淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十四年(1571年) 五月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 竹中半兵衛
長島の一向一揆が降伏した。伊勢から届いた殿の書状には、そう記されていた。思わず息を吐く。昨年の春、長島の一揆勢が北伊勢へ攻め込んで以来、反乱した国人達の城を落としても、肝心の長島には手を付けられずにいた。漸くその戦に決着がついたのだ。
書状を読み進めると、四月からの攻勢とその後の処置が記されていた。戦に勝ったという一報だけではない。私は傍らに置いていた長島の地図を引き寄せ、報告にある城の名を順に確かめた。今後の兵の配置や帰還の支度を考えるには、戦がどのように終わったのかを知らねばならない。
「半兵衛殿、如何でございましたか」
山口新太郎殿が声を掛けてこられた。殿からの文が届いたと聞き、兵糧方の帳面を持って来られたのだ。私は書状から顔を上げた。
「長島が降伏いたしました。殿からの御報せです」
「おお、ようやくでございますか。それは何よりですな」
「ええ。思っていたほどの損害も出さずに済んだようです」
「それなら安心ですな。兵が戻るとなれば、こちらも支度を始めねばなりませぬ」
新太郎殿の表情が和らいだ。昨年来、兵糧方は伊勢へ米や武具を送り続けてきた。海からの補給を封じるために船を動かす一方、味方の兵には途切れず食べ物を届けねばならない。戦の終わりは我らにとっても朗報だが、兵糧方の仕事がその日からなくなるわけではなかった。
「どのような戦でございましたか」
「まず四月の初めに、香取、大鳥居、屋長島、中江の城を押さえられたそうです。一揆勢はそれらの城を捨て、川の中の島々へ退きました」
私は地図を広げ、新太郎殿に四つの城の位置を示した。長島の地は幾筋もの川と水路に分かれ、岸から島へ兵を渡すのが難しい。敵はその地形を頼りにしたのだろう。こちらから川を渡れば、足場の悪い所を狙われかねない。
「殿は、無理に兵を渡されなかったのですな」
「はい。岸から大筒で願証寺を攻め、一揆勢を誘い出されたようです。敵が川を渡り始めたところへ、船上と岸の鉄砲隊、それに大筒で攻撃を加えたとあります」
「川の中では逃げることも容易ではありますまい」
「敵は渡り切る前に崩れたそうです。その後も慎重に物見を出し、島へ兵を進められたとのこと」
新太郎殿は地図に目を落とし、しばらく考えておられた。殿は以前から、長島へ正面から押し寄せれば損害が大きいと見ておられた。昨年から九鬼孫次郎殿の水軍で海を封じ、周辺の町や船の動きにも目を光らせてきたのはそのためだ。兵を進めることだけが攻城ではない。敵に物が届かぬようにすることも、戦を決める大事な働きだった。
「補給を断たれたことも、降伏を早めたのでしょうな」
「そう思います。殿も、長島の食糧が乏しくなっていたと見ておられるようです」
「敵も大勢を抱えておりましたからな。人が食べる米は、待っていても増えませぬ」
新太郎殿は帳面を開き、これまで伊勢へ送った米の量を確かめられた。味方でさえ、運ぶ者や船を揃えるのに苦労している。水路を押さえられた一揆勢の苦しさは、兵糧方の新太郎殿にはよく分かるのだろう。
「降伏した者達は、如何なりましたか」
「長島を退いた者達は、石山へ向かったとのことです。もっとも、皆が無事に行き着いたかまでは分かりませぬ」
「では、伊勢に残す兵と戻す兵を分けねばなりませぬ」
「ええ。まだ詳しい配置は届いておりませぬ。こちらで勝手に決めず、殿の御指示を待ちましょう」
新太郎殿は頷き、帰還に必要な船と人足について書き付け始められた。私は続きの文へ目を戻したが、そこにはもう一つ、大きな出来事が記されていた。
「それから、北畠家の件ですが……」
「何かございましたか」
「北畠一族が、殿の命によって誅殺されたそうです。三瀬御所に集められた者達を、真田源太郎殿と徳次郎殿が討ったとあります」
新太郎殿の筆が止まった。昨年、北畠家とは和議を結んだ。だが、朽木への敵意を捨てたわけではなく、長島を助ける動きも見せていた。いずれ殿が何らかの手を打たれるとは思っていたが、一族をまとめて討つとは、厳しい御処置だ。
「これで北畠は、伊勢で力を振るうことも出来ますまい」
