ダイの大冒険 やはり俺がアバンの使徒なのは間違っている。 作:tomozow
目が覚めると、視界に広がっていたのは地下洞窟の天井ではなく、見慣れた八幡のワンルームアパートの白いクロスだった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光がやけに眩しい。頭の芯がガンガンと痛み、口の中には昨夜の酒の苦味がかすかに残っていた。
(……そうだ、昨日はマトリフの爺さんと、気がつけば朝まで飲み明かしたんだっけか)
アバンの生存を巡る話から始まり、ハドラーとの過去の死闘、果てはマトリフの若い頃の武勇伝や、お互いの魔法論まで、話題は尽きることがなかった。あの老魔道士と酒を酌み交わした夜は、どこか現実離れしていながらも、胸の奥に確かな温もりを残す「いい夜だったな」と、八幡はベッドの上で小さく息をつく。
だが、それにしてもこの頭痛の激しさはどうだ。
「いてて……飲み過ぎたか……」
布団から這い出しながら、八幡はふと疑問に思う。
(しかし、なんで意識だけがあっちの世界に飛んで肉体はこっちにあるのに、脳や目だけは向こうの世界の感覚やダメージ(二日酔い含む)をしっかり引きずるんだか……)
もっとも、全く影響を受けないのもそれはそれで味気ないというか、都合が良すぎる話ではある。「まあ、人間ってのはそういうアンバランスな生き物か」と、八幡はぼんやりと考えながらベッドから足を下ろした。
洗面所に向かい、鏡に映った自分の顔を確認しながら手際よくヒゲを剃り、クローゼットからいつもの背広を取り出してパリッと着こなす。社会人としての戦闘準備を整えると、家を出るために玄関へと向かった。
ふと、右手の掌にわずかに魔力の気配がよぎる。
(……そうだ、二日酔いなら、あれを使えば一発じゃないか?)
八幡は呪文の形を思い浮かべ、解毒や身体の異常を癒す「キアリー」を脳内で構築しかけたが、途中でぴたりと動きを止めた。
「いや、やめておこうか」
独りごとのように小さく呟き、八幡は苦笑した。
現実世界の日常に戻ってまで、そんな反則じみた魔法に頼る癖がついてしまっては、いざという時に人間の地力が鈍る。便利なリソースに依存しすぎるのは、あのスパルタな大魔道士の特訓を見てきた後ではなおさら避けたかった。
「さてと……今日の会議の資料、電車の中で頭に入れておかないとな」
八幡は二日酔いの重い頭を軽く振りながら玄関のドアを開け、現実の朝の喧噪へと足を踏み出すのだった。
出社して自分のデスクに腰を下ろす間もなく、八幡は封筒を手に人事部へと向かった。
人事の担当者は突然の退職届に目を丸くし、「一体どうしたんだ、急に」と引き止めにかかったが、八幡の決意は固かった。デスクに戻る途中、フロアですれ違ったメガネの後輩の女性社員からは、「えー、比企ヶ谷さんのこと密かに狙ってたのに残念です〜」と軽い調子で声をかけられる。
「リップサービスでもありがたく受け取っておくよ」と八幡が苦笑いで交わすと、彼女は「本当ですよ?」と小悪魔的に微笑んで自分の席に戻っていった。本人は冗談半分だったかもしれないが、日頃の仕事ぶりや独特の距離感をちゃんと見てくれている人は、この会社にもちゃんといたらしい。
自分の席に戻った八幡は、直属の上司を呼び止め、いよいよ本格的に退職の意向を伝えた。
「急で申し訳ありません。一身上の都合で、今月いっぱいで退職させてください。もちろん、後任への引き継ぎは穴がないように責任を持ってやります。あと、残りの期間は極力残業を避けて定時で上がらせていただきたいのですが……」
上司は「おいおい、冗談だろ……? 今うちのチームは人手不足なんだぞ。そんな急に言われても困る、せめてあと一ヶ月は……」と激しく渋り始めた。
その膠着した空気を打破するように、隣のデスクからスッと立ち上がったのは直属の先輩だった。
「課長、比企ヶ谷くんも散々悩んだ末の決断でしょうに。それに、彼がこれまでどれだけルーチン業務の効率化を回してくれたか分かってるじゃないですか。引き継ぎなら俺もサポートするんで、本人の希望通りスムーズに処理させてやってくださいよ」
