二月の会議室は、暖房が効きすぎていた。
入室するとき、扉の前に立っていた警備員から、部屋の中での能力の使用を禁じると告げられている。
机を挟んだ向かいには、大人が三人並んでいる。真ん中の痩せた男が査問の進行役で、灰色のスーツの襟元には、どこの所属かを示す徽章が付いていない。両脇の男女は、黒子が部屋に入ってから一度もこちらの顔を見ず、手元の用紙にペンを走らせ続けていた。ペン先が紙を擦る乾いた音が、送風口の唸りに混じって途切れずに続いている。
常盤台中学の冬服は、この部屋では暑すぎた。ブレザーの下でブラウスが背中に貼りつきはじめているのを感じながら、黒子は腕に巻いた腕章に、そっと指先で触れた。盾の紋章が入った、
黒子は腕章から指を離し、両手を膝の上で組んだ。
「始めます。本査問の時間は一時間です。質問には簡潔に答えてください」
進行役の男が、机の上に揃えた紙の資料をめくった。端末を一台も使わず、紙だけで記録を取っているのは、学園都市のどのネットワークにも痕跡を残さないためだろう。部屋に通されてその紙の束を目にした時点で、黒子にはこの査問がどういう場なのか見当がついていた。
「あなたが今回の事件に最初に関わったのは、いつですか」
「九月五日の夕方ですの」
「その前夜、第七学区の学生マンションで、高校三年の女子生徒が死亡している。その場に居合わせたのは、隣室に住む高校一年の男子生徒、
「ええ。わたくしですの」
「では伺います。配属から一週間足らずの新人が、なぜ警備員の管轄である殺人事件の捜査に、あそこまで深く関わることになったのですか。しかも彼は、この事件の当事者でもある。指導担当として、止める判断はなかったのですか」
「警備員の許可は得ておりましたわ」
「許可の有無を伺っているのではありません。指導担当として、あなたがどう判断したのかを伺っています」
黒子は顎をわずかに上げて、男の目を正面から見返した。
「正直に申し上げれば、止める理由より、連れていく理由のほうが多かったのですわ」
「連れていく理由?」
黒子は組んでいた手をほどき、指を一本ずつ折りながら答えた。
「十三の適性試験はすべて一度で通過。四か月の研修では、教官から一度も注意を受けていない。現場に出れば、わたくしが指示を出す前に、必要なことをもう終わらせている。それに、あの夜あの部屋で何が起きていたのかを聞いていたのは、あの方だけでしたもの」
四本目の指を折ったところで、黒子は小さく息を吐いた。
「新人としては、優秀すぎるくらいでしたの」
「優秀な新人であっても、指導担当には制止する義務があります」
「存じておりますわ」
黒子は両手を膝の上で組み直し、指にわずかに力を込めた。
「あの方の仕事ぶりに、落ち度はひとつもありませんでしたわ。問題だったのは、危ない場所だと分かっていても、あの方がためらわずに一人で入っていくことですの。指導担当なら、配属初日にそれを見抜いて、首根っこをつかんででも引き止めるべきでした。わたくしがそれに気づいたのは、全部終わってからでしたけれど」
男は表情を変えずに、資料の余白に短く何かを書き込んだ。
「御坂美琴さんの関与についても伺います。常盤台の
「御坂美琴さんは、巻き込まれただけですの」
その答えは、黒子自身が予想していたよりも早く口から出た。いつもの「お姉さま」が口をついて出かけたのを、寸前で言い換えていた。わずかに前のめりになっていた体を椅子の背に戻し、黒子は落ち着いた声を作って続ける。
「わたくしが現場に向かうのを心配して、ついてきてくださった。最初はそれだけでしたわ」
「最初は、ですか」
「最後には、お姉さまが誰よりも前に立っておられましたけれど」
黒子は、口にした呼び方を言い直さなかった。進行役の男も、それを咎めはしなかった。代わりに男は資料から目を上げ、黒子の顔をまっすぐに見た。
「その最後の日についてです。九月十日の午後、例のゲームの投票で一位になっていたのは」
「それは」
言葉が喉の奥で引っかかった。膝の上で組んだ黒子の指の関節が、白く浮き上がる。
男は黒子の顔をしばらく眺めていたが、やがて何事もなかったように資料を一枚めくった。
