淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
永禄十五年(1572年) 九月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 足利義昭
伊勢守の言葉が、耳から離れなかった。
人払いをしてから、どれほど経っただろう。障子の向こうでは庭木が風に揺れている。先程まで人で満ちていた座敷は静まり返っていたが、あの場で受けた辱めだけは、少しも薄れぬ。
三好豊前守、安宅摂津守らを許せという。兄上を弑した逆賊どもを、この余が。
伊勢守は、平島の公方が将軍職を返上するには、それが必要だと申した。公方を支えてきた者達を切り捨てさせるわけにはいかぬ、というのだ。なるほど、もっともらしい理屈よ。だが、兄上を殺した者達の罪が、その程度のことで消えるというのか。
兄上は足利の将軍だった。三好の者どもは、その将軍を二条御所で討ったのだ。家臣が主を弑したのである。それを許せと迫られ、断れば将軍職の返上は進まぬと言われる。何故、兄上を殺された余の方が譲らねばならぬ。
あの場でさらに詰め寄ってやりたかった。伊勢守にも、その背後にいる朽木大膳大夫にも。だが結局、余は宥恕を認めた。
拳を握ると、爪が掌に食い込んだ。
認めねば、将軍職に就くまでまた時を費やすことになる。平島の公方は今なお将軍職にあり、義維や義任が返上に反対せぬとしても、本人が首を縦に振らねば事は進まぬ。無理に将軍職を取り上げれば、なおも己こそ将軍だと言い張るであろう。そうなれば、余が朝廷から宣下を受けても、足利の家中に争いの種が残る。
それくらいは余にも分かる。だからこそ腹立たしい。
本来であれば、余が兵を率い、平島の公方を従わせれば済むことではないか。公方の座にあるというだけで、余に逆らうなど許し難い。逆賊どもを庇い続けるなら、同罪と見てもよかろう。
だが、そのための兵がない。
畿内で兵を動かせるのは誰だ。朽木であろう。京の東に幾つもの国を押さえ、今では摂津をも従え、堺まで手にした。四国へ渡って三好を討つなどと口にしたところで、こちらの兵が揃わねば何にもならぬ。余が命じれば大膳大夫は兵を出すのか。おそらく、伊勢守と同じ理屈を並べて思い止まるよう説くに違いない。
何とも忌々しい。足利に仕える武家の分際で、主家の望む戦はさせず、誰を許すべきかまで決めようというのだ。
伊勢守の顔が浮かんだ。あの男は余の前で一歩も退かなかった。四国の者どもを許せば平島の公方が職を返上する、その上で将軍宣下を受ければ正統性は揺るがぬ、と。余が何を望んでいるかではなく、何が理に適うかを説き続けた。
政所執事であるなら、余の意に従うべきではないか。だが、伊勢守を政所へ戻したのは大膳大夫だ。幕臣どもに禄を与えているのも朽木。伊勢守も、朽木を頼みとして余に譲らぬのであろう。
そして、皆もその有様を当然のことと思っているのだろう。朝廷も、公家どもも、幕臣も。余の前では恭しく頭を下げながら、何かを決める時には朽木の顔色を窺っている。
来月には従四位下への昇叙があるという。将軍宣下に向けて良い兆しだと、伊勢守は祝いの言葉を述べた。居並ぶ者達も声を揃えて賀した。無論、叙位は目出度い。しかし、それさえ大膳大夫が取り計らったのだろう。
朝廷が余を重んじたからではなく、朽木が願い出たから叙位が進む。そのように見られることに、あの男は思い至らぬのか。いや、思い至っているのであろう。足利の当主は、朽木が口を利かねば位階一つ思うに任せぬ。そう天下に示すつもりなのだ。
今年の春、阿波の三好どもが京へ攻め寄せた折のことも忘れられぬ。室町第を守るだけで手一杯となり、敵を退けたのは結局、朽木の兵であった。大膳大夫は関白殿下にも兵を預け、朝廷を守らせた。
