ、いっか。こっちの世界で無双する理由なんてそもそもねえしな」

とはいえ、少しばかりの検証欲はそそられる。

「今度、あの神様にまたお茶に呼ばれたら、この『地球での出力制限パッチ』の仕様について詳しく聞いてみるか」

独りごちながら、八幡はポケットに両手を突っ込み、秋晴れの冷たい空気を吸い込みながら歩き出すのだった。

 

 

サイゼリヤの残業と、予期せぬ遭遇

秋の乾いた風が吹き抜ける日曜日の午後、八幡はアパートへ戻る足で近所のサイゼリヤに立ち寄っていた。

席に着くなり、カバンから会社支給の小型ノートPCを取り出し、有給消化に入るための引き継ぎ資料をカタカタとまとめ始めている。

「……休日の昼下がりにファミレスで仕事してるって、我ながら見事なまでの社畜の才能だな、俺」

自嘲気味に呟きながら、ふと、これがつい最近まで自分にとって「当たり前の日常」だったことに思い至る。

理不尽な納期、深夜のチャット通知、終わりなきデバッグ作業。決して褒められた環境ではなかったが、どん底にいた自分を拾ってくれたのは今の会社だったのも事実だ。

(まあ、最後くらいは綺麗に引き継ぎを終わらせて、恩を返して綺麗に辞めてやるか)

そう心の中で区切りをつけ、ブルーライトカットのメガネを押し上げながらキーボードを叩いていたその時だった。

「あれー? 比企ヶ谷くんじゃない?」

柔らかく、しかしどこか聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。

顔を上げると、そこにいたのは雪ノ下陽乃だった。

「……っ」

八幡は反射的に、かけていたブルーライトカットのメガネをスッと外す。

その瞬間、異世界(ダイの世界)で数々の死闘をくぐり抜け、マルチバースの理不尽に直面し、世界の命運を背負うという修羅場を潜ってきた三十路のモブが纏う、得も言われぬ落ち着きと、ただの会社員にはない圧倒的な「色気」が、ふわりと周囲の空気を変えた。

気の抜けた日常の延長にいたはずの八幡から放たれたその鋭くも深い気配に、陽乃は――あの変幻自在で食えない陽乃すら、ほんの一瞬、言葉を失って息を呑んだ。

 

サイゼリヤの再会と、見破れない男

「何やってるの?」

興味津々といった様子で覗き込んできた陽乃に対し、八幡はキーボードから手を離し、落ち着いたトーンで答えた。

「ええ。会社を辞めようかと思って、その引き継ぎの資料を作ってるんです」

「えっ。辞めて、次の当てとか大丈夫なの?」

「辞めないまま今の生活を続ける方が、色んな意味で大丈夫じゃないんで」

淡々とそう言いながら、八幡はテーブルの上のグラスに入ったアイスコーヒーを一口啜る。

その姿を、陽乃はどこかからかいを含んだ、それでいて、まるで珍しいものでも観察するような熱を帯びた目でじっと見つめていた。

「へえ……。なんだか、すっかり『つまらない大人』になっちゃったね、比企ヶ谷くん」

ふふ、と悪戯っぽく笑う陽乃。

八幡はそれを聞き流しながら、「まあ、無職になろうとしてる昔の知り合いに対する態度なんて、こんなものだよな」と心の中で軽く流す。

逆に、八幡は目の前に立つ陽乃をじっと観察した。

相変わらず隙のない佇まいで、わずかに目の下に疲労の色はあるものの、相変わらずの圧倒的な美貌を誇っている。もう32、3歳のはずだが、相変わらず実年齢よりずっと若く見える。

(……この人が特別に綺麗なのか? いや、それとも……)

相変わらず周囲の期待を背負い、無理を重ねているのに、それを「当たり前」として完璧にこなそうとする生き方。かつて彼女の本質の一端を見た記憶が、頭の片隅をかすめる。

「――まあ、陽乃さんは昔から全然変わらないですね」

八幡はフッと柔らかく笑い、皮肉でもお世辞でもなく、素直な感想を口にしてコーヒーのグラスを置いた。

その瞬間。

陽乃の胸の奥で、小さく心臓が跳ねた。

((((((((((((((((((な、何よこれ……! この余裕と、妙に色気のある落ち着きは一体なんなの? こっちは仕事のゴタゴタで疲れ果ててて、こいつはこれから『無職になる予備軍』の分際で、なんで私を包み込むような目で見てるわけ!?))))))))))))))))

