淡海乃海 獅子の子が描く波紋   作:竹若丸

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作者は釣りをしたことがありません。


第12話

永禄十五年(1572年) 一月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木綾

 

 朝から細かな雪が降っていた。庭の木々には白いものが積もり、廊下を歩く女房達も、いつもより足早に見える。火鉢を近くへ寄せてもらったが、筆を持つ指先にはまだ寒さが残っていた。

 

 竹若丸は文机の前に座り、書き終えた紙を眺めている。以前のように一字ずつ私の手本をなぞるのではない。今日は自分で考えたことを、文章にして書くように伝えてあった。

 

「御婆さま。こちらで、よろしいでしょうか」

 

 差し出された紙には、三つの文があった。

 

『今朝は雪が降った。庭の木が白くなった。松千代は雪をつかもうとした。』

 

 字の大きさはまだ揃っていない。『庭』の字など、上と下とが少し離れすぎている。それでも、読むのに困るところはなかった。言葉のつながりもおかしくない。初めて手習いをした頃には、仮名を一つ書くのにも苦労していたというのに。

 

「よく書けていますよ。何があったか、これなら読んだ方にも分かります」

「ありがとうございます。でも、『庭』は少し変ですね」

「上と下を、もう少し近づけるとよいでしょう。書き直してみますか」

「はい。もう一度書いてみます」

 

 竹若丸は素直に頷き、紙を取り替えた。筆に墨を含ませる手つきも、この一年ほどで随分と落ち着いている。上手に書けたかどうかだけでなく、どこを直せばよいかを自分で考えるようになった。

 

 それにしても、字は父親に似なかったらしい。弥五郎の字は、どうにも右肩が上がる。急いで書くことも多いせいか、読む側が苦労する文も少なくない。竹若丸の字にも幼いなりの不揃いはあるが、少なくとも書き進むほど右へ傾いていくことはなかった。あの子の筆跡まで父親に似ていたなら、手習いをするこちらも難儀したかもしれない。

 

「おばばさま、ぼくも」

 

 声のした方を見ると、松千代が竹若丸の隣へ膝を寄せていた。少し前から兄の手元を覗き込んでいたのだが、とうとう我慢出来なくなったのだろう。

 

「松千代殿も書きたいのですか」

「うん。あにうえと、おなじ」

「では、こちらへいらっしゃい。紙を用意しましょうね」

 

 女房に小さな紙を持って来てもらった。松千代は兄がするのと同じように背筋を伸ばそうとしたが、すぐに竹若丸の筆へ目を向けた。自分の前にも紙があるのに、兄の持つものの方が気になるらしい。

 

「これ、かして」

「私の筆ですか」

「うん」

 

 竹若丸は手を止めた。松千代の手元には別の筆が置いてある。それでも弟は兄の筆を指さし、譲らない。

 

「松千代、こちらの方が持ちやすいよ」

「やだ。あにうえの」

 

 竹若丸は少し考えてから、筆を私に差し出した。

 

「御婆さま。松千代に貸してもよろしいでしょうか」

「ええ。ただ、墨が付いたままではいけません。こちらへお寄越しなさい」

 

 筆を受け取って墨を落とし、松千代の小さな手へ持たせてやる。竹若丸も隣へ座り直した。松千代は嬉しそうに紙へ筆を下ろしたが、線は大きく曲がり、墨が丸く広がってしまった。

 

「あ……」

 

 松千代が兄の顔を見た。

 

「大丈夫だよ。私も、初めはそうだったから」

「あにうえも?」

「うん。おばばさまに、何度も教わったんだ」

 

 竹若丸はそう言って私を見た。松千代もつられてこちらを向く。

 

「ええ。竹若丸殿も、最初は筆を強く押しすぎて、紙を真っ黒にしてしまったのですよ」

「あにうえ、まっくろ?」

「そうだよ」

 

 松千代が声を上げて笑った。竹若丸も口元を緩め、弟の紙を覗き込んでいる。松千代は兄の字と自分の線を見比べては、筆を下ろした。墨が滲むのも構わず、兄と同じ筆で紙を埋めていく。

 

「おばばさま。できた」

 

 松千代が紙を差し出した。太い線と細い線が入り交じり、何を書いたものかは分からない。

 

「まあ、よく頑張りましたね」

「これは?」

「何と書いたつもりなのですか」

「あにうえと、おなじ」

「では、兄上の書いたものと、並べて置きましょうか」

 

