とある風紀委員の殺意追跡   作:黒鏡

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7話『引』

序 査問(六)

 

「九月八日についてです」

 

進行役の男は、紙の束の一番上の一枚を、指先で軽く叩いた。

 

「この日の午後、蜂巣網(ハニカム)の管理装置に、外部から不正に入り込んだ記録が残っています。入り込んだのは、風紀委員(ジャッジメント)第一七七支部の端末からです。心当たりは」

 

「存じませんわ」

 

黒子は、間を置かずに答えた。

 

「その時間、わたくしは支部の窓から外を眺めておりましたので」

 

男は顔を上げずに、紙の余白へ何かを書きつけた。

 

それから、紙の束の下のほうから、一枚の写真を抜き出しかけた。

 

黒子の目に、写真の端が映った。

 

灰色のコンクリートの上に、盾の紋章の入った腕章が置かれている。

 

「――その件は、最後に伺うとおっしゃいましたわ」

 

男の手が止まり、写真は紙の束の下へ戻された。

 

◆

 

一 九月八日 午前六時半

 

篠宮玲奈が住んでいた学生マンションの入口は、朝の日差しが届く前で、まだ薄暗かった。

 

郵便受けの横に、花束がいくつも並んでいる。

 

白いもの、黄色いもの、包装紙に包まれたままのもの。

 

そのうちのいくつかは、もう花びらの縁が茶色く縮れかけていた。

 

写真の中で相沢柚葉がしゃがみ込んでいたのは、ちょうどこのあたりだ。

 

保護施設で警備員(アンチスキル)の聴き取りが終わったのは、夜中の三時過ぎだった。

 

寮に戻っても目は冴えたままで、黒子が寝息を立てはじめたのを確かめてから、美琴はそっと部屋を抜け出してきた。

 

先客がいた。

 

花束の前にしゃがみ込んで、迅がペットボトルの水を少しずつ注いでいる。

 

左腕の包帯は、昨夜のまま、ところどころ茶色く汚れていた。

 

足音に気づいたのか、迅はしゃがんだまま顔を上げた。

 

「おはようございます、御坂さん」

 

「……アンタ、寝てないでしょ」

 

「御坂さんもですよね。目の下、すごいことになってます」

 

「うるさいわね」

 

言い返しながら、美琴は花束の列に目を落とした。

 

いちばん端に、真新しい小さな花束が一つ置かれている。

 

黄色いガーベラが三本だけ、セロファンに包まれていた。

 

「それ、あの子の分?」

 

「はい。開いてたコンビニにあったのは、これだけだったので」

 

迅は、黄色い花の根元に残りの水を注いだ。

 

美琴は迅の隣にしゃがんで、その手元を見下ろした。

 

セロファンに落ちた水滴が、ぽつぽつと音を立てる。

 

「……アンタのせいじゃないわよ」

 

口に出すつもりはなかったのに、言葉のほうが先に出た。

 

「サイレンなんか鳴ってたら、誰だって聞き逃すでしょ。アンタの耳がいくらよくたって、どうにもならないことくらいあるわよ」

 

迅はペットボトルのキャップを閉めてから、美琴のほうを見た。

 

「御坂さんのせいでもないです。電源が落ちてたら、誰にも分かりません」

 

「……分かってる」

 

美琴は膝を抱えて、顎をのせた。

 

「分かってるけど、アンタに言われると腹立つ」

 

「じゃあ、言わないほうがよかったですか」

 

「そういうことじゃないの!」

 

思わず声が大きくなって、美琴は慌てて口を押さえた。

 

管理人室の窓に、明かりがついている。

 

迅は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

 

しばらく、二人とも黙って花束を眺めていた。

 

マンションの前の通りを、新聞を積んだ配送ロボットが一台、小さなモーター音を立てて通り過ぎていく。

 

「篠宮さんの月命日には、また替えに来ます」

 

迅が、ぽつりと言った。

 

「毎月、四日に。花が枯れたままだと、ここを通るたびに気になるので」

 

「……律儀ね、アンタ」

 

「よく言われます」

 

「誰に、とは訊かないわよ」

 