表向きはいつもの余裕のある笑顔を貼り付けながらも、陽乃の内心は激しく動揺し、ドギマギと脈打つ自分に驚いていた。

 

「で、何か用があるんですか?」

不意に投げかけられた直球の問いに、陽乃はハッと内心で動揺を隠す。

――本当のところ、彼女は「たまたま」この店に来たわけではない。

先日、実家で会った妹・雪乃が、どこか落ち着かない、それでいて気恥ずかしそうなソワソワした表情を浮かべていた。問い詰めたところ、渋々「比企ヶ谷くんと会ってきた」と吐き出し、さらに調べれば朝帰りまでしていたという事実が発覚したのだ。

可愛い妹をこんな得体の知れない男(しかも無職予備軍)に引っ掻き回されてはたまらない。八幡の行動パターンや休日によくいる場所を割り出し、「もしやここにいるのでは」と当たりをつけてやってきたところ、見事に引き当てたというわけだ。

陽乃は表情を引き締め、フッと冷ややかな笑みを貼り付けた。

「……あなたに忠告しに来たのよ。雪乃ちゃんに、これ以上近づかないでってね」

「……そうですか」

八幡は淡々と返事をしながら、心の中で(相変わらず妹が過剰に大事だな、この人は)と納得していた。

「確かに、忠告は聞きました」

(まあ、忠告を聞いただけで、それに従うとは一言も言ってないからセーフか? いや、そもそも雪ノ下とは夕食食べて帰りにシャワー貸しただけだか。いや、泊まったな)と、八幡は内心で軽く言い訳する。

そして、目の前で鋭い敵意と庇護欲を燃やす女性を見つめ、八幡はふっと優しく目を細めた。

「……相変わらず、強くて優しい人だな」

その呟きは、思いのほか静かに、しっかりと陽乃の耳に届いてしまった。

「っ……!」

図星を突かれたような、心の鎧を剥ぎ取られたような感覚に、陽乃は言葉を失う。

彼女はこれ以上ボロを出さないよう、サッとテーブルの上に置かれていた伝票を手に取り、スッと立ち上がった。

去り際、八幡はその背中に静かな声を投げかける。

「――さよなら、陽乃さん。昔は色々ありがとう。お元気で」

その短い言葉には、かつて高校時代に何かと絡んできた彼女への感謝と、どこか雪乃とは違う、大人びた魅力に一瞬惹かれていた微かな記憶のすべてが込められていた。

――おそらく、もう二度と会うこともないだろう。そんな予感がしたからこその、別れの言葉だった。

背中に響いたその声を聞いた瞬間、陽乃の視界が一気に歪み、胸の奥が熱くなってこみ上げてくるものを覚えた。

(……なによ、それ。まるで、もう二度と会わないみたいな言い方……)

泣き顔なんて絶対に見せない。

そう自分に言い聞かせ、陽乃は一度も振り返ることなく、一直線にレジへと歩み寄って会計を済ませると、そのまま店を飛び出すように去っていった。

自動ドアが閉まる音を聞き届けると、八幡は小さく息をつき、再び手元のノートパソコンへと視線を戻す。

静寂を取り戻したファミレスの席で、三十路のモブは淡々と引き継ぎのためにキーボードを叩き続けるのだった。

 

雪ノ下陽乃が店を去ってから、およそ三分ほどが経った頃だった。

遠くで、空気を切り裂くような鈍い衝撃音が響いた。

八幡は作業していた小型ノートPCをパタンと閉じ、カバンに放り込むと、気だるげにサイゼリヤを後にした。

(今の音、なんだったんだ……?)

大通りに出ると、すでに野次馬の人だかりができている。

中心にあったのは、無残に大破した一台の乗用車だった。路面には全くブレーキ痕がない。運転手は運転中に脳梗塞か何か、突然の発作にでも襲われたのだろうか。幸い、他の歩行者への直撃は免れたようで、大きな事故の割には周囲に致命傷を負った人間はいないようだった。遠くから救急車のサイレンの音も近づいてきている。

