とある風紀委員の殺意追跡 作:黒鏡
「製造元への聞き込みについて伺います」
進行役の男は、新しい紙の束を机の上で揃え直した。
「九月七日の午後、あなたたちは第二十一学区の研究所を訪ねている。そこで受けた説明を、あなたは信じましたか」
黒子は、少しだけ考えてから答えた。
「いいえ」
「理由は」
「------真壁さんが、信じませんでしたから」
男は顔を上げずに、紙の余白へ何かを書きつけた。
ペン先が紙を擦る音が、さっきより少しだけ長く続いた。
◆
一 九月七日 午前一時半
検視が終わったあとの待合室は、照明が半分落とされていた。
長椅子の端に座った美琴の前で、自動販売機が低い音を立てている。黒子は寮監と支部に連絡を入れると言って、携帯電話を握りしめたまま廊下の奥へ歩いていった。その背中が、角を曲がる直前に一度だけ大きく息を吸い込むのが見えた。寮監と話すのに、覚悟がいるのだ。
待合室に残ったのは、美琴と迅の二人だけだった。
迅は長椅子の反対の端に座って、膝の上に置いた左腕を見ていた。さっき処置室で巻き直してもらった新しい包帯は、まだどこにも血がにじんでいない。
美琴は、何度か口を開きかけてはやめた。人に弱みを見せるのは、昔から得意ではない。それなのに、診察室で見た銀色の皿と、その上で丸まっていた機械蜂の姿が、まぶたの裏から離れなかった。
「……ねえ。アンタ、あの人の投稿、読んでた?」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。迅が顔を上げる。
「篠宮さんのですか。毎晩、読んでました」
迅は包帯を巻いた左腕に目を落としたまま、続けた。
「隣の部屋の人だったので。篠宮さんが
自販機の唸りが、やけに大きく聞こえた。
「……私も見た。あの人の名前に#死ねが付いて、画面が埋まっていくの」
言ってしまってから、美琴は膝の上で手を組んだ。今さら引っ込めるのも、自分らしくない。
「馬鹿らしいと思って、すぐ閉じた。顔も見せないで死ねって書き込む連中も、それを晒して煽るあの人も、どっちも相手にするだけ無駄だって」
美琴は自分の右手を見下ろした。霧島の額に当てた手だった。
「でも、無駄じゃなかった。あの名前の順番どおりに、人が死んでる。私、あの画面が見えてたのに、閉じただけだった」
しばらく、どちらも黙っていた。廊下の奥から、看護師がワゴンを押していく車輪の音が遠ざかっていく。
「画面を閉じた御坂さんも、読んでただけの俺も、死ねって書いた人たちとは違うと思います」
ひと言ずつ確かめるように言ってから、迅は少し間を置いた。
「でも、見てたのに何もしなかったって意味なら、たぶん同じです」
慰めでも、責める言葉でもなかった。迅は美琴をかばいもしなかったし、自分をかばいもしなかった。それが、美琴には少しだけ気楽だった。
「……アンタって、変な奴」
「よく言われます」
「誰に」
「白井先輩に」
美琴は思わず噴き出した。声を出して笑ったのは、昨日の夕方からこれが初めてだった。
ちょうどそのとき、廊下の角から黒子が戻ってきた。片手に携帯電話、もう片方の腕に、途中で買ってきたらしい缶を三本抱えている。黒子は二人の顔を見比べて、何かを言いかけ、それからやめた。何も聞かずに、長椅子の真ん中、美琴と迅のあいだに、ぐいと割り込むように腰を下ろす。お姉様と殿方が同じ長椅子に並んでいる、という光景は、たとえ相手が自分の後輩でも、黒子には見過ごせないらしかった。
「寮監様には、届けを出しておきましたわ。お姉様の分は……朝になったら、ご自分で頭を下げてくださいまし」
「……やっぱり?」
「わたくしにできるのは、ここまでですの」
黒子は美琴にヤシの実サイダーを渡し、それから、迅の手に温かいココアの缶を押しつけた。
「真壁さんは、こちら。昨日のお昼から、何も召し上がっていないでしょう」
「よく分かりますね」
「研修のときから、お腹が空くと返事が短くなりますもの」
黒子は自分の缶を開けもせずに、迅の左腕を手に取った。新しい包帯の巻き方を確かめるように指でなぞり、手首のところで小さく眉をひそめる。
「看護師さん、少しゆるく巻きすぎですわ。これでは、また喧嘩をしたらすぐに開きますわよ」
「また喧嘩する前提なんですね」
「真壁さんですもの」