美琴は、黄色いガーベラの花びらを指先でつついた。

 

「……暇だったら、私も来る。暇だったらね」

 

「はい」

 

迅の返事は、それだけだった。

 

美琴はなんとなく顔をそむけて、通りの向こうに目をやった。

 

そのとき、花束の上に、小さな影が降りてきた。

 

親指の爪ほどの、黄色と黒の縞模様。

 

機械蜂だった。

 

白い花束の上に止まり、花びらのあいだに頭を差し入れては、また次の花へ移っていく。

 

美琴の頭の後ろで、規則正しく打つ小さな電流が一つ、かすかに引っかかった。

 

美琴も迅も、身じろぎひとつしなかった。

 

蜂は花束の列を端から端まで渡り歩くと、ふっと浮き上がり、街路樹の並ぶ通りのほうへ飛んでいった。

 

「……今の、こっちを見てましたね」

 

迅が、蜂の消えた方向を見たまま言った。

 

「は?」

 

「羽の向きがずっと、俺たちのほうでした。花のほうじゃなくて」

 

美琴は、通りの先の街路樹を見た。

 

朝の光が、ようやく葉の先に届きはじめている。

 

その葉のあいだを、ほかにも小さな影がいくつか出入りしていた。

 

◆

 

二 九月八日 午後零時二十分

 

「白井さん、見ましたか……!」

 

支部のドアを開けた途端、初春が椅子ごと振り返った。

 

顔から血の気が引いていた。

 

「何をですの?」

 

「これです……!」

 

初春が真ん中のモニターを指さした。

 

黒子は、鞄を下ろすのも忘れてのぞき込んだ。

 

映っていたのは、保護施設の中庭だった。

 

高いところから見下ろす角度で、砂利の上に立つ美琴の姿がはっきり映っている。

 

押し寄せる黒い群れに向かって、砂鉄の鞭を振り回し、腕をなぎ払い、何かを怒鳴っている。

 

音は入っていなかった。

 

代わりに、どこかのバラエティ番組から切り抜いたような笑い声が、美琴が腕を振るたびに重ねられていた。

 

画面の下には、短い一文があった。

 

超電磁砲(レールガン)さん、ガチギレ蜂退治www

 

「十一時四十分に、名前のないアカウントから出たんです。そこからもう、数えきれないくらい転載されてて……。それで、これ……」

 

初春が、右端のモニターに切り替えた。

 

例のタグの集計だった。

 

上から三番目に、見慣れた四文字が並んでいる。

 

御坂美琴。

 

「この一時間で、ものすごい勢いで上がってきてるんです。このままだと、夕方には……」

 

初春は、その先を言わなかった。

 

黒子は、モニターの縁を握った。

 

指先が冷たくなっていくのが、自分でも分かった。

 

「どなたが……どなたがこんなものを……!」

 

「施設のカメラの映像です。警備員の方たちしか見られないはずなのに……」

 

そのとき支部のドアが開いて、美琴と、その後ろから迅が入ってきた。

 

二人とも、目の下に濃い隈を作っている。

 

「……お二人で、いらしたんですの?」

 

口をついて出た言葉に、黒子は自分で驚いた。

 

「下で会っただけよ」

 

美琴は肩をすくめて、まっすぐモニターの前まで歩いてきた。

 

笑い声の重ねられた自分の映像を、腕を組んだまま、しばらく黙って眺めている。

 

「……へえ。私って、こんな顔して戦ってたんだ」

 

「お姉様! 笑っている場合では……!」

 

「笑ってなきゃ、やってらんないでしょ」

 

美琴は、映像から目をそらさずに言った。

 

その横顔を見て、黒子は口をつぐんだ。

 

腕を組んだ美琴の指が、制服の袖をきつく握りしめていた。

 

黒子は、美琴の袖の端をつまんだ。

 

「お姉様が、今夜……」

 

その先が、どうしても言えなかった。

 

美琴は黒子のほうを振り向いて、その頭に、ぽんと手をのせた。

 

「大丈夫よ。私、そう簡単にやられないから」

 

頭にのった手のひらは、少し熱かった。

 

黒子は何も言えないまま、袖をつまむ指に力を込めた。

 

