とある風紀委員の殺意追跡 作:黒鏡
二 九月五日 午後五時
放課後の巡回を終えて支部に戻った白井黒子は、腕章を外そうとした手を途中で止めた。応接用のソファに、見慣れた二人が並んで座っていたからだ。
窓側にいるのは
先週、一七七支部に正式に配属されたばかりの高校一年生だ。夏休みの半ばから実地研修で支部に通っていて、その研修を受け持ったのも黒子だった。黒子より三つ年上なのに、研修の初日から一度も欠かさず「白井先輩」と呼んでくる。
短く刈った黒髪に、日に焼けた首筋。半袖のシャツから伸びた左腕には、肘から手首まで白い包帯が厚く巻かれ、ところどころに薄く血がにじんでいた。目の下には青黒い隈が浮いている。
巡回に出る直前、警備員から支部に入った連絡を、初春飾利が短く伝えてくれていた。真壁さんが、住んでいるマンションで昨夜起きた事件に居合わせたらしい、と。それから一時間あまり、詳しく訊きたいのを我慢して、黒子は担当の区域を最後まで回ってきたのだ。
「お、戻ったじゃん。白井、そこ座りな」
黒子が向かいのソファに腰を下ろすと、奥の端末の前にいた初春も、椅子ごとこちらを振り返った。黄泉川は紙コップを机に置き、組んでいた脚をほどく。
「昨日の夜十一時過ぎ、第七学区の学生マンションで、高校三年の女子が死んだ。篠宮玲奈。名前くらいは聞いたことあるじゃん?」
「
答えながら、黒子は十日ほど前のこの支部を思い出していた。幻想御手の使用者には、初春の親友の佐天涙子も含まれている。篠宮の投稿が拡散された日、初春は夕方まで一言もしゃべらずに端末を叩き続け、黒子が差し入れたシュークリームにも手をつけなかった。
「真壁はその隣の部屋に住んでた。悲鳴を聞いて、ベランダの仕切り板を蹴破って飛び込んで、止めようとして腕を切られた。死因は首の傷からの失血。傷は本人が割れたグラスでつけたものだった」
「では、自殺ですの?」
「形だけ見ればね。グラスの破片で首を切ったのは、篠宮本人だ。そうだろ、真壁」
黄泉川に水を向けられて、迅は短くうなずいた。
「はい。俺の目の前でした。止めきれませんでした」
そう言うとき、迅は膝の上の右手に一度だけ目を落とした。それでも声の調子は変わらなかった。
「でも、死のうとしてたようには見えませんでした。部屋に入ったとき、篠宮さんは頭を抱えて、こめかみに爪を立てていたんです。ずっと『痛い』って叫んでました。止めて、誰か止めてって。首を切ったのも、その痛みから逃げようとしてるみたいでした」
支部の中が静まり返った。端末の前の初春は、キーボードに指を置いたまま動かない。
自分で首を切ったのなら、たしかに自殺だ。けれど、死ぬ直前まで頭の痛みに叫び続けていた人間が、急に死を選ぶものだろうか。黒子は膝の上で指を組み直した。
「何かがあって、篠宮さんはそこまで追い詰められた。そういうことですのね」
「警備員も、そこは引っかかってる。だから、ただの自殺では片づけてない」
そう言いながら、黄泉川は紙コップの縁を親指でなぞった。それから、隣の迅をちらりと見る。
「ついでに言っとくと、最初に疑ったのは真壁なんだよ。あの部屋に入ったのは真壁一人だし、先週エレベーターで篠宮にレベルを鼻で笑われたって話も、本人が自分から言い出した」
黒子は思わず迅の横顔を見た。黙っていれば誰にも知られなかったことを、この新人はわざわざ自分の口から話したのだ。当の迅は包帯を巻いた左腕を膝に置いたまま、うなずきもしなかった。
「でも、悲鳴が上がったとき、真壁は鍵のかかった扉の外にいた。廊下の防犯カメラに、扉を叩いてる姿がちゃんと映ってる。部屋に入ってからのことも、ガラス片に残ってた指紋は篠宮本人のものだけで、真壁の腕の傷は刃物を取り上げようとした人間につく形だった。
