ほれぼれ   作:リネン_


原作:Dr.STONE
タグ:オリ主 Dr.STONE
氷月と石像修復係の話 | もろもろ捏造
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2026年1月3日ウェブサイトにて発表
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ほれぼれ

 伐採された木が倒れ行く音が響いている。落とされた枝葉から青い死臭が漂っている。森を荒らす無法者を、野鳥らが遠巻きに眺めては、何がしかを囁き合っている。そこへさらに異邦人が登場し、野鳥はかまびすしい鳴き声とともに飛び立った。異邦人はその騒々しさに表情を少しく曇らせ、飛び立つ野鳥を撃ち殺さんばかりの鋭い視線を投げかける。しかし、野鳥は遥か上空を悠々と飛んだかと思うと、すぐに梢の波間に姿を消した。異邦人の視線は野鳥を深追いすることはなく、伐採され、製材され、横たわる木々の屍に移る。

 

「すみません。この木片を少々いただいていいですか?」

 

 異邦人は、樹木の伐採、製材を行っている樵夫(しょうふ)の男に声をかけた。壮年と初老の間ほどの年齢に見える、山仕事に忙しそうな樵夫は異邦人を見上げた。異邦人は、それほど小柄ではないはずの樵夫が見上げるほどに上背のある男だった。肩から腿までを覆うマント状の衣服の下に、鍛えられた肉体が見えた。樵夫は一目、そのいかにも強靭そうな男の姿を見て、少し考えるような間を持たせた後に答えることとした。声をかけたのが貧弱そうな若人であれば黙殺していたのだろう。肉体労働に従事する男らしい、強者への自動的な畏怖のような敬意のようなものを含んだ応答だった。

 

「木片? おう、かまわねぇぜ。何に使うんだ?」

「彫刻です」

「はぁ、彫刻、ねぇ」

 

 幹から落とした枝が放られ、再び山の形を成しているところから、マントの男は人の腕ほどの太さの枝を拾い上げる。その枝から伸びるさらに細かな枝を落としたいと、樵夫の方を振り返る。樵夫は切り倒したばかりの、まだ皮がついたまま横たわる丸太に腰掛け、タバコに火をつけていた。マントの男は眉をひそめる。

 

「タバコ、危ないですよ」

「お、おお。そうだな、今日は風が強えからやめとくか」

 

 この一本吸い終わったらな。樵夫はニヤニヤと笑いながらタバコを持つ手を小さくあげる。その一本をマントの男が奪い取る。山火事にでもなったらどうするんですか。季節は樹木の伐採に適した冬。空気は乾燥しており、北寄りの風が時に強く吹く日だ。小さな火種が大きな火災につながらないともいえない。この森の南側には人が住む村がある。森が焼けるだけに被害は止まらない可能性を、この木こりの男は思いもつかないというのか。マントの男は鋭い眼光で樵夫を見下ろしながら、火のついたタバコを素手で握りつぶした。呆気にとられた樵夫は、しかし、すぐにまたニヤニヤとした表情に戻り、「おかてぇなぁ。モテねぇぞ」と笑っていた。

 

「ちゃんとしてください」

「へぇへぇ」

 

 マントの男は樵夫から借りたナタで枝を落とす。波立った気持ちを込めてナタを振り下ろす。相手の肉体的優位性を確認してからのあからさまな態度も、山火事というリスクを鑑みずにタバコに火をつける不用意さも、人からの忠告を真摯に受け止めない不誠実さも、他者を馬鹿にしたようなニヤけた表情も、樵夫のあらゆる部分がマントの男を苛立たせていた。“ちゃんと”していない人間は、いつだって男を苛立たせた。しかし、今はその気持ちを飲み込むことにした。小枝を落とした木片の具合に心を寄せていた。マントの男が注意深く枝振りを眺めていると、別の枝が視界に差し出された。

 

「彫刻ってんなら、こっちのがいいぜ。そっちは硬すぎる」

 

 枝を差し出したのは樵夫だった。ロケット開発が本格化した最近、復活したというこの樵夫の男は石化前、大工見習いやら林業の日雇いやらをしていたらしく、樹木の種類、木材の性質について、マントの男より詳しいとのことだった。マントの男は少し躊躇しながら、枝を受け取った。選ぼうとしていた枝と同じほどの太さだが、ついている小枝が少なく、その点でも彫刻に向いていそうだった。

 

「どうも、ありがとうございます」

「なんのなんの」

 

 樵夫はむずがゆそうに笑った。無精髭をザリザリと撫でている。照れ隠しのような仕草だった。マントの男は、いくらかこの“ちゃんと”していない樵夫への認識が改まったようで、一人きりで森にいて危なくないか、困ったことはないかと聞いた。マントの男はこのストーンワールドで先行して復活した人間の一人であり、村を取り仕切る人間との交渉はいくらか優位性を持っていた。権限をふりかざすつもりはないが、世話になった人間に困りごとがあれば何か融通してやりたい、そういった報恩の気持ちだった。マントの男が少しばかり心を開いたような様子を見て、樵夫はやはり不器用そうに笑った。あのニヤニヤとした表情も、この樵夫の不器用さに起因するものだったのかもしれなかった。

 

「じゃ、彫刻ができたら見してくれや」

 

 製材した木材を取りに別の男たちがやってきたところで、マントの男は去った。樵夫はニヤニヤとした顔でマントの男を見送った。

 

-

 

 樵夫が切り倒していた樹木が新緑に染まる少し前のことだ。ひとつ前の冬が終わったばかりだった。凍えた大地がほころんで、農業をはじめとした各産業が活気付く春の初め、多くの石像から人間が復活させられた。活気付く産業を支える人員の補充だった。石像ひとつひとつへの個人特定はもはや行われず、選出基準といえば、二十代から五十代程度の容貌かどうか、つまり産業に従事することが可能な働き盛りの年齢かどうか程度のものだった。中には怠惰な人間もいれば、悪事を企むような性質の人間も、体が弱く働くことの難しい人間もいた。有能さを買われて選定された先行復活者たちとは異なる資質を持つ人間が大半となった。こうした人数の増加に伴って、起こるトラブルは指数関数的に増えたのはいうまでもない。