「……初春さん」

 

黒子の頭から手を離して、美琴が言った。

 

「蜂巣網の管理装置、今から私が見る。研究所で見せてもらえなかった、あれ」

 

「えっ……で、でも、それって、勝手に入ったら……」

 

初春が、助けを求めるように黒子を見た。

 

黒子は、ぎゅっと目を閉じた。

 

勝手に覗いたら、今度はわたくしがお姉様を捕まえる側になる――研究所でそう言ったのは、ほかでもない自分だった。

 

目を開けると、黒子は窓のほうへくるりと体を向けた。

 

「わたくしは、今から窓の外を眺めておりますわ。何も見えませんし、何も聞こえませんの」

 

「白井さん……!」

 

「初春。お姉様を手伝って差し上げて」

 

窓の外では、昼の日差しの下、街路樹の葉が揺れていた。

 

後ろで、美琴が小さく笑う気配がした。

 

「……ありがと、黒子」

 

美琴は初春の隣の端末の前に座り、キーボードの横に、右手の指先をそっと置いた。

 

窓の外を眺めているふりをしながら、黒子は横目で、二人の背中とモニターを盗み見ていた。

 

黒い窓が、次々に開いては閉じていく。

 

初春が、隣のモニターで何かを打ち込みながら、ときどき小さく声を上げている。

 

十分ほどして、初春の手が止まった。

 

「……御坂さん。これ」

 

「うん。今、私も見てる」

 

黒子は、もう窓のほうを向いていられなかった。

 

振り返ると、二人のあいだのモニターに、細かい文字の列がびっしりと流れていた。

 

「蜂一匹ごとに、数秒おきに、巣箱へ何かを送ってるの」

 

美琴が、画面を指でなぞった。

 

「花の状態の記録なんて、ほんの少しよ。ほとんどは、こっち」

 

美琴が、流れていた文字の一つを開いた。

 

画面に、一枚の画像が浮かんだ。

 

どこかの交差点を、斜め上から見下ろした写真だった。

 

横断歩道を渡る学生たちの顔の一つ一つが、四角い枠で囲まれている。

 

美琴が次を開くと、商店街、電車の窓、学生寮のベランダと写真が切り替わっていく。

 

どの写真でも、写っている人間の顔が、一つ残らず枠で囲まれていた。

 

「顔よ」

 

美琴の声が、かすれた。

 

「蜂は、街じゅうの人の顔を撮って、どこかに送ってる。受粉なんて、ついでみたいなもの」

 

「受粉と、花の状態の記録だけ……でしたっけ」

 

黒子の後ろで、迅がつぶやいた。

 

黒子は、研究所の会議室の入口に立っていた、灰色のスーツの男を思い出した。

 

「送り先は、どちらですの」

 

「アピス社じゃない。どこのサーバーかも、名前が出てこないの。……こんなもの、学園都市の中に、勝手に置ける人間なんて限られてる」

 

美琴は、もう一枚の写真を開いた。

 

薄暗いマンションの入口を、真上から見下ろした写真だった。

 

郵便受けの横に、花束が並んでいる。

 

その前に、二人の学生がしゃがみ込んでいた。

 

常盤台の制服の少女と、左腕に包帯を巻いた少年。

 

二人の顔は、どちらも四角い枠で囲まれていた。

 

写真の隅の時刻は、今朝の六時四十八分だった。

 

誰も、しばらく口をきかなかった。

 

「……生きてるかぎり、この街では、どこにいても見られてるんですね」

 

迅が、画面の中の自分の顔を見たまま言った。

 

黒子は、その横顔を見上げた。

 

迅はそれきり何も言わず、包帯を巻いた左腕を、右手でそっと押さえていた。

 

「それと、もう一つ」

 

美琴が、画面を切り替えた。

 

「巣箱に入ってくる命令の中に、一本だけ、変な道を通ってるのがあるの。研究所の回線じゃない。もっと古い、使われてないはずの線から入ってきてる。篠宮さんの蜂の経路を書き換えたのも、たぶんこれ」

 

「たどれますの?」

 

