淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十四年(1571年) 九月上旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 山口新太郎
机の上には、米を運ぶ荷駄の数を書き付けた帳面が三冊並んでいた。近江から京へ向かう道筋を確かめ、道中の宿所と米を渡す場所を決める。数字を合わせるだけなら難しくはないが、帳面に書いたとおりに荷が届くとは限らない。船が遅れれば荷揚げも遅れる。雨で道が傷めば、荷車を通すにも余計な手間が掛かる。
八月の末に上洛が決まり、城の中は一段と慌ただしくなった。今度は三好との戦だ。殿は五万の兵を動かすおつもりで、軍略方と兵糧方には十月の出陣に間に合わせるよう命が下っている。伊勢での戦が終わり、ようやく兵を休ませられると思っていたが、長くは続かなかった。
「新太郎殿。こちらの控えも御覧いただけますか」
書付を持ってこられた半兵衛殿が、向かいに腰を下ろされた。近江から京へ向かう道のうち、兵と荷駄を分けて通した方がよい所に印が付けてある。
「有難い。こちらでも荷を運ぶ者の数を数えていたところです。道が狭い所に兵が集まっては、後ろの荷が進めませぬ」
「それで、先に通す組を決めておこうと思いまして。無理に急がせて道を塞ぐのでは、かえって遅くなります」
「まったくですな。前の荷が止まれば、その後ろも止まってしまいますから」
私は帳面の一か所を指で押さえた。先に米を運ぶか、それとも兵を先へ進めるか。進軍の速さだけを考えていては、道中の食事が続かなくなる。半兵衛殿が示された進軍の順序を確かめながら、私は兵糧を先に送る場所と日取りを帳面に書き加えた。
「十月までは、まだ幾日かございます。しかし、それだけに気を緩めるわけにも参りませぬな」
「ええ。殿も、もう少し支度に日を掛けられればと仰っておられました」
半兵衛殿の声は落ち着いていた。私も先の評定で殿の御様子を拝見している。出陣を決められてからは、兵の数も運ぶ物も一つずつ確かめ、家臣の意見にも耳を傾けておられた。だが、御満足の御様子ではなかった。戦に負けると考えておられるのではない。もっと整えておきたい事があるのだと、御言葉からも分かった。
私は帳面を閉じ、別に用意してあった紙を取り出した。今日も、この後には竹若丸様へお教えする約束がある。半兵衛殿と私の二人で毎日伺うわけではないが、政務の合間に時間を決め、出来るだけ続けていた。戦支度で忙しいからといって、若君との約束まで疎かには出来ない。
「こちらは、若君にお見せするためのものですか」
「はい。先ほど荷を数えていて思い付きました。兵に米を届けるには、運ぶ者にも食べる物が必要だというお話を、前になさいましたでしょう」
「覚えております。若君は、一つ分かると、その先にいる人のことまで尋ねられる」
「ええ。今日は、同じ米でも、いつまでに運ばねばならぬかで支度が変わることをお話ししようかと」
紙には、二つの村と、その間を結ぶ道を描いただけだ。難しい文字も細かな数もない。前に半兵衛殿が用いた地図より、ずっと簡単なものでよいと思った。半兵衛殿は紙に目を落とし、これなら若君にも分かりやすいでしょうと頷かれた。
程なくして、女房に付き添われた若君がお見えになった。入口で御挨拶をなさった後、私と半兵衛殿の前に座られる。近頃は部屋へ入ると、何を教わるのかと机の上を確かめられることが増えた。今日も紙を見つけると、顔を少し近付けられた。
「新太郎、今日は道のお話?」
「はい。以前のお話を少し思い出していただこうかと。若君、こちらの村から、あちらの村まで米を運ぶといたしましょう」
「うん」
「三日後に届けばよい時と、明日の朝までに届かねばならぬ時とでは、支度は同じでございましょうか」
若君は二つの村の間を指で辿られた。
「……明日の朝なら、急ぐの?」
「そうでございますな。では、どうすればよいでしょう」
「早く出る。それから……」
言葉が止まった。若君は紙を見つめ、道の途中を指さされた。
「ここで止まったら、遅れるね」