 

「では、陽クン。この方たちは調停員に引き渡してください」

「りょ〜。お疲れ、氷月」

 

 暴力を伴う諍いがあった。原因はちょっとした口喧嘩だそうだ。この喧嘩の仲裁に入ったのが氷月と呼ばれたマントの男だった。氷月と、争いごとで暴れた人間を氷月から引き継いだ陽という男は、まだまともな司法も行政も、もちろん立法もない村において、治安維持装置としての武力を担っている人間である。一方、人員が増えたこの頃は、単純な武力だけによる治安維持ではもはや心もとないということで、幾人かが持ち回りで調停員をつとめ、公的な場で諍いの調停を行うこともあった。復活者たちは真似事のような司法でも、かつての文明の残り香としての安心感と、ある程度の客観性をもったシステムへの信頼を持っているようで、今のところは大きな問題もなく回っていた。

 

 ただ、こうした諍いが少なくない数起こっていることに、氷月個人は多少の疲労を感じていた。先行復活者だけの小さなコミュニティでは起こらなかった事態だ。“ちゃんと”していない人間が増えたから。氷月の掲げる理念に照らし合わせると、そう結論づけられた。氷月の思う“ちゃんと”している人間だけのサンクチュアリが形成できていたら、このような無意味な争いなど起こらなかったのだろうか。かつて抱いた選民思想の残滓が体内に燻らないこともなかった。

 

「あなたはちゃんとしてますね」

「そりゃどうも」

 

 農作業場での諍いの仲裁から村の中心部へ戻る途中で、氷月はある小屋の前を通りかかった。小屋の外で何かの道具の手入れをしている女がいた。何かの職人だろう。筆や小刀などを、一心に、洗ったり、といだりしていた。道具が丁寧に手入れされている光景に、なぜか逆立っていた心が撫で付けられるような気がした氷月は、吸い寄せられるようにそこへ近づいた。そして思わず声をかけた。道具の手入れに夢中だった女は声をかけてきた氷月をちらりと見上げ、短く返事をした。

 

 女が一人でいると声をかけてくる男がいないでもない。邪険にして悪かった。女は氷月の登場に少なくない警戒心を抱いていた理由を述べ、また、それが杞憂だったことを詫びた。氷月が女の道具の扱いが丁寧である点について単純な賞賛を口にしたことで、女はこのマント姿の大男が女という種類ではなく、職業人としての自分、むしろ、自分の作業そのものへ興味を持ったことを理解したあとのことだった。

 

「石像の修復、ですか」

「そ」

 

 女の職場である小さな小屋の中に並んだ石像を見下ろして、氷月は驚嘆の吐息を漏らした。女は割れや欠けのある石像の修復を仕事としていた。農地や住宅地として開発が進められた土地から発見された石像の中には、そういった瑕疵のあるものが少なくなかった。開発行為によって割れや欠けが生じた場合、即座に修復され復活の順番待ちへと並べられるが、女が修復している石像は、復活した人間の営みによっての瑕疵でなく、長い年月と自然現象によって破壊されたものだ。つまり、修復したところで、元の通りの姿に復活する見込みがない石像、というわけである。女は限りある労働力を死人に割いていた。

 

 これは、科学王国の合理性や未来志向とは方向性の異なる作業だったが、すでに、先行復活者の中に合理性や未来志向を度外視して、こうした作業を重要視する人間がいたらしく、その人間から引き継いだ仕事だということだった。氷月は案外人情派な科学王国のリーダーとその旧友たちの顔を思い浮かべる。復活は見込めないとしても、この石像に会いたい人間はいるだろう。復活が見込めないとしても、割れや欠けが少ない方が良いだろう。そう考えるだろう、彼らの人間性を思い浮かべていた。

 

「杠ちゃんは女神か菩薩か何かかね。こんなこと、思いつかないよ、普通。いや、思いついたとしても実行しない、って言った方がいいか」

「彼女はちゃんとしてますから」

 

 ちゃんとしてる、ねぇ。石像修復の女は喉を鳴らすように笑った。作業用のスツールを氷月にすすめ、自分は床に敷かれたむしろの上に腰を下ろした。女性が床の上で自分が椅子というのも気が引けたが、すすめられたものを断るのもまた気が引けたため、氷月は大人しくスツールに腰を据えた。その様子にもまた、女は喉を鳴らすように笑った。

 

「ちゃんとしてない人が嫌いなんだ?」

 

 手持ち無沙汰なのか、手近にあった小筆を手に取って、穂先を指で撫でている女の無関心そう、かつ、砕けた様子に、氷月は思わず本音を漏らした。

 

「はぁ、まぁ、そうですね」

「はっはっ。正直なやつだな」

 

 元通りにならないほど風化した石像、つまるところの“死体”が居並ぶ部屋にしては快活すぎる笑い声が響いた。会ったばかりの女の性質を見極められない氷月は、小屋の外においてどこか儀式めいた手付きで道具の手入れをしていた女の、真剣で、それゆえに清浄さ漂う横顔と、この他者の死が濃厚に詰まった部屋での粗野な言動との差を感じつつも、しかし、嫌悪を抱くほどではなかった。それらは共存しうると思ったからだ。

 

「さっきの喧嘩、見てたよ。仲裁、お疲れ様。あいつら、しょうもないことで良くまぁあんなに熱くなれるわな」

 

 女は首をすくめる。全くです。氷月が返事をすると、女はニヤリと笑った。他者の陰口で仲を深めるなど、ちゃんとしていない人間のすることのように思えたが、苛立つことの多い日々を送っていた氷月にとって自身の内心を共有、共感できるのは素直に心地がよかった。

 

 この突然の訪問以来、時折、氷月は女の仕事を手伝うようになった。石像の運搬は女の手には余ったからだ。先日のケンカの仲裁やそれらを未然に防ぐための巡回といった警らの仕事は常にあるものでもなく、これまでも遊軍的に各セクションの助っ人をして回っていたのだが、女の仕事を見てから、自発的に石像修復のための石像運搬を申し出たのだった。修復前の石像を運び込み、修復の終わった石像を運び出す。それだけだが、あの粗野な物言いをする女の丁寧な仕事が施された石像を運ぶことに、どこか安寧のようなものを感じていたのも見過ごせない事実であった。