「時間はかかる。何重にも、わざと遠回りさせてあるから」

 

美琴は、モニターから目を離さずに言った。

 

「でも、たどる。この先にいる奴が、全部始めたんだから」

 

◆

 

それから、長い午後になった。

 

三時を少し回ったころ、初春が、集計のモニターを見たまま小さく息をのんだ。

 

「御坂さん……一番に、なりました」

 

「知ってる」

 

美琴は、顔も上げずに答えた。

 

モニターの黒い窓が、また一つ開いては閉じる。

 

黒子は、窓際の椅子に座ったまま、何もできずにその背中を見ていた。

 

夕方になると、迅が近くのコンビニでおにぎりを買ってきた。

 

美琴は一つだけ受け取って、二口かじったきり、机の端に置いたままにした。

 

九時が近づいて、外がすっかり暗くなったころだった。

 

「……見つけた」

 

美琴が、椅子の背にもたれて天井を仰いだ。

 

「第二十一学区。研究所から、斜面を一つ越えたところ」

 

初春が、地図を重ねて、建物の登録を引いた。

 

「アピス社の……旧管理棟です。三年前に閉鎖されてて、今は誰も使ってないはずの」

 

黒子は、もう携帯電話を取り出していた。

 

黄泉川の番号を呼び出す。

 

呼び出し音が何度鳴っても、黄泉川は出なかった。

 

もう一度かけても、同じだった。

 

「……出てくださいませんわ」

 

「行くわよ」

 

美琴が、椅子から立ち上がった。

 

◆

 

三 九月八日 午後九時十分

 

支部のビルを出て駅へ向かう近道は、古い雑居ビルのあいだを抜ける細い路地だった。

 

等間隔に吊るされた裸電球が、アスファルトをまだらに照らしている。

 

表通りの車の音が、ビルの壁に跳ね返って遠く聞こえた。

 

前を歩く美琴と黒子の足音が、二つ。

 

自分の足音が、一つ。

 

その後ろに、もう二つ増えたのは、路地に入って二十歩ほど進んだところだった。

 

迅は歩く速さを変えなかった。

 

ゴム底の靴で、体重が重い。

 

二人とも同じ歩幅、同じ間隔でついてくる。

 

前の路地の出口のほうからも、同じ足音が二つ、こちらへ近づいてくるのが聞こえた。

 

「白井先輩」

 

迅は、前を歩く黒子の背中に小声で言った。

 

「前に二人、後ろに二人です。足音の重さからして、たぶん何か着込んでます」

 

黒子の肩が、ぴくりと動いた。

 

振り返りはしなかった。

 

美琴の右手の指先で、小さな火花がぱちりと弾けた。

 

路地の出口の明かりを、二つの影がふさいだ。

 

黒い防護服に、顔の下半分を覆うマスク。

 

手には、警棒のようなものを下げている。

 

後ろの足音も止まった。

 

「風紀委員。今夜はここまでだ」

 

前に立った男の一人が言った。

 

「おとなしく寮へ帰れ。そっちの常盤台の子もだ」

 

「は? アンタたち、誰よ」

 

美琴が一歩前に出かけた。

 

その前に、迅が体を割り込ませた。

 

「御坂さん、撃たないでください」

 

「なんでよ!」

 

「右上の、ビルの角です。カメラがあります」

 

美琴の動きが、ぴたりと止まった。

 

「今撃ったら、また映像が増えます。……ここは、俺がやります」

 

返事を待たずに、迅は後ろを振り返った。

 

背後の男が、警棒を振りかぶるところだった。

 

空気を切る音が、耳の横で鳴る。

 

迅は半歩だけ身を沈めてそれをやり過ごし、男の懐に入り込むと、肘を顎の下へ突き上げた。

 

男の頭が、がくんと後ろへ跳ねる。

 

そのまま足を払うと、男はアスファルトに背中から倒れ込んだ。

 

二人目が、横から組みついてきた。

 

迅は逆らわずに相手の勢いに乗って体を回し、男の腕を抱え込んで、ビルの壁へ叩きつけた。

 

コンクリートに肩を打ちつけた男が、くぐもった呻き声を上げる。

 