将軍を戴こうという者が京を守れず、公家達を救ったのは朽木の兵。あれ以来、余を見る公家どもの目まで変わったように思える。誰も面と向かって嘲りはせぬ。だが、表面だけ取り繕えばよいと思っているのではないか。
余が朝廷を守らぬのではない。守るための兵を、朽木が己の手に集めているのだ。そのくせ忠義を尽くしているような顔をする。実に質が悪い。
室町第の座敷を見回した。ここは足利の将軍が政を行う場所である。いずれ余も征夷大将軍となり、ここから諸国へ命を下す。その筈なのだ。だが、その命を聞く者がいなければ、何のための将軍か。
官位が上がり、宣下を受け、諸大名が頭を下げようとも、兵を動かすのが朽木なら余の命は通らぬ。将軍の名を持ちながら、何一つ己の思うように出来ぬのではないか。
そんなことがあってよい筈はない。
朽木は元を正せば近江の小領主に過ぎぬ。兄上が頼られた頃から足利のために働いてきたというが、それは臣下として当然の務めであろう。いつの間にか領国を広げ、京の政に口を出し、余が将軍となるための道筋さえ自分が整えてやるという顔をしている。
忠義を尽くすというなら、余に兵を預けよ。幕政を余へ返せ。朝廷との交渉も、将軍家の名において行うがよい。それをせぬまま恩を売ろうとは、何と増長したことか。
しかし、ただ命じても従うまい。伊勢守とのやり取りで、それは嫌というほど思い知らされた。大膳大夫は、主君の命でさえ道理に合わぬと見れば退ける。あの男が道理と呼ぶものは、結局、朽木の利に適うことなのだろう。
ならば、あの者が逆らえぬだけの力を用意するほかない。
大膳大夫の兵が強いことは認めねばなるまい。一度の戦で討ち破れる相手ではない。摂津を得たことで西へも手を伸ばし始めている。今のうちに勢いを止めねば、京も幕府も朽木のものとなってしまう。
だが、朽木を快く思わぬ者は少なくない筈だ。領地を奪われることを恐れる大名もいよう。朽木に遅れを取り、面目を損ねた者もいる。今は頭を下げていても、あの男の支配を喜んで受け入れているとは限らぬ。
畠山、三好、松永、内藤。丹波にも、丹後にも、朽木の力が及ぶことを警戒する者はいる。諸家にはそれぞれの思惑があろうが、足利の名の下に集えば事情は変わる。
何も、余のためだけに兵を挙げよというのではない。大膳大夫がこれ以上大きくなれば、次にその矛先を向けられるのは彼らかもしれぬ。朽木一人に天下の行く末を決めさせぬため、今こそ諸大名が力を合わせるべきであろう。
もっとも、三好左京大夫は朽木に救われた身だ。松永や内藤も朽木と争いたいとは思うまい。それは承知している。だが、将軍家から直々に求められれば、容易に背けるものではあるまい。足利の名には、まだそれだけの重みがある。
そうだ。朽木に兵があるように、余には足利の名がある。その力を、あの男は見くびっている。
ふと、先程の伊勢守の言葉が脳裏をよぎった。平島の公方を認めさせ、その上で将軍職に就く方がよいという、あの言い分だ。
それならば、余も諸大名に認めさせてみせよう。足利を支えるべき相手が誰で、幕府の政を誰が行うべきなのかを。大膳大夫の顔色を窺う者ばかりではないと、天下に知らしめねばならぬ。
文机の上には、白い紙が置いてあった。先程まで何の用にも立たぬと思っていたものだが、見つめているうちに胸の内が定まってきた。
兵を動かせぬのであれば、まず人を動かす。いきなり朽木に刃を向ける必要はない。諸大名にその危うさを知らせ、味方を増やす。朽木の力を削ぐ道は、それから考えればよい。
余は紙へ手を伸ばした。
畠山にも、三好にも、松永にも。朽木を恐れる者、あの男の増長を快く思わぬ者へ、ひそかに意を伝えるのだ。
足利の天下を、臣下の手に委ねておくわけにはいかぬ。
諸大名へ密書を出そう。朽木大膳大夫を抑えるために。