 

「あんた、人殺しって本当?」

 

 女の仕事場に出入りするようになってからしばらく経った日だった。食堂からテイクアウトした昼食を小屋の外で共に食べていた。アジフライが挟まったサンドイッチだった。ポロポロと落ちるフライの衣が服に付着するのを防ぐため、女は作業用にストックしているぼろ布を胸から膝にかけた。食べ物のカスが石像修復に影響を与えないようにという配慮だった。氷月はその徹底された仕事への忠誠に目を奪われながら、いたって平坦な返事をした。

 

「随分、直接的ですね」

「遠回しなのは性に合わないからね」

 

 女もまた、言葉のエキセントリックさに見合わない平静な声色で続けた。この質問の意図をはかろうと、氷月は自分と並んで木陰に腰を下ろしている女の横顔を一瞥したが、女は大きい口でサンドイッチにかぶりついているだけだった。

 

「本当ですよ。関わりたくなければ、異動しますが」

 

 人を殺めるような人間が石像修復の仕事に関わるべきでない。人を殺めるような人間が仕事仲間など恐ろしい。女の質問の裏にあるものとすればこのあたりだろう。氷月は勝手に推論する。自身の行いを反省することはあれど悔いることはない。しかし、自ら異動の提案をしながらも、女の仕事が見れなくなるのは残念だと感じている自分を発見し、少し動揺してもいた。

 

「そんなこと言ってないでしょ。噂を聞いたから、確かめたかっただけ」

 

 女はそう言って水筒から水を飲んだ。喉がごくごくと鳴っていた。いよいよ女の意図が分からなくなった氷月は、波打つ細い喉を見つめるだけだった。

 

「あんたが“ちゃんと”してないやつが嫌いなの、私、すっごく分かっちゃうんだよね。たぶん、私たち、似たもの同士なんだと思う。あんたが道場の跡取りだって聞いて、さらにそう思った」

 

 仕事に真面目なために同じ職場に出入りしていていても大した交流をしていない二人ではあったが、氷月と女が互いに親近感を抱いているのは明らかだった。互いの顔を見るとどこか安心感があった。この親近感や安心感は、彼らの真面目な性格という共通点や、互いの仕事ぶりへの敬意だけでなく、出自が似ているところにも起因している、女はそう言うのだった。

 

 出自の類似というのは、二人は共に伝統の継承者であった、という点である。氷月は伝統武道の家に生まれ、幼い日から鍛錬を積み、後継としての聞こえも高い人物であり、女は伝統工芸の家に生まれ、幼い日から腕を磨き、工房の一角を任せられつつある人物であった。石化光線の降り注ぐ3700年前の世界でのことだ。

 

「私も、ちゃんとしてない人が嫌い。ちゃんとしてないで生きていられる図太さも、度胸も、余裕も、環境も、ちゃんとしないでも生きてこられたという事実も、全部が、うらやましいから。恨めしいから」

 

 伝統仏具の製作をする工房が女の生まれた家だった。工房は祖父と父が中心となっているほんの小さな工房で、ゆくゆくは女がその技術と工房を継ぐことになっていた。

 

 繊細な曲線を彫り抜く技術や、扱っていた仏具という性質から、石像修復の仕事を任されることとなったらしい。女の作る仏具は木製であり、石の仕事など門外漢ではあったが、実際携わってみると自分の技能や性質はこの仕事に適していると感じた、女はかつて氷月にそう語っていた。

 

「工房の仕事はさ、最初は素直にじいちゃんすげーって思って、私もやりたい!ってなってやらせてもらったのが初めだったんだ。やってみたら自分が結構器用だってことがわかって、じいちゃんも父ちゃんも私が器用なことを喜んでくれて、それが嬉しくて、得意になって。もっと褒められたくて毎日のように工房に行っては真似事をした。実際、歳の割には上手くできたし、自分達が受け継いできた伝統を孫が子供が自分からやりたいって言ってくれるのが嬉しいって顔をしてるじいちゃんたちへの善意のつもりでさえあったりして」

 

 子供は移り気で、自分から手を出した割に、工房での修行の真似事がだんだんと楽しくなくなってきた。友達と一緒にゲームをしたり、遊びに行ったりしたくなった。しかし、そうすれば祖父や父の期待を裏切ることになる。小さな子供だった当時の女に祖父たちが大層な期待もしていないであろうことを、尊大すぎる自尊心がゆえに気付いていなかった少女時代の女は、自分の抜けた穴が工房の大きさに相当するほどだと自惚れていた。実際は、自分の行動で祖父たちが寂しい顔をするところを見たくないという、善良さと臆病さが混淆した感情に支配されているにすぎなかった。女は自嘲的に語った。

 

「弟がいて。こいつがまぁ、やりたい放題なやつで。いいやつなんだけど。姉のいる末っ子長男らしく、ワガママで愛嬌があるやつなんだ。もちろん家の仕事どころか、母ちゃんの買い出しですら手伝ったことがない。私は学校から帰ってきたら宿題やって工房で手伝い。弟は学校から帰ってきたらランドセル玄関に放り投げて友達と遊びに行って夕飯まで帰ってこない。それどころか友達とケンカして誰それを殴ったとかなんとかで母ちゃんは菓子折りもって謝りに行かされるのもしばしばだったね。工房を継ぐ継がないの話の前に海外協力隊とかなんとかいうやつに参加してアフリカに井戸を掘りに行っちゃったりしてさ。帰ってきたら今度は商社マンになったとか言ってたっけ。

 

 そんなふうに好き放題してる弟が、私と同じくらい、私から見たら私以上に愛されてるのが、本当にムカついちゃうんだよね。与えられる愛情の分配が努力に見合っていないと思っちゃう。そもそも親もじいちゃんも私に工房の手伝いも工房を継ぐことも強要したことなんてなかったし、親たちからすればどんな子供も平等にかわいい、弟だって弟なりの悩みや苦労がある、そんなことくらい分かってたんだけど、でもまぁなんか腹落ちしないっていうか。私は友達と遊ぶ時間とか進路の可能性とか色んなこと諦めてまで、こんなに家族に、工房に貢献してるのにって。こんなにちゃんとしてるのにって」