冷めたコーヒーを飲み干してから、黄泉川は声を少し低くした。
「で、篠宮をあそこまで苦しめたものが何だったのか。今いちばん怪しいのはケーキだ。昨日の夜、配送ロボットが篠宮の部屋にホールケーキを届けてる。チョコのプレートに『#死ね』と篠宮の名前。真壁の話だと、十時過ぎに隣の部屋から皿とフォークの音がしてた。その一時間後にああなってる。毒か薬物で錯乱した可能性があるから検査に回してて、結果は明日の朝に出る」
空になった紙コップを机に戻すと、黄泉川は黒子をまっすぐに見た。
「ここからが風紀委員に頼みたいこと。あのケーキを誰が送ったのか、ネットで誰が何を書いてたのか。そっちは学生同士の話だから、一七七支部で調べてほしい」
「承りましたわ。ただ」
黒子は、向かいに座る迅に目を向けた。
「真壁さんは、この件の当事者ですのよ。目撃者を調べる側に入れるのは、筋が通りませんわ」
「分かってる。でも、ケーキとネットの件は死因の捜査とは切り離せるし、あの部屋で何が聞こえてたかを知ってるのは真壁だけだ。白井が手綱を握っててくれるなら、近くに置いといたほうが都合がいいじゃん」
そこまで言われては、反対のしようがなかった。小さく息を吐いて、黒子は迅に向き直った。
「真壁さん。七階のベランダの仕切り板を、蹴破ったんですの?」
「はい」
「ご自分の部屋の側から、隣の部屋へ」
「板に、非常時は破って避難できますって書いてあったので」
当たり前の手順を報告するような口ぶりだった。避難するための板を、悲鳴の上がっている部屋のほうへ向かって破ったのだ。地上二十メートル近い、七階のベランダで。
「……避難する向きが逆ですわ」
「非常時だったので」
黄泉川が額に手を当てて、黙って天井を仰いだ。
間違ったことはしていない。扉が開かない以上、あの夜、篠宮の部屋に入る道はそれしかなかった。黒子にもそれは分かっている。分かっていても、七階の手すりから身を乗り出す新人の姿を思い浮かべると、背中が冷えた。
「……せめて、次からは一言連絡をしてからにしてくださいな」
「はい、白井先輩」
迅は小さく頭を下げた。それから顔を上げ、黄泉川のほうへ向き直る。
「それと、もう一つ。悲鳴の直前に、変な音を聞きました。高くて細い音で、最初から最後まで高さが一度も変わらなかった。今まで聞いたことのない音です」
「冷蔵庫のモーターとかじゃなくて?」
「違います。隣の冷蔵庫はうちと同じ型なので、音は毎晩聞いてます」
迅は即答した。黄泉川はしばらく迅の顔を見ていたが、やがて空になった紙コップを手に立ち上がった。
「覚えとく。けど、音だけじゃ警備員は動けない。検査の結果が出たら、白井に連絡する」
扉が閉まると、支部には空調の低い音だけが残った。
「真壁さん。今日はもう帰って、休んでくださいな」
黒子がそう言うと、迅は首を横に振った。
「いえ。送り主を調べるなら、手伝います」
「指導担当として申し上げているんですの」
黒子は腕を組み、向かいの新人を睨んだ。座っていても、迅の目の高さは黒子より頭ひとつ上にある。
「指導担当なら、新人に経験を積ませたほうがいいと思います。研修のとき、白井先輩がそう言ってました」
自分の言葉をそのまま返されて、黒子は言葉に詰まった。言い返す文句を探しているうちに、初春が声を上げた。
「あの、白井さん。送り主、分かったかもしれません」
初春が端末のモニターをこちらへ向けた。配送ロボットの運行記録から、注文の出どころをたどったらしい。映っていたのは、学生向けの寄付募集サイトのページだった。