「そうですな。長島の戦が終わった後も、北畠が兵を挙げれば元の木阿弥です。それを防ぐ御判断なのでしょう」
「……戦が終わっても、難しいものですな」
新太郎殿の言葉に、私は頷いた。殿は、北畠に再び兵を挙げさせるわけにはいかぬとお考えだったのだろう。だが、一族をまとめて討てば、それを恨む者も出る。北畠に従ってきた国人達がどう受け止めるかまでは分からない。城を取った後は、そこに暮らす人々を治めていかねばならないのだ。
私が書状を畳みかけた時、廊下から女房の声がした。竹若丸様がお見えになったという。そういえば、今日は新太郎殿とともに若君へお教えする約束をしていた。文に気を取られて時刻を失念してしまったらしい。
「お通ししてください」
程なくして、竹若丸様が女房に付き添われて入ってこられた。我らを見て座り、小さく頭を下げられる。傅役となってから四か月ほど、こうして若君と向き合うことにも少しずつ慣れてきた。若君も以前より気負わずに話してくださるが、挨拶を忘れられることはない。
「半兵衛、新太郎。今日は何を教えてくれるの?」
「その前に、若君へお知らせしたいことがございます」
「知らせ?」
「伊勢の長島で続いていた戦が、終わりました」
若君は私を見つめ、少し間を置いてから尋ねられた。
「父上が勝ったの?」
「はい。一向一揆が降伏いたしました」
「……父上は、怪我をしていない?」
「お怪我をなされたとの報せはございませぬ。御安心ください」
膝の上に揃えられていた小さな手が、僅かに緩んだ。戦の話を聞いて最初に父君の御身を案じられる。若君にとって大事なのは、まずそこなのだろう。私は手元の地図を若君の方へ向けた。
「以前、川を渡るお話をいたしましたな。今日は長島の戦を、地図を見ながらお話ししましょう」
「うん。橋がない時は、船で渡るんだったね」
「よく覚えておられます。こちらが長島でございます。幾つもの川に囲まれておりますでしょう」
若君は身を乗り出し、川を示す線を指で辿られた。先日、村から城へ米を運ぶ道筋を描いて見せた時にも、橋のない川をどう渡るのかと尋ねられた。その時のことが役に立つなら、私にも説明しやすい。
「敵は川の向こうにいたの?」
「左様でございます。こちらから渡れば、川の中を進む間に攻められます。殿は、敵がこちらへ渡ろうとしたところを攻められたのです」
「川の中だと、走れないから?」
「ええ。足元が悪く、思うように動けませぬ」
「……向こうから来るのを待ったんだね」
「そういうことでございます」
若君は指を止め、川の両岸を交互に御覧になった。戦の難しさをどこまで理解されたかは分からない。それでも、川を渡る者が不利になることは、御自身で確かめられたようだった。そこで新太郎殿が言葉を添えられた。
「ですが、それだけで長島が降伏したわけではございませぬ」
「船が長島へ食べ物を運べぬよう、九鬼殿の水軍が海を守っておられました」
「食べ物が、届かなかったの?」
「ええ。戦が長く続けば、蓄えていた米も減ってまいります」
「……兵も、お腹が空くものね」
「左様でございます。どれほど強い兵でも、食べずに戦い続けることは出来ませぬ」
若君は新太郎殿の顔を見て頷かれた。初めて傅役としてお会いした折、米を運ぶ者にも食べ物が要るのではないかと尋ねられたそうだ。兵も、荷を運ぶ人足も、食べ物がなければ働けない。その話が今日の長島につながっているのだ。
「半兵衛」
「はい」
「戦は、もう終わったの?」
「長島での戦は終わりました」
「じゃあ、兵もみんな帰ってくる?」
私は地図から目を上げた。若君はまっすぐこちらを見ておられる。答えに迷うような難しい問いではない。だが、どこから説明すべきかは少し考える必要があった。
「帰ってくる者もおりますが、伊勢の城を守るために残る者もおります」
「……勝ったのに?」
「はい。守る兵がいなくなれば、また争いが起こるやもしれませぬ」
「……戦が終わっても、兵はいるんだね」
「左様でございます」
若君は地図の島々を見つめたまま、黙っておられた。何かを尋ねたい時にはすぐ言葉にされず、相手の話が終わるまで待たれることがある。小夜様からそう伺っていたので、私は少し待つことにした。
「何か、気になることがございますか」
「……負けた人達は、どうなったの?」
そう来られたか。新太郎殿と目を合わせ、私はもう一度書状へ視線を落とした。そこに記されていることと、私にも分からぬことを分けて答えねばならない。