黒子は包帯の端を一度ほどき、きっちりと巻き直しはじめた。その手つきは、美琴の髪をとかそうと寮で迫ってくるときより、ずっと丁寧だった。
「……アンタたち、お母さんと息子みたい」
美琴がつぶやくと、黒子の手が止まった。
「誰がお母さんですの!」
「年下のお母さん」
「お姉様っ!」
迅は、黙ってココアの缶を開けた。湯気の立つ缶に口をつけて、ほんの少しだけ口元をゆるめる。美琴がこの少年の笑った顔を見たのは、ひったくりを倒したとき以来、二度目だった。
◆
二 九月七日 午後四時
第二十一学区は、学園都市でただ一つ、山のある学区だ。
バスを降りると、風の匂いが違った。排気ガスの代わりに、湿った土と草の匂いがする。道の両側には杉の林が続き、そのずっと奥に、学園都市の水源になっているダムの白い壁がのぞいていた。
「お姉様、首は大丈夫ですの」
研究所の門へ続く坂道で、黒子は隣を歩く美琴の横顔をうかがった。美琴は右手で首の後ろを押さえながら、口をへの字に曲げている。
「……大丈夫に見える?」
「見えませんわね」
今朝、寮の玄関で、美琴は寮監に首をつかまれた。ごきり、という音は、二階の窓際にいた黒子のところまで聞こえてきた。
「次からは、ちゃんと考えてから行動してくださいまし。真壁さんではないのですから」
「なんで俺が引き合いに出されるんですか」
二人の後ろを歩いていた迅が、のんびりと言った。黒子は振り返りもせずに答える。
「真壁さんが、この中でいちばん考えずに飛び込む方だからですわ」
「白井先輩も、昨日ブースに飛び込んでましたけど」
「あれは考えた末ですの!」
美琴が、首を押さえたまま小さく笑った。
坂の上の門の前で、黄泉川が待っていた。いつものジャージではなく、
「三人とも来たのか。民間人の御坂を連れてくるのは、本当は駄目なんだけどな。……まあ、来ちゃったもんはしょうがないじゃん。先に言っとくけど、向こうはこっちに協力的ってわけじゃない。余計なことは言うなよ。特に、御坂」
「なんで私だけ」
「顔に書いてあるじゃん」
研究所の中は、壁も床も白く塗られていて、廊下を歩く自分たちの足音のほかには物音ひとつしなかった。案内された会議室の窓からは、斜面に並んだ巣箱の列が見下ろせる。一つ一つが冷蔵庫ほどの大きさの、白い箱だった。箱の上の通気口から、ときどき小さな影が出入りしている。
「あれが、全部……」
窓に近づいた美琴が、思わずといった様子でつぶやいた。
「ええ。この斜面だけで、二百箱ほどあります」
答えたのは、いつの間にか会議室に入ってきていた、白衣を着た四十代くらいの女だった。胸の名札には「主任研究員」とある。そのすぐあとから、灰色のスーツを着た三十代くらいの男が続いた。男は名乗りもせずに入口の脇に立ち、壁に背中をつけて、腕を後ろで組んだ。白衣の職員ばかりの研究所の中で、その男だけが、首から入館証を下げていない。スーツの襟元にも、どこの所属かを示す徽章が付いていなかった。
「そっちは?」
黄泉川がちらりと男を見て訊くと、主任研究員は「本社の者です」とだけ答えた。男は黙って小さく会釈したきり、口を開かなかった。主任研究員は、それきり男のほうを一度も見ようとしない。見ないようにしているのだと、黒子には分かった。
主任研究員は机の上に端末を置くと、壁のモニターに巣箱の配置図を映し出した。学園都市の地図の上に、細かい点が数えきれないほど散らばっている。
「蜂巣網の機械蜂は、学園都市全体でおよそ六十万匹が稼働しています。一匹ずつに番号があって、それぞれが決まった巣箱に属しています。巣箱が蜂に飛行経路を割り当てて、蜂はその経路の街路樹を回って受粉をする。人が一匹ずつ操縦することは、できない仕組みになっています」
黄泉川が、検視で取り出された機械蜂の写真を、二枚並べて机に置いた。どちらも、腹の刻印が大きく引き伸ばされている。
「この番号の蜂と、もう一匹。この二匹の記録を見せてほしい」
主任研究員は、一枚目の写真の刻印を端末に打ち込んだ。モニターの配置図が切り替わり、第七学区の一角が拡大される。
「第七学区の、四十二番の巣箱に属している個体ですね。割り当てられた経路は……」
主任研究員の指が、そこで止まった。
地図の上を、赤い線が二本走っていた。一本は、街路樹の並ぶ通りに沿って規則正しく折れ曲がっている。割り当てられた経路だ。もう一本の線は、九月一日の日付のところで、その経路から外れていた。