前の二人が、こちらへ走り出した。

 

一人目の警棒が、横なぎに来た。

 

迅は左腕でそれを受けた。

 

ばちっ、と青白い光が弾けた。

 

警棒の先から流れた電気が、腕から肩へ駆け上がる。

 

包帯の下で、昨日の傷が開くのが分かった。

 

迅はそのまま警棒ごと男の腕をつかみ、体をひねって背中から地面に叩きつけた。

 

最後の一人が、迅の背後へ回り込もうとした。

 

その足が、止まった。

 

男の両袖が、ビルの壁に縫いとめられていた。

 

袖を貫いた金属の矢が、コンクリートに深々と突き刺さっている。

 

黒子が、太ももの革のベルトから、もう一本の矢を抜き取ったところだった。

 

「動かないでくださいまし。次は、袖では済みませんわよ」

 

男は、壁に張りつけられたまま動かなかった。

 

迅は、肩で息をしながら路地を見回した。

 

倒れた三人は、どれもすぐには起き上がれそうになかった。

 

そのとき、路地の奥の暗がりで、革靴の底がアスファルトを擦る音がした。

 

迅は、そちらへ目をこらした。

 

裸電球の明かりが届かない角を、灰色のスーツの背中が一瞬だけよぎって、消えた。

 

足音は、もう聞こえなかった。

 

「真壁さん! 腕が……!」

 

黒子の声で、迅は自分の左腕に目を落とした。

 

包帯が、肘のあたりから赤く染まりはじめていた。

 

「大丈夫です。それより、急ぎましょう。バスがなくなります」

 

◆

 

四 九月八日 午後九時四十分

 

第二十一学区行きの最終バスには、三人のほかに誰も乗っていなかった。

 

いちばん後ろの席で、美琴は迅の左腕の包帯をほどいていた。

 

黒子が支部の救急箱から持ってきた新しい包帯を見よう見まねで巻いていくが、一周、二周と重ねるうちにどうしても途中でたるんでしまう。

 

「……御坂さん」

 

「何よ」

 

「白井先輩のほうが、上手です」

 

「うるさい!」

 

美琴の前髪の先で、ぱちっと火花が弾けた。

 

迅は、少しも動じずに腕を差し出したままだった。

 

美琴は包帯の端を握ったまま、その横顔をじっと見た。

 

路地で、迅は振り返りもせずに、背後から振り下ろされた警棒をかわしていた。

 

「……ねえ。アンタ、本当にレベル2なの?」

 

「測ったら、そうでした」

 

「何それ」

 

「貸してくださいまし」

 

横から、黒子の手が伸びてきた。

 

黒子は美琴の手から包帯を受け取ると、たるんだところを一度ほどき、手首から肘へ向かって、きっちりと巻き直しはじめた。

 

「まったく……またご自分から前に出て。研修のときから、何度申し上げたら分かってくださいますの」

 

「すみません」

 

「謝るくらいなら、最初からなさらないでくださいまし」

 

口ではそう言いながら、黒子の手つきは、昨日の待合室のときよりもさらに丁寧だった。

 

傷口の上だけ包帯を一重多くして、端を折り返し、そっと押さえる。

 

迅は何も言わずに、その手元を見ていた。

 

美琴は、二人から少しだけ目をそらして、窓の外を眺めた。

 

窓ガラスに映った黒子の横顔が、ほんの少し赤くなっているように見えた。

 

そのとき、美琴のポケットで携帯電話が震えた。

 

黄泉川からだった。

 

美琴はスピーカーに切り替えて、膝の上に置いた。

 

『御坂、今どこだ』

 

「バスの中。第二十一学区に向かってる。……黄泉川先生、私たち」

 

『話はあとだ。先に、こっちの話を聞け』

 

黄泉川の声の後ろで、何人もの大人が早口で話しているのが聞こえた。

 

『上が、十時五十分に蜂巣網を止めると決めた。六十万匹全部に停止命令を出して、巣箱に戻す。十一時になる前に、蜂を一匹も飛ばせないようにするってことだ』

 

「止めなくていいって伝えて」

 

美琴は、携帯電話に顔を寄せた。

 

