とある風紀委員の殺意追跡 作:黒鏡
「保護施設の監視映像についてです」
進行役の男は、紙の束を一枚めくった。
「九月七日の夜の映像が、翌日の昼に外部へ流出している。施設の中庭で能力を使う御坂美琴の姿が、はっきり映っていた。流したのは、あなたたちの誰かですか」
「いいえ」
黒子は、男の目を見すえて答えた。
「わたくしたちが、あの夜の映像を誰かに見せたいと思うはずがありませんわ」
男はペンの先で、紙の端を軽く叩いた。それから、思い出したように付け足した。
「真壁迅については、最後にまとめて伺います」
膝の上で、黒子の指がかすかに動いた。返事は、しなかった。
◆
一 九月七日 午後十時三十二分
「黒子、この子をお願い!」
ドアを開けるなり、美琴は廊下に向かって叫んだ。
「北から群れが来てる。何百匹か、もっと。私は外で落とす。建物に入られる前に、全部!」
「お姉様っ、お一人でなんて――」
黒子の声を最後まで聞かずに、美琴は階段を駆け下りた。踊り場で、無線に向かって怒鳴っている黄泉川とすれ違う。「御坂!」と呼ばれた気がしたが、足は止めなかった。走りながら、迅との通話に黒子もつないだ。
正面玄関を飛び出すと、砂利を敷いた中庭が広がっていた。道路との境には背の高い金網のフェンスが立ち、その向こうに街灯が等間隔に並んでいる。敷地の隅の電柱の上で、赤いランプを灯した監視カメラがこちらを向いていた。
中庭の真ん中で足を止めたとき、耳に当てた携帯電話から迅の声がした。
『御坂さん、屋上から見えてます。北の道路の、三本先の街灯のあたり……高さは、三階くらいです』
言われた方向へ目をこらしても、はじめは何も見えなかった。それから、北の道路の三本先の街灯が、ふっと暗くなった。消えたのではない。光の前を、何かが横切っている。二本先の街灯も、同じように暗くなった。黒い靄のようなものが、明かりを一つずつ隠しながら、こちらへ近づいてくる。
少し遅れて、音が届いた。何千匹分もの羽音が重なった、低い唸りだった。腹の底に、じんじんと響いてくる。頭の後ろのほうでは、規則正しく打つ小さな電流が、もう数えきれないほど重なっていた。
怖くないと言えば、嘘になる。それでも、窓のない部屋で膝を抱えていた相沢の顔を思い浮かべると、足は一歩も引かなかった。
「……上等じゃない」
美琴は携帯電話をスピーカーに切り替えてスカートのポケットに押し込み、右手を足元の砂利に向けた。
砂利の下の土から、黒い砂がざあっと浮き上がった。磁力に引かれた砂鉄が美琴の足元に集まり、渦を巻いて、背丈よりも高く伸び上がっていく。
その間に、群れがフェンスを越えてきた。近くで見ると、黒い靄に見えていたものは、一つ一つが小さな粒だった。それが何百、何千と集まって、くっついたり離れたりしながら、まっすぐ施設の壁へ向かっていく。
「行かせないって言ってんのよ!」
右腕を横になぎ払うと、砂鉄の渦が黒い鞭になって宙を走った。群れの先頭を真横から叩き、ばらばらにはじき飛ばす。散った粒は、すぐにまた寄り集まろうとした。
そこへ、美琴は全身から電気を放った。青白い放電が中庭いっぱいに広がり、砂利の上を細い光の筋が走り抜ける。
けれど、群れの中で打っている小さな電流は、一つも消えなかった。
「……やっぱり、効かないか」
冥土帰しの言ったとおりだった。周りにばらまいた電気は、あの被膜の表面を伝って逃げてしまう。
「だったら――」
美琴は、右手を強く握りしめた。宙に散っていた砂鉄が一斉に向きを変え、黒い渦となって群れの塊を丸ごと包み込む。そのまま四方から、ぎゅっと締め上げた。
ざりざりと、砂を噛むような音がした。砂鉄に押しつぶされた機械蜂が、砕けた樹脂の殻になって、砂利の上にぱらぱらと降ってくる。スカートの裾にも、一つ、二つ当たって落ちた。