「……まあ、大事には至ってなさそうだな」

八幡が踵を返そうとした、その時だった。

「キャアアアアアアッ――!」

群衆の中から、かき消せないほどの絶望的な女性の悲鳴が響き渡った。

ハッとして振り返る。声の主へ視線を走らせた瞬間、八幡の背筋が凍りついた。

そこに倒れ込んでいたのは――ついさっきまで店内で話していた、雪ノ下陽乃だった。

暴走車に巻き込まれたのか、巻き添えで飛ばされたフェンスの残骸でも掠めたのか、彼女の膝からは鮮血が滲み出している。そして何より、その誰よりも誇り高く、美しかったはずの顔の頬からこめかみにかけて、痛々しい深々とした傷が刻まれていた。

「あ、あああっ……! うそ、嘘よ……っ!」

自分の血に濡れた指先を見て、陽乃は頭を抱え、狂ったように絶叫した。完璧だった仮面が音を立てて崩れ落ち、そこにあるのはただの恐怖に怯える一人の女性だった。

「陽乃さん!」

八幡は一瞬で駆け寄り、崩れ落ちる彼女の肩を支えた。

「っ……比企ヶ谷くん……! 来ないで、見ないで! 私の顔を、こんなの……見ないでよっ!」

顔を両手で覆い、パニックで過呼吸を起こしたように震える陽乃の頬に、八幡は迷うことなくそっと自分の手を添えた。

「比企ヶ谷くん、私、私っ、どうしよう……こんなの……!」

「大丈夫だ、陽乃さん。落ち着け」

「何が大丈夫なのよ……! こんな顔になって、どうやって、生きていけばいいのよ……!」

泣き叫び、八幡の胸にしがみつくようにして崩れおちる陽乃。

その背中を優しく抱きしめながら、八幡は誰にも聞こえないほどの低い声で、指先に全神経を集中させる。

((((((((((((((((((いけるか……? こっちの世界じゃ出力が落ちてたが、今の俺の全魔力を一点に集中させれば――『ホイミ』ッ!!))))))))))))))))

ホイミとつぶやく八幡。微かな光が、八幡の指先から陽乃の傷口へと滑らかに流れ込んでいく。

 

「大丈夫。傷も浅く小さい。すぐ目立たなくなる。ちょっと血が多く出てるだけだ」

 

「そんなわけないわよ……見て、この血の量だって……慰めなんて、もうやめてよ……!」

「陽乃さん。大丈夫だ。昔も、今も、これからも――変わらず綺麗なままの陽乃さんだ」

「でも、こんな顔じゃ、もう……っ!」

「陽乃さんの美しさは、顔だけじゃないだろ? その強くて、優しくて、でも不器用な中身こそだろ」

八幡は彼女をさらに強く、しかし優しく抱きしめ、耳元に囁く。

「大丈夫だ。俺がいる。……すぐに救急車が来る。傷も残らない。だから、今はもう目をつぶってろ」

その低く、底知れない安心感を含んだ声に導かれるように、陽乃は震えながらもギュッと強く目をつぶった。

その瞬間。

八幡の唇がごくわずかに動く。

「……『ラリホー』」

呪文の余波を受け、パニックで張り詰めていた陽乃の意識がスッと暗い底へと沈み、彼女の体から力が抜けて八幡にもたれかかった。

意識を失った陽乃をそっと支えながら、八幡はさらに残る全魔力を総動員し、幾重にも『ホイミ』を重ねがけして傷を完全に塞いでいく。

数秒後、陽乃の頬を飾っていたおぞましい裂傷は、痕形もなく綺麗に消え去っていた。

「……よし」

八幡は自分の膝のあたりから陽乃の血を少しだけ指先ですくい取り、眠る彼女の綺麗な頬へほんのりと塗りつけた。

(これで、起きた時に『事故のショックとパニックで血まみれになったと思い込んでいただけ』って脳内変換してくれるだろ……。膝のかすり傷は、まあ、流石に残しておかないと不自然か。無傷だと逆に怪しまれるしな)

ポケットから小さな絆創膏を取り出し、陽乃の擦りむいた膝にそっと貼り付ける。

遠くで近づいてくる救急車の赤色灯とサイレンの音が、だんだん大きくなってきた。

「……じゃあな、陽乃さん」

抱き起こしていた彼女をそっと歩道の安全な場所に寝かせ、八幡は立ち上がった。

数歩歩いてから、ふと振り返る。

血に汚れてはいるが、その顔にはもう傷一つなく、相変わらず息を呑むほどに綺麗な寝顔があった。

「――血に塗れても、相変わらず美人だな」

独りごちて、八幡はその場から背を向けた。

 