 松千代は満足そうに頷いた。竹若丸も自分の紙を持って来て、二枚を机の上に並べる。

 

「松千代。今度は、別の紙に書こうね」

「うん。あしたも」

「明日も書くのか」

「うん!」

 

 竹若丸は少し目を丸くしたが、嫌がる様子はなかった。松千代の方は、もう次の手習いが楽しみになったようだ。明日になれば、やはり兄の筆を欲しがるのかもしれない。

 

 そこへ女房がやって来て、小夜殿と雪乃殿はお変わりなく、子供達もよく眠っていると知らせてくれた。

 

 このところ城の中は、生まれたばかりの子供達の話で賑やかだった。雪乃殿が女の子を、小夜殿が男の子を、一日違いで産んだのである。雪乃殿の子には鶴、小夜殿の子には亀千代という名が付いた。どちらも母子ともに無事だったことが、何より有難かった。

 

「おばばさま。亀千代は、今日も眠っていますか」

「ええ。小さな赤子ですもの。眠ったり、乳を飲んだりするのが今のお仕事ですよ」

「鶴も?」

「鶴も同じです」

「ぼく、また見に行ってもいい?」

「今はお休みしているそうですから、目を覚ました頃にいたしましょうね」

 

 竹若丸は頷いた。松千代は亀千代の名を聞いた途端、「かめちよ」と繰り返している。

 

「松千代。亀千代は、まだ一緒に遊べないよ」

「どうして?」

「生まれたばかりだから。もう少し大きくなってからだよ」

 

 松千代は少し不満そうだったが、竹若丸が「それまでは私と遊ぼう」と言うと、すぐに頷いた。

 

「御婆さま。鶴も亀千代も、無事に生まれて良かったです」

「ええ。本当にお目出度いことですね」

「……それに、女の子と男の子で良かったとも思います」

「まあ。どうしてですか」

 

 竹若丸は少し考えてから答えた。

 

「雪乃殿のお子が、一日先に生まれたのでしょう」

「ええ、そうですよ」

「もし雪乃殿のお子も男の子だったら、先に生まれたのに、母上の子を兄にしなければならない、と言う人がいたかもしれません。母上は正室ですから」

「……」

「二人とも元気なのが一番嬉しいです。でも、どちらが兄かで周りの人が争って、二人まで仲が悪くなるのは嫌です」

 

 胸の奥が、ひやりとした。

 

 もし二人とも男子だったなら、生まれた順と母親の立場が食い違い、家中に争いの種を残しかねない。母子の無事ばかりを喜んでいた私には、そこまで思い至らなかった。竹若丸は弟妹の誕生を喜びながら、その先のことまで考えている。

 

 弥五郎も、目の前の出来事だけでは終わらぬ。人が何を言い、どこで争いが生まれるかを考えている。息子の姿が思い浮かび、私は竹若丸の顔を見つめた。

 

 この子は、間違いなく弥五郎の跡を継ぐ子だ。

 

「……御婆さま。おかしなことを申しましたか」

「いいえ。驚いただけですよ。弟妹のことを、そこまで考えていたのですね」

「はい。二人とも、仲良くしてほしいですから」

 

 そう答えた竹若丸の袖を松千代が引いた。兄は振り向くと、弟の言葉に耳を傾けている。先ほどまでの話など知らぬ松千代は、また兄と遊ぶ相談を始めていた。

 

 弥五郎のことを考えると、今でも身のすくむような心地になる。あの子が悪いことをしたわけではない。母として愛したいと幾度も思った。それでも、あの子を前にすると心が強張り、愛そうと努めても、その思いを胸の内に見つけられない。昔のように呼んでよいと気遣ってくれた息子に、申し訳ないと思うばかりだ。

 

 竹若丸も、いつか同じように思えてしまうのだろうか。そう案じることはある。けれど、私は竹若丸が初めて筆を握り、墨を滲ませて困った日を知っている。字が一つ書けたと喜んだ日も、覚えた言葉を小夜殿に見せたがった日も、この目で見てきた。今日も弟の失敗を笑わず、自分も同じだったと教えている。

 

 弥五郎と似た鋭さを感じても、竹若丸への愛おしさがなくなるわけではない。怖さは確かにあった。それでも、この子が生まれてから積み重ねてきた時間も、私の中にある。弥五郎にも、こんなふうに寄り添うことが出来たなら。そう思わずにはいられない。だが、今から同じ時をやり直すことは出来ないのだ。

