淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十五年(1572年) 五月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 平井定武
亀千代様が私の指を握った。握るといっても小さな手を閉じただけのことだが、離そうとすると指先に力が掛かる。私がもう一度手を差し出すと、亀千代様は口を開け、何やら声を上げた。
「まあ、父上。先程から亀千代ばかり御覧になっていますね」
小夜が笑っている。小夜から亀千代様を預かって以来、確かに娘とはろくに話していなかった。顔を見に来たつもりだったのだが、赤子の顔を眺めているうちに時を忘れてしまったらしい。
「そなたの顔も見ておるぞ」
「本当でございますか」
「無論だ。こうして元気な顔を見せてくれるのが何よりだ」
「それなら、少しは私の話も聞いてくださいませ」
小夜が可笑しそうに笑い、私は亀千代様を抱き直した。泣き出すかと思ったが、亀千代様は袖を掴んで引っ張っている。随分と力が付いたものだ。小夜が笑うのを見ていると、こちらまで気が緩んだ。
朽木家に嫁いだ頃の小夜を思い出す。六角との縁を背負い、家の行く末を案じていた娘が、今では三人の男子の母になった。御裏方様と呼ばれ、家中の女達を取り纏めている。私の目には今も娘だが、朽木の正室としての顔を見せることも増えた。
「竹若丸と松千代は、庭へ出ております。呼びましょうか」
「いや、よい。遊んでいるなら、そのままにしておこう」
「父上は本当にお優しいこと」
「お呼び立てせずとも、またお会いできよう」
そう言ってから、胸の内で言葉を改めた。また会う機会はあるだろうが、それがいつになるかは分からぬ。今度の役目を果たすには、暫く家を空けねばなるまい。
「そういえば、御屋形様は六月の半ばを過ぎればお戻りになるそうです」
小夜が亀千代様の頬を指で撫でながら言った。
「それから八幡の新しいお城へ移る支度をいたします。今より父上のお近くになりますね」
「左様だな。新しい城も一度は見ておきたいものだ」
「いらしてくださいませ。竹若丸も喜びましょう」
その言葉に頷きかけ、私は口を閉じた。小夜がこちらを見た。隠しておくことでもない。御屋形様から既に命を受けているのだ、いずれ娘にも伝わる。
「そのことだが、私は暫く近江を離れる」
「近江を、でございますか」
「摂津へ参る。芥川山城の城代を仰せ付かった」
「……父上が?」
小夜の笑みが消えた。驚くのも無理はない。新たに朽木の支配下へ入った摂津は、落ち着いた土地とは言い難い。
三月には阿波の三好勢が摂津へ上陸し、そのまま京へ押し寄せた。室町第は大軍に囲まれ、危うく落ちるところだったという。坂本から駆け付けた宮川新次郎殿が三好勢を退かせ、御屋形様の本隊も京に到着して、ようやく危機を脱した。
その後、御屋形様は摂津へ軍を進められた。三好に味方した国人の城は攻め落とされ、或いは城を捨てて逃げた。様子を見ていた者達も朽木への服属を誓い、堺まで御屋形様に従うことになった。だが、城を取ったからといって、その土地が直ちに静まるわけではない。
「摂津には三好に心を寄せる者がまだ残っておる。阿波から再び攻め寄せることも考えねばならぬ。それに石山の本願寺もある」
「そのような所へ父上を……」
「だからこそ私に任せると仰せなのだ。容易な役目ではないが、御屋形様の御期待には応えねばならぬ」
私が笑ってみせても、小夜の表情は晴れなかった。亀千代様が身じろぎし、声を上げる。小夜は手を伸ばしかけたが、私は首を振った。まだ泣いてはおらぬ。もう少し抱いていたかった。
「摂津は朽木の他の領国と地続きではない。城に入る兵も、各地から集められることになろう。それらを取り纏め、再び乱が起きぬようにせねばならぬ」
