とある風紀委員の殺意追跡 作:黒鏡
「三人目の死者についてです」
進行役の男は紙の束から一枚を抜き出して、机の上に置いた。
「九月七日の夜、あなたたちは高校一年の女子生徒、相沢柚葉を、第七学区の
「ええ。わたくしですの」
「その前に、あなたたちは相沢柚葉の寮を訪ねている。そこで御坂美琴が何かを見つけた、という報告がありますが」
黒子は、膝の上で組んだ指に目を落とした。
「見つけたのではありませんわ。逃げられたのです」
男は何も言わずに、紙の余白へ短く書きつけた。
◆
一 九月七日 午後五時四十分
黒いままの画面から、機械で作ったような声が淡々と流れ続けていた。
『死んでほしい人の名前に、「#死ね」を付けて投稿してください。それが、あなたの一票になります』
バスが段差を越えるたびに、携帯電話を握る黒子の手首まで小刻みに震える。隣では迅が背もたれから体を起こし、前の席から振り返った美琴も、座席の背に腕をかけたまま身じろぎひとつしなかった。
『毎日、午後十一時。その日いちばん多く名前を書かれた一人が、報いを受けます』
画面の縁を押さえる指に、勝手に力がこもった。
『投稿は、匿名でかまいません。書いたのがあなただと、誰かに知られることはありません』
『誰が報いを受けるのかは、あなたが決めてください』
画面にもう一度「報いのゲーム」の文字が浮かび、ゆっくりと薄れて消えた。動画はそれで終わりだった。二分にも満たない。たったこれだけの映像のために二人が死んだのだと思うと、黒子は喉の奥がひりつくのを感じた。
誰も、すぐには口を開かなかった。バスはいつの間にか山を下りきって、ダムから流れてくる川沿いの道を走っている。黒子は動画の下の投稿日に目を落として、もう一度確かめた。
八月二十日。
「……篠宮さんが炎上したのは、八月二十五日ですわ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、黒子は顔を上げた。
「この動画、篠宮さんが炎上する五日も前に投稿されていたんですの。名前もないアカウントからですもの。そのころは、ほとんど誰の目にも触れなかったはずですわ」
「じゃあ……」
迅が、黒い画面から目を上げた。包帯を巻いた左手の指が、膝の上でゆっくりと握られていく。
「篠宮さんの名前に#死ねを付けて書き込んでた人たちは、こんなルールがあるなんて知らないまま、票を入れてたことになりますね」
「票?」
聞き返した美琴に、迅はうなずいた。
「俺たちがこの何日か見てきた例のタグの投稿、あれが全部、このゲームの票として数えられてたんです。篠宮さんも霧島さんも、そうやって一番にされた」
座席の背をつかむ美琴の手に、ぎゅっと力がこもった。合皮のカバーが、ぎしりと鳴る。
「ふざけないでよ……!」
押し殺した声と一緒に、前髪の先で青白い火花がぱちっと弾けた。
「書いた連中だって、ゲームのつもりなんかなかったわよ。ただむかついて、勢いで書いただけでしょ。それを勝手に票にして、本当に殺すなんて……!」
前のほうの席にいた男子生徒が、何事かと振り返った。黒子は慌てて美琴の腕に手を置き、首を小さく横に振ってみせる。美琴は唇をかんで、どさりと座席に座り直した。窓ガラスに映ったその横顔は、それでもまだ、ここにはいない誰かをにらみつけていた。
黒子が手の中の携帯電話に目を戻したとき、ちょうど画面の上に通知が降りてきた。初春からだった。
『白井さん、大変です! さっきの動画、誰かが見つけて広めちゃってます! この十分で、もう一万回以上も回ってます……!』
息をのんで、黒子は画面を迅のほうへ傾けた。迅は文字を目で追い、しばらく黙り込んでから、ぽつりと言った。
「……これからは、ルールを知ったうえで書く人が出てきますね」
黒子には、言い返す言葉が見つからなかった。霧島が死ぬところは、三万人が見ていた。書けば本当に死ぬと知っていて、それでも名前を書く人間がいる。そう考えただけで、胃のあたりがすうっと冷たくなった。
バスが、学区の境のトンネルに入った。オレンジ色の照明が次々と窓の外を流れていき、暗くなったガラスに、三人の顔が並んで映った。