一番上に、太字でこう書かれている。
篠宮玲奈に、みんなの気持ちを届けよう。
目標額は三千円。集まった額はその四十倍を超え、寄付した人数の欄には「1214」と表示されていた。
「ケーキの代金は、ここに集まったお金から払われてます。ページを作ったのは……第十三学区の幼稚園で保育補助のアルバイトをしてる、高校二年生の女の子です」
一人あたりにすれば百円足らず。自動販売機のジュースも買えない小銭を千二百人以上が出し合って、一つのケーキに「死ね」と書かせたのだ。黒子は画面の数字から目を離せなかった。
向かいで、迅も黙って同じ画面を見ていた。包帯を巻いた左手が膝の上でゆっくりと握り込まれ、にじんでいた赤い色が、少しだけ広がった。
◆
三 九月六日 午後三時四十分
九月六日の放課後、御坂美琴は一七七支部の入ったビルの前で、自動販売機の横に寄りかかっていた。九月に入っても午後の日差しは強く、ビルの影の中にいても、前髪の下に汗がにじんでくる。
ヤシの実サイダーの缶を指で弾きながら、美琴は昨夜の黒子のことを考えていた。
いつもなら風呂上がりに美琴のベッドへ飛び込んできて、枕で叩き落とされるまで離れない後輩が、昨夜は門限ぎりぎりに帰ってきて、自分のベッドに潜り込んだきり、朝まで一度も寝返りを打たなかった。「おやすみなさいませ」という声も、隣のベッドでやっと聞き取れるくらいの小ささだった。
理由の見当はついている。
一昨日の夜、第七学区の学生マンションで、高校三年生の女子が死んだ。ニュースは自殺と伝えて名前を伏せたが、SNSではとっくに特定されている。篠宮玲奈。
あの投稿が拡散された日、美琴は佐天涙子たちといつものファミレスにいた。佐天は携帯電話の画面をこちらに見せて、「まあ、私が使っちゃったのは事実ですし」と笑っていた。けれどテーブルの下で、スカートの裾を握った佐天の指先は白くなっていた。
その夜、美琴は寮のベッドで篠宮の投稿を開き、返信欄に文句を打ち込んだ。友達が目を覚ましたとき、周りがどれだけほっとしたか。アンタにそれの何が分かるのか。打ち終えた文章をしばらく眺めてから、美琴は送信せずに全部消した。
篠宮のことは、今でも好きになれない。
それでも昨日の朝、白いクロスのかかった寮の食堂の長テーブルで、隣の席の子たちが寮監の目を盗んで膝の上の携帯電話をのぞき込み、「これ、篠宮玲奈でしょ」とささやき合うのを聞いたとき、美琴は少しもすっきりしなかった。嫌な相手だったのは確かだ。けれど、死ななければならないほどのことをした相手ではなかった。
あの夜、送らずに消した返信のことがよみがえって、喉の奥が詰まった。美琴は朝食のトーストを半分残した。
心当たりは、もう一つある。
先週から、寮の部屋で黒子が口にする名前が一つ増えた。一七七支部に正式に配属された、高校一年生の新人だ。夏休みの半ばから研修生として支部に通っていたらしいが、そのころの美琴は、黒子の話をまともに聞いていられる状態ではなかった。固法美偉がほかの支部の応援に出ているあいだ、その新人の指導は黒子が任されているという。
「三つも年上の殿方が、わたくしのことを白井先輩とお呼びになりますのよ」
最初の晩、黒子はまんざらでもない顔でそう話していた。二日目には、報告書の書き方を一度教えただけで直すところがなくなったと悔しそうに言い、巡回の道順も一回歩いただけで覚えてしまったと付け足した。
三日目からは、それが愚痴に変わった。「返事だけはよろしいのに、気づくとお一人で先に現場へ入っていらっしゃるんですの」。危ないところへ真っ先に飛び込むのは、普段なら黒子のほうだ。自分と同じことをする後輩を、今度は黒子が止める側に回っている。
