淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
あたたかく見守って下さると幸いです。
永禄九年(1566年) 十二月中旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木小夜
「小夜、また掛け物を直しておるのか」
「手が出てしまいますので」
「多少は構わぬ。そなたの方こそ、休まねばならぬ身であろう」
「横になってばかりでは落ち着かないのです」
「困ったものだな。母親になっても頑固なところは変わらぬか」
兄の弥太郎が呆れたように笑った。言われてみれば、先ほどから竹若丸の掛け物ばかり気にしている。少し動けば端が乱れ、直してやるとまた小さな手が出てくる。眠っているのだから、そのままでもよいのだろう。それでも、つい手が伸びてしまうのだ。
竹若丸が生まれて、まだ幾日も経っていない。あの苦しさの中では、ただ無事に生まれてくれることばかり願っていた。今は小さな寝息を聞きながら、布を直してやることが出来る。何でもないそのことが、ひどく有難く思えた。
「兄上、竹若丸は元気に育つでしょうか」
「あれだけ元気な声で泣くのだ。今から心配ばかりしていては身が持たぬぞ」
「泣き出すと、私もどうしてよいのか分からなくなるのです」
「それでよいのではないか。そなたも母となったばかりなのだからな」
「兄上は随分と気楽に仰いますね」
「私が一緒に慌てても仕方あるまい」
私が笑うと、兄もからかうのをやめた。殿は朽木家の当主として越前へ兵を進める際、兄に私の傍にいてほしいと頼んでくださったという。産前も産後も、こうして兄と何気ない言葉を交わせることが、どれほど心強いことか。殿の気遣いが、今になって身に沁みた。
「殿にも、早くこの子を見ていただきたいのです」
「その時は、まずそなたが無事であることをお伝えせねばな」
「竹若丸のことではなく、私のことですか」
「当たり前だ。殿が気に掛けておられるのは、子だけではあるまい」
「……そうですね」
答えた後も、兄の言葉が耳に残っていた。殿は出陣の前、男の子なら御自身の幼名である竹若丸、女の子なら竹姫と、名を決めてくださった。まだ姿も見ぬ子に名を用意してくださったことを思い出すと、早く父と子を会わせて差し上げたいという思いが、いっそう募った。
「越前での戦は、もう落ち着いたのでしょうか」
「西の大半は手に入れたと聞く。まだ片付かぬところはあるが、越前で兵を挙げた一向宗の門徒衆も一枚岩ではない。殿は雪のことも考えておられよう」
「それなら、御帰還も遠くはありませんね」
「そう願いたい。雪に道を塞がれては、こちらから迎えにも行けぬからな」
兄は気休めに必ず戻るとは言わなかった。戦を知らぬ私にも、雪で道が塞がれば帰りが遅れることくらい分かる。それでも、帰還が近いと聞けば期待してしまう。今にも足音が聞こえてこないかと、戸の方へ目を向けた。
「朽木は、また大きくなるのですね」
「越前を治めれば百万石に届こう。もはや以前の朽木とは違う」
「平井の家も、少しは安心できますか」
「以前よりはな。六角も朽木を無視できぬ。だが、強い家に寄り掛かっておればよいというものでもない」
「兄上……」
「平井を守るのは私達の務めだ。殿に頼り切るわけにはいかぬよ」
兄の声には、先ほどまでの柔らかさとは違う響きがあった。私の生家である平井家は、かつて六角家に仕えていた。兄もその頃のことを忘れたわけではあるまい。それでも今は、平井家の行く末を朽木と共に考えている。私が嫁いだ頃には想像もしなかった変化だ。兄は話を終えると、私の顔をもう一度確かめるように見てから立ち上がった。
「つい長居をしてしまったな。少し眠るがよい」
「兄上がいらっしゃると、ついお話ししてしまいます」
「ならば私が退くのが一番だ。何かあれば人を呼ぶのだぞ」
「はい。有難うございます、兄上」
兄が出て行くと、部屋が急に広くなったように感じられた。戸の向こうでは冬の風が鳴っている。先ほどまで兄と話していたからだろうか、その音が妙に大きく聞こえた。
竹若丸は変わらず眠っていた。掛け物の端から小さな手が覗いている。頬にそっと触れると、指先に温もりが伝わった。つい先日まで私のお腹の中にいた子が、今はこうして傍らで息をしている。しばらくその寝顔から目が離せず、起こさぬよう指を引いた。
男の子で良かった。女の子であっても愛おしさは変わらなかっただろうが、朽木家の嫡男を産めたことに安堵しているのも確かだった。殿にお会いしたら、この喜びをお伝えしたい。
けれども、先ほど兄が口にした百万石という言葉が頭から離れなかった。私が嫁いだ頃、朽木家は十万石ほどだった。それが若狭を領し、今また越前を手に入れようとしている。殿が築いてこられたものを、いつかこの小さな子が受け継ぐのだと思うと、嬉しさとともに不安が湧いてきた。
目の前で眠っているこの子が、やがてそれほど大きな家を背負う。どれほどのことを学び、どれほどの務めを果たさねばならないのだろう。殿ならばきっと良い道を示してくださる。けれど、今も越前におられるように、いつも竹若丸の傍にいられるわけではない。
私には何が出来るだろう。竹若丸が苦しむ時、言葉にならない思いを汲み取ってやれるだろうか。跡継ぎとして立派に育てようとするあまり、この子自身の願いを見落としてしまわないだろうか。考えるほどに、心配は尽きなかった。
気が付くと、掛け物の端から出た手に指を添えていた。すると、小さな指がきゅっと私の指を握った。
まるで、大丈夫だと言われたような気がした。
赤子にそのようなつもりがある筈はない。それでも、指を握られたままじっとしているうちに、先ほどまで頭を占めていた心配が少しずつ遠のいていった。支えてやらねばならぬと思っていたのに、慰められたのは私の方らしい。指の力が緩むのを待ちながら、今はこの子が安心して眠れるようにしてやろうと考えた。先のことは、その時になってから共に考えていけばよい。
「竹若丸。父上が戻られたら、お顔を見せましょうね」
竹若丸は眠ったままだった。掛け物を直しかけたが、気持ちよさそうな寝顔を見て手を止めた。私はその小さな手を眺めながら、遠い越前にいる殿の御無事を祈った。
永禄九年(1566年) 十二月中旬 近江高島郡安井川村 清水山城 朽木稙綱
清水山にも冷え込みの厳しい日が続いている。そろそろ雪の心配をせねばならぬ頃だ。庭木の枝が風に揺れるのを眺めていると、塩津浜から使いが来たとの知らせが入った。小夜殿のお産が近いと聞いてから、いつ報せが届くかと気に掛けていた。儂は思わず身を乗り出した。
「塩津浜からか。すぐに通せ」
知らせを確かめるまでの僅かな間が、やけに長く感じられた。良い知らせか悪い知らせか、使いの顔を見なければ落ち着かぬ。大膳大夫――儂の孫、基綱は越前におる。万一のことがあれば、あやつは自分が傍にいなかったことを悔やむだろう。戸口に人の気配がして、儂はそちらへ目を向けた。入って来た使いは頭を下げ、弾んだ声で報告を始めた。
「申し上げます。小夜様が若君をお産みになりました。母子ともに御無事にございます」
「そうか!……そうか、無事であったか」
思わず息を吐いた。男児が生まれたことも喜ばしいが、何より小夜殿も無事だというのが有難い。詳しい様子を知りたくて、気付けば同じことを使いに幾度も尋ねていた。使いは律儀に答えてくれたが、そのうち少し困った顔になった。どうやら、儂の方がよほど落ち着きを失っていたらしい。
「小夜殿には、まず身体を休めるよう伝えてくれ。産後は無理をしてはならぬ。それから、知らせをくれたことへの礼もな」
「はっ。承りました」
「名は、もう決まっておるのか?」
「竹若丸様と伺っております」
「竹若丸か」
大膳大夫が幼い頃に名乗っていた名だ。あやつめ、自分の子にも同じ名を付けたか。そういえば、あの子を竹若丸と呼んでいた頃には、今のような大きな家になるとは思いもしなかった。あれほど小さかった子が父親になったのだ。今ここにあやつがおれば、どんな顔をするだろう。ついそんなことまで考えてしまった。
使いを下がらせると、大膳大夫の母である綾がやって来た。知らせはあちらにも届いたらしい。普段はゆったりと歩く綾が、この時ばかりは足を速めている。儂と目が合うとすぐに小夜殿のことを尋ねたそうな顔をしたので、こちらから先に声を掛けた。
「聞いたか、綾。男児じゃそうな」
「ええ。小夜殿も御無事とのこと、本当にようございました」
「うむ。まずはそれが何よりじゃ」
綾はようやく腰を下ろした。小夜殿も無事だと聞いて、気が緩んだのだろう。儂もひと息ついていると、先ほど聞いた竹若丸という名がまた頭に浮かんできた。
「大膳大夫が父親とはのう」
「……そうでございますね。あの子が」
綾は小さく頷いて目を伏せた。小夜殿の無事を喜んでいた時とは違い、返事の声が少し沈んだように聞こえる。どうしたことかと思いながらも、儂は幼い頃の大膳大夫の話を続けた。
「儂には、あやつがまだ幼かった頃の姿が浮かんでしまう。父親になったと聞いても、なかなか実感が湧かぬわ」
「……ええ。あの頃は、色々とございましたから」
綾はそこで言葉を切り、膝の上で指を重ねた。儂には幼い頃のあやつを思い出すのは楽しいことだが、綾にはそうとばかりも言えぬのだろう。父を失ってからの年月を、あの二人がどのように過ごしてきたか、儂がすべて知っているわけではない。今ここで無理に話を続けることもあるまいと、儂は話題を変えることにした。
「まあ、何はともあれ、小夜殿も竹若丸も無事じゃ。めでたいことよ」
「はい。本当に、ようございました」
綾の声がいつもの調子に戻り、儂も竹若丸のことへ思いを巡らせた。大膳大夫が家を継いでから、朽木は儂の想像を超えて大きくなった。今では越前にまで兵を進めておる。若い頃の儂に、このような日が来ると言っても、信じなかったであろう。
だが、家が大きくなったからといって、心配がなくなるわけではない。戦があれば人が死に、治める土地が増えれば、それだけ多くの者の暮らしを背負う。大膳大夫も、そのことを誰よりよく知っておろう。そしていつかは、今生まれたばかりの竹若丸が、その跡を継ぐことになるのだ。
「気の早いことを考えてしまうものじゃな。まだ生まれたばかりだというのに」
「何をお考えになったのです?」
「この子が大きくなる頃、朽木はどのような家になっておるのかとな」
「それは、大膳大夫殿と竹若丸がこれから決めてゆくことでございましょう」
「そうじゃな。儂らが今から案じても仕方あるまい」
綾の言う通りだ。大膳大夫には当主となってから、儂の考えを押し付けぬようにしてきたつもりだ。それなのに、まだ顔も知らぬ曾孫が担うものを、今から気にしている。儂自身が家の先行きを案じてしまうのは仕方あるまいが、この子にまで同じ思いをさせることはない。まずは無事に育ってくれれば、それで十分だ。
「早う顔が見たいものじゃ」
「小夜殿には、まだ養生が必要でございますよ」
「分かっておる。急がせはせぬ」
「では、お会いする日まで楽しみになさいませ」
「そうするか」
口ではそう答えたものの、どのような顔をした子だろうと、考えずにはいられなかった。大膳大夫に似ているのか、小夜殿に似ているのか。抱き上げたら泣かれるやもしれぬが、それもまた楽しみだ。塩津浜の方角へ目を向ける。今度はどんな報せが届くかではなく、いつ竹若丸に会えるかばかり考えている。我ながら気の早いことじゃ。
永禄九年(1566年) 十二月下旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木基綱
ようやく塩津浜城に戻って来た。越前では雪が降る前に軍を引くことばかり考えていたが、近江に入ってからは別のことが気になって仕方がなかった。小夜と子は無事だと知らせを受けている。それでも、顔を見るまでは落ち着かない。城に着いて一通りの挨拶を済ませると、俺は早々に小夜のいる部屋へ向かった。
小夜の部屋へ向かう前に着替えを済ませ、手も洗った。戦帰りのまま赤子の傍へ行くのは気が引けたからだ。それなのに廊下を歩いていると、まだ何か忘れているような気がしてくる。戦の支度なら手順が身に付いているが、生まれたばかりの子に会うとなると、どうにも勝手が違う。
「小夜、戻ったぞ」
声を掛けて部屋に入ると、小夜が顔を上げた。少し痩せたようにも見えるが、顔色は悪くない。起き上がろうとしたので、慌てて手で制した。
「そのままで良い。まだ身体を休めていろ」
「お帰りなさいませ、殿。御無事で何よりでございます」
「そなたこそ無事で良かった。辛かっただろう。傍にいてやれず、すまなかったな」
「いいえ。兄もいてくれましたし、皆によくしていただきましたから」
「そうか。弥太郎には後で礼を言わないとな」
小夜はいつも通り穏やかに答えたが、布団の上に置いた手は以前より細くなったように見えた。本人が大丈夫だと言っても、産後の身体が楽なはずはない。労いの言葉くらい幾らでも思いつきそうなものだが、いざ小夜を前にすると、ありきたりなことしか言えなかった。あれこれ尋ねるより、まずは休ませてやるべきだろう。
「殿。竹若丸を御覧になりませんか」
「ああ。……そうだな。見せてくれ」
小夜が傍らの寝具へ目を向けた。布に包まれた赤子が眠っている。頬は赤く、閉じた目の下で、口元だけが時折もごもごと動いていた。生まれたばかりの赤ん坊を間近で見るのは、そう言えば初めてかもしれない。思っていたよりずっと小さい。だが、この子ももう一人の人間なのだ。
小夜と俺の子か。
男の子なら竹若丸と決めた。俺が昔使っていた名だが、実際にそう呼ばれる子が目の前にいると、妙にくすぐったい。こちらの竹若丸は、まだ自分の名前も知らないだろう。それなのに俺は、名を呼んでみたくて仕方がなかった。
「竹若丸。父上だぞ」
当然、返事はない。寝息を立てているだけだ。生まれたばかりなのだから当たり前だが、もう一度呼んでみたくなる。俺が口を開きかけると、小夜が隣で笑った。
「抱いてみられますか」
「俺が抱いても大丈夫か?」
「ええ。首をこちらの手で支えて、そっと」
「分かった。……いや、ちょっと待て。これで良いのか」
「はい。そんなに力を入れなくても大丈夫ですよ」
小夜に教えられながら腕を差し出すと、竹若丸がそっと移された。軽い。だが、腕の中に確かに重みがある。首を支える手が少しでもずれたらと思うと、どうにも身体が固くなってしまう。これまで一万の兵を動かすことに頭を悩ませて来たが、赤子一人を抱く方が難しいとは思わなかった。
「そなた、随分と慣れているな」
「毎日抱いておりますもの。それでも、初めは怖かったのですよ」
「そうか。俺だけじゃないんだな」
「殿も、すぐに慣れられます」
そう言われても、まだ自信は無い。竹若丸の顔を覗き込むと、閉じていた目が僅かに開いた。黒い瞳がこちらを向いたように見えて、思わず息を止める。俺の顔が分かるはずはない。偶然だろう。それでも、こちらを見られたと思っただけで嬉しかった。
ところが次の瞬間、小さな顔がくしゃりと歪んだ。まずい。泣くのか? どうすれば良い。抱き方が悪かったか。俺が慌てて小夜を見ると、案の定、竹若丸が声を上げ始めた。思わず腕を持ち直しかけて、小夜に止められた。
「そのままで大丈夫です。赤子は泣くものですから」
「そうは言っても、何か気に入らなかったんじゃないか?」
「さあ、どうでしょう。私にも分からないことばかりです」
小夜が竹若丸に声を掛け、掛け物を整えてやる。しばらくすると泣き声が小さくなり、やがて口を動かすだけになった。俺はようやく肩の力を抜いた。何が気に入らなかったのかは分からないが、少なくとも俺の顔を見るなり嫌われたわけではあるまい。そうであってほしい。
「はは。父親というのも、なかなか難しいな」
「まだお会いになったばかりですよ」
「それもそうだ。これから覚えれば良いか」
腕の中の竹若丸は、また眠り始めていた。小夜も疲れているはずなのに、俺の抱き方を見ては何度も助け舟を出してくれた。俺はこの子に何をしてやれるだろう、などと考えるより先に、まずは小夜から抱き方を習わなければならないらしい。
「小夜。ありがとうな」
「何がでございます?」
「竹若丸を無事に産んでくれたことだ。それから、俺が帰るまで待っていてくれたことも」
「……はい」
小夜は一度目を伏せ、竹若丸へ視線を移した。それ以上言葉を重ねるのも違う気がして、俺も黙って腕の中を覗く。息子は何も知らぬ顔で眠っている。少し前まで俺を慌てさせていたのが嘘のようだった。
越前で片付けなければならないことは、まだ山ほどある。だが今は、そのことを考える気になれなかった。腕の中の重みを確かめながら、もうしばらくこうしていたいと思った。