「電源を落として隠れてる奴は分からなくても、動き出せば分かる。十一時に動いた瞬間に、私が焼く。隠れ家でだって、私に向かってきた分は一匹も通してないんだから。……相沢さんのときみたいなへまは、二度としない」

 

『あたしも、同じことを言った』

 

少し間があって、黄泉川は続けた。

 

『上からの答えは、一つだけだ。超電磁砲を、万に一つでも失うわけにはいかない。……それだけじゃん』

 

通話は、それで切れた。

 

美琴は、黙った携帯電話を握りしめて、窓の外をにらんだ。

 

杉林の黒い影が、窓のすぐ外を流れていく。

 

「お姉様……」

 

黒子が、包帯を巻き終えた手を膝の上で握った。

 

「蜂巣網が止まるなら、今夜のゲームも止まりますわ。それなら、お姉様は――」

 

「止まるなら、止まればいい」

 

美琴は、窓の外を見たまま言った。

 

「でも、それで終わりじゃない。犯人を捕まえなきゃ、来月か、来年か、また誰かが同じことを始める。だから、今夜のうちに行くの」

 

黒子は、何も言わなかった。

 

迅も、巻き直してもらったばかりの腕を膝にのせたまま、黙って前を見ていた。

 

バスが、山道の最初のカーブを曲がった。

 

◆

 

五 九月八日 午後十時二十一分

 

旧管理棟の中は、外より冷えていた。

 

アピス社の研究所から、杉林の斜面を一つ越えた先にある古い建物だった。

 

蜂巣網が今の研究所に移る前に使われていた、巣箱の管理棟だという。

 

入口の扉にかかっていた南京錠は、ペンチで断ち切られて、足元のコンクリートに転がっていた。

 

黒子は懐中電灯で、部屋の中を端から順に照らしていった。

 

灰色のほこりをかぶった金属の棚に、壁際に積み上げられた空の巣箱。

 

蓋の外れた箱の中で、乾いた蜘蛛の巣が光を受けて白く浮かぶ。

 

一番奥の机だけが、ほこりを拭き取られていた。

 

机の上には、ノートパソコンが一台。

 

そこから伸びたケーブルの先に、外付けのハードディスクが一つ。

 

椅子の背には、白衣が一枚、かけたままになっている。

 

「誰もいませんわね」

 

黒子は懐中電灯の光を床に落とした。

 

入口から机まで、ほこりの上に靴の跡が一筋続いている。

 

行きと帰りで二本。

 

どちらの跡にも、まだほこりが積もっていない。

 

「ですけれど、ここを出ていったのは、そう前のことではありませんわ」

 

「パソコンも、点けっぱなしです」

 

入口に立ったまま、迅が言った。

 

首にかけたヘッドホンを片手で押さえ、もう片方の手で左腕を押さえている。

 

バスの中で黒子が巻き直した包帯に、もう赤いものがにじみはじめていた。

 

「冷却ファンが、ずっと同じ速さで回ってます。眠らせてあるんじゃなくて、何か動かしたままにしてある音です。……少しだけ、軸が鳴ってますね」

 

美琴は返事をせずに、まっすぐ机の前まで歩いていった。

 

ノートパソコンの蓋を開け、キーボードの横に右手の指先をそっと置く。

 

暗い液晶にパスワードの入力欄が浮かんだが、美琴が触れているあいだに、それは何も打ち込まれないまま消えた。

 

「開いた」

 

画面の明かりが、美琴の顔を下から青白く照らした。

 

前髪の影が、目元を半分隠している。

 

画面の隅の時計は、十時二十一分を指している。

 

「ハードディスクの中、見てみる」

 

机の上で、ハードディスクが小さく音を立てた。

 

画面に、フォルダが一つだけ開く。

 

中には、ファイルが一つしか入っていなかった。

 

ファイル名は、「参加者」。

 

「……参加者、ですの?」

 

黒子は、美琴の肩越しにのぞき込んだ。

 

美琴が、そのファイルを開く。

 

ずらりと、数字が並んだ。

 

左の列には、十六桁の番号。

 

右の列には、四桁の番号。

 