永禄十五年(1572年) 十一月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 山口新太郎
来年の二月二十五日。足利左馬頭様への将軍宣下が、その日に決まったという。
京からの知らせを聞いたのは昨日のことだ。今朝になっても、城内ではその話が続いている。お祝いのために誰が京へ参るのか、何を用意するのか。正式に沙汰の出ていないことも多いが、先に確かめておかねばならぬ仕事は幾らでもあった。
私の役目は兵糧方である。将軍宣下の作法を取り仕切るわけではないが、人が動けば食事も宿も要る。京へ運ぶ品があれば、道や荷の手配も必要になる。殿の御供をする者の数が決まらぬうちから、あれこれ考えても仕方がない。それでも、何一つ用意せずに日を迎えるわけにはいかなかった。
ひとまず手元の帳面を閉じ、竹若丸様の部屋へ向かった。今日は若君との約束がある。朝の政務を終えたら、都から届いた知らせについて話を聞かせてほしいと、昨日のうちに頼まれていた。
八幡城に移って数か月が経った。初めの頃は若君も廊下の曲がり角を間違えることがあったが、今では落ち着いて歩いておられる。城に慣れたこともあろうが、傅役を仰せ付かった頃と比べると、顔つきも少し大人びてきたように思う。
部屋へ入ると、竹若丸様は文机の前に座っておられた。机には紙が一枚置かれ、綾様のもとで習われたのであろう文字が並んでいる。筆を置かれると、こちらへ向き直って頭を下げられた。
「新太郎。昨日のお話、聞いてもいい?」
「無論にございます。そのために参りました」
「将軍様が決まったの?」
「将軍宣下の日取りが決まったのでございます。来年の二月二十五日、左馬頭様が征夷大将軍に任じられる予定にございます」
「それなら、まだ将軍様ではないの?」
「はい。宣下を受けて、初めて正式にその職に就かれます」
若君は小さく頷かれた。以前、半兵衛殿から足利家の歩みを聞かれたそうだが、将軍職そのものについて詳しくお話ししたことはなかったらしい。
「将軍様になる人は、誰が決めるの?」
「帝にございます。将軍職は朝廷から任じられるものなのです」
「では、左馬頭様が将軍になると、今の将軍様はどうなるの?」
「今の将軍職におられる平島の公方様は、その職をお返しになることに同意されました。お一人が職を返された後に、次の御方が任じられるのでございます」
「一度に、二人はなれないんだね」
「将軍が二人おられて、互いに自分こそ正しいと仰れば、諸国の武家はどちらに従うべきか迷いましょう。争いのもととなります」
平島公方家の将軍職返上は、ようやく先が見えてきたところだ。阿波の三好一門のことまで含めれば、ここへ至るまでには容易ならぬ交渉があった。だが若君に今から全てを語っても、話が込み入り過ぎる。まずは何故その手順が必要なのかを知っていただけばよい。
「それで、二月二十五日に何をするの?」
「将軍宣下の儀が行われます。場所は京の本国寺と聞いております。朝廷からの宣下を受け、諸大名らも祝いに参ることになるでしょう」
「室町第ではないの?」
「此度は本国寺で執り行うとのことにございます。人が大勢集まるため、警固や支度にも気を配らねばなりませぬ」
「父上も行かれるの?」
「殿も参列なさる予定です。ほかにも将軍家に縁の深い方々や、諸国の大名が招かれると伺っております」
若君は少し考え、膝へ視線を落とされた。
「私も行くの?」
「若君については、まだ殿から何も伺っておりませぬ。参られるかどうかは、いずれ御沙汰がございましょう」
「そうなんだ」
「はい。今はどのような儀式かを覚えておかれれば十分にございます」
若君が参列なさると決まったわけではない。だが、知らぬままでよいということでもない。いずれは朽木家を継がれる御方だ。祝儀の席でどのような方々が顔を合わせ、何を確かめ合うのかを、少しずつ理解していただきたい。