「降伏した一揆勢は、長島を離れたそうです。石山という所へ向かったと聞いております」
「お家には、帰れないの?」
「戻れる者もおりましょう。ですが、家や住んでいた所を失った者もいるかもしれませぬ。皆がすぐ元の暮らしに戻れるかは、まだ分からないのです」
若君は小さく頷かれたが、表情は晴れなかった。私の言葉が難しかったのかもしれない。あるいは、戦が終われば人々も家へ戻れると思っておられたのだろう。どちらとも決めかねていると、新太郎殿が穏やかに口を開かれた。
「若君、戦が終わった後にも、我らには仕事がございます」
「新太郎の仕事?」
「はい。兵を戻すために船や食べ物を用意することもそうですし、道を直すこともあります。人々が安心して暮らせるよう、これから整えねばならぬことも多うございます」
「……お米を作る人達も?」
「ええ。田を耕す者、商いをする者、荷を運ぶ者。そうした人々の働きが戻らねば、国は落ち着きませぬ」
若君は再び地図を見つめられた。川の向こうにある島を一つ指し、そこから岸まで指を動かされる。何かを口にされるかと思ったが、しばらくして顔を上げられた。
「……父上は、いつ帰ってくるの?」
私は少し頬を緩めた。若君が父君を待っておられることを、忘れてはならないのだ。戦の話に興味を示されても、まだ数え六つの御子である。
「はっきりとは分かりませぬ。伊勢でのお仕事が片付けば、お戻りになるでしょう」
「帰ってきたら、長島のことを聞いてみる」
「それはよろしゅうございますな。殿なら、私より詳しくお話しくださるでしょう」
「うん。でも、半兵衛にも教えてほしい」
「私にも、でございますか」
「半兵衛と新太郎は、教えてくれる人だから」
若君は当然のことのように仰った。思わず新太郎殿と顔を見合わせる。傅役としてお仕えすることになった日のことを思い出した。あの時には、何をどう教えればよいかと案じていた。今も手探りであることに変わりはないが、若君が尋ねたいことを一つずつ知るようにはなった。
「承知いたしました。私で分かることなら、きちんとお答えいたします」
「うん。ありがとう」
若君は頭を下げられた。その後も川や船のことを幾つか尋ねられたが、やがて女房が迎えに来た。今日はこれまでにしようと申し上げると、若君は素直に頷いて席を立たれた。部屋を出る前にもう一度振り返り、我らへ小さく手を振られた。
若君を見送ると、新太郎殿は片付けかけていた帳面を置き、地図へ目を向けられた。
「戦が終われば兵は帰れる。若君には、それが当たり前に思えたのでしょうな」
「ええ。私も初めは、御勝利をお伝えすれば喜んでいただけると思っておりました」
「まず殿の御無事を確かめられましたな」
「まだ幼いのですから、当然のことでございましょう」
私は頷きながら書状を手に取った。長島を落としたことで、伊勢の戦は大きな区切りを迎えた。だが、北畠家への処置も含め、その後に何をするかがこれからの伊勢を左右する。若君には難しい話であっても、勝ち負けだけを教えて済ませてよいものではないだろう。
「新太郎殿。今度は、伊勢で戦の後に何をするのか、若君にも分かるように考えてみませんか」
「道や田畑のことからであれば、お話し出来そうですな」
「ええ。私も、まずはそこから始めようと思います」
新太郎殿は頷き、再び帳面を開かれた。兵の帰還にはどれほどの船を用意するか。残る兵にはどこから米を送るか。目の前には、今日のうちに確かめねばならぬことが幾つもある。若君にも、こうした務めがあることを少しずつお伝えしていきたい。私は地図を畳まずに広げたまま、次の書状を手に取った。
永禄十四年(1571年) 五月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 長野鈴
衣を一枚畳み、膝の横に重ねた。いつもなら女房が片付けてくれるのだが、今日は自分の手で揃えたかった。部屋の隅には旅に使う長持が置かれている。明日には、この部屋を離れることになっていた。
長野の家へ帰れる。そう聞かされた時には、嬉しくてすぐに返事が出来なかった。長島の一向一揆が降伏し、北畠家も力を失ったという。叔父上は長野城でお変わりなく、私を迎えに細野壱岐守殿を遣わしてくださった。昨日、壱岐守殿からそのお話を伺って、ようやく本当に帰れるのだと思った。
