とある風紀委員の殺意追跡 作:黒鏡
一 九月八日 午後十時三十九分
一度目で、管理棟の屋根から杉林の上へ。二度目で、斜面の中ほどに立つ鉄塔の足場へ。
夜の空気が、跳ぶたびに頬を叩いた。足の裏が冷たい鉄を踏み、次の瞬間には湿った土を踏み、また次の瞬間には何もない宙に浮いている。着地点を一つ決めるたびに、頭の芯がきしんだ。
五度目で研究所の中庭に降り、六度目で、昨日通された会議室の前の廊下に立った。廊下には誰もいなかった。会議室の扉を開けても、明かりの消えた部屋に長机が並んでいるだけだった。
「黄泉川先生……どちらに……!」
階段を駆け上がり、二階の廊下を走った。扉という扉に、部屋の名前の札が下がっている。資料室、第二実験室、飼育管理室。どれも違う。三階へ跳んだ。
角を曲がった先で、段ボール箱を抱えた白衣の職員が、驚いて壁に張りついた。
「中央の監視室は、どちらですの!」
「よ、四階の、いちばん奥……」
礼を言う間も惜しんで、黒子は跳んだ。四階の廊下の突き当たりに、「中央監視室」と書かれた札が下がっていた。左の手首の時計は、十時四十七分を指している。
黒子は、扉に体ごとぶつかるようにして押し開けた。
部屋の壁一面が、巨大なモニターになっていた。学園都市の地図の上に、白い点が数えきれないほど散らばっている。その前に、
「白井!? お前、どうしてここに――」
振り返った黄泉川に、黒子は息を整える間もなく叫んだ。
「止めてはいけませんわ! 巣箱に停止命令が出た瞬間、例のタグを書き込んだ二千人あまりのところへ、一斉に蜂が飛ぶ仕掛けになっていますの! 止めれば、二千人が死にますわ!」
部屋の中が、しんと静まり返った。主任研究員の手が操作台の上で止まり、黄泉川の顔から、さっと血の気が引いた。
最初に口を開いたのは、灰色のスーツの男だった。
「根拠は」
「旧管理棟の、犯人のパソコンの中ですわ! この目で見ましたの! ファイルも、仕掛けの命令も――」
「その現物は、ここにあるのか」
黒子は言葉に詰まった。ファイルも、あの一行も、管理棟のノートパソコンの中だ。黒子の手の中にあるのは、携帯電話一つしかない。
「お姉様が、今も向こうで調べていらっしゃいます。すぐに送っていただけば――」
「時間がない」
男は、左の手首の時計に目を落とした。
「十一時になれば、超電磁砲が狙われる。中学生の推測一つで、それを危険にさらすわけにはいかない」
「待て」
黄泉川が、男の前に立ちふさがった。
「白井は、いい加減なことを言う子じゃない。せめて、御坂からの連絡を――」
「上の判断だ」
男は黄泉川の肩越しに、主任研究員を見下ろした。
「予定どおりにやれ」
主任研究員は、黒子と男の顔を何度も見比べた。それから震える指で、ボタンの透明な蓋を跳ね上げた。
「お願いです、押さないでくださいまし……!」
黒子は操作台へ駆け寄ろうとしたが、その腕を、黄泉川の部下の警備員が反射的につかんで引き止める。
壁の時計が、十時五十分を示した。
「――三、二、一」
男の声に合わせて、主任研究員の指が、赤いボタンを押し込んだ。
警備員の手を振りほどくことも忘れて、黒子は壁のモニターを見上げた。地図の上の白い点が、一斉に動きはじめた。街路樹の並ぶ通りから、公園から、学生寮の屋根から、白い点が流れるように巣箱の位置へ吸い寄せられていく。
その流れに逆らうように、白い点が一つ、赤く変わった。続けて、もう一つ。十、百。巣箱という巣箱から赤い点が次々にこぼれ出し、白い点の流れを突き抜けて学園都市じゅうへ散らばっていく。第七学区へ、第十五学区へ、第十八学区へ。地図の上が、見るまに赤く染まっていった。
「……え?」
主任研究員が、操作台の画面を何度も叩いた。
「止めたはずです……! 停止命令は、ちゃんと、全部の巣箱に……! どうして……!」
灰色のスーツの男が、耳の機械を押さえた。一度も表情を変えなかったその口元が、何か短い言葉の形に動いた。黄泉川が男の胸ぐらをつかんだが、男は抵抗しなかった。耳の機械に当てた指だけが、かすかに震えていた。