それが一行ずつ組になって、下へ下へと続いている。

 

美琴が下へ送っても、終わりが見えなかった。

 

「左のは、携帯電話や端末に一台ずつ振られてる識別番号ね。右のは……」

 

美琴の言葉が、そこで止まった。

 

「右のは、機械蜂の番号よ。冥土帰し(ヘヴンキャンセラー)の先生に見せてもらえなかった、あれ」

 

「標的の一覧、ということですの」

 

口に出してから、黒子は、口の中がからからに乾いているのに気づいた。

 

「でも、それにしては多すぎます」

 

迅が、机の横まで来て見下ろした。

 

「篠宮さんと、霧島さんと、相沢さんで三人。今夜の御坂さんを入れても、四人です。四人の一覧なら、こんなに長くはなりません」

 

美琴が、ファイルの一番下まで画面を送った。

 

最後の行の番号が、表示される。

 

二千三百十二。

 

「初春さんに、照らし合わせていただきましょう」

 

黒子が言うより早く、美琴はもう自分の携帯電話を取り出していた。

 

識別番号の最初の十行を、そのまま初春に送る。

 

黒子は初春を呼び出し、スピーカーに切り替えて机の端に置いた。

 

『白井さん? 届きました。これ、何の番号ですか』

 

「それを知りたいのですわ。どなたの端末のものか、調べていただけますかしら。急ぎですの」

 

『分かりました。ちょっと待ってくださいね』

 

スピーカーの向こうで、初春がキーボードを叩きはじめた。

 

軽い打鍵の音が、途切れずに続く。

 

管理棟の中で聞こえるのは、その音と、ノートパソコンの冷却ファンの音だけだった。

 

三十秒ほどして、打鍵の音が止まった。

 

『……あの。最初の十個、全部、出ました。どれも学生の携帯電話です。中学生も、高校生もいます。それで、この十人なんですけど……』

 

初春の言葉が、そこで一度途切れた。

 

スピーカーから、初春が息を吸う音だけが聞こえてきた。

 

『十人とも、「#死ね」のタグを付けて、誰かの名前を書き込んでます。篠宮さんの名前を書いた人も、霧島さんの名前を書いた人も、相沢さんの名前を書いた人もいて……今日の昼からあとに、御坂さんの名前を書いた人も、います』

 

誰も、すぐには口を開かなかった。

 

美琴は目を落としたまま、動かなかった。

 

その目が、右の列の数字を上から順に追っている。

 

一行に一つずつ、蜂の番号が並んでいた。

 

同じ番号は、二度と出てこない。

 

一人に、一匹。

 

美琴の唇が、声を出さずにそう動いた。

 

「……篠宮さんたちは」

 

最初に口を開いたのは、迅だった。

 

包帯の上から腕を押さえる右手の指だけが、白くなるほど力んでいた。

 

「篠宮さんも、霧島さんも、選ばれたのは、みんなに名前を書かせるためだったんですね。誰かが本当に死ぬって分かれば、面白がって書く人が増えます。そうやって書いた人が、この表に一行ずつ足されていった。……犯人が殺したかったのは、最初からこっちのほうだったんです」

 

迅は、並んだ数字を指さしもしなかった。

 

ただ、まっすぐに見ていた。

 

「死ねって、書いた人たちのほうです」

 

冷却ファンの回る音が、やけに大きく耳についた。

 

黒子は口を開きかけて、また閉じた。

 

言うべき言葉が、一つも見つからなかった。

 

美琴が、ノートパソコンの縁を両手で握った。

 

指先から、ぱちりと青白い火花が散る。

 

いつもなら黒子がすぐにたしなめるところだったが、今は誰も、それを止めなかった。

 

そのとき、迅がふと顔を上げた。

 

「……ディスクが、鳴ってます」

 

「え?」

 

美琴が振り向いた。

 

迅は、机の上のハードディスクを見ていた。

 

「中で、何か書き込んでる音がします。読むときの音とは違うんです。……今、また一回」

 

美琴が、ファイルの一番下まで画面を送り直した。

 

最後の行の番号は、二千三百十三になっていた。

 