けれど、衣を畳んでいると、手が何度も止まってしまう。ここへ来た頃には、伊勢のことばかり考えていた。長野の家から離れ、知らぬ人に囲まれて、いつ帰れるのかも分からなかった。それが今では、部屋の中の物を一つ片付けるたび、ここでのことを思い出している。
「鈴様、こちらの小袖もお持ちになりますか」
女房が畳んだ衣を示した。大方様のお計らいで仕立てていただいたものだ。袖口には、使っているうちに出来た僅かな皺が残っていた。
「はい。お願いいたします」
「承知いたしました。残りは私共でいたしますから、少しお休みになっては如何ですか」
「ありがとうございます。でも、もう少しだけ」
女房は頷いて長持の傍へ戻った。私は小袖をそっと撫で、重ねた衣の上に置く。大方様には先ほど御挨拶に伺ったばかりだった。戻ることを喜んでくださり、道中の支度に不自由がないか、何度も気遣ってくださった。離れるのは寂しいと申し上げると、そんな時には文を寄越しなさいと仰った。
それが嬉しかった。ここへ来た時の私は、何を申し上げても失礼になるのではないかと恐れていた。今では大方様のお部屋へ伺うのが楽しみになっている。手習いのことを尋ねられたり、辰殿や篠殿と一緒に貝合わせをしたり、いつの間にか当たり前になったことが幾つもあった。
廊下から聞き慣れた声がした。振り向くと、辰殿と篠殿が女房に案内されて入ってこられた。
「鈴殿。今、お邪魔してもよろしいですか」
「ええ、もちろんです」
辰殿の後ろから篠殿が顔を覗かせた。お二人とも積まれた衣と長持を見ると、しばらく口を閉ざされた。
「本当に、明日お帰りになるのですね」
「はい。壱岐守殿が迎えに来てくださったので」
「御叔父様も、お待ちかねでしょうね」
辰殿はそう言って微笑まれたが、篠殿は長持を見つめたままだった。私は座る場所を空け、お二人にこちらへ来ていただいた。いつも三人で過ごす時と同じように座ると、部屋が賑やかになった気がした。
「鈴殿がいなくなると、貝合わせも二人だけになってしまいます」
篠殿がぽつりと仰った。
「大方様も御一緒に遊んでくださるのではありませんか」
「でも、大方様はお忙しいもの。鈴殿は、私が何度間違えても待ってくださったでしょう」
「篠。鈴殿を困らせてはいけませんよ」
「……困らせたいわけではありません」
辰殿に窘められ、篠殿は俯かれた。私は二人を見比べた。篠殿が寂しいと仰ってくださったことは分かる。私も同じだったが、何と言えばよいのか分からなかった。
「私も、お二人と遊べなくなるのは寂しゅうございます。初めて一緒に貝合わせをした日のこと、覚えておられますか」
「ええ。篠が鈴殿の貝を教えてしまった日ですね」
「だって、合っていると思ったのですもの」
篠殿が顔を上げられた。あの時も同じような言い合いになり、結局、皆で笑ってしまったのだった。今思えば、私が辰殿と篠殿の前で遠慮せずに笑えたのは、あの日が初めてだったかもしれない。
「今度貝を合わせる時には、私の分も探してくださいませ」
「鈴殿がいらっしゃらないのに?」
「ええ。どちらが先に見つけられるか、後で文に書いて教えてください」
「……それなら、私が勝ちます」
「まだ始めてもいないのに、決めてしまうのですか」
辰殿にそう言われ、篠殿は口元に笑みを浮かべられた。私もつられて笑ったが、お二人を見ていると、胸の内に小さな引っ掛かりが残った。私は長野へ戻れる。お二人は、まだこの城で暮らしていかれるのだ。能登で何があったかは聞いている。故郷へ戻れるのは嬉しい。それを隠すつもりはないが、お二人の前で口にするたび、少し言葉を選んでしまう。
辰殿は私の重ねた衣へ目を落とし、一枚ずつ綺麗に畳んでありますねと褒めてくださった。それから何を持って帰るのか尋ねられたので、私も少しずつお話しした。大方様からいただいた品、こちらへ来てから使い始めた櫛、伊勢から持って来ていた帯。初めは少なかった荷が、いつの間にか長持を満たすほどに増えていた。
しばらくして女房が迎えに来ると、辰殿と篠殿は明日の出立の前にも顔を見せると約束して戻られた。篠殿は部屋を出る直前まで何か言いたそうにしておられたが、最後には「お気を付けて」と仰った。私も礼を述べ、廊下の角へ姿が消えるまで見送った。