『左です! 東の角を回り込もうとしてます!』
スカートのポケットから、迅の声が飛んだ。
「ちょこまかと……!」
振り向きざまに砂鉄の壁を立てる。建物の角へ流れかけた群れが、黒い壁に正面からぶつかって、また砂利の上へ散らばった。
『次、真上……! 三階の窓の高さです!』
美琴は真上を見上げ、黒い塊のいちばん密なところへ、細く絞った電撃を撃ち込んだ。針のような青白い光が夜空を裂き、塊の真ん中を貫く。直撃を受けた蜂が、焼け焦げて頭の上から降りそそいだ。
『お姉様、ご無事ですの!?』
スカートのポケットから、今度は黒子の声がした。
「こっちはいいから! アンタは、その子から絶対に離れないで!」
怒鳴り返しながら、美琴は額の汗を手の甲でぬぐった。息が上がっている。それでも、群れの電流は、まだいくらでも残っていた。減っているのかどうかも、分からない。
『御坂さん!』
迅の声が、急に大きくなった。
『反対側です! 建物の裏から、別の群れが……一階の換気扇の隙間から、中に入ってます!』
はっとして、美琴は施設を振り返った。裏手のほうで警備員の怒鳴り声が上がり、何か重いものが倒れる音がそれに重なる。
「っ……黒子!」
走りかけた美琴の目の前に、北からの群れがまた黒い塊になって降りてきて、行く手をふさいだ。
◆
二 九月七日 午後十時四十八分
廊下の奥の階段から、低い唸りが這い上がってきていた。
一階で、警備員たちが何か叫んでいる。続けて、消火器を噴射するような音がした。けれど、唸りは止まらない。一段ずつ、確実に近づいてくる。
黒子が部屋の中を振り返ると、相沢は簡易ベッドの上で体を丸め、両手で耳をふさいでいた。天井の換気口のあたりから、こつ、こつ、と小さな音がする。テープの向こう、金属の板の裏側に、何かが何度もぶつかっている音だった。
こつ。こつ、こつ。
その間隔が、だんだん短くなっていく。
このままでは、いずれ破られる。そうなれば、この部屋に逃げ場はない。黒子は、携帯電話を口元に寄せた。
「真壁さん。屋上は、まだ大丈夫ですの?」
『こっちには、まだ来てません。群れは下と、建物の中です』
「では、今からそちらへ跳びますわ。相沢さんを連れて」
『分かりました。待ってます』
迅の返事は、いつもと同じように短かった。それが、今の黒子にはありがたかった。通話をスピーカーに切り替えて、携帯電話をスカートのポケットに滑り込ませた。
黒子は部屋に入り、ベッドの前にしゃがみ込んだ。
「相沢さん。今から、ここを出ますわ」
「出るって……外、蜂だらけなんでしょ……!」
「ええ。ですから、蜂のいないところへ参りますの。少し目が回るかもしれませんけれど、わたくしから絶対に手を離さないでくださいまし」
相沢は泣きそうな顔で黒子を見上げ、それから、制服の袖を両手でぎゅっとつかんできた。大きすぎるパーカーのフードが、その頭の上でずり落ちかけている。
黒子は相沢の肩を抱き寄せ、屋上の床までの距離と向きを、頭の中で計算した。この部屋から、上へ二階分。
次の瞬間、足の裏に、ざらりとしたコンクリートの感触があった。夜風が、二人の髪を巻き上げる。
屋上の端で、迅が振り返った。片手でヘッドホンを押さえ、もう片方の手で携帯電話を握っている。二人の姿を見て短く息を吐いたが、その目はすぐに、黒子たちの背後の空へ向いた。
「白井先輩。……だめです、ついてきてます。下の群れの一部が、こっちに上がってきてます」
振り返ると、屋上の縁の向こうから、黒い靄がゆっくりと立ちのぼってくるところだった。
「どうして……! わたくしたちがどこへ跳んだかなんて、分かるはずがありませんのに!」
「分かるんだと思います」
迅は、靄から目をそらさずに言った。