 

 告解めいた長い語りに、氷月は静かに聞き入っていた。石像の接着剤の匂いが満ちた小屋の中とは異なり、小屋の外は初夏の新緑の香りが満ちていた。あたりは、人間の営みを凌駕する自然の生命力で溢れている。青々とした葉が茂るクスノキの根元で、死者を労わる女と他者を殺めた男は、再開された漁業の恩恵である初夏の鯵を食べていた。

 

「ちゃんとしてなくたって、別にいいんだろうよ。きっと。でもそれじゃ、ちゃんとしようって血反吐吐きながら頑張ってきた今までの自分が可哀想で、みじめで、認めたくなくて、だから他の人にまで自分の思う、自分に自分で課してる「こうあるべき」を当てはめては、その理想通りでなかったり理想に近づこうという努力をしていなかったりする人に対して勝手にムカついてる。私はこんなに頑張ってるのに、って。まぁ、つまり、ちっせぇ人間なんですわ、私という人間は」

 

 こう言い終えると女は手に残っていたサンドイッチを大きな口に放り込んだ。ほとんど話していない氷月の手には、半分ほど残ったサンドイッチが握られている。暖かくなって人間たちが活気づいたように、木々の多いストーンワールドに住む虫たちもまた活気づいており、血気盛んな幾匹かが食べ残すのであればとサンドイッチの周囲を飛び回っていた。

 

「だから、あんたも、そうだったりするのかなって。それで拗らせちゃったのかな、と思った、って話」

 

 女は飛んでいる虫を手掌で牽制する。虫を追う、接着剤や筆を握ったあとの残る女の手を見ながら、氷月は言った。

 

「どうで、しょうね」

 

 氷月にとって空を舞う虫を叩き潰すことは容易なことだった。しかし、しなかった。その前に、女の手が追い立てたからだ。

 

「だからといって誰かを傷付けるはダメだと思うがね。復活直後に混乱してたとはいえ、殺すって。やり過ぎでしょ」

 

 はっはっ、とあのやけに快活な笑い声が響いた。女の語りを聞いた後では、その笑い声はいやに乾いて聞こえた。氷月は静かに、残っていたサンドイッチを食べすすめた。女はそれを黙って待っていた。静かだった。昼時で、どこの作業場も休憩しているのだろう。新緑のざわめき、虫の飛び回る音、渡り鳥の鳴き声だけが、湿度の低い初夏の空気とともに漂っている。サンドイッチを包んでいた紙がクシャリと握り潰される音がした。女は音のした方に首を巡らせる。氷月がサンドイッチを食べ切っていた。

 

「私が怖く、ないのですか」

 

 手のひらを開いて握りつぶした紙を見下ろしながら、氷月は問うた。

 

「私があんたのいうところの“ちゃんとしている”人間である限りは殺さないんでしょ。そもそも、もうあんたは誰も殺さないんじゃないの?」

 

 女もまた小さく丸まった紙を見ていた。紙を握りつぶした大きな手には槍を握り続けてきたためにできたタコのようなものが見えた。

 

「そうでもないですよ」

「え、やっぱちょっと怖いかも」

「冗談ですよ」

「あんたも冗談とか言うんだ。てかあんたの場合、冗談になってないから」

 

 女は今度は喉を鳴らすように笑いながら、自分の胸にかけていたぼろ布を取った。手際よく、しかし、角をきちんと揃えて畳まれていくぼろ布を横目に見ながら、氷月は口を開いた。

 

「私は一度、死んでいるんです。生まれ変わったからには、せいぜい世のため人のために働くつもりです」

 

 ロケット制作が本格化する前に先行復活者間での争いがあり、戦闘の中に命を失った。どういうわけか、その後に石化され、復活液をかけられれば失われたはずの命は元通りになっていた。石化前の状態が瀕死であったのか死亡であったのかはもはや今際の際すぎて自認できていないが、あの出血量であれば間もなく死に至っていただろう。この石化及び復活の効能が死さえも凌駕するという事実は、いらぬ混乱を招きかねないとして先行復活者のみで共有され、現在は秘匿されている。とはいえ、戒言のおふれが出ているわけでもない。自分は今こうして話したが、誰にでも話すわけではないことを承知してもらいたい。氷月は彼女の告解に応えるかのように、少し長く語った。

 

「西洋の宗教だったら、復活したあんたは救世主か何かになっていたかもね」

 

 復活したのは三日後ではなく七年後でしたよ。氷月は女の軽口に応える。女はいつものように、はっはっと快活に笑うでも、くっくと喉を鳴らすように笑うでもなく、目を細めて微笑んでいた。

 

「また人間道に堕とされた、かわいそうな魂」

 

 死して極楽に至ることはなく、四苦八苦に悩まされる人間世界にまた生まれてしまった男を女は見ていた。

 

「悪人、つまり凡夫こそが救済の対象らしいよ」

 

 宗派によって違うんだったかな。女はキレイに畳んだぼろ布と、これもまたキレイに畳んだサンドイッチの包み紙を持って立ち上がった。仕事に戻る時間だ。世のため人のために働こうじゃないか。器用にウインクを投げて寄越す女に続いて、氷月も立ち上がった。午後一番のパトロールの時間だった。

 

-

 

 春は初夏になり、夏が過ぎ、秋に差し掛かっていた。木々の色が変わり、虫は夜に鳴き、初夏とは異なる渡り鳥が目につくようになった。二人がその根元でサンドイッチを食べたクスノキの常緑はいまだ青々としていたが、外で昼食をとるには肌寒い季節となっていた。氷月が女の仕事を手伝いはじめてから数ヶ月経っていた。

 

「急に悪いね。運ぶだけの仕事なんだけど……」

「マジすか」

 

 現在、修復の終わった石像を運び出しているのは氷月ではなく別の男だった。どこかで揉め事があったと呼び出された氷月の代わりに急遽あてがわれた臨時の運搬係である。平素は農業チームとして麦畑で仕事をしているらしい臨時の男は、初めて見る石像修復の現場に驚きを隠さなかった。