見事なフォローに、上司は「うーん……そこまで言うなら……」としぶしぶ頷くしかなかった。
八幡はすかさず上司に頭を下げると、助け舟を出してくれた先輩にチラリと視線を送り、無言で深い感謝の意(目力)を伝えた。先輩は「わかったらコーヒー奢れよ」とばかりに、軽くウィンクを返してみせる。
昼休み、社内の自動販売機の前で、八幡は缶コーヒーを二本買って先輩に差し出した。
「さっきは助かりました、先輩」
「いいってことよ。で、本当に辞めちまうのか? お前、これからどうすんだよ」
缶のプルタブを開けながら先輩が怪訝そうに尋ねる。
「まあ……色々と思うところもありまして。新しい旅路、みたいなもんですね」
八幡は苦笑いしながらコーヒーを一口飲み、異世界での過酷な特訓と、現実世界での新たな決意の狭間で、ふっと息をつくのだった。
先輩と並んでオフィスの屋上に立ち、オレンジ色に染まり始めた夕空へ向かって紫煙をくゆらせる。
「……それにしても」
八幡は自らの心境の妙な軽さに気づき、内心で首を傾げた。
社会人人生の一大イベントであるはずの「退職」なのだが、どこか現実味が薄く、自分でも驚くほど落ち着いている。
(まあ、あっちの世界じゃいつ命を落とすかわからない過酷な戦闘を連日繰り広げているからな……。魔王軍だの地獄の特訓だのを経験したあとじゃ、現実の会社のゴタゴタなんて、相対的に大した事態に感じられないってわけか)
それが精神的な成長なのか、あるいは単に感覚が麻痺しているだけなのか。
(……いいのか悪いのか、我ながらいい性格してるぜ)
そんなことを考えながら、ふと手元のタバコに目を落とす。
異世界での過酷な肉体トレーニングや、マトリフのスパルタ指導、そしてあのキリッとした日常のルーティンを思い出すと、この煙の味が急に無意味なものに思えてきた。
「……そういえば、これもそろそろ止めるか」
つぶやいた八幡に、隣でタバコをふかしていた先輩が「ん? なんか言ったか?」と聞き返す。
「いや、なんでもないです。ただ、ストレスがなくなっちまえば、案外こんなもの吸いたくなくなるもんだなって思って」
あっちの世界で鍛え上げられた強靭な肉体と、あの美味しい手料理の数々を思い出すと、現実の自分の身体ももう少し大切に扱いたくなってくる。異世界に引っ張られるうちに、こちらの世界でも妙なところで健康志向に目覚めてしまったらしい。
八幡は吸いかけのタバコを携帯灰皿で丁寧に揉み消すと、どこか清々しい表情で先輩に向き直った。
「それじゃ、そろそろ戻りましょうか。引き継ぎの資料、まだ途中なんで」
「おう、そうだな。……にしても、お前、辞めるって決めてから急に顔つきが爽やかになったな」
先輩の冷やかし混じりの笑い声を聞きながら、八幡は軽い足取りで階段を下りていく。過酷な現実と異世界を行き来する二重生活のなかで、彼の心は確実に、次のステージへと向かっていた。
これまでの日常とは打って変わり、上司の文句や同僚の引き留めも先輩のフォローでスマートにかわし、本当に「定時」のチャイムとともに会社をあとにする。
「……定時であがれるって、こんなに素晴らしいことだったんだな……」
オフィスビルを出た八幡は、心地よい夕風を受けながら、心の中でしみじみと感動に浸っていた。これもう現実の会社にしがみつく必要はないし、何より精神的な余裕が違う。
「せっかくだし、今夜はたまには自分で美味いものでも作るか」
そう思い立ち、帰路の途中にある地元密着型のスーパーへと立ち寄る。総菜コーナーや新鮮な野菜が並ぶ通路を眺めながら、今夜のメニューに思いを馳せていると、背後から不意に声をかけられた。
「――あのさ」
低く落ち着いた、しかしどこか聞き覚えのある声。
(ん? 俺に用事か?)と思いながらも、特に知り合いがいるとも思えず、八幡は気のせいだろうとそのままスルーして野菜の品定めを続けようとした。
次の瞬間、ぽんと背中を軽く叩かれる。
「ちょっと、無視しないでよ。比企ヶ谷」
(……は?)