「だから……申し上げましたのに……」
黒子の口から出たのは、それだけだった。腕をつかんでいた警備員の手が、力なく離れた。誰も何も言わないまま、赤い点だけが音もなく増えていく。
黒子は、その場に膝をついた。スカートのポケットで、携帯電話が震えた。
『黒子……!』
美琴だった。
『止まらない……! どこから入っても、巣箱の中に直接書き込まれてて……私じゃ、止められない……!』
◆
二 九月八日 午後十時五十分
旧管理棟の窓の外で、斜面が鳴りはじめた。最初は、遠い耳鳴りのようだった。それが何百、何千と重なって、杉林全体が低く唸り出す。斜面に並んだ二百の巣箱から、何かが一斉に飛び立っていく音だった。
「……来た」
窓際に立った迅が、外を見たまま言った。
「戻っていく音と、出ていく音が、混ざってます。出ていくほうは……全部、ばらばらの方向に散っていきます」
美琴はノートパソコンの縁を握りしめたまま、画面をにらんでいた。黒い窓がいくつも開いたままになっていて、どの窓からも同じ一行が返ってくる。
「ふざけ、ないでよ……!」
美琴は、両手をキーボードの上に叩きつけた。青白い火花が液晶の縁を走るが、画面の文字は変わらなかった。
机の端に置いた携帯電話から、初春の声がした。
『御坂さん……白井さん……』
『警備員の無線が、ずっと鳴りっぱなしで……第七学区の寮で、急に頭を押さえて倒れた学生がいるって……第十五学区でも、第十八学区でも……あちこちで、同じことが……っ』
その先は言葉にならず、スピーカーの向こうで、初春がしゃくり上げる音だけが続いた。
美琴は、窓の外の暗い斜面を見た。蜂の唸りは、もう遠ざかりはじめていた。
十一時になった。美琴は自分の肩の上を見やり、首筋に手を当てて、頭の後ろであの規則正しい電流を探した。何も来なかった。
「……御坂さんの蜂は、来ません」
窓際で、迅が言った。
「止まった蜂の中に、入ってたんだと思います。御坂さんのところへ来るはずだった一匹は、ちゃんと、巣箱に帰りました」
美琴の喉の奥から、乾いた音が漏れた。笑い声のようで、笑い声ではなかった。
「……何それ」
美琴は、両手で顔を覆った。
「私だけ、助かったってこと? 私を助けるために止めて、そのせいで、二千人……」
迅は何も言わなかった。窓際から離れて美琴のそばまで来ると、机の端に腰をあずけ、肩が触れそうな距離で黙って画面を見ている。
美琴は、指のあいだから画面を見た。「参加者」のファイルは開いたままになっていた。最後の行の番号は、二千三百四十一。いつまで待っても、それ以上は増えなかった。
十一時半を過ぎたころ、迅がゆっくりと顔を上げた。
「……静かになりました」
窓の外の斜面からは、もう何の音もしなかった。
◆
終 査問
「最後に、二つ伺います」
進行役の男は、紙の束の最後の数枚を机の上で揃えた。天井の送風口は相変わらず乾いた温風を吐き出しており、両脇の男女は、一時間前と同じ姿勢のまま手元の用紙にペンを走らせていた。
「一つ目。最初に後へ回した質問です。九月八日の午後、例のゲームの投票で一位になっていたのは」
今度は、言葉が喉に引っかからなかった。
「御坂美琴さんですわ」
「その夜、
黒子は、男の目を見た。窓のない部屋で、壁の時計もないのに、送風口の唸りだけが時間が進んでいることを教えていた。
「蜂巣網の設計目的に関する発言は、記録の対象外、でしたわね」
男はペンの先を紙から浮かせ、しばらく黒子の顔を見ていたが、やがて何も書かずに次の紙をめくった。
「二つ目。真壁迅について」
黒子は、膝の上で指を組み直した。
「一月八日の早朝、第二十一学区のダムの点検通路で、
男は、紙の上の文字を目で追いながら続けた。
「それから、もう一点。真壁迅の
「存じませんわ」
「前の晩、一月七日の午後十一時過ぎに、真壁迅からあなたの携帯電話へ、通話の記録が残っています。十一分間。何を話しましたか」
黒子はすぐには答えなかった。膝の上で組んだ指の関節が、白く浮き上がっていく。