外れた先の線は、通りを一本ずつ渡って、一つの建物のまわりを何度も回っていた。
第七学区の、学生マンションだった。
迅が、膝の上で手を握るのが、黒子の目の端に映った。
「……もう一匹のほうも、出してくださいまし」
黒子の声が、自分でも分かるほど硬くなった。主任研究員が、黙って二つ目の番号を打ち込む。
第十五学区の地図に、また二本の赤い線が浮かんだ。経路を外れた線は、九月三日から、芸能事務所の入ったビルと、その近くの学生寮のあいだを往復していた。
会議室の中が、静まり返った。
「経路を外れた蜂は、普通どうなるんですか」
最初に口を開いたのは、迅だった。
「巣箱に警告が出て、自動で連れ戻されます。そういうふうに作られています」
「でも、この二匹は戻らなかった」
「……警告の記録が、残っていません」
主任研究員は、端末の画面をいくつも切り替えた。指の動きが、少しずつ速くなっていく。
「経路の割り当てそのものが、巣箱の管理装置の中で書き換えられています。誰かが巣箱の仕組みに入り込んで、この二匹にだけ、別の命令を与えていた」
「つまり、誰かがこの蜂を使って、篠宮と霧島を狙ってたってことじゃん」
黄泉川の低い声が、会議室の白い壁に吸い込まれていった。
主任研究員は答えなかった。けれど、否定もしなかった。
蜂が壊れて暴れたのでも、たまたま二人の頭に入り込んだのでもなかった。最初から、誰かが二人を殺すつもりで、何日もかけて蜂を二人のそばに張りつかせていたのだ。
黒子は、膝の上でスカートを握りしめた。篠宮が配送ロボットからケーキを受け取ったあの夜も、霧島がスタジオで謝罪文を読んでいたあいだも、機械蜂はずっとそばにいた。誰にも気づかれずに、決められた時刻を待っていた。
「その管理装置、私に見せてくれない?」
机に両手をついて身を乗り出しながら、美琴は続けた。
「乗っ取った奴の足跡くらい、追えるかもしれない。電子機器なら、私のほうが早い」
「申し訳ありませんが、社外の方に管理装置をお見せすることはできません」
首を横に振る主任研究員に、美琴が食ってかかる。
「ちょっと、人が二人死んでるのよ」
「社内の調査班で、すでに確認を始めています。結果は警備員の方にお伝えします」
美琴の前髪の下で、ぱちりと小さく火花が散った。黒子は慌てて、美琴の腕に手を置いた。
「お姉様。勝手に覗いたら、今度はわたくしがお姉様を捕まえる側になりますわよ」
「……分かってるわよ」
美琴は椅子の背にもたれて、腕を組んだ。けれど、その目はまだ、主任研究員の手元の端末を見ていた。
しばらくして、美琴が腕を組んだまま、黒子のほうへ少しだけ体を傾けた。
「黒子。入口のあの男、耳に小さいのを入れてる。さっきから、ずっと電波を受けてる」
黒子は、目だけを入口のほうへ動かした。男の右耳には、肌の色に近い小さな機械がはまっている。言われなければ気づかない大きさだった。男は表情ひとつ変えずに、会議室の中を見渡している。
「一つ、いいですか」
迅が、もう一度口を開いた。主任研究員が、警戒するように迅を見る。
「今、経路を外れたままの蜂は、ほかにいますか」
主任研究員は、少しためらってから端末を操作した。配置図の上で、ほとんどの点が白く光っている。その中に、赤い点が一つだけ残っていた。
第七学区の外れ。一昨日から、経路を外れたまま戻っていない。
「……一匹、います」
黄泉川が、椅子を鳴らして立ち上がった。
「その一匹が、今どこにいるか分かるか」
「位置の記録は、昨日の夜から途絶えています。どこかで電源を落としているのか、それとも……」
主任研究員は、その先を言わなかった。
迅は、モニターの赤い点を見たまま、最後に一つだけ尋ねた。
「この蜂、受粉のほかに何かしてますか」
「いいえ」
主任研究員は、間を置かずに答えた。答える直前、その目がほんの一瞬だけ入口の男のほうへ動いたのを、黒子は見逃さなかった。それから主任研究員は、迅の視線から逃げるように端末の画面へ目を落として、付け足した。
「受粉と、花の状態の記録だけです」
◆
三 九月七日 午後五時半
帰りのバスは、空いていた。