 

「これ直して、意味あるんスか」

 

 砕けた敬語のような口調が特徴のこの男の言葉には、文明復興のためにいくら人手があっても足りない現状で、死んだ人間に手をかける非合理的な活動も、かつて杠が壊された石像に施したような生き返らせるための処置でも、葬式のような残された人間のための儀式でもなく、それでいて死者と向き合い続けるこの職の狂気も、理解が及ばない、という驚愕が込められていた。

 

「いや、すんません。なんでもないっス」

「いやいや。私もそう思いながらやってるようなもんだから」

 

 自分の仕事の意義を疑うことなど、女はすでに数えられないほどしてきた。自分の技術は他の仕事でも十分活かせるのでは。砕けた四肢を取りあげるたびに心を痛めていてはこちらの精神が参ってしまうのでは。今すぐ必要でない仕事であれば復興が達成されてから取り掛かれば良いのでは。全人類を救うことが、この科学王国の目標だとして、では、この仕事は誰を救うのか。臨時の男が石像を運びだし、再び一人になった小屋で、女は考える。考えてしまう。考えてしまえば、冷たい石像たちに囲まれ、動けなくなる。その前に手を動かせ。女は考えるより先に手を動かすことに意識を注ぐ。何度もそうして来た。身に染み込んだ技術だけが女を動かし続けていた。

 

「安置所に、先輩がいたんだけど。地元の。あの人、生き返んねぇんだよな」

 

 数体の石像を運び終え、作業小屋に戻ってきた男が言った。砕けながらも敬語を維持していた男の言葉に冷たさが滲んでいた。運び続けた石像の冷たさを吸い取ったような冷たくて硬い声色に、割れた石像の断面に接着剤を塗布していた女の手が止まった。女は若い女性の石像を修復していた。臨時の男は、手を止め息を潜めるようにじっとしている女の様子に気を配るわけでもなく、次に運ぶ石像を運び出すための道を作ろうと、他の石像を動かしていた。押しのけるように動かすので、石像同士がぶつかり、ゴンっと無機的な音が大きく響いた。男は小さく舌打ちをした。

 

「ちっ」

 

 今、男が労力をかけて運ぼうとしている石像も。女が右足を修復したところで頭部の欠けた半分が見つからない若い女性の石像も。今のところ、復活の見込みはない。今のところ、とされているが絶望的であることは薄々気づいている。女も、他の復活者も。宙に浮いた筆から接着剤がポタリと落ちた。修復途中の若い女性の欠けた頭部に。そこを埋めるものがないというのに接着剤だけが垂れ流れていた。

 

「げっ」

 

 臨時の男が大きな声を出した。石像同士がぶつかった拍子に、修復した箇所が再び割れていたのだ。子供の石像だ。小さな指が折れ、床に落ちている。発見当初から折れていたその指は、断面も痛みが激しく、接着面を十分に確保できなかったため、そこを補うパーツを女が作るなどして修復されていたのだが、それでもか細いその部分は容易に折れてしまったのだろう。この細い指が治ったとして、腰から下の石像はまだ見つからない子供の小指のかけらを握りしめ、俯きそうになる顔と心を必死に制していた。

 

「戻りました」

 

 そこに本来の運搬係である氷月が小屋に現れた。大きな体躯を狭そうにくぐらせながら扉を抜けた氷月は、そこに流れる尋常ならざる空気を敏感に察知した。

 

「どうかしましたか」

 

 小屋には自分の代わりに運搬係を命ぜられた男と、氷月の顔を見上げ、表情筋を震わせている女がいた。女は修復したばかりの石像のかたわらに座り込んでいる。その手に小さな石片が握られている。補修パーツを作るのは骨が折れる、女から聞いていたその部分であることがすぐに知れた。女は仕事の様子をよく氷月に話していた。なんとかくっついた、と言って誇らしげに見せられたことのある石像だった。

 

 臨時の男が作業用に敷かれた布の上に泥のついた靴を載せてながら、気まずそうに、女と同じ石像のそばに膝をついているを見た氷月は無言のまま男に近づいて、その胸ぐらを掴んだ。

 

「これ、君が割ったんですか?」

「わ、わざとじゃない!」

 

 謝罪よりも先に言い訳がましい言葉を口にした男の胸ぐらをつかんだまま、氷月はその男を吊し上げ、小屋の外へ放り投げた。小屋の外壁に立てかけていた槍をつかみ、臨時の男へ向ける。

 

「ちゃんとしてください」

 

 人の仕事の邪魔をしたなら謝罪を、人の仕事場に立ち入るときには敬意を、そういった当たり前のことを当たり前に行おうとしない男に対し、氷月は怒らずにはいられない。まして、アジフライのカスでさえ気にするような丁寧な仕事を、どうせ治らないと言って見ぬフリなど決してしない真摯な仕事を、女の孤独と高慢と誠実を、軽んじられるなど、あってはならぬ。氷月のつきつける槍の先は秋の鈍い日差しを受け、寒々と光っていた。

 

「おいおい、死体を増やしてくれるなよ。知らないかもしれないけど、人間は接着剤でくっつかないんだぞ」

 

 小屋から女も出て来た。女は自分の手を氷月の手に重ね、槍を下げさせた。地面に転げている臨時の男に手を差し出す。

 

「悪かったね。しつけがなってなくて。怪我してない?」

 

 石像を割った男の手が、石像を修復する女の手を取った。氷月はその様子を無言で見ている。顔の半分を覆う高い襟の下では、小さく唇を噛んでいたが、誰も気づかなかった。眉をしかめるような不服の表情も、いつも通りといえばいつも通りだった。女はその氷月の表情の変化に気づいたのか気づいていないのか、広い背をマント越しに数度叩いた。

 

「すりむいたくらいっス。あの、俺の方こそ、すんません」

「いやいや、あれは私の修復が甘かった。気にしないで。運搬係戻ってきたし、ここはもうこれでオッケーです。ありがとうね」

 