「皆で、お祝いをするんだね」
「左様にございます。ですが、お祝いの言葉を述べるだけでは済みませぬ。遠くから参る方々は道中を整え、泊まる場所を用意し、衣服や贈り物にも気を配られます」
「新太郎も、お米を運ぶの?」
「必要となれば運びます。今のところ、どれほどの人数が参るかは定まっておりませぬが、殿の御供の者達にも食事は要りますからな」
「将軍様になるのも、準備が大変なんだね」
その言葉に思わず頬が緩んだ。若君が兵糧のことを覚えていてくださったのが嬉しかった。以前は、兵に米を運ぶ者にも食事が必要だと尋ねられ、こちらが教えられる思いをしたものだ。今も仕事の中身を全て理解されているわけではあるまい。それでも、一つ聞いたことを別の話と結び付けようとなさっている。
「はい。大勢の人が集まれば、それだけ支度をする者も増えます。ですが、将軍宣下は、御祝いの品や人数を揃えるためのものではございませぬ」
「将軍様になることを、皆に知らせるんだよね」
「はい。帝から正式に任じられた御方を、武家の棟梁として諸大名がお迎えする。そのことを天下に示すのでございます」
竹若丸様は頷かれたが、すぐには次の言葉を発せられなかった。机に置かれた紙へ一度目を向け、何かを思い出されたようにこちらを見られた。
「新太郎。『権威』と『権力』は、違うものなの?」
「権威と権力、でございますか」
「うん。前に半兵衛が、二つは同じではないって話していたんだ。でも、まだよく分からなくて」
思いがけぬお尋ねだった。半兵衛殿は若君に足利家の歩みも話しておられる。そこで耳にされた言葉なのだろう。だが、幼い御方に難しい語の意味だけを申し上げても、かえって分かりにくくなる。
「権威とは、ある御方の御立場を皆が認め、その御言葉を重んじることでございます。足利将軍家には長く武家を率いてきた歴史があり、将軍は帝から任じられます。それゆえ、将軍の御言葉には重みがあるのです」
「それが権威?」
「はい」
「じゃあ、権力は?」
「命じたことを、実際に行わせる力でございます。兵を集め、米を運び、城や町を守る。そうしたことを成し遂げるための力です」
若君は手元の紙を指で押さえた。少し考えておられるのを見て、私は筆をお借りし、紙の裏に印を二つ書いた。
「例えば、殿が遠くの城へ米を届けるよう命じられたといたしましょう。こちらが殿、こちらが米を運ぶ者達です。皆は殿の御言葉を重んじて、運ぼうといたしますな」
「うん。父上の御命令だから」
「しかし、船も道もなく、運ぶ者も足りなければ、米は届きませぬ」
「運ぼうと思っても、運べないんだね」
「左様にございます。御言葉を重んじることと、それを実現出来ることは、同じではないのです」
竹若丸様は二つの印を見比べ、少しして顔を上げられた。
「では、将軍様には権威があって、父上には権力があるの?」
「そう分けてしまうのは、少し違いましょう。殿にも、家臣達がその御言葉を重んじるだけの権威がございます。将軍家にも兵を動かす力はございます。ただ、その大きさには違いがあるのです」
「どちらにも、あるんだね」
「はい。権威と権力は、必ずしも同じ大きさではございませぬ」
もっとも、今の説明は大まかに過ぎる。家格を重んじて動く者もいれば、領地や恩賞を求めて従う者もいる。人が動く理由を、二つの言葉だけで分けることは出来まい。それでも、今はそこまで話を広げる必要はなかった。
「でも、将軍様の方が偉いのでしょう? どうして父上が、将軍様になるのを手伝うの?」
「将軍は武家の棟梁にございます。殿も将軍家をお支えするお立場です。ですが、将軍宣下の支度や京の守りを進めるには、人や物を動かさねばなりませぬ。殿には領国があり、家臣達がおり、米や銭、船を用意する力がございます。だからこそ、お助け出来ることがあるのです」