振り返ると、そこに立っていたのは、バッグを肩にかけ、スーツ姿の女性――。
「……川崎、か?」
あまりに予想外の遭遇と、高校時代からの印象から少し垢抜けた雰囲気に一瞬フリーズし、八幡は率直な感想をそのまま口にした。
「いや、悪りぃ。すっかり見違えたからわからなかったわ。……やっぱ、美人になったな」
直球すぎるその言葉に、川崎沙希は「は……!?」と目を丸くし、次の瞬間、カッと耳のあたりまで真っ赤に染め上げた。
「なっ、何バカなこと言ってんのよ、急に……っ!」
動揺を隠すようにそっぽを向き、バツが悪そうに顔をそむける川崎。その反応を目の当たりにし、八幡は(あ、相変わらずこういうのに対する免疫はゼロなんだな)と内心で苦笑しながら、改めて目の前の旧友に向き直るのだった。
真っ赤になりながらもそっぽを向いた川崎の様子を見て、「じゃ、またな」とそのまま立ち去ろうとした八幡の襟首を、すっと伸びた手がガシッと掴んだ。
「……っちょ、待ちなさいよ」
「んだよ。今日は久しぶりに料理をつくるんだが」
「久しぶりに会った同級生に向かって、挨拶だけで終わり? 喫茶店に誘うとか、そういう最低限の気遣いもできないわけ?」
ジト目で睨みつけてくる川崎の抗議に、八幡は片眉を上げる。
「いや、そういう間柄だったか? 高校のときは同じクラスだったくらいで、お互いそこまで親しく喋る仲でもなかったろ」
「い、いいから! 文句言わないの!」
結局、押し切られる形で、二人は近くにあった落ち着いた雰囲気の喫茶店へと向かい、テーブル席に向かい合って座ることになった。
注文したブレンドコーヒーが届き、カップから立ち上る湯気を眺めながら、八幡は先に口を開いた。
「で、どうなんだよ川崎。高校卒業してから全然見かけなかったけど、元気にしてたのか?」
川崎はコーヒーのカップに手を添え、少しだけ遠い目をして小さく息をついた。
「……まあね。色々あったけど、おかげさまで。弟や妹たちもようやく大きくなって、やっと最近になって手がかからなくなったところよ。ほんと、私の20代は仕事と家族の世話だけで終わったようなもんかな」
その言葉を聞き、八幡は思わず苦笑しながら自分のカップに視線を落とした。
「へえ……。それを聞くと、俺の人生とそこまで変わらんな。気づいたら、俺もすっかり30歳になっちまったよ」
「……は? 30?」
川崎は驚いたように目をパチパチさせ、それからふっと呆れたような、しかしどこか懐かしむような笑みを浮かべた。
「そうよね、私たちももうそんな歳なんだ……。なんか、あんたのそのひねくれた雰囲気は昔のまんまだから、変な感じだけど」
「おいおい、褒めてるのかそれ。」
「うるさい、飲んでなさいよ」
軽口を叩き合いながらも、どこか穏やかな空気が流れるテーブルクロスの上で、かつての同級生との思いがけない再会の夜は、静かに更けていくのだった。
喫茶店を後にし、夜風が心地よく吹き抜ける街路に出たところで、八幡は立ち止まり、ポケットから取り出したメモ用紙にサラサラとペンを走らせた。
「ほら、これ。俺の連絡先な」
差し出されたメモを、川崎はぽかんとした顔で受け取る。
「……急になんなのよ、これ」
「なに、ただの気まぐれだ。10何年も会ってなかった同級生に久しぶりに会ったんだ。まあ何かの縁だろ。仕事も辞めてこれからしばらく暇になる予定だしさ、何か困ったこととか愚痴りたい夜があったら、いつでも連絡しろよ」
そう言って、八幡はヒラヒラと軽く手を振る。
「それじゃ、またな。風邪ひくなよ」
振り返ることもなく、そのままスタスタと夜の街へ歩き出していく背中。
川崎は手元のメモ用紙をぎゅっと握りしめ、何か言い返そうと口を開きかけたが――結局、言葉の代わりに熱を帯びた頬を両手で押さえ、何も言えぬまま、遠ざかる背中を見送り続けることしかできなかった。
夜風に吹かれながら一人で歩き出すと、先ほどの自分の行動の理由がふと頭をよぎり、八幡は自嘲気味に息を吐き出した。
(――一体、俺は何をやっているんだか)