「魔法使いになって、本当によかった」

意識の遠ざかるその狭間で、陽乃は確かに聞いた気がした。

耳元で優しく囁く、あのひねくれた少年の、今はすっかり落ち着いた大人の声を――。

 

白昼夢の傷跡と、現実の温もり

病院の白い天井、消毒液の匂い。

目が覚めた雪ノ下陽乃は、重く冷たい現実の端っこでハッと息を呑んで跳ね起きた。

脳裏に蘇るのは、あの暴走車の衝撃と、自分の顔を覆った生々しいまでの鮮血、そして狂乱して叫んでいた自分の姿。

――そして、絶望の底にいた彼女を優しく包み込み、「大丈夫だ」「昔も今もこれからも綺麗なままの陽乃さんだ」と囁いてくれた、八幡の温もり。

「……夢、だったの……?」

かすかに震える指先を、恐る恐る自分の右頬へと近づける。

八幡は「すぐ治る」と言ってくれたが、あんな大怪我が消えるなんてありえない。どれほど醜い傷痕が残っているのか――覚悟を決めて、指先が頬の皮膚を捉えた。

「……え……?」

そこにあったのは、ツルりとした滑らかな肌触りだけだった。

ガーゼもない。痛みもない。指先が引っかかるような凹凸すら、何一つない。

慌てて枕元のスマートフォンをつかみ、インカメラを起動する。

画面に映し出されたのは、いつもと寸分変わらない、美しい自分の顔だった。傷など、どこにも見当たらない。

「やっぱり……全部、幻覚だったの……?」

安堵と、なぜか言いようのない虚しさが入り混じり、力が抜けかけたその時。

ズキッ

不意に、右の膝から鈍い痛みが走った。

ハッとして布団をめくり、自分の膝に目を落とす。そこには、小さな絆創膏がポツンと貼られていた。

しかも、病院で使用されるような無機質なものではなく、なぜか少しポップでファンシーな、大の大人が選ぶには似合わない可愛らしいデザインの絆創膏だった。

「……っ」

その瞬間、ガチャリと病室のドアが開き、担当の医師がカルテを抱えて入ってきた。

「おや、目が覚めましたか、雪ノ下さん。気分はどうですか?」

「あ……あの、私は一体……?」

陽乃が掠れた声で問うと、医師は首をかしげながらカルテをめくった。

「ええ、事故現場の少し離れた歩道で、気を失っているところを通報されたんですよ。車自体の衝突は免れたようですが、あまりの恐怖とパニックで文字通り気絶してしまったんでしょう。その時に膝を軽く擦りむいた、といったところですかね。他に重傷者もいなかったため、救急隊が念のためあなたをこちらへ搬送したんです」

医師の言葉に、陽乃は混乱を深める。

(じゃあ、顔の怪我はやっぱり私のパニックが作り出した幻覚だったの……?)

だが、医師は不思議そうに首を傾げ続けた。

「ただ、一つ不可解な点がありましてね。あなたが倒れていた場所の近くには誰もいなかったんですが……あなたの膝の擦り傷、誰かが丁寧に消毒して、ご丁寧にその可愛らしい絆創膏まで貼ってくれていたんですよ。ストッキングが破れていた箇所と一致していたし、事故の時の傷でしょう?救急隊員が到着するより前に、誰か親切な人があなたを介抱して、気付かれないように立ち去った……そんなところでしょう」

――比企ヶ谷くんだ。

その名前が、脳裏に雷光のように閃いた。

頭の中が激しい混乱と熱狂の渦に巻き込まれる。

あの時、サイゼリヤの席から追いかけるように駆けつけてくれたこと。狂乱する自分を抱きしめ、「俺がいる」「綺麗なままの陽乃さんだ」と囁いてくれたこと。

夢なんかじゃなかった。

あれは現実だったのだ。

でも、あの大量の血は? 深いはずの傷痕が一切残っていないのはどうして?

医療の常識を完全に無視した奇跡のような現象が、自分の身に起きていた。

(……あの子、いったい……何をしたの……?)