「はい。雨で道が悪くなることもありますし、荷を運ぶ者が疲れることもございます」
「疲れたら、休まないといけないよ」
「ええ。ですから、余り無理のない道を選び、途中で替わる者を用意することも考えます」
私が道の途中へ小さな丸を二つ描くと、若君はそこへ指を置かれた。荷を運ぶ者の休む所だと申し上げると、御自分で丸を一つ増やされた。
「ここでも休める?」
「その村に泊めていただけるなら、そういたしましょう。ただ、頼まずに押し掛けるわけには参りませぬ。米や寝る場所の支度が要ります」
「そこの人も、困るものね」
前に教えたことを、覚えていてくださったらしい。私は頷いて、道に描いた丸を一つずつ指した。十月の出陣を考えれば、私達が今している仕事も同じことだ。もっとも、これほど少ない荷で済むわけではない。
若君は、紙の道をもう一度確かめておられた。しばらくして顔を上げられたが、目は私ではなく、半兵衛殿の方へ向いている。
「半兵衛。もうすぐ、父上も京へ行くの?」
「左様でございます。十月には兵を率いて京へ向かわれる御予定です」
「また、戦うの?」
「三好の軍勢と戦うことになりましょう」
若君は頷かれた。長島の戦についてお話しした頃も、殿が無事でお帰りになるのかを気に掛けておられた。今度も御心配なのだろうと思ったが、次に出たのは別のお言葉だった。
「みんな、京へ行く支度をしているんだよね」
「はい。我らもそのために働いております」
「……父上は、嬉しくないのかな」
思わず半兵衛殿と目を合わせた。若君は紙の端を指で押さえたまま、こちらを見上げておられる。
「何故、そのように思われたのですか」
「この前、父上が京へ行くってお話ししてくれた時、ずっと何か考えているみたいだったから」
「殿が、でございますか」
「うん。怒っているわけじゃないと思う。でも、何だか……」
若君はそこで言葉を探すように口を閉じられた。殿は家中の者に御心配を掛けぬよう、普段は穏やかに話される。だからこそ、若君も顔色を確かめられたのかもしれない。だが、殿が何を思われていたかを、この場で私が決め付けるわけにはいかない。
「若君。京へ向かわれることと、戦の支度が整っていることは、別のお話にございます」
「別なの?」
「はい。例えば、先ほどの米でございます。運び始める日は決まっていても、その日までに道や荷の支度が済まねば、心配が残りましょう」
若君は机の紙へ目を戻された。先ほど御自分で描かれた丸の所で、指が止まる。
「……まだ、支度が終わってないの?」
「我らは間に合うように働いております。ですが、もう少し日があればと考えることもございます。殿も、そのように思われたのかもしれませぬ」
半兵衛殿が傍から言葉を添えられた。
「殿は、兵を率いてお出掛けになります。兵達を無事に進ませ、戦の後にも帰らせねばなりませぬ。ですから、我らより多くのことを気に掛けておられるのでしょう」
「……父上は、みんなのことを考えているの?」
「そう思います。ただ、どんなお気持ちでいらっしゃったかは、殿に伺わねば分かりませぬ」
若君は少し考えておられた。やがて紙から手を離し、私の方を向かれた。
「新太郎は、京へ行くのが嬉しい?」
「私でございますか」
不意に尋ねられ、少し考えた。三好を退ければ、朽木はさらに西へ力を伸ばせる。今ある領地を守ることも肝要だが、それだけで済む世ではない。他家も兵を集め、勢力を広げようとしている。我らだけが同じ所に留まれば、いずれ守っている国まで脅かされる。今の世では、立ち止まることが衰えにつながるのだ。
もっとも、三好を京から退けた後が安泰とは思えない。義昭様と殿の間が上手くいっていないことは、家中の者にも見えていた。殿は出陣までにもっと日をかけたいと仰っていたが、十月の上洛は既に決まったことのように伝わってきた。五万もの兵を動かす当家の意向が、どこまで汲まれたのだろう。畠山や北畠をめぐるこれまでのことを考えても、京へ戻られた義昭様と殿が、すんなり折り合えるとは思えぬ。三好を追い払う必要はある。だが、戦に勝てば別の難題が待っているのではないか。そうした気掛かりは、私にもあった。