「蜂は、街じゅうを飛んでるんです。どこへ逃げても、どこかで誰かに見られてる」
背筋が、ぞくりと冷えた。けれど、考えている暇はなかった。
「真壁さん。どちらへ逃げれば、蜂がいませんの?」
迅はヘッドホンを押さえたまま、目を閉じた。ほんの一秒か、二秒だった。
「西です。西のほうは、音がしません。あの給水塔のあるビルまで、ずっと静かです」
迅があごで示した先、二百メートルほど向こうのビルの屋上に、白い給水塔が見えた。
「真壁さんは、どうなさいますの?」
「俺は、ここで音を聞いてます。どっちから来るか、電話で言いますから」
黒子は小さくうなずいて、相沢を抱き直した。袖をつかむ指が、腕に食い込んでくる。
「相沢さん。何度か続けて跳びますわ。目は、閉じていてくださいまし」
一度目で、隣の倉庫の屋根へ。二度目で、その先のマンションの屋上へ。着地するたびに、足の裏に衝撃が走る。相沢は黒子の肩に顔を押しつけて、声にならない悲鳴を上げていた。
『白井先輩、後ろです! まっすぐ追ってきてます!』
三度目の着地で振り返ると、黒い靄がほんの数十メートル後ろまで迫っていた。屋根の上を這うように、こちらへ伸びてくる。
速い。跳ぶたびに次の着地点を計算し直している黒子より、ずっと速い。
四度目を跳ぼうとした、そのときだった。
下の通りから、オレンジ色の光が一直線に走った。
光は黒子たちのすぐ後ろを通り抜けて、黒い靄の真ん中を貫いた。一拍遅れて、空気の裂ける轟音が屋上の床を震わせる。靄に、ぽっかりと大きな穴があいていた。焼けた細かい粒が、きらきらと光りながら降ってくる。
屋上の縁から下をのぞくと、通りに美琴が立っていた。右腕をまっすぐこちらへ伸ばしたまま、肩で大きく息をしている。
コインを、弾いたのだ。
「お姉様……!」
『さっさと行きなさい、黒子!』
スカートのポケットの携帯電話から、美琴の声が飛んできた。黒子は唇をかみ、相沢を抱えたまま、もう一度跳んだ。
五度目。六度目。
七度目に、足の裏が鉄板の足場を踏んだ。給水塔の脚が、すぐ目の前にあった。その根元に小さな常夜灯が一つだけ灯っていて、まわりをぼんやりと照らしている。
黒子は、相沢を抱えたまま膝をついた。呼吸が、なかなか整わない。人ひとりを連れて七回も続けて跳んだのは、これが初めてだった。
あたりは、静かだった。遠くで、警備員の車のサイレンが鳴っている。それだけだった。黒い靄はどこにも見えず、あの低い唸りも、もう聞こえない。
「……助かったの?」
相沢が、黒子の肩から顔を上げた。涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになっている。
「ええ。ここまでは、来ませんわ」
黒子は、腕時計に目をやった。
十時五十九分。
「あと一分で、十一時ですの。十一時を過ぎれば、今日はもう終わりですわ」
「……あは」
相沢が、泣きながら笑った。
「なにそれ。あたし、ほんとに、死ぬとこだった……」
黒子の袖をつかんだまま、相沢は肩を震わせて笑い続けた。つられて、黒子も長い息を吐く。給水塔の脚に背中を預けると、冷たい鉄の感触が、汗で濡れたブラウス越しに伝わってきた。
腕時計の秒針が、十二のところを越えた。
十一時。
相沢の笑い声が、ぴたりと止まった。
「……え」
右手で耳を押さえて、相沢は首をかしげた。
「なに、これ。耳の中……なんか、いる」
黒子は、弾かれたように身を起こした。
相沢のパーカーのフードが、肩の上にずり落ちていた。その布の折り目のあたりから、何かが一つ、首筋を這い上がっていく。小指の爪よりも小さい、黒い粒だった。
黒い粒は、そのまま耳の穴へ、するりと消えた。
「相沢さんっ!」
黒子は、夢中で手を伸ばした。触れさえすれば、跳ばせる。どこへでもいい。触れさえすれば――。