呆然と自分の頬に触れながら、陽乃の胸の奥底で、決して消えない熱い感情が激しく波打つのだった。

 

「あの、その絆創膏……新しいものに貼り替えますか?」

医師がカルテを挟みながら、少し困ったような笑みを浮かべて尋ねた。

「い、いい! 貼り替えなくていいです!」

陽乃は思わず身を乗り出し、あわてて拒絶するように両手を振った。

「はは、そうですか。じゃあ、点滴の様子を見てまた来ますね」

医師は苦笑しながら病室を出ていき、静かにドアが閉まる。

一人になった陽乃は、そっと自分の右膝に貼られたファンシーな絆創膏に指先を触れた。

「……比企ヶ谷くん……」

呟いたその時、タイミングを見計らったかのように、病室のドアがカチャリと軽く開いた。

「――呼びましたか?」

そこに立っていたのは、いつもの気だるげな三白眼を隠さない、見慣れないスーツ姿の八幡だった。

「なんで……? あなた、どうしてここに……」

「いや。さっきまで話をしていた知り合いが事故に遭って、そのまま救急車で運ばれたんだ。気にならないわけがないだろ。それに、俺が雪ノ下と会ったからあんたが店に来ることになったんだ。俺がいなければ、あんたがその時間にあの通りを歩くこともなかった。……多少の責任は感じるさ」

八幡は淡々と言いながら、パイプ椅子を引き寄せてベッドの横に腰掛けた。

その落ち着き払った態度に、陽乃の中で抑え込んでいた疑問が一気に溢れ出す。

「ちょっと、比企ヶ谷くん……! 私に何をしたの? あの時、私の顔は確かに……血まみれで、深い傷が……っ! あれは一体、どういうことなのよ!」

追いつめるような陽乃の問いかけに対し、八幡はふっと息をつき、極めて冷静に言葉を返す。

「何って、小さい傷に見えたが……よく見たら、あんたが自分で膝を擦りむいた時の血が、パニックになって顔に手をついた拍子に飛び散っただけじゃないのか? 顔を強くぶつけたショックと恐怖で、自分で『顔に致命的な傷ができた』と思い込んだ――ってところだろ」

「そんなわけないでしょ……!」

陽乃は声を荒らげる。

「それなら、いくらなんでも顔や頭に打撲の痕や、最低でも痛みが残るはずよ! 医師だって『傷はないがパニックで気絶した』って言ってたわ。でも、あんなに血が出たのよ!? 夢なんかじゃなかった!」

八幡は微動だにせず、静かなトーンで切り捨てる。

「人間、パニックの最中じゃ自分の顔がどうなっているかなんて正確に見えないだろ。自分から自分の顔なんて直接見えないんだから。……要するに、『最初から顔には小さな傷すらできていなかった』ってのが、客観的な真実じゃねえの?」

「……っ……」

論理的でありながら、どこか強引すぎる説明。

だが、目の前にある事実――鏡に映る自分の顔には傷一つなく、あるのは膝の小さな擦り傷と、このファンシーな絆創膏だけという現実が、八幡の言葉を否定することを許さない。

理屈では到底納得できない。

しかし、これ以外に説明がつくわけもなかった。

陽乃は悔しそうに唇を噛み締め、わずかに震える瞳で八幡を睨み据えた。

――だが、その心の奥底では、彼が自分のために駆けつけ、こうして面倒くさい理論で必死に(あるいは自然を装って)現実を繕い、守ってくれたのだという温もりが、どうしようもなく広がっていくのを感じていた。

「……納得いかないわね」

陽乃はふっと力を抜き、かすかに自嘲気味に笑った。

「……でも、納得するしかないじゃない」

八幡はそれ以上何も言わず、ただれっきとした「現実」に戻った病室の窓の外へと、静かに視線を滑らせるのだった。

 

窓の外へと視線を向けていた八幡の横で、陽乃の脳裏に、あの事故直後の記憶がフラッシュバックのように鮮明に蘇ってきた。

――『大丈夫だ、陽乃さん』

――『陽乃さんの美しさは顔だけじゃない。中身だろ?』

――『大丈夫だ。俺がいる』

そして、あの強く、包み込むような温かい抱擁。

あの時、自分の女性としての人生は完全に終わったと絶望の底にいた。その最中にこんな反則的な言葉をかけ、抱きしめておいて――。

(あれは……、あれはもう……愛の告白と言わずして、なんと呼ぶわけ……っ!?)