「三好を京から退けられるのであれば、喜ばしいことでございます。朽木が西へ進むには、まず三好の軍勢を退けねばなりませぬからな」
「今ある国を守るだけじゃ、駄目なの?」
「周りの国も強くなっております。我らだけが今のままでいれば、やがて押され、守りたいものまで守れなくなるやもしれませぬ」
「……何もしないと、弱くなるの?」
「左様でございます。だからこそ、我らは西へ進むための支度をしているのです」
若君はすぐに返事をなさらなかった。指先で紙の角を揃え、描かれた道をじっと見ておられる。答えが難しかったかと思い、私は先ほどの米の話へ戻そうとした。
「……じゃあ、父上は、どうして嬉しそうじゃなかったの?」
「戦う必要があることと、今すぐ戦うのがよいかどうかは別でございます。それに、戦に勝った後のことも考えねばなりませぬ。殿が何を案じておられるか、私がすべて存じているわけではございませぬ」
「じゃあ、父上に聞いてもいい?」
「もちろんでございます。ですが、今は御用が立て込んでおられます。ゆっくりお話し出来る時に、伺うのがよろしいでしょう」
若君は頷かれた。それからもう一度紙へ目を落とし、自分で描き足された丸を指した。
「新太郎も、ここで休んでね」
「……はい。お気遣い、有難うございます」
思わず笑みが浮かんだ。私は京へ荷を送る仕事をしているが、今のところ自分がその道を歩くわけではない。そう申し上げかけ、止めた。若君は私にも休みが要ると言ってくださったのだろう。忙しさを理由にお相手の時間を短くした日もあった。それでもこちらの仕事を気に掛けてくださるのは、有難いことだった。
その後は、紙の上で荷の道筋を少し確かめ、今日の教えを終えた。若君は半兵衛殿にも礼を述べ、女房とともに退出された。廊下へ出る前、父君に尋ねるのは御用が終わってからにすると、もう一度仰った。
足音が遠ざかると、半兵衛殿が机の紙を手に取られた。
「若君は、殿の御様子をよく見ておられますな」
「ええ。ですが、御心配だけではなかったようです。何故お喜びでないのか、それを知りたかったのでしょう」
「我らも、知り得ることばかりではありませぬ。若君には、そのことも覚えていただかねばなりませんな」
「そうですな。見たことと、そこから考えたことは同じではございませぬ」
若君が人の話をよく聞き、聞いたことを覚えておられるのは、今では我らも十分に知っている。先ほども、殿が怒っておられたのではないと、御自身で確かめておられた。だからこそ、思い付いた答えを私が代わりに決めてしまってはいけないのだろう。
「さて、新太郎殿。先ほどの進軍順序ですが、兵糧方の支度と食い違いはございませぬか」
「ええ。道の狭い所から荷を先へ通すよう手配をしております。十月までに済ませねばならぬことは、まだ幾つもございます」
半兵衛殿が書付を広げられた。私は帳面を開き、先ほど印を付けた道を確かめる。若君と話している間にも、出陣の日は近付いている。少しでも殿の憂いを減らせるよう、今は目の前の務めを果たすほかない。
私は筆を取り、次の荷を送る日を書き入れた。
永禄十四年(1571年) 十月上旬 山城国宇治郡山科 朽木基綱
敵の陣から法螺貝の音が聞こえた。まだ距離はある。見通しの利く場所へ馬を進めると、向こうの旗が風に揺れているのが見えた。三好三万に対して、こちらは五万。数では勝っている。だが、兵数だけで勝てるなら軍議など要らない。三好は一度山科で敗れている。今度こそ、と考えて来た連中が、前と同じ戦い方をするはずがなかった。
黒野重蔵が持ってきた報せには驚かされた。敵の足軽が竹を束ねた物を持っているという。物見の話では、人の背丈ほどもありながら、それほど重くはないらしい。数も少なくない。およそ一万だ。
竹を束ねれば鉄砲玉を防げる。何とも安上がりな工夫だが、軽く見てよい物ではない。こちらの鉄砲隊が敵の中央を崩すことを、三好はよく知っている。ならば弾を防ぎ、撃ち終わる間に近付く。それを考えたのだろう。連中にしてみれば、二度も同じ手で負けるわけにはいかない。考えてみれば当然の話だ。