 臨時の男は小さく会釈して、逃げるように小屋を去った。その姿を見送って、女は小屋に戻る。その女に従って、氷月も小屋に入った。小屋の出入口扉の前には生々しい足跡が残っていた。臨時の男がもがいた足跡と、その男を吊し上げた氷月の足跡だ。静謐で清浄な石像修復の小屋に似つかわしくない、暴力の香りが刻まれていた。足跡によって部分的にえぐれた土の山並みを見下ろし、氷月はそれこそ、どこか言い訳めいた言葉を口にした。

 

「もう少し怒ったらどうです。あれでは反省しませんよ、彼」

 

 乱暴に押しのけられた石像を再び並べ直しながら、女は笑った。はっはっと快活で乾いた、あの笑い声が小屋に響いた。

 

「あんたが秒でキレるから怒りそびれたんだよ」

 

 でも、ありがと。女は笑いながら石像の並べ直しを終え、修復の作業に戻るようだった。キビキビした動きは見ていて心地が良かった。氷月は先ほどまで波立っていた自身の胸の内が凪いでいくのを感じていた。もはや不思議とも思わなかった。刻まれた足跡も、響く笑い声も置き去りに、女の真剣な眼差しが石像に向けられる。それを見ていた。その視線に気づいた女は、どこか気恥ずかしそうな顔ではにかんだ。持っていた筆の柄(え)で数度、自分の顎をたたき、そしてその筆を氷月に向けた。

 

「やってみる?」

 

 女は細い石の欠片を氷月に差し出す。先ほど折れた子供の指だ。接着面にやすりをかけ、丁寧に布で拭ったそこに接着剤を塗布する。向きに気をつけながら折れた指をあるべき場所に戻す。ある程度固まるまでくっつけたままじっと待つ。その折れた部分を握り続ける。戻れ、治れ。祈るように、握り続ける。そして、そっと、手を離す。指はくっついていた。石片を強く握っていたためか、違う理由からか、石像から離れた氷月の手は震えていた。槍を握り続けたためにタコができている大きな手のひらが、今にも折れそうな、今まさに折れていた細い指を守るように覆いながら、振動していた。女はくっくと、あの喉を鳴らすような笑い方をして、その様子を見守っていた。

 

「これあげる」

 

 修復の終わった石像を運びやすいよう布でくるんで回っている氷月に向かって、女が言った。女は氷月がかけた布に、くるまれた石像の見つかった場所、性別、推定年齢等を書き込んでいたのだが、布を巻く作業に追いついてしまった。そのタイミングで女は作業場としている小屋の道具入れから何かを取り出してきた。

 

「人形……、ですか?」

「阿弥陀様のつもり」

「仏教徒でも何でもないのですが」

「私だってそうだけど。思いつくのがそれくらいしかなかったから」

 

 女が氷月に渡したのは人の形をした木彫りの像だった。氷月の中指の長さと同程度の大きさである。表情や衣服、装飾までは細かく表現されておらず、片手を軽くあげ、片手を下げている立像であることが分かる程度に彫られている。

 

 仏像という割には抽象的な姿をしているこの立像を受け取った氷月は、軽く傾けたりしながらしげしげと眺めた。伝統仏具の製作を生業としていた人間らしいモチーフの選択であったが、既存の宗教がリセットされたストーンワールドに具体的な宗教要素を持ち込むことにためらいがあった女は、本来であれば精巧に作れる仏像の姿を、あえてあいまいな状態までしか彫らなかったのだった。

 

「私の代わりに置いてく。見張りとでも思って。あんたがまたクーデターでも思いつかないようにってね」

 

 女は数日後にこの村を発つことになっていた。現在作業している石像を最後に、この地での石像修復はひと段落とし、別の場所に移り、その周辺の石像を修復することになったのだ。修復が必要な石像全てをこの作業小屋に集積させても良いのだが、見つかった場所から動かすのは、石像を運搬する側にとっても、石像を探す側にとっても不便だということで、修復場所を移動させることになった。開墾部隊が春から夏の間にかけて広げた土地があり、そこの居住区に滞在しながらの仕事である。科学王国の中心地であるこの村近辺の警らが主な仕事のためこの地を離れられない氷月とはしばらく疎遠にならざるを得ないというわけだった。

 

「……ちゃんとしてますね」

 

 立像を眺めおろしながら氷月はその別れの現実味を噛み締めていた。作業中の石像のそばにそっと置く。復活の見込みのないその石像を、阿弥陀如来がそっと見守っていた。

 

-

 

 冬は深まり、村を囲む木々は青白い顔をしていた。女が村を去ってひと月ほど経っていた。石像の運搬作業という副業を失った氷月は、警らの他、各所で資材の運搬を担うことが増えた。住居や作業場で使用する暖房用の薪、食堂で使う食糧等の運搬、海外から届いた物資の荷卸しなどもした。その日の仕事は建設用木材の運搬だった。木材を積み込んだ数少ない運搬車両を、また、その積荷の作業を共に行った他の運搬係が村の中心部へ向かうのを見送った氷月は、次の仕事までの時間を一人で過ごすこととした。

 

 あの小屋に向かう。あの小屋は今や農業・林業チームの休憩所に転用されており、折り目正しく粛々と仕事に勤しむ女がいるどころか、肉体労働で疲れた体を休ませる男たちの下世話な話が飛び交うばかりの場となっていた。男たちからの挨拶に軽い会釈を返し、氷月はすぐに小屋を辞した。作業道具を取りにきただけだった。小屋から取り出したのは先日、樵夫から分けてもらった木材と彫刻用の小刀だった。

 

「よお、にいちゃん。彫刻はできたのかよ」

 

 青白い顔をした木々の中で、未だ青々と葉を茂らせているクスノキの根元に座り込む氷月に見知った男が話しかけた。

 

「先日の」

 

 氷月が手にする木材を選定したあの樵夫であった。クスノキの目の前にある旧・石像修復小屋から出てきたのだ。最近導入されたチェーンソーを担いでいる。あの小屋に取りにきたのだろう。導入されたばかりのチェーンソーはすでに木屑にまみれ、あまり良い扱いを受けていなさそうだった。

 

「何彫ってんだ? 仏さんか?」

 