「失礼。順番が前後しました。その件は後ほど伺います」
順番を間違えたのではないことは、黒子にも分かっていた。この男は、黒子が「お姉さま」と口を滑らせた瞬間を狙って、いちばん答えにくい質問を差し込んできたのだ。答えられないことを確かめたうえで、それを後に回した。この一時間のどこかで、同じ質問がもう一度来る。
左側に座っていた女が、そこで初めて用紙から顔を上げた。
「念のため申し添えます。本査問では、
感情の乗らない、紙を読み上げるだけの声だった。黒子は返事をしなかった。
九月のあの一週間で、学園都市の学生が何人死んだのか。この部屋の大人たちは、その数を全員知っている。知ったうえで、死の原因のうち半分には触れるなと言っているのだ。机の下で、黒子は靴の爪先を床に強く押しつけた。そうでもしていなければ、許可もなく立ち上がって、言ってはならないことを口にしてしまいそうだった。
「では、最初から順に話してください。九月四日の夜、第七学区で何があったのか」
黒子は組んでいた指をほどき、背筋を伸ばした。
あの夜のことなら、迅本人から何度も聞かされている。午後十一時を少し過ぎたころ、学生マンションの七階で、壁一枚隔てた隣の部屋から悲鳴が上がった。女の声だった。一度目は短く、二度目は長く、三度目はもう悲鳴と呼べるものではなかったと、迅は言っていた。
◆
一 九月四日 午後十一時
九月に入っても、第七学区の夜はまだ蒸し暑かった。
真壁迅の部屋は、学生マンションの七階、廊下の端から二つ目にある。学校の寮ではなく、いくつもの学校の生徒が個別に部屋を借りている民間の建物で、廊下ですれ違う相手の制服はいつもばらばらだった。
六畳の洋室に、小さなキッチンとユニットバスが付いている。高校生の一人暮らしには十分な広さで、迅はその床に胡坐をかき、ローテーブルに広げた数学の課題を、さっきから一問も進めていなかった。
エアコンは切ってある。電気代を惜しんだわけではなく、送風の音がうるさいからだ。窓を細く開けて網戸にしておけば、夜風が少しは入ってくる。そのかわり、建物じゅうの音も遠慮なく入ってくる。
迅の能力は
ただ、この能力のせいで、迅は壁の向こうで何が起きているのかを、見なくてもたいてい言い当てられた。上の階の住人が夜中に冷蔵庫を開ける回数も、廊下の突き当たりの部屋の男子が毎晩同じゲームの同じ場面で負けていることも、知りたくもないのに知っている。
左隣の住人については、もう少し多くを知っていた。
篠宮玲奈。高校三年生で、SNSではそれなりに名前の知られた学生だった。フォロワーは三万人を超えていて、学園都市で何か事件が起きるたびに、誰よりも早く、誰よりも辛辣な言葉を書き込むことで知られている。
まともに言葉を交わしたのは、先週エレベーターで乗り合わせたときの一度きりだ。
迅が手に持っていた風紀委員の腕章に目をとめて、彼女は、レベルはいくつかと訊いてきた。
レベル2です、と答えると、篠宮は口の端だけで笑った。
「異能力者ね。風紀委員って、本当に誰でもなれるのね」
エレベーターが七階に着くまでの十秒ほど、彼女はそれきり迅のほうを見なかった。
課題に手がつかない理由の半分は、その篠宮の投稿だった。
迅は課題の上に放り出していた携帯電話を手に取り、さっきまで開いていた篠宮のアカウントを、もう一度表示させた。
二週間前、彼女は七月の
能力のレベルを引き上げるという触れ込みで出回った音楽ファイルに手を出し、昏睡状態に陥った学生たちのことだ。
使用者の多くは、レベルの低い学生だった。
ひと月近い昏睡から目を覚ました男子生徒が、回復を報告する短い投稿をしていた。
心配してくれた人たちへのお礼と、もう二度とあんな真似はしません、という一文だけの投稿だった。
篠宮はそれを引用して、こう書き添えた。
『楽をして強くなろうとした結果がこれ。昏睡で済んでよかったね。次は目が覚めないといいけど』
その投稿は一日で数万回拡散された。
引用された男子生徒のアカウントは、その日の夜のうちに消えた。
篠宮は謝らなかった。
次の日には、自分を非難する返信の中から「死ね」と書かれたものばかりを選び、画像にして並べた投稿をした。