文句を言いながらも、黒子は毎晩その新人の話をやめなかった。それが昨夜は、名前を一度も口にしなかった。
美琴はまだ、その新人の顔を見たことがない。
ビルの自動ドアが開き、黒子が出てきた。すぐ後ろに、男子高校生が一人続いている。黒子より頭ひとつ半は背が高く、半袖のシャツから伸びた左腕に、肘から手首まで包帯を巻いていた。
あれが例の新人だろうか。美琴がそう考えているあいだに、歩道を通りかかった他校の女子生徒が二人、男子の顔を見て、すれ違ってからもう一度振り返った。
つられて、美琴も男子の顔を見直した。切れ長の目に、まっすぐ通った鼻筋。他人の顔立ちなど気にして見たことのない美琴にも、あの二人が振り返った理由はそれで分かった。
そういえば黒子は、一週間あれこれ話していたくせに、新人の顔のことだけは一度も言わなかった。
もっとも、美琴が気になったのは顔より包帯のほうだった。白い布の何か所かに、薄く血がにじんでいる。
「お姉様? どうしてこちらに」
美琴に気づいた黒子が、目を丸くした。
「アンタが昨日の夜、様子が変だったからでしょ」
美琴は缶を持った手で、黒子の後ろに立つ男子を指した。
「で、その人が例の新人?」
「例の、とは?」
男子が、不思議そうに黒子を見下ろした。黒子の肩がびくりと跳ねる。
「な、なんでもありませんわ」
「この子、毎晩寮でアンタの話ばっかりしてるのよ。返事だけはいいくせに勝手に動くって文句言いながら、報告書も巡回の道順も、一回で覚えちゃったって」
「お姉様っ」
黒子が美琴の腕を引いた。耳の先まで赤くなっている。
男子は少し驚いたように瞬きをしてから、黒子のほうへ顔を向けた。
「白井先輩、そんなこと言ってたんですか」
「……言っておりませんわ。お姉様の聞き間違いですの」
黒子はそっぽを向いた。けれど男子のほうは、笑いもせずに、まだ黒子の横顔を見ている。
「研修のときから、ずっと白井先輩に見てもらってたので。そう言ってもらえてたなら、嬉しいです」
黒子の耳が、さっきよりさらに赤くなった。
「……ですから、言っておりませんと申し上げていますの。それに、仮に、仮にですわよ。わたくしがそう申し上げたとしても、真壁さんはまだ配属されて一週間の新人ですの。少しくらい物覚えがいいからといって、調子に乗らないでくださいな」
「はい。乗りません」
「……そういうところですのよ、まったく」
黒子は小さく唸って、ツインテールの先を指でくるくるといじりはじめた。
美琴は、口元がゆるむのを止められなかった。寮でも学校でも、普段振り回されているのは美琴のほうだ。夜中にベッドへ潜り込まれ、着替えをのぞかれ、そのたびに電撃で追い払っている。その黒子が、年上の後輩ひとりの返事にここまで調子を崩されている。こんな顔は、めったに見られるものではなかった。
「へえ。いい後輩じゃない、黒子『先輩』」
「お姉様っ!」
黒子が、今度は両手で美琴の腕にしがみついた。美琴はその真っ赤な顔をひとしきり眺めてから、男子のほうへ向き直った。黒子は片手だけ離して、その手で男子を示す。もう片方の手は、まだ美琴の腕をつかんだままだった。
「……お姉様、こちらが一七七支部の新人の、真壁迅さんですの。真壁さん、こちらは」
「常盤台の
男子――真壁迅は、美琴に向かって軽く頭を下げた。
「……黒子。アンタ、支部でも私の話してんの?」
「当然ですわ」
さっきまで耳まで赤くしていたのが嘘のように、黒子は胸を張って即答した。今度は美琴のほうが、頬に熱が上ってくるのを感じる番だった。
咳払いでごまかしながら、美琴は迅の左腕に目をやった。