 樵夫は遠慮なく氷月の手元をのぞいた。不作法な樵夫の言動に少し抵抗を感じながらも、木材の知識や選定を手伝う親切さ、何より、今も浮かべているニヤニヤ笑いの不器用な様子に多少の好意を抱いていた氷月は、樵夫を邪険にすることなく返事をした。

 

「いえ、人です」

「ふーん、わかったぜ、あれだろ、女だろ」

「まぁ、女性といえば女性ですが」

「オカズがねぇもんな」

「やめてください。そういうんじゃありませんから」

 

 卑俗な言葉に氷月の眉が吊りあがる。樵夫は気にしていないのか、相変わらずニヤニヤ笑いながら、氷月の彫る木像を見ながら小指を立てた。

 

「じゃあ、なんだ、こっちの女かい」

「もうあっちいってください」

 

 やはり“ちゃんと”していない人間など応対しなければ良かった。口元を隠す高い襟の中で後悔の嘆息を漏らす氷月をよそに、樵夫はその隣に腰を下ろした。あからさまに眉をひそめる氷月にあのニヤニヤとした笑みを向け、手を差し出す。樵夫の手はマメが目立った。チェーンソーが導入される前は原始的な斧やノコで木材をさばいていた男の手だった。

 

「まあまあ。苦戦してんだろ? どれ、おじさんに貸してみろ」

 

 氷月は渋々と木像を樵夫の手に渡した。事実だったからだ。彫刻に苦戦していた。木を彫るなど、小学校で木版画をして以来のことだった。唯一の木彫の経験は版画で、版画は平面だった。氷月にとって立体物を彫るのは人生で初めてのことだった。この歳になって、こんな世界になって、初めてのことに挑戦するとは思いもしないことだった。

 

「お上手、ですね」

 

 小刀を器用に使いスイスイと形を整えていく樵夫の手付きに、氷月は感嘆の声を漏らした。柔らかいところ、硬いところ、丸く削るべき場所、直線的に整えるべき場所を初めから熟知しているかのようななめらかさだった。褒められた樵夫はニヤニヤと笑い、やってみろ、と言って木片と小刀を氷月に返した。木片の持ち方、小刀のかまえ方を樵夫にならって変えてみると、これまでよりは上手く彫れている気がした。

 

「これでも子供に人形を作ってやったこともあんだぜ。まぁ、カミさんと一緒に出てっちまったきり会ってねぇがな」

 

 樵夫は珍しく自身についての言葉をこぼした。やはりニヤニヤと笑っていた。照れる時も、嬉しい時も、気まずい時も、おそらく、寂しい時もこの樵夫はこの表情をする。氷月は木こりの男の不器用な笑みと、その器用な刀さばきを交互に見ていた。

 

「惚れた女は彫れたかい? なんつってな」

 

 たまに顔を合わせると、やはりつまらない冗談を言う樵夫は、女の去った後の村において、氷月のほぼ唯一の話し相手となったのだった。

 

-

 

 雨が降っていた。このところ、雨が多かった。一雨ごとに季節が進んだ。冬は終わりかけていた。友人の樵夫が梅の花が咲いているのを見たと言っていたのを思い出しながら、氷月は制作中の木像を眺めていた。彫刻はひと冬かけて彫られ、ほぼ完成していたが、顔を彫ろうかどうか悩みながら、木像と対峙していた。あの石像修復の小屋だ。雨のため、農業チームも林業チームも稼働しておらず、小屋には誰もいなかった。誰もいないことを幸いに、氷月は木像の仕上げをしようと小屋に来ていた。警らの仕事も、運搬の仕事もまた、雨のために休止状態だったのだ。労働に勤しむ男たちも、石像修復の女も、割れた石像すらも並んでいない、がらんとした小屋の中で、氷月はかろうじて頭と体の形が見てとれる風流仏と向き合っていた。

 

「氷月くん」

 

 風流仏がしゃべった。

 

 というわけではない。しゃべったのはあの石像修復の女だった。女は道具を詰めているらしい箱を持って、小屋の入口あたりに立っている。開け放たれた扉の向こうに春雨が絹糸のように静かに降り注いでいる。慈雨の借景を背負った女の姿は一幅の絵画に見えなくもなかった。

 

「……」

「おーい、どうしたどうした。寝ぼけてんのかい」

「いえ、少し驚いただけです」

 

 なぜ彼女がここに。遠い地で石像修復に従事しているはずでは。いつ戻ってきたのか。ここに自分がいることを知って訪ねてきたのか。荷物の様子からして仕事場を戻すのか。これからはまた彼女はここに、自分の住む村にいるのか。氷月の頭にはいくつもの疑問が浮かぶがどれも言葉にならなかった。唖然として、女を見ている。女は喉を鳴らすあの笑いを漏らしながら、小屋の中を見回した。農具やストーブ、やかんや湯呑みなど、かつて自分が働いていた当時と様変わりしている小屋の様子に、女は興味を持っているような持っていないような顔付きをして見回していたが、氷月の向かいに立つ木像を目に止め、小さく目を見張った。

 

「これ、あんたが彫ったの」

 

 小屋のすみに荷物を下ろした女は、無駄のない足取りで一直線に氷月に近づいた。氷月はなぜかギクリとした。木像の出来の拙さも、この木像を作るに至った経緯も、女に開示するにしては決まりが悪い気がしたのだ。

 

「……あなたの作ってくださったものが割れてしまったので」

 

 女が氷月に与えた阿弥陀如来は乾燥した冬の風に大きな亀裂を生じさせていた。木像の手入れや修繕の知識は氷月にはなく、亀裂が入ろうと、それ以前と同様に、女が去ってからずっとそうしてきたように、懐に入れて持ち歩いていた。自身への戒めとして。“またクーデターでも思いつかないように”と。氷月は自分の行動にそんな理由をつけていた。懐に入れていた亀裂の入った仏像は、運搬の仕事中に何かにぶつかった拍子についに割れた。さすがに持ち歩くことはやめた。割れた仏像は布にくるみ、自分の寝床に置いている。小さな木像とはいえあったものがなくなった懐は、どこか物足りなかった。そして、氷月は木像制作を思い立った。

 