三人で見ているうちに、二千三百十四になった。

 

増えた一行の右の列にも、四桁の蜂の番号が、一つ付いていた。

 

「今も、書いてるのよ」

 

美琴の言葉の終わりが、かすれた。

 

「今この瞬間も、どこかで誰かが、私の名前に死ねって付けて投稿してる。私が死ぬところを見たいって、笑いながら打ってるのかもしれない。そのたびに、この表に一行増えて、その人のところへ飛んでいく蜂が、もう一匹ずつ決まってくのよ。……誰も、そんなこと知らないで」

 

カチ、と小さな音が、黒子の耳にも届いた。

 

迅でなくても聞き取れるほど、管理棟の中は静まり返っていた。

 

最後の行が、二千三百十五になった。

 

三人とも、画面から目を離せなかった。

 

数字が一つ増えるたびに、学園都市のどこかで、一人の学生のところへ飛んでいく蜂が、また一匹決まる。

 

「……でも、どうやって」

 

黒子は、ようやく声を絞り出した。

 

「二千人を超える方々を、どうやって一度に。夜の十一時に一人ずつ、というのが、このゲームの決まりでしたでしょう。そのやり方では、何年かかっても終わりませんわ」

 

美琴は答えずに、ファイルを閉じた。

 

それから、ノートパソコンの中を探りはじめた。

 

黒い窓が次々に開いては閉じていく。

 

文字の列が、目で追えない速さで流れては消える。

 

美琴の指先は、キーボードの横に置かれたまま動いていなかった。

 

流れていた文字が、ある窓のところでぴたりと止まった。

 

「……あった」

 

美琴が、そこに出た一行を読み上げた。

 

『巣箱が外部から停止命令を受け取った時点で、参加者に割り当てた全個体に、最終動作を実行させる』

 

「最終動作……」

 

黒子は、その言葉をくり返した。

 

意味を考えるより先に、指先が冷たくなった。

 

今度の沈黙は、さっきよりも長かった。

 

黒子は、左の手首の時計を見た。

 

十時三十八分。

 

十時五十分には、六十万匹すべてに停止命令が出される。

 

「止めようとした、その瞬間に……二千人が、全員……」

 

黒子の言葉は、最後まで続かなかった。

 

迅は、もう携帯電話を耳に当てていた。

 

呼び出し音が、静まり返った管理棟の中に一回、二回と響く。

 

五回鳴ったところで、迅は電話を耳から離した。

 

「黄泉川先生、出ません。たぶん、止める準備の真っ最中です」

 

美琴は、画面に開いたままの一行を見下ろしていた。

 

「私が一番になれば、上は必ず止める。私がいらないって言ったって、聞きやしない。……隠れ家の映像を流したのも、きっとこいつよ。犯人は、最初からそこまで分かってたんだわ」

 

誰に聞かせるでもなく、美琴はつぶやいた。

 

ノートパソコンの縁を握る指の関節が、白く浮いていた。

 

「……研究所まで、跳びますわ」

 

黒子は、懐中電灯を迅の手に押しつけた。

 

「斜面を一つ越えるだけですもの。続けて跳べば、二分もかかりません。黄泉川先生をつかまえて、命令を出させないようにいたします。お姉様は、ここからそのやり方を止められないか、探してくださいまし。真壁さんは、先生に電話をかけ続けて」

 

「白井先輩」

 

迅が、懐中電灯を握ったまま言った。

 

「研究所の中で、あの灰色のスーツの男に会ったら、無理はしないでください」

 

「真壁さんに言われたくはありませんわね」

 

言い返して、黒子は二人の顔を一度だけ見た。

 

美琴はもう、画面に向き直っていた。

 

黒い窓が、また次々と開きはじめる。

 

迅は、懐中電灯を握ったまま、黒子から目をそらさなかった。

 

黒子は、頭の中で次に立つ場所を決めた。

 

次の瞬間、足の裏に、管理棟の屋根の冷たいトタンが触れた。

 

夜風が、頬に当たる。

 

杉林の斜面の向こうに、研究所の窓の明かりが白く並んでいた。

 

左の手首の時計は、十時三十九分を指していた。

 

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