「……どうか、御無理をなさらないでくださいませ」
「無理をせずに済ませたいものよ」
笑いを交えて答えたものの、軽々しく考えてよい役目ではない。兵を置き、城を守るだけなら難しくはなかろう。だが、摂津の国人衆の扱いを誤れば、三好につけ入る隙を与える。山城の情勢にも目を配らねばならぬ。
小夜が声を落とした。
「父上。京のことですが、御屋形様と義昭様は、今も折り合いが悪いのでしょうか」
「良くなったとは聞かぬ。むしろ、以前より難しくなっておろうな」
「京では御屋形様が禁裏の修理をなさるとか。義昭様の将軍宣下の費用まで御用立てになると聞いております。それでも、でございますか」
小夜の疑問は尤もだった。傍目には義昭様を助けておられるように見える。しかし、そのために義昭様のお立場が強くなったかといえば、そうではあるまい。
「今度の三好の侵攻では、京の政の乱れも咎められた。政所執事は摂津中務大輔様から伊勢伊勢守様へ代わったそうだ」
「義昭様がお決めになった御方を、御屋形様が代えさせたのですね」
「そういうことになる。しかも、伊勢守様は御屋形様のお力で政所へ戻られた。先の裁きや命令も改められ、幕臣達には御屋形様から禄が与えられたと聞く」
「それでは……」
小夜はそこで言葉を止めた。何を考えたかは察しが付く。政所も幕臣も朽木の意向を無視できなくなれば、義昭様の御立場は弱まる。御屋形様が何を目指しておられるのか、私にも思い当たることはある。
だが、口に出してよいことではない。憶測で語れば、それが真実であるかのように独り歩きしかねぬ。まして、娘を不安にさせる必要はなかった。
「私には御屋形様のお考えの全ては分からぬ。ただ、京で事が起これば摂津も無事では済むまい」
「そうでございますね」
「ゆえに気を抜けぬということだ。何事も起こらずに済めば、それが一番よ」
亀千代様が私の袖を引いた。見れば小さな指で布を握り締めている。何も知らぬ顔で、今度は口をもぐもぐと動かしていた。小夜がようやく笑みを浮かべる。
「亀千代には難しいお話でしたね」
「そのようだ。私にも分からぬことが多いのだから、亀千代様には尚更であろう」
小夜が声を立てて笑った。その時、廊下で足音が止まり、女房が竹若丸様の来訪を告げた。
「竹若丸が?」
「はい。御祖父様に御挨拶をしたいと申しております」
小夜が不思議そうに私を見た。先程、呼ばなくてもよいと話したばかりである。私は亀千代様を小夜に返し、竹若丸様を通すように伝えた。
竹若丸様は供の者を廊下に残し、部屋へお入りになった。衣の襟元を整え、私と小夜に一礼される。その姿は以前よりも落ち着いているが、顔を上げられるとまだ幼い頬が見えた。
「御祖父様。お話し中に失礼いたします」
「構いませぬ。どうなさいました、竹若丸様」
「摂津へお行きになると聞きました。御挨拶をしておこうと思いまして」
思わず小夜と顔を見合わせた。小夜も初めて聞いたらしい。私は竹若丸様へ向き直った。
「どなたからお聞きになったのですか」
「半兵衛からです。芥川山城というお城へ行かれるそうですね」
「左様にございます。その城をお預かりすることになりました」
「遠い所なのでしょうか」
「清水山からは遠うございます。度々戻ることは難しいでしょう」
「では、暫くお会いできないのですね」
竹若丸様は目を伏せた。口調は落ち着いているが、寂しくないわけではあるまい。私は膝の上に置いた手を一度握り、また開いた。
「摂津が落ち着けば、近江へ戻ることもできましょう。竹若丸様方が八幡へ移られる頃には、私は向こうで務めておるかもしれませぬが」
「そうなのですか。新しいお城を御覧になれないのですね」
「いつか必ず見に参ります。その折には、御案内をお願いできますかな」