部屋へ戻ると、さっきまで三人で座っていた場所が随分広く見えた。長持の蓋はまだ開いたままだ。私は小さな包みを手に取り、中身を確かめる。塩津浜で竹若丸様と毬を転がして遊んだ時に使ったものとは別の、小さな布の毬が入っていた。ここへ来て間もない頃、手慰みにと女房からいただいたものだ。いつしか竹若丸様が訪ねて来られると、これを出してお相手することも増えた。
「鈴殿」
不意に名を呼ばれ、私は包みから顔を上げた。入口には竹若丸様が立っておられた。付き添いの女房が一歩後ろに控えている。
「竹若丸様。どうぞ、お入りください」
竹若丸様は頷いて入ってこられた。いつもどおり頭を下げられた後、開いた長持と畳まれた衣をご覧になる。私は包みを脇へ置き、座布団を勧めた。
「鈴殿、伊勢に帰るの?」
「はい。明日、長野の家へ戻ることになりました」
「……明日なんだね」
「ええ。明日の朝には、ここを発ちます」
竹若丸様は頷かれたが、すぐには次の言葉を口にされなかった。長持の中を覗き込んだり、私の前に置いた包みを見たりしておられる。何か説明した方がよいのか迷っていると、小さな声で尋ねられた。
「叔父上のお家に戻るの?」
「はい。叔父上が待っていてくださいます」
「お家の人に会えるんだね」
「……ええ。ようやく、お会い出来ます」
そう答えると、竹若丸様は少しだけ口元を和らげられた。
「良かったね、鈴殿」
その一言が思いがけず嬉しかった。私が故郷を気に掛けていたことを、覚えていてくださったのだろうか。以前、大膳大夫様に、私が故郷を心配しているのではないかと尋ねてくださったことがあると聞いた。その時も驚いたが、こうして御本人から良かったと言っていただくと、返す言葉を探すのに少し時間が掛かった。
「ありがとうございます、竹若丸様」
私が頭を下げると、竹若丸様はまた長持をご覧になった。そして包みの脇から少しだけ覗いていた毬に気付かれたようだった。
「その毬も、持って帰るの?」
「はい。いただいたものなので」
「じゃあ、向こうでも遊べるね」
「ええ。でも、しばらくは竹若丸様と一緒に遊べませんね」
そう口にした途端、寂しさがはっきりした。竹若丸様は私の顔を見上げ、それから毬へ目を戻された。
「……うん。ぼく、鈴殿とまた遊びたい」
「私もです。こちらへ来た頃は、竹若丸様と遊んでいる時が一番気楽でした」
竹若丸様は膝に揃えた手を見つめておられた。あまり表情を変えられない御方なので、何を思っておられるかは分からない。それでも、いつもなら気になるものをすぐに尋ねられるのに、今日はなかなか言葉が続かなかった。
「鈴殿」
「はい」
「お家に帰ったら、鈴殿は元気だったよって、叔父上に伝えてね」
「はい。きっとお喜びになります」
「それから……」
竹若丸様は少し考えられた後、顔を上げられた。
「おばば様と、母上にも、ありがとうって言っておく?」
「まあ。私からも御礼を申し上げたところですよ」
「そうなんだ」
少し拍子抜けしたようなお顔をなさったので、思わず笑ってしまった。すると、竹若丸様も小さく頷かれた。
「でも、竹若丸様からそう仰っていただけると嬉しゅうございます。こちらで皆様に良くしていただいたことは、叔父上にもお話しします」
「ぼくのことも?」
「ええ。毬で遊んだことも、手習いを頑張っておられることも」
「……手習いは、まだ知らない字があるよ」
「私も知らないことが沢山ございます。一緒ですね」
竹若丸様は少し考え込まれた。やがて私の前の毬を指し、遊んでもよいかと尋ねられた。旅支度の途中ではあったが、女房に目を向けると、まだ少しなら大丈夫だと頷いてくれた。
「では、最後に一度だけ」
畳の上で向き合い、毬をゆっくり転がす。竹若丸様は両手で受け止め、こちらへ返してくださった。随分前、塩津浜で初めてお相手した時には、何度転がしても飽きずに追い掛けておられた。今は毬を受け取ると、私が取りやすいところへ返してくださる。遊びは同じでも、少しずつ大きくなっておられるのだ。
二度、三度と往復したところで、竹若丸様が毬を手にしたまま止まられた。何かお考えなのかと思ったが、すぐに私の方へ転がしてくださる。
「鈴殿、遠くへ行っても、元気でね」
「はい。竹若丸様も、お健やかにお過ごしください」
毬を受け取ってお答えすると、竹若丸様は静かに頷かれた。女房が頃合いを知らせたので、私は毬を包みに戻した。竹若丸様は立ち上がり、姿勢を正して御挨拶をなさった。私も向かい合い、礼を返す。お別れの御挨拶をするのは初めてだったが、いつもの御挨拶より長く感じられた。