「殿。先ほどの手配、各隊へ行き渡りました」
十兵衛が馬を寄せてきた。明智十兵衛光秀、今回から副将を任せている。顔色一つ変えずに報告するあたり、頼もしい男だ。
「長柄槍の足軽は?」
「鉄砲隊の後ろに控えております。道を空ける手順も確認いたしました」
「二射だ。欲を出して三射目を撃とうとするなと、念を押しておけ」
「はっ」
十兵衛はすぐに使番を呼んだ。出された命令が一つずつ伝わっていくのを見ると、多少は腹が据わる。もっとも、命令が正しかったかどうかは、これから分かる。
「鉄砲を下げるだけでは済まぬ、と仰った意味が分かりました」
隣で下野守が敵陣を見ていた。
「そうか?」
「敵は鉄砲隊を狙っております。その鉄砲隊を下げれば、今度は我らの足軽同士がぶつかる。三好の兵は必死でございましょう」
「こちらの兵も働いてくれるさ。ただ、苦しい戦いをさせてまで正面から押し返す必要はない」
銭で雇った兵が多い朽木軍には、時期を選ばず動ける強みがある。だが、命を懸けて踏み止まれと命じれば、誰もが従うというわけではない。彼らが力を出せる形を作るのも、指揮する者の務めだ。
敵の竹束は鉄砲を防ぐための物だ。持っている間は大きな武器を扱いにくい。近付くのに都合のよい物でも、長柄槍と向き合った時には邪魔になる。それで中央の仕組みを変えた。鉄砲は半数だけ前へ出し、二度撃ったところで左右へ退く。そこを通して、後ろに控えさせた長柄槍の足軽を前へ進ませる。鉄砲隊を狙って走ってきた敵を、別の相手にぶつけるわけだ。
理屈は通る。だが、戦場で理屈どおりに兵が動くとは限らない。退く鉄砲隊がもたつけば、敵を自陣へ招き入れることになる。俺が一番気にしているのはそこだった。
「敵の中央が動きました!」
使番の声に顔を上げた。竹束を掲げた足軽が、横に広がって進み始めている。背後から太鼓が鳴った。ゆっくりだった歩みが速くなる。来たな。
「鉄砲隊、構え!」
命令が前へ伝わる。こちらの弓から矢が放たれた。敵兵の幾人かが倒れる。それでも竹束を持つ足軽の足は止まらない。やがて、鉄砲が一斉に火を噴いた。白い煙が広がり、敵の姿がぼやける。竹束の陰に隠れた兵は、思ったほど倒れなかった。敵陣から声が上がる。鉄砲が効かぬと見て、勢いづいたらしい。
「第二射!」
再び音が重なった。耳に残る響きが消えないうちに、俺は前を見た。敵の列はまだ崩れていない。しかも、思いのほか近い。少し速すぎるな。
「十兵衛、下げろ!」
「鉄砲隊、後退! 長柄槍隊、前へ!」
合図の旗が振られ、陣太鼓の調子が変わった。鉄砲隊が左右へ割れて下がり始める。その間から、揃えた槍の穂先が姿を現した。一瞬、間が空いたように見えた。敵がその隙間へ入ってくる。頼むぞ。ここで立ち止まるな。
長柄槍の足軽が前へ出た。先頭の列が槍を振り下ろし、続く列が突く。竹束を掲げていた三好の足軽は、勢いのまま近付いたところで足を止めた。短い槍ではこちらの穂先まで届かない。竹束で受ければ、その間に別の槍が迫る。敵の中央が押し戻され始めた。
「押しておりますぞ!」
近くの武将が声を上げた。俺もようやく息を吐いた。よかった。間に合った。少しでも遅れていたら、鉄砲隊の中へ踏み込まれていたかもしれない。二射で止めて正解だった。余計な一射を欲張れば、目の前の景色は逆になっていただろう。
こちらの中央が敵を押し返すと、両翼から届く報せも明るくなった。三好の足軽は中央を抜こうとしていた分、そこが止まれば勢いを失う。だが、まだ勝ったわけではない。
「源五郎。鉄砲隊の支度はどうだ」
「既に隊を整え直しております」
「敵の後方へ回せ。左兵衛尉の叔父御にも鉄砲隊と連携し、敵の後ろを遮断するよう伝えろ。騎馬隊には敵本隊を牽制させる。深入りはするな」
「はっ」
真田源五郎が使番に命令を伝えた。敵の中央を押し返したところで、鉄砲隊を後方へ回せれば、三好の退路を脅かせる。左兵衛尉の叔父御にはその動きに合わせて敵の後ろを塞いでもらう。敵本隊が鉄砲隊を止めに来るなら、こちらの騎馬が牽制する。後ろと中央の両方を気にしなければならなくなれば、三好も容易には踏み止まれまい。
「殿、敵の本隊も動きました!」