「はい。私もまだ見ていませんが、どこに何があるか覚えておきます」
真面目な返事に笑みが浮かんだ。竹若丸様も口元を緩める。まだ五つの子である。難しい話を聞かせるよりも、こちらへ帰って来た時に新しい城を見せてもらう約束をする方がよほどよい。
「御祖父様」
「何でございましょう、竹若丸様」
「摂津は、また戦になるのですか」
竹若丸様が顔を上げた。先程とは違い、笑みはない。京で戦があったことは、この子も聞いておろう。父親が何度も兵を率いて出陣しているのだ。戦が遠い話ではないことくらい、知っていても不思議ではなかった。
「戦にならぬよう努めるのが私の役目です。ただ、敵が攻めてくれば、城は守らねばなりませぬ」
「……そうですか」
「案じすぎることはございませぬ。御屋形様も兵をお置きになります。私一人で守るわけではないのです」
竹若丸様は暫く私を見つめていたが、やがて頭を下げた。
「どうか、お身体にお気をつけください。御無事でお戻りになるのを待っています」
整った挨拶であった。だが、最後の言葉には、教わった言葉を並べただけではないものを感じた。父が戦へ出るたびに留守を待ってきたのだろう。この子なりに、行った者が戻るまでの心細さを知っているのかもしれぬ。
「有り難うございます。私も用心いたします。竹若丸様も、御母上の仰せをよくお聞きくださいませ」
「はい」
「松千代様とも、仲良くお過ごしください」
「はい。先程まで一緒に遊んでおりました」
「それなら、お早くお戻りください。松千代様もお待ちでしょう」
「分かりました。御祖父様、御機嫌よう」
竹若丸様は小夜にも礼をして退出した。廊下から遠ざかる足音を聞きながら、私は暫く黙っていた。小夜は亀千代様を抱き直し、その顔を覗き込んでいる。
「いつの間に、あのような挨拶を覚えたのでしょう」
「礼儀だけではあるまい。私が出掛けると聞いて、気に掛けてくださったのだろう」
「……はい。あの子は、昔からそのようなところがございます」
小夜の声には嬉しさが滲んでいた。私も同じ思いだった。竹若丸様は聡い子だと以前から聞いているし、会えばその成長にも気付く。だが、今日はそれ以上に、孫が自分のために足を運んでくれたことが嬉しかった。
八幡に移れば、平井から娘や孫達を訪ねるのも今までより容易になる筈だった。その矢先に摂津へ行くことになるとは、思うようにはいかぬものだ。もっとも、私に任されたのは、その娘達が暮らす朽木家を支えるための役目でもある。
「父上」
「うむ」
「どうか、必ずお戻りくださいませ」
小夜が私を見ていた。先程の竹若丸様とよく似た目をしている。私は頷いた。
「帰って参る。そのためにも、向こうで手を抜くわけにはいかぬ」
亀千代様が声を上げた。何か言いたげに手を動かしている。小夜が笑い、私も笑った。出立までに済ませねばならぬことは多い。だが、今暫くはこの子の顔を眺めていたかった。
永禄十五年(1572年) 六月下旬 河内国讃良郡北条村 飯盛山城 三好義継
茶碗を手に取ったものの、なかなか口を付ける気になれなかった。茶はもう温くなっている。先程から何度も同じ書状を読み返していたが、読み直したところで記されたことが変わるわけではない。私は書状を脇へ置き、ようやく茶を一口含んだ。
庭には雨の跡が残っていた。軒から滴が落ち、濡れた石が薄く光っている。障子を開けておけば風は入るが、湿り気を帯びた空気は心地よいものではなかった。家臣達を下がらせ、一人になってから随分と時が経っている。
京から届く報せは、どれも気の重くなるものばかりだ。義昭様と朽木大膳大夫殿の仲が良くないことは以前から承知していた。しかし、この春の戦を経て、二人の隔たりはますます大きくなっている。