◆
二 九月七日 午後六時四十分
美琴がこの支部に来るのは、初めてではない。黒子に用があって、何度か顔を出したことがある。けれど、日が暮れてから足を踏み入れたことはなかった。事務机の並んだ部屋の壁際にはホワイトボードが立てられ、篠宮と霧島の写真が磁石で留められている。その下には、亡くなった日付と時刻が赤いペンで書き込まれていた。固法はほかの支部の応援に出たきりで、部屋に残っているのは初春一人だった。三台のモニターに囲まれた席で、頭の花飾りが画面の明かりを受けて白っぽく光っている。
「おかえりなさい、白井さん! 御坂さんと真壁さんも……」
椅子ごとくるりとこちらを向いた初春は、美琴の顔を見て、それから壁の時計を見た。
「……あの、御坂さん。門限って」
「今は言わないで」
「は、はいっ」
首をすくめた初春の横で、黒子がこれ見よがしにため息をつく。それでも初春はすぐに顔を引き締めて、右端のモニターを指さした。
「これ、見てください」
折れ線のグラフだった。昼過ぎまでは、なだらかに右へ伸びている。それが五時半を過ぎたところで、ほとんど真上へ跳ね上がっていた。
「例のタグが付いた投稿の数を、一分ごとに数えてるんです。動画が出回りはじめてから急に増えだして……今は、それまでの五倍くらいの速さです」
「今日の一番は、どなたですの?」
黒子に訊かれて、初春は真ん中のモニターに一枚の写真を出した。
夕方に撮ったものらしく、全体が少し赤みがかっていた。どこかのマンションの入口で、制服の女子生徒がしゃがみ込んでいる。髪を明るい茶色に染めていて、片手でピースを作り、舌を出していた。その子の足元には、白い花束がいくつも並んでいる。写真の下には、こんな一文が添えられていた。
死ねって書かれまくって本当に死んだ人の家、来てみた(ピース)
「相沢柚葉さん、高校一年生です。九月五日の夕方に、自分で載せた写真なんですけど……亡くなった人をからかってるって、すごく叩かれてて。昨日までは霧島さんのほうが上だったのに、今朝から一気に増えて、今はもう二番の人の三倍以上です」
ひどい写真だった。死んだ人の家の前でピースをして、舌まで出して、いったい何を考えていたのか。胸の奥がざらつくのを、美琴は抑えられなかった。それでも、だからこの子が死んでもいいのかと訊かれたら、首を縦には振れない。そのどちらの気持ちも本当なのが、余計に腹立たしかった。
「……そこ、うちのマンションの入口です」
後ろから聞こえた声に、美琴は思わず振り返った。迅が、画面の中の花束をじっと見ていた。
「その真ん中の白い花、俺が置いたやつです」
キーボードの上で、初春の手が止まった。
「篠宮さんが亡くなった次の朝です。部屋の前に置きたかったんですけど、警備員の人に止められて。それで、入口の郵便受けの横に置きました。夕方に戻ったら、ほかにも何束か増えてて」
迅はそれだけ言うと、口を閉じた。写真からは、目をそらそうとしない。黒子が何か言いかけて、結局何も言えないまま、その横顔を見上げていた。黒子も初めて聞いたのだと、揺れる目の動きで美琴には分かった。
部屋の空気が重く沈みかけたところで、美琴は初春のほうへ向き直った。
「……ねえ、初春さん。この子の名前に例のタグを付けて書き込んでる人って、どれくらいいるの?」
初春は少し迷うような顔をしてから、左端のモニターに数字を出した。
「それなんですけど……私も数えてみて、びっくりしたんです」
画面の数字を、初春の指がなぞった。
「例のタグの投稿を拡散したり、いいねを押したりしてる人は、何十万人もいるんです。でも、自分で誰かの名前にタグを付けて書き込んでるアカウントだけを数えたら、あの動画が出回る前までは、全部合わせても千三百くらいしかなくて」
「千三百?」
美琴が聞き返すと、初春はこくりとうなずいた。
「はい。ケーキにお金を出した人たちと、ほとんど同じくらいの数なんです。篠宮さんも霧島さんも、実質その千三百人くらいの書き込みで一番にされてて……。でも、さっき動画が広まってから、面白半分で書き込む人が出てきてて……この一時間だけで、もう二百人以上増えてます」