 

 今はまだ、同じ紙の上に線を引くことさえ兄と弟とで随分と違う。鶴と亀千代も、やがて二人の後を追って歩くようになるのだろう。その頃には、竹若丸はどのような子になっているのだろうか。

 

 私は竹若丸の書いた紙を、もう一度手に取った。字の大きさは揃っていないが、今朝の松千代の姿が素直な文になっている。弟が雪をつかもうとしたことを書いた手が、まだ眠っている赤子達の行く末まで案じる。その二つが同じ幼い子の中にあることを、私は不思議に思った。

 

「竹若丸殿。今日はこのくらいにしておきましょう」

「はい。あの、御婆さま」

「何ですか」

「この文は、持って帰ってもいいですか。母上にも見せたいのです」

「ええ、もちろん。小夜殿も喜ばれるでしょう」

 

 私は紙の端を揃えてやった。竹若丸は両手で受け取り、大事そうに脇へ置く。まだ幼いその手を、私はそっと包んだ。

 

「よく書けるようになりましたね」

「御婆さまに、教えていただいたからです」

「私がお教えしたことを、竹若丸殿が一つずつ覚えたのですよ」

 

 竹若丸は照れたように目を伏せた。松千代が兄の袖を引くと、今度はそちらを向いている。

 

 明日も竹若丸は何かを覚え、松千代はその後を追うのだろう。二人の成長を傍で見守っていられることが、今はありがたかった。

 

 窓の外では、雪がまだ静かに降っていた。

 

 

 

 

永禄十五年(1572年) 二月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木基綱

 

 櫓台へ上がると、風が頬を打った。昨日の雪が屋根に残り、城下の田畑も白くなっている。空は晴れていたが、日差しの割に寒い。手を袖の中へ引っ込めたくなる。

 

「ここへ来て良かった。京では、これほど遠くまで見渡せぬからのう」

 

 近衛前久が欄干の近くに立ち、山の方へ顔を向けていた。随分と機嫌が良い。俺はその横へ進んだが、吹き上がってくる風の冷たさに思わず肩をすくめた。

 

「春には雪も消え、また違った眺めになりましょう」

「それも見たいものじゃ。大膳大夫、麿が長居しても迷惑ではあるまいな」

「殿下がお望みなら、幾らでもお留まりください」

 

 そう答えると、前久は「ほほほ」と軽やかに笑った。冗談のように聞こえるが、この人がいつ京へ戻れるかは分からない。関白が自分の都に帰れない。笑い話にするには、少々厄介な事態だった。

 

 前久は息子の明丸を連れ、義昭を避けて朽木へ来た。義昭の母は近衛家の出で、亡くなった義輝の正室も前久の妹だった。近しい親類のはずが、こうして避難せねばならぬとは皮肉な話だ。義昭は前久が三好との関係を考えて足利から距離を置いたことを疑っている。義輝の死の際の対応も気に入らないらしい。義昭の還俗を助けたのが前久ではなく、政敵の二条晴良だったことも大きいだろう。

 

 近衛家の所領は闕所扱いとなり、前久自身の身も危うくなった。関白の座もいずれ二条晴良へ移るのかもしれん。だが、まだ正式に決まったわけではない。前久には関白という立場も、朝廷で培った縁も残っている。義昭には、前久父子を朽木で預かると知らせてある。追い払われたからといって三好や毛利の許へ行かれては、余計に面倒になる。こちらで保護する方が、義昭にとっても悪い話ではないはずだ。

 

「殿下。お寒くはございませぬか」

「平気じゃ。大膳大夫は寒そうじゃの」

「……少々」

 

 隠しても仕方がない。前久はまた笑い、ようやく欄干から離れた。

 

「そうそう、明丸が世話になっておるそうな」

「竹若丸と、よく遊んでおります。昨日も算盤を出して、二人で何やら競っておりました」

「明丸が算盤に夢中とはな。京におった頃は、さほど触れようともせなんだものを」

「こちらでは商いの話も身近ですからな。面白くなったのでございましょう」

「それだけではあるまい。竹若丸と一緒なのが良いのじゃろう」

 

 それは俺も感じている。年は明丸が一つ上だが、二人はすぐに打ち解けた。最近は安曇川へ釣りにも出かけている。もちろん供の者を付け、足元には気を付けさせているが、冷たい川辺へ行きたがるのだから子供は元気なものだ。