三月、阿波の三好勢が摂津に上陸し、京の室町第に攻め寄せた。あの御方は危うく御命を落とされるところだった。朽木家の宮川新次郎殿が坂本から兵を率いて救援に入り、私も弾正忠、備前守とともに兵を出した。大膳大夫殿の本隊が迫ると、阿波勢は京を退いた。
あの時は敵も味方も明らかだった。室町第を守り、阿波の三好勢を退ける。そのために兵を動かすことを、誰も咎めはしなかった。少なくとも、私自身は迷わずに済んだ。
だが、戦が終われば元のように戻るものと考えたのは甘かった。大膳大夫殿は摂津の城を押さえ、堺まで従えられた。京では乱れた政を正すとして、義昭様が任じられた政所執事を退け、伊勢伊勢守殿を復帰させたという。
しかも、義昭様の下に集まった幕臣達には、朽木から禄が与えられた。公家や寺社の所領を押領する者達を止めるには、禄を与えるほかなかったのだろう。理屈は分かる。だが、それを義昭様ではなく大膳大夫殿がなされたことに意味がある。
誰から禄を受け、誰の顔色を窺うのか。幕臣達がそれを考えぬ筈はない。政所の人事まで朽木の意向によって改まったとなれば、義昭様のお心が穏やかである筈もなかった。
将軍宣下の費用も、禁裏の修理も、大膳大夫殿が引き受けられるという。表向きは義昭様を支えておられる。だが、その助けを受ければ受けるほど、義昭様に出来ることが少なくなっていくように見える。義兄上も、そのことをお分かりなのだろう。
私は茶碗を置いた。畳の上には、先程読んだ書状がある。大膳大夫殿が京に居座って幕政を取り仕切っているというのであれば、まだ分かりやすい。そうではない。御自身は近江へ戻ると聞く。それでいて、京では朽木の意向を無視して政を行うことが難しくなりつつある。
聚光院様が御存命であった頃、三好も飯盛山城を拠点に畿内へ大きな力を及ぼし、京の政にも深く関わっていた。だが、力を持つことと、その立場を人々に認めさせることは別なのだ。私は身をもってそれを知った。
弾正忠と備前守からは、朽木を侮ってはならぬと幾度も聞かされた。二人は、義昭様との縁が私を難しい立場に置くと案じているのだろう。その忠言は尤もだ。朽木との争いに三好本家が巻き込まれるのは避けねばならぬ。
しかし、義昭様に背を向けることも出来ぬ。あの御方は詩の兄君であるばかりか、私が一度失いかけた三好本家の立場を取り戻すうえで、欠かせぬ御方だった。
義輝公が討たれた日のことは、今でも忘れられぬ。二条御所を攻める軍を率いたのは私だ。あの御方を死なせた責めから、逃れることは出来ぬ。
だが、初めから義輝公を討とうと思っていたわけではない。聚光院様が亡くなられた後、三好豊前守と安宅摂津守の叔父上方は、義輝公を除かねば三好の政は安定せぬと迫ってきた。三好家の当主なら決断せよ、と。私は反対した。義輝公を討てば主殺しの汚名を負う。三好家がその罪を背負ってまで得るものがあるとは思えなかった。
しかし、家中の重臣達の多くは叔父上方に従った。討伐に反対した弾正忠も、叔父上方と共に畠山との戦へ出てしまった。京では私の言葉だけで兵を止めることも出来なくなっていた。
私は九条稙通様に相談した。近衛様を通じて義輝公に危険を知らせ、京を離れていただく。そうすれば御命を救い、私も三好家の当主としての立場を守れると考えたのだ。義輝公は一度は二条御所を出られた。だが、幕臣達に押し留められて戻られたという。襲撃の日取りは既に決まっていた。今更兵を退けよと命じても、従う者がどれほどいたか。
結局、私は軍を率いて二条御所を攻めた。叔父上方に追い込まれたとはいえ、軍を率いたのは私だ。その責任を他人に押し付けることは出来ぬ。だが、あの一件で利を得たのは私ではなかった。
叔父上方は密かに平島公方家へ近付き、私を将軍さえ殺す恐ろしい男、三好宗家を継ぐ器ではないと貶めた。平島の御方は私を宗家の当主として重んじず、叔父上方を私と同列に扱われた。叔父上方が私を抑えることを望まれたのだ。そこでようやく、私は嵌められたのだと悟った。三好家は二つに割れ、互いに異なる公方様を戴いて争うことになった。