入口までお送りすると、竹若丸様は廊下で一度振り向かれた。
「鈴殿。また会えたら、遊ぼうね」
「……はい。その時には、また御一緒いたしましょう」
私がそう申し上げると、竹若丸様は頷き、女房とともに歩いて行かれた。廊下の角を曲がるまで見送ってから部屋へ戻る。長持の傍には、畳み終えた衣が積まれていた。残るのは小さな包みと、明日までに使う物ばかりだ。
私は毬の入った包みを長持の上へ置いた。ここへ来た時には、何を持って帰れるかなど考えたこともなかった。帰る場所が残っているかどうかさえ、心配だったのだ。叔父上のもとへ戻れることは嬉しい。けれど、ここで知り合った人々と過ごす時間までなくなるわけではない。大方様に教わったことも、辰殿と篠殿の笑い声も、竹若丸様が毬を転がしてくださったことも、覚えていたい。
包みを衣の間に収め、長持の蓋を閉じた。明日は久しぶりに伊勢の道を通る。どのような景色が見えるだろう。叔父上は、私を御覧になって何と仰るだろうか。考えることは幾つもあったが、今夜はもう支度を終えておこう。私は長持から手を離し、部屋を見渡してから女房を呼んだ。
永禄十四年(1571年) 七月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 竹中半兵衛
机の上に、近江から伊勢へ続く道筋を描いた紙を広げた。山と川だけでなく、城や主だった町の位置も書き入れてある。隅には新太郎殿が持って来られた小さな木片を並べた。荷車と商人に見立てるためのものだが、若君にどこまで興味を持っていただけるかは、実際にお見せしてみなければ分からない。
長島が降伏してから二月ほどが過ぎた。伊勢では北畠家への処置も終わり、殿は関所を廃し、楽市楽座を行うよう命じられた。伊賀の者達も朽木に従うことを申し出ており、幾つかの約束を交わしたと報せが届いている。戦の勝ち負けをお話しした五月とは違い、今日はその後のことを若君に知っていただきたいと思っていた。
「半兵衛殿。こちらの木片で足りますかな」
新太郎殿が小さな袋を持って入ってこられた。机の上に幾つか加えていただくと、数は十分になった。私が描いた道に目を通した新太郎殿は、伊勢へ向かう道筋を指して頷かれた。
「これなら、品を運ぶ話にも使えそうですな」
「ええ。難しい言葉を並べるより、若君に動かしていただく方が分かりやすいかと思いまして」
「では、道を通る者の役を、私がいたしましょうか」
「お願い出来ますか。私は関所の役を引き受けます」
二人でそんなことを話しているうちに、廊下から足音が近付いてきた。女房に付き添われた竹若丸様が入口で立ち止まり、我らに御挨拶をなさる。以前よりも背が伸びたように見えるが、こうして机の前に座られると、まだ随分と小さな御方だった。
「半兵衛、新太郎。今日は何をするの?」
「今日は、この道を使って考えていただこうと思います。若君は、ここがどこかお分かりになりますか」
私は紙の中央を示した。若君は少し身を乗り出し、山と湖の形を見比べておられた。
「……清水山城?」
「左様でございます。ここから伊勢まで、道が続いております」
「伊勢は、鈴殿が帰ったところだね」
「ええ。鈴殿の御家も伊勢にございます」
若君は伊勢の方へ指を動かされた。五月の終わりに鈴殿を見送ってから、若君がその名を口にされることは時折あった。お寂しいのかもしれないが、私が尋ねたところで必ずしも御自身の気持ちを説明出来るとは限らない。まずは、今日のお話を進めることにした。
「さて、若君。こちらの木片を、米を運ぶ者だと思ってください。城の近くで米を積み、伊勢の町まで運びます」
「うん」
「では、道にこのような所があったら如何でしょう」
私は道の途中に小さな木片を横向きに置いた。新太郎殿が荷を運ぶ役になって、別の木片をゆっくり進められる。関所に見立てた所まで来ると、私が手を出して止めた。
「ここを通るには、銭を納めてもらおう」
「銭を?」
「はい。道の途中には、通る者や荷から銭を取る関所というものがございます。今はその真似をしているのです」
若君は私の置いた木片を見つめられた。新太郎殿が荷の役を少し後ろへ戻すと、若君は顔を上げられた。
「銭がなかったら、通れないの?」
「そのような所もありましょう。別の道を探したり、持っている銭を数えたりせねばなりませぬ」
「遠回りするの?」
「そうなることもございます。道が遠くなれば、それだけ人も荷も疲れますな」