使番の報告を受け、俺は顔を上げた。三好の旗が揺れ、後ろにいた一団が横へ流れていく。鉄砲隊を止めに来たのだろう。こちらの騎馬も動いた。離れているため細かな様子は分からないが、敵本隊の進みが鈍ったのは見て取れた。今のところ、こちらの狙いどおりだ。
ただし、三好もこのまま黙って敗れる連中ではない。前の山科で敗れた後、竹束を揃えるまで考えたのだ。今日負けても、生き残れば次の手を探すだろう。だからこそ、今回の上洛だけで済むようにしたい。京から三好を追い払い、西へ進む道を確保する。ここで足踏みすれば、せっかく広げてきた朽木の力も鈍ってしまう。
もっとも、三好を退けたところで全てが片付くわけではなかった。義昭のやつとは、もう随分と折り合いが悪い。こちらがもっと準備をしたいと言っても、向こうの都合で上洛の時期は決まってしまった。勝てば喜ぶだろう。だが、こちらの意向も十分に確かめず上洛を急がせた義昭が、京に戻った途端に朽木の言い分を聞くようになるとは思えない。こちらの五万が三好を追い払えば、その五万の力を持つ朽木を、今度は義昭の側がどう見るか。考えないわけにはいかなかった。
小夜も雪乃も身重だ。出来ることなら、今頃は家にいて二人の様子を見ていたかった。だが、今は目の前の戦を片付けねばならない。家に帰るにしても、勝っただけで後を放り出すわけにはいかないのだ。
「殿。追撃の御指図を」
十兵衛の声で目を前に戻した。三好の中央は大きく後退していた。そこへ鉄砲の音が届き、敵の列が一段と乱れる。味方から歓声が上がった。
「ここで厳しく追えば、三好に大きな痛手を与えられます」
源五郎もそう進言した。なるほど、その考えは分かる。今なら敵を追って損害を広げられるかもしれない。次に戦う時、敵の兵が少ない方がよいに決まっている。だが、下野守が首を横に振った。
「殿。追い詰め過ぎるのはお控えくだされ」
「理由を聞こう」
「逃げ場を失った三好勢が、京の町へ火を放つやもしれませぬ。焼かれては、取り戻したところで民が暮らせませぬ」
そうだった。目の前の敵を減らすことばかり考えていた。京の町を盾にされれば、こちらがどれほど戦に勝っても取り返しがつかない。義昭を京へ迎えるための戦で、その京を焼かせては何をしているのか分からない。
「下野守の言うとおりだ。追撃は早めに切り上げる。三好には京を捨てて退く余地を残せ。京に火を掛けられては、戦に勝っても上洛戦としては負けも同然だ」
「はっ!」
十兵衛と源五郎が使番を走らせた。厳しい追撃を望んでいた者には不満もあるだろう。だが、ここは譲れない。その後も戦場からは何度か鉄砲の音が響いた。敵が退き、こちらが押す。急いで前へ出ようとする部隊を止め、崩れた隊列を整えさせた。兵を集め直さずに追わせれば、勝ち戦の途中で思わぬ損害を出しかねない。
しばらくして、三好勢が退いているとの報せが続けて届いた。
「どうやら、今日の戦は決まりましたな」
十兵衛がそう言った。俺は頷いたが、敵陣の向こうを見たまま返事をしなかった。京へ通じる道は、まだ三好が通ってきた道でもある。敵が退いているからといって、町の安全まで確かめられたわけではない。
「負傷した者を運べ。倒れたままの者がいないか確かめさせろ。日が落ちる前に、各隊の数も揃えたい」
「承知いたしました」
十兵衛が去った後、下野守が傍に残った。
「京のことを御案じでございますか」
「それもある。三好を追い払うのは、ここへ来た目的だからな。だが、その後はどうなるか」
「義昭様のことでございますな」
俺は下野守を見た。下野守は余計なことを言わず、京の方へ目を向けた。こちらが何を考えているのか、おおよそ察しているのだろう。
「三好を倒せば済むと思っていたなら、気楽だったんだがな」
「戦の後も、殿のお仕事は続きましょう」
「まったくだ」
笑ってみせたが、胸の内は軽くならない。向こうの陣からはまだ時折、乱れた音が聞こえてくる。敗走する兵も、勝って帰る兵も、この後はどこかで飯を食い、眠らねばならない。道を使い、村に立ち寄り、町を通る。戦が終われば、それで片付くわけではないのだ。清水山城に残した半兵衛と新太郎も、今頃は次に送る米と荷駄のことを考えているだろう。五万の兵を京まで動かした。帰す時にも、同じだけの手間が掛かる。