そこまで思考が行き着いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。

事故の恐怖も不可解な傷の謎も一気に吹き飛び、さきほどまで冷ややかだったはずの陽乃の顔が、耳たぶの先までカッと真っ赤に染め上がる。

「……顔色も戻ってきたし、もう大丈夫そうだな。それじゃ、俺はこれで」

用事は済んだとばかりに八幡が背を向け、病室を出ようと歩き出す。

その瞬間、陽乃は無言のままスッと上半身を起こし、ガシッと八幡のスーツの袖を力強く掴み留めた。

「ん?」

振り返った八幡は、怪訝そうに眉をひそめながらも、引っ張られるように再びパイプ椅子に腰掛け直した。

目の前には、言葉もなく、ただ顔を真っ赤に染め上げたまま、じっと自分を見つめて離さない陽乃の姿があった。

 

掴まれたスーツの袖をちらりと見てから、八幡は困ったようにため息をついた。

「……なんだよ、まだ何かあるのかよ」

陽乃はぐっと息を呑み、わずかに潤んだ瞳で真っ直ぐに八幡を見据えた。頬の赤さは引かないまま、しかしその声には妙な据わった覚悟がこもっていた。

「さっき……責任を感じるって言ったわよね。だから、責任とってもらうから。私をこんな風に傷物にした責任を」

そう言って、陽乃は自分の右膝に貼られたファンシーな絆創膏をツンと指さす。

「いや、あのな……。それくらいのかすり傷なら跡も残らないし、『傷物』なんて大袈裟すぎるだろ。……言い方によっては、なんか別の変な意味に聞こえるからやめろ」

「そのつもりで言ったのよ」

陽乃は微塵も引かず、むしろ挑発するように唇の端を持ち上げた。

「さっきの事故のせいで、私の心はめちゃくちゃよ。すっかりあなたに狂わされて、もう他のものなんて目に入らなくなったんだから。……責任取りなさいよ!」

「どんな屁理屈だ、それ……」

あまりの強引な曲解に、八幡は盛大に頭を抱えた。だが、目の前の女性の瞳に宿る熱を見れば、ここで適当にあしらっては収まりがつかないのも分かる。

八幡は観念したように肩をすくめ、ふっと息をついた。

「……はあ、仕方ないな」

呆れたような、それでいてどこか諦めたような笑みを浮かべ、八幡は立ち上がると陽乃のベッドの脇に歩み寄った。あれから時間も経ったし、一回くらい使えるか、と思う八幡。

「……陽乃さん。実は俺、最近ちょっとした手品が使えるようになりましてね」

「はあ? 手品って何よ、急に……」

怪訝そうに顔をしかめる陽乃の目の前で、八幡はスッとしゃがみ込み、彼女の右膝に貼られた絆創膏の端にそっと指先を触れた。

指先から伝わる温もりに、先ほどの事故の鈍い痛みとは違う、別の意味でのドキドキが陽乃の胸を跳ねさせる。

「痛いの、痛いの、飛んでけ」

真面目な顔で、どこかおふざけ交じりの低音でそう呟く八幡。

「ちょっと、子ども扱いしないでよっ……!」

顔を真っ赤にした陽乃の声に重ねるように八幡は口元をわずかに動かし、極めて小さな声で呪文を紡いだ。

(ホイミ』……ッ)

手のひらから流し込まれた微かな熱が、絆創膏の下の皮膚を包み込む。

その瞬間、陽乃は膝のあたりにスッと奇妙な違和感を覚えた。さっきまであった鈍い痛みが、嘘のように綺麗に消え去っている。

「え……?」

驚いた陽乃は、自分の手でそのファンシーな絆創膏をペリペリと剥がしてみせた。

そこには、さっきまで確かにあったはずの擦り傷すらも完全に消え去り、なめらかで完璧な白い肌が戻っていた。

「……嘘……消えてる……?」

「今回だけは特別サービスですよ。これで、貸し借り無しってことで」

八幡はスッと立ち上がり、スーツの裾を握る陽乃の手を優しく解いた。

呆然と自分の膝を見つめ、それから信じられないものを見る目で八幡を仰ぎ見る陽乃。

「あなた……いったい、何者なの……?」

八幡はドアの方へ歩きかけながら、肩越しにフッと悪戯っぽく笑った。

「――ただの、手品ですよ」

それだけ言い残すと、振り返ることもなく、八幡は病室のドアを開けてヒラリと手を振りながら去っていった。

静かになった病室の中。

陽乃は綺麗に治った膝に触れながら、ふっと柔らかく、これまでにないほど愛おしそうな笑みを零した。

「……つまらない大人になんて、なってないじゃない……」

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