「……で、その腕、どうしたの?」
迅は一拍置いてから、短く答えた。
「仕事で、少し」
それ以上は何も言わなかった。横で黒子が、ほんの一瞬だけ迅の包帯に目を落としたのを、美琴は見逃さなかった。
「お姉様、申し訳ありませんけれど、わたくしたちはこれから聞き込みですの」
「どこに?」
「それは」
「篠宮って人の件でしょ。ニュースで見たわよ」
黒子が言葉に詰まった。美琴は残りのサイダーを飲み干し、空き缶を横のゴミ箱に放り込む。
「危ないところじゃないなら、ついてくくらいいいでしょ。危ないところなら、なおさらついてく」
「お姉様っ。お姉様は一般の方ですのよ。風紀委員の仕事に首を突っ込まないでくださいと、わたくしが何度申し上げれば」
「で、どこ行くの?」
黒子はしばらく困った顔で美琴を見つめていたが、やがて肩を落として小さく息を吐いた。
「……第十三学区の、幼稚園ですわ」
*
第十三学区は、幼稚園と小学校が集まった学区だ。
駅を出ると、通りの景色が第七学区とはまるで違った。歩道は車道と同じくらい幅が広く、ガードレールは子供の腰の高さしかない。街路樹の根元には、園児の背丈に合わせた低いベンチが並んでいた。夕方近い通りを、黄色い帽子をかぶった子供たちが保育士に手を引かれて歩いていく。
駅からの道すがら、美琴は黒子から事件のあらましを聞き出した。ケーキのこと。寄付のこと。送り主が幼稚園でアルバイトをしている高校生だということ。今朝出た検査の結果では、ケーキから毒も薬物も見つからなかったこと。
それから、迅のことも少しだけ。
「能力は
「それだけって、本人の前で言う?」
「事実ですもの」
二人の二、三歩後ろを歩く迅は、気にした様子もなかった。ときどき首を少し傾けては、車道の向こうや路地の奥に顔を向けている。
その迅が、幼稚園まであと一ブロックというところで足を止めた。
「どうしたの?」
美琴が振り返ったその先から、エンジンの甲高い音が近づいてきた。
スクーターが一台、車道ではなく歩道を走ってくる。乗っている男の右手には、女物のトートバッグがぶら下がっていた。そのずっと後ろで、エプロン姿の若い女性が尻もちをついたまま叫んでいる。
「ひったくりですわ!」
黒子が腕章に手をやるより早く、美琴は右手をスカートのポケットに入れていた。指先にゲームセンターのコインの縁が当たる。
けれど、撃てない。スクーターの進む先、二十メートルほど向こうの横断歩道の手前で、園児が五、六人、保育士と手をつないで信号を待っていた。電撃で運転手を気絶させれば、乗り手を失ったスクーターはそのまま子供たちの列に突っ込む。
だったら、車体そのものを磁力で止める。美琴がコインから指を離し、スクーターの鉄のフレームに意識を向けた、そのときだった。
二、三歩後ろにいた迅が、そこで動いた。
走ってはいなかった。いつもの歩幅のまま歩道の真ん中へ出ていき、スクーターの真正面で立ち止まる。両手は下ろしたままで、身構えもしなかった。
「ちょっと、アンタ――」
美琴の声はエンジン音にかき消された。今ここで車体を磁力で強く引けば、勢いのついたスクーターが横倒しになって、すぐ前に立つ迅を巻き込む。美琴の指先で、行き場をなくした電流がぱちりと弾けた。
進路に人が立っていることに気づいた運転手が、目を剥いてハンドルを大きく切った。前輪が縁石に乗り上げ、傾いた車体が迅の膝から十センチと離れていないところをかすめていく。スクーターは街路樹の脇の電柱にぶつかり、金属のひしゃげる音を立てて止まった。投げ出された男は、植え込みの中に頭から突っ込んだ。
そのあいだ、迅は一歩も動いていなかった。
「アンタ、バカじゃないの!?」