俺はもう一度京の方角を見た。戦に勝つための支度はしてきた。これからは、その勝利をどう収めるかを考えねばならない。日は傾き始めていた。
永禄十四年(1571年) 十一月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 竹中半兵衛
京からの文が届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。御屋形様からの文は何通かに分かれており、軍略方への指示のほか、上洛戦の経緯と京での話し合いについても記されていた。
山科で三好勢を破ってから一月ほどが過ぎている。その後、御屋形様は摂津の城を押さえ、三好勢は京を捨てて四国へ退いた。義昭様も室町第へ入られたという。大きな戦は一段落したが、兵を帰せば終わりというわけではない。京に残す兵の配置、占領した城の警固、帰国する軍勢の順序。書付に並んだ用向きは、相変わらず多かった。
「新太郎殿。こちらで定めた兵の帰国順は、兵糧方にも伝わっておりますか」
「ええ。お知らせいただいた順に合わせ、米と荷駄の手配を進めております。各所へも既に知らせを出しました」
新太郎殿が帳面を置かれた。お互いに戦の支度で忙しかったが、勝ったと聞いて気を緩めてよい時ではない。それでも、御屋形様が御無事でいらっしゃると分かったことには、幾らか胸を撫で下ろしていた。
文には、土佐の一条家への援助についても一行があった。米や銭の用意は新太郎殿達、兵糧方の役目になる。軍略方としては、今後、人や兵を動かす必要が生じた場合に備えておかねばならない。ただ、詳しいことはまだ書かれていない。何をするかも分からぬうちから、勝手に動くわけにはいかなかった。
「それで、京での御沙汰ですが」
私が別の文を開くと、新太郎殿は姿勢を正された。
御屋形様は屋形号を認められた。それに近江、若狭、越前、加賀、能登、伊勢、伊賀、志摩の守護職も与えられるという。堺には代官を置くことを許され、京極と六角の家督についても、御屋形様の手に委ねられた。
「堺への代官設置は、実に大きなことですな」
新太郎殿の言葉に頷いた。堺へ代官を置くことは、商いを進めるだけではない。自治を行ってきた町へ朽木の統治を及ぼす足掛かりにもなる。新太郎殿も、その重みを理解しておられるのだろう。屋形号にも、京極や六角など名門の旧臣を束ねる上で意味がある。
一方、京極と六角の名跡はどうか。誰に家督を継がせるか決められるのは便利かもしれぬが、家名を手にしただけで領地や兵が増えるわけではない。名門というだけで人が従う時代でもなかった。御屋形様も古い家柄を有難がるお方ではない。六角家との間には幾度も難しいことがあり、名門であることより実際に何が出来るかを重んじておられる。名跡を預かることには使い道があっても、大きな恩賞と喜ばれるとは思えなかった。
だが、文を読み進めるうちに、私も一つのことが気になった。
「新たな領地は、ございませぬな」
「……そうですな」
守護職を与えられた八か国は、いずれも既に御屋形様が治めておられる国だ。支配を正式に認められたという意味はある。だが、山科で三好を破り、義昭様の京への帰還を実現した朽木に、新しい領地が一国も加わらなかったことも事実だった。
無論、御屋形様が土地を望まれなかったという事情もあるらしい。文には、摂津を今すぐ引き受けるつもりはないこと、幕府の役職も辞退したことが記されていた。石山本願寺も国人衆も抱える摂津を貰ったところで、当家の負担が増すばかりだという御判断なのだろう。
それでも、上洛に必要な兵の多くを出し、戦を決した家への扱いとしては、いささか釣り合いを欠くように思えた。
「……義昭様の御側には、御屋形様を快く思わぬ方々もおられましょう」
声を落とすと、新太郎殿も頷かれた。
「上洛を急がれた頃から、折り合いは良くありませなんだ。御屋形様の御力を借りねば京へは戻れぬ。しかし、その力がこれ以上大きくなるのも困る。そう考える者がいたとして、不思議ではございませぬな」