 

「殿下も御一緒なさったと伺いました」

「うむ。あれは楽しかったぞ。次はもう少し大きな魚を釣りたいものじゃ」

「明丸殿と竹若丸に先を越されませぬように」

「大膳大夫、そなたも来るがよい。見ておるだけではつまらぬ」

 

 この人、亡命中ということを忘れていないか。もっとも、沈んだ顔で毎日部屋に籠もられても困る。明丸が友達を得て、父親が釣りを楽しめるなら、それはそれで良いことだ。

 

 前久が城下を眺め、しばらく黙った。次に口を開いた時には、先ほどまでの浮き立った調子が少し薄れていた。

 

「京から、また訴えが届いておるのであろう」

「御存じでしたか」

「麿のところにも話は来る。公家や寺の領地を、義昭に近い者達が勝手に押さえておるというではないか」

 

 相変わらず耳が早い。

 

 実際、京は落ち着いていない。義昭の側近達が所領へ手を伸ばし、奪われた公家や寺院が訴え出ている。だが、争いを裁く仕組みが上手く働いていない。政所から伊勢氏を遠ざけた影響も大きい。長く実務を担ってきた者を外せば、残された人間だけで同じことが出来るとは限らない。

 

 昨年、三好を追い払って義昭を京へ戻した。ところが、勝った後の方が問題は増えている。義昭の不始末に腹は立つが、三好がその隙を見て動くなら、こちらにも使い道がある。

 

「放っておけば人心が離れますな」

「都では、義助の頃の方がましだったとまで言われておるそうじゃ。大膳大夫、そちはどう見ておる?」

「そうでしょうな。訴えを聞いてもらえぬのでは、誰でも不満を持ちます」

「ほほほ。そなたが義昭を京へ戻したのであろう。それでよいのかのう」

 

 痛いところを突いてくる。義昭の失政の責任が朽木へ向けられかねないのは厄介だ。だが、評判が落ちれば三好は京へ攻め込む好機と考えるだろう。坂本に兵を置き、救援を向かわせる手は考えてある。京を見捨てるつもりはないが、義昭の命を何としても守る気もない。前久にそんな腹の内を明かす必要はない。

 

 もっとも、義昭の方も朽木を頼るのが嫌らしい。将軍宣下のための銭を集めようとしているが、まだ十分ではない。朝廷からは禁裏修理も求められている。銭が要る話ばかりだ。それでも俺のところへ援助を求めては来ない。朽木がさらに力を得るのを警戒しているのだろう。

 

 屋形号と八州の守護職、堺の代官設置は認められた。中でも堺の件は使い道がある。ただ、義昭にとってはそれさえ譲歩し過ぎだったのかもしれん。

 

「義昭様がお決めになることでございます。私が口を出し過ぎれば、かえって御不興を買いましょう」

「ほう。そなたが遠慮するとは珍しい」

「遠慮ではございませぬ。立場というものがございます」

「ほほほ。便利な言葉じゃのう」

 

 前久は目を細めた。信用していない顔だ。こっちも、本心を何もかも話す気はない。

 

 気掛かりなのは三好だ。あの連中は昨年の敗北だけで大人しく引き下がる相手じゃない。四国に兵も船も残しているし、淡路の安宅水軍が動けば摂津に兵を運ぶことも出来る。義昭への不満が京で高まれば、三好にとって再び攻め込む口実にもなる。

 

 九鬼と堀内には海のことを確かめたが、今すぐ淡路へ攻め入るのは難しいという。安宅が留守を空けるとは限らず、雑賀まで敵に回ればこちらの船が危ない。無理に仕掛けて水軍を失うわけにはいかん。しばらくは敵の動きを見て、こちらの手を考えるしかない。

 

「大膳大夫は、三好が動くと見ておるのか」

「動かぬと考える理由がございませぬ。こちらも備えは必要です」

「ふむ。京の者達は落ち着かぬであろうな」

「京を焼かれては、また苦労するのはこちらですから」

 

 前久は答えず、城下へ視線を戻した。

 

「ところで、土佐の一条家にも手を貸すそうじゃな」

「そのつもりでございます」

「一条権大納言は、そなたの申し出を有難く思っておろう。土佐の家が崩れれば、本家も困るからの」

「長宗我部の動きは、放置出来ませぬ」

 