そのままでは、私は三好本家の当主として立っていられなかった。主殺しと呼ばれ、叔父上方からは当主の器ではないと誹られる。これに抗するためには、義輝公の弟君を戴き、将軍家への忠義を示すほかなかった。
私は一乗院から義昭様をお迎えし、還俗を願い、将軍にお立てしようとした。義昭様にお仕えし、御妹君の詩を妻として迎え、義弟となったことで、ようやく主殺しの汚名を雪いでいただいた。三好豊前守や安宅摂津守と対等に向き合えるようになったのも、その御縁があったればこそだ。
無論、義昭様をお迎えしたのは己のためだけではない。将軍家を支え、乱れた畿内を静めたいという思いもあった。だが、義昭様のお力を借りて自分の身と三好本家を救ったことは否定出来ぬ。あの御方には、それだけの恩義がある。
義昭様に背を向ければ、自分の身を立てるためにお迎えし、危うくなれば見捨てたと言われよう。それでは、あまりに身勝手だ。だが、義昭様の御望みが三好本家を危うくすることになれば、ただ従うわけにもいかぬ。
私は膝の上で手を握り締めた。義昭様への恩義を忘れるつもりはない。それでも兵を挙げるよう求められたなら、私はどう応じればよいのか。弾正忠と備前守の顔が浮かんだ。
弾正忠と備前守は聚光院様に仕え、長く三好本家を支えてきた。家が割れた後も阿波の三好豊前守には従わず、私の側に残ってくれた。二人がいなければ、私は今こうして飯盛山城に座っていられたかどうかも分からない。
朽木と戦って勝てるなどとは思えぬ。三好家が畿内に覇を唱えた頃とは、兵の数も領国の広さも違う。朽木は京の東に大きな領国を持ち、今では摂津まで押さえている。堺の富も手にした。勝ち目を考えずに兵を動かせば、滅びるのは三好本家だ。
それでも私が起てば、弾正忠も備前守も兵を出すだろう。二人は聚光院様への忠義を重んじ、私を見捨てまい。だからこそ、その忠義に甘えてよい筈がない。
二人にも家があり、家臣がおり、領民がいる。私の一存で兵を挙げれば、その者達まで戦に巻き込むことになる。私一人が義兄上への義理を果たせば済む話ではないのだ。
かといって、義兄上のお求めを退ければ、それも私一人の話では済むまい。妻の詩はどう思うだろう。兄君と対立する夫の姿を見せて、平然としていられるものか。家臣達も、何を信じてよいのか迷うことになろう。
私は書状へ目を向けた。義昭様から朽木を討てとの御命令が届いたわけではない。今から案じるのは早過ぎるのかもしれぬ。だが、京の情勢がこのまま進めば、いつ選択を迫られるか分からない。その時になってから考え始めたのでは遅い。
義兄上の御不満も分からぬではない。大膳大夫殿に命を救われ、将軍宣下まで助けられる一方で、御自身の政を行う力を失いつつある。お怒りになるのも無理はない。
だが、大膳大夫殿のなさったことにも道理がある。京での所領押領を放置したことが三好の侵攻を招き、幕臣達を養う手立てもなかった。朽木がその後始末をしたことで、京は漸く落ち着きつつある。
義兄上のお怒りも、朽木の言い分も分かる。だが、互いに譲らぬまま事が進めば、間に挟まれた者には選択が迫られる。私も、弾正忠も、備前守も、その外にはいられまい。
大きく息を吐いた。気付けば、茶碗の中の茶はすっかり冷えている。新しく淹れさせようかと思ったが、誰かを呼ぶ気にもなれなかった。一人でいると同じことばかり考えてしまう。それでも、今は誰とも話したくなかった。
義兄上に背を向けず、三好本家も守る。その道が見つからぬまま、時ばかりが過ぎていく。
襖の向こうで、衣擦れの音がした。
「殿。入ってもよろしゅうございますか」
詩の声だ。私は顔を上げた。