指先が届く前に、相沢が絶叫した。
両手で自分の頭をつかみ、こめかみに爪を食い込ませる。黒子はその手首を握って、力いっぱい引きはがした。細い体が、腕の中で弓なりに反り返る。
「離して! 痛い、痛い痛い痛い……っ!」
「しっかりなさいまし! 相沢さん! わたくしを見て!」
叫んでも、相沢の目は黒子を見ていなかった。どこも、見ていなかった。
叫び声が、途中でふつりと途切れた。
相沢の体から、力が抜けた。黒子の腕の中に、重みだけが残る。
黒子は、その手首を握ったまま動けなかった。
給水塔の上を、夜風が吹き抜けていく。
遠くのサイレンは、まだ鳴り続けていた。
◆
三 九月七日 午後十一時十二分
北からの群れを落としきるまで、美琴はあの通りから一歩も動けなかった。給水塔のビルにたどり着いたのは、十一時を十分以上過ぎてからだった。
外階段を駆け上がって、屋上の鉄の扉を開ける。給水塔の脚の下に、黒子がうずくまっていた。
その腕の中に、パーカーを着た女の子が横たわっている。
美琴は、そこで足を止めた。
顔を上げた黒子は、呆然とどこかを見つめていた。
「……お姉様」
「黒子」
美琴は、ゆっくりと二人に近づいた。
相沢の顔は、髪に隠れてよく見えない。
だらりと垂れた右手が、足場の鉄板の上に投げ出されていた。
「群れは、ここまでは来ませんでしたの」
ぽつりと、黒子が言った。
「最後まで、一匹も。わたくし、ちゃんと逃げきったのですわ。お姉様が撃ってくださって、真壁さんが道を教えてくださって……それなのに、十一時になったら……フードの中から、一匹だけ……」
美琴は相沢のそばに膝をつき、その額に、そっと右手を当てた。まだ温かい。
その奥で、小さな電流が、規則正しく打っていた。
「……いる」
声が、かすれた。
「この中に、いる。でも、私……部屋の中で、ずっとこの子の隣にいたのに。何も、感じなかった」
「電源を、落としてたんだと思います」
屋上の扉のほうから、声がした。
迅が、扉の枠に手をついて立っていた。
走ってきたのか、肩で小さく息をしている。
「寮の前で、屋根のほうへ逃げた一匹です。俺、あのとき、聞こえなくなったって言いました。でも、勘違いしてたんです、遠くへ行ったんじゃなかった。あのすぐあとに、警備員の車がサイレンを鳴らして来ましたよね。あの音にまぎれて、戻ってきてたんです。……俺が、聞き逃したんです」
迅は、相沢のずり落ちたフードに目を落とした。
「相沢さんが車に乗るまでの、どこかで。あの大きいフードの中にもぐり込んで、そのまま動かずに、十一時を待ってた」
電源が落ちていれば、あの規則正しい電流も打たない。打っていなければ、美琴には分からない。
「……じゃあ、あの群れは」
相沢の額に手を当てたまま、美琴は言った。
「全部、おとりだったってこと? 私が外で必死に落として、黒子が逃げて……その間、本物は、ずっとこの子のフードの中で寝てた」
誰も、答えなかった。
「……全部落とすって、言ったのに」
誰に聞かせるでもなく、美琴はつぶやいた。相沢の額から手を離しても、手のひらにはまだ体温が残っていた。
黒子が、相沢の体を抱いたまま、声を殺して泣きはじめた。美琴はその肩に手を置いたが、何と言えばいいのか、一つも分からなかった。
迅は首から外したヘッドホンを握ったまま扉のそばを離れ、黒子の隣に黙ってしゃがみ込んだ。顔も上げないまま、黒子の手が迅の制服の裾をつかむ。迅は、それを振りほどかなかった。
遠くのほうで、もう一度、低い唸りが聞こえた。北へ向かって、遠ざかっていく音だった。
「群れが、巣に帰っていきます」
夜空を見上げて、迅が言った。
「十一時を過ぎたので。……今日の分は、終わったんだと思います」
鉄板の上に投げ出された相沢の右手の、爪の先が、赤く汚れていた。