 土佐一条家は京の一条本家へ材木や異国の品を送り、その見返りに官位の取り次ぎなどで支えられてきた。長宗我部が伸びれば、土佐の領地だけでなく、そのつながりまで危うくなる。こちらにとっても土佐は重要だ。四国の三好を西から牽制出来るし、海の交易にも価値がある。だが、土佐一条家の兼定は伊勢への来訪を渋り、援助だけを受け取りたがっている。兵も米も銭も動かす以上、互いの役割を決めねばならん。一条権大納言にも伊勢へ来てもらい、三者で話すよう改めて求めているところだ。

 

「そなた、土佐を助けた後は如何するつもりじゃ」

「まずは長宗我部を抑え、一条家の立場を立て直すことです」

「それだけか。阿波まで目を向けておるのではないか」

「そこまで進むかどうかは、土佐一条家と話してからでございましょう」

 

 前久は少し笑った。相手の家を立て直すと言いながら、その先の利まで考えていることは見抜かれているのかもしれない。だが、相手に戦う気がなければ、こちらの思いどおりには進まん。先走って約束しても仕方がない。

 

「そなたは、広くものを見ておるのう。東の織田や上杉とも誼があり、西の三好を警戒し、土佐にまで手を伸ばす」

「必要なことをしているだけでございます」

「その必要なことを重ねて、どこまで行くつもりじゃ」

 

 俺は返事に詰まった。

 

 どこまで、か。最初から大きな国を作りたかったわけじゃない。朽木の小さな領地を守り、食っていけるようにしたかった。だが、隣に敵がいれば備えねばならず、備えるためには領地も人も要る。そうしているうちに、ここまで来てしまった。

 

「天下を望む気はないのか」

 

 今度ははっきりと来たな。

 

「殿下。そのようなことを軽々しく申し上げるわけには参りませぬ」

「そなたが望まぬと言えば、誰も信じぬと思うがの」

 

 困ったものだ。義昭と折り合いが悪いからといって、今すぐ足利を捨てて天下を取ると決めたわけではない。織田も上杉も今は友好を保っているが、朽木が足利に取って代わろうとすれば、相手の出方が変わるかもしれん。信長は年明けに今川・武田との戦で苦労したばかりだし、東がいつまでも静かだとも限らない。

 

 そんな時に天下だ何だと口にすれば、敵を増やすだけだ。

 

「そなたが何も考えておらぬとは、麿には思えぬ」

「殿下も、今後のことを随分とお考えの御様子ですな」

「当然じゃ。麿には戻らねばならぬ京がある」

 

 前久の声が、わずかに低くなった。

 

 そうだろうな。ここで景色を眺め、釣りを楽しんでいても、関白としての立場や近衛家のことを忘れたわけじゃない。京へ戻るためにも、いずれ義昭か二条晴良との関係を何とかせねばならん。その時、前久にとって俺は使える相手だ。

 

 こちらも同じだ。朝廷のことを知らぬわけではないが、近衛家の縁は大きい。二条晴良が義昭と近い以上、近衛前久を遠ざける理由はない。むしろ互いに話が出来る立場でいてもらった方が助かる。

 

「殿下。先々、お力をお借りしたいとお願いすることがございましょう」

「左馬頭のためかのう」

「いえ。朽木と近衛、双方のためにございます」

 

 前久は俺をじっと見た。その目に先ほどまでの笑いはなかった。

 

「ほほほ、朽木と近衛のためか。なかなか面白いのう」

「今すぐ何を、という話ではございませぬ。互いに困った時、話せる相手でありたいと思っております」

「よかろう。麿も、ここに身を寄せた甲斐があるというものじゃ」

 

 そこでようやく前久は笑った。話がまとまった、と思って良いのだろう。ただし、何を目指すかまで一致したわけじゃない。互いに都合のよいところで協力する。それで十分だ。

 

 前久がふと城の内側へ目を向けた。

 

「明丸達は、今日も釣りに行くのかのう」

「川の具合を見て決めると聞いております。まだ寒うございますから、無理はさせませぬ」

「それは残念じゃ。麿も行こうかと思っておったのに」

「……殿下、まずは暖かい部屋へ戻りませぬか」

 

 俺がそう言うと、前久は大きく笑った。

 