「はい。ただ、我らが京でのやり取りの全てを知るわけではありませぬ。御屋形様御自身が何を望まれ、何を退けられたかも考えねば」
新太郎殿は文を見つめられた。恩賞が少ないと腹を立てるのは簡単だが、御屋形様が欲しがりもしない土地を押し付けられては、かえって困る。とはいえ、朽木を警戒する者達の思惑まで消えるわけではない。
その後、軍略方の用向きを一通り片付け、私は若君の許へ伺った。
竹若丸様は、女房に付き添われて既に部屋におられた。机の端には、以前お教えした道の絵が置かれている。私が座ると、若君はまず京からの文について尋ねられた。
「半兵衛。父上は、まだ京にいるの?」
「はい。ですが、戦には勝たれました。三好の軍勢は京から退き、四国へ戻っております」
「もう戦わなくていいの?」
「今すぐ大きな戦をすることにはなりますまい。ただ、まだ片付けねばならぬことがございます」
「父上は帰ってこられる?」
「いずれお帰りになります。帰国の日が決まれば、お知らせがございましょう」
若君は頷かれた。父君の帰りを待っておられるのだろう。少し安心されたように見えたところで、私は京から届いた報せのうち、若君にも分かることをお話しすることにした。
「此度の戦では、御屋形様が大きな働きをなさいました。義昭様は京へ戻られ、御屋形様のお立場も正式に認められることとなりました」
「お立場?」
「先だって屋形号を賜りました。これまで『殿』とお呼びしていた父君を、今は『御屋形様』とお呼びしております」
「御屋形様……」
若君はその言葉を繰り返された。
「父上は、前と違う人になるの?」
「いいえ。父君は父君のままでございます。ただ、朽木家が大きな家であることを、幕府が正式に認めたのでございます」
若君は少し首を傾げられたが、それ以上は尋ねられなかった。そこで私は、守護職についても簡単に話した。国を治めるお役目を認められたのだと説明すると、若君は机の道の絵へ目を落とされた。
「その国は、どこ?」
「近江や若狭、越前など、八つの国でございます」
「近江も?」
「はい。近江も含まれております」
「……でも、近江は前から父上の国だよね」
私は頷いた。若君は近江の位置を指さされた。伊勢と伊賀も、前に何度かお教えした場所だと覚えておられる。
「伊勢も、伊賀も?」
「左様でございます」
「前から治めていたのに、また貰うの?」
なるほど、そこに目が向いたか。
「国を新しく貰ったのではございませぬ。今まで御屋形様が治めておられた国について、守護というお役目を認められたのです」
「じゃあ、父上の国は増えていないの?」
「……はい。新しく加わった国はございませぬ」
若君は私を見上げられた。
「でも、父上が一番働いたのでしょう?」
小さな声だった。怒っておられるようには見えない。ただ、聞いたことが上手く結び付かないのだろう。
「今回の戦で朽木の軍が果たした役目は、まことに大きなものでございました」
「なのに、国は増えないの?」
「堺に代官を置くことも許されました。それに、京極と六角の家督を御屋形様に任せるという御沙汰もございました」
「六角なら知っているよ。母上は、六角の義娘になって、父上にお嫁に来たんだよね」
「左様でございます。母君は平井家の御生まれで、六角家の養女として御屋形様に嫁がれました。平井加賀守殿も、以前は六角家に仕えておられました」
「じゃあ、その六角の家を父上が継ぐの?」
「御自身で継ぐことも、ほかの方に継がせることも、御屋形様がお決めになれるのでございます」
「……でも、それで父上の国が増えるわけじゃないよね」
若君は指を近江の上に置いたまま、そう仰った。
その通りだ。屋形号や守護職には意味があるが、今までの支配を認められたという面が大きい。堺への代官設置は確かな実利になる。一方、京極と六角の名跡を扱えるようになっても、今すぐ新しい土地や兵を得られるわけではない。
若君は、名の重みより、実際の働きと得られたものを比べておられるのだろう。
「……一番働いたのに、少なくない?」
私は直ぐには答えられなかった。