「権威があっても、一人では何でも出来るわけじゃないんだね」
「そういうことでございます」
若君は納得されたように見えたが、なお何かを考えておられる。私も答えを急がせずに待った。
「だったら、将軍様の御命令を、父上が聞かないこともあるの?」
思わず筆を持つ手が止まった。
私は若君の顔を見た。悪戯をなさっている様子はない。これまでの話から生じた疑問を、素直に尋ねられたのだろう。だが、殿と左馬頭様の間には、時に考えの隔たりもあるらしい。ここで私が不用意に言葉を重ねれば、余計なことまで若君にお伝えすることになりかねぬ。
「殿は、将軍家をお支えしておられます。ですが、たとえ御身分の高い御方からのお言葉でも、家臣や領民を危うくすることであれば、そのまま従ってよいかを考えねばならぬこともございましょう」
「……難しいね」
「はい。私にも難しゅうございます。ですから、半兵衛殿とも、折に触れて御一緒に考えてまいりましょう」
そう申し上げると、若君は少し肩の力を抜かれた。
「父上も、前に分からないことがあるって言っていた」
「殿が、でございますか」
「うん。朽木がこれからどこまで大きくなるかは、分からないって。でも、守る人が増えるから、考えないといけないんだって」
夏に殿とお話しになった折のことであろう。若君が覚えておられたことにも驚いたが、それ以上に、殿がそのようなことを率直にお話しになったのが印象に残った。殿は何でもお分かりになるように見える。しかし、知らぬことを知らぬと認め、そのうえで考える。それを若君に示されたのだ。
「殿らしいお言葉にございますな」
「新太郎も、分からないことはある?」
「幾らでもございます。荷を運ぶ仕事一つ取っても、知らぬことばかりでございますよ」
「じゃあ、私も考えるね」
「はい。急いで答えを出す必要はございませぬ」
若君は机の紙へ視線を落とされた。私は先ほど書いた二つの印を指し、何を表すものだったかをもう一度お尋ねした。若君は少し考えてから、それぞれを言い当てられた。だが、紙の端には新しい文字を書き加えることなく、まず私の説明を聞こうとなさっていた。
部屋を辞する時、若君はいつものように頭を下げられた。
「新太郎、ありがとう。二月になったら、また教えてね」
「かしこまりました。新しいことが決まりましたら、若君にもお話しいたしましょう」
廊下へ出ると、冷えた風が袖を抜けた。将軍宣下まで、あと三月ほど。朝廷も幕府も諸大名も、それぞれに思惑を抱えて準備を進めるのだろう。私には、京の政を動かすような才覚はない。だが、任された荷を滞りなく届け、若君から尋ねられたことに誠実に答えることなら出来る。
将軍の御命令は、誰が動かすのか。
若君の問いを思い返しながら、私は手元の帳面に書きかけた荷の数を確かめるため、兵糧方の部屋へ戻った。
永禄十六年(1573年) 一月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木小夜
冬の冷たい風が庭木を揺らしている。障子を閉めているというのに、隙間から寒さが忍び込んでくるようだった。
けれど、部屋の中にいる私達が顔を見合わせているのは、寒さのためではない。
御屋形様が小鼓を打たれた。
乾いた音が響き、しばらくして消える。先程とは違う音ではあったが、よくなったとは言い難い。私はその手元を見た。
「もう一度、お願いいたします」
「今のも駄目か」
「先程よりはよろしゅうございました。けれど、まだ音が揃いませぬ」
「そうか……」
御屋形様は小鼓を右肩に据え直された。戦の指図をなさる時にも、難しい政務に向き合われる時にも、あまり見せられぬ表情である。少しばかり気の毒になったが、ここで慰めても稽古にはならない。
私は息を整え、手を打つところを見守った。
また音がした。今度は少し詰まったように聞こえた。