「詩か。どうした」
「お茶を新しくお持ちしました。お一人でいらっしゃると伺いましたので」
襖が開き、詩が盆を手に入って来た。私の前に置かれた茶碗を見て、微かに眉を寄せる。ほとんど口を付けずにいたことが分かったのであろう。
「お邪魔でございましたか」
「いや、そのようなことはない」
「それなら、よろしゅうございました」
詩は控えめに微笑み、新しい茶碗を私の前へ差し出した。私は礼を言ったが、すぐには手を伸ばせなかった。
この妻に、義昭様のことをどう話せばよいのだろう。私が黙っていると、詩が不思議そうにこちらを見た。何か言わねばと思うものの、言葉が浮かばなかった。
永禄十五年(1572年) 七月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
新しい城は、廊下を歩いていてもまだ木の匂いがする。建物は出来上がったが、住む者が慣れるにはもう少し時間が要りそうだ。清水山城とは部屋の並びも違う。俺も何度か廊下を間違えた。家臣に見られなくて良かったよ。新しい城を造らせた当主が自分の部屋へ戻れないなど、笑い話にもならん。
先程まで今井宗久と話をしていた。堺の会合衆は朽木への服属を受け入れたものの、これまでのように自分達だけで町のことを決められなくなったことに、まだ戸惑いがあるらしい。当然だろう。市政は引き続き会合衆に任せるが、朽木の代官所から命令があれば、そちらが優先される。無理に締め付ければ反発する。だが、全て任せきりにしては服属させた意味がない。
将軍職の返上についても簡単には進んでいない。義助を無理に退ければ、自分こそ正統な将軍だと言い張るだろう。義昭が将軍宣下を受けても、二人の将軍を抱えることになりかねん。だからこそ、義助自身に職を返上してもらわねばならない。
俺はあくまで足利の忠臣として、御家のために争いを収めようとする。世間にはそう見せれば良い。だが、肝心なのは、その争いを誰が収めるかだ。足利の揉め事を足利自身ではなく朽木が収める。そうなれば、諸大名は将軍家の争いさえ朽木が裁けるのだと見るだろう。朽木が足利よりも上に立つ存在だと認めさせるには、そうした実績を積み重ねる必要がある。
もっとも、策を考えるのと、義助や平島公方家を納得させるのは別の話だ。阿波の三好との関係もある。相手の面子を潰さずに済ませるのは、なかなか骨が折れる。
政務へ戻る前に竹若丸の顔を見ておこうと思った。城を移ってから、きちんと腰を据えて話す機会がない。小夜からは新しい暮らしにも慣れてきたと聞いているが、本人にも聞いてみたい。部屋の前まで来ると、廊下に控えていた者が中へ声を掛けた。
「父上」
入ると竹若丸が立ち上がり、頭を下げた。まだ五つ半ほどの子供だが、こうした挨拶には随分と慣れている。俺が座るように言うと、竹若丸は文机の脇へ膝を揃えた。
「何をしていた?」
「半兵衛から聞いたことを、書き留めておりました」
「ほう。何を教わった?」
「朽木が、これまでどのように大きくなったかです」
机には数枚の紙が置かれていた。一枚には地名が並んでいる。朽木谷、塩津浜、越前、若狭。書き損じたところは線を引いて直してあった。字はまだ大きさが揃っていないが、読めないほどではない。少なくとも俺の手紙よりは読みやすいな。父親として喜ぶべきか、少し複雑だ。
「半兵衛が昔の戦について話したのか」
「はい。父上がまだ幼かった頃のことも、聞きました。新太郎からは、兵糧を運ぶ道や船のことを教わっています」
「二人とも、なかなか忙しそうだな」
「分からないことを尋ねると、教えてくれます」
そりゃそうだ。教えるために傅役を頼んだのだからな。だが、竹若丸の言い方には、教えてもらえることへの喜びが混じっていた。半兵衛も新太郎も、ただ物事を暗記させるつもりはあるまい。身につけた知識をどう使うのか、そこまで教えてくれればよい。