私は関所に見立てた木片を脇へ寄せた。新太郎殿が荷を進めると、今度は止まらずに町まで着く。若君はその動きを目で追い、もう一度最初の場所へ戻すよう頼まれた。繰り返してもよいと申し上げると、御自身で荷の木片を動かされる。
「殿は、伊勢の関所を廃するよう命じられました。道を行き来する者が、関で止められたり、銭を取られたりすることを減らすためです」
「じゃあ、みんな通れるんだね」
「通りやすくなります。ただし、道を直す者や、悪さをする者を取り締まる者まで要らなくなるわけではございませぬ」
「道が壊れたら、通れないものね」
「そのとおりでございます」
若君は道の上に置いた荷を指で押しながら、川を渡る所で手を止められた。以前、橋がなければどうするのかと尋ねられた場所だった。今日は向こう岸へ船を一つ描き足すと、若君は頷いて荷を進められた。
新太郎殿が別の木片を二つ取り出された。一つを米を積んだ荷、もう一つを塩を積んだ荷に見立てるという。商いについても知っていただくには、こちらの方がよさそうだった。
「若君。こちらの村には米がございますが、塩を作っているわけではありませぬ。米を売って銭を得た者が、その銭で塩を買うことも出来ます」
「塩は、海の方から来るの?」
「そうです。海辺で作られた塩が船や道を通って運ばれてきます」
若君は米の木片と塩の木片を並べて、どちらを動かせばよいか尋ねられた。新太郎殿が、まず米を市へ運びましょうと申し上げると、若君は米を町へ置かれた。
「では、塩を売る者も町へ来たことにいたしましょう。お互いに欲しい物があれば、そこで商いをするのです」
「米と、塩を取り替えるの?」
「そのようにすることもありますが、銭を使う方が便利なこともございます。米を買った銭で、別の物を買えますからな」
新太郎殿が木片の傍へ小さな銭を一枚置くと、若君はそちらへ目を向けられた。誰が何を受け取るのかを一つずつ確かめておられる。米と塩、それに銭の動きを一度に追おうとすると少し迷われたので、私が木片を減らして差し上げた。
「それでは、商いの出来る者が限られていたら如何でしょう。品があっても、市に出せぬ者が出てきます」
「売れないの?」
「ええ。売りたくとも、勝手には売れぬことがあるのです。殿は伊勢で、そのような決まりを改め、商いをしやすくされました。楽市楽座という御定めでございます」
「……難しい名前だね」
「私も、初めから全部覚えていただこうとは思っておりませぬ。市に品を持って来る者が増えれば、買う者にも選べる物が増える。それだけ、まず覚えていただければ十分です」
若君は少し考えてから、先ほどの塩の木片を米の隣に置かれた。
「お店が増えると、塩も買いやすくなる?」
「売りに来る者が増えれば、そうなることもありましょう。ただ、必ずそうなるとは限りませぬ。品が足りぬ時も、道が悪い時もございますから」
「道も、大事なんだね」
新太郎殿が頷かれた。兵糧を運ぶ者も商いをする者も、道が悪ければ困ることに変わりはない。若君にはそこでいったん水を飲んでいただいた。木片を動かすうちに随分時間が経っている。ひと息つかれたのを見て、私は紙を回し、近江から伊賀へ続く山の道を示した。
「今度はこちらでございます。伊賀という国を、御存じでしょうか」
「伊賀……父上が、行ったところ?」
「此度は伊賀から主だった方々が、殿のもとへ来られたのです。伊賀は山の多い国で、そこにも人々の暮らしがございます」
私は伊賀の辺りに小さな印を付けた。若君は近江からの道筋を指で辿られたが、山の印が増える所で止まられた。
「山を越えるの?」
「道を選べば越えられます。しかし、そこに住む者が道をよく知っているのは、言うまでもありません。殿は伊賀の人々と話し合い、朽木に従っていただくことになりました」
「戦わなかったの?」
「此度は、伊賀の主だった方々が殿にお会いし、約束を交わしたと聞いております。国によっても、従っていただくまでの道筋は違うのです」
若君は頷かれた。長島の戦をお教えした時には、川で戦う兵のことをしきりに尋ねられた。今日は同じ地図の上でも、争わずに取り決めをする話だった。
「約束って、何?」
「伊賀の里のことは、そこに住む人々が決められるようにする。その代わり、朽木の軍勢が伊賀の道を通れるようにするのです。それから、伊賀の者は他国の仕事を請け負わず、朽木から仕事を受ける。そうした約束でございます」