傍らでは雪乃殿が口元に袖を当てている。笑うまいと堪えているのは、伏せられた目を見れば分かる。大方様は小さく溜息をつかれた。
そして、竹若丸はというと、父親の手から目を離さずにいた。稽古を始める前には、少しだけ見学したら部屋へ戻るように言ってあった。だが、父親が何度も同じことを繰り返すのが珍しいのだろう。まだ退屈した様子はない。
「小夜。今のはどうだ」
「もう少し、調緒を握る加減をお変えになってはいかがでしょう」
「握る加減か。なかなか難しいものだな」
「急いで打とうとなさらず、まずは一つずつなさってください」
御屋形様は頷かれた。先程から同じことを申し上げているような気もするが、ほかに言いようがない。私とて小鼓を教えることを生業としているわけではない。打たれる音を聞いて、気づいたことを申し上げるばかりだ。
それにしても、何故これほど熱心に稽古をなさるのだろう。
来月、足利左馬頭様が将軍宣下を受けられる。場所は京の本国寺。宣下の後には足利家の慣例に従って能の興行も催されるという。御屋形様はその席で、新しい公方様から小鼓を打つよう求められるかもしれぬと仰った。
実際に求められるかどうか、まだ分からない。それでも早くから小鼓を用意させ、時間を見つけては稽古を続けておられる。
戦や政務に追われ、家族と過ごす時間もなかなか取れないというのに。
「御屋形様」
雪乃殿がとうとう口を開いた。まだ口元には笑いを隠した名残がある。
「御無理をなさらずともよろしいのではございませんか。小鼓をお打ちになる方なら、ほかにもおいででしょう」
「上手な者に任せられるなら、それに越したことはないな」
「では……」
「だが、俺に打てと求められた時は別だ。新しい公方様の御所望とあれば、下手だからと断るわけにもいかぬ」
雪乃殿は困ったように私を見た。私も何と申し上げればよいのか分からなかった。
御屋形様は決して音曲がお嫌いなわけではない。だが、これまで小鼓の腕を磨くために長い時を費やしてこられたわけでもない。今から稽古を重ねて、能の席で見事な音を出せるようになるのだろうか。
大方様が静かに仰った。
「弥五郎殿。求められたとしても、無理をなさることはありますまい。公方様も、そなたが小鼓を得意としているわけではないと御存じでしょう」
「ええ。だからこそ、下手でも構わんと思っております」
「……下手でも、ですか」
「俺が上手に打てるかどうかより、公方様の御望みに応じることが大事なのです」
そう言って笑われた。
大方様はそれ以上は仰らず、膝の上で手を重ね直された。その横顔からは、何を思っておられるのか読み取れない。小鼓の音を案じておられるのか、それとも、御屋形様が何故そこまでして稽古をなさるのか、測りかねておられるのだろうか。
私はその顔を見た。先程のお言葉は、家臣の前で政を論じられる時のものとよく似ていた。
公方様の御望みに応じる。そうすることで、朽木が将軍家を支えていると示す。そこまでお考えなのかどうか、私には分からない。ただ、この稽古が音曲を楽しむためだけのものでないことは、何となく察せられた。
「父上」
竹若丸が声を掛けた。
「何だ、竹若丸」
「小鼓は、難しいのですか」
「難しいぞ。見ていたのなら分かるだろう」
「はい。何度も違う音がしていました」
御屋形様が苦笑された。雪乃殿はとうとう小さく吹き出し、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございませぬ、御屋形様」
「いや、構わん。竹若丸の言う通りだからな」
竹若丸は笑わなかった。父親の肩に置かれた小鼓を見つめ、少し考えてから口を開いた。
「父上は、出来るようになるまでお続けになるのですか」
「さて、どこまで出来るようになるかは分からん。だが、今よりはましにしたいと思っている」
「父上にも、難しいことがあるのですね」