「この城のことも聞いたか?」
「半兵衛から、南近江を治めるには八幡のお城の方が都合が良いと聞きました」
「そうだ。清水山城も西へ向かうための城だったが、南近江を治めるには、こちらの方が向いている。朽木の領地も随分と変わったからな」
「でも、塩津浜のお城から清水山城へ移られたばかりではありませんか」
「ばかりと言うほどでもないが、そなたにはそう感じるか」
「はい。前のお部屋にも、まだ慣れていたところでした」
何とも率直な返事だ。俺には城を移す理由があるが、子供にしてみれば住み慣れた部屋を離れるだけでも大ごとだろう。竹若丸は何かを考えるように、机の紙へ目を向けた。
「父上がお城を移されるのは、朽木の領地が広くなるからなのですね」
「それも理由の一つだ。城は当主の住まいというだけではない。人が集まり、物が運ばれ、命令が各地へ伝わる場所でもある。領地が変われば、都合の良い場所も変わる」
「新太郎も、道が遠いと米を運ぶのが大変だと言っておりました」
「まったくその通りだ。腹を空かせた兵に、勇ましいことを言っても仕方がないからな」
竹若丸が小さく笑った。新太郎に教わったことと、俺の話が繋がったのだろう。机の紙を指で押さえ、しばらく地名を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「父上。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ。遠慮はいらん」
「朽木は、これからどこまで大きくなるのですか」
思わず息が止まった。小夜と雪乃にも、似たようなことを訊かれたばかりだ。あちらは天下を望むのかという問いだったが、竹若丸は目の前の紙に書かれた地名の、その先を知りたいのだろう。まさか五歳の息子にまで同じようなことを訊かれるとはな。
「……分からんな」
「父上にも、分からないのですか」
「分からん。どこまで進めるかは、俺が決めただけでその通りになるものではない。相手もあることだからな」
竹若丸は黙って聞いている。分からないという答えが意外だったのかもしれないが、納得出来ぬと顔をしかめるわけでもない。俺は紙に書かれた塩津浜の文字を見た。
「朽木谷にいた頃、これほど多くの国を治めることになるとは思っていなかった。敵に備え、戦に勝ち、治める場所が増えた。こちらから仕掛けた戦もある。今度はそこに住む者達を守らねばならん。朽木が大きくなるというのは、ただ城や土地が増えるということではないのだ」
「守る人も、増えるのですね」
「そういうことだ」
これは案外、忘れやすいことだ。新しい領国を得れば米も銭も兵も増える。しかし、手に入れたものを維持するための仕事まで増える。摂津など、その最たるものだ。芥川山城に平井加賀守を置いたのも、俺一人の目が届く範囲には限りがあるからだ。これから先は、ますます人に任せることが増えるだろう。
「では、守る人が増えても、また戦をするのですか」
「せずに済めば一番良い。だが、こちらが戦を望まなくても、攻めてくる者はいる。今持っているものだけで守り抜けるかと言われれば、俺にはそうは思えん」
「……難しいのですね」
「難しいさ。大人達が集まって、毎日頭を悩ませているくらいだからな」
そこで竹若丸は考え込んだ。返事を急ぐ様子はない。こういうところは小夜に似たのだろうか。いや、俺の方かもしれん。顔は似ていても、考えていることまで同じとは限らないが。
「父上は、どうしたいのですか」
俺を見上げる目は真剣だった。朽木がどこまで大きくなるかではなく、俺が何を望んでいるか。それなら答えられると思ったのだろう。妙なところで鋭いな。
「君臣豊楽だ」
「くんしん、ほうらく、ですか」