美琴は、スカートのポケットの上から自分の携帯電話を握った。あの晩、#死ねで埋まっていく画面を閉じたのも、この携帯電話だった。名前を書いた千三百人の中に、自分はいない。けれど、それを黙って眺めていた何十万人の中には、たしかに入っている。
「初春さん、この子の住所、出せる?」
「は、はい! えっと……第七学区の、外れのほうの女子寮です。学区の境のすぐ近くで」
その答えに、黒子と迅が同時に顔を上げた。
「第七学区の外れ……!」
黒子の声が、跳ね上がった。
「研究所で見た、あの蜂ですわ。一昨日から経路を外れたまま、戻っていなかった一匹。あれがいたのも、第七学区の外れでしたの!」
「一昨日って、九月五日ですよね。相沢さんが写真を載せた日です」
迅はモニターの写真に目を戻し、言葉を選ぶように続けた。
「霧島さんのときも、蜂は一番になる三日前から、事務所のまわりを飛んでました。犯人は、次に一番になりそうな人に先回りして偵察用の蜂をつけて、居場所を割り出してるんだと思います」
迅が言い終えるより早く、黒子はもう携帯電話を耳に当てていた。呼び出し音が二回鳴って、黄泉川が出る。黒子が早口で事情を話すあいだ、受話口の向こうからは、山の風の音と無線のやりとりが漏れ聞こえていた。
『……分かった、保護施設に移す! 第七学区のうちの施設に、窓も換気口も全部ふさげる部屋がある』
受話口の向こうで誰かに指示を飛ばす声がして、黄泉川はすぐに話を戻した。
『迎えはこっちから出すけど、山からだと一時間はかかる。白井、寮が近いなら先に行って、本人を外に出さないようにしといてくれ。無理に連れ出さなくていいじゃん』
「承知いたしましたわ!」
通話を切るなり、黒子はくるりと美琴を振り返った。
「お姉様。まさかとは思いますけれど、ついていらっしゃるおつもりではありませんわよね。今朝の首のことを、もうお忘れですの?」
「今さらでしょ」
美琴は、もうドアのほうへ歩き出していた。
「どうせ、もう一回つかまれるんだもの。一回も二回も、たいして変わらないわよ」
「変わりますわ! 寮監様は、同じ日に二回目となると、ひねる角度が違いますのよ!」
黒子の悲鳴を背中で聞きながら、美琴は支部のドアを開けた。振り返ると、迅が初春に小さく頭を下げていた。初春は両手を胸の前で握って、こくこくと何度もうなずき返している。
◆
三 九月七日 午後七時半
相沢柚葉の寮は、古い三階建ての建物だった。
学区の境が近いせいか、まわりには背の低い倉庫や、シャッターの下りた店ばかりが並んでいる。玄関の上に一つだけ灯った明かりに小さな蛾が何匹も集まって、ガラスのカバーにこつこつと体をぶつけていた。入口の両脇の植え込みは、手入れもされずに腰の高さまで伸びている。
女子寮なので、迅は門の外で待つことになった。黒子が管理人に風紀委員の腕章を見せて話を通すと、五分ほどして、玄関の奥からぱたぱたとサンダルの音が近づいてきた。
写真で見たときより、ずっと幼い顔だった。明るい茶色の髪には寝癖がついたままで、部屋着の上に大きすぎるパーカーをはおっている。右手には、携帯電話を握りしめていた。
「……風紀委員が、何の用」
玄関の段差の上から、相沢は黒子と美琴を見下ろした。口調だけは強気だったが、携帯電話を握る指先がかすかに震えている。
「相沢柚葉さんですわね。今夜は、警備員の保護施設に移っていただきたいのです。迎えの車が、もうすぐ参りますわ」
「は? なんで」
「今日、あなたの名前が、いちばん多く書かれていますの」
相沢の顔が、一瞬ひきつった。それから、無理に笑おうとするように口の端を上げる。
「知ってるし。あんなのネタじゃん。死ねなんて、みんな毎日誰かに書いてるでしょ。あたしが一番になったからって、なんで本当に死ななきゃいけないの」
「篠宮さんも、霧島さんも、一番になった夜に亡くなっていますわ」
「偶然だって言ってる人もいるし」