 子供達はこれから何度も一緒に遊ぶだろう。明丸には京で窮屈な思いをすることもあったはずだ。竹若丸にも、身分を気にせず遊べる年の近い友が出来たのは嬉しい。彼らが今の大人の争いに振り回されずに済めば良いが、そう簡単にはいかんだろうな。

 

 城下には、まだ雪が残っている。京の揉め事も三好の動きも、春になれば消えるわけではない。それでも、今は前久と並んで櫓台を下りる。少なくとも、こちらを頼って来た父子を安心して迎えられる城ではありたいものだ。

 

 

 

 

永禄十五年(1572年) 二月中旬 近江国高島郡 安曇川の川辺 近衛明丸

 

 竿を持つ手が冷たい。日差しはあるのに、川から吹いてくる風はまだ冬のものだった。川岸にはところどころ雪が残り、草の葉にも白いものが付いている。足元の土は湿っていて、数歩歩いただけで草履の裏に泥が付いた。

 

「明丸殿。そちらは如何ですか」

 

 川岸の向こうから竹若丸が声をかけてきた。

 

「まだじゃ。魚の方が寒がっておるのかもしれぬ」

「そうかもしれませんね」

 

 竹若丸は真面目な顔で頷いた。冗談で言ったのに、あの顔をされると返事に困る。

 

 私は京を離れ、父上と一緒に清水山城へ来た。どうして京にいられなくなったのか、詳しいことは分からない。父上は相変わらずよく笑っておられるが、遊びに来たのではないことくらいは分かる。それでも、竹若丸と知り合えたのは嬉しかった。

 

 竹若丸は私より一つ年下だ。初めは朽木の嫡男とどう話せばよいか迷った。私も近衛の子で、大人達は互いに礼を尽くしていたからだ。だが、算盤を弾き、こうして川へ出るようになると、そんな心配はなくなった。竹若丸は勝っても威張らず、負けても機嫌を悪くしない。知らないことは素直に尋ねる。一緒に遊んでいて気持ちのよい相手だった。

 

 今日も川へ出たいと言い出したのは二人一緒だ。供の者に川の様子を確かめてもらい、足元のよい場所を選んでから竿を出した。すぐ近くには、釣りに慣れた朽木の家人が控えている。川へ踏み込んではならぬと、出かける前から繰り返し言われていた。

 

「明丸殿。あの石の後ろは、流れが違いますね」

 

 竹若丸が竿先を向けた。水の中に大きな石があり、その左右では水が速く流れている。だが石の向こう側では、流れてきた小さな葉が同じところをゆっくり回っていた。

 

「そうじゃな。けれど、あちらは浅そうじゃ」

「はい。魚がいるかは分かりません」

「それなら何故、気にするのじゃ」

「餌が、あそこなら流されずに済むのではと思いました」

 

 私は自分の糸を見た。浮きは少しずつ下流へ流れている。ときどき竿を動かして戻すのだが、魚が食い付く様子はなかった。

 

「魚は深いところにおると聞いたぞ」

「私もそう教わりました。ただ、速い流れのところでは、餌を見つけても食べにくいのではないでしょうか」

「……魚に聞かねば分からぬな」

「そうですね」

 

 竹若丸は当たり前のように頷いた。私が吹き出すと、ようやく口元を緩めた。

 

「なら、試してみるか」

「よろしいのですか」

「そなたの考えが当たるか、見てみたい」

 

 私が言うと、竹若丸は家人の方を向いた。

 

「そちらで釣ってもよいでしょうか」

「岸からであれば。ただし石の方へは近づかぬようにお願いいたします」

「はい。ここから動きません」

 

 竹若丸はその場で竿を持ち直した。家人が手伝い、石の向こうへ糸を垂らす。私は今までの場所に竿を置いたまま、横目で様子を窺ったが、しばらくは何も起こらなかった。

 

「やはり魚はおらぬのではないか」

「そのようですね。もう少し待ってみます」

 

 竹若丸の声に落胆した様子はない。だが、浮きを見る目は真剣だった。

 

 そのうち、糸の先がかすかに揺れた。

 

「竹若丸、動いたぞ」

「はい」

 

 浮きが沈んだ。竹若丸が竿を上げる。水面がぱしゃりと跳ね、銀色の小さなものが見えた。

 

「あっ」

 

 ところが、魚はすぐに外れてしまった。糸だけが勢いよく岸へ戻ってくる。

 

「逃げられたな」

「はい。急ぎ過ぎました」

 