「……泣いて、いらっしゃいましたわ」
「あの方が泣くのを、わたくしは初めて聞きましたの。九月の夜のことを、ずっと話していらっしゃいました。止められたはずだった、と。二千三百四十一人、一人も止められなかった、と。何度も、同じことを」
黒子は、組んだ指に目を落とした。
「あの方は、九月から毎月四日になると、篠宮さんのマンションの入口へ、花を替えに行っていましたの。お姉様も、たいてい一緒でした。一月の四日も、二人で行かれたはずですわ。……そのとき、もう決めていらしたのかどうかは、わたくしには分かりません」
送風口の唸りだけが、しばらく部屋の中に響いていた。
「あの方は、わたくしが思っていたよりずっと、繊細な方でしたの」
黒子はそれ以上は何も言わず、ただ深く頭を下げた。膝の上に落ちた前髪が、かすかに震えていた。
男は長いあいだ黒子の頭を見下ろしていたが、やがて紙の束の上にペンを置いた。
「以上です。本査問を終わります」
両脇の男女が、同時にペンを止めた。
◆
同じころ、第十学区の外れの古いアパートの一室で、テレビがついていた。画面には、警備員本部庁舎の正門が映っていた。灰色の空の下、門の前にテレビ局の腕章を付けた記者が何人も並んでいる。
『本日、昨年九月のいわゆる「報いのゲーム」事件をめぐる査問が、非公開で行われました。警備員の発表によりますと、事件を起こしたとされる元研究員の男の行方は、依然として分かっておらず――』
画面が切り替わり、正門から出てくる一人の少女をカメラが遠くから映した。常盤台中学の冬服に、風紀委員の腕章。少女はうつむいたまま、記者たちのあいだを足早に抜けていく。
その画面を、畳の上にあぐらをかいた男が黙って見ていた。四十代の終わりくらいの、痩せた男だった。伸び放題の髪が肩にかかり、顎は無精ひげに覆われている。
男はリモコンでテレビを消した。台所の流しの前に立つと、引き出しから鋏を取り出し、肩まで伸びた髪をつかんで根元から切っていく。ざく、ざく、と乾いた音がして、白いものの混じった髪の束が流しのステンレスに落ちていった。それから、電気かみそりでひげを剃り落とした。曇った鏡に映った顔は、さっきまでの男とは別人だった。
押し入れから出した紺の上着をはおり、黒縁の眼鏡をかける。最後に、男は机の上のノートパソコンを閉じて鞄にしまった。蓋を閉じる直前まで、冷却ファンが、かすかに軸を鳴らして回っていた。
部屋の明かりを消して外へ出ると、二月の風の中、葉の落ちた街路樹の下を駅のほうへ歩いていった。どの枝にも、もう機械蜂の影はなかった。
◆
二月の風は、庁舎の階段を下りたところで、いきなり頬を刺した。暖房の効きすぎた部屋から出てきたばかりの体には、冷たさが痛いほどだった。
黒子は冬服のブレザーの前をかき合わせた。正門の外には、テレビ局のカメラが何台も並んでいる。黒子は顔を伏せたまま、その前を足早に通り過ぎた。腕章にかけた指を止め、外さないまま、葉の落ちた街路樹の下を一人で歩いた。九月には、この枝のあいだを黄色と黒の小さな影がいくつも出入りしていたが、今は乾いた枝が風に揺れて、こすれ合う音がするだけだ。
横断歩道の手前で、信号が赤に変わった。黒子は立ち止まって、白い息を吐いた。向かいのビルの壁の大型ビジョンでは、さっきの庁舎の前の映像がもう一度流れていた。うつむいて歩く、自分の姿だった。
そのとき、スカートのポケットで携帯電話が震えた。メッセージが一件届いている。差出人の欄には、番号も名前も表示されていない。黒子が画面を開くと、本文は一言だけだった。
『犯人を見つけました』
黒子の口の端が、ゆっくりと持ち上がった。ひと月分の息を、黒子はようやく吐き出した。白い息が、冬の空へほどけていく。
信号が赤から青に変わる。
黒子は携帯電話をポケットにしまい、腕章の位置を、指先で一度だけ直した。頭の中で次の転移先の演算を始める。
足の裏から、アスファルトの硬さが消えた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。