言い返しながら、相沢は携帯電話に目を落とした。親指が、止まらずに画面を下へ下へと送っている。黒子の位置からも、その中身がちらりと見えた。相沢の名前に例のタグを付けた書き込みが、途切れることなく流れていく。
今夜で終わり
あと四時間
何時に死ぬか当てようぜ
黒子は、奥歯を噛みしめた。支部であの写真を見たとき、黒子の胸にも、冷たいものがよぎったのだ。風紀委員として口に出すことはなかったけれど、少しくらい痛い目を見ればいい、と。その気持ちと、今この画面を流れていく文字とがどれだけ違うのか、黒子にははっきりと言えなかった。
「……写真、消したの」
画面を見つめたまま、相沢がつぶやいた。
「昨日の夜、消したの。ちょっと調子に乗りすぎたかなって思って。でも消したら、誰かが保存してたのがもっと回って。消して逃げたとか、反省してないとか書かれて、もっと増えて……」
そこで、声が詰まった。強がっていた顔が、少しずつ崩れていく。黒子は一歩前に出た。何と言葉をかけるのかは、まだ決まっていなかった。
「あの花」
門のほうから、迅の声がした。
迅は門の外に立ったまま、こちらを見ていた。玄関の明かりは門までは届かず、暗がりの中で、左腕の白い包帯だけが浮かんで見える。
「写真に写ってた、真ん中の白い花。あれ、俺が置いたんです。篠宮さんは、俺の隣の部屋の人でした」
相沢の顔から、さっと血の気が引いた。携帯電話を握りしめた手が、胸の前で固まる。
「別に、怒ってません。怒りに来たわけでもないです」
迅は、門から一歩も入ってこなかった。女子寮の決まりを、こんなときでも律儀に守っている。
「篠宮さんが死んだとき、俺は壁一枚隣にいたのに、何もできませんでした。だから今夜は、相沢さんに一緒に来てほしいんです。……もう一回、あれを見るのは嫌なので」
相沢の唇が震えた。何か言い返そうとして、言葉にならないまま閉じる。黒子は、門の外の後輩から目を離せなかった。自分が言おうとしていたどんな言い方よりも、今の一言のほうが、ずっとこの子に届いている。
そのとき、美琴がふいに横を向いた。
視線の先は、玄関の左側の、伸び放題の植え込みだった。暗い葉が重なっているだけで、黒子には何も見えない。
「……いる」
植え込みをにらんだまま、美琴がつぶやいた。
「その中。霧島さんの頭の中にいたのと同じやつ。小さいのが、同じ間隔で打ってる」
美琴が一歩踏み出した瞬間、葉の奥で何かが動いた。黒子に分かったのは、葉先がかすかに揺れたことだけだ。それでも美琴の視線は、植え込みから玄関の屋根のほうへ、すっと跳ね上がった。
美琴の右手から、青白い光が走る。
細い電撃が屋根の縁をかすめて、夜空へ抜けた。乾いた破裂音が向かいの倉庫の壁に当たって跳ね返り、明かりに群がっていた蛾が一斉に散った。
「上です!」
門の外で、迅が首のヘッドホンを片手で押さえ、空を見上げていた。
「屋根を越えて、裏のほうへ……速いです。もう、聞こえなくなりました」
美琴は、ゆっくりと右手を下ろした。指先から、まだ小さな火花がぱちぱちとこぼれている。
「外した……!」
屋根の向こうの暗い空を、美琴はにらみ上げた。
「先生の言ったとおりだわ。周りに電気を流しただけじゃ弾かれる。一点に絞って直撃させないと焼けないのに、小さすぎて、狙いをつける前に動かれた……!」
「お姉様、あの一匹は、まさか……」
「たぶんね。相沢さんが本当にここにいるか確かめて、犯人に知らせてたのよ。偵察役ってわけ」
吐き捨てるように言った美琴の後ろで、小さな音がした。
振り返ると、相沢が玄関の段差の上にへたり込んでいた。手から滑り落ちた携帯電話が、コンクリートの上で一度跳ねる。上を向いたまま転がった画面の中では、まだ彼女の名前が流れ続けていた。
黒子はそばにしゃがみ込み、携帯電話を拾い上げると、画面を伏せたまま、その手にそっと戻した。
「参りましょう、相沢さん。……大丈夫ですわ。わたくしたちが、ずっとそばにおりますから」
返事はなかった。それでも、茶色い髪の頭が、小さく縦に動いた。
遠くから、警備員の車のサイレンが近づいてきた。
◆
四 九月七日 午後十時二十分
保護施設の二階の部屋には、窓がなかった。