「山ほどあるさ。そなたは、俺が何でも出来ると思っていたのか」
「……少しだけ」
思わず頬が緩んだ。竹若丸にとって、御屋形様は何でもご存じの父親なのだろう。夏には御屋形様にも分からぬことがあると教わっていたが、こうして目の前で苦労なさる姿を見るのは、また違うのかもしれない。
「では、父上も、誰かに教わるのですか」
「見ての通りだ。今日は小夜に教わり、雪乃と母上には稽古を見てもらっている」
「小夜殿が一番厳しいようですけれど」
雪乃殿が口を挟むと、夫は大きく頷かれた。
「まったくだ。戦の評定でも、これほど容赦なく駄目出しをされることはそうないぞ」
「御屋形様」
「冗談だ、冗談」
そのように仰っても、笑って済ませるわけにはいかない。皆が見守る席で小鼓をお打ちになり、もしも御自身が気にされるほどの失敗をなされたら、後で落ち込まれるのは御屋形様だろう。
「厳しく申し上げるのが嫌なら、私はもう口を出しませぬ」
「いや、それは困る。続けてくれ」
「でしたら、もう少し真面目にお稽古なさってください」
「心得た」
その返事に雪乃殿がまた笑いそうになり、大方様は目を伏せられた。
竹若丸だけが真剣な顔で、父親に尋ねた。
「父上。私も、上手く出来ないことがあります」
「そうだろうな」
「御婆さまに教わっている笛も、思うような音が出ないことがあります。字も、一度では上手く書けません」
「笛も字も、か」
「はい。でも、どこを直せばよいか教えていただけば、少しずつ良くなります。だから父上も、お稽古を重ねれば、今より良い音が出ると思います」
御屋形様は竹若丸を見て、それから声を上げて笑われた。
「それは心強いな。小夜には厳しくされ、雪乃には笑われ、母上には溜息をつかれる。味方がおらんと思っていたぞ」
「御屋形様、御冗談ばかり」
「いやいや、味方が一人増えた。これならもう少し頑張れそうだ」
竹若丸は小さく笑った。褒められて嬉しかったのだろうか。それとも、父親の励みになれたと思ったのだろうか。どちらにしても、あの子らしい言葉だった。
「竹若丸殿」
大方様が穏やかに声を掛けられた。
「お父上の御稽古を見て、疲れてはいませんか」
「大丈夫です、御婆さま」
「では、もう少しだけ御一緒に見ていましょうね」
「はい」
大方様は竹若丸に微笑み掛けられた。先程、息子に向けておられた時とは、随分と柔らかな表情である。私は二人を見ながら、竹若丸が手習いを始めた頃のことを思い出していた。
初めは筆を持つ手も覚束なかった。今では自分の考えを短い文に書き留め、分からぬことがあれば半兵衛殿や新太郎に尋ねている。知らぬ間に覚えたことが増えたのだろう。私にはまだ小さな子供に見えるのに、時折、大人が思い付かぬようなことを口にして驚かされる。
それでも、父親の力になれたと喜んでいる顔を見れば、まだ六つになったばかりの子なのだと思う。
「それでは、もう一度」
私が言うと、御屋形様は小鼓を肩に据え直された。竹若丸は背筋を伸ばし、雪乃殿は袖を下ろして口元を引き締める。大方様もその手元へ視線を向けられた。
先程より少し高い音が響いた。
「……今のは、いかがだ」
こちらを見られる。私はしばらく考えてから頷いた。
「先程よりは、よろしゅうございます」
「おお、それは良かった」
「ただ、まだ続けて打つと音が揃いませぬ」
「そうか。まだまだか」
苦笑されたが、小鼓を置こうとはなさらなかった。
竹若丸もまた、次の音を待っている。
来月の京では、大勢の人が新しい公方様を祝い、御屋形様もその一人として席に着かれるのだろう。その場でどのようなことが起きるのか、私には分からない。せめて小鼓を打たれることになったなら、少しでも納得のいく音を出していただきたい。
私は小鼓に添えられた手を確かめ、次の合図をした。
今度は少しでも、良い音が出ますように。