頼まれてもいないのに連絡先を渡し、何かあったら連絡しろなどと、まるで保護者のようなセリフを吐いてしまった。その直後、脳裏によぎったのはかつての記憶の断片だった。
あの時、血にまみれ、世界の理不尽に押しつぶされて泣き狂う陽乃の顔。
あの時、見えない悪意やストーカーの影に怯え、殴られそうになって震えていた一色の姿。
縁浅からぬ人間たちが、理不尽な暴力や悪意に晒され、踏みにじられる光景。それを目の当たりにしてきたからこそ、心のどこかに拭えない引っかかりが残っている。
雪乃もそうだ。そして、今日思いがけず再会した川崎も。
――いや、もしかしたら、ただの綺麗事で、勝手な押し付けかもしれない。自分自身の不器用なエゴの発露に過ぎないのかもしれない。
「……傲慢かもしれんが」
夜の静寂に向かって、八幡はぽつりと呟いた。
美談にするつもりなど毛頭ない。けれど、自分がどうしようもなくそういう人間であることも、嫌というほど分かっている。理不尽な目に遭っていい人間なんて本当はいない。だからこそ、彼女たちが不意に暗闇に引きずり込まれそうになったとき、せめて手の届く範囲であれば足掻いてやりたいと思ってしまう。川崎に連絡先を渡したのも、きっとそのためだ。
ふと自嘲の笑みを引っ込め、八幡は肩をすくめる。
「まあ、番号を渡しただけで、こっちはあいつの連絡先を受け取ったわけじゃない。要らねえメモだと思えば、あいつが勝手に捨てればいいだけの話だろ」
そう自分の中で言い訳めいた理屈をつけながら、八幡は家路へと続く道を再び歩き出すのだった。過酷な異世界での戦いと、現実世界の日常の重なり合う狭間で、彼の胸の内には、どうしようもない優しさと変わらないひねくれた不器用さが静かに同居していた。
自宅までの道のりを歩いている最中、ポケットの中でスマホが突然、激しく震えだした。
画面に表示されたのは、見覚えのない不審な番号。
(……まあ、あいつか)
通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、少しだけ息を弾ませた声が聞こえてきた。
「……ありがと」
それだけを短く告げると、相手は一方的に電話を切ろうとした。
言うまでもない、先ほど別れたばかりの川崎沙希だ。家に帰るまでの間、あのメモの番号を見つめて、結局そのまま我慢できずに発信してしまったのだろう。
ブツリと通話が切れる直前、八幡は慌てず騒がず、しかしはっきりと手機に向かって告げた。
「おい、切るな。……いつでも電話しろよ。何かあれば、いつでも飛んで行くから」
その言葉が向こうに届いたかどうかはわからない。だが、スマホの向こう側で、川崎が息を呑んで絶句している気配だけは痛いほど伝わってきた。
彼女の脳内では、そのセリフがどう変換されたのか。おそらく「いつでも飛んで行く」という言葉は、不器用な男が絞り出した、あまりにも直球すぎる愛の告白――あるいはプロポーズのそれに等しい甘い言葉として、劇的に受信されてしまったに違いない。
「……っ! ば、馬鹿じゃないの……! あんた、自分が何言ってるか分かって……!」
真っ赤になって取り乱す川崎の声が聞こえてくる前に、八幡はふっと息をついて自分から通話を終了させた。
その瞬間――。
頭の奥底で、どこかゲームのレベルアップを告げるような、電子音めいたファンファーレが軽やかに響いた気がした。
(……気のせいだな。うん、今のはきっと、昨日の酒がまだ脳ミソに残ってるせいだ)
奇妙な幻聴を華麗にスルーしながら、八幡は苦笑いを浮かべ、夜風に吹かれながら自宅のアパートへと歩みを進めるのだった。
自宅に戻った八幡は、エプロンをつけるわけでもなく、手際よくキッチンに立ち、スパイスの香りが食欲をそそる本格的なバターチキンカレーを仕上げていた。
深みのあるオレンジ色のルーを皿に盛ったライスにかけ、熱々のところを一口すする。
「……っ。うま……」
コクのあるバターのまろやかさに、トマトの程よい酸味、そしてピリッと効いたスパイスの風味が一気に口の中に広がる。レトルトや外食とは一味違う、自分で手間をかけたからこその贅沢な味わいだ。