駆け寄った美琴に、迅は振り返りもせずに答えた。
「止まったんだから、いいだろ」
声の調子は、道を訊かれて答えるときと変わらなかった。
植え込みの男がうめき声を上げるのと同時に、通りの向かいから男子が二人走ってきた。どちらも高校生くらいで、一人は鉄パイプを握った大柄な坊主頭、もう一人は痩せた金髪で、右手の指先をこすり合わせている。ひったくりの見張り役だったらしい。
「てめえ、何してくれてんだ!」
坊主頭が鉄パイプを振り上げた。美琴が前へ出ようとするより、迅のほうが早かった。
迅が最初に向かったのは、鉄パイプを持った坊主頭ではなく、その後ろの金髪だった。
金髪の指先に、ライターほどの火が灯りかけていた。
振り下ろされた鉄パイプを、迅はよけなかった。逆に半歩、坊主頭の懐へ入る。パイプを握った相手の手首の内側に右手をかけ、振り下ろす勢いをそのまま下へ引っぱった。坊主頭の大きな体が前のめりに崩れ、うつ伏せに倒れたその背中に迅の膝が乗る。手から離れた鉄パイプが、歩道のタイルの上を転がっていった。
美琴が三歩進むあいだに、片がついていた。
迅は坊主頭の腕を背中でねじり上げたまま、植え込みのほうへ顔を向けた。ひったくりの男が、這いつくばってその場から逃げ出そうとしている。
次の瞬間、男の両袖が歩道に縫いとめられた。
金属の矢が二本、袖を貫いて地面のタイルに突き立っている。いつの間にか、男の真後ろに黒子が立っていた。
「
黒子がひったくりの男を押さえて警備員に連絡しているあいだ、美琴は歩道に転がった三人と、坊主頭の背中から膝を下ろして立ち上がった迅とを見比べていた。
「……で、それ全部アンタがやったわけ?」
「スクーターは勝手に転んだ」
「残りの二人は」
「俺だな」
美琴は、うつ伏せのまま呻いている坊主頭と、腹を抱えて丸くなっている金髪を見下ろした。
「アンタの能力、音を聞くだけなんでしょ?」
「聞くだけだな」
「じゃあ、なんで勝ってんのよ」
迅は擦りむいた右の拳を軽く振って、悪びれもせずに笑った。
「能力が実戦向きじゃないからって、喧嘩が弱いとは限らないだろ」
呆れて言い返そうとしたところで、美琴は自分の口元がゆるんでいることに気づいた。あわてて唇を引き結んだが、横で黒子がしっかり見ていて、露骨に眉をひそめた。
「真壁さん」
黒子の声は低かった。寮での話をばらされて赤くなっていた顔は、もうどこにもない。
「止める方法なら、ほかにいくらでもありましたわ。わたくしが子供たちのそばへ飛ぶことも、お姉様に車体を止めていただくこともできましたのよ。体術に覚えがあるからといって、ご自分から轢かれにいくような真似は、風紀委員のやり方ではありませんの」
「ちょっと黒子、そこまで言わなくてもいいじゃない。おかげで子供たちは無事だったんだし」
美琴が口を挟むと、黒子はきっと振り返った。
「お姉様は甘すぎますの! 指導担当として、ここは譲れませんわ」
「いえ、白井先輩の言うとおりです。次から気をつけます」
迅があっさり頭を下げたので、黒子はそれ以上続けられなくなった。まだ言い足りない顔のまま、口をつぐむ。
美琴は迅の左腕を見ていた。白い包帯の真ん中に、赤い染みがじわじわと広がっている。坊主頭を引き倒したときに、一昨日の夜の傷が開いたのだ。包帯の端からは、血が一筋、手首のほうへ垂れはじめていた。
それなのに迅は、傷口を押さえようともしない。
坊主頭が起き上がらないか、足元に目を向けたままだった。
あの傷が開いて、痛くないわけがない。
通りの向こうから、警備員の車のサイレンが近づいてきた。指先に残った静電気がまだぴりぴりしているのを感じながら、美琴は迅の横顔から目を離せずにいた。