「俺が沙汰書に押す印に刻んだ言葉だ。上は主から下は庶民まで、皆が豊かな暮らしを楽しむ。そういう意味だ」
「家臣も、百姓も、ですか」
「そうだ。領民が飢えず、家臣が家族を養えるようにしたい。商人が安心して商いを続けられることも大切だ。外から攻められた時には、それを守る力も要る。それは昔から変わらん」
「そのために、朽木を大きくされるのですね」
「それも理由の一つだ。大きくなれば、出来ることも増える。だから先へ進む。ただし、どこで止まるべきかは、まだ分からん」
言ってみれば随分と欲張りな話だ。家を守りたい、豊かにしたい。そのために他所へ兵を出して、さらに大きくなろうとしている。正しいことだけをしていると胸を張れるほど、俺は清廉な人間ではない。だが、いま手を緩めれば、これまで従ってきた者達を危うくするかもしれぬ。それもまた事実だ。
足利のこともある。兵を揃えるだけでは超えられない相手だ。周囲の大名が足利の権威を認めている限り、朽木がいくら領地を広げても頭打ちになる。どうやって人々に朽木を認めさせるのか。そこを考えねば先へは進めない。だが、そんなことを五歳の子供に話しても困らせるだけだろう。
「竹若丸、そなたはどう思う?」
「私、ですか」
「そうだ。まだ先のことは分からんでもよい。今日、話を聞いてどう思った?」
竹若丸は紙の端を揃え、しばらく考えていた。答えを探しているのだろう。俺も急かさずに待った。
「父上が遠くへ行かれることは、あまり嬉しくありません」
「……そうか」
「でも、父上がしておられることを、もっと知りたいと思いました。半兵衛と新太郎に教わっても、分からないことがありますから」
不意を突かれた。てっきり領地や城の話が返ってくるものと思っていたが、息子にとっては、まず俺が家を空けることなのだ。そうだよな。戦場から戻るたびに出迎えてくれる子供達を見ていたくせに、そんな当たり前のことを忘れかけていた。
「済まんな。留守が多くて」
「父上のお役目があるのは分かっています」
「分かっていても寂しいことはあるだろう」
竹若丸は少し迷ってから頷いた。ああ、無理に物分かりの良い子供でいる必要はないぞ。俺はその小さな手に目をやった。筆を持つ指には、うっすらと墨が付いている。
「今は半兵衛と新太郎から学べ。知らぬことを知らぬと言えるのは、恥ではない。俺も答えられぬことがあるのだからな」
「はい。では、分からないことがあれば、父上にもお尋ねしてよろしいですか」
「無論だ。俺がいない時は、帰って来てからにしてくれ。忘れぬように書いておくと良い」
「分かりました」
竹若丸は机の紙に目を向けた。今すぐ何かを書き留めそうな顔だ。まさか俺への質問を何十も溜め込むつもりではないだろうな。いや、こいつならやりかねん。半兵衛と新太郎が苦労している理由を、少しだけ理解した気がした。
「そろそろ仕事に戻る。八幡の城には慣れたか?」
「はい。まだ知らないところはありますが、母上が危ない場所へは近づかないようにと」
「それはよく守れ。城下もまだ普請の途中だ。勝手に出るなよ」
「はい。新太郎にも、道が出来たら見せてほしいとお願いしております」
「そうか。出来上がったら、俺にもどんなところだったか教えてくれ」
「はい、父上」
竹若丸が笑った。ほんの僅かだが、確かに嬉しそうだった。俺も立ち上がる。廊下へ出る前に振り返ると、竹若丸は机に向かい、先程の紙にまた筆を下ろしていた。
朽木はこれからどこまで進むのか。小夜と雪乃にも、竹若丸にも、俺は答えられなかった。だが、子供が大きくなるのを待っている間に、世の中が待ってくれるわけではない。俺が出来ることを、今のうちにしておかねばならん。
廊下には、新しい木の匂いが残っていた。城下の普請はまだ続いている。俺の仕事も、当分は終わりそうにない。