 竹若丸は口を結んで、針を確かめている。

 

「惜しかったのう」

「でも、魚がいることは分かりました」

「それはそうじゃな」

 

 逃げた魚を惜しむより、分かったことの方が大事らしい。私は感心した。せっかく釣れかけたのに、腹を立てもしない。

 

「明丸殿も、こちらでお釣りになりませんか」

「そなたの場所を取ってしまうぞ」

「川は広いですから。二人なら、どちらかは釣れるかもしれません」

 

 それもそうだ。家人に頼んで、私の糸を石の下手へ垂らしてもらった。

 

 今度は私の浮きが先に動いた。

 

「来た!」

 

 慌てて竿を持ち上げかけると、竹若丸が声を上げた。

 

「明丸殿、まだです!」

 

 私は手を止めた。浮きがまた沈む。それを見て竿を上げると、糸の先で魚が跳ねた。小さな魚だったが、間違いなく針に掛かっている。

 

「釣れたぞ!」

 

 思わず声が大きくなった。家人が受け取って針を外し、魚を見せてくれる。銀色の鱗が日を受けて光った。大きくはない。それでも、寒い中で待った甲斐があった。

 

「お見事です、明丸殿」

「そなたが場所を見つけたのではないか」

「釣り上げられたのは明丸殿です」

「ならば二人の手柄じゃな」

 

 そう言うと、竹若丸は目を丸くして私を見て、それから頷いた。

 

「はい。二人の手柄です」

 

 家人に魚を預け、また糸を垂らした。竹若丸も竿を持ち直す。釣り逃したことを悔やむより、次はどうすればよいかと考えているようだ。私はその横顔を眺めた。

 

 算盤を弾く時もそうだ。私が考え込んでいる間に答えを出しても、竹若丸は威張らない。違う答えになれば、一緒に確かめようとする。さっきも水の流れを見て魚の居場所を考え、試してみた。考えが外れることも恐れない。一つ年下なのに、どうしてそんなふうに出来るのだろう。

 

「竹若丸」

「はい」

「そなたは、いつもそんなに色々なことを考えておるのか」

「色々、ですか」

「魚のことじゃ。あの石の後ろを見ようなど、私は思わなんだ」

「たまたま葉が回っていたのが見えたのです」

「それで魚がいると思ったのであろう」

「いるかもしれない、と思いました。いなければ、また別のところを探すつもりでした」

 

 竹若丸は水面へ目を戻した。

 

「私も知らないことばかりです。今日の魚も、明丸殿のように釣り上げられませんでした」

「それは次に釣ればよい」

「はい。次はもう少し待ってから竿を上げます」

 

 あまりにあっさりと言うので、私は拍子抜けした。不思議な奴だ。年下だから教えてやれることが多いと思っていたが、私の気付かぬものを見つけることもある。それが嫌なわけではない。次は何を見つけるのか、むしろ楽しみだった。京にいた頃、明日誰と何をして遊ぶかを、これほど待ち遠しく思ったことがあっただろうか。

 

「明丸殿。今度はそちらの浮きが」

 

 竹若丸の声に、私は慌てて川へ目を向けた。

 

「おお、また来たか!」

 

 浮きは沈みかけ、すぐに戻った。二人で息を詰める。だが、その後は動かない。

 

「……餌だけ取られたようじゃ」

「そうですね」

 

 顔を見合わせ、二人で笑った。その時、家人がそろそろ戻る時刻だと声を掛けてきた。指先はすっかり冷え、足も痺れている。もう少し釣っていたいが、冬の日は短い。

 

「今日は一匹だけか」

「一匹釣れました」

「父上には、もっと大きな魚を釣ったと言っておこうかのう」

「魚を御覧になれば、すぐに分かってしまいますよ」

「……それもそうじゃ」

 

 竹若丸の落ち着いた返事に、私は思わず吹き出した。

 

「では、次は父上より大きな魚を釣るぞ。竹若丸も手伝うのじゃ」

「はい。ただ、今日の場所に大きな魚がいるかは分かりません」

「ならば、また探せばよい」

 

 竹若丸は目を丸くしてから、嬉しそうに頷いた。家人が竿を受け取り、私達は川岸を離れた。道の先には清水山城が見える。京へいつ戻ることになるのか、私には分からない。だが、少なくとも明日も竹若丸と会える。

 

 そのことが、今は嬉しかった。

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