◆
四 九月六日 午後四時半
ひったくりの三人を警備員に引き渡したあと、黒子がトートバッグを持ち主に返しに行くと、尻もちをついていた女性は、これから訪ねる幼稚園の保育士だった。
彼女が何度も頭を下げながら園長に話を通してくれたおかげで、黒子たちは閉園間際の園庭に入れてもらえた。
砂場には、誰かが作りかけた小さな砂山が残っている。園庭を囲む桜の木で、ツクツクボウシが途切れ途切れに鳴いていた。
最後まで残っていた園児たちが、保育士に手を引かれて門へ向かうところだった。学園都市の幼稚園に、親の迎えは来ない。子供たちは毎日こうして、それぞれの寮へ送り届けられる。
小さな列が門の外へ消えるのを見届けてから、エプロン姿の女子生徒が一人、園舎から出てきた。
三枝茜。高校二年生で、この幼稚園で保育補助のアルバイトをしている。
美琴はベンチの後ろの柵にもたれ、黒子はベンチの前に立っている。園庭のベンチに座ったまま、迅は近づいてくる彼女の足音を聞いていた。サンダルの底が砂をこする音は、一定の間隔で続いている。急いでもいないし、ためらってもいない。
左腕の包帯は、ついさっき黒子が園の救急箱を借りて巻き直したばかりだった。自分で巻いたときよりずっときつく、指先が少ししびれている。わざときつく巻いたのか、黒子には訊かないでおいた。
「風紀委員の人? 私、なんかやらかした?」
黒子が腕章を見せると、三枝は首を傾げた。肩までの髪を後ろで一つに結び、エプロンの胸ポケットには、園児が描いたらしいクレヨンの絵が四つ折りにして差してある。
「お仕事中に申し訳ありません。一つ、お伺いしたいことがありますの」
黒子は携帯電話の画面を三枝に向けた。初春が見つけた、あの寄付募集のページだ。
「このページを作ったのは、あなたですわね」
「あ、それ! すごかったでしょ。三千円集まればいいかなって思ってたのに、一晩で十二万超えたんだよ。寄付してくれた人、千二百十四人」
三枝の顔がぱっと明るくなった。声が少し上ずり、話す速さも上がっている。人数を一の位まで正確に覚えているあたり、何度も自分で見返したのだろう。
背後の柵のほうで、美琴が腕を組み直す衣擦れの音がした。
「篠宮玲奈さんが亡くなったことは、ご存じですの?」
黒子の問いに、三枝の表情が止まった。
「……ニュースで見た。自殺したって」
さっきまで上ずっていた声が、急に低くなった。
「え、なに。まさか、ケーキのせいだって言いたいの?」
「篠宮さんは、あのケーキを食べた夜に亡くなっておりますわ」
「毒なんか入れてない!」
三枝の叫び声が、砂場の向こうのジャングルジムに当たって返ってきた。
「駅前のちゃんとしたケーキ屋さんに頼んだし、お店から配送ロボットで直接送ってもらったの! 私、お店が送ってくれた写真でしか見てないから!」
「存じておりますわ。今朝の検査で、ケーキから毒も薬物も出なかったことは確認しておりますの」
三枝の肩から、目に見えて力が抜けた。
「……なんだ。じゃあ、関係ないじゃん」
柵の金網がきしんだ。同じ方向から、ぱちっと小さく静電気の弾ける音がした。振り返らなくても、迅には誰の手元で鳴ったのかが分かった。
「ケーキに書く文字は、誰が決めたんですか」
迅が尋ねると、三枝はそこで初めてこちらを向いた。包帯に一瞬目をやってから答える。
「寄付してくれた人たちの投票。候補を三つ出して、一番票が多かったのにしたの。『#死ね』がぶっちぎりだった」
「ほかの候補は?」
「『反省しろ』と『消えろ』。でも、どうせなら、みんなが一番言いたいことにしようって」