いちばん後ろの席に、黒子と迅が並んで座った。お姉様のお隣に、と黒子が言い終わる前に、美琴はさっさと一つ前の窓際の席に腰を下ろしてしまったのだ。今は窓に額をつけて、遠ざかっていく杉の林を眺めている。黄泉川は研究所に残った。経路を外れたままの一匹を探すために、警備員を集めると言っていた。
バスが山道の最初のカーブを曲がったとき、迅が小声で言った。
「白井先輩。さっきの、最後の答えなんですけど」
「受粉のほかに何かしているか、という質問のことですの?」
「はい。いいえ、って答えたとこだけ、声の高さが少し変わりました」
黒子は、迅の横顔を見た。
「ほかの質問には、ずっと同じ高さで答えてたんです。経路のことも、警告のことも。あの一言だけ、ほんの少し上ずってました。嘘をつく人の声って、だいたいそうなります」
「……気のせい、ということは」
「ないと思います」
ためらいのない返事に、黒子は少しのあいだ黙り込んだ。バスのエンジンの音と、タイヤが路面を擦る音が、座席の下から伝わってくる。
気のせいだと言ってしまうのは簡単だった。けれど、迅の耳は篠宮の部屋の壁越しに、誰にも聞こえなかった羽音を拾っていた。霧島の配信では、三万人が聞き逃した音を、ヘッドホン一つで聞き分けた。
「それ、たぶん当たってる」
前の席から、美琴が言った。窓に額をつけたまま、声だけをこちらへ寄越している。
「さっき黒子には言ったけど、入口にいたあのスーツの男、耳に機械を入れてたでしょ。あれ、ずっと電波を受けてたんだけど、受粉のほかに何かしてるかってアンタが訊いたとき、急に強くなったの。外の誰かが、あの男に何か言ってたのよ」
黒子は、会議室の入口に立っていた灰色のスーツを思い出した。入館証も、徽章もない男だった。
「わたくしも、一つ見ましたわ。あの主任研究員の方、説明のあいだ、あの男のほうを一度も見ようとしませんでしたの。それなのに、最後の質問に答える前にだけ、ちらりと目を向けましたわ」
迅の耳が拾った声の揺れも、美琴が感じた電波も、黒子が見た目の動きも、どれも同じ質問の、同じ答えのところで起きていた。
「答えを決めてたのは、あの人じゃなかったってことですか」
迅が訊くと、黒子はうなずいた。
「少なくとも、あの方がご自分の判断で『いいえ』と言ったのではありませんわ」
黒子は、膝の上で指を組んだ。
「黄泉川先生には、わたくしからお伝えしておきますわ。真壁さんの耳も、お姉様の感覚も、わたくしは疑いませんもの」
迅は少し驚いたように黒子を見て、それから小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、白井先輩」
「お礼を言われることではありませんわ。指導担当として、新人の報告を聞いただけですの」
黒子はつんと顔をそむけた。窓に映った自分の顔の口元が、ほんの少しゆるんでいることに気づいて、黒子は慌てて唇を引き結んだ。前の席で、美琴の肩がかすかに揺れている。押し殺した笑い声が、背もたれの向こうから漏れてきた。
「……お姉様。聞こえておりますわよ」
「何も言ってないじゃない」
そのとき、黒子のポケットで携帯電話が震えた。
画面には、初春の名前が出ていた。黒子は通話をスピーカーに切り替え、迅のほうへ少し寄せた。
『白井さん、今、大丈夫ですか』
初春の声は、いつもより低かった。
『「#死ね」のタグ、いちばん最初に使った投稿を見つけました。先月の二十日。篠宮さんが炎上するより前です。名前のないアカウントからで……動画が付いてるんです』
「動画?」
『今、白井さんの携帯に送りました。……白井さん。一人のときに見ないでくださいね』
通話が切れると同時に、携帯電話に新しい通知が届いた。
黒子は、迅と顔を見合わせた。前の席から、美琴も振り返って背もたれ越しに画面をのぞき込んでくる。三人の顔が、小さな画面の上に集まった。
黒子が、再生ボタンに指を触れた。
画面は、真っ黒だった。
その真ん中に、白い文字が一行だけ、ゆっくりと浮かび上がった。
報いのゲーム
文字が消えると、黒い画面のまま、合成された平らな声が流れはじめた。男とも女ともつかない、抑揚のない声だった。
『ルールは簡単です』
バスが、二つ目のカーブを曲がった。窓の外で、杉の林が途切れる。夕日に照らされた学園都市の街並みが、山のふもとに一面に広がっていた。
その街のどこかで、経路を外れたあの一匹が、まだ見つかっていなかった。