「ここまで美味くなるか……。いや、俺の腕も捨てたもんじゃないな」
しみじみと呟きながら、八幡はスプーンを動かす手が止まらない。
昼間の会社でのゴタゴタや、思いがけない旧友との再会、そして夜更けの不意打ちの電話など、色々と濃い一日の締めくくりに、この手料理の温かさが染みわたる。
(……これが、定時の幸せってやつか)
ふと、並行して頭をかすめる「もう一つの世界」の記憶。あちらの世界での過酷な特訓や、死を覚悟した戦いの数々に比べれば、今のこの平穏はあまりにも平和で、どこか非現実的なほどだ。
スプーンを口に運びながら、八幡はふと疑問に思う。
(それにしても……なんで俺なのだろうな。数多いる人間の中で、なんであの世界に行くのは、他でもないこの俺なのだろう)
少しだけ考えを巡らせてみたが、すぐに「まあいいか」と頭を振る。今ここで考え込んだところで、答えが出るような類いの悩みではない。
「そのうち、とんでもなく胡散臭い神様にでも会った時に直接聞いてやるさ」
そう心の中で結論づけると、八幡は目の前にある極上のバターチキンカレーの美味しさに意識を集中させ、静かな夜のひとときを味わい尽くすのだった。
夜の静けさが包み込む川崎家のキッチンで、コトコトと煮物が煮える音が小さく響いていた。
スマホの画面を握りしめたまま、川崎沙希の思考回路はまるで沸騰した鍋のように熱を帯びて回転していた。
(――なんで、あいつはあんなタイミングで番号を渡してきたわけよ……)
思い出すだけで、カッと耳の根元までまた熱が戻ってくる。
自分からかけておいて、「飛んで行く」などという少女漫画のワンシーンのようなセリフを真面目な顔で吐かれて、心臓が跳ね上がらない女がいるものか。あの瞬間、胸の奥底で何かが弾けたような、全身の血液が逆流するような衝撃があった。
――なぜ、あの日、あいつを引き留めたのか。
――なぜ、我慢できずにすぐに電話なんてかけてしまったのか。
「……なんて、今さら何を考えてるのよ」
小さく自嘲気味に呟きながら、川崎は目の前で煮える鍋から視線を外し、窓の外の夜空を見上げた。
理由なんて、本当は最初から分かっている。
高校のあの時、周囲の環境や生活苦に押しつぶされそうになっていた自分を、八幡は不器用ながらも救い出してくれた。あの日の出会いが、間違いなく自分の人生の方向性を変えてくれたのだ。
そんな、人生の恩人であり、ずっと心に引っかかり続けていた男が、30歳になって突然目の前に現れた。
あんな風にフラッと現れて、昔のままのひねくれた優しさを見せられて――そのまま何事もなかったかのように背中を見送って、ただの「懐かしい同級生」として終わらせるなんて、そんなことができるわけがなかった。
過去を振り返る。高校時代、自分の胸に芽生えたその感情が「恋」なのだと気づいた時には、すでに時は遅く、彼は遠くにいってしまっていた。あの時、もっと素直に動いていればよかったと、何度も何度も後悔した。
だからこそ、今日の自分はよくやった。逃さず、引き留め、番号を受け取り、そして我慢できずに自分から電話をかけた。
「……我ながら、今日はご褒美をあげたいくらいだわ」
そう呟いて、ふと目の前の鍋に目を落とす。そこでおもむろに現実に戻された。
今、自分が作っているのは、洒落たディナーでも何でもなく、泥を落としてコトコト煮込んだ渋い「里芋の煮っ転がし」だった。
「……って、なんだこれ」
自分で自分のシュールな状況に突っ込みつつも、川崎の口元には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
いつか、この不器用で、でもいざという時に全部持っていくようなあの男に――今度はちゃんと、自分が作った美味い料理を食べさせてやる。
木べらを動かしながら、川崎は熱を帯びた胸の鼓動を落ち着かせるように、そっと小さくつぶやいた。
「……いつか、絶対にあいつに、ね」