誰も口を開かなかった。園舎の向こうから、帰りの遅い子をせかす保育士の声が聞こえてくる。
黒子が携帯電話の画面を切り替えた。
「お店から届いたケーキの写真を、ご自分のSNSに載せていらっしゃいますわね」
画面には、白いクリームのホールケーキが映っていた。チョコレートのプレートに、白いペンの文字。迅が一昨日の夜、篠宮の部屋のローテーブルで見たものと同じケーキだった。写真の下には、こう書き添えられている。
みんなの気持ち、ちゃんと届けます! #死ね篠宮玲奈
「このタグを付けたのも、あなたですわね」
「付けたけど、そのタグはもともと流行ってたやつだよ。私が作ったわけじゃないし。みんな付けてたもん」
「みんな、とは?」
黒子の声は静かだった。けれど、携帯電話を持つ指に力が入って、爪の先が白くなっている。
「みんなはみんなだよ。何千人もいたよ」
三枝はサンダルの爪先で砂を蹴った。
「……ねえ。死ねって書いた人なんて、何千人もいるじゃん。なんで私だけ、こんなふうに聞かれなきゃいけないの」
黒子が何か言いかけた。それより先に、迅が口を開いた。
「篠宮さんが死んだあとも、その言葉は届き続けてました」
三枝の口が、言いかけた形のまま止まった。
「俺の目の前で。あの人の心臓が止まってからも、パソコンの通知がずっと鳴ってました」
迅の声は大きくもなく、責める調子もなかった。一昨日の夜あの部屋で見たことを、順番どおりに話しているだけだった。三枝はエプロンの裾を両手で握りしめ、それきり一言も返さなかった。
黒子は携帯電話をしまい、三枝に向き直った。
「誹謗中傷は、学園都市のどの学校でも校則違反ですわ。あなたの学校には、風紀委員から報告させていただきます」
三枝は、うなずきも首を振りもしなかった。胸ポケットに差したクレヨンの絵が、エプロンの上でかすかに震えていた。
そのとき、黒子のスカートのポケットで携帯電話が鳴った。画面を確かめた黒子は、迅と美琴に目で合図をしてから通話に出て、スピーカーに切り替えた。初春の声が園庭に響く。
『白井さん、今いいですか? 「#死ね」のタグを調べてたんですけど』
「それで、何が分かりましたの?」
『「#死ね」のあとに名前が付いてる投稿を、ここ十日ぶん数えてみたんです。一昨日の夜までは、ずっと篠宮さんが一番でした。二番目の人とは、桁が違うくらいで』
初春の声の後ろで、キーボードを叩く音が途切れずに続いている。
『昨日の朝ニュースが出てから、篠宮さんの名前はさすがに減りました。それでも昨日いっぱいは一番のままだったんですけど……代わりに別の人の名前がすごい勢いで増えてて、今日のお昼に抜いたんです』
「どなたですの」
『霧島カイトさん。第十五学区の芸能事務所に所属してる、学生アイドルです。先週のテレビ番組の企画で小学生の男の子を泣かせたって、炎上してて……今は、その人が一番です』
背後で金網が小さく鳴った。美琴が柵から背中を離したのだと、迅には振り返らなくても分かった。
「偶然ですわ」
黒子は、自分に言い聞かせるような声で言った。
「炎上している方の名前が、順番に上がってきているだけのことですの」
「篠宮さんも、一昨日の夜までは一番でした」
ベンチから立ち上がりながら、迅は静かに言った。きつく巻かれた包帯の下で、指先のしびれはまだ抜けていなかった。黒子は言い返そうとして口を開き、そのまま閉じた。
スピーカーの向こうで、初春が小さく息を吸った。
『それと、霧島さんなんですけど。今夜九時から、事務所のアカウントで生配信をする予定になってます。告知が出てて』
園舎の壁の時計は、五時を少し回ったところだった。
霧島カイトの配信が始まるまで、あと四時間もなかった。