もとは会議室だったらしい。長机は壁際に寄せられ、真ん中に簡易ベッドが一つ置かれている。天井の換気口には銀色のテープが何重にも貼られ、ドアの隙間にも同じ目張りがしてあった。廊下側の壁の高いところにある小さな通気口も、金属の板でふさがれている。空気の動かない部屋は、少し息苦しかった。
ドアの外の廊下には、警備員が二人と、黒子が立っている。迅は黄泉川に頼み込んで、施設の屋上に上がっていた。音を聞くなら外がいちばんいいから、というのが迅の言い分だった。「夜風で傷口が冷えても、知りませんわよ」と口をとがらせながら、黒子は結局、階段の下で迅の包帯の巻き具合をもう一度確かめてから送り出していた。
部屋の中にいるのは、相沢と美琴の二人だけだった。
相沢は簡易ベッドの端に座って、両腕で膝を抱え込んでいた。パーカーのフードを目深にかぶっている。携帯電話は、施設に入るときに警備員に預けさせられた。空いた手の置き場がないのか、さっきから袖口ばかりいじっている。
「……ねえ」
フードの下から、相沢が美琴を見上げた。
「あんた、常盤台の
「そうだけど」
「あたし、助かる?」
美琴は、壁にもたれていた背中を起こした。
「助ける」
考えるより先に、言葉が出ていた。
「あの蜂の電気なら、さっきので、はっきり覚えた。こんな狭い部屋じゃ、アンタまで巻き込むから大きい放電はできないけど……一匹でも入ってきたら、私には分かる。分かったら、今度は外さない。近づいてくる分は、全部私が一匹ずつ撃ち落とす」
言い切ってから、美琴は自分の右手に目を落とした。寮の前で外したときの手応えのなさが、まだ指先に残っている。それでも、この子の前で迷った顔を見せるわけにはいかなかった。
相沢はしばらく美琴の顔を見つめていたが、やがて膝に顔をうずめた。
「……あたし、篠宮って人のこと、なんにも知らなかった」
くぐもった声だった。
「みんなが死ね死ねって書いてて、ほんとに死んじゃって。なんか、すごいことが起きた場所の前で写真撮ったら、ちょっとバズるかなって。それだけだった。花のことなんか、考えてもなかった」
美琴は黙っていた。言えることが、何もなかった。あの晩、#死ねで埋まっていく画面を閉じたとき、美琴だって、篠宮玲奈という人のことなど何も考えていなかった。相沢と自分の違いは、写真を撮ったか撮らなかったか、それだけなのかもしれない。
「あの人、怒ってないって言ってた」
「真壁さん?」
口に出してから、美琴は、迅の名前を呼んだのはこれが初めてだと気づいた。なんとなく落ち着かなくて、壁から背中を離す。相沢は膝に顔をうずめたまま、こくりとうなずいた。
「怒ってないなら、なんであんなこと言うの。もう一回見るのは嫌だから、来てほしいって。……怒られるより、ずっときつかった」
「あいつ、そういう奴なのよ」
美琴は、また壁にもたれた。天井の銀色のテープを見上げながら、言葉を探す。
「責めもしないし、かばいもしない。見たまんまを言うだけ。だから、こっちが勝手にきつくなるの。……私も、ゆうべ同じことやられたから、よく分かる」
「……あんたも?」
「そう。ムカつくでしょ」
フードの下で、相沢がほんの少しだけ笑ったような気がした。
壁の時計が、十時半を回った。
美琴のポケットで、携帯電話が震えた。屋上の迅からだ。美琴はスピーカーにはせず、耳に当てた。
『御坂さん』
迅の声の後ろで、屋上の風がごうごうと鳴っていた。
『来ます』
「一匹?」
『いいえ』
わずかな間があった。
『数が、分かりません。北のほうから、ずっと鳴りっぱなしです。一つの音じゃない……何百か、何千か。全部、こっちに向かってます』
美琴は携帯電話を耳に当てたまま、目を閉じた。
はじめは、何も感じなかった。やがて、北の壁のはるか向こうで、規則正しく打つ小さな電流が一つ引っかかった。すぐに、もう一つ。三つ、四つ。十を超えたところで、美琴は数えるのをやめた。増え方が、速すぎた。
目を開けると、簡易ベッドの上で相沢が顔を上げていた。美琴の顔を見て、何も訊かずに、パーカーの袖をぎゅっと握りしめる。
壁の時計の針は、十時三十一分を指していた。