若君は功績と褒美を結び付けて考えておられる。だが、褒美を決めるのは働いた者とは別の人間だ。感情も利害も絡み合う。その難しさを、幼い若君にどう伝えればよいのだろう。役目や家名の意味を並べるだけでは、目の前の問いに答えたことにならない。
「少ないとお考えになりますか」
「うん。新太郎は、たくさんの人が米を運ぶって言っていた。父上の兵も、たくさん行ったのでしょう?」
「はい」
「それで勝ったのに、どうして?」
戦へ出た兵の数と、得たものとを比べておられるのか。以前、新太郎殿が教えた荷の話も覚えていらっしゃる。だが、この問いには、米の数のように明瞭な答えを示すことが出来なかった。
「若君。働きが大きければ、必ずそれだけ褒美が増えるとは限りませぬ」
「どうして?」
「褒美を与える方にも、お考えがございます。御屋形様のお力がこれ以上大きくなることを、好ましく思わぬ方もおられるのです」
「父上が強くなるのが、嫌なの?」
「そのように案じる者もおりましょう。御屋形様と義昭様とは、上洛の進め方でも意見が合いませなんだ。御働きは認めても、朽木がさらに強くなることを快く思わぬ者は、おるかもしれませぬ」
若君は口を閉じられた。しばらくして、こちらへ視線を戻された。
「……父上のことが嫌いだと、褒美も少なくなるの?」
「そのようなことも、ございます」
幼い方に話すには、難しいことだったかもしれない。だが、違うと申し上げれば、それは嘘になる。
「ただ、此度は御屋形様も、どのような褒美でも欲しいと仰ったわけではございませぬ。新しい国を貰えば、そこを治める仕事も増えます。御屋形様は、そのことまで考えて、何を受けるか決められたのでしょう」
「……父上が、いらないと言ったの?」
「そうしたものもございます。堺に代官を置くお許しは、国を一つ貰うのとは違う利になります。屋形号も家臣達をまとめる助けになるでしょう。ただ、京極と六角の家名だけでは、領地は増えませぬ」
「じゃあ、父上は困っていないの?」
「それは、私には分かりませぬ。御屋形様がお戻りになりましたら、折を見てお尋ねになるのがよろしいでしょう」
若君は小さく頷かれた。少し考えた後、近江から京へ続く道を指で辿られた。
「父上は、勝ったのに、まだ帰ってこられないんだね」
「……はい。戦に勝った後にも、しなければならぬことがございます」
若君の指が京のところで止まった。机の上の絵には、町も城も小さな印でしか描かれていない。その印の向こうで御屋形様がどのような相手と話され、何を決めておられるのか。若君にはまだ分からぬことが多いだろう。
しかし、戦で大きな働きをなさっても、御屋形様が望むままにことが運ぶわけではない。その難しさを、父君の帰りを待つ若君に、今どこまで伝えるべきか。自分が傅役を務める間にも、答えに窮する問いは幾つも出るのだろう。
やがて女房がお迎えに来られた。若君は私に礼を述べ、席を立たれたが、戸口で一度振り返られた。
「半兵衛。父上が帰ってきたら、屋形号のことも聞いていい?」
「はい。御屋形様ならば、若君のお尋ねにお答えくださりましょう」
若君が退出されると、私は机の絵を畳んだ。
朽木が大きくなれば、敵ばかりでなく、味方であるはずの者達からも警戒される。此度の恩賞に表れたのは、そうした難しさの一端なのかもしれない。古い名跡を預けられたからといって、戦場で働いた兵や費やした米に見合うものとは言い難い。御屋形様が役職を辞退し、不安定な摂津を望まれなかったことまで考えれば、一方だけを責めるのは正しくあるまい。それでも、幕府の側に朽木への反感があることは、否定し難かった。
若君はまだ幼い。今日の話をどこまで理解なさったかは分からない。だが、父君の働きに対して何が与えられたかを確かめ、その理由を尋ねられたことは覚えておこう。
京からの文は、まだ机の上に残っている。明日は軍略方の者達と、京に残す兵の配置や城の警固について詰めねばならない。土佐の一条家へ送る物の算段は、新太郎殿達が進めてくださるだろう。屋形号を賜っても、我らの仕事が減るわけではない。
私は文を取り上げ、もう一度読み返した。