「それで、自分で? あは、さては私がいないのが相当寂しかったんだな?」

 

 木像を挟んで氷月と向かい合うようにしゃがみこんだ女が、はっはっと笑った。この快活な、しかしどこか乾いた笑い声を聞くのは久しぶりだった。冬にこの声が聞こえていたら、感じていた寒さは違っただろうか。女の存在に、改めて女の不在を実感していた。

 

「そうです」

 

 木像越しに氷月は女の姿をじっと見据えて言った。生真面目な女らしい飾り気のない姿が、頭と体だけが象(かたど)られた木像と重なっていた。しかし、農業、林業に勤しむ男たちの匂いが雨のためにリセットされた土の湿った香りだけの小屋に、女の体から接着剤の香りがいかにも懐かしく漂っていた。

 

「え、あ、そ、そう……」

 

 自ら問いかけたにも関わらず、返ってきた率直な言葉に驚いた様子の女に向かって、氷月はさらに言葉を重ねた。

 

「そうです」

 

 重ねられた言葉に気圧されたのか、粗野とも言えるほど歯切れ良く話すはずの女がしどろもどろとしながら目線を落とした。動揺を紛らわせるかのように木像を手に取る。雨降りの室内は薄暗く、女は壁に開いた窓に木像をかざした。薄暗い雨空とはいえ、室内よりも外部の方が明るかった。女の手が氷月の彫った木像を天に掲げている。ぼんやりとした逆光はあいまいに彫られた木像のように女の輪郭をにじませていた。窓の外の雨が室内にいるはずの女の輪郭を彫り進めているかのようでもあった。

 

「わ、わかったって」

 

 もしや、この日ごろに比べ言葉数の少ない女に、この出来の悪い木像に降り注ぐ春雨の細い糸が、蜘蛛の糸かなにかであったら。氷月は胸騒ぎを覚える。もし垂れ下がる極楽への細い糸が、人間道に堕とされた自分の元から、再び、女も像も去ってしまったら。ほとんど衝動的に氷月は女の背に縋った。

 

「割れてしまった時、あなたの身に何かあったのかと。柄にもなく……」

 

 開拓チームでケガ人が出た。あの小屋に集う男たちの噂話が耳に入ったのは冬の寒さ厳しい年末ごろだった。雪が降り、めずらしく多かったその雪を、すぐに訪れた季節外れの暖かな晴れの日が全て溶かした。突然降り注いだ融雪水にぬかるんだ地面が崩れた。地崩れは開拓チームの駐留地のすぐ近くで起こった。そこで作業をしていた人間が巻き込まれた、ということだった。

 

 各地方と連絡を取る情報部隊に聞いても、開拓チームへ物資を運ぶ人夫に聞いても、それ以上の情報はなかった。死傷者の有無や人数、程度、具体的に誰が巻き込まれたかなどの情報を、氷月は得られないでいた。大事であればむしろもっと詳細が知れ渡っている可能性が高い。便りがないのは良い便り、というわけではないが、情報の少なさこそが、事態の深刻性が低い証拠である、そう自身に言い聞かせていた。裏腹に、開拓チームに加わっている石像修復の女の姿が脳裏にチラついて離れなかった。

 

「あんた、けっこう信心深いタイプだったんだね。意外」

 

 背後から回された氷月の腕に驚きながらも、女はそれを振り払うことはしなかった。共に、不恰好な風流仏を眺めていた。

 

「自分でも意外ですよ」

 

 女を抱き込めながら、氷月は自身こそが凡夫であることを戒めるため、女の作った像を持ち歩いていたこと、その像が割れてしまったこと、自分では修復できなかったこと、代わりに自分の手で彫ることにしたこと、まともに彫ることもできず人の手を借りたこと、などを語った。語っている間、じっと動かずに懐にいる女の体は、始終携えていた木像よりも大きく、柔らかく、温かかった。

 

「あなたのことを、思いながら、彫っていたんです」

「……うん、わかったってば」

 

 接着剤の香りが染み付いた指が、女の細い首元に回された氷月の腕を数度タップする。緩んだ腕の中で女の体が反転した。氷月の背に回った指は、今度は、労をねぎらうように数度その背を叩いた。女の体は氷月の体にすっぽりと覆われているのに、氷月にはむしろ女の全てが自分を覆っているような感覚におちいった。女が不在の間(かん)、他者との交流に挑戦したことも、木像を彫ったという事実も、事故の噂に覚えた慄きも、どれほど死のうと、どれほど生まれようと未だ瞋恚(しんに)に囚われ続ける凡夫たる自身の正体も、全てを受容しているように感ぜられた。

 

「……実物の方が、ずっと、いいですね」

「そりゃ、どうも」

 

 あの快活な笑い声でも、喉を鳴らす笑い声でもなく、しかし女は笑っていた。いつか見た、世界を慈しむような目を細めたあの笑い方をしているのだろう。女の顔は氷月の胸に埋まっており、その表情は見えなかったが、ほとんど確信に近くそう思った。そう願っていたのだ。

 

「顔は? 彫らないの?」

 

 氷月の背の向こうに掲げた木像の顔がつるりとしていることに気づいた女は言った。女に勧められ、折れた石の指を修復したあの時のように、あのか細い指を握った時のように、そっと、強く、あてどもない祈りを思い浮かべながら、氷月の腕は女の背を抱いた。

 

「その、彫ってしまったら、それこそどこかへ行ってしまうのでは、と」

 

 はっはっ。あの快活な声が小屋に響くので、雨音は遠くなった。いや、止んだのか。氷月は女の髪越しに、窓の外を見上げた。

 

-

 

 すっかり良き友人となった樵夫との約束を果たしに、氷月は木像を懐に入れ森にやって来た。

 

「よお、にいちゃん。彫れたか?」

「はい。ほれました」

 

 不恰好だった風流仏は美しく形が整えられていた。槍を持つ素人の男が彫ったにしては繊細な顔立ちをしているそれを見て、樵夫はニヤニヤと笑っていた。先日、紹介された友人の友人である、石像修復の女が手助けしたであろうことを、樵夫はすぐに見破ったようだった。

 

終

 

参考:幸田露伴『風流仏』


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