その最後に一行、こう添えてある。
『死ねと書く暇があるなら、計算式の一つでも覚えたら? だからあなたたちは低能力者のままなの』
そして今夜、彼女はその続きを投稿していた。
『目を覚ました彼らに、ひとつだけ伝えておきたい。あなたたちが眠っていたひと月のあいだ、学園都市は一ミリも困らなかった』
返信欄は、目で追うのが嫌になる速さで伸び続けていた。
篠宮の過去の投稿をさかのぼれば、似たようなものはいくらでも出てくる。
無能力者に学園都市の予算を割くのは無駄だと書いた投稿。
どれも、書いてあることの筋だけは通っていて、だからこそ読んだ人間の神経を逆撫でした。
迅は画面を消し、携帯電話を課題の上に伏せた。
壁の向こうからは、今夜も十時過ぎまでキーボードを叩く音が続いていた。
その途中、八時四十分ごろに一度、配送ロボットの到着を知らせるチャイムが鳴った。篠宮が扉を開け、何かを受け取り、しばらく玄関で立ち止まっている気配がした。箱を開ける音のあと、彼女は短く笑った。乾いた、鼻で笑うような笑い方だった。
十時を回ったあたりで、キーボードの音はぱたりと止んだ。冷蔵庫を開ける音、皿を出す音、フォークが陶器に当たる小さな音が続いて、それからしばらく、隣の部屋は静かになった。
迅がその音に気づいたのは、十一時を少し過ぎたころだった。
細く、高い音だった。冷蔵庫のモーターでも、エアコンの室外機でもない。近くで鳴っているのは分かるのに、迅の耳でも、どの方向から来ているのかがはっきりしなかった。音の高さはまったく揺れず、強くも弱くもならないまま、ただ鳴り続けている。これまで一度も聞いたことのない音だった。
迅は顔を上げ、音の出どころを探ろうと目を閉じた。
その瞬間、壁の向こうで悲鳴が上がった。
『――あ、ああああああああっ!』
喉の奥から無理やり絞り出したような、甲高い叫び声だった。
薄い壁越しなのに、すぐ隣で叫ばれたのかと錯覚するほどの大きさで、迅は思わず目を開けた。
迅が立ち上がるより早く、二度目が来た。
『いたいいたいいたいいたいっ! なに、なにこれっ、いや、いやあああああっ!』
叫び声の合間に、固いものが壁に打ちつけられる音が重なった。
鈍く、一定の間隔で、そのたびに迅の部屋の壁がかすかに震える。さっきの高い音は、もう悲鳴にかき消されて聞き取れなかった。
迅はローテーブルの上の腕章と携帯電話をつかみ、廊下に飛び出した。
隣の部屋のインターホンを押し、扉を拳で叩く。
「篠宮さん! 風紀委員です、開けてください!」
返事の代わりに、三度目の声が扉越しに響いた。
それはもう、言葉の形をしていなかった。
喉が潰れるのも構わずに吐き出し続ける、ただの叫びだった。
迅は反射的にドアノブを引いたが、電子錠はしっかりと閉まっている。
管理会社に連絡して解錠させていたら、何分かかるか分からない。
迅は自分の部屋に駆け戻り、そのままベランダへ出た。
七階の夜風が、汗ばんだ首筋に当たった。
迅の部屋と隣の部屋のベランダは、薄い仕切り板一枚で区切られている。
非常時はこの板を破って隣戸へ避難できます、という注意書きのシールが、板の隅に貼ってあった。
迅は手すりに片手をかけて体を支え、仕切り板の中央を右足の踵で蹴り抜いた。
乾いた音を立てて板が割れ、人ひとりがようやく通れるだけの穴が開く。
くぐり抜けるとき、割れた縁がシャツの脇腹を裂いたが、迅は足を止めなかった。
隣の部屋の窓は、迅の部屋と同じように細く開いていた。網戸を引き開けて、迅は中へ踏み込んだ。
部屋の明かりはついていた。
甘いクリームの匂いに、錆びた鉄のような匂いが混じっている。
ローテーブルの上に、食べかけのケーキがあった。
白いクリームのホールケーキで、四分の一ほどが切り取られている。上に載ったチョコレートのプレートには、白いペンで文字が書かれていた。迅の位置からでも、その文字ははっきりと読めた。
『死ね 篠宮玲奈』
その本人である篠宮は、壁際に蹲っていた。
床に膝をつき、両手で頭を抱え込むようにして、こめかみに爪を立てている。
迅が部屋に入ってきたことにも気づいていない。
長い髪が汗で顔に貼りつき、その隙間から見える目は大きく見開かれて、どこにも焦点が合っていなかった。
白い壁紙の、ちょうど彼女の額の高さに、赤い染みがいくつも重なっていた。
「篠宮さん!」
迅は駆け寄り、彼女の両手首をつかんで頭から引き剥がした。細い腕だった。
それなのに、つかんだ手首は迅の握力に逆らって、信じられない力で頭のほうへ戻ろうとする。
迅は彼女の背後に回り込み、両腕ごと胴を抱え込むようにして押さえつけた。
暴れる相手を傷つけずに動きを封じるための体勢で、研修では何十回も繰り返したものだった。
「いたい、いたいいたいいたいっ!! とめて、とめてよ、だれか、とめてええええっ!」
迅の耳のすぐ横で、篠宮は叫び続けた。
鼓膜が震えて、自分の呼吸の音さえ聞こえなくなる。
腕の中で、彼女の体が弓なりに反った。
胴と一緒に抱え込んだ右腕が、迅の腕の下で不自然な角度にねじれていく。
このまま押さえ続ければ、彼女は自分の力で自分の腕を折る。
迅の腕から、ほんの一瞬だけ力が抜けた。
その一瞬で、篠宮は迅の腕を振りほどき、ローテーブルへ倒れ込むようにして頭を強く打ち付けた。
ケーキの皿と麦茶のグラスが床に落ち、グラスが甲高い音を立てて割れる。
床に散った破片の一つを、篠宮の手がつかんだ。
「やめろ!」
迅は破片を握った彼女の手首をつかもうと飛びついた。
伸ばした左腕を、振り回されたガラスの縁が深く裂く。
熱い痛みが肘まで走った。
迅がもう一度手を伸ばすより、彼女の手のほうが速かった。
篠宮の喉元から、血が溢れ出した。
迅はベッドの上のタオルをつかみ、彼女の首に押し当てた。白いタオルが、押さえた端から赤く染まっていく。
自分の左腕から垂れた血と彼女の血が、迅の指の間で混ざり合った。
「篠宮さん、聞こえますか。篠宮さん!!」
もう叫び声は上がらなかった。
篠宮の唇がかすかに動いたが、声にはならなかった。
迅は右手でタオルを押さえたまま、左手でポケットの携帯電話を引き抜き、救急の番号を押した。
「第七学区、学生マンションの七階です。女子生徒が一人、首から大量に出血しています。すぐに来てください」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
住所を告げ、通話をつないだまま携帯電話を床に置く。
そのとき、部屋の奥の机の上で、何かが光った。
開いたままのノートパソコンだった。
画面の右下に、新しい通知が浮かんでは消えていく。
迅の位置からは、何が書かれているのかまでは読めなかった。
篠宮の手から、ガラスの破片が滑り落ちた。
迅はタオルを押さえる手を少しずらし、彼女の首筋に指を当てた。脈はなかった。
床の携帯電話から、救急隊員が何かを呼びかけている。
開け放った窓の外の遠くで、サイレンが鳴りはじめていた。迅はタオルから手を離さなかった。
もう押さえても意味がないことは分かっていたが、離すことができなかった。
机の上のパソコンから繋がれているスピーカーから通知音が鳴り続けている。
迅はゆっくりと顔を上げた。
サイレンが近づいてくる。
その音にまぎれて、短い通知音が、何度も繰り返し鳴り続けていた。迅は篠宮の首からタオルを離さないまま身を乗り出し、画面をのぞき込んだ。
表示されていたのは、篠宮のSNSのアカウントだった。
一番上には、今夜の彼女の投稿らしきものが固定されている。
『幻想御手で眠っていた人たちへ。あなたたちが眠っていたひと月のあいだ、学園都市は一ミリも困らなかったよ』
その一文の下に、返信が途切れることなく連なっていた。
死ね
なんでお前みたいなのが生きてんの?
お前が一番いらない人間だよ
あの子のアカウント消えたの、お前のせいだからな
学園都市の恥。早く消えて
#死ね篠宮玲奈 で検索してみ? お前の味方なんか一人もいないから
明日の朝のニュースで、お前の名前見たいわ
投稿時刻は、どれもこの数分のあいだだった。
迅が見ているあいだにも通知音が鳴り、新しい返信が列の先頭に加わる。
『死ね』
篠宮玲奈の心臓が止まってからも、書き込みの通知音は鳴り続けていた。