「自分のお家のことは、自分で決めるの?」
「何もかもというわけではございませぬ。朽木に従う以上、殿との約束も守っていただきます。ただ、昔からそこで暮らす人々に任せた方がよいこともあるのでしょう」
若君は伊賀の印を見たまま、小さく頷かれた。今の説明がどこまで伝わったのかは分からない。私は言葉を重ねかけたが、新太郎殿が机の端へ残っていた木片を一つ置かれたので、そちらへ目を向けた。
「若君。例えば、この道を直すといたしましょう。遠くにいる我らと、毎日その道を使っている者とでは、どちらが道の様子をよく知っていると思われますか」
「……毎日、通っている人?」
「ええ。そうした者の話を聞けば、どこが崩れやすいか、雨の日に困るのはどこかが分かります。城にいる者だけで、何もかも決められるわけではございませぬ」
「そこにいる人が、教えてくれるの?」
「ええ。こちらから尋ね、話してもらうことも大切です。知らぬまま道を直しても、肝心の者達が困るかもしれませぬからな」
新太郎殿の答えに、若君は目を伏せて木片を一つずらされた。私も、少し考えさせられた。殿が伊賀の者達と交わされた約束を、ただ服属したという言葉だけで済ませれば、その土地で何を任せ、何を朽木が引き受けるのかは伝わらない。幼い若君に教えるために言葉を選んでいると、私自身も曖昧に考えていた所が見えてくる。
「半兵衛」
「はい」
「約束は、父上も守るの?」
「もちろんでございます。従う者ばかりに約束を守れと言って、こちらが守らぬのでは、信じてもらえなくなります」
「……両方で、守るんだね」
「左様でございます」
若君はしばらく伊賀の印を見つめておられたが、やがて指を近江へ戻された。
「ここも、父上のお仕事なの?」
「ええ。この城の周りにも村がございますし、田畑があり、人の往来する道がございます。殿のお仕事は、遠くの国だけではありませぬ」
「田んぼの人も、道を使う?」
「米を運ぶ時も、村を行き来する時も使います。道が傷めば、こちらの村でも困る者が出るでしょう」
「そうか……」
若君は、最初に動かした米の木片を近江の村へ戻された。それから道に置いてあった関所の木片を脇へ寄せ、町まで一つずつ進めておられる。何かを思い付かれたようにも見えたが、私は急かさず、最後まで見守ることにした。
「鈴殿のお家も、こっちへ道が続いているんだよね」
「はい。伊勢へは幾つもの道が通じております。鈴殿も、迎えの方々とその道を通って帰られたことでしょう」
「……また、会えるかな」
「それは、今は分かりませぬ。ですが、互いに無事であれば、またお会いする機会もありましょう」
若君はその返事を聞くと、静かに頷かれた。それ以上は尋ねられず、伊勢へ続く線をもう一度指でなぞっておられた。鈴殿との別れが、今日の道の話と結び付いたのだろうか。何を思っておられるのかを決め付けず、私は紙が動かぬよう端を押さえた。
やがて女房が迎えに来た。若君が小さく目をこすられたのを見て、随分長くお話ししてしまったことに気付いた。今日はここまでにしようと申し上げると、若君は頷き、木片を袋へ戻すのを手伝ってくださった。最後に礼を述べられ、女房とともに部屋を出ていかれた。
若君がお帰りになると、新太郎殿は先ほどまで木片を並べていた道筋へ目を落とされた。私が机の上を片付け始めると、新太郎殿が笑みを浮かべられた。
「関所の話から、鈴殿の御家まで行き着きましたな」
「ええ。若君にとって伊勢は、地図の上の国の名だけではないのでしょう」
「よいことかもしれませぬ。道の先にも、人が暮らしていると分かっていただけるのですから」
「そうですな。私も、それを忘れぬようにせねば」
私は新太郎殿とともに、地図を畳まずに机の上へ残した。伊勢では新しい定めを人々に伝え、伊賀では交わした約束を守っていかねばならない。近江でも、畑を耕し、荷を運び、商いをする者達の暮らしは続いている。殿が戦を終えられても、城に残る我らの仕事が尽きないのは、そのためなのだろう。
今日、若君は幾度も木片を動かされた。どの道を通るか、どこで止まるか、誰のところへ荷が届くのか。一つずつ確かめておられる姿を思い出す。いずれ御家を背負われる時、今日の話をどれほど覚えておられるかは分からない。だが、地図に描かれた道の先には人がいる。そのことだけは、これからも折